ルカ22:32 わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエス様が十字架にかかられる前夜、主は弟子たちのために、特にシモン・ペテロのために祈られました。なぜなら、サタンがシモンを誘惑することを神に願い出てゆるされたからです。
主は、シモン・ペテロにこう言われました。「シモンよ。サタンはあなた方を麦のように篩(ふるい)にかけることを願って許された」(22・31)。
どうしてですか、イエス様。私たちがサタンの試みに遭(あ)わないように祈ってくださらないのですか。そう訴えたくなるところです。
(1)すべては神のご支配の下にある。
この時、サタンはシモン・ペテロを麦のようにふるいにかけることを神に願った、とあります。
元々サタンは、たえず人間を誘惑しようと虎視眈々(こしたんたん)とねらっていますが、それはサタンが思う存分にできることではなく、神のご支配の下にあるのであって、神のゆるしがなければ、サタンは何ひとつできません。
ですから、どんな試練も、神はこのことを重々ご承知です。すべてが神のご支配の中にあることを忘れてはなりません。
預言者エリシャのしもべが、スリヤの大軍に包囲されたのを見たとき恐れました。しかし、しもべの心の目がひらかれると、スリヤ軍を取り囲んでいる天の軍勢が見えました(列王下6・15~17)。
そのように、サタンの働きがどんなに激しくても、それ以上の大きな御手がそのまわりを取り囲んでいます。ならば、必ず解決の道があるし、このことに意味と目的があるのです。
神は、あえてサタンの働きを阻止なさらない場合があります。天の父は、神の子どもたちを失敗させまいと、過保護な親のように至れり尽くせりなさるお方ではありません。
あの放蕩息子のことを思いだしてください。財産を受け取って町に行く息子を、父親は止めませんでした。あえてやらせました。とはいえ、無関心に放っておいたのではありません。あの息子が戻ってきたとき、父親は彼を見つけて、走り寄って迎えました。なぜそうできたのでしょうか。父は息子が悔い改めて戻ってくるのを信じて、いつも関心をもって、町へつづく道を見ていたからです。
これは、息子が堕落するであろうことを予測しつつも、悔い改めて戻ってくることを信じて待ち続けてくださる神の姿です。
(2)神はサタンの働きさえも用いて訓練となさる。
神は、私たちを温室育ちでひ弱な神の子どもにしようとはなさいません。サタンの働きを用いて、私たちに罪の恐ろしさを学ばせます。
私の息子が小さい頃のことです。息子がストーブで火傷(やけど)をしないように、私はあえてその子の手をストーブ近づけさせて怖さを教えました。こうして、子供は火の怖さを学習します。
天の父も、神の子どもたちに、あえてサタンの攻撃を経験させます。それは、私たちに罪の怖さを学習させ、私たちを罪に勝利するきよい者へと成長させるためです。
シモン・ペテロもこの訓練を受けました。イエス様の予告どおり、この後、ペテロはサタンの攻撃を受けて、イエスを知らないと、三度否定してしまいました。サタンによって篩(ふるい)にかけられたわけです。
サタンはこのことによって、教会指導者としてのペテロの立場も心意気も打ち砕いてしまいました。
しかし、ペテロは、このことを通して、自分の弱さを徹底的に知らされることになりました。そして、人の弱さを思いやることのできる指導者として、土台から変えられました。
こうして、ペテロは謙遜を学びました。十字架以前のペテロには ……他の弟子たちもそうですが……高慢がいつも見え隠れしていました。神は、私たちに謙遜と従順を学ばせるために、サタンの攻撃をゆるされることがあるのです。
苦しみにあったことは私にとって良いことでした。それを通して、神のおきてを学ぶことができたからです(詩119・71)。
(3)信仰がなくならないように祈ってくださる。
どんなにつらい中にあっても、信仰だけは失わないように、主は祈ってくださっています(22・32)。信仰こそ私を救う道です。他のどんなものも、イエスを信じる信仰に代えることができません。
しかし、私たちの中には信仰以外の何かを頼って救いを得ようとする要素が残っていないだろうか。
それは信仰に不純物が入っている状態です。ガソリンも不純物が入っていると力強く燃焼しません。同じように、信仰にも混ぜ物が入っていると、信仰の力が現れません。
そんな信仰の矛盾点を、サタンは篩(ふるい)にかけるようにして揺さぶってきます。
