元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

セオドア・ローザック「フリッカー、あるいは映画の魔」

2007-11-20 06:46:59 | 読書感想文

 60年代初頭に先鋭的なプログラムを提供する名画座の女主人と知り合った主人公のUCLAの学生が、長じて全米屈指の映画評論家になり、やがて映画を通じて「野望」を達成しようとするナゾの組織の陰謀に巻き込まれてゆくというミステリー。

 文庫本で上下巻に分かれた長尺だが、前半が素晴らしく面白い。マックス・キャッスルという伝説のB級映画の「巨匠」の業績を中心に、架空のキャラクターと実在の人物(オーソン・ウエルズからスピルバーグまで、映画史を飾る面々)のエピソードを取り混ぜ「映画とは何か」「我々はなぜそれに心を動かされるのだろうか」などという根元的な問いかけを(技術面から)突き詰めてゆく。特に映像技法にまつわる圧倒的な情報量には脱帽で、映画ファンの私は終始ゾクゾクしっぱなしだった。

 ところが、話が「陰謀」を中心に描く後半になると、あらずもがなの平板な展開が目立ち(特に“宗教ネタ”には萎えた)、イッキにヴォルテージが落ちてくる。気勢の上がらないラストも願い下げだ。もっと娯楽作品としての骨太なストーリーテリングの修得を望みたいところである。とはいえ、前半だけで十分読む価値はあるのは確かだ。
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「写楽」

2007-11-19 22:19:02 | 映画の感想(さ行)

 95年作品。江戸・寛政年間に突如あらわれ、100余枚の革新的な浮世絵を残し、わずか1年で消えた謎の絵師・東洲斎写楽の人物像に迫ろうとする篠田正浩監督作品。原案と製作総指揮はフランキー堺で、35年以上あたためた企画とか。

 冒頭、歌舞伎「蘭平物狂」の舞台で、脇役を演じる主人公とんぼ(真田広之)が足にケガをするくだりが描かれるが、この場面だけで観るのがイヤになった。歌舞伎のわくわくするような高揚感とエロティシズムがまったくない。役者の顔の上から無粋なタイトルを載せるという暴挙も相まって、作者は歌舞伎を全然愛していないことがわかる。

 大手版元の蔦屋(フランキー堺)の儲け話に乗ってとんぼは“写楽”という名で役者絵を描き始めるのだが、致命的なことに、絵を描くシーンの盛り上がりはない。どうして主人公が特異な画風を身につけたのかの説明もないし、なぜ絵を描きたいのかも示されない。歌麿(佐野史郎)や北斎(永澤俊矢)など他の絵師の描写も通り一遍で、深く突っ込もうという気もないらしい。「美しき諍い女」「マルメロの陽光」など、画家が絵を描く際の切迫感を描いて圧倒させる欧米の秀作群と比べて、何と無神経でいいかげんな処理だろう。作者は絵画も愛していない。

 岩下志麻扮する大道芸人の女座長、葉月里緒菜演じる花魁、片岡鶴太郎扮する十遍舎一九など、当時の江戸町民を代表させるキャラクターは、ほとんど真面目に描く気もないと思うほど印象が薄い(特に葉月はヒドイ。どこが花魁だ。ファッション・ヘルス嬢にしか見えないぞ)。作者は江戸町民文化も愛していない。

 そして行きあたりばったりなドラマ展開、演技指導の不在、工夫のかけらも見られないカメラワーク、ド下手な合成処理など、そもそも映画を撮る気があるのか疑わしい。しかも2時間20分というバカ長さ。何考えてるんだ。ホントに何考えてるんだよ。

 「北斎漫画」(81年)とか「歌麿/夢と知りせば」(77年)などの過去の力作とは比べようもない超低レベルの映画だ。篠田正浩監督は出来不出来が激しいけど、これは最低の部類だろう。
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「バック・ビート」

2007-11-18 10:46:00 | 映画の感想(は行)
 (原題:Back Beat )94年作品。デビュー前、ハンブルグで演奏活動を行なっていたビートルズに在籍したベーシスト、スチュアート・サトクリフと写真家アストリッド・キルヒャーとの恋と悲しい別れを描くイアン・ソフトリー監督作品。

