元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

カートリッジを買い替えた。

2011-01-14 06:31:25 | プア・オーディオへの招待

 ちょっと前になるが、実家のオーディオシステムのカートリッジを久々に買い替えた。新しく導入したのはAUDIO-TECHNICA社AT-OC9/IIIである。カートリッジというのは早い話がレコード針のことだが、正確には“針そのもの”ではなく、レコード表面の音溝の振幅を電気信号に変換するための発電コイル等を含めた装置の総称である。

 カートリッジは音質面での影響が大きく、機種によって出てくるサウンドがかなり違ってくる。そのためCDが普及する前は、多くのカートリッジをズラリと揃えて音楽ソースによって付け替えて音の変化を楽しむオーディオファンがたくさんいた。製造を手掛けていたメーカーもけっこうあり、専門業者による製品から家電メーカー製までさまざまのラインナップが店頭に並んでいたものだ。ところが今は国内大手でカートリッジを手掛けているのはこのAUDIO-TECHNICAとDENONぐらいしかない。一応AT-OC9/IIIは(価格はそんなに高くはないが)TECHNICA社のハイエンドモデルだ。

 早速実装して音を出してみた。以前まで使っていたのはデンマークのORTOFON社のものだ(AT-OC9/IIIと同価格帯)。同社はカートリッジの老舗でユーザー数も多い。音の傾向としては音像をガッシリと捉えた肉厚の生々しい展開に定評がある。音色も明るい暖色系だ。対してこのTECHNICA社のモデルはかなりの寒色系。音の押し出しよりも解像度や情報量を重視した仕上がりで、全体的なスピード感はORTOFONよりも優れているが、音像の有機的な温度感は後退した。

 カートリッジというのは事前の“試聴”がほとんど出来ないために、買うときはバクチみたいな感じだが(笑)、今回のバクチには勝ったとは言えない。当初は“買い直そうか”とも思ったほどだ。しかし、数日・数週間と鳴らし続けていると、次第に音がほぐれてきて硬さがとれてきた。低域の薄さも幾分改善され、量感は期待出来ないが締まったキレの良い低音も出るようになった。やはり、カートリッジにもエージング(鳴らし込み)の効果はあるのだ。

 ORTOFONの製品ほど聴いて楽しい音ではないが、音楽信号のアキュレートな再現にかけては端倪すべからざる実力を持っている機器でもある。それに、自重が軽くヘッドシェルとの装着も容易な形状をしていることは確かで、ORTOFONの製品よりも使い勝手は良い。よって、当分は本機を使用することにした。

 ただひとつ気になるのは、リード線である。リード線というのは、カートリッジとヘッドシェルとを繋ぐ細くて短いケーブルのことだ。ちっぽけなコードだが、この材質によってもかなり音が変わる。今回起用したのは昔手に入れたAUDIO-TECHNICA社のALOCC(単結晶状高純度アルミニウム)で出来た線材を使ったものだ。ALOCC製のケーブルは現在は作られていないが、透明度が高くてスッキリとした展開になるということで一時期持て囃された。

 今後とも音の温度感不足が気になるようならば、このリード線をOFC線(無酸素銅)などに替えてみるというのも一手だろう。ただし、リード線を替えるとピックアップ部分全体の重さが変わるので、面倒な調整作業が必要になってくる。けっこう悩ましいところである(笑)。
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「リッキー」

2011-01-13 06:35:52 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Ricky )生まれてきた赤ん坊は背中に羽が生えた“天使”だった・・・・というモチーフから予想される定型的なファンタジー路線には、最後まで寄り付くことはない。何せ監督がフランソワ・オゾンだ。描き方はシニカルで、ストーリー面でのカタルシスは皆無である。

 しかし、今回は必要以上に“ファンタスティックに仕上げてくれるかもしれない”という期待を観客に持たせているあたりが少々居心地が悪い。それは、この赤ん坊の造形が上手く行き過ぎているためだ。

 女手一つで小学生の娘を育てているカティは、勤務先の工場でスペインから出稼ぎに来た新人のパコと親しくなり、やがて彼は一緒に暮らすようになる。ふたりの間には男の赤ん坊が生まれてリッキーと名付けられるが、しばらくするとリッキーの背中には大きなあざが出来る。パコが赤ん坊を虐待しているからだと考えたカティは彼を家から追い出すが、そのあざからは翼が生えてくる。翼はリッキーの成長と共に大きくなり、やがて部屋の中を勝手に飛び回るようになるのだった。

 リッキーの背中の羽が次第に発達していく過程は、とてもリアルだ。飛行している姿も、実に良くできている。SFXと特殊メイクは相当に健闘していて、ハリウッド作品と比較しても遜色はない。さらに家族で買い物に出た際、ちょっと目を離した隙にリッキーがスーパーの店内を飛び回り大騒ぎになるシーンさえある。

