元・副会長のCinema Days

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「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」

2008-04-12 06:50:26 | 映画の感想(さ行)

 タイトル通り“実録的”に経緯を追っただけの映画だ。監督の若松孝二は原田眞人監督の「突入せよ!『あさま山荘』事件」(02年)を観て“山荘の内側の若者のことを何も描いていない。表現をする人間は、権力側から描いたらダメだ!”と憤り、そこでこの映画の製作を思い立ったらしいが、彼にとって誤算だったのは、すでに同様のネタを扱った高橋伴明監督の「光の雨」(01年)という傑作が存在していたことだ。

 しかも「光の雨」は全共闘世代の高橋監督による“特定の見方”を可能な限り客観視するため、作劇面で二重・三重の“局面”を用意するという巧妙な仕掛けが施されており、またそれらの“局面”が緊張感をもった補完関係を形成し、目を見張る映画的高揚が実現されていた。対してこの「実録・連合赤軍」は、徹頭徹尾作者による“ひとつの見方”によってドラマが進む。もちろんその“ひとつの見方”が万人を納得させるだけの求心力を獲得していれば文句はないのだが、これがいささか心許ないのだ。

 映画では初めに事件の前段とも言える60年安保前後の経緯から全学共闘会議の成立を経て、連合赤軍の結成に到るまでのレクチャーが披露される。また本編のエピローグではあさま山荘事件以後の関係者の“その後”も語られる。学生運動史を回顧するには絶好の“教材”かもしれない。しかし、観終わってみればそれ以上のものは何ら感じられないのだ。これでは単なる事実の羅列に過ぎない。

 山岳ベースに追いつめられた彼らの“総括”に名を借りたリンチ殺人は、劇中では革命だの反体制だのといったスローガンから遊離した個人的な確執によって成されたらしいことが示される。しかし、それを強調したいのならば通常の犯罪映画としてのスキームを採用すればいい話だ。その方向性を極端に描いた熊切和嘉監督の「鬼畜大宴会」(98年)なんていう作品もある。少なくとも大きな時間を割いて全共闘の成り立ち云々を説明する必要はない。

 この煮え切らない態度は、作者自身があの事件に対する“総括”が出来ていないことの証明ではないのか。リンチ事件自体が私怨による下世話な内ゲバに過ぎないらしいことを画面上では描きつつ、執拗なまでに革命や反体制のシュプレヒコールをブチあげる。本当は作者は連合赤軍事件を“単なる犯罪だ”とは断じて認めたくはないのだろう。あくまでも60年代からの“革命の季節”の流れの中で起こった一大イベントみたいな捉え方をしたくてたまらないのだ。

 しかし、それは違うのだ。そもそも日本に革命なんて不要だった。少なくとも高度経済成長で多くの国民がその恩恵に浴していた時期に、人民に貧乏を強要する共産主義革命のイデオロギーが入り込む余地など微塵もなかったのだ。革命なんてのはアホな学生どもがゲバ棒振るって暴れ回る“口実”に過ぎない。

 劇中で紹介される全共闘学生の数々の狼藉を見ていると、彼らはさぞや“楽しい学生生活”を当時送っていたのだろうなと、ある意味羨ましく思う(爆)。何しろどんなにハメを外しても“革命のため”という大義名分があったのだ。まさにやりたい放題である。

 そんな甘ったれた精神を持った連中、そしてそれを傍観していた同世代の奴ら、そういう人間達はあの時期を自分なりに“総括”しているのだろうか。あの騒ぎがケツの青いガキどもの御乱行であり、連合赤軍事件は頭のネジが緩んだ連中が引き起こした猟奇的な犯罪に過ぎないことを、団塊世代は“総括”しているのか。学生時代にさんざんヤンチャな行為をしでかした挙げ句、何事もなかったかのように社会の一員になり、しかし若い頃にハマったサヨク思想からは抜け出せず、さんざん世の中に害毒を垂れ流し、下の世代は彼らの尻ぬぐいをさせられていることを、ベビーブーマーたちは“総括”しているのか。

 とにかく、連合赤軍事件を“凄惨だが、単なる犯罪に過ぎない”と断言できないのならば、この題材を取り上げるべきではなかった。資料的な意味はあるが、出来自体は「光の雨」の足元にも及ばない、凡庸な作品である。
コメント
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