エステル記10:3 ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。
エステル記の最後は、一連の功績の故にモルデカイが王の右の座につく者となったことで、物語は終わっています。「アハシュエロス王に次ぐ者」とは、総理大臣のような立場のことで、王の信任を受けて国政を任せられる立場です。
国政のトップに一気に登りつめる……という物語は、モルデカイだけではありません。エジプトに奴隷として売られたヨセフもそうでした。彼は冤罪で投獄されていたのですが、王の夢を説き明かしたことで、その能力をかわれて王の右の座につきました。
バビロン捕囚でとらわれ投獄されたエホヤキンも、37年を経て解放され、それ以後バビロンの王と食事を共にする者になりました。
それらは、キリストの十字架の死と復活と昇天を表す出来事です。キリストは十字架で死なれて、黄泉(よみ)にまで下って行かれました。しかし、3日目に復活し、天に引き上げられ神の右の座につき、いっさいの権威をお受けになりました。
ヨセフ、エホヤキン、モルデカイ……彼らの体験は、キリストが天で神の右の座につかれる事を予表しています。そして、そのように高く引き上げられる前は、身を低くする経験を経なければならないことを表しています。
これは、キリストを信じて、キリストの御足跡につづく私たちも経なければならない経過です。
ここに一貫した原則があります。それは、「身を低くする者を、神は高く引き上げられる」という原則です。キリストの十字架の死はその究極の姿です。キリストは父なる神の御心に、死に至るまで従順して、身を低くされました。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」のです(ピリピ2:6-8)。
その結果、どうなったのでしょうか。
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:9-11)。
私たち人間も、キリストが歩まれたように、身を低くして天に入るように定められています。身を低くしない人は天国に相応しくありません。「狭い門から入りなさい」とは、身を低くして入りなさいという意味です。
多くの人にとって身を低くするのは不得手なことです。身を低くするよりは、胸をはって堂々と広い門をくぐりたいのです。しかし、狭い門は身をかがめ、しもべのような姿にならなければ通ることが出来ません。
モルデカイは神の御前に身を低くした人です。ハマンを礼拝することを拒否して、ただひたすら神のみを礼拝しました。その結果、迫害を受けました。迫害によって「死」を経験しました。
しかし、神は、そのようなモルデカイを放っておかれません。彼を高く引き上げて、王に次ぐ者となさいました。
聖書はこう証ししています。「あなた方は、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」(Ⅱペテロ5:6)。モルデカイに続こう。キリストの御足跡に続こう。(Ω)
エステル記9:1 この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。(新改訳)
ユダヤ人に救いを与える新しい法律がペルシャの全地に伝えられました。この法律は、先の法律……ユダヤ人を死に定める法律を凌駕する法であったことは、前章で見たとおりです。
新しい法は、敵に対して攻撃する権利を与えるものでした。しかも、王の後ろ盾があるのです。つまり、王の権威をもって成せと言われているわけです。
いよいよ法執行の日である12月13日になりました。冒頭の聖句の「この日」がそれです。ふたを開けるや形勢は大逆転。ユダヤ人を滅ぼそうとする勢力より、ユダヤ人と一緒になって立ち向かおうとする勢力の方が圧倒的に多かったのです。
今日の御言の通りです。「この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった」(9:1)。 ※新共同訳では「逆転して」。口語訳は「かえって」。
新しい法に従って、ユダヤ人たちは敵に立ち向かったからです。
新約における新しい法は何でしたか。福音です。イエス・キリストにある者は罪に定められないという法です。罪の結果である死に勝利するという法です。私たちは、この法に従って悪魔に立ち向かうのでし。
ペルシャで新しい法が発布されたにもかかわらず、ユダヤ人に敵対する者たちがいました。そのように、いつの時代にも、福音を認めずに敵対する悪魔の働きはあります。しかし、この敵対する者どもを恐れてはなりません。立ち向かうべきです。
福音という法はふたつの面があります。ひとつは「罪のゆるし」です。罪のゆるしがあるので、私たちは滅ぼされることがありません。もうひとつは「罪に対する勝利」です。いまもなお、私たちを攻撃して、罪の世界に引きずり込もうとする悪魔に対して勝利する法です。