 当然、一家はマスコミ陣から追い回されるようになって・・・・という展開は、よくあるファンタジー映画のルーティンにハマり込んでおり、それ相応の結末を誰しも予想してしまう。たとえ一筋縄ではいかないオゾン監督の作品であると分かっていてもだ。

 しかし、終盤になると例によって肩透かしのシニカルなオチが待っている。これはこれで異存はないのだが、ならばそれまでのファンタジー趣向は何だったのかと言いたい。要するに、映画のエクステリアと作家性とがマッチしていないのだ。これでは、観客としては釈然としない気持ちで劇場を後にするしかない。

 母親役のアレクサンドラ・ラミーとパコに扮したセルジ・ロペスは好演。社会的に恵まれないカップルの佇まいを良く出している。特に、ちょっと気に入った男を見付けるとスグに一緒になろうとするラミー演じるカティの造型は、女性の扱いに対し容赦のないこの監督のテイストがとても感じられる。あと、娘に扮したメリュジーヌ・マヤンスも印象的。子供のくせに見ようによっては母親よりも色っぽい。特に、生活に疲れたような気怠い表情なんて絶品だ(笑)。末恐ろしい子役である。
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「g@me.」

2011-01-12 21:27:32 | 映画の感想(英数)
 2003年作品。どうしようもない映画だ。東野圭吾の異色の犯罪小説「ゲームの名は誘拐」(私は未読)の映画化だが、藤木直人扮する主人公(誘拐犯)が、広告会社の従業員の分際で都心の超高級マンションに住んでいるという設定を見ただけで、鑑賞意欲が完全に失せてきた。

 仲間由紀恵演じる「お金持ちのお嬢さん」も完全にハズした役回りで、二人の演技的未熟さも相まって、ドラマは絵空事の域を出ない。ハイ・ソサエティな小道具を並べただけの、まるでバブル期の残りカスのようなシチュエーションである。

 こういうシロモノを現時点で映画にしようという、その製作の意図がさっぱり見えない。今時テレビの2時間サスペンス劇場でも恥ずかしくてやれない企画である。ドンデン返しの連続は東野圭吾による原作に準拠しているのだろうが、映画自体がヘッポコであるため出るのは失笑ばかり。「天国と地獄」のパロディなど見ていてお寒い限りである。

 監督の井坂聡は「[Focus]」と「破線のマリス」で良いところを見せた以外はまるでダメな演出家だ。要するに、上記二作のような「メディア批判」のネタしか撮れない作家なのだが、そのへんを送り手側もちゃんと認識して欲しいものである。
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「最後の忠臣蔵」

2011-01-11 06:25:48 | 映画の感想(さ行)

 こりゃヒドい。粗製濫造気味である昨今の時代劇の中にあって、とりわけ質の低さが目立つシャシンだ。何より演出が最低。メリハリも何もなく、ただ漫然と面白くもない筋書きを追うのみ。監督の杉田成道はテレビ出身だが、まさに低視聴率に喘いだ挙げ句に1クールで終了させられたドラマのごとく、画面に隙間風が吹きまくっている。杉田を起用したプロデューサーは猛省すべきであろう。

 吉良邸討ち入りの後には大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士は全員切腹して果てたはずだった。しかし、実は2人の男が生き残っていて、それは大石から遺族の面倒を見るように言いつけられた寺坂吉右衛門と、討ち入り前夜に行方をくらました瀬尾孫左衛門である。親友同士でもあった二人だが、事件の後は吉右衛門は孫左衛門に会っていない。ところが16年の歳月を経て、思わぬ形で再会することになる。

 いわば忠臣蔵とは別の“外伝”という位置付けであり、本家たる討ち入り映画と同じく昔から幾度も取り上げられてきた素材である。ただし今回の“外伝”の内容はというと、大石には討ち入りの前に身の回りの世話をしていた女との間に娘が出来ていて、孫左衛門はその子が立派な家柄に嫁ぐまで面倒を見ていたというものだ。ハッキリ言って、どうでもいいようなネタである。

 たとえば浪士の一人が“本番前”に別のトラブルに巻き込まれて切った張ったの展開を強いられるとか、赤穂藩士の中に「四谷怪談」の主人公になるべき人物がいたとかいう、過去の“外伝”映画が取り上げたようなエキサイティングな逸話と比べると、随分と気勢の上がらないストーリーだ。

 それでも原作(私は未読)は池宮彰一郎の手によるものだし、それなりの段取りを踏めば説得力のある作品に仕上がったのかもしれない。しかし前述の通り監督が三流なので、盛り上がるべきポイントがさっぱり見えない退屈な映画に終わっている。

 とにかく、各登場人物の描写が内面全然なっていない。討ち入り事件のアフターフォローに人生を費やしてしまった吉右衛門の苦渋や、人知れず内蔵助の遺児を育てるため、これまた自分自身の平凡な幸せを得ることからシャットアウトされてしまう孫左衛門の苦悩などが、まるで出ていない。佐藤浩市と役所広司という手練れのキャストを配しても、低レベルの演出では如何ともし難いのだ。

