元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「サラリーマン専科」

2007-12-20 06:43:10 | 映画の感想(さ行)
 95年松竹作品。主人公・石橋(三宅裕司)は40代の中間管理職。同居している弟(加勢大周)が拾ってきた迷い犬が、勤務する会社の社長宅の飼い犬だったことから社長(西村晃)と個人的に知り合うようになる。別荘の管理を任された石橋夫婦と弟は、そこで世界的プロゴルファーでもある社長の姪と会うが、彼女が石橋の弟を気に入ってしまい、縁談話に発展。これは出世のチャンスだとばかり有頂天になる石橋だが・・・・。

 東海林さだおのマンガを原案に「釣りバカ日誌15」「時の輝き」などの朝原雄三が脚色と演出を担当。公開当時は「男はつらいよ」の併映作として正月映画に登場した。

 ひょっとしてこれは実にシビアーな話なのかもしれない。社長と個人的に懇意になったおかげで、犬の相手やら別荘の管理やら姪の結婚相手の世話やら、仕事とは全然関係のない雑用を家族ぐるみでやらされるハメになる。出世なんて石橋の弟が言うように、“仕事さえ出来れば結果は後からついてくる”のであるが、減点主義の人事が大手を振ってまかり通るのも事実。正論は承知の上で、社長の雑用を嬉々として引き受けてしまうサラリーマンの悲しい性。ラストはいちおう丸くおさまり、劇中も三宅の個人芸で笑わせてくれるが、社長が独裁的に支配する窮屈な社風もあちこちに示されて、後味はかなり苦い(往年の「社長シリーズ」とは大違いだ)。

 この題材を暗くならずに正月番組の定番として仕上げなければならなかった朝原の苦労はかなりのものだったろう。その努力の成果は破綻のない展開と的確なカメラワークに関して、いちおう上がっており、朝原の手腕はとりあえず示されている。しかし、何ともいえない居心地の悪さ。これはサラリーマンを取り巻く環境が不況やリストラなどで厳しくなるにつれ、パッと明るいコメディが彼らを主人公には作れなくなったということだろう。「ニッポン無責任男」の時代ははるか昔になってしまった(暗然)。
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「夕凪の街 桜の国」

2007-12-19 06:59:32 | 映画の感想(や行)

 近年行き詰まりの感がある佐々部清監督作品にしては出来は悪くないが、不満も残る。昭和33年の広島を舞台に、事務員として働くヒロインが原爆症により非業の最期を遂げる「夕凪の街」と、彼女の姪が父親(「夕凪の街」の主人公の弟)の不審な行動を追いかける、設定を現代に置いた「桜の国」との“二本立て”構造により、反戦のメッセージをより立体的にしようと腐心した映画である。

 前半の「夕凪の街」は予想通りの展開ながら、主演の麻生久美子の存在感により見応えのあるパートに仕上がった。とにかく彼女の健気で儚げな佇まいが良い。さすが“日本三大薄幸女優”の一人だ(ちなみに、あとの2人は中谷美紀と宮崎あおいである ^^;)。当時を再現した舞台セットなども、低予算ながら「三丁目の夕日」シリーズよりもずっと実体感がある。

 しかし、原作漫画の作者であるこうの史代(私は原作は未読)の基本スタンスだと思われる“原爆は、落ちたのではなく落とされたのだ”という、歴史に正面から向き合うような姿勢は、このパートの終盤にヒロインの口から取って付けたように告げられるのみ。全般的に“難病もの”のルーティンを追っているような感じがして愉快になれない。元ネタの主題を活かすような、別の切り口を模索すべきではなかったか。

 後半の「桜の国」は主役の田中麗奈の体育会系的キャラクターがぴったりハマった“一見ガサツだが、実は純情”という役柄が面白い。友人(中越典子)と共に父親のあとを付けて広島まで旅をするくだりは珍道中よろしく山あり谷ありの展開で飽きさせない。

 ただし、父親の行動が伯母の悲劇をはじめとする原爆の惨禍を再確認する旅であることをヒロインが知った後の、たぶん原作のハイライトであろう“主人公が時空を超えて伯母の辛苦を体験し、なおかつ今の自分を顧みる”部分になってくると、演出者の力量不足かあるいは不慣れなジャンルであるためかどうか知らないが、平板でまったく盛り上がらないのは痛い。ここはもう少し頑張って欲しかった。