罪のゆるしだけが福音のすべてではありません。悪魔に立ち向かって勝利する生活も、福音の大切な内容です。前半部分にとどまり、後半部分をないがしろにしてはなりません。
私たちには神の御国の王の後ろ盾があります。権威があります。イエスの名によって戦う力が与えられています。これを使わないで、悪魔にやられっぱなしの生活は、福音の恵みのほんの少しを味わっただけです。デパ地下に行って試食だけした者のようです。
さあ、新しい法である福音のすべてを味わおうではないですか?。聖霊の助けを得てそうしましょう。(Ω)
エステル記8:17 いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。
敵であるハマンは滅ぼされましたが、それで問題が解決したわけではありません。
すでに、ハマンによって作成され、王の名で発布された先の法律はペルシャ全土に及んでいるからです。期限の12月13日になれば、ユダヤ人を殺害しても良いという法律はそのまま有効です。
だからといって、先の法律を反故にするのでは、王の威信を傷つけることになるのでできません。一旦、王が命令したことは絶対命令です。それを取り消すことができません(8:8)。
そこで、全権を任されたモルデカイは、新しい法律を王の名で発布しました。その内容は次のようなものでした。
「王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した」(8:11)。
①ユダヤ人たちは保護されるべきである。
②ユダヤ人を攻撃する者たちに対しては反撃の権利を与える。
という内容です。これによって、最初の法律を凌駕(りょうが)することになりました。
最初の法律……ユダヤ人は死に定められた……は、旧約時代の律法を象徴しています。つまり、律法は、「罪の結果は死である」と定めているのです。さばきの時が来れば永遠の滅びに引き渡されるのです。
何という恐ろしい法でしょうか。だれも、この法から逃れることができません。ユダヤ人たちが震え上がったのは、罪人である私たちの姿です。
では、新約の時代になってイエス・キリストが来られると、その律法は無効になったのでしょうか。そんなことはありません。律法は神によって定められた法ですから、取り下げるとか、変更するというわけには行きません。
新約に時代においても、今もなお、律法は有効な法です。この法の下では、誰もが罪人であり、死に定められています。
しかし、この律法という初めの法から解放される唯一の道があります。それが、イエス・キリストによってもたらされた福音です。モルデカイによって発布された新しい法は、新約時代の福音を象徴しています。
イエス・キリストの福音は、律法という法を凌駕する法律です。新しい法です。どんな罪人さえも救うことのできる法です。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなた方を解放したから」です(ローマ8:2)。
福音という律法を凌駕する法律は、すでに2千年前に、イエス・キリストによって発布されました。そして、それはイエスの弟子たちによって伝えられ、今日にいたるまで伝えられています。
モルデカイによって発布された新しい法は、急いで伝えられました。先の法が実施される前に伝えられなければなりません。ペルシャ全土の隅々まで、早く伝えられなければなりません。新しい法を知らないで、無為に殺される民が出ないためです。
今の時代もこれと同じです。最後のさばき時に、人々が罪に定められて永遠の滅びに投げ込まれる前に、新しい法であるイエス・キリストの福音が伝えられなければなりません。(Ω)
エステル記7:10 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。
いよいよその時が来ました。王とハマンは、王妃エステルの用意した酒宴の席に臨みました。この時にいたって、ようやくエステルは、自分がユダヤ人の娘であること、そのユダヤ人抹殺計画が進められていることを語りました。
「アハシュエロス王は王妃エステルに言った、『そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか』。エステルは言った、『そのあだ、その敵はこの悪いハマンです』」(7:5-6)。
この言葉を聞いたハマンは心臓が止まるような衝撃を受けたことでしょう。新改訳では「震え上がった」と記録しています。こんな大逆転に震え上がらない者がいるでしょうか。
こうして王の怒りを受けたハマンは、自分が用意した木に掛けられて処刑されたのです。ハマンはモルデカイを掛けようとして用意した木に、自分が掛かって滅ぼされてしまいました。
