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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの黙示録 22章

2023年05月11日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 22章
見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
(22・12)


神の聖なるご計画は、イエス・キリストの再臨によって完成します。その完成のためにわたしはすぐに来るとの約束で黙示録は終わっています。あなたはこの約束を信じますか。それとも、荒唐無稽な夢物語のように思いますか。科学的に証明できないことだから信じられないでしょうか。

科学によって到達した人類の英知は偉大ではありますが、その科学をもってしても、宇宙の神秘、人の存在目的、心と霊の世界についてなど、知り得たことはほんのわずかな領域です。数千年をついやしてやっとここまで来たに過ぎません。

しかし、聖書は神のことばです。神の霊感をもって記された啓示の書物です。神からの啓示はこう告げています。

これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちの魂の神なる主は、すぐにも起るべきことを僕たちに示そうとして、御使を遣わされたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は幸いである。(22・6~7)

旧い契約(旧約)は、キリスト救い主が来ることを約束しました。そして約2千年前にそのキリストは来られました。そのキリストとは、十字架で死んで葬られ、復活して、天に昇られたイエスというお方です。新約聖書は、そのイエスこそが旧約で約束されていたキリストであると証言する書物です。

そして更にキリストはもう一度来られると約束しているのです。

2千年前に来られたイエス・キリストは、人類を悪魔の支配から救うために来られました。そして、2度目に来られるときは、その救いに決着をつけるために来られます。

その決着とは正しい報いのことです。主は言われます。見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれの仕業に応じて報いよう(22・12)。 イエスこそが正しく報いることのできるお方です。

どのような報いでしょうか。悪に対しては永遠の滅びという報いです。そして善に対しては永遠の救いという報いです。

悪に対しての神の報いがいかなるものか……。この黙示録を通して明確になりました。この真の報いを知らないと、人はいつも苛々します。あんなひどい政治がなぜ放置されたままなのか。あんな凄惨な事件が迷宮入りなんてゆるせない。そんなやり場のない怒りで自滅してしまいます。

善に対しての神の報いがいかなるものか……。この黙示録、特に21章で明確になりました。これこそ私たちが受けるべき真の報いです。なのに、地上で早く報いを得たいが為に、人からの評価を得ようとします。いつかは消えてしまう人の評価が欲しいですか。それとも、永遠に続く神の報いが欲しいですか。

そのような、真の報いを携えて主イエスは来られます。この方を待ち望むのです。

しかも、すぐに来られます。黙示録22章では3回も「わたしはすぐに来る」と記されています(7、12、20)。でも、もう2千年が経過しているので、人の目にはその約束は忘れ去られたように感じられます。それは、人と神との時間の感覚が違うからです。

幼い息子を車に乗せて実家の京都(丹後)に帰省するとき、1時間も経たないうちに、「まだ着かないのか」とたずねてきます。私は「あと8時間くらいだよ」と応えます。「8時間ってどれくらい?」。「すぐだよ」と応えます。大人にとっては〝すぐ〟です。でも、幼な子にとっては延々と続くように感じます。主イエスが「すぐに来る」と言われたのと、私たちが「もう2千年も経っているのに」と感じるのには、そのような違いがあります。

永遠を見ることのできない人間には、神が随分と延期なさっているように思えますが、神はご自身の御業を速やかになさっています。私たちの肉なる感覚が鈍いだけで、主イエスはすぐに来られるのです。

私たちはそれに対して、「主よ来てください」と告白します。御霊も花嫁も言う。『来てください』。これを聞く者は、『来てください』と言いなさい(22・17)

もし、「主よ、来てください」と告白するのを躊躇させるものがあるなら、その原因を掘り下げると良いでしょう。たぶんそこは、主をお入れしなければならない心の部屋です。そこは神の光にまだ照らされていない部屋です。

これだけはゆずれないと思って頑張っている心の部屋はありませんか。ここだけは、イエス様にも分からないと高を括っている部屋はりませんか。そんな心の部屋にも、主イエスを歓迎しましょう。

そういう意味で、まず私の内側に「主よ来てください」と告白することから始めるのです。イエス様に対して、いつも心の扉を開いてください。主はその心に「すぐに来られるお方」です。

「わたしはすぐに来る」といわれるイエス様に、いつでも、「主よ来てください」と呼び求める者であってください。それが、目を覚ましている者の姿です。主が戻ってこられたとき、目を覚ましてお迎えできる者は幸いです。


ヨハネの黙示録 21章

2023年05月10日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 21章
私はこの都の中に聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
(21・22)


キリストが王として支配なさる千年王国の期間が終わり、その後に「大きな白い御座」でのさばきがあります。これはすべての人類に対するさばきです。

このさばきにおいて、最後の敵である死も滅ぼされました。その結果、この時点でキリストの統治は完了し、その御国は父なる神にお渡しになるのです。つまり、新しい局面を迎えることになります。

そこで、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまったという展開へと進むわけです(21・1)。 ※20章11節の「天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった」との出来事と同じである。また、海がないとは、20章13節で様々な死者を飲み込む海として描かれていることからして、もはや海は不要となると考えられる。

現在、私たちが体験している天と地の環境とはまったく異なる次元の新しい天と新しい地と考えるべきです。現在の感覚の延長線上に、21章以降の世界観を当てはめるのは相応しくありません。

例えば〝永遠〟の概念もそうです。時間の概念で永遠を考えるので、ひたすら今の現実が延々と続くようで耐えられないと思うでしょう。そんな時間の概念を超えた世界が〝永遠〟なのです。私も行ったことのない世界なので、そう申し上げる以外に説明のしようがありません。

新しい天と地のについて記されています。

聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見たとあります(21・2)

都とは王が住まわれる街です。王なる神が人と共に住まわれる街です。見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいましてとはそのことです(3)

旧約聖書の時代の都エルサレムにも歴代の王が住みました。ダビデもソロモンも、エルサレムに住んで国を治めました。しかし、悲しいことですが、過去のエルサレムは堕落と腐敗をくり返しました。反キリストに踏みにじられる時代もありました。血で血をあらうような戦乱が続いています。

その歴史は「神の平和」を意味する「エルサレム」の名とはほど遠いものでした。しかし、新しい都エルサレムは、正に名のごとく神の平和の街です。完成されたエルサレムです。

この聖なるエルサレムは不思議に満ちた表現がなされています。2節では夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえた街として紹介されています。素直に解釈すれば、結婚式の花嫁は純白のドレスに身を包んた美しい姿です。そのような美しい完成された街としてエルサレムを表現しているわけです。

さらに読み進めて行くと、御使がさあ来なさい。小羊の妻なる花嫁を見せようと宣言し(9)、どんな花嫁かと思いきや、聖なる都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれたというわけです(10)

花嫁というのですからキリスト教会を構成する人々の集まりなのですが、建造物である街・聖なる都エルサレムとしても表現されています。街なのか人々のことなのか混乱しますが、私は両方をあわせもって考えてみようと思います。 ※あの滅ぼされた大バビロンも、獣の妻のようであり、かつ獣の国の首都としても描かれていた。

とにかく、キリストの花嫁である私たちのただ中に、花婿であるキリストが住まわれるという事実には変わりません。神にもっとも近く、もっとも親しい、究極の住まい……そこが聖なる都エルサレムです。ですから、キリストの花嫁である私たちは、イエス・キリストがお住みになる街のようでもあるのです。

不思議な表現です。イエス様は天に昇られるとき、「あなた方の住むところを用意しに行くのだ」と言われる一方で、私たちがイエスの住まわれる都エルサレムとなるのですから……。

これは矛盾ではなく、両方とも真理です。イエス様も、天の父との関係を、「父の中に私がおり、私の中に父がおられる」と表現なさったように、キリストの中に私たちが住み、私たちの中にキリストが住まわれます。これは、キリストと私たちの離れがたい愛の関係を表しています。

さて、黙示録は、天の都であるエルサレムを形成する〝材質〟について記しています。近代都市はコンクリートと鉄筋とアスファルトが材質ですが、天の都エルサレムは、ガラスのように透き通った純金と種々の宝石真珠です(21・15~21)

この材質は新しい次元の材質です。と同時に、私たちクリスチャンが地上で実を結ぶ霊的な材質のようにも思われるのです。

そういう意味で都を構成する材質を、象徴表現とも読むことができます。私たちは火のような試練を通過することによって、不純物が焼きつくされ、純金のようないのちを得ます。それは、花婿の住まわれる聖なる都にふさわしい材質となるためです。

また、私たちは、土の中で埋もれるようにして、その圧力や熱によって宝石のような材質を生み出します。御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制……これらは宝石というべき材質で、花婿の住まわれる都にふさわしい材質です。

真珠は、貝が異物を受け入れたことによって、涙のように流した分泌物によって形成されます。痛みがともなった結果の産物です。私たち教会は、自分と異なる人々を受け入れる中で、時には傷つき、痛みを負うこともあります。しかし、それによって生み出されるのは真珠の材質です。これもまた、花婿なるキリストの住まわれる都にふさわしい材質です。

