元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アイアン・メイズ ピッツバーグの幻想」

2011-03-16 06:37:59 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Iron Maze )91年作品。原作は芥川龍之介の「薮の中」・・・・といえば映画ファンならピンとくるだろう。黒澤明の「羅生門」の原作でもあり、この作品は「羅生門」の再映画化と言えなくもない。ピッツバーグ郊外の小さな町を一大遊園地にしようとする日本の青年実業家を襲った傷害事件。その背景にある交錯した人間関係と鉄鋼不況に頭を抱えるピッツバーグの現状を解きあかしていく。監督はCM出身で初のアメリカ進出となった吉田博昭。

 少しは期待したのだが、残念ながら失敗作である。ちょうどアメリカ人監督が日本を描いたのと同じような違和感が全編に漂い、わざとらしいアメリカ人俳優のセリフまわしと主演の村上弘明のキレの悪い演技も相まって、結果的にミョーな雰囲気の作品になってしまった。

 事件の関係者の証言がそれぞれ自分に都合のいいように脚色されて、捜査陣が困惑するのは「羅生門」と一緒だが、人間のエゴに鋭く迫った黒澤作品と違って、事件が解明されてメデタシメデタシで終わるこの映画のあっけなさには情けなくなる。黒澤と比べること自体が乱暴なこととは思ったが、もうちょっとしっかり作ってほしかった。
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「英国王のスピーチ」

2011-03-15 06:45:40 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The King’s Speech)丁寧に作られてはいるが、いまいちピンと来ない。それはひとえに、クライマックス場面での国民に向けた英国王のスピーチの内容が今日性を欠いているからだ。

 1930年代のイギリスで、国王ジョージ6世が台頭するヒトラーに対して断固たる姿勢を貫くという決意を表明した演説は、なるほどその時代においては妥当なものであっただろう。しかし、今から考えるとこれは“国民は、戦争への準備を怠るな!”というアジテーションである。先の米国ブッシュ大統領が主導した“テロとの戦いを勝ち抜こう!”といったシュプレヒコールと何ら変わることはなく、聞いていて鼻白むだけだ。

 さらに、このスピーチの中身は国王自らが考案したものではなく、政治家や官僚のお仕着せである。もちろん本作は史実に基づいているので、チャップリンの「独裁者」のラストのように国家のリーダーが“自分の言葉”で演説して感動を与えるようなシチュエーションの構築は無理である。

 ならば、このスピーチの内容が国王の心情とどれだけ一致しているか、さらに言えば国王がどの程度の国家的な危機感と国民への親愛を抱いているか、そういう“伏線”を終盤までに周到に張るべきだと思うが、それが成されていない。見終わってみれば、単なる“吃音を克服して大衆の前でスピーチが出来るようになった男の苦労談”でしかないのだ。

 この吃音治療のくだりは実に良くできている。映画の中では吃音症は後天的なものであり、心因的ストレスによって幼少時に発症するという設定になっている。もちろんこれには異論があり、遺伝学的・脳科学的アプローチも存在することは承知しているが、本作では王室の一員としてのプレッシャーが吃音の遠因になっているというモチーフが映画的趣向をもたらしていることは確かだ。しかも兄のウィンザー公は王位を放り出して恋人の元に走っている。思いがけず跡を継ぐことになったジョージ6世にとって、これ以上のストレスはない。

 そんな彼の治療に当たったのは、オーストラリア出身の平民でなおかつ無免許で専門家を自称しているライオネルなる男だ。藁をもすがる思いで彼の治療院のドアを叩いたジョージ6世は、ライオネルの本音トークに翻弄され憤慨することもしばしばだったが、徐々に治療の効果が現れてくる。この二人のやり取りは、演じるコリン・ファースとジェフリー・ラッシュの好演もあって、すこぶる面白い。トム・フーパーの粘り強い演出も相まって、まるで密度の高い舞台劇を観ているようだ。

 本作がオスカーを得たのは、アメリカ人の英国コンプレックスがあったことはもちろんだが、こういう民衆を導くようなリーダーの待望が背景にあるのだと思う。ただし、前述のような作劇的不備があるこの映画がその“象徴”になり得るのかというと、個人的には疑問を呈したい。ヘレナ・ボナム=カーターやガイ・ピアーズといったその他のキャスト、確かな時代考証と始終天気が悪いロンドンの街の風情も捨てがたい。
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「美しい夏キリシマ」