サタンも同じようにして滅ぼされました。
サタンは神の御子を十字架につけて滅ぼそうと考えました。自分は勝利したと思ったことでしょう。しかし、御子は罪のないお方でしたから、死より復活なさいました。そのことによって、サタンの罪と死の業(わざ)は滅ぼされてしまいました。
サタンは自分が用意した十字架で、自分を滅ぼしたのです。
ハマンは智恵者でした。最高の智恵を駆使して、最高位まで登りつめた人です。そして、緻密な計画を立てて宿敵であるユダヤ人殺害計画を実行しました。しかし、自分の計画した方法で、自分を滅ぼしました。
ハマンの策略は人としては巧妙で最高の智恵に思われました。方や、神の民であるユダヤ人たちは愚かで弱く思われました。しかし、神のなさることは大逆転です。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。
十字架で死ぬという神の愚かさは、十字架で御子を滅ぼそうとするサタンの智恵より賢いのです。十字架で死ぬという神の弱さは、サタンよりも強いのです。十字架という神の愚かさの中にこそ、智恵があり、力があります。(Ω)
エステル記6:13 するとその知者たち及び妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、即ちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
エステルが真意を王に告げるのを翌日に延ばしたこで、思わぬ展開となりました。エステルが死をもいとわずに自分に告げようとしたことは何なのか。そんなことを思いめぐらして、王は寝付けなかったのでしょう。 ※その場で言わずに、「明日、お話しします」などと言われれば、気になって寝付けないのもうなづける。
きっとエステルは翌日の会見のために夜通し祈っていたことでしょう。その祈りに応えるようにして、神はアハシュエロス王にも働きかけてくださり、眠られぬ夜を導かれたのではないかと思います。
眠られぬ夜……それは、神があなたに何かを語りかけようとなさっているのかも知れません。残念ながら私はよく眠る方ですが、妻は年に数回そのようなことがあり、祈り明かすことがあります。
眠られぬ夜、アハシュエロス王は国政を記録した年代記を持ってこさせ、それを王の前で読ませたのです。すると、モルデカイの情報提供によって、王の暗殺計画を未然に防いだ記事に心が留まりました。
王のいのちを助けたのも同然の働きに、何も報いていないことを知るや、王はモルデカイに栄誉と爵位(高貴な位につかせること)をもって報いようと考えたのです。本来なら、事件直後になされるべき事が、どうして「この時」なのか不思議です。
すべてに時があるのです。そして、神のなされることは皆その時にかなって美しいのです(伝道3:11)。
「自分は報われていない」と思っていることがあるでしょうか。報われないまま忘却の彼方に追いやられたこともあるでしょう。人は忘れてしまいます。なのに、人からの報いを期待してしまいます。
報いてくださるのは神です。
いま報われていないとすれば、神は「時」を選んでおられるのです。最適な時に、最適な方法で報いてくださるために……。モルデカイは、ユダヤ人の危機存亡のこの時に、素晴らしい方法で報われようとしています。神のなさることは、その時にかなって美しいのです。
さて、どのようにしてモルデカイに報いようかと思案する王のもとに、ハマンがやって来ました。モルデカイ処刑の許可を得るためです。
しかし、王はハマンに、「栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか」と質問をするや、ハマンは自分のことだと勘違いして、自分で考えつく限りの栄誉ある報いを提案し、「王の服を着せ、王冠をいただき、王の馬に乗ってパレードをさせる」と答えました。
すると王は、「それは良い考えだ。急いで行って、お前が提案したとおりのことをモルデカイにしなさい」と命じました。自分のことだと思っていたハマンにとっては、頭が真っ白になるような大逆転です。
自分で報いを得ようとする者の結末は、このハマンのように愚かで、赤っ恥をかくことになります。神からの報いこそ本当の報いであり、最善の報いであり、それは時にかなって美しいのです。
神はいつも、このように大逆転の展開を用意なさっています。イエスは言われました。あとの者は先になり、先の者はあとになると。また、「罪人の私をおゆるしください」と胸をたたいて祈った者を、神は義とされたのだとも言われました。
そして、自分で自分のいのちを救おうとする者はそのいのちを失い。主のためにいのちを捨てる者は、永遠のいのちを得るのだとも言われました。