私たちは地上にあっては神の宮を建て上げる人生に例えることができます。神であるイエス・キリストが住まわれる神殿を建て上げて行くわけです。

そのことをペテロは「あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ」と表現しています(Ⅰペテロ2・5)

また、パウロは私たち教会が神の神殿であることを前提にしてどういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよいと警告し、その材質について注意をうながしています(Ⅰコリ3・10)

どのような材質で建て上げたかは、終わりの時にいたって、火の中をくぐって各自の真価が問われると教えています。木や草やわらが材質のものは、その火の中で焼けてしまうでしょう。しかし、金、銀、宝石の材質は、その火の中をくぐり抜けて残ります(同3・10~15)

私たちが信仰生活によって生み出した材質が、来たるべき都の材質となって行くのです。忍耐をもって形成された宝石が都を建て上げるとしたらどうですか。あの地上の苦難がやがてガラスのような透きとおった純金の材質となって都を形作るのです。感動しませんか。私たちの信仰の苦労がそのような形で永遠に報われるのですから。

次に、都の寸法を測ると長さと幅と高さがいずれも1万2千スタディオンで立方体です(21・16)。街は平面で測るものであって、上は天空で広がっているという現在の感覚からすれば、高さがあるのは不思議な感覚です。新しい天と地はまったく異なる次元の世界であって、現世の次元を超えています。

16節にある聖都エルサレムのサイズは立方体なのですが、実は、天の模型である神殿の〝ある部分〟も立方体です。何処だかご存知ですか。それは最も神聖で神の臨在される至聖所です。

新しい都エルサレムこそ本物の至聖所であり、神ご自身が聖所そのものです。旧約の神殿や聖所は、天国の模型として造られたものであって、もはや天国では模型は必要ありません。本物の聖所、本物の至聖所があるからです(ヘブル8・5)

キリストの花嫁である私たちは、その至聖所の一員として構成されます。神であり小羊であるイエス・キリストと共に永遠に住む場所……それが天国の都エルサレムです。ここでは、人の目から涙がぬぐわれ、もはや死もなく、悲しみ、叫び、痛みもない世界です(黙21・4)

都の説明はさらに続きます。21章から22章5節までが都の解説です。新しい天と地には海がないと記されていましたが(21・1)、川があります。水晶のように輝いているいのちの水の川です(22・1)。神と小羊の御座から流れ出る川です。

このいのちの水の川については、イエスが与える水を飲む者は、内から流れ出ると言われていた川の完成形です(ヨハネ7・38)。その大元であるお方から、いのちの水の川が流れ出ています。もはや死のない世界です。最後の敵である死が滅ぼされた世界です。

さらに、その川の両岸にはいのちの木があります(黙22・2)。豊かな実を結ばせる木です。やはりここにも、死が滅ぼされてしまった後の世界観が描かれています。かつて、この「いのちの木」はエデンの園に生えていました(創2・9)。しかし、善悪を知る木の実を食べて、人類に罪と死が入り込んでしまうと、人が「いのちの木」から実を食べないように神は対処なさいました。

「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」とある通りです(創3・24)。その理由は、人が「手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」からです(創3・22)。つまり、罪人のまま永遠に存続しないために、「いのちの木」への道を閉ざされたわけです。

でも、罪の歴史は終わりました。罪の結果である死の世界は滅ぼされました。これからは、救いを受けた私たちが永遠に生きるために、この「いのちの木」から豊かな実を食べることができるのです。

これが私たちの向かう世界です。こんな至福の世界が待っています。罪人は入ることができません。おとぎ話や滑稽な話しに聞こえるでしょうか。しかし、聖書は言います。これらの言葉は信ずべきであり、まことである」。信じる者は幸いです。


黙示録20 補足

2023年05月09日 | ヨハネ黙示録
 補足1  大きな白い御座のさばき 

ここから新しい展開に入ります。

また見ていると、大きな白い御座があり、そこに居ます方があった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなったのです(20・11)

天も地も逃げ去って無くなったのです。現在の地上とか宇宙空間が消滅するのです。使徒ペテロが預言したその日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」とはこのことです(Ⅱペテ3・12)

そして大きな白い御座のさばきが開廷するのです。最後の審判とも呼ばれます。

いったいだれがさばかれるのでしょうか。すでにさばきを受けた人は、この白い御座のさばきを受けません。さばきは終わっているからです。人は必ずさばきを受けなければなりません。

しかし、そのさばきを御子イエス・キリストが十字架で身代わりに引き受けて下さり、人が受けるべきさばきとそれに伴う死を、キリストが受けてくださったのです。それを信じるとは、自分もキリストと一緒に十字架でさばきを受けたと認めることになります。

ですから、イエス・キリストを信じる人は、この大きな白い御座のさばきを受けません。イエスが身代わりにさばきを受けたと信じない人々は、仕方がありません、自分自身で神のさばきの前に立つわけです。

そういうわけですから、大きな白い御座のさばきには、第一の復活に与らなかったすべての人類が復活して、このさばきの座の前に立つことになります。死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているとはそのことです(20・12)

何を基準にさばかれるのでしょうか。

数々の書物が開かれたが、もうひとつの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれていることにしたがってさばかれます(20・12)

いのちの書には、生まれた者のすべての名が記録されていて、そこから消された者は滅びが確定するという意味があるようです(詩69・28、黙3・5)。よく似た書名で小羊のいのちの書があります。これは逆です。救われている人の名が記録されています(黙13・8)

この2冊の「いのちの書」でダブルチェックを受けた上で、数々の書物にある各自の生き様の記録をもとに、真実で公正な神の視点でさばきを受けることになるのです。

さて、その仕業に応じてとあるので、刑罰にも軽重があると考えられます。新改訳では自分の行いに応じてです。

例えば、福音を何度も聞いたのに信じなかった人と、聞く機会がなかった人との差があるはずです。福音を聞きイエスを直接見たのに信じないコラジンやベツサイダの町の人よりも、神を冒涜する異教徒の町ツロとシドンの方が罰が軽いと言われましたが、それは刑罰に軽重があるという意味です(マタイ11・21~22)

また、神の御心を知りながら悪を行った者は多く打たれ、知らずにした者は少なく打たれます(ルカ12・48)。ここにも軽重の差があります。

ですから、神は正しく公平におさばきになるはずです。きっと、だれもが神のさばきに納得し、それぞれの判決を受け入れることになるでしょう。そのさばきの正しさゆえに、すべての者がキリストの前に膝をかがめることになります。ただ、私には刑罰の軽重の差の具体的な内容を述べる知識がありません。真実で誠実な神にゆだねるのみです。

  補足2  最後の敵である「死」の滅び 

大きな白い御座のさばきによって、最終的に滅ぼされる〝もの〟は何かを見ておきます。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死であると記されています(黙20・14)

反キリストもにせ預言者も悪魔も〝火の池〟に投げ込まれて滅びました。また、「いのちの書に名が記されていない者」も投げ込まれます(15)。興味深いのは死も黄泉も滅ぼされるという点です。

黄泉とは死者の霊魂の行くところです。ギリシャ語ではハデスです。それまで「死者の霊魂の居場所」だったのですが、その霊魂も復活してさばきを受けて火の池に投げ込まれたのですから、黄泉も不要になって投げ込まれるわけです。

それだけではありません。〝死〟も投げ込まれます。最後の審判の後は、もはや死のない世界が用意されているのみです。もう、罪の結果である〝死〟は必要ありません。だから、神はこの死も火の池に投げ込んでしまいます。

この〝死〟は最後の敵です。聖書も「最後の敵として滅ぼされるのが死である」と記しています(Ⅰコリ15・26)。この死を滅ぼすことで重大な局面を迎えます。これについて次のように記されています。

それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。

なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが死である。
(Ⅰコリ15・24~26)

キリストは千年王国の統治にあたってすべての権威を打ち滅ぼされました。千年王国の最後には悪魔も滅ぼされました。そして、最後の審判で〝最後の敵である死〟さえも滅ぼし、あらゆる敵をご自身の足元に置かれました。

つまり、この時点でキリストの統治は完了し、その御国は父なる神にお渡しになるというのです。最終的には万物も、そして御子イエスご自身も父なる神に従われます。これが、あるべき本来の姿であり秩序だからです。

ですから、先ほどのコリント書はそして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたその方に従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためであるという聖句につながるわけです(Ⅰコリ15・28)

こうして地上におけるキリストの支配が終わるので、現在の天と地は不要になり、新しい天と新しい地が登場することになるわけです。その記録が黙示録21章からです。

  補足3  死後の霊魂の行き先 

この機会に死後の霊魂の行き先について整理しておきましょう。

先ほど、黄泉も火の池に投げ込まれることを見ました。この「黄泉」とはギリシャ語のハデスです。旧約聖書では「陰府」と表記しています。ヘブル語では「シェオール」です。旧約の陰府もシェオールも、新約の黄泉もハデスも死者の霊魂が行くところです。同じ場所のことです。 ※肉体が死ぬと肉体と霊魂は分離する。肉体は朽ちるが霊魂は永続する。