2011-03-14 06:39:32 | 映画の感想(あ行)
 2002年作品。宮崎県えびの市出身の黒木和雄監督が、終戦間近の当地を舞台に、主人公の少年の目を通して、戦時下の人間模様を描いた意欲作。もちろんロケはえびの市で行われている。

 「祭りの準備」や「竜馬暗殺」といった黒木和雄監督のそれまでの代表作は未見だが、少なくとも私が今まで観た彼の作品の中では1,2を争うほど出来が良い。何よりヘンなイデオロギーが入っておらず、香川照之扮する兵隊が満州での出来事を語る場面を除いては、全編にわたって論調がニュートラルであることに感心した。あくまで敗色濃い日本の状況における庶民の哀歓に焦点を当てていることが作者の冷静さを感じさせる。



 動員先で米軍の爆撃により親友を失い、しかも肺病により兵役に就くことも出来ない主人公の中学生のディレンマを中心に、無為に日々を送る彼を叱る祖父や、傷痍軍人と結婚する女中、小作農家の主婦と兵士との密通、爆死した親友の妹との出会い等の多くのエピソードを積み重ねる過程で、戦争と市井の人々との関係を美しい霧島の風景をバックに浮き彫りにする、その手法は鮮やかだ。

 決して声高なメッセージが流れるわけではなく、扇情的なシーンがあるわけでもない。今はまだ海の向こうで行われている戦争、しかし確実に人々の心に微妙な鬱屈を蓄積させていく有様を、住民の生活ベースを踏み外すことなく着実に描く。そのクレバーさが心地よい。原田芳雄をはじめ、石田えり、寺島進、牧瀬理穂、中島ひろ子など多彩なキャストの好演も嬉しい。主人公役の柄本佑はこの頃からなかなか達者なところを見せる。ヒロイン役の小田エリカの可憐さも印象的だ。
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「人生万歳!」

2011-03-13 06:51:51 | 映画の感想(さ行)

 (原題:WHATEVER WORKS)お笑い映画の優れた作り手として一世を風靡していた頃のウディ・アレンの持ち味が戻ってきたような快作だ。それもそのはずで、この作品の脚本はアレンが70年代半ばに書いたものらしい。ちょうどアカデミー賞を獲得した「アニー・ホール」を手掛けた頃だ。内面的屈折よりも、まずは観客を楽しませることをメインにした作劇で、広範囲な観客層に対するアピール度が高い。

 かつてノーベル賞候補にもなった天才物理学者のボリスは、人生の無意味さを悟って自殺を図るが失敗。金持ちの娘であった妻とも離婚し、地位や財産も捨て、老境に至った今はニューヨークの下町のオンボロアパートで悠々自適の一人暮らしを楽しんでいた。ところがある日、ミシシッピ州から出てきたという若い娘メロディが転がり込んでくる。

 無学だが明るく怖い物知らずの彼女のキャラクターに惹かれたボリスは、年の差も考えずに結婚してしまう。二人はそれなりに楽しい日々を送るが、そこにメロディの母親と父親が相次いでやってくる。もちろん、若い娘が年寄りと一緒になったことを面白く思うわけもなく、仲を引き裂こうとあの手この手を繰り出すうちに、事態はワケの分からない方向へと進んでいく。

 ラリー・デヴィッド扮するボリスは小理屈ばかりをこねる皮肉屋で、明らかにアレンを投影したキャラクターだ。しかも、観客に向かって得々と演説を披露するという“禁じ手”も披露。周りの登場人物が“アイツは誰に向かって話してるんだ”と訝るシーンも挿入され、つまりは“インテリぶった奴が空気を読めずに浮いている”というギャグをかましているわけだが、これを嫌味にならずにサラッと仕上げてしまうあたりがアレンの真骨頂だ。

 南部の敬虔なキリスト教徒を代表するようなメロディの両親の造型と、何でもアリのニューヨークの許容力とを対比させる構図も、あえて深く突っ込まずにコメディのモチーフの一つとして片付けているのも気持ちが良い。本作には基本的に悪人は出てこないので、物語は円満に収まるところに収まって終わるのだが、そこには“勇気を持って踏み出せば、人生は捨てたものではない”という作者のポジティヴなスタンスが背景として存在している。だから観賞後の印象は格別だ。

 デヴィッドをはじめヒロイン役のエヴァン・レイチェル・ウッド、パトリシア・クラークソンらキャストも万全。会話の面白さはもとより、ギャグは良く練り上げられていて全編笑いが絶えない。大向こうを唸らせるようなシャシンではないが、観て損のない映画である。
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今こそ「防災国家」への脱皮を!