そのように教えられたイエス様は、十字架で死なれましたが、3日後に復活されました。神の方法は、いつもこのような大逆転です。
雲行きが怪しくなったハマンは、一連の出来事を知人と妻に相談し、その返答が冒頭の聖句です。「あのモルデカイ、即ちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」(6:13)。
敵も知っているのです。まことの神に敵対し得る者はないことを……。モルデカイはユダヤ人でしたが、いまや私たちは神の子とされた天国人です。その私たちに対する神の愛を、誰も引き離すことができません。
神が私たちの味方であれば、いったい誰が敵し得るでしょうか。敵さえもそれを認めているのに、私たちはそれを認め確信しているでしょうか。神の「時」を信頼して大胆に生きよう。(Ω)
エステル記5:14 高さ50キュビトの木を立てさせ、あすの朝、モルデカイをその上に掛けるように王に申し上げなさい。そして王と一緒に楽しんでその酒宴においでなさい。
3日目にエステルは意を決してアハシュエロス王のもとに出向きます。
王は迎えてくれるだろうか。それとも……。迎えてくれたなら、事態をどのように説明すべきか。一旦、王の名で発布した法令(ユダヤ人の殺害と財産没収の法令)を簡単に取り下げてくれるのだろうか……。
心配はつきません。
王の名で発布した法令を取り下げることは、王の威信を汚すことになります。そう簡単に解決できる問題ではありません。史実によればアハシュエロス王(クセルクセス)は激情型の人物であったらしく、少し対応を間違えれば大変なことになります。
不安は消えません。
エステル記には「神」という語句は登場しませんが、エステルやモルデカイをはじめ人々の中にたくさん登場しています。人々は、この危機的な事態に、神のご介入を願って祈りました。エステルも、これから王と会うために、神の後ろ盾があると信じて歩み出しました。
心配も不安も消えませんが、神が共におられるという霊的な感動が、この心配と不安を乗り越えさせてくれます。事態が上手く進むから心配が消えるのではありません。神が共におられることこそ重要なことです。
さて、エステルが出向くと、王は彼女に笏(しゃく)を差しむけて面会を承諾してくれました。これで第一関門は通過です。そこで、エステル主催の酒宴に王とハマンを招きたい旨を伝え、事の真相を告げる舞台装置は整いました。
トントン拍子で事は進みました。この勢いで一気に解決へ……という方法もあったと思いますが、エステルは急ぎませんでした。エステルは神の御手が確かにあることを確信しつつも、王に事の真相を申し上げるのを翌日に延ばしました。
なぜ、翌日に引き延ばしたのか、不思議です。ひとつ考えられることは、ここで有頂天にならないで、さらに祈りを込めるためではなかったかと思います。
そのようなわけで、翌日再び王妃主催の酒宴を設けるので、そこに、王とハマンのふたりを招待したい旨を申し出ました。
この招待を聞いたハマンは、内心ではガッツポーズをして帰宅したことでしょう。王夫妻の酒宴に自分だけが招かれたのですから、最高の栄誉を受けられるに違いないと「勘違い」したわけです。
人間は思い上がると、とんでもないことを考えるものです。ハマンは帰りの道すがら、相変わらず自分に礼拝しないモルデカイに腹を立て、モルデカイを木に掛けて処刑しようと計画をしたのです。
明日、モルデカイの度重なる非礼を王に訴え出て、モルデカイ処刑の許可を得ようと、さっそく高さ50キュビト(約22メートル)の柱を立てて、処刑の準備まで済ませました。準備万端です。明日が待ち遠しいハマンでした。 ※ペルシャで行われた木に掛ける処刑は、後の十字架刑へと展開した。
自分が計画した通りに事を成せると考える人は愚か者です。それが、どんなに緻密で叡智に富んだ計画であっても、それを絶対化する人間は、神の目には愚か者です。
「主は諸々の国のはかりごとをむなしくし、諸々の民の企てをくじかれる。主のはかりごとはとこしえに立ち、その御心の思いは世々に立つ」(詩33:1-11)。
思い通りに事を進めようとするハマンと、神の御心を求めるエステルとは対照的です。
モルデカイを処刑しようと柱まで立てたハマンは、勝ち誇っていたことでしょう。しかし、神のご計画は、その柱にハマンをつけることでした。イエスを十字架につけたことで勝ち誇ったサタンは、イエスの復活によって自らが滅びることになったことを想起させます。(Ω)
エステル記4:14 あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。
ハマンによってユダヤ人殺害に関する法律が全国に知らされるや、ユダヤ人の間には言いしれぬ恐怖がおおいました。こう記されています。