 藤村志保や吉沢悠など他のキャストも好調。しかし「桜の国」の父親役が堺正章で、これが「夕凪の街」での伊崎充則の後年の姿というのは納得できない。ひょっとしたら「桜の国」の時制に達する前にキャラクターが変わってしまうほどの出来事があったのかもしれないが(笑)、互いにまるで持ち味の違う俳優であり、繋がるものがないのだ。いまひとつキャスティングの詰めが必要だったと思われる。
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「海は見ていた」

2007-12-18 06:51:33 | 映画の感想(あ行)
 2002年作品。江戸・深川の岡場所を舞台に、遊女たちの群像を描く、黒澤明の遺稿を映画化した人間ドラマ。原作が山本周五郎で脚本が黒澤だから、話自体はもちろん面白い。ただし映画全体としては凡作。何より熊井啓の演出がダメ。

 ドラマ運びが平板極まりなく、ここ一番の馬力がない。そして映像に全然深みがない。腰高なカメラワークと凡庸そのもののカット割り。舞台になる深川の岡場所の猥雑さもまったく出ていない。大々的に導入されたCG合成もすべて空振りで、画面の安っぽさを助長する(本格時代劇にCGは不要だと思う)。元よりこの監督は当時すでに完全に“終わっていた”と思うのだが、それにわざわざメガホンを担当させたプロデューサーの意図がさっぱり見えない(もっと他に人材がいただろうに)。

 それでもキャスト面は悪くなく、姐さん格の遊女を演じる清水美砂の気っぷの良さ、御隠居役の石橋漣司や女衒役の奥田瑛二など手堅い仕事ぶりだ。特に若い遊女に扮する遠野凪子の頑張りには目を見張らされる(脱いでるしー ^^;)。まあ、最近はあまりスクリーン上で彼女の姿を見ないのは残念だが。

 しかし、彼女をめぐってドラマが盛り上がりそうになると意味もなく鳴り響く松村禎三の音楽が雰囲気をぶち壊す。この昼メロみたいな扇情的でクサい旋律はどうにかしてほしい。特に見せ場となるべき遠野と永瀬正敏のからみのシーンは、BGMのせいで感銘度が80%は低下していると思われる。ホントに製作者は何をやってたんだろうか。
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「呉清源 極みの棋譜」

2007-12-17 06:40:14 | 映画の感想(か行)

 (原題:呉清源 The Go Master)何を描きたいのかよく分からない映画である。昭和初期に弱冠14歳で中国から日本に囲碁留学し、その後伝説的な活躍を見せて“昭和の碁聖”とまで言われた呉清源の伝記映画。とはいっても日本映画ではなく田壮壮監督による中国作品だ。

 前にも書いたが、囲碁は私の趣味の一つである。もっとも映画鑑賞や音楽鑑賞(オーディオを含む)と比べると私の中でのウェイトは低いが、人から“趣味は何ですか?”と尋ねられた時に“囲碁です”と答えておくとヘンな奴とは思われないというメリットはある(笑)。それはさておき、呉清源の棋譜は何度か並べたことがあるが、その圧倒的な強さ・アイデアの豊富さには舌を巻いた。

 よく囲碁界では“地に辛い○○”とか“大模様の××”とか“二枚腰の△△”とかいった、それぞれの特徴や得意技などを冠したキャッチフレーズで呼ばれるプロ棋士がいるが、呉清源の場合はひとつの形容詞で表現できないほど懐が深い。まさにオールマイティであり“碁聖”の名にふさわしいものだ。そんな怪物的な人間をどうスクリーン上に活写するのか大いに興味があったのだが、これがどうも要領を得ない。

 呉清源は日中戦争が勃発する前に中国に一時帰国し、新興宗教の紅卍字会に入っている。日本に戻ってからも彼は紅卍字会の流れをくむ璽宇教の活動に没頭するのだが、その背景が意味不明だ。

 おそらく中国人でありながら日本を社会的な活躍の場に選んだ主人公が、日中戦争によりアイデンティティの危機を迎え、それを克服しようとして平和共存を趣旨とする紅卍字会にすがったのだろうと思われるが、映画はそのへんをまったく具体的に描かない。何の暗示も明示もなく、行き当たりばったりに主人公を“狂信”に走らせる乱暴な展開に呆れるばかり。これは作者の独りよがりと言って良い。