2011-03-12 06:43:41 | 時事ネタ
 3月11日に起こった観測史上最大と言われる大地震が、東北・関東地方を中心にかなりの惨禍をもたらしている。被害の全貌は今後明らかになるだろうが、95年の阪神・淡路大震災に匹敵する(あるいはそれ以上の)ダメージを残すかもしれない。本当に痛ましいことだ。

 さて、今回の災害における重要ポイントの一つに、首都圏に被害が及んだことが挙げられる。震度5で斯様な大混乱だ。これがもしも震度6の直下型でも起こったら、我が国の機能は停止してしまう恐れがある。

 日本は地震大国だと誰でも分かっているのに、漫然と東京に一極集中させ、しかもそこでは大した震災対策も実施されていなかった。霞ヶ関や永田町の連中も今回ばかりは事の重大さが身に染みて分かったはずだから、災害対策のためのインフラ作りに邁進するだけのモチベーションが出来上がったと思いたい。

 景気対策も兼ねて、100兆円ぐらい都市部の災害対策のために財政出動させたらどうなのか。財源なんていくらでも捻出できる。たとえば、政府貨幣でも発行すればスグにでも資金調達は完了だ。

 人が多く集まる学校の耐震化なんか急務だろう。前の自民党政権はその方針を立てていたようだが、民主党に政権が移ってからは、例の「事業仕分け」なる底の浅いパフォーマンスにより、公立小中学校など約5千棟の耐震化工事について、文部科学省の関連予算が約63%も削減されている。

 「高校授業料無償化」とかいうバラマキ政策の財源をひねり出すために、大事な予算が削られたらしい。先の中国の四川大地震やニュージーランドの地震のように、学校あるいはそれに準じる建物が倒壊して大惨事になってからでは遅いのだが。

 もちろん、地震のための対策だけではなく、ほぼ毎年襲ってくる台風や豪雨による災害を食い止めるための有用な公共投資も推し進めるべきだろう。よく「公共事業なんかムダだ!」との意見を耳にするが、防災のための公共工事は決して「ムダ」ではない。「子や孫に借金を背負わせるな!」といった意見もナンセンス。災害に弱いプアな社会的インフラを放置したまま子や孫の世代に丸投げする方が、よっぽど無責任だ。

 ともあれ、くだらない帳尻合わせに終始するよりも、災害に強い国家のグランドデザインを描くことこそ重要だ。為政者は今回の惨事の教訓として肝に銘じて欲しい。
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「白いリボン」

2011-03-11 06:37:32 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Das weisse Band - Eine deutsche Kindergeschichte)外道な作劇を得意とするミヒャエル・ハネケ監督らしい、観ていて実にイヤな気分になってくる映画だ。もちろん、その不快さは卓越した演出力の賜物であり、対象の本質を容赦なく暴き立てる力業と表裏一体になっていて、いつでも映画的快感へと転化する巧妙な仕掛けの元に形成されていることは論を待たない。

 だが本作は、ドラマツルギーがかなり“常識的な”スキームを伴っており、いつもの鬼畜的なテイストは幾分希薄だ。その代わりに平易かつ重大なテーマが大きく提示されており、広範囲に支持を集める秀作に仕上がっている。

 1913年の北ドイツの小さな村。麦畑に囲まれ素朴な古き良き生活が営まれているはずのこの地は、実は得体の知れない脅威にさらされている。まず、村で唯一の医者が落馬事故で重傷を負う。原因は自宅前に張られていた1本の針金だ。殺意を持った者の犯行だが、事件は迷宮入りになる。次に小作人の妻が地主である男爵の製材所で事故死する。小作人の息子はそのことで村の主である男爵を逆恨みして、収穫祭の日に男爵家のキャベツ畑をメチャクチャにする。

 男爵の息子が行方不明になり、発見された時には何者かに暴行を受けていたことが分かる。さらに男爵家の納屋が放火によって全焼。また、医者宅の家政婦の息子が誘拐されて大ケガを負わされる。これらの事件は(キャベツ畑の一件を除いて)犯人が分からない。いや、正確には村に赴任してきた教師だけは真相らしきものを掴んでいる。だが、それを確定することは出来ない。不穏な空気が流れる中、ドイツはやがて第一次大戦の混乱に突入してゆく。