「王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった」(4:3)。
この知らせは、モルデカイを通して王妃エステルのもとにも知らされました。そして、モルデカイはエステルに、この法律を取り消すように王に進言してくれと願いました。ユダヤ人であるエステルが、王妃の座につくことができたのは、この時のためではなかったのかと諭したのです(4:14)。
しかし、王妃といえども、王の招きがなければ、王に近づくことは不可能なことでした。自分から会いに行くことはできません。そのことについてこう記されています。
「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという法律のあることを知っています」(4:11)。
王のいのちをねらう内外の敵から身を守るために、王妃に対してでさえ、そのような厳重な規律が設けられていたわけです。
しかし、ひとつだけ方法がありました。それは、一か八かの方法です。自ら王のもとに出向いていって、「王がその者に金の笏(しゃく)を伸べれば生きることができる」という規定です(4:11)。その時の王の気分次第で生きもし、殺されるもするという方法です。
ことは一刻をあらそいます。やってみるしかありません。会える可能性はゼロではありませんが、とても危険な方法です。しかも、エステルは、ここのところ30日間も王からの召しがない状態ですから、王の機嫌をそこねている可能性だって充分あるのです。
明治時代(1901年12月)に田中正造が、足尾銅山公害の解決を天皇に直接伝えようと、一般人では絶対に近づくことの許されなかった時代に……近づけば打ち首か銃殺かという状況で直訴状を手渡そうとした事件にも似たものがあります。 ※直訴はならず直前に官憲に取り押さえられたが、訴えはマスコミを通して世に知らしめることになった。
田中正造は生涯聖書を手放さなかったと伝えられていますが、きっと彼も、このエステル記を読んで勇気を得たのではないかと思います。
「あなたの境遇は、この時のためではないのか」というモルデカイの言葉に動かされて、エステルは王に直訴する決意をしました。そして、そのためにユダヤ人たちに3日間の断食と祈りを要請しました。
エステルはいのちを賭して、王の前に出ようと決意しました。そして、ユダヤ人の救いのために執り成すことにしたのです。
この日は偶然ではありません。この日が、先の法令が発布された「ニサンの月の13日」の翌日と考えれば、この日は過越祭の日です。 ※「ニサンの月」とは「第1の月」のこと。
過越の祭の日に、イエス・キリストがいのちを捧げて、父なる神に、全人類の罪のゆるしを願い、滅びから守られるようにと執り成された日を預言するかのように、エステルは民を救うために3日間の断食に入りました。
決して偶然ではありません。あなたが今あるのは決して偶然ではありません。良い地位にあるとしたら、それを人々の救いのために用いるために、神が用意なさったことです。
また、苦しみの中を通ってこられた方もあるでしょう。それも決して偶然ではありません。その立場を用いて、悲しみの中にある人々を救うために、神は用意なさったのです。
すべての人のすべての境遇を用いて、すべての環境の中にある人々を救うために、「神はこの時のために用意なさった」のです。(Ω)
エステル記3:2 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。
次なる登場人物は「ハマン」です。彼はアガグ人だと紹介されていますが、さかのぼることアマレク人の王アガグの末裔(まつえい)であると思われます。
アマレク人とは創世記の時代から登場してきており、エジプトを脱出して荒野を旅するイスラエルの行く手を妨害して苦しめた民族です。カナン侵入後も敵対し、サウル王の時代にアマレクの王アガグの処刑が記録されています。
神に敵対する民族の末裔がこのようなかたちで登場するには、何か摂理的な出会いを感じます。
さて、ハマンはペルシャ帝国で大成功をなした人物で、王の側近として名声を博していました。やがて、彼は自分の立場を利用して、人々が自分を礼拝するように命令し、その態度は高慢で傍若無人。神を恐れぬ者の権力乱用です。
まことの神への礼拝から生じる権威は“仕える”ことによって現れます。しかし、悪魔によってゆがめられた権威は支配的であり、おのれを神として、他者に服従を強要します。
この様子に心を痛めたモルデカイはハマンに対してひざまずかず、敬礼しなかったのです。これは単に、「挨拶しなかった」とか「おじぎをしなかった」という程度のことではありません。自分に対する礼拝を強要したハマンに対して、それを拒絶したという意味です。
まことの神のみを礼拝するのか、それとも神ならぬ者を礼拝するのかを選ばなければならない時があります。この時代のハマンに対する礼拝もそうでした。