旧約の時代はキリストにある救いが完成していない時代でしたから、すべての死者の霊魂は〝よみ〟すなわちシェオールに行きました。

ただ、そのシェオールにもふたつの区分があります。主なる神を信じていた霊魂はシェオールの中でもパラダイスとかアブラハムのふところと呼ばれる場所で安んじています(ルカ16・22)。それ以外の霊魂はシェオールの炎の中で苦しみます。(同24)。しかし、この両者の間には深い隔たりがあって往来はできません(同26)。 ※ルカ福音書はギリシャ語で記されているため黄泉あるいはハデスと記述。ルカ16章の時点でキリストの救いは実現していないので、旧約の状態を表している。

新約の時代でも、やはり死者の霊魂は〝よみ〟すなわちハデスに行きます。その中でも、救いを受けた霊魂はパラダイスに入ります。だから、十字架で死の間際にイエスを信じた男に、イエスは「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と言われました(ルカ23・43)。つまり、救われた男もイエス様も死んでパラダイスに行かれたわけです。

ところが、キリストの救いが完成してから〝パラダイスの場所〟が変わりました。エペソ人への手紙4章8~9節にはそこで、こう言われている、『彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた』。さて『上った』と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないかと記されています。

これはイエス様が十字架で死なれ、ハデスにまで下られたことを意味しています。そして、ハデスの中の「パラダイス」にいた霊魂たちを引き連れて天に上られたという意味です。

つまり、〝パラダイスの場所は天にある〟ようになったというのが大きな変化です。

ですから、新約では信じて救われた者の霊魂はパラダイスに行くのですが、ざっくりとした言い方をすれば天に行ったとも言えるわけです。そのことを、パウロも自分が死んで「肉体から離れて主と共に住む」と表現しています(Ⅱコリ5・8)

正確を期して申し上げると、「パラダイスに霊魂の状態で居るのであって、復活の体になって天国に入るのとは厳密には区別されます。復活のからだをいただくには、キリストの再臨を待たねばなりません。これが、新約時代の信者の霊魂の行き先です。

しかし、未信者の死後の霊魂はハデスです。黄泉に入ります。そして、第二の復活において再び体を受けて、大きな白いさばきの座でさばかれるわけです。

恐ろしいことを申し上げますが、この復活の体は朽ちない体です。その体のままで火の池に入れられるという結末は、想像しただけでも身震いします。

ですから、この文書を読んでいるあなたは、素直になってイエス・キリストを信じてください。心からお願いします。

 補足4  第一の復活についての考察 

第一の復活の解釈の違いによっては、不安や恐れを煽るものもあるので整理しておきます。

たとえば、クリスチャンといえども、第一の復活にあずかる者は信仰の勝利者であって、中途半端な信仰者は第二の復活の段階で救いに入る……という解釈です。

この解釈の難点は、第二の復活では白い御座のさばきを受けるわけですが、そのさばきの結果、救いを受ける者がいるのか否か、明記されていないので何ともいえない所です。ただ言えることは、いのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれたということです(黙20・15)

一方で、イエスを信じる者はさばかれないと言われています(ヨハネ3・18)。それは、最後の審判である白い御座のさばきを受けないという意味であり、右記の解釈とは矛盾します。

そもそも、第一の復活と第二の復活を分ける基準は何なのですか。熱心さとか勝利者といっても曖昧な定義なので不安を煽るわけです。結局は、さばきを神にゆだねないで〝熱心さ〟という物差しで、人が人をさばいてしまうのです。

「朝マナ」では、イエスを信じる者はみな第一の復活にあずかると解釈しています。その場合、悪しき信仰生活を過ごした者は「キリストのさばきの座」において罰を受け、千年王国の祝福に与れないでしょう。神の国に入ることができても、祝宴に与れないという意味です。クリスチャンでも、悪しき者は「神の国を受け継ぐことがない」とは、このことを示しているのかも知れません。つまり、神の国に「入る」のですが、「受け継ぐ」ことはできないのです。祝宴の外に出されて歯ぎしりをするといった記録もそれを言っているのだと私は考えています。これは、私見であって間違っているかも知れません。聖霊が真理へと導いてくださるよう祈ります。

キリストと共に労苦する者は、キリストの花嫁としてキリストと共に神の国を「相続する」のです。聖書はこう記しています。キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである(ローマ8・17)

せっかく第一の復活に与るのですから、御国を相続する者として走りましょう。「賞を得るために節制して走る」とパウロが語ったのは、このことです。霊的生活が祝福されますように祈ります。


ヨハネの黙示録 20章

2023年05月08日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 20章
第一の復活にあずかる者は幸いな者であり、また聖なる者である。
(20・6)


ハルマゲドンの戦いによって反キリストの軍勢は滅亡し、獣(反キリスト)ともうひとりの獣(にせ預言者)は、硫黄の燃える火の池……すなわち地獄に投げ込まれました。ここまでが19章でした。

20章からは龍に対する処罰です。悪魔とかサタンと呼ばれる龍は千年の間つなぎおき、そして底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで諸国民を惑わすことがないようにしておいたのです(20・2~3)※底知れぬ所に閉じ込めたのであって完全に滅んではいない。千年の後に「しばらくの間だけ解放されることになっている」。この意味は後述する。

ですからこの千年の期間は悪魔の働きのない至福の時代になるわけです。そして、この期間をキリストが王として統治されるのです(20・4)

この統治を千年王国とかメシヤ王国と呼びます。これについては旧約聖書が多くの紙面を割いて預言しているので、黙示録では千年王国の詳細は省略されています。ただ、黙示録ならではの新しい啓示が明らかにされています。

旧約預言だけを解釈すれば、神が悪魔を滅ぼしメシヤ王国が地上に完成し、それが永遠に続く。神の啓示はそこまでです。でも、黙示録によってメシヤ王国の統治には〝千年の期限がある〟ことが明らかにされました。だから新約的にはメシヤ王国のことを「千年王国」と呼ぶわけです。その王国を治めるために「第一の復活」があります。

また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスの証しをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(20・4)

だれが復活するのか。3つに区分されています。

ひとつは多くの座にすわってさばきの権が与えられた者です。イエスの12使徒は民をさばくのだと預言されていますし(ルカ22・30)、キリスト教会も世界をさばくようになると言われています(Ⅰコリ6・2)。イエスを信じた新約のクリスチャンは、患難期の前に携挙された時点で第一の復活に与ります。

ふたつめはイエスの証しをして神の言を伝えたために首を切られた人々です。彼らは患難期前半で殉教した者たちです。そして3つめは獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々です。彼らは患難期後半の殉教者です。

これらの人々は第一の復活に与って、キリストと共に世を治めるのです。新改訳では「王となる」と訳されていますが、キリストが王であって、私たちは共に統治する者という理解が良いでしょう。

そもそも復活の初穂はイエス様でした。その他にも患難期にふたりの証人が反キリストによって処刑されますが、彼らも復活しました。これら一連の復活をまとめて第一の復活と呼びます。

復活する時間差がありますが、いずれも救いを完成するための復活であり、総じて「第一の復活」です。イエス・キリストを信じて救いを得た私もあなたも、第一の復活に与る者です。信仰の結果にはこんな栄光に富んだ報いが用意されているのです。それ以外の死人は千年の後に復活します(20・5)。それは、あえて言えば第二の復活です。この場合は、大きな白い御座でさばきを受けるために復活します。

第一の復活に与らなかった他の人々も復活するのですが、それは千年の後です。第一の復活と区別するために、これを第二の復活と呼ぶことにします。聖書にはその語句はありませんが区別するためです。

では、第一の復活があって、千年王国が終わった後に何があるのでしょうか。

千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放されるのです(20・7)。なぜ神は、サタンを野に放たれるのですか。それは、千年王国を生きてきた人々の信仰が真実であるか否かを試みるためです。

それを理解するためには、千年王国の住民構成を知る必要があります。ひとつは、第一の復活に与った人々で、朽ちない体を受けています。次が、患難期を生きのびたユダヤ人たちです。彼らは民族的な悔い改めに至りイエスを信じました。3つめが、患難期を生きのびた異邦人たちです。彼らもイエスを信じて救われた人々です。獣に殺されずに生きのびて肉体のまま千年王国に入ります。

ですから、千年王国のスタートは信者ばかりの国です。悪魔も閉じ込められていますから理想的な環境です。その様子は次のように預言されています。

キリストは諸々の国の間にさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(イザヤ2・4)

自然界も呼応するように、創造された当初の姿を取り戻します。「狼は小羊と共に宿る」とか「獅子も牛のように藁を食べる」「乳飲み子がコブラの穴の上でたわむれる」などの記述は、自然界の環境が回復された様子を表しています(イザヤ11章)