サタンは私から信仰をふるい落とそうと揺さぶります。しかし、イエス様はその揺さぶりを用いて、信仰以外の不純物がふるい落とされ、信仰だけが残るように祈っておられます。
私たちも祈りましょう。天国へ行くまでの地上での旅路を通して、どうか私の中から不純物を取り除いてください。純粋な主への信仰だけが残るようにしてください。
◆◆◆◆◆◆
その後、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。それは、これから受けるべき十字架の苦しみを引き受けるために天からの力が必要だったからです。神の御子といえども、その苦しみは生身の肉体が受けるのですから、あまりにも恐ろしいことです。
突然、予想だにしない事故で死ぬのであれば、一瞬の苦しみかもしれません。しかし、これから殺されることを知ってそれを引き受けるのは、どんなに恐ろしいことでしょうか。
これが、キリストに与えられた神の御心だと分かっていても、従うには天からの力が必要です。
「御心が行われますように」と私たちは求めますが、御心は心地良いことばかりとは限りせん。時には苦難かも知れません。それをイエスは「苦(にが)い盃」といわれました。そして、それを飲むために「苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」のです(22・44)。
私たちも、イエスの祈りに続く者たちです。やがて苦難の時、迫害の時代が来るでしょう。そんな時だからこそ、神の御心に従うことができるようにと、天からの力を求めて祈るのです。
すると、どうでしょう。イエス様が祈っておられると、「御使が天からあらわれてイエスを力づけた」と記されています(22・43)。何という励ましでしょう。何という恵みでしょう。私たちが祈る時に天使も共に働いてくれるのです。普段は見えないだけです。
祈りは孤独のようですが、そうではありません。天使たちが総動員されて、祈りを持ち運び、祈りの実現のために働き、私たちを励ましてくれるのです。こんなすばらしい光景が、見えないところで展開されているなんて、ワクワクしませんか。ですから、失望せずに絶えず祈るのです。
イエス様が十字架にかかられる前夜、主は弟子たちのために、特にシモン・ペテロのために祈られました。なぜなら、サタンがシモンを誘惑することを神に願い出てゆるされたからです。
主は、シモン・ペテロにこう言われました。「シモンよ。サタンはあなた方を麦のように篩(ふるい)にかけることを願って許された」(22・31)。
どうしてですか、イエス様。私たちがサタンの試みに遭(あ)わないように祈ってくださらないのですか。そう訴えたくなるところです。
(1)すべては神のご支配の下にある。
この時、サタンはシモン・ペテロを麦のようにふるいにかけることを神に願った、とあります。
元々サタンは、たえず人間を誘惑しようと虎視眈々(こしたんたん)とねらっていますが、それはサタンが思う存分にできることではなく、神のご支配の下にあるのであって、神のゆるしがなければ、サタンは何ひとつできません。
ですから、どんな試練も、神はこのことを重々ご承知です。すべてが神のご支配の中にあることを忘れてはなりません。
預言者エリシャのしもべが、スリヤの大軍に包囲されたのを見たとき恐れました。しかし、しもべの心の目がひらかれると、スリヤ軍を取り囲んでいる天の軍勢が見えました(列王下6・15~17)。
そのように、サタンの働きがどんなに激しくても、それ以上の大きな御手がそのまわりを取り囲んでいます。ならば、必ず解決の道があるし、このことに意味と目的があるのです。
神は、あえてサタンの働きを阻止なさらない場合があります。天の父は、神の子どもたちを失敗させまいと、過保護な親のように至れり尽くせりなさるお方ではありません。
あの放蕩息子のことを思いだしてください。財産を受け取って町に行く息子を、父親は止めませんでした。あえてやらせました。とはいえ、無関心に放っておいたのではありません。あの息子が戻ってきたとき、父親は彼を見つけて、走り寄って迎えました。なぜそうできたのでしょうか。父は息子が悔い改めて戻ってくるのを信じて、いつも関心をもって、町へつづく道を見ていたからです。
これは、息子が堕落するであろうことを予測しつつも、悔い改めて戻ってくることを信じて待ち続けてくださる神の姿です。
(2)神はサタンの働きさえも用いて訓練となさる。