 ジョン・レノンを演じるイアン・ハートがよかった。サトクリフの親友で、才気ほとばしる激しい性格は、実際のレノンはこういう人だったのだろうと観客を納得させるだけの存在感があった。あと、ポール・マッカートニー役の俳優が本人とソックリなのには笑った。

 さて、それ以外はどうでもいい映画である。私はビートルズ世代でもないし、題材に対しての特別な思い入れはない。サトクリフ役のスティーヴン・ドーフ、キルヒャーに扮するシェリル・リー、ともに平凡な演技で、観客の共感を呼ぶにはいたらない。演出もプロモーション・ビデオ的なカッティングの良さを見せるときもあるが、別段優れているとは言えない。ドン・ワズによる音楽プロデュースも大した効果があがっていない。この程度じゃビートルズのレコードを聴いていた方がマシである。

 単に“初期のビートルズはこうでした”という資料的な意味しか持たないこの映画、でもやっぱりビートルズをリアルタイムで体験している層や、最近ビートルズを知ってその魅力にのめり込んでいる若い連中にとっては、映画の出来以上のサムシングを感じつつ映像を見つめていたのだろうし、公開当時はそういう批評も少なくなかった。

 ここで思うのは、ほとんどの映画を一歩引いてクールに(意地悪く?)観るクセがついていて、ヒネた感想しか書けない私と、出来はどうあれ題材そのものに舞い上がって面白がってしまうファンとは、どちらが本当に映画を楽しんでいるかである。私の年代は“シラケ世代”と呼ばれたこともある。何に熱中しているときでも、心の底ではシニカルな姿勢を崩さない(私の世代がすべてそうだということではない。私だけかもしれない)この性格は直しようがないが(おいおい)、単に映画の質うんぬんにこだわらない、別の映画の楽しみ方を知ることはないのだと思うと、少し寂しくなったりして(なーに言ってんだよ ^^;)。
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“リサイクル馬鹿”は逝ってよし。

2007-11-17 07:04:23 | 時事ネタ
 先週の日曜日は私が住んでいる町での「分別収集ゴミ」を出す日であった。「捨てればゴミ、分ければ資源」というスローガンのもと、リサイクル可能なゴミを素材別に分けて出せという、まあよくある施策である。ここでちょっとしたトラブルに遭遇した(まあ、そのトラブルの張本人のひとりは私なのだが ^^;)。

 いつものようにスーパーで魚や肉を入れるのに使われる発泡スチロール製のトレイを、定められたボックスの中に入れようとすると、“見張り役”の町内会のおっさんから“ダメだ!”と言われるではないか。以下はそのやりとりである。

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おっさん「トレイはね、汚れ一つ付いていないような状態じゃないと、リサイクルできないの。アナタの出したトレイは一部にシミが付いているじゃない。ちゃんと洗って出し直してね」

私「一応洗いましたよ。その汚れはトレイにこびりついているから、水洗いしても取れないんですよ」

おっさん「ならば洗剤でしっかり洗えばいい。手を抜くのはいけないね。キレイにしてリサイクルに出さないと、資源の利活用はできないよ」

私「あのですね、たかだかトレイの汚れを落とすのに、なんでそんな手間暇かけなきゃならないのですか? 利活用すれば資源かもしれないけど、こっちとしてはただのゴミなんだから」

おっさん「そういう考え方が地球環境を悪化させてるんだよ。リサイクルできる資源は何としてでもリサイクルする。資源は無駄にしない。それが環境問題を解決する糸口になるんだから」

私「では、私がトレイの汚れを落とすために水道水を使い、さらに洗剤まで加えることは資源の無駄ではないのですか? 水道水と洗剤に使われるコストと、トレイ一枚をリサイクルするコストとを比べれば、いったいどっちが高いんですかね。しかも、貴重な休みの日にせっせとトレイの汚れを落とさなきゃならない私の時間と労力自体、無駄以外の何物でもないじゃないですか(笑)」