ただひとつ問題があります。彼らの子孫は信仰を保ち続けるかということです。第一の復活に与った人々は子を生みません。復活の体になると、めとったりとついだりする必要がありません(マタイ22・30)。子孫を生んで増え広がるのは、肉体のままで千年王国に入った人々です。

ユダヤ人たちは新しい契約を受けて「人はもはや、各々その隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」と預言されているので、信仰は継承されるでしょう(エレ31・34)。

では異邦人はどうか。彼らは都エルサレムに座されるキリストに教えを乞うてやって来るでしょう。

「多くの民は来て言う、『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる、我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出て、主の言葉はエルサレムから出るからである。」(イザヤ2・3)

しかし、千年の期間でふとどき者も出てくるのです。どんなに良い環境でも信じようとしない者が出てきます。自然界が回復された環境では、人類は長寿です。百歳までに死んでしまう者は呪われた罪人と言われます(イザヤ65・20口語訳)裏を返せば、こんな良い環境の中にも罪人が出てくるという意味です。

説明が長くなりました。だからです。サタンを解放し人々の信仰を試すというのです(黙示録20・7)サタンは出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は海の砂のように多いのです(20・8)。

この戦いも、ハルマゲドンの戦い同様に一瞬にして決着がつきます(20・9)。そして、ようやくこの段階に至って龍と呼ばれた悪魔も〝火の池〟に投げ込まれて終わります(20・10)。

以上が千年期の概要です。この千年の期間が終わると、残りの人々が復活します。第一の復活に与らなかった人々の復活です。あえて言えば「第二の復活」です。

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ヨハネの黙示録 19章

2023年05月06日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 19章
私たちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意をしたからである。
(19・7)


地上で大淫婦に対するさばきがくだった「この後」です(19・1)舞台は地上から天上に移ります。天では大群衆の歓声が聞こえてきました。これは患難期に殉教した多くの聖徒たちによる神への賛美です。

ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである。(19・1~2)

ハレルヤとは主をほめたたえよという意味のヘブル語です。旧約聖書には何度も登場する〝ハレルヤ〟ですが、驚くなかれ、新約聖書ではこの黙示録19章2~8節の賛美の中に4回登場するだけです。意外ですが、それだけ新約の喜びは、ここに集中しているとも言えるのです。

最初のハレルヤは宗教的バビロンである大淫婦に神が正しく報復なさったことへの感謝です。そして、2番目のハレルヤは政治的・経済的バビロンである大淫婦が永遠に滅ぼされたことへの感謝として、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と記されています(19・3)

さらに4節で、24人の長老と4つの生き物は、殉教者たちと同じ心で「アーメン、ハレルヤ」と賛美しています。天から祈るような思いで地上の出来事をつぶさに見とどけた彼らも、心からのハレルヤを叫ぶのです。これが3番目のハレルヤです。 ※4つの生き物とはキリストの属性を象徴する特別な天使。24人の長老とは患難期前に天に携挙された教会をあらわしている。

そして、御座からの声が聞こえました(19・5)。これは御使による呼びかけで、神への賛美と礼拝への招きです。すべての者に向けられています。つづく6~8節は、キリストの花嫁の準備が整ったことの宣言です。その喜びの宣言の中で4番目のハレルヤが歌われています。最後のハレルヤは、キリストの婚宴を喜び祝う〝ハレルヤ〟です。

さて、先の大淫婦に対する神のさばきとは対照的に、天では喜びに満ちた宣言がなされます。それが冒頭の御言です。その喜びの理由は、小羊の婚姻の時が来たからです。

小羊とはイエス・キリストです。その花嫁とはキリスト教会のことです。

主イエスは、たとえ話で「天国は王が王子のために結婚式を開催するようなものだ」と語られましたが、神の御国を完成するにあたり、天の父は、王子である御子のための結婚式を用意なさっています。

父なる神は、御子イエスを万物の相続者に定められました(ヘブル1・2)。つまり、御子を神の御国の王とお定めになりました。御国を治めるにあたり王は王妃をめとります。神が、アダムの助け手としてエバを用意なさったように、御子イエスの助け手として花嫁が定められています。

いよいよ、御国の王であるイエス・キリストと花嫁である教会との婚姻の時がやって来るのです。このクライマックスを迎えるまでに、幾多の試練を乗り越えてきたことでしょう。だからこそ天での喜びは最高潮に達するのです。

先ほどの王子の結婚式のたとえ話では、式に招待されながらも所用を理由に断った人々のことが語られています。王の招きに応じる者は幸いです。ですからこう預言されています。

御使は私に言った、書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。また私に言った、これらは、神の真実の言葉である』。」(19・9)

婚宴の席に「招待される人」とはだれですか。第一に、旧約の信者たちです。彼らは復活のからだを受けて、列席者としてやって来るでしょう。旧約最後の預言者であるバプテスマのヨハネの、自分は「花婿の友人」であるとは、それを意味しています。(ヨハネ3・29)

次に招待された人とは患難期の殉教者たちです。彼らは、この天における喜びの祝宴に参加できるのです。これは幸いなことであり、真実な言葉だと言われます。神の誠実で真実な報いが、この祝宴の祝いに込められているのです。

「えっ、私は招かれていないのですか」と思っているあなた。しっかりしてください。イエスを信じたあなたは招待された人ではなく結婚式の当人です。自分がキリストの花嫁であるとの自覚をしっかりと持ってください。何という光栄でしょうか。この真実な神の御言に対して、真実な生き方で応えなければなりません。

さて、7節では「花嫁の用意ができた」と言われていますが、どのように整ったのでしょうか。ユダヤ式の結婚には3段階がありますが、神はその手順に従って用意なさいっています。

(1)婚約

ユダヤでは、花婿の父が花嫁料を支払うことによって婚約が成立します。日本式では結納金といったところでしょうか。

御子イエス・キリストの花嫁のためには、すでに花嫁料が支払われています。十字架で流された神の小羊の尊い血です。聖書は神が御子の血であがない取られた教会と表現しています(使20・28)。私たち教会は、御子の血によってキリストのものとなり、小羊の婚宴にそなえて現在は婚約中です。

だから、パウロはコリント教会のことを次のように表現しています。あなた方をきよい乙女として、ただひとりの男子キリストにささげるために婚約させたのである(Ⅱコリ11・2)。新改訳では、「あなた方を清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした」。

(2)新居の準備

ユダヤでは、婚約がすむと、花婿は花嫁のための新居を準備します。新居の準備ができたら、花婿が花嫁を迎えに来ます。日本では、花嫁が花婿の家に行くのが一般的ですからこの場合は逆です。

イエス様は天に昇られる前、あなた方の住む家を用意するために天に行くのだ」と言われました。そして「用意ができたら迎えに来ると約束なさいました。主は約束通り、準備ができたら迎えに来られます(ヨハネ14・2~3)

どのように来られるのかというと、合図のラッパの響きと共に主は下ってこられます。その時、主にあって眠っている者は復活し、その時点で生きている信者は一瞬にして変えられて天に引き上げられます(Ⅰテサ4・16~17)。これを「携挙」と言います。

(3)結婚式

ユダヤでは、式のはじめに「花嫁のきよめの儀式」があります。私たちキリスト教会はキリストのさばきの座(Ⅱコリ5・10)で、花嫁にふさわしくきよめられます。

このさばきは救いと滅びを区別するさばきではありません ――それは「大きな白い御座のさばき」です―― そうではなく、救われた私たちがどんな生き方をしてきたかがさばかれます。ある人は報償を受けますが、ある人は罰を受けるでしょう。
さばきはきよめるためです。

私たちは地上ではさばき切れない様々な問題を抱えています。人間同士でさばき合うと、ますます傷を深めます。だから公的な裁判でさばくのですが、それでもスッキリしません。だからこそ、キリストがさばいてくださいます。すべてをご存知であるキリストが公平にさばいてくださるなら本望ではありませんか。ですから、自分の悪に対してもキリストにさばいてもらって、その罰を受けるなら納得が行くはずです。

変な表現ですが、きちんとさばいていただくことでスッキリしてきよめられるのです。こうして、キリストの花嫁としてきよめられ、しみも傷もしわもない栄光の教会になって結婚式を迎えます。

このように、私たちは花嫁として、現在準備中ですから、花婿なるキリストと愛を深める生活を大切にします。それが信仰生活です。4つの課題をあげておきます。

①他の神を拝まない。……つまり、他の何者も神としないことです。これがキリストへの最高の愛です。地上の夫婦関係も同じです。配偶者以外の異性と関係を持たないことです。

これはキリストと教会、夫と妻の大原則です。この大原則が日本社会では崩れかけています。クリスチャンこそ霊的純潔と男女の純潔を守ることによって、世の光、地の塩となるべきです。

②主の御名を尊ぶ。……神の御名をいつも賛美することです。神の御名であるイエスを呼ぶことは主への愛です。

夫婦でも「お前」「あんた」と呼ぶようになったら関係はだいぶ冷えています。名前を呼び合いましょう。私たちの愛する神の名は「イエス」です。いつも「イエスさま」と心からお呼びしよう。これが親密な交わりの基本です。