初代教会の時代にも、ローマ皇帝を礼拝するのか、それともイエスを礼拝するのかが問われました。ローマ政府は、皇帝を礼拝した証明書がなければ市民生活ができないとする法令をだした時代もありました。
第二次世界大戦中のキリスト教会には、天皇を礼拝するのか、それともイエスを礼拝するのかという挑戦状が突きつけられました。
やがて、終わりの時代の患難期には、反キリスト……終わりの時代に登場すると預言されている世界的指導者……にひざまずくのか、それともイエスを礼拝するのかが問われる時が来ると預言されています。
いつの時代にも、悪魔は、そして悪魔によって突き動かされた王たちは、自分を神として、自分への礼拝と服従を要求してきます。
自分だったらどうするだろうか……考えてみてください。彼らを礼拝しても、それは形式だけで、心では礼拝しなければ良いと考えますか?。クリスチャンであれば、大なり小なり葛藤をおぼえるところです。
私たちは見えないものよりも、見えるものに支配されがちです。見えない神への信仰よりも、見える王の権力を恐れます。見えない永遠のいのちよりも、見える肉体のいのちを優先してしまいがちです。
でも、見えないから軽視できる訳ではありません。肉眼では見えないだけのことです。神は見えなくても、神は私たちをご覧になっています。私たちの信仰は、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐことです(Ⅱコリント4:18)。
この時のモルデカイも、見えるハマンではなく、見えない神に目を注いでいたのです。
さて、モルデカイがハマンへの礼拝を拒絶した結果、ハマンはこれを機にユダヤ人抹殺計画を実行しました。旧約時代の反キリストであるハマンは、来る12月の13日には、ユダヤ人を殺害しその財産を没収せよという法律を発布し、ペルシャ全土にそれを知らしめたのです。
この法律が発布されたのは1月13日。猶予は11ヶ月間しかありません。このために、ユダヤ人社会の中には大きな悲しみと恐れが支配しました。
あの時、モルデカイがほんの少しでも妥協していてくれれば、こんな大事件に展開しないで済んだのでしょうか。私はそうは思いません。モルデカイが妥協しても、偶像にひざをかがめない他のユダヤ人が拒絶したことでしょう。
不敬事件を起こしたハマンだけを処罰するのではなく、ユダヤ人全体を標的にするところに、反キリストの真意があります。彼の目的は神への反逆です。神がご自身の計画をはたすために用いられるユダヤ人を滅ぼすことです。
しかし、いかなる危機的な状況の中でも、それさえも神はご支配なさっており、神の守りの中にあります。目の前のきびしい現実をおおうようにして、大きな神の御手の中にあることを信頼しよう。
それは、神を見ることのできない現代に、神を発見する素晴らしいチャンスに違いないのです。(Ω)
エステル記2:17 王はすべての婦人にまさってエステルを愛したので、彼女はすべての処女にまさって王の前に恵みといつくしみとを得た。王はついに王妃の冠を彼女の頭にいただかせ、ワシテに代って王妃とした。
いよいよ、第2章からは、ユダヤ人モルデカイとその養女エステルの登場です。幼くして父母を亡くしたエステルを、親戚のモルデカイは養女として育てたと記されています。
さて、先の王主催の大宴会で不祥事をおこしたワシテは王妃の座から失脚し、その結果、王の新しい妃(きさき)を全国から募集することになりました。
そこで、各地方の予選をクリアした選りすぐりの娘たちが、首都スサに集められました。世界帝国の王妃を決めるのですから、大変な事業であったことでしょう。とてもきびしい審査と準備がなされたようです。
その中にエステルも推薦されて、ついに最終選考まで残り、王に謁見する日を迎えました。
エステルは不思議な魅力を備えた女性であったのでしょう。一般的な化粧品や装飾品で飾るよりも、彼女の内側からにじみ出る美しさがアハシュエロス王を魅了したようです。そして、ついに、彼女が王妃として選ばれたのです。
文字通りのシンデレラ・ガール。超ラッキーな女性です。しかし、この事に神の摂理がありました。
エステル記を通して学ぶべき事は、神を直接見たりふれたりすることはできなくても、日々の出来事の中に神は働いておられ、神の恵みがあらわされていることです。
先に、このエステル記は「神」とか「主」の名が出てこない書であると申し上げました。だからといって、神がおられないのではありません。神は生きておられます。神は働いておられます。
かつて「ウォーリーを探せ」という絵本が評判になりました。無数の登場人物が画面いっぱいに描かれているのですが、その中からウォーリーを見つけだすゲーム感覚の絵本でした。同じように、このエステル記の中に、生きておられる神を見出すように読んでみてください。
