ヨハネ5・8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。……その日は安息日であった。
ベテスダの池の周りには多くの病人が横たわっていました。その理由は……、
「時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」と説明されています(5・3~4 口語訳・新共同訳を参照)。
その病人たちの中に、38年間も病んでいた男がいました。彼も、池の水が動くのを待っている者のひとりでした。
イエス様はその男に、「なおりたいのか」とたずねたのですが、彼は素直に「はい、なおりたいです」と言えなくて、「水が動くときに、私を池に入れてくれる人がいません」と愚痴ってしまいました。
はじめの頃は、池に入れてあげようと待ちかまえる友人もいたのでしょうが、やがて友も去り、今では自分を水の中に入れてくれる人が現れるのを期待するだけになっていました。
あるいは、水が動いたのですが、その日が安息日であり、律法違反を恐れた友人は、彼を池に運ぶことを躊躇したのかも知れません。 ※ユダヤ人は律法の規定に従って、安息日にいっさいの労働を禁じていた。池に男を運び入れるのも当然、安息日の律法に違反する行為である。
さて、ここにも「水」が出てきました。水は神の御言です。その視点で読み解いて行くと、5章は興味深いものになります。
それは、38年間もベテスダの池の水(神の御言)が動き出すのを待っていた男の話です。神の御言は動き出せば、病をもいやすのですが、ベテスダの池のように動きもせず、固定されたままだと、何の力も発揮することができません。動き出さない御言の前で多くの病人たちが横たわっている姿は、当時のユダヤ教の現状をあらわしているかのようです。 ※ベテスダの池は五角形をした池。〝五〟は律法であるモーセ五書を想起させる。
神の御言にはいのちがないのでしょうか。いやしの力がないのでしょうか。ヨハネ福音書の冒頭のことばを思い出してください。神の御言は「いのち」であると宣言されていました。
だから、神の御言が動き出すとき、御言に伴うしるしがあらわれます。
しかし、ユダヤ教の人々は、御言が動かないように固定していました※。まさに安息日規定はその象徴です。安息日には何もしてはならないと解釈し、さまざまな規則で人々を縛り、神の働きさえも縛っていました。 ※旧約では高名なラビたちによる律法解釈があり、それを〝ミシュナ〟と呼ぶ。後に文書化されるが、イエス当時は口伝律法であった。「神の御言を先祖たちの〝言い伝え〟によって空文にしている」の〝言い伝え〟は、このミシュナのこと。更に、ミシュナの解釈体系が〝ゲマラ〟。更に、その解説書が〝タルムード〟である。まるで、御言が動かないようにするかの如く、歴代の解釈が幾重にも取り囲んでいた。まるでベテスダの池だ。
律法の第4戒は、「安息日を覚えてこれを聖とせよ。この日は何のわざもしてはならない」です。ユダヤ教では、これを厳密に守るために、いっさいの労働を禁じました。
何㎞以上歩いてはならない、何㎏以上の物を持ってはならない、何個以上文字を書いてはならない、踵(かかと)を引きずって歩いてはならない。土地をたがやすことになるからです。これらは労働とみなされ、安息日違反でした。
「真理はあなた方を自由にする」とイエスが言われたように(8・31)、本来、神の御言は人をしばるのものではなく、自由にするものです。
あなたにとって、神の御言が自分を束縛するものになっていますか。そうであれば、その御言はあなたにとって律法になっています。律法はいのちをもたらしません。律法は、神の「ことば」を固定し、人の動きを固定します。
ちょうど、ベテスダの池とその周辺に集まった病人たちのようです。
ベテスダの池の周りには多くの病人が横たわっていました。その理由は……、
「時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」と説明されています(5・3~4 口語訳・新共同訳を参照)。
その病人たちの中に、38年間も病んでいた男がいました。彼も、池の水が動くのを待っている者のひとりでした。
イエス様はその男に、「なおりたいのか」とたずねたのですが、彼は素直に「はい、なおりたいです」と言えなくて、「水が動くときに、私を池に入れてくれる人がいません」と愚痴ってしまいました。
はじめの頃は、池に入れてあげようと待ちかまえる友人もいたのでしょうが、やがて友も去り、今では自分を水の中に入れてくれる人が現れるのを期待するだけになっていました。
あるいは、水が動いたのですが、その日が安息日であり、律法違反を恐れた友人は、彼を池に運ぶことを躊躇したのかも知れません。 ※ユダヤ人は律法の規定に従って、安息日にいっさいの労働を禁じていた。池に男を運び入れるのも当然、安息日の律法に違反する行為である。
さて、ここにも「水」が出てきました。水は神の御言です。その視点で読み解いて行くと、5章は興味深いものになります。
それは、38年間もベテスダの池の水(神の御言)が動き出すのを待っていた男の話です。神の御言は動き出せば、病をもいやすのですが、ベテスダの池のように動きもせず、固定されたままだと、何の力も発揮することができません。動き出さない御言の前で多くの病人たちが横たわっている姿は、当時のユダヤ教の現状をあらわしているかのようです。 ※ベテスダの池は五角形をした池。〝五〟は律法であるモーセ五書を想起させる。