 新しい布石などを編み出した鬼才ぶりや、兄弟子でライバルの木谷実との関係性、そして並み居る強豪達との名勝負をスリルたっぷりに描出して欲しかったのだが、完全に空振りである。

 主演のチャン・チェンは異文化に馴染めない主人公像を好演していしたし、柄本明や松坂慶子などの日本側のキャストも悪くなく、清涼な映像と落ち着いたカメラワークによって一種の風格のようなものもある映画だが、主題の捉え方がチグハグなので評価する気にはなれない。冒頭には呉清源本人も顔を出しているだけに、残念な結果だ。
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佐々木敏「ゲノムの方舟」

2007-12-16 18:33:01 | 読書感想文
 たぶん時事問題に少しは興味を持っているネットワーカーの中には少なからぬ「愛読者」がいるに違いないオピニオン・サイト「週刊アカシック・レコード」の主宰者でジャーナリストの佐々木敏による長編デビュー作。

 テロリストグループがジュネーブのWHOビルを急襲したことに始まる新手の伝染病のアウトブレイクと、そのナゾに挑む日本人科学者、そして暗躍する国際陰謀組織を描くポリティカル・サスペンスだ。処女作だけに人物描写に慣れていない部分もあるが、真実味を帯びた国際問題の提起と、それをフォローする膨大な作者の知識に圧倒される一編である。

 特に面白かったのは「生物兵器の効果的な使用方法」について描かれた部分である。これが実に説得力がある。この背景に、一部の支配層による「選民思想」の話が加わると、いかにも実際ありそうな話でスリリングだ。しかも「生物兵器を適度に使うこと」が「日本にとって都合がよい結果」になることにも思い当たり、慄然としてしまった。佐々木の主張を鵜呑みにする必要はないが、この機会にアメリカの支配階級の行動原理について考えてみるのも一興であろう。読む価値はある。
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「ブラック・スネーク・モーン」

2007-12-15 06:57:29 | 映画の感想(は行)

 (原題:Black Snake Moan)扇情的なポスターから受ける“イヤラシ系の映画ではないか”という先入観は裏切られる。これは大きな心の傷を負ったどうしようもない連中の再生ドラマだ。

 舞台はアメリカの南部のどこか。カミさんに逃げられて世捨て人みたいな生活を送っている初老の黒人ブルースマンが、ある日道端に血だらけで倒れていた下着姿の若い女を拾う。彼女は幼い頃に受けた性的虐待がもとで、見境なく男を誘う“セックス中毒”に陥っている。敬虔なキリスト教徒でもある主人公は、彼女を鎖に繋いで“更生”させようという暴挙に出る。

 普通に考えれば、このオヤジは変態そのものだ。無理矢理“更生”させられる女も変態だし、さらには主人公の狙い通りに彼らを“更生”に持って行ってしまうストーリーそのものが変態だ。しかし、本作はその変態ぶりを突き詰めて感慨深い作品に仕上げているところが凄い。監督と脚本をつとめるクレイグ・ブリュワーは、この“信じれば救われる”という一種の狂信からまったくブレていない。そして主演のサミュエル・L・ジャクソンの、筋金入りのキ○ガイ演技。まさに観客の戸惑いをねじ伏せる馬鹿力を発揮している。“更生”とは名ばかりの、エクソシストを気取った悪魔祓いみたいな無茶苦茶ぶりは天晴れだ。

 しかし、紙一重のところでドラマがトンデモ路線に落ち込んでいかないのは、全編に流れるブルースのおかげである。冒頭とラストに伝説のブルース・マンの含蓄深いコメントがドキュメント・フィルムで挿入されるが、作者はキリスト教による救済と同じ程度に、音楽(ブルース)の力を信じ切っている。

 宗教臭い展開は苦手な受け手もこれなら納得で、L・ジャクソンも歌声を披露すると共に、ステージでの演奏シーンは素晴らしく盛り上がる。女を演じるクリスティーナ・リッチも圧倒的で、ほとんど裸同然の熱演ながら妙にカワイイところが実にソソる(ちゃんと歌うシーンもあるし ^^;)。女を置いて出征するボーイフレンドに扮するのがジャスティン・ティンバーレイクなのだが、彼はまったく歌わないのが笑ってしまった。

 予想通りの前向きなラストは爽やかな感動さえ味わえる。ミュージックが満載の“ちょっといい話”を観たい向きには絶好のシャシンだ。
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朝日新聞の“おとぼけ社説”(^^;)。