おっさん「そういう小難しい理屈に付き合っているヒマはない。さっさとトレイを洗浄して持ってきなさい」

私「ほほう。では、今後はトレイは分別収集ゴミの日に出さずに、通常の燃えるゴミとして週二回の収集日に出すことにしよう」

おっさん「それはやめて欲しい。リサイクル出来ないではないか」

私「リサイクル云々を言うならば、各家庭が出す燃えるゴミの中身こそ精査するべきでしょう。燃えるゴミ用の袋に入れて出してしまえば、リサイクル可能物品だろうと何だろうと収集車が持って行って焼却処分されるんだからね。それをさしおいて分別収集ゴミの日に我々が自発的に持ってくるゴミに対してだけあれこれ言うのは、何か違うんじゃないのか?」

おっさん「あーうるさい。とにかく、後ろがつかえているから帰ってくれ」

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 ・・・・断っておくが、私は何も「リサイクル自体がナンセンス」とか「環境問題なんかクソくらえ」とかいう極論を言うつもりはない。リサイクルできるものはリサイクルした方が良いに決まっているし、環境問題の重要性は言うまでもないだろう。ただし、「リサイクル」「環境問題」といった御題目自体が一人歩きして、マクロで見た場合のコスト意識や、それ以前の一般常識を無視するのは実に馬鹿げたことだと思うのだ。

 発泡スチロールのトレイをリサイクルするのに、いったいどれだけのエネルギーとコストがかかるのか、そういうことをこのおっさんを始めとする“リサイクル馬鹿”(と、あえて言ってしまおう)の人たちは考えたことがあるのかな。そもそも「ゴミを減らそう」というスローガンが各方面で叫ばれているのに、ゴミにしかならず、リサイクルするのに多額の費用がかかる発泡スチロールのトレイみたいなのが世の中に大量に出回っていること自体がオカシイのではないか。燃えるゴミと一緒に出すことが可能でリサイクル率が高くない“環境に優しくない”ペットボトルがどうして日々膨大な数生産されるのか。環境に優しくしようとすれば、昔のようにガラス瓶を使えば良いではないか。

 昔は肉屋も魚屋も発泡スチロールのトレイなんか使っていなかった。売るときは新聞紙や油紙に包んでくれたものだ。それが一律にトレイに入れて売られるようになったのは、大型スーパーの台頭と無関係ではあるまい。そして、大手の進出により、新聞紙や油紙を使う昔ながらの肉屋や魚屋が軒を連ねる商店街が消滅したことが大きいのではないか。これも“構造改革”とやらの弊害だろう。

 とにかく、巷にあふれる「ゴミを減らそう」「環境に優しくしよう」というシュプレヒコールとは裏腹に、相変わらず作り手の“企業の論理”によりゴミにしかならないものが多量に作り続けられている現実に気が付かないのは茶番でしかない。そして、くだんの“リサイクル馬鹿”のように、リサイクルのためのエネルギー浪費を容認し、リサイクルそれ自体で満足してしまう手合いが大勢いるのには脱力するしかない。だいたい、発泡スチロールのトレイやペットボトルなどはリサイクルしない方が資源の節約になるのではないか。燃えるゴミは、燃やすに限る。
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「ディスタービア」

2007-11-16 06:58:19 | 映画の感想(た行)

 (原題:Disturbia )現代版の「裏窓」という評価があるが、実際はあのヒッチコックの傑作と比べるのもおこがましい三流ホラーだ。

 冒頭、主人公の男子高校生の父親が交通事故死するショッキングな場面がある。これがそれからの展開にどう関係してゆくのか興味津々だったが、なんと1年後に彼が意地悪な教師を殴って自宅謹慎になる“背景”のひとつ(しかも、こじつけ臭い)にしかならないのには呆れた。だいたい、主人公は父親を失ってそれほど大きな内的ダメージを受けた気配はなく、亡き父親の使っていた部屋が隣家への絶好の“覗き見ポイント”になるのを知って喜ぶ始末で、本編の作り手の頭の中は主人公同様限りなく“軽い”と言わざるを得ない。

 彼が覗き見に精を出すきっかけとなったのが、自宅軟禁用のGPSセンサーを足に取り付けられ、外出禁止になったから・・・・という設定も、十分活かされていない。なぜなら、隣家に可愛い女の子が越してくることで(しかも水着姿も披露)、これなら自宅謹慎だろうが何だろうが、男なら誰でも“出歯亀状態”になるに決まっているからだ(爆)。

