元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ばかもの」

2011-01-24 06:43:07 | 映画の感想(は行)

 凡作である。金子修介監督としては初めてコミック原作でもおちゃらけでもアイドル物でもない“普通の劇映画”に挑戦した作品になるが、結果は彼の不得意分野を再認識しただけに終わっている。

 彼の得意技は“映画のマンガ化”だ。たとえ原作がすでにマンガであっても、金子はさらに映画をマンガチックに再構築するような製作姿勢を前面に出す。実写用にデフォルメされたような作劇は深みこそないが、それだけ主題の表出に関してはシンプル化されることになり、平易でメリハリを付けたドラマツルギーが可能になる。

 しかし、今回の題材は芥川賞作家・絲山秋子の同名小説だ。絲山の小説は以前「逃亡くそたわけ 21才の夏」が本橋圭太監督によって映画化されているが、あの作品にあったファンタジー風味のストーリーがこの「ばかもの」には微塵もない。つまりは純然たる“文芸作品の映像化”にリアリズム路線で取り組む必要があったわけだが、これほど金子の資質に合わない企画もないのである。失敗するのも当然なのだ。

 群馬県の三流大学に通う19歳のヒデは、偶然出会った強引な年上の女・額子と成り行きで付き合い始める。一時は額子の部屋に毎日通うほど夢中になるヒデだったが、ある日彼女は“別の男と結婚する”と言い残して彼の前から去る。それから10年の歳月が流れ、その間にヒデは新しい恋人も得たことがあったが、心のどこかで額子が忘れられず、それを紛らわせるように酒に溺れていく。ようやくアルコール依存症から脱した彼は、事故で大怪我を負った額子と再会するのだった。

 長いスパンに渡って男女の感情の機微を追うという純文学的なアプローチは、やっぱり金子には合っていない。たとえて言うならば、ヘタな漫画家が既存の小説を無理矢理に劇画化したような情けなさが全編に漂っている。とにかく各キャラクターの掘り下げが浅い。各登場人物の内面をきめ細やかに描出しないとサマにならない題材であるにもかかわらず、誰も彼もが“脚本通りにやりました”という義務感しか表に出せていない。

 主演の成宮寛貴は頑張ってはいる。しかし、肝心のアル中演技がなっていない。前に観た「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」の浅野忠信と比べれば、まるで子供の演技と言うしかない。ヒロイン役の内田有紀も頑張っている。けれども、元より役作りのキャパシティが小さい彼女にとって“演じる努力はしている”ということを見せることは可能でも“役に成り切る”ことは無理なのだ。

 よって、演出と題材とのアンマッチをキャストのパフォーマンスでカバーするという戦術も成り立たない。おかげでラストなんかカタルシスの欠片も感じられない。金子監督としては、もう一度自分の適性を顧みることが大事かと思われる。
コメント
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