神は、私たちを温室育ちでひ弱な神の子どもにしようとはなさいません。サタンの働きを用いて、私たちに罪の恐ろしさを学ばせます。
私の息子が小さい頃のことです。息子がストーブで火傷(やけど)をしないように、私はあえてその子の手をストーブ近づけさせて怖さを教えました。こうして、子供は火の怖さを学習します。
天の父も、神の子どもたちに、あえてサタンの攻撃を経験させます。それは、私たちに罪の怖さを学習させ、私たちを罪に勝利するきよい者へと成長させるためです。
シモン・ペテロもこの訓練を受けました。イエス様の予告どおり、この後、ペテロはサタンの攻撃を受けて、イエスを知らないと、三度否定してしまいました。サタンによって篩(ふるい)にかけられたわけです。
サタンはこのことによって、教会指導者としてのペテロの立場も心意気も打ち砕いてしまいました。
しかし、ペテロは、このことを通して、自分の弱さを徹底的に知らされることになりました。そして、人の弱さを思いやることのできる指導者として、土台から変えられました。
こうして、ペテロは謙遜を学びました。十字架以前のペテロには ……他の弟子たちもそうですが……高慢がいつも見え隠れしていました。神は、私たちに謙遜と従順を学ばせるために、サタンの攻撃をゆるされることがあるのです。
苦しみにあったことは私にとって良いことでした。それを通して、神のおきてを学ぶことができたからです(詩119・71)。
(3)信仰がなくならないように祈ってくださる。
どんなにつらい中にあっても、信仰だけは失わないように、主は祈ってくださっています(22・32)。信仰こそ私を救う道です。他のどんなものも、イエスを信じる信仰に代えることができません。
しかし、私たちの中には信仰以外の何かを頼って救いを得ようとする要素が残っていないだろうか。
それは信仰に不純物が入っている状態です。ガソリンも不純物が入っていると力強く燃焼しません。同じように、信仰にも混ぜ物が入っていると、信仰の力が現れません。
そんな信仰の矛盾点を、サタンは篩(ふるい)にかけるようにして揺さぶってきます。
サタンは私から信仰をふるい落とそうと揺さぶります。しかし、イエス様はその揺さぶりを用いて、信仰以外の不純物がふるい落とされ、信仰だけが残るように祈っておられます。
私たちも祈りましょう。天国へ行くまでの地上での旅路を通して、どうか私の中から不純物を取り除いてください。純粋な主への信仰だけが残るようにしてください。
◆◆◆◆◆◆
その後、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。それは、これから受けるべき十字架の苦しみを引き受けるために天からの力が必要だったからです。神の御子といえども、その苦しみは生身の肉体が受けるのですから、あまりにも恐ろしいことです。
突然、予想だにしない事故で死ぬのであれば、一瞬の苦しみかもしれません。しかし、これから殺されることを知ってそれを引き受けるのは、どんなに恐ろしいことでしょうか。
これが、キリストに与えられた神の御心だと分かっていても、従うには天からの力が必要です。
「御心が行われますように」と私たちは求めますが、御心は心地良いことばかりとは限りせん。時には苦難かも知れません。それをイエスは「苦(にが)い盃」といわれました。そして、それを飲むために「苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」のです(22・44)。
私たちも、イエスの祈りに続く者たちです。やがて苦難の時、迫害の時代が来るでしょう。そんな時だからこそ、神の御心に従うことができるようにと、天からの力を求めて祈るのです。
すると、どうでしょう。イエス様が祈っておられると、「御使が天からあらわれてイエスを力づけた」と記されています(22・43)。何という励ましでしょう。何という恵みでしょう。私たちが祈る時に天使も共に働いてくれるのです。普段は見えないだけです。
祈りは孤独のようですが、そうではありません。天使たちが総動員されて、祈りを持ち運び、祈りの実現のために働き、私たちを励ましてくれるのです。こんなすばらしい光景が、見えないところで展開されているなんて、ワクワクしませんか。ですから、失望せずに絶えず祈るのです。
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