 さらに時期が夏休み中というのも芸がなく、これなら学生は(バカンスに出ている期間を差し引いても)家にいるケースが多いということになり、主人公が軟禁されているから覗きに楽しみを見出すという“特殊性”が完全に薄れてしまう。主人公が骨折して外出できないため、仕方なく覗きにヒマ潰しを見出した「裏窓」と比べると説得力は天と地ほども離れている。

 裏手に住む怪しい男が連続誘拐殺人犯であるとの疑いが強くなっても、こいつの“手口”はあまりにも幼稚で突っ込みどころ満載。そして、その遣り口にさえ気付かない主人公達および警察は、さらに幼稚だ。こんなシチュエーションが実際にあったとしたら、またたく間に犯人は逮捕されるだろう。

 終盤の追いかけっこシーンになると、ドラマのヴォルテージはさらに低下。どこかで見たようなショック場面、どこかでお目にかかったようなコケ脅しの段取りが横溢。ワーワーキャーキャーと登場人物だけで盛り上がっている間に、観ているこちらはアクビをかみ殺すのみであった。D・J・カルーソなる監督の腕は凡庸の極み。せめて“元ネタ”に敬意を表して、カメラが主人公の部屋を一歩も出ないとかいった設定ぐらい作れないものか。

 主役のシャイア・ラブーフ、ヒロイン役のサラ・ローマー、共に大した魅力なし。怪しい隣人に扮するデイヴィッド・モースも“今さら”といった感じで、印象に残ったのは大人の色香が漂う母親役のキャリー=アン・モスぐらいか。とにかく久々に“カネ返せ!”と叫びたくなったシャシンである。
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“複雑構造”のスピーカーケーブルを繋げてみる。

2007-11-15 06:38:55 | プア・オーディオへの招待

 スピーカーケーブルを新しいものに付け替えた。“おいおい、何回ケーブル買えば気が済むんだよ!”と言われそうだが、実はこのケーブルは昨年すでに調達していたのだ。しかし“ある理由”によりずっと押し入れの中で眠っていたのである(笑)。商品名は米国Kimber Kable社4VS。写真を見ればその“理由”がある程度察しが付くだろう。

 通常スピーカーケーブルの芯線は2本であり、ちょっと高級な製品や一部の業務用では4芯が採用されている。しかし、本製品はなんと8芯だ。それも8本の線がロープのように編み込まれていて、ほぐすのに苦労すると共に、一度必要以上にほぐすと元に戻らずバラバラになる危険性がある。そして当然、8本の芯線それぞれの皮膜を剥かなければならない。普通のケーブルと比べて装填にかなりの手間暇がかかるのだ。メーカーではこれを“ブレイド構造”と称し、余分な振動を駆逐する働きがあるとPRしている。私もそれにつられて買ってはみたものの、いざ自室で現物と向き合うと、ついついセッティングに及び腰になり、そのままにしていた次第だ(爆)。

 で、いつまでも“クローゼットに死蔵”というわけもいかず、先週末に休日返上で意を決して装着してみた。8芯なので2芯ずつ束ねてバイワイヤリング接続も出来るのだが、ここは定石通りケーブルの端を10数センチ切ってジャンパーケーブルの替わりにした(この処理をするだけでもかなりの時間を要したが ^^;)。

 いよいよ音を出してみる。このメーカーはすっきり伸びた高音と優れた音場表現が売り物らしいが、その特徴は私のシステムでも遺憾なく発揮されている。特に高域の広がりは特筆ものだ。4VSは日本に正式輸入されているKimber社の製品の中でも2番目に安い。これより上は“電線病罹患マニア御用達”みたいな高額品が並ぶ。でも、特定帯域に強調感があまりないのは4VSみたいなローエンドのクラスらしい。

 さっそく手持ちのRCAケーブルを次々と付け替えて“相性”をチェックしてみる。最初は先日購入した英国CHORD社CRIMSON。アタックの強さより響きの美しさを売り物にした製品であるだけに、高域の色気は捨てがたいが低音がえらく寂しい。アコースティック主体のポップスには向くが、アクティヴなジャズや管弦楽曲には無理がある。次に我が家のリファレンスである「LSSC」(吉田苑謹製)。これは・・・・可もなく不可もなしの音だ。大きな破綻もない代わりに魅力も希薄で、あまり面白くない。