 タイトルにもある白いリボンとは、牧師が自分の子供達の腕に巻きつけているもので、それは我が儘や嫉妬などのマイナスの感情に屈しない“純潔のシンボル”であるとされる。しかし、実態は強権的な父親による抑圧に過ぎない。白いリボンは偽善の象徴だ。

 それは牧師の家だけではなく、男爵の家でも使用人の家庭でも、医者の一家でも同じことである。家長の権威は絶対で、女子供は人間として扱われない。それどころか自己の欲望の捌け口に使われたりもする。美しい村も一皮剥けば悪行と不正に満ちたインモラルな世界でしかない。

 この非人間的な搾取と抑圧の仕組みこそが、戦争そのものなのだ・・・・という話の持って行き方は、随分と図式的だ。しかし、並の監督ならば鼻白む“語るに落ちる筋書き”になってしまうこの構図を、ハネケは並はずれた描写力で観る者に熱いメッセージとして納得させてしまう。

 しかも、直截的な暴力場面はほとんど無く、事前と事後の状態によって観客にヴァイオレンスの非情さを伝えるという、悪意に満ちた手法が功を奏している。語り口は静かなのに、内包する物語は激烈を極めているのだ。

 クリスティアン・ベルガーのカメラによるモノクロの美しい映像は、作品全体に格調の高さを付与させている。クリスティアン・フリーデルやレオニー・ベネシュらのキャストも達者だ。2010年のカンヌ国際映画祭で大賞を獲得したのも頷けるほどの、ハイ・ヴォルテージな作品だ。観る価値は大いにある。
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「アイ・アム・サム」

2011-03-10 06:34:44 | 映画の感想(あ行)

 (原題:I Am Sam)2001年作品。知的障害者である父親と、その幼い娘との絆を描き、公開当時は評判になった作品だ。当局側によって娘と引き離されてしまう彼が、娘を取り戻すために砕身努力する姿がメイン・プロットとなる。

 メンタル面で障害がある主人公を嫌味なく演じたショーン・ペンをはじめ、ダイアン・ウィーストやローラ・ダーン、ミシェル・ファイファー、そして(当時)子役のダコタ・ファニングの存在感も相まって感じのいい映画には仕上がっているが、しょせんこれは“メルヘン”だ。

 そもそも“知恵遅れの父親と賢い娘”という設定からして御都合主義であり、社会福祉局を一方的に悪者にしているのも愉快になれない。福祉局により甲斐性のない親から“助けられた”子供も大勢いるはずだが、そこを捨象して“愛があればいい”といった建前論を前面に出すばかりでは、感動も薄いものになる。

 同じようなネタを扱ったケン・ローチの「レディバード・レディバード」の厳しさとは比較にならないだろう。ドキュメンタリー・タッチを狙いすぎたカメラワークも鬱陶しく感じた。監督は舞台女優出身のジェシー・ネルソンだが、作劇上の才気走った特徴はあまり見られない。
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「森崎書店の日々」

2011-03-09 06:37:40 | 映画の感想(ま行)

 とても肌触りが良く、好きなタイプの映画に仕上がっている。勝因の一つは、神田神保町を舞台にしていることだ。古本を扱う店舗が建ち並ぶこの街は、先端のメディアを追い求める世相からは隔絶した空間である。

 もちろん商売である以上、他の業界と同じくそこにはシビアなビジネスの構図が存在するはずだが、流れる時間は確実に外の世界よりも遅く、ゆったりとした空気が漂う。ただしそれは、いずれは衰退してゆくそのスピードが遅いということでもある。多くの者が古書自体に価値を見出せなくなった時代にあっては、縮小均衡に向かうしかない。だが、日常を離れて羽を休めるには絶好のスポットだ。

 ヒロインの貴子は恋人だと思って付き合っていた会社の同僚から“別の女と結婚する”と軽く言われ、ショックを受け仕事も辞めて引きこもり状態になる。そんな彼女に声を掛けたのが、神保町で小さな古本屋を営む叔父の悟だ。二階の部屋が空いているから越してこないかと言う。家賃は不要で、時たま店の番をしてくれるだけで良いとのこと。

 気分転換を兼ねて叔父の世話になることにした彼女だが、それまで知らなかった書物の魅力を理解出来るようになり、同時に太平楽に生きているように見える叔父の屈託も知るに及び、確実に心境の変化が訪れる。