 そもそも、武士という身分の在り方に対する問題意識のカケラさえなく、当然の事ながら現代に通じるテイストもない。こんないい加減なスタンスで、クライマックスの婚礼の場面に感動しろと言われても、そうはいかない。

 加えてヒロイン役の桜庭ななみが目も当てられないほどの学芸会演技しか出来ず、孫左衛門に心を寄せる元芸者に扮した安田成美も救いようがないほどの大根。一体何を考えてこのキャスティングを採用したのか、頭を抱えるばかりである。

 山も谷もない話がダラダラと続いた後は、何だか思わせぶりでその実たいした内容も意味もない結末が待っているばかり。とにかく観る価値はゼロであり、とっとと忘れてしまいたい映画である。
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「ボリウルの夏」

2011-01-10 06:43:31 | 映画の感想(は行)
 (英題:Season in the Sun )2003年にアジアフォーカス福岡映画祭で観た韓国映画。その何年か前に同映画祭で紹介されたイ・ミニョン監督の「灼熱の屋上」は目を見張る快作だった。当然この監督の新作であった本作にも期待が高まったが、あまり気勢の上がらない結果に終わったのが残念である。

 全羅北道ボリウル村での、少年少女サッカーのひと夏を描く作品。一つのお寺と一つの教会があるこの村では、サッカーの経験がある僧侶と神父が村の子供たちを率いて、それぞれサッカーチームを率いていた。二つのチームは何かにつけ反発し合うのだが、町の強力な少年チームと試合することになり、両者は協力して合同チームを結成して頑張ることになる。

 ボリウル村の“僧侶チーム”と“教会チーム”との区別が(シークエンスに時間を割いているにしては)ほとんど付かないのを始め、ライバルとなる“都会チーム”との顛末も安易。何より登場人物を絞っているのに余計なエピソードが多く、物語が一向に進まないのは愉快になれない。肝心のサッカーシーンもイマイチである。

 それにしても、主人公達のユニフォームが韓国ナショナルチームのそれと似ていて、敵役の“都会チーム”がブルーのアディダス製で日本代表チームそっくりなのには閉口した。撮っていて恥ずかしくなかったのだろうか。
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「バーレスク」

2011-01-09 08:33:23 | 映画の感想(は行)
 (原題:Burlesque )ミュージカル役者としてのクリスティーナ・アギレラの存在感に圧倒される一編だ。言うまでもなく彼女はアメリカの音楽シーンを代表する歌手であり、おそらくこの年代の白人女性シンガーとしてはトップレベルの実力を持っているだろう。今まで「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」でのゲスト歌手としての映画出演はあったが、演技者としては今回初めて。しかし、この堂に入ったパフォーマンスはとてもデビュー作とは思えない。もっと映画に出てもらいたい素材である。

 ストーリーは御都合主義の最たる物で、突っ込み所が満載である。そもそも、アイオワの小さなダイナーでウェイトレスをしていたヒロインがロスアンジェルスにやってきて、持ち前の実力を発揮してナイトクラブの売れっ子になるという話自体に説得力がない。



 普通に考えれば、彼女がどうして歌と踊りに興味を持ち、どのように田舎町で鍛練を積んで万人を魅了するようなレベルにまで達したのか、そのあたりを重点的に描くべきだろう。クラブの買収話がどうのこうのというネタも、まるで興趣が出てこないようなエピソードである。

 けれども、このような設定の映画ではそんなことはどうでもいいと思う。主人公が最初から実力派で、きっかけを与えられればスグに舞台で輝き出そうが何だろうが、画面映えすればそれですべてオッケーだ。

 原則的に、ミュージカル映画に小難しいドラマツルギーなど不要。プロットの積み上げのいい加減さにケチを付けるのは、野暮というものだ。楽曲とダンスに満足出来れば、あとは何もいらない。その意味でこの映画は十分に及第点である。

 クラブのオーナーに扮したシェールも良い。彼女は相当なトシだと思うのだが、まだまだ声に張りがあり、エキゾティックな魅力も健在だ。エリック・デインやスタンリー・トゥッチも適役。欲を言えばピーター・ギャラガーにも見せ場を用意して欲しかった(笑)。



 クリストフ・ベックによるオリジナル楽曲だけではなく、起用した既成曲もセンスが良い。特にボストンの「宇宙の彼方に」やアルファビルの「フォーエバー・ヤング」などが鳴り響いたときには、ロック好きとしては思わず身を乗り出してしまった。

 スティーヴ・アンティンの演出は取り立てて才気走ったところはないが、破綻無くドラマを展開させる職人ぶりを発揮。ボジャン・バゼリのカメラによる煌びやかな映像も良い。とにかくキュートなアギレラの魅力が満載の、ゴージャスな雰囲気が味わえる音楽映画の快作だ(策を弄しすぎて沈没した「NINE」とは大違い ^^;)。観る価値は大いにある。
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