そうすることによって、私たちの何気ない人生の中にも、すべてをご支配なさっている生ける神を見つけだすようになるはずです。
さて、エステルがこのような栄誉を受けたのは、やがて迫り来る危機に備えられた神のご配剤であったことが分かります。
神を認めない人は、すべてのことが偶然だと考えます。偶然に自分は生まれてきて、偶然の日々を生きています。彼にとってすべての事柄は漫然と進んでいます。しかし、神のご支配を知っている者にとって、それは偶然ではありません。
全知全能の神による配剤があることを知っている者は、たとえ、それが悲しい出来事であっても、それを用いて益とされることを知っています。また逆に、たとえ、それが素晴らしい出来事であっても、それで高慢になることなく神の栄光を求めます。
さて、第2章にも偶然とは思えない出来事が記されています。それはモルデカイのことです。
ある日、モルデカイは、王に対する暗殺計画を耳にして、それを王妃エステルを通じて王に知らせました。モルデカイの功労によって、王は事なきを得ました。しかし、賞賛と報いを受けるべきモルデカイに対して、王は何もしませんでした。ただ、王の年代記に記録しただけでした。
このように、良いことをしても報われないことはたくさんあります。がっかりした人もいるでしょう。もうすっかり忘れてしまった人もいるでしょう。あるいは、逆に、報いてあげなければならないのに、そのチャンスを逃してしまった場合もあるでしょう。
モルデカイの場合もそのようなケースでした。でも、彼は不平を言うわけでもなく、ただひたすら神のご計画を信頼する人であったようです。この報われなかった出来事にも、神の豊かなご配剤があったことを、やがて知るようになります。
すべてに時があります。そして、神のなさるタイミングは美しいのです。(Ω)
エステル記1:14 彼らは皆王の顔を見る者で、国の首位に座する人々であった。
ペルシャ王クロスによって捕囚の民であったユダヤ人が解放され、祖国のユダヤに帰還せよとの勅令が出されたことは、先のエズラ記とネヘミヤ記で見ました。しかし、祖国に戻らず、引き続きペルシャにとどまったユダヤ人も多くいました。
このエステル記は、そんなペルシャに残ったユダヤ人たちの物語です。やがて反ユダヤ主義の人々によってユダヤ人絶滅の計画がくわだてられるのですが、それに立ち向かった人々の物語です。
時はアハシュエロス王の時代。近年の考古学研究では、クセルクセス王の別名がアハシュエロスであることが発見されており、年代としては在位BC.486~465年の頃の出来事になります。
エステル記には、「神」とか「主」という語句が記されていません。意図的であろうと思われます。しかし、この物語には、神の深い摂理とご支配が描かれています。
「神の名が記されていない」という状況は、まさに、現代を暗示しているかのようです。神などいない。神は死んだとうそぶいている現代社会の姿です。神を無視して、人間が中心となって世界を動かしているようですが、しかし、神がすべてをご支配なさっています。
「神の存在」……それは、紅海が別れたり、荒野において天からマナが降ってきたり、エリコの城壁がくずれたり、天からの火でいけにえが焼きつくされたり……と、超自然的な出来事だけに現れるのでしょうか。
エステル記には、そのような超自然的な出来事は記されていません。「神」も登場しません。登場するのは、人間の悪意や身勝手な計画であったり、それに必死に抗(あらが)う人々の働きです。
しかし、そんな人間の織りなす様々な出来事の中に、実にすばらしい神の御手があることが描かれています。どんなふうに、神は生きて働かれているのでしょうか。
事の発端は、短気で身勝手な王の振る舞いから始まります。
アハシュエロス王は諸州の代表者を首都のスサ(シュシャン)に招待し、大宴会を開催しました。宴もたけなわ。その盛り上げのために、王は王妃のワシテを宴会に列席するよう命じたのですが、王妃がそれを断ったため王の怒りをかいました。
激高した王は、この事件にどう対処すべきか、知者たちに相談したわけですが、その知者たちのことを、聖書は「王の顔を見る者」と紹介しています。神の御心を問う者ではなく、王の顔色をうかがう者によって結論がくだりました。
※新改訳では「王と面接ができる者」、新共同訳では「王の側近」と翻訳。
その結論とは、「ワシテを王妃から退け、新しい王妃を迎えよ」というものでした。しかし、こんな下世話な出来事によって、エステルという女性が、アハシュエロス王の王妃となる道へと展開して行くわけですから、実に不思議なことです。
神の働きは、ほんの小さな出来事の中にもあらわされています。神の御手を信頼し、小さなことに忠実な者であろうと願うものです。(Ω)