 低音が控えめならば低音を持ち上げるようなキャラクターのRCAケーブルなら合うかもしれない・・・・ということで、Belden社の線材89463を使った青色のコード(shima2372謹製)を装着してみた。狙い通り低域がカバーできて決して相性は悪くないのだが、低域の重さが中音をも引っ張り、ヴォーカルの抜けが悪くなる傾向があり。ならば同じBeldenでも少し高域寄りの線材88760使用のコードならばどうかと思ったが、これは大失敗で荒っぽさだけが前面に出てしまう。MOGAMIのNEGLEX2534を使ったRCAケーブルも実装してみたけど、業務用らしい素っ気なさが強調されて、これもイマイチだ。

 結局一番相性が良かったのが、意外にもアンプを購入した際に「吉田苑」から貰った特製の“SOULNOTEのsa1.0専用RCAケーブル”だった。このRCAケーブルは中域重視であるせいか、4VSとの組み合わせではバランスが良くフラットな展開に持って行くことが出来る。いつもながら、スピーカーケーブルとRCAケーブルとのマッチングは奥が深い。

 4VSとsa1.0専用RCAケーブルとの組み合わせでしばらく聴いてみることにする。ケーブルを一種に限定せずに、交換可能な同種の製品を複数所有するということは、腰を据えて音楽ソフトに向き合えない反面、気分によって付け替えられるという利点もあるのかなァと、一人で納得してみたりする今日この頃である(笑)。
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「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

2007-11-14 06:42:57 | 映画の感想(英数)

 評価できる点が二カ所だけある。ひとつめは特殊効果の専門家でもある山崎貴監督が嬉々として撮ったであろう“冒頭のシーン”だ。レトロな“TOHO SCOPE”のタイトルバックから続く、東宝の“代表的スター”を登場させてのお遊びには、手練れの映画ファンも大喜びだ。山崎監督は本シリーズで実績を作った後、また本格的に“この手の作品”を手掛けるかもしれず、その点は楽しみである。

 ふたつめは、堤真一扮する鈴木オートの主人が同窓会に出席するくだりである。同窓会と言っても学校のそれではなく、戦地で行動を共にした同じ部隊の者達が久々に顔を合わせる集まりである。彼はそこでかつての“戦友”と再会するが・・・・このシークエンスは秀逸だ。昭和30年代前半は、やがて来る東京オリンピック等を契機とした高度成長時代の助走の時期だ。その戦後の発展を担ったのは、戦争をリアルタイムで経験した戦中派の人々である。日本を何とか復興させ、戦前に匹敵するような国際的地位をつかみたいと強く誓って頑張った彼らの心の底には“戦争の影”が存在していたことを、改めて実感する。

 さて、それ以外の部分は前作と同様、ただノスタルジーに乗っかっただけの退屈な人情ドラマだ。舞台設定や練り上げられた大道具・小道具を観て、団塊世代は懐かしさに浸るのだろうが、それより下の年代である私としてはまるでピンと来ないというのが本音。

 ただし、40代以下の観客にアピールできるように、たとえば昭和40年代以降を舞台として、本作のようなコンセプトの映画を作ったとして客を呼べるかといえば、それは違うだろう。団塊世代という特殊な立ち位置にいる層の頭数だけは多いということが、昭和30年代をネタにしたズブズブの懐古ドラマを製作可能にしたと思われる。

 この世代こそが、戦後日本を良い意味でも悪い意味でも(実は「悪い意味」の方が大きいとは思うが ^^;)代表してきた者達であるという厳然とした事実が存在しており、それより下の世代は、彼らの“後始末”をやらされるハメになっていると言って良い。呑気にノスタルジアだけに浸っていられるのも、ある意味彼らの“特権”かもしれない。