神の御言にはいのちがないのでしょうか。いやしの力がないのでしょうか。ヨハネ福音書の冒頭のことばを思い出してください。神の御言は「いのち」であると宣言されていました。
だから、神の御言が動き出すとき、御言に伴うしるしがあらわれます。
しかし、ユダヤ教の人々は、御言が動かないように固定していました※。まさに安息日規定はその象徴です。安息日には何もしてはならないと解釈し、さまざまな規則で人々を縛り、神の働きさえも縛っていました。 ※旧約では高名なラビたちによる律法解釈があり、それを〝ミシュナ〟と呼ぶ。後に文書化されるが、イエス当時は口伝律法であった。「神の御言を先祖たちの〝言い伝え〟によって空文にしている」の〝言い伝え〟は、このミシュナのこと。更に、ミシュナの解釈体系が〝ゲマラ〟。更に、その解説書が〝タルムード〟である。まるで、御言が動かないようにするかの如く、歴代の解釈が幾重にも取り囲んでいた。まるでベテスダの池だ。
律法の第4戒は、「安息日を覚えてこれを聖とせよ。この日は何のわざもしてはならない」です。ユダヤ教では、これを厳密に守るために、いっさいの労働を禁じました。
何㎞以上歩いてはならない、何㎏以上の物を持ってはならない、何個以上文字を書いてはならない、踵(かかと)を引きずって歩いてはならない。土地をたがやすことになるからです。これらは労働とみなされ、安息日違反でした。
「真理はあなた方を自由にする」とイエスが言われたように(8・31)、本来、神の御言は人をしばるのものではなく、自由にするものです。
あなたにとって、神の御言が自分を束縛するものになっていますか。そうであれば、その御言はあなたにとって律法になっています。律法はいのちをもたらしません。律法は、神の「ことば」を固定し、人の動きを固定します。
ちょうど、ベテスダの池とその周辺に集まった病人たちのようです。
神の御言は、私たちが動きだす原動力であるはずです。神の御言に従って私が動き出すとき、神の御言も動き出します。神の御言が動き出すとき、神の御言に伴うしるしも動き出します。こうして〝水〟が動くのです。
イエス様は38年も病んでいる男に、「床を取り上げて歩け」と言われました。この日は安息日でした(5・8~9)。その日が安息日であるのを承知の上で言われました。
男の脳裏には「安息日には動いてはならない」という固定概念が浮かんだことでしょう。あるいは、「38年も病気なんだ。そう簡単に歩けるはずがない」という否定的な考えが浮かんだことでしょう。
そういう考えが、神の御言を固定化し、神の御言を動かなくしています。その結果、何の変化も生じないのです。
しかし、彼は、イエス様の御言を聞いて動き出しました。この時、象徴的な意味で「ベテスダの池の水」が動き出しました。そして男はいやされました。
固定概念や否定的な考えが、神の御言が動きだすのを妨げていないだろうか。あのベテスダの池にたたずむ人々のように、ただ御言が動き出すのを待っているだけになっていないだろうか。
祈りましょう。御言が動くのを待つのではなく、御言に従って動き出す者にしてください。
◆◆◆◆◆
ユダヤ教上層部を逆なでするかのように、イエスは意図的に安息日に御業をなさっています。案の定、彼らはイエスを殺そうと画策し始めました(5・18)。
いったいイエスとは何者なのか。神を自分の父と呼んでいるが、本当の神の御子なのか。キリストなのか。そんな疑念が吹き上がってきたわけです。それに対する証言が5章19節以降で語られています。
第一は、イエスご自身の証言です(19~30)。ご自分は天の父の御心のままに語り、天の御父がなさるように働いているのだ。そして、すべてのさばきの権威は御父が御子にお与えになったのだ……と。
次は、バプテスマのヨハネによる証言です(31~35)。彼は、イエスが来たるべきキリストであると証言しました。その根拠は、御霊がイエスにくだり留まるのを見たからだと証言しています。その内容は本書の1章で述べられています。
三つめの証言は父なる神が御子イエスにあらわされた御業です(36~38)。御父ご自身も証言を語っておられるのですが、特定の人にしか聞き取れないようです。「これはわたしの愛する子だ」との証言も、信じない人には雷が鳴ったと思われたようです(ヨハネ12・29)。
四つめの証言は聖書そのものがイエスを証言しています(39~47)。「あなた方は、聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べているが、この聖書は、わたしについて証しするものである」と記されている通りです。聖書を読めばイエスこそキリストであると分かるはずですし、このイエスにこそ永遠のいのちがあることを知るのです。
聖書に記された「キリスト預言」を読み解けば、預言通りに来られたキリストは、ナザレのイエスであることは明白です。イエスはキリストだと告白する者に祝福あれ。
<朗読配信_Spotify> ヨハネ福音書 5章 • 朝マナPodcast (spotify.com)
<You Tube> 【一日一章】朝マナ ヨハネ福音書 5章【聖書通読】 (youtube.com)
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