咲とその夫

 定年退職後、「咲」と共に第二の人生を謳歌しながら、趣味のグラウンド・ゴルフに没頭。
 週末にちょこっと競馬も。
 

剣の天地・・・・池波正太郎

2011-01-19 22:31:31 | レビュー
 昨年の初冬から、後に剣聖と謳われた「新陰流」の創始者“上泉伊勢守”(上泉信綱)の生きざまに関する小説を読み始めた。

 著者は、大好きな「池波正太郎」・・・・・どの本も導入部分が面白く直ぐにハマってしまう池波小説。

 さて、剣の奥義などについての知識に乏しく、“新陰流の創始者”なのこの人物が・・・・新陰流とは、柳生宗厳(号:石舟斎)があみだしたものと思っていた。

 まさか柳生宗厳が、上泉伊勢守(上泉信綱)に弟子入りして柳生新陰流を興したとは知らなかった。

 このような人物が戦国時代に生きていたのかとの想いで興味がわき、この小説「剣の天地」を買い求め読み始めた・・・・・途中、いろいろなこともあって再三中断しながらやっと読み終えた。

 そもそも、この小説「上下」巻を「上中下」と勘違いして「上下下」と買ってしまうそそっかしいことがあった・・・・・・我が家に帰り、後日気がつく。



「剣の天地」(上巻・下巻)(新潮文庫)


 上泉伊勢守は上州大胡の城主で、平井城主関東管領上杉憲政に属していた箕輪城主長野業正(小説では業政)と同盟関係にあった・・・・・あるいは、家臣ともいわれている。

 上泉伊勢守は「上州十六人の槍」とか「上州の一本槍」と呼ばれる技量の持ち主・・・・・剣は勿論。

 上泉伊勢守や長野業正は、北条氏康、武田信玄、長尾景虎(上杉謙信)などの関東制覇の野望の中で翻弄されている豪族であった。

 ところが、関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れ、憲政は長尾景虎を頼って越後に行き後に上杉の名前と関東管領職を譲り渡す・・・・・箕輪城主長野業正にとっては、屈辱的な憲政の行為と捉えるも長尾景虎(上杉謙信)は業正を頼りにすることから、伊勢守共々長尾景虎(上杉謙信)に好意を持ち共に北条・武田と相対することとなる。

 しかし、長尾景虎(上杉謙信)は早々関東へ出向くことができないため、北条の勢力もさらに拡大、また、甲斐の武田も北条と結び関東への勢力拡大を画策する。

 小幡城主小幡信貞(業正の長女が正室)は、業正と同盟関係にあったが見限って甲斐の武田につくが、一族の小幡図書之介(業正の次女が正室)は、業正と計って謀略により小幡信貞を追放する。

 後に業正が亡くなると小幡信貞が武田の力を借りて、小幡図書之介を打ち滅ぼし次いで業正の跡取り業盛を攻める。

 武田軍に包囲された箕輪城では、上杉軍の応援が間に合わず、ついに長野業盛と上泉伊勢守は覚悟を決めた・・・・・長野業盛が城外に打って出て敵の首を上げた後、城に戻りとても勝ち目がないと悟る。

 長野業盛は、上泉伊勢守に「これまでの、御心入れ、かたじけなく存じまする」と礼を述べて、妻の待つ持仏堂へ向かい自害して果てた。
 これにより、長野一族は滅んでしまった。


 本丸の館が黒煙と炎をふき出しはじめる中、上泉伊勢守は家臣の疋田文五郎(景兼)を呼び「これより打って出る。これが最期じゃ。われらのみにて打って出よう。」

 「家来たちをあつめよ」と・・・・・・。


 上泉伊勢守に続き疋田文五郎、業盛の家来の神後伊豆守など総勢140名が城から打って出た・・・・・武田信玄本陣の7000と相対すると信玄の家臣穴山伊豆守信君がやって来た。

 「それがしは、穴山伊豆守と申す」名乗って、馬から下りた。

 上泉伊勢守も馬から下り、

 「上泉秀綱でござる」

 穴山信君は、武田信玄の言葉を伝えた。

 「もはや、箕輪の城は落ちた。この上、無益な戦をいたしたところで何になろう」
 
 もっともなことだ、と、伊勢守はおもった。

 
 かくしてこの戦は終わった。


 後日談、武勇名高い上泉伊勢守に信玄は自分に仕えないかといったらしいが、伊勢守はこれを機に剣の道を究めたい進言した。すると信玄は止むなしと思い、伊勢守秀綱に「信」の一字を与え以後「秀綱」は「信綱」に改めたという。

 伊勢守は、疋田文五郎、神後伊豆守を伴い剣の道を究めるため、諸国へ旅立った・・・・・文五郎のみを伴うつもりであったが、神後伊豆守に懇願された。

 なお、長野家の家来たちの多くは信玄に仕えたらしい。伊勢守の家来は、伊勢守の跡取りの常陸介秀胤に上泉の家と大胡の城が譲られたのでこれに仕えた。

 「伊勢守の兵法(ひょうほう)は、人と戦い、人を殺傷するためのものではなく、却って人の心身を活かすためのものとなる。すなわち、“活人剣”である。」と、文中にあり、これこそが、伊勢守の兵法(ひょうほう)の真髄である。

 伊勢守一行は、諸国を巡るうちに「一手ご指南を・・・」と、試合を申し込まれるが一切受け付けなかった・・・・・疋田文五郎、神後伊豆守に剣の型を見せ、自分の剣の道を語った。


 ところが、柳生宗厳(号:石舟斎)とは、剣に対する考え方や柳生家の人に対する考え方などが気に入り、疋田文五郎に立ち会わせる。しかし、宗厳は敗れ伊勢守の弟子となる。

 後年、宗厳は伊勢守から「新陰流」の奥義を皆伝印可される。そして、ご存知の「柳生新陰流」の流派を興すこととなる。

 この物語では、上巻から上泉伊勢守に挑み片目を潰された十河九郎兵衛が出てくる。そして、門人と共に伊勢守に挑み続けるが、後段で遂に伊勢守と九郎兵衛及びその門人・家来との死闘が描かれている・・・・・戦国の世の兵法者であれば、もちろん、刀・槍・馬の三術は一体とならねばならぬ。


 「このときから、上泉伊勢守の消息を、世の人びとは耳にしなかったようである。」と完結へ・・・・・。

 この小説を読みながら、剣聖(達人)とはこのような生き方を望むことなのかと、人の生きる道を諭されたような気分になり、清々しい思いにさせられた。(夫)


 参考資料:「剣の天地」「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」


[追 記]
 ①上泉信綱は、上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ、大胡城の西南2里の所にある桂萱郷・上泉に住んだ上泉氏の出身。
 上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して」新陰流を大成した。
 信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後伊豆守、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。
 剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。

 ②柳生宗厳は、はじめ富田流の戸田一刀斎、次いで新当流の神取新十郎に剣術を学んで名を挙げていたという。1563年(永禄6年)、新陰流の上泉信綱と出会い、試合を申し込んだが、宗厳は信綱どころか、彼の弟子・疋田景兼にすら勝てなかった。このため、宗厳は己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、1565年(永禄8年8月)に皆伝印可、1571年(元亀2年3月~6月まで)滞在していた信綱から一国一人の印可を受けるまでにいたった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


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