③安息日を聖とする。……安息日は他のわざを休んで主との時間を大切にすることです。私たちはキリストとの時間を大切にしているしょうか。同じように、夫婦の時間を大切にすることで愛を育みます。

これは日曜日の礼拝に限りません。日曜日が安息であるべきことは勿論ですが、それがかなわないときは、それ以外の日でもかまいません。曜日にとらわれずに、キリストとの安息の時間を確保できるよう努めてください。

④イエスと共に働こう。……花嫁である私たちはキリストと共に神の御国を治めるのです。キリストの重要なパートナーです。具体的にはキリストの千年王国の統治に仕えることになるわけです。

ですから、今のこの時代は様々な愛による働き、奉仕、伝道や宣教等々……すべてがつながっています。これはキリストと共に働くことです。苦労もしますが喜びも一緒です。

祈りましょう。キリストと私たちの関係が豊かでありますように、そして花婿なるキリストがいつ迎えに来てくださっても良いように待ち望みつつ働く者でありますように……。

◆◆◆◆◆

黙示録19章の前半はキリストの花嫁についての記述でした。後半の11節からはイエス・キリストの地上再臨の記述です。再臨のキリストは白馬に乗って来られます(11)

ちなみに、初臨のキリストはロバの子に乗って登場されました(マタイ21・7)。それは、苦難のしもべとして来られたからです。しかし、再臨の時は王としてのキリストを前面に出して来られます。

初臨の時は、人類を罪から救うために十字架で屠られるために来られましたが、再臨の時は違います。罪の根源である悪魔を滅ぼすために来られます。具体的には、獣(反キリスト)が招集した敵たちを滅ぼすために来られます。

この戦いが俗にいうハルマゲドンの戦いです。正確には戦闘の場所はハルマゲドンではありませんが、表記が面倒なのでハルマゲドンの戦いと呼ばせていただきます。この戦いは映画などで脚色されているようなすさまじい戦いではありません。一瞬にして決着がつきます。拍子抜けする記述です。

再臨のキリストの出で立ちにあるように、その口から出る諸国民を打つための鋭いつるぎが戦いの武器です(15)。それはキリストの御言です。御言をもって万物を創造し保っておられる神の御言ひとつで彼らは滅びるのです。まさに、その名は「神の言」なるお方に相応しい戦い方です(13)

ハルマゲドンの戦いの結果、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれたのです(20)

獣とは反キリストです。もうひとつの獣はにせ預言者と呼ばれています。彼らは生きたまま〝火の池〟に投げ込まれます。永遠にその体が火炎で苦しむことになります。永遠の地獄です。では、龍(悪魔)はどうなったのでしょうか。それは次の20章に記されていて、底知れぬ所に千年の間とじ込められるのです。


ヨハネの黙示録 18章

2023年05月05日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 18章
わたしの民よ。彼女
大淫婦バビロンから離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。(18・4)


先の17章では、宗教的な「大淫婦バビロン」と呼ばれる女について見ました。これは堕落したキリスト教会を中心に偶像礼拝を包含した世界的な宗教組織でした。患難期前半は、獣が躍進するのに寄与しつつ繁栄をとげた大淫婦でしたが、患難期半ばになると獣の裏切りによって滅びました。

そして、今日の18章です。冒頭に「この後」とありますが、「宗教的大バビロンが滅んだ後」という意味です。さらに別の「大バビロン滅亡」について預言されています。

この18章の大バビロンは、政治的・経済的な大バビロンのことです。先に申し上げたように、政治権力との癒着とそれに伴う世の富を主人とする生き方のことも、真の神を主人としない霊的な姦淫であることを学びました。

つまり、18章で述べてる大バビロンもまた、大淫婦の流れを汲むものなのです。だから〝女〟と表現されています。しかも、バビロンという地名が示すように都市そのものを指しています。都バビロンを中心に繁栄した政治的・経済的な組織を意味しています。

これは獣の帝国の都バビロンです。獣は王となってバビロンに座して世界を統治します。巧みな政治手腕を駆使し、世の富を牛耳る知恵をもって、獣の王国は治められるのです。これに対して、神は激しいさばきをくだされるのだと預言しています(18・2)

すでに13章17節で見たように、獣の印を受けた者しか商売できない仕組みを作りあげたのですから、必然的にバビロンに富が集中します。するとその富の利権に地上の王たちと商売人たち群がります。

こうして、富を主人とする堕落した癒着関係が構築されます。そのことをすべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからであると指摘しています(18・3)

彼らは彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちです(18・9)。如何に大淫婦バビロンが不品行で堕落していたか。そして、富の惑わしによって如何に多くの人々も共に好色にふけったことか。現代の利権がらみの堕落にも、すでにその片鱗は現れています。

これらの記録は、神を主人とせず富を主人とすることを「淫乱で不品行で好色な生き方だ」と神が見ておられるという意味です。しかし、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲んで酔っている者には、自分の姿が見えていません。その証拠に彼女は自分のことを私は女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らないと大見得を切っています(18・7)

女王と言うからには、どのような王の妻なのでしょうか。この世の王たちが相手です。世の権力者たちがちやほやしてくれるので男には困らないといった傲慢ぶりです。もちろんその背後には、獣であり悪魔がいます。悪魔はこの世の君であり王です。彼女は世俗の王たちと姦淫をして世の利権を手にしました。物質的には肥え太っていますが、霊的には痩せ細ったあわれな女です。

さて、大淫婦がバビロンという都の名で呼ばれているように、キリストの花嫁である教会も都の名で呼ばれています。その名はエルサレムです黙示録21章では、キリストの花嫁のことを「聖なる都エルサレム」として描いています。都とは王が住む街です。神の御国の王であるキリストが住まわれるにふさわしい都……それはエルサレムです。私たちの王であり、花婿であるイエス・キリストは、花嫁である私たちのただ中に来て住まわれるのです。私たちを都のようにして、私たちのただ中にあって神の御国を治められるのです。

ですから、キリスト教会は「花嫁」のようでもあり、王の住まう「聖なる都エルサレム」のようでもあります。何という光栄、何という喜びでしょう。そのことを聖書は、「主は言われる、シオン(エルサレム)の娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである」と告げています(ゼカリヤ2・10)

かたや大淫婦と呼ばれる「女」は、バビロンの都にたとえられています。その都は、この世の王、闇の世の主権者である獣が王として住むところです。

バビロンとは地理的なバビロンを示すと同時に、大淫婦の性質である物質中心主義、人間中心主義の世界を表現しています。そんな都バビロンに獣は王として住むのです。

しかし、結果は滅びです。富で栄えたバビロンは1日の内に滅んでしまいます。惨めで何の栄光もないふしだらな女としてさばかれるのです。その滅びは1日の内にです(18・8)一瞬にしてです(18・10、17、19)

世の富を主人とする人々はこの現実に目覚めるべきです。富は本当の主人ではない。霊的姦淫へと酔わせる魔力があることに気づくべきです(18・23)。信頼できる主人であるかのように見えて、一瞬にして滅んでしまう影のような存在です。

だから、神は大淫婦バビロンから離れよと命じています。わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ(18・4)

このように、聖書は〝キリストの花嫁〟〝大淫婦〟というふたりの女を区別しています。そういう意味で、終わりの時代に向かって、教会は大きくふたつに別れて行くでしょう。

キリストの花嫁として霊的純潔を求めて清く生きようとする教会と、大淫婦のように世俗化し、堕落して偽りの宗教団体へと変貌する教会とに別れて行くでしょう。 ※例えば中国公認教会は、中国政府の圧制の元で「十戒命」を取り下げたり、習近平の言葉を掲示したり、礼拝の中で国歌斉唱を義務づけている。司教や牧師任命権さえも政府が掌握している。これに異を唱えるクリスチャンたちは「家の教会(地下教会)」へと流れている。中国共産党支配に〝獣〟の姿は現れ始めている。

だから、私たちはフィラデルフィア教会を目指します。イエスの御言を守って愛し合う教会です。イエスの御名を否まずイエスだけを礼拝する教会です。

かつて、世俗国家と結びついた教会、つまり霊的姦淫をおかした教会が、多くのクリスチャンたちを迫害し、その血を流した歴史があります。ローマカトリックをはじめ国教化されたキリスト教会は、国教化に異を唱えるクリスチャンたちや聖書解釈を異にする聖徒たちを殺害した歴史があります。それと同じようなことが、終わりの時代に再現されるでしょう。

大淫婦バビロンのことを預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたと記されている通りです(18・24)。バビロンという獣の支配するシステムの下で、聖徒たちの血が流されて来たのです。

また、世俗の国々と結びついたかつての教会は、莫大な富を得て贅沢の限りをつくした歴史があります。今もその片鱗はあちこちに見受けられます。「読者よ悟れ」です。そのようなことが、終わりの時代に再び加熱することでしょう。

