元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「安城家の舞踏会」

2016-12-25 06:46:58 | 映画の感想(あ行)
 昭和22年松竹作品。私は福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映で、今回初めて観ることが出来た。華族の没落を通して、人間の内面の弱さを突き詰める吉村公三郎監督作。実に見応えのある映画で、イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督の諸作に通じるような美意識が横溢している。この年のキネマ旬報誌のベストワン作品でもある。

 戦後、日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。それにより、特権階級であった旧華族の構成員は落ちぶれるだけだった。名門と言われた安城家も例外ではなく、生活のために持っているものを切り売りするしかなかった。とうとう抵当に入れた家屋敷まで手放す時が来てしまう。安城家の人々は夢のように消えて行くかつての名家の最後を記念するために、舞踏会を催す。



 当主の忠彦は家を抵当に闇屋の新川から金を借りていたが、この期に及んでも忠彦は家を手放すことが惜しくなり、招いた新川に必死に頭を下げる。しかし新川は承知せず、さらには自分の娘曜子と安城家の長男正彦との縁談も取り消すと言い出すのであった。やがて夜が更けて客はすべて帰り、静まりかえった安城家で、年老いた忠彦はある決断をする。

 物語は安城家の次女の敦子の目を通して語られる。彼女は抵当の肩代わりを、かつての安城家の運転手で今は運送会社を興して成功している遠山に頼む。しかし、華族のプライドに凝り固まっている安城家の人々はそれを受け入れない。言うまでもなく敦子は新しい時代の象徴であり、それを強調するように映画は彼女のアップで始まり、アップで終わる。

 だが、本作は単なる新旧二項対立の構図を提示してはいない。舞踏会を催す側、そして招かれた側、いずれも一筋縄ではいかない小心ぶりを、捻ったエピソードの連続であぶり出してゆく。感心したのは各登場人物の配置の見事さで、重要なモチーフが示されると、必ずその関係者が近くに佇んでいるという展開を、全くワザとらしくならない語り口で見せてゆくという演出の巧みさには唸った。脚本は新藤兼人で、その手腕はこの頃から発揮されている。

 忠彦役の滝沢修、正彦に扮する森雅之、新川を演じる清水将夫、そして津島恵子や神田隆、殿山泰司など芸達者が揃っているのも嬉しい。敦子を演じているのは原節子で、フリーになっての第一作で初の松竹作品でもある。小津安二郎作品に出る前の、若々しい魅力が溢れていて、スター性も十分だ。生方敏夫によるカメラワークや、木下忠司の音楽も万全で、戦後の日本映画復活の先駆けとも言える作品だと思う。
コメント
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