2007-12-14 07:22:45 | 時事ネタ
 12年9日(日)付の朝日新聞の社説には笑わせてもらった。お題は「希望社会への提言(7) 消費増税なしに安心は買えぬ」といったもの。

(引用開始)
福祉水準を維持していくと、国と地方を合わせた財政負担が、25年度には06年度より20兆円前後も増えるだろうと大まかに試算できる。(中略)歳出削減で借金漬けの財政を立て直し、国債がこれ以上増えないようにするのは難事業だ。できるだけ経済の成長力を高めて税収を増やしても、福祉の「安心勘定」へ回せる財源は多くを期待できまい。将来を見通せば、増税による負担増は避けられない。そう覚悟を決め、あえて大胆に発想を転換しないことには、社会保障の基盤を固めて希望社会への道筋を描いていくことはできないだろう。(中略)いずれは消費税が10%台になることを覚悟するしかあるまい。
(引用終了)

 この文章のおかしな点は、まず“経済成長による増収を福祉財源に回せるはずもない”と頭から決めてかかっていることだ。回すか回さないのかは朝日新聞が決めることではない。国会で議論して方向性を確定すればいい話であり、何をこの新聞は思い上がったことを書いているのか(爆)。それ以前に、経済成長による税収の伸びを過小評価していることが問題だ。

 国家財政を企業の財務状態に喩えるとすると、朝日新聞はちょうど“資金繰りが苦しければ、商品(またはサービス)を値上げすればいい”と言い切っているのと同じ事だ。どんな無能な経営者でも、自分のとこの会社が左前だった場合、真っ先に値上げを考えることはあり得ない。では何を一番に実行しなければならないか。それは“売り上げを伸ばすこと”に決まっている。では、どうやってセールス高をアップさせるか。それは魅力的な商品(またはサービス)を開発したり、人材を育成あるいは投入したり、キャンペーンを張るなどの積極的なマーケティングが必須である。いずれにしても“元手”が必要で、それ相応の予算を投入しなければならない。

 これを国の財政に置き換えると、売り上げ(税収)を伸ばすには、積極的なマーケティング等の営業努力(景気対策)が必要だと言うことだ。営業努力を怠ったままスグに値上げ(税率アップ)に踏み切っても、顧客は逃げて行って売り上げはズンドコになる。

 朝日新聞は橋本政権の失敗を知らないのだろうか。96年6月、景気が浮上の傾向を見せていたとき、財政健全化とやらを目指した橋本政権は消費税率を5%にアップさせた。その結果株価は急落。国家財政が好転した気配はなかった。これもさらなる営業努力(景気対策)なしに安易に値上げ(税率アップ)に踏み切った結果だったのではないか。単純に考えれば分かる話で、税率が上がって可処分資金が減れば、消費がダウンするのが当たり前ではないか。どこの誰が“消費税率が上がって日本の将来も安心。だから消費や投資を増やそう”と考えるのか(笑)。

 まあ、実を言うと新聞社をはじめとする大手マスコミが“消費税を上げろ!”と主張する理由はおおよそ察しが付く。我が国の税制には“輸出戻し税”なるものがある。この“輸出戻し税”とは、輸出品を作っている企業が商品を作るための材料などにかかった消費税は、その企業が申請すれば、国が返してくれるというシロモノだ。要するに消費税率がアップするほど“輸出戻し税”がその分上昇し、輸出関連大企業の幹部は儲かるってことだ。その輸出関連大企業およびその取引先になっている他の多くの大企業は、大手マスコミのスポンサーである。だからマスコミはスポンサーの思惑通りのことしか言わない・・・・と、こういう図式かもしれないな。

 とにかく「○○が安心・好転するためには、国民にはこういう痛み(負担増加)が必要」という筋書きは、少なくとも我が国においては成り立たない。何しろ赤字なのは「役所の帳簿」だけであり、日本全体としては黒字なのだ。それを無視して「痛みに耐えて何とやら」というくだらない精神論もどきを吹き込む朝日新聞は、嘘っぱちの大本営発表を垂れ流していた戦時中とまったく体質が変わらない。この新聞は何かというと“日本は(先の戦争に対する)反省が足りない”と主張するが、当の自分達はまったく“戦時中の反省”をしていないのだ(暗然)。
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「アフター・ウェディング」