 神保町の雰囲気、そして天井まで古本が積み上げられた叔父の店の佇まい、特に屋上でくつろげる二階の部屋の造型等には、観ていてホッとするものを感じる。人生の僅かな時間でも良いから、こういうところで暮らしてみたいと、切に思う。古くからやっている喫茶店のマスターや、本が大好きなそこのウエイトレス、また彼女に想いを寄せる若い男など、幾分浮世離れはしているが皆味がある。

 しかし、ここは“いつまでもいられる場所”ではないのだ。人の心に踏み込んでいくことに対して臆病だった貴子は、叔父の“応援”を得て自分を振った男に本音をぶつけることになる。ここのパートだけが明らかに異質で、それが否定的な評に繋がっている例も目にするが、私はこれでいいと思う。こういうシビアな場面がなかったら、ただフィーリングが良いだけの“環境映画”になってしまったはずだ。また、ヒロインの転機を扱う上でも重要な作劇部分だと思う。

 主演の菊池亜希子は初めて見る女優だが、本業がモデルだけにスタイルが良いのは当然として、何とも柔らかいオーラを纏っており好感度が高い。まだ深い演技は無理だが、長回しに耐えられるだけの粘りもある。この年代(20代後半)には他にあまり良い人材がいないだけに、これからも映画に出て欲しい。

 叔父に扮する内藤剛志も今回はノンシャランな出で立ちが板に付いた妙演だ。岩松了や田中麗奈、きたろうといった脇の布陣も万全で破綻がない。これが長編第一作になる日向朝子監督の腕前はけっこう達者だ。原作は八木沢里志の同名小説。ビターなテイストも組み入れられたスローライフな映画で、観れば何か本を手に取りたくなる。なかなかの佳作だ。
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「サム&ミー」

2011-03-08 06:32:22 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Sam & Me )91年作品。伯父を頼ってインドからカナダへとやってきた青年ニキール。彼は、医療会社社長の父親サムの世話係という職にありつく。変わり者のユダヤ老人とインドの若者は、やがて文化や年齢を超えた友情で結ばれるが、周囲の無理解が思わぬ結末を生んでしまう。

 偏屈な年寄りが異人種の世話役によって心を開く、というストーリーでまず思い出すのがアメリカ映画「ドライビング・MISS・デイジー」だが、老人ホームで幸せにボケさせてしまう「ドライビング・・・」と比べて、この作品は実にシビアーかつ老人問題の本質を突いている。

 平和を求めてイスラエルから移住したものの、望郷の念がつのり奇行に走る老人を金のことしか考えない家族はやっかい者扱いする。彼を理解できるのは同じ異邦人のニキールとその仲間だけだ。立派な施設と行き届いた世話だけでは老人を幸せにすることができない。心の触れ合いこそ大切だ、というあたりまえの主張がまったく押し付けがましくなく、観る者に迫ってくる。

 展開はコミカルなところもあり、退屈しない。移民ばかり住んでいる主人公のアパートの描写など見事だ。バックに流れるジャズがクールな雰囲気をかもし出している。また、シビアな結末は悲痛である。

 監督は主人公と同じくインドからカナダに移住してきた女流のディーパ・メータ。これが長編第二作になり、その後も順調にフィルモグラフィを重ねているようだが、残念ながら本作も含めて多くは日本では一般公開されていない(私はこの映画は91年の東京国際映画祭で観ている)。
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「OUT」

2011-03-07 06:31:55 | 映画の感想(英数)
 2002年作品。平凡な4人の主婦たちが、殺人事件に手を染めていく過程をつづるクライム・ストーリー。桐野夏生の同名小説の映画化だ。

 原作がかなりの長編で、しかもベストセラーという状況にあって、大胆に登場人物を絞り込み、中盤より原作と遊離した展開にしてしまった作者の思い切りの良さが印象的だ。それはすなわち四人のヒロインの内面を“男がらみ”で捉える原作のスタンスを改変し、作劇的な意味での女性の“自立性”を前面に押し出したということだ。

 原田美枝子をはじめ倍賞美津子、室井滋、西田尚美といった力のある女優陣を配しているためか、各キャラクターの粒立ちは目を見張るばかりで、かなり強引なストーリーをカバーして余りある。会話の面白さも特筆ものだ。

 ただし、終盤の持って行き方は少し冗長である。もっとも、彼女たちの儚い“願望”をメインにしたドラマ構成であるため、原作あるいはアメリカ製の犯罪劇のような簡潔なラストを用意できなかった事情もある。そのへんは痛し痒しだ。ともあれ、平山秀幸監督作品にしてはマシな部類かと思われる。
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