 キャスト陣については特筆するものはないが、吉岡秀隆演じる三文文士から子供を取り返そうとする大金持ちの父親に扮した小日向文世がちょっと印象的。こういう善人顔が憎まれ役をやるのは効果的で、近年悪役のオファーも目立っているのも頷ける(笑)。
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「スウォーズマン 女神復活の章」

2007-11-13 06:34:05 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The East is Red 東方不敗 風雲再起 )94年作品。前作「女神伝説の章」で東方不敗が最期(?)を遂げてから数年後、奥義書“葵花寶典”を狙ってスペイン人一行が香港沖に出現。彼らは東方不敗の墓を暴こうとするが、謎の老人があらわれ、全員を殺害する。この老人こそ蘇った東方不敗(ブリジット・リン)が変装したもので、ニセの東方不敗が次々と出現して世の中を乱していることを居合わせた朝廷の提督クー(ユ・ロングァン)から聞きつけた“彼女”は、ニセ者退治のため再び大暴れを始める。

 霧隠雷蔵(なんじゃそりゃ ^^;)率いる日本の忍者部隊が登場したり、東方不敗の元“愛人”で日月党の党首スノー(ジョイ・ウォン)が朝廷と対立したり、スペイン無敵艦隊もあらわれたりするなど、話のスケールは前作よりもデカい。しかし、映画としてほとんど盛り上がらないのは、話が行きあたりばったりに脈絡なく展開するためだ。前作のように正義の味方のような主人公が存在しないのが痛く、悪人どものバタバタとした所行を追うだけでは全然おもしろくない。

 肝心のアクション・シーンは、東方不敗が“キェーッ!”と叫ぶと船が空中に吹っ飛んだり、忍者軍団の戦艦がいきなり潜水艦になったりと、程度を知らない。気合いを入れただけで“気孔”がびゅんびゅん飛び回り敵を破壊するところなんぞ、ほとんど「ドラゴンボール」の世界だ。しかし、前作と比べあまりにもやることが派手過ぎて、見ていてアホらしくなってくるのも確か。アニメーションならいざ知らず、実写でこれをやると、生身の人間がSFXの賑やかさに付いて行けなくなってしまう。

 で、観る価値はないかというとそうでもない。目玉はブリジット・リンとジョイ・ウォンのほとんど倒錯的なレズ(?)シーンだ。ねっとりと舌を絡み合わせて悶える場面なんぞは、裸体を見せないにもかかわらず、そこらのAVが束になってもかなわないぐらいスケベでワイセツ。それにしてもこの頃のジョイ・ウォンの美しいこと! 生意気でお転婆な“地”が出る現代劇では魅力を出しにくいが、こういうコスチューム・プレイでの彼女は鳥肌ザックリの妖しい美貌を見せる。うーむ、やっぱりアジア映画は女優の宝庫だ(^^)。
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「スウォーズマン 女神伝説の章」

2007-11-12 07:27:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Swordsman 笑傲江湖 東方不敗 )93年作品。製作ツイ・ハーク、監督チン・シュウタンの「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」シリーズのスタッフが送るアクション編で、90年に製作された「スウォーズ・マン」(日本未公開)の続編である。時は明朝、秀吉に追われて大陸に逃れた武士たちと中国の武装宗教団体“日月党”の教祖・東方不敗が結託し、天下を転覆させようとたくらむ。先代の教祖の部下であった主人公・リン(リー・リンチェイ ←今のジェット・リー)と妹弟子のイー(ミッシェル・リー)らはこれを阻止せんと戦いを挑む、というのが粗筋。

 東方不敗を演ずるブリジット・リンの存在感が凄い。本来は男であったが、クンフーの伝説の奥義書“葵花寶典”をマスターするため性転換。普段は“男”として取り巻きの女たちを愛するが、“女”として主人公にも惹かれているバイセクシャルという設定だ。ブリジット自身の美貌もさることながら、宝塚の男役や男装の麗人的な性別不明の妖しい魅力を発散。ぞくぞくするほどエロティックだ。ツイ・ハークの手による作品には、強さと美しさを兼ね備えた女性がよく登場するが、今回は性を超越しているため、よりいっそうインパクトが強い。作者の性的コンプレックスをも表していると思ったりするほどだ。