2007-12-13 06:45:31 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Efter brylluppet)けっこう評判になっている映画だが、私は評価しない。監督はデンマークの女流スザンネ・ビアで、私は彼女が過去に撮った「しあわせな孤独」を観ているが、これが愚にも付かない作品。とにかく“あり得ない登場人物たち”が“あり得ない筋書き”の中で勝手に動き回るという、まるで話にならない出来だった。本作は物語自体はまあ“あり得るかもしれないストーリー”には仕上がっているが、語り口や描写力がまるでなっていない。落第だ。

 主人公はインドの孤児院で働くデンマーク人。ある日、彼のもとに本国の実業家から“寄付金をやるから、一度会いに来い”との申し出が届く。不審に思った彼だが、運営面で苦しい孤児院のためならば背に腹は替えられず、やむなく帰国。実業家に会うやいなや娘の結婚式に出席させられると、実業家の妻は主人公が若い頃に付き合っていた女性であり、当日の新婦は彼女との間に出来た娘だということを知らされる。その裏には実業家が抱える重大な問題があって・・・・といった、一種の因縁話が滔々と語られるが、なるほど筋書きだけを追うとシビアな話で、登場人物の内面を上手く捉えれば傑作にもなりそうなネタである。

 しかし、物語は見事なほど盛り上がらない。何よりこの監督は各キャラクターの心理を描出することが出来ないのだ。説明的なセリフを吐かせ、深刻ぶった表情のアップを長回しで映し出し、あとは心象風景みたいな自然や静物のショットを延々と流す・・・・このパターンの繰り返しである。

 困ったことにこの女流監督は、こういうルーティンワークみたいな“やっつけ仕事”で内面描写が完了すると思い込んでいるらしい。そして足りない部分は俳優の存在感に丸投げ・・・・と、まるでテレビ屋出身のディレクターが適当にカメラを回しただけの最近の邦画みたいではないか。一番大事なはずの、劇中の実業家の心境というものにも全然説得力がない。

 そもそも作者はこのストーリーに思い入れもないのだろう。何か辛口の題材を扱えばそれで評価されると勘違いしている。深刻なはずのインドの孤児院の状況も、通り一遍の描き方しかしていない。主演のマッツ・ミケルセンはじめキャストは熱演だが、監督がいい加減なのでみんな上滑りしている。

 それにしても、実業家の“秘密”を堂々と開示した予告編にはびっくりしたものだ(爆)。
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しばらく休みます。

2007-12-01 09:01:28 | その他
 最近、あまり観たい映画が劇場にかかっていないせいか、新作映画を追いかけるペースが遅くなっています。かといって旧作の感想文や映画以外のネタばかりを書き連ねるのもどうかと思いますので、しばらくブログの更新を控えます。再来週中には書き込みを再開する予定です。よろしく御了承のほどを・・・・ ->ALL。
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「ロスト・イン・ラ・マンチャ」

2007-12-01 08:48:51 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Lost in La Mancha)2001年作品。「ローズ・イン・タイドランド」「フィッシャーキング」などの諸作で知られるテリー・ギリアム監督が十年来温め続けて来た企画「ドン・キホーテ」(The man who killed Don Quixote)の撮影がわずか一週間で挫折するまでを描いたドキュメンタリー映画。

 ハリウッドの金満主義から離れるためにヨーロッパ資本で製作費をまかない、主演のジャン・ロシュフォールに英語の特訓を依頼し、万全の体制でクランクインに臨んだはずが、季節はずれの洪水やロシュフォールの急病など、ドミノ倒し式にトラブルが発生して製作中止に追い込まれていく過程は、端から見ている分には“面白い”。準備万端だと思っていたのは当事者たちだけで、実態は綱渡り的な仕事に終始していたという、思い込んだら命がけの危なっかしいカツドウ屋精神を活写しているところもポイントが高い。

 しかし、監督のキース・フルトンとルイス・ペペにとって、映画の“素材”以外に作家として独自にアピールする点があったかというと、いささか心許ない。工夫といえばせいぜいが手書きアニメの挿入ぐらいである。意地悪な言い方をすれば、彼らにとって“誰が撮っても面白くなるネタ”を掴んだに過ぎないのではないか。ドキュメンタリーは事実をそのまま撮ればいいってものではない。そこに作者のテーマ性が反映していなければ“映画”にはならないのだ。その意味ではこの作品は“興味深い事実の紹介”にはなっても、“映画として面白い”という域に達していない。単なる資料的な意味しかないと思う。
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