黙示録18章を読むと、大淫婦バビロンがいかに地上の富に酔いしれていたかが分かります。しかし、霊的姦淫に対する神の厳しいさばきがくだるのだと預言しています。それは、地上の富を主人とすることへの神の御怒りです。

地上の富には魅力があります。その魅力は魔力です。人々はこの魔術にだまされたと記されているとおりです(18・23)。まことの主人であるイエスから目をそらすなら、やがて世の富の魔術にだまされるようになるでしょう。だから、イエスこそが主であると告白する礼拝がいかに大切なことでしょうか。

この世の富を主人としない者こそ、キリストの花嫁にふさわしい教会です。私たちは、イエスこそ我らの主であり、礼拝すべき方であることを、終わりまで告白し続けます。

こういうわけですから、冒頭の聖句のようにわたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよと命じているのです。終わりの時代に目をさましているとは、彼女すなわち大淫婦の様相を知り、それを警戒することです。


ヨハネの黙示録 17章

2023年05月04日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 17章
私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。
(17・6)


第17~18章の記録は、7つの鉢のさばきに至るまでと、それと並行してなされる出来事の詳細が記されています。その内容は、ある〝女〟へのさばきについての預言です。

黙示録には3つの〝女〟が登場することをすでに見ました。キリストを産んだ女はイスラエル民族。そしてキリストの花嫁なる教会も女です。そして、第17章に登場する大淫婦も女です。

聖書的に〝女〟とは人々の集合体を表しています。教会がキリストの花嫁であるとは、キリストを愛し仕える人々の集まりをいうわけです。この場合、キリストの花嫁にはキリスト以外に花婿はいません。つまり、イエス・キリストだけを愛して礼拝するのが教会です。もし、教会がイエス・キリスト以外のものを礼拝したら、それは不倫であり姦淫です。

そのような不倫のことを聖書は〝霊的姦淫〟だと指摘します。

ですから大淫婦と呼ばれるこの女は、霊的姦淫のきわみに至った人間たちです。真の神の存在を知りながら、偽りの神々を崇拝する人間たちの宗教組織だと考えられます。 ※終わりの時代には大淫婦と呼ばれる宗教組織に、諸宗教は包括されて行くと考えられる。霊的に堕落したキリスト教会もこれに合流するだろう。歴史はその方向に向かっている。

聖書は、この〝女〟の名は大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母であると記しています(17・5)。歴史上の様々な偶像礼拝を生み出してきた母のような存在です。それが終わりの時代に完成形の姿で登場するわけです。

そして、その女のことを大いなるバビロンと都の名で呼んでいることにもふれておかねばなりません。都市の名で呼ぶ意味は、文字通りバビロンにその宗教組織が置かれるのでしょう。獣の帝国の首都はバビロンです。 ※獣の都が「大バビロン」であるのに対して、キリストが王として統治する御国の都は「エルサレム」であって花嫁なる教会を象徴している。両者の対比は興味深い。

バビロンの始まりは神に反抗して立ち上がったニムロデが建てた町です(創10・8~10)。彼はその町にバベルの塔を建築しました(創11・1~9)。これは、人間を高く上げ神のようになろうとする象徴です。この頃からすでに獣の働きはあって、ついに終わりの時代になって、獣の帝国はバビロンを都にして世界を手中に治めるわけです。

この大淫婦バビロンが、獣と深い関係にあることを聖書は次のように指摘しています。

ひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった(17・3)

女が乗っている獣とは、先の13章1節の「海からの獣」です。つまり反キリストです。この密接ぶりはまるで〝反キリストの妻〟です。かたや、キリストの教会は〝キリストの花嫁〟です。

ここで、霊的姦淫について述べおくことにします。大きくふたつに分類できますが根は同じです。

第一は、宗教的な霊的姦淫です。

このことはすでに述べたとおり、真の神がおられるのに、偶像の神々を崇拝することです。これを宗教的大バビロンと呼ぶことにします。

第二は、政治的・経済的な霊的姦淫です。

国家権力と結びついて国の妻となることです。そして、政治的な権力を手にするとで経済的な富を主人とすことにもなります。これは霊的姦淫です。これを政治的・経済的大バビロンと呼ぶことにします。

その区別をもとにして読み解くと、黙示録の17章では、宗教的大バビロンの滅亡預言。次の18章では、政治的・経済的大バビロンの滅亡預言として記されていることがわかります。

キリスト教会の歴史の中で、教会が国家権力と結びついた時代がありました。キリスト教を国教化することで教会の安寧を保ちつつ、教会は世俗国家統一のために仕えました。これは霊的姦淫です。このことでキリスト教会は国の保護のもとに拡大しました。しかし、教会は国と癒着することで本来のキリストの花嫁としての貞節を失ってしまいました。

こういう意味で、ローマ帝国によるキリスト教の国教化は、迫害に勝利した教会ではなく、堕落した教会の歴史だと解釈します。

このようなキリスト教会の歴史は、患難期にいたって地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれているという姿に展開するするのです(17・2)

患難期の大淫婦バビロンは、堕落したキリスト教会を中心に他宗教も包含された宗教組織であると思われます。この組織は反キリストと結びつくことで国家的な権力を後ろ盾にして発展し、獣の帝国の統一に寄与することになるのです。 ※21世紀になってキリスト教会をはじめ諸宗教が世界平和のために連携する働きが進んでいる。目指すべき課題は尊いと思うが、一方でそのような宗教的統合が〝獣〟の世界統治に利用され、取り込まれることになるだろうと懸念している。

この〝バビロン的活動〟の背後には常に獣がいます。その働きは、手を変え品を変え、イスラエル民族の歴史とキリスト教会の歴史の中に入り込み、堕落と腐敗をもたらしてきました。

例えば、かつてのキリスト教会はローマ帝国をはじめ各国の国教となり ――これは前述のごとく霊的姦淫です―― この国教化した教会の下で、数千万のクリスチャンたちが殉教しました。

教会が国教化することに異をとなえたクリスチャンたち、国策の元でなされる幼児洗礼や滴礼に反対するクリスチャンたち、国が認定した聖書解釈と異にするクリスチャンたち……。彼らは、異端者として断罪され処刑されました。おぞましい暗黒の歴史です。

だから、大淫婦と呼ばれるこの女は聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれていたのです。そして、大淫婦の正体を知ったヨハネは驚いています(17・6)。自分が愛し育ててきた教会の未来の姿を見て驚いたのです。この堕落した教会というか宗教団体は、患難期にさらに多くの聖徒たちの血を流すのです。

とても心苦しいですが、これは霊的姦淫をおかした教会の姿です。彼女は国家や富に自分の身を売ることによって、地上では豊かになりました。彼女が身にまとっている紫と赤の衣、金・宝石・真珠は、霊的姦淫によって得た地上の富です。

霊的姦淫の相手が国家や世俗の利権のようですが、実際は〝獣〟との結びつきであることを見逃してはなりません。この大淫婦は獣に乗っていると記されているからです(17・3)

何と言うことでしょう。キリストの花嫁であるべき者が世俗国家の妻を気取っているだけで、結局は〝獣の女〟になりさがった姿です。しかし、このような蜜月期間も患難期の半ばで破綻し、ついに獣はこの女を滅ぼしてしまいます(17・16)

獣である反キリストは世界を手中に治めると、もはやこの宗教的大淫婦は利用価値がなくなり滅ぼしてしまうわけです。患難期の半ばになると、自らを神と宣言し、もうひとつの獣である〝にせ預言者〟と共に本懐を遂げようと突き進みます。

終わりの時代には、このような「大淫婦」と「キリストの花嫁」とが、はっきりと区別されます。今その傾向が現れつつある時代です。黙示録の3章で述べたように、教会史の末期では、キリストの花嫁として完成を目指す「フィラデルフィア教会」と、富を主人とする「ラオデキア教会」に分かれて行くでしょう。ですから、目をさましてキリストの花嫁としての生き様をまっとうすべきです。

◆◆◆◆◆◆

黙示録17章7節からは獣についての解説が記されています。 難解な箇所なので別枠で記します。

まず、獣が登場する背景についてお話します。そのために理解していただきたいテーマがあります。それは、世界の流れは、グローバル化に向かっているということです。世界共通の価値観や基準で統一しようという動きです。宗教もその流れが加速するでしょう。経済も政治もそうです。

特に経済界では顕著に進んでいます。富を主人とする価値観からすると、世界規模で活動を展開することが当然の帰結です。それに向かって統廃合が進み、やがて少数の企業が莫大な富を支配するようになるでしょう。すでにその片鱗は見えています。 ※例えば、GAFAGoogle・Apple・Facebook・Amazon)と呼ばれる巨大企業の存在がある。また、1割の人間が世界の富の8割を所有している等の統計もある。

また、政治においてもグローバル化が進むでしょう。感染症、気候変動、温暖化、核問題、紛争、経済危機などの世界レベルの問題を取り扱うにも、各国ごとの政策では足並みがそろわないので、埒があきません。それならば、国際連合が機能するだろうか。しかし、国連には世界をコントロールする力がないのが現実です。決定的なところになると、常任理事国の拒否権発動で頓挫しています。