 もちろん、この映画の主眼はアクション場面である。これがもう呆気にとられるほどスゴい。得意のワイヤー・アクションがかなり成功しており、どいつもこいつも当然のごとく空中を疾駆する。今回は怪しげな日本の忍者軍団も登場。ド下手な日本語が御愛敬だが、目にも止まらぬ早業の連続で気にしているヒマなどない。

 そして東方不敗の滅茶苦茶な強さ。刺繍糸と針を武器にしてバッタバッタと相手をなぎ倒す“彼女”に対抗し、リン側も剣やムチ、巨大な鈎爪で立ち向かう。蘇った先代教祖の“吸精大法”みたいな荒唐無稽な必殺技も飛び出し、これでもかこれでもかと壮絶なバトルを繰り広げる出演者の頑張りには頭が下がる。

 ラストでは東方不敗は(とりあえずは)海に消えるのだが、また別の勢力が台頭し、国内に居られなくなった主人公たちは日本に逃げるシーンで終わる。そういえばツイ・ハークの映画の最後は活劇らしいスカッとした爽快感には無縁だ。娯楽映画の作り手としては、微妙な屈折感を持ち合わせていて興味深い。
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「犯人に告ぐ」

2007-11-11 06:47:04 | 映画の感想(は行)

 ミステリー映画としてはまるで物足りないシャシンである。連続児童誘拐殺人事件の犯人と、過去に同じような事件に関わった挙げ句失敗して左遷されていた刑事の攻防戦を描く犯罪ドラマ。雫井脩介の同名小説の映像化だ。

 瀧本智行の演出は正攻法で、捜査本部長として抜擢された主人公がニュース番組で犯人を挑発するというイレギュラーなプロットに対しても、奇を衒うことなく粛々とシナリオをこなしてゆく。柴主高秀のカメラによる、彩度を極度に落としたドキュメンタリー・タッチの映像も印象的だ。しかし、原作(私は未読)が長いせいかこの映画版では焦点が絞り切れていない。

 本作の面白さはマスコミを利用して犯人を逮捕しようとする「劇場型捜査」にあるはずだ。よって、物語のハイライトは主人公と犯人との虚々実々の駆け引きにあるべきだが、なぜかストーリーは警察内部の縄張り争いやマスコミ同士のせめぎ合い等を中心に進んでゆく。「踊る大捜査線」あたりを真似たようなアプローチで、これはこれで描くネタが存在することは認めつつも、肝心の犯人の屈託ぶりは微塵も窺えない。そして主人公の精神的バックグラウンドも描出されていない。

 ならばその警察内のゴタゴタが面白いかといえばそうでもなく、ありきたりの“主導権をめぐるメンツの対立”であり、こんなのは過去いくらでも映画やドラマで取り上げられた題材であって新味は全くない。それでも興味を引くような展開があればいいのだが、これも肩透かし。逆に主人公と対立する幹部連中の間抜けぶりがクローズアップされるだけで・・・・要するに“面白くない”のである。

 そして、犯人を追いつめるプロセスにしても低レベルかつ御都合主義的だ。だいたい、犯人からの手紙に手形の一部が付いていて云々という設定も取って付けたようなハナシであり、その手紙の“書き手”に関するプロットも安易極まりない。さらに犯人が手紙を“紛失”する経緯に至っては、観客をバカにしているとしか思えない筋書きだ。

 それでも何とか最後まで観ていられたのは、キャストの頑張りだろう。刑事役は珍しい豊川悦司は大熱演で、大柄な大根役者としての印象が先行している彼だが(笑)、今回は“勢い”を主眼とする役作りのためか外見的な存在感だけで乗り切っている。彼をサポートする巡査長役の笹野高史も味のある好演。上司役の石橋凌は不貞不貞しくて良いし、キャスターに扮する崔洋一も“意外な”うまさを見せる。ただし、主人公と対立するエリート警視役の小澤征悦とその元カノのニュースキャスターに扮する片岡礼子の扱いはつまらない。俳優の持ち味を発揮できる配役に腐心すべきであった。

 WOWOWが新たに立ち上げた劇場用映画レーベル「WOWOW FILMS」の第一弾作品。今後は既存の映画会社とは一味違う番組展開を期待したい。
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