互いの利益を調整したり、意見をすりあわせる民主的な手続きに、やがて世界はしびれを切らすようになるでしょう。大きな権限を持った組織や卓越した人物による、スピード感のある大胆な政策や変化が待望される時代が来るのです。

こうして、黙示録が預言する〝獣〟が登場する舞台が整って行きます。そして、獣に霊的権威を与えカリスマ的な能力を演出する〝地からの獣にせ預言者やそれと協同する宗教組織である〝大淫婦〟が形成されて行くわけです。

そして、ついに人々は獣を支持するようになります。次の聖句はそれを意味しています。

彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。(17・13) 

神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。(17・17)

次に、獣の7つの頭と10本の角についてです。

は王を意味します。つまり統治者のことです。は統治段階と解釈します。つまり、獣の統治段階には7つの段階があるわけです。9節には「頭は山で七人の王たち」と説明がありますが、この場合の王は統治段階と解釈します。ですから「5人はすでに倒れた」とあるので、5つの統治段階まではすでに終わったのです(17・10)

そして、この啓示を受けたヨハネの時代は6つ目の統治段階です。その後に、もうひとりが来ます。7人目です。つまり、7つ目の統治段階です。まだ来ていませんが、これが来ると反キリストの統治であり、獣の統治としては完成形です。

そのうちの5人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだ来ていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっているとはそういう意味です(17・10)

6つ目の統治段階は著者ヨハネの時代に姿を現しています。ローマ帝国です。しかし、その段階は一旦、姿を消すようですが、やがて来ます。7つ目の段階となって登場します。それは「8番目でもある」というのです(17・11)。10本の角は10人の王すなわち統治者です。黙示録ではふれていませんが、同じ情景をダニエル書が説明しています。10人の王がいたが、もうひとりの王が台頭してきたため3人の王が脱落します。つまり7人になったところに、もうひとりが台頭してきたので「8番目」です。

この8番目の統治者が反キリストです。獣の世界統治の7段階目に登場する8人目の統治者が反キリストであるという意味です。

彼は、統一された世界宗教組織である大バビロンの手を借りて世界を統治します。かつてキリスト教を利用して世界を統治したローマ帝国と同じ手法です。

また、政治と経済を統一してその支配を強めます。その統一された政治と経済システムと中心都市のことを総合して、聖書はそのことも「大バビロン」と呼んでいます。


ヨハネの黙示録 16章

2023年05月03日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 16章
その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。
(16・11)


神の御怒りが〝鉢〟と表現されているのは興味深いです。瓶とか壺のような注ぎ口の狭い器ではチョロチョロと注ぐことになりますが、鉢ですから傾けると一気に注がれるわけです。新改訳3版のぶちまけるという表現は、鉢に込められた神の御怒りが一気に地上に注がれる様子を表現しています。新改訳2017の「注がれた」では、その勢いが薄れます。

7つの鉢のさばきは次の通りです。
 ①腫れ物
 ②海の水が血になる
 ③川の水が血になる
 ④太陽の炎熱
 ⑤漆黒の暗闇
 ⑥全世界の軍隊の集結
 ⑦大地震と巨大な雹……と続きます。  

第1~5の鉢のさばき(16・1~11)

1~5の鉢のさばきは、獣を礼拝する人々にむけて災いがくだります。たとえば、腫物については「獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々との体にひどい悪性のでき物ができた」とあります(16・2)

この時点で、獣にひざをかがめなかった人々も残っていますが、彼らにはこの災いは及びません。かつてエジプトに下った災いも、イスラエル居住区のゴセンが守られていたのと同じです(出8・22、9・4、10・23)。患難期に獣礼拝を拒絶するユダヤ人も守られることは既に学んだ通りです(黙12・6)

第2と第3の鉢のさばきは、海水と陸水も血に変わります。文字通りの血液なのかどうか分かりませんが、これまで多くの殉教者の血が流されてきたことへの報復を意味していることは確かです(黙16・5~6)

また、殉教者たちも神による報復を支持し、かつ感謝しています。「私はまた祭壇がこう言うのを聞いた、『全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります』」とはそのことです(16・7)

律法ではいけにえの血は祭壇に注がれました。同様に殉教者の血は天にある祭壇に注がれたわけです。だから、先の黙示録6章9~11節で、殉教者たちの声が祭壇の下から叫んでいました。いつになったら神はおさばきになるのですかと。でも、もうしばらく待っておれという返答でした。その〝もうしばらくの結果〟がこの鉢のさばきに表れているのです。

第4の鉢では太陽の炎熱による災害、第5の鉢では漆黒の暗闇の災害と続くのですが、獣礼拝をする人々は悔い改めるどころか、かえって神の御名を汚し、呪ったのです(16・9、11)。これら一連の出来事は、あの出エジプトの時の災害に似ています。そして、心を頑なにするエジプトの王パロと同じです。でも、神は最後まで悔い改めを待っておられます。

第6の鉢のさばき(16・12~16)

第6の鉢が傾けられるとユーフラテス川の水が枯れてしまいます。その目的は日の出る方から来る王たちに対し道を備えるためです(16・12)

黙示録が記された当時の地理感覚で日の出る方とは、ユーフラテス川の東側のことです。従ってメソポタミヤ地方の王たちを意味しています。その首都はバビロンです。ところが、インドや中国、さらには日本海を越えて日本であると解釈するのは深読みしすぎです。ユーフラテス川の向こう側の〝オリエント〟から来る王のことを意味しています。

この日の出る方から来る王たちが進軍する目的は、ユダヤ人を殺戮するためです。王たちを突き動かす動機の背後には龍(悪魔)たちの働きがあります。だからこう記されています。

龍の口から、獣の口から、にせ預言者※の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。(16・13~14) この3つの汚れた霊とは、①龍(悪魔)②獣(反キリスト)③にせ預言者(地からの獣)らが派遣する悪霊です。 ※先の13章11節の「地からの獣」は、ここに至って「にせ預言者」とされている。

この悪霊たちは、全世界が一致してイスラエルを滅ぼすべき必要を各国のリーダーたちに説明し、説き伏せるのです。この巧妙な働きかけは、聖霊による以外に見破ることはできないでしょう。こうして各国は、反ユダヤ主義の旗の下に、全軍をハルマゲドンに集結させます。これが、反ユダヤ主義の最終的に行き着くところです。

この時すでに、世界は鉢のさばきによってかなり疲弊しています。腫れ物と水不足と灼熱の中で、それでも兵士たちが立ち上がるのは、それだけあの3つの汚れた霊たちの説得が巧みであったのでしょう。

つづいて、3つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に王たちを召集したと記しています(16・16)。ハルマゲドンとは「メギドの山」という意味で、ガリラヤ湖の西南に位置する山です。その眼下には北側にイズレエルの平原が広がっています。 ※ハルマゲドンで戦争が起きるのではない。イスラエルに敵対する軍勢の集結地である。また、某解説によると「ハルマゲドンはゴラン高原で、ここで世界最終戦争が起きる」とする説があるが、そこはガリラヤ湖の東側であって位置関係が矛盾する。聖書はそこまで明言していない。

15節には挿入句として注意喚起がなされています。

見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」。鉢のさばきが始まると、いよいよキリスト再臨の時ですが、明確な日時は分かりません。だから、目をさましていなさいと命じられているわけです。

当時のローマ兵の決まりでは、夜番が居眠りをすると、その罰として素っ裸で歩かされたのです。そのような恥をかかないようにと警告されているわけです。と同時に、信仰によって義の衣を着ることを忘れるなという意味にもなります。どんな試練の中でもキリストを着ることを忘れてはならないという意味です。

第7の鉢のさばき
(16・17~21)

すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、事はすでに成ったと言った(16・17)。この声は天の神殿からの声、神の高らかな宣言です。新改訳では事は成就したです。つまり、キリストの再臨と救いの計画は完成したことを意味しています。正確には、わずかばかりの時間の経過を経なければなりませんが、神にとっては〝完了形〟です。第7の鉢にまで来たら、もう完了したも同然です。

ハルマゲドンに集結した軍隊は、逃げるイスラエルを追って進撃します。追い詰められたイスラエルはようやくイエスがキリストであると告白し、キリストの来臨を求めるようになるでしょう。この一連の流れは黙示録16章に記されていませんが、聖書各所の預言から次のように予測できます。

追い詰められたイスラエルは、かつて自分たちが突き刺したイエスがキリストであると認めるようになります。こう預言されています。わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。(ゼカリヤ12・10)

この民族的な悔い改めは〝恵みと祈(嘆願)の霊〟とあるように、聖霊の圧倒的な働きの中でなされるのです。この民族レベルでの救いはパウロも預言しています(ローマ11・25~26)

こうして、ついにイスラエルはキリストの来臨を切望します。すると、イエスが預言されたことが成就します。思い出してください。かつてイエスは言われました。「『主の御名によってきたる者に、祝福あれとお前たちが言うときまでは、今後再びわたしに会うことはないであろう(マタイ23・39)

このように預言なさる前に、イスラエルの民は、ロバの子に乗って都入りされたイエスを歓迎して「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」と告白しています(マタイ21・9)。それなのに、その後、イスラエルはイエスを拒絶してしまうのです。

その拒絶を受けて、再びイスラエルが「主の御名によって来たる者に祝福あれ」と歓迎し呼び求めない限り、わたしと会うことはないと預言を残して、イエスは十字架につかれたわけです。

長い歳月を経て、イスラエルは民族を挙げてイエスを呼び求め、こうしてキリストの来臨となるのです。

さあ、黙示録の記述に戻ります。イスラエルにこのような出来事が進む最中、獣たちの国には大きな災難が降りそそぎます。かつてない大地震の発生です(黙16・18)。どれほどの甚大な被害になるのか。想像をはるかに超えています。

また、その地震でシオンの山が地殻変動を起こし、3つに引き裂かれるようです。イエス再臨のとき、オリーブ山が南北に引き裂かれるというゼカリヤ書14章4節の記述もこの出来事と関連しています。

また、1タラント35㎏ほどの巨大な雹が降って大きな災害になります(16・21)。一連の災害の大きさは歴史上経験したことのないものばかりです。

かたやこの神の御怒りの中で悔い改めず、神の御名をけがす人々もいます(16・9)。彼らは天の神をのろいます(16・11、21)。調子の良いときは神をほめたたえるが、災いのときは平気で神をのろう……これが罪人の性質です。私たちはどうですか。

「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」と告白する者は幸いです(詩119・71)

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/35re3Jsim3Cobp50YDUItP?si=_iQj47yTRnypW7xU4YxAww
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ヨハネの黙示録 15章

2023年05月02日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 15章
彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌を歌って…
(15・3)


神の最終的な御怒りとさばきが世に下されようとしています。それは7つの鉢が傾けられるたびに、地上にもたらされる激しい苦難です。そのことについて、黙示録はこう預言しています。

7人の御使が、最後の7つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである(15・1)。これ以上にない御怒りであることを表現しています。この「怒りがその頂点に達する」という言葉は、新改訳では怒りはここに極まると訳しています。

「極まる」というギリシャ語は〝テレオウ〟で、あの十字架で叫ばれたイエスの言葉〝テテレスタイ〟と同じ語源です。イエスは十字架で罪の支払いは完全に支払った。つまりテテレスタイしたと言われました。完璧に支払われたのです。それと同じように、罪に対する御怒りも患難期の最後に〝完璧に〟くだるという意味です。

悪と罪に対して正義を貫くために〝御怒りを極める〟お方は、人類を愛するために御子イエスさえも十字架につけて、その〝愛を極める〟お方なのです。神は、このように妥協なさいません。罪人をさばく義も、罪人をゆるす愛も極めるお方です。

さて、このさばきが終われば神の御国が完成します。勝利は目前です。イエスを信じて従ってきた者たちは、この日のために「聖徒たちの忍耐と信仰」をつくしてきました。いよいよ報われる時が来ます。

その時の勝利の歌が預言されています。

全能者にして主なる神よ。あなたの御業は、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。

主よ、あなたを恐れず、御名をほめたたえない者がありましょうか。あなただけが聖なる方であり、あらゆる国民は来て、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるにいたったからであります。
(15・3~4)


この勝利の歌を歌っているのは、獣に屈せず最後までイエスを主と告白し続けた人々です。彼らは患難期に殉教した人々であろうと思われます。彼らはこの歌を火のまじったガラスのような海のそばで歌っています(15・2)

そして、この歌はモーセの歌と小羊の歌だといわれます(15・3)

前者のモーセの歌とは、出エジプト記の15章の歌が思い出されます。かつて、エジプトを脱出したイスラエル民族は、紅海を渡り終えたのち、追撃してきたエジプト軍が逆流した紅海の水に飲み込まれるようにして滅ぼされたとき、その〝海のそばで〟勝利の歌を歌いました。

かたや、黙示録15章の「火のまじったガラスのような海のそば」で歌う姿と、エジプトから救い出されたモーセと民らが「紅海のそば」で歌う姿が重なるような光景です。

イスラエル民族は海を渡りましたが、彼らを滅ぼそうと追撃したエジプト軍は海の水で滅びました。この海はイスラエルにとっては救いの海であり、エジプト軍にとっては滅びの海となりました。

黙示録の16章からは、いよいよ7つの鉢が地上に傾けられるのですが、その鉢の中には「火のまじったガラスのような海」に象徴される、最後の激しい神のさばきが詰まっています。それが、次々とこの地にぶちまけられるのです。

あのノアの時も、洪水という海によって地上はさばかれ、滅ぼされました。また、イスラエルを全滅させようとしたエジプト軍も、紅海という海によって滅ぼされました。

そして、世の終わりには火のまじったガラスのような海に象徴される、最後の激しい神のさばきによって滅ぼされるのだと預言されているわけです。

しかし、イエスを信じる者は、このような「滅びの海」に沈むことはありません。なぜなら、すでに水によるバプテスマを受けたからです。イスラエルが紅海を渡ってエジプトの追撃から救われたように、私たちはバプテスマの水を通過してサタンの追撃から救われています。※第一コリント10章1~2節によると、旧約のイスラエルが紅海を渡ったことはバプテスマである。

患難期に殉教した人々は〝肉体の死〟を通過してではありましたが、真のいのちを得て、この海のかたわらに立って賛美をささげることになります。以上の意味で、彼らの賛美は「モーセの歌」なのです。

もうひとつの小羊の歌とは小羊であるイエスこそが勝利をとられたことへの賛美です。3~4節の歌詞がそれを示唆しています。その内容は、神が正しくさばかれたことへの感謝の歌です。

ひるがえって、今のこの世界は矛盾に満ちています。不正、偽り、搾取、格差、差別等々。正しいさばきを求めて訴える者たちのうめき声が満ちています。しかし、それに応えるようにして、小羊であるイエス・キリストが御国の王として統治なさいます。その御国の土台は正義です。神の正義に基づく公正なさばきの上に御国は成り立つのです。そのような御国の王である小羊への賛美が歌われます。

さて、その御国について聖書は、義と公平はあなたの御位の基であると預言しています(詩89・15)。新改訳では義と公正はあなたの王座の基ですと告げています(89・14)※口語訳と新改訳では節番号がずれる。

このような正義に基づく統治がなされるために、厳しいことではありますが、7つの鉢のさばきはくだるのです。

だから、私たちは、今しばらくは不正の世に置かれます。不義がまかり通る世界で生きることになります。しかし、私たちは不平や不満でやけをおこしたり、人生を台無しにしてはなりません。

愚直にひたすら小羊への礼拝を貫きます。最後には、神の正しいさばきがあることを信頼し委ねます。そんな生き方をしてきた者たちが、この「モーセの歌と小羊の歌」を歌うことになるのです。


ヨハネの黙示録 14章

2023年05月01日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 14章
ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。
(14・12)


終わりの時代は、それまで曖昧だったものが明確に区別される時代だと言えるでしょう。主がラオデキアの教会に「あなたは熱いか冷たいかであれ」と言われたように、信仰があるのかないのか、はっきりしなさいと言われるのです。

黙示録の預言する患難期は、獣反キリストを礼拝するのか、それともイエス・キリストを礼拝するのかをはっきりと区別する時代です。

先に見たように、獣を礼拝しない者は物の売り買いができないような経済的な制裁や迫害を受けます。ですから、この時代にイエスを主と告白する者にとって信仰は命がけです。

肉体のいのちを取るのか、それともイエスを信じて永遠のいのちを取るのか。迫害はそれをはっきりとさせます。迫害の中で、信仰があるのかないのかを篩にかけるようにして区別することになります。

神が、あえて反キリストの活動をお許しになるのは、信仰があるのかないのかを、はっきりとさせるためです。

しかし、獣(反キリスト)が活動できる期間は限られています。獣に力があるようでも、神がそれをお許しになったからであって、時が満ちるまでです。ここに聖徒たちの信仰と忍耐があります。

現代のように迫害が少ない時代でも、神は試練や困難を通して、私たちに信仰があるのかないのかを明確にしようとなさっています。ですから、そんな時はチャンスです。信仰が火で精錬されて純金のようにされるチャンスです。

試練の時こそ信仰をはっきりさせる機会です。困難の時こそ、曖昧であった信仰を悔い改めて、真実な信仰へとしっかりと舵を切る良い機会なのです。

今日の第14章は、この患難期を通してどのような結果に至るのか、6つの事例をあげています。

(1)14万4千人が歌う賛美(14・1~5)

1節に私が見ていると、見よ小羊がシオンの山に立っていたとあるように、この情景は、患難期が終わって、主イエスが地上に再臨なさった時点での出来事です。獣を拝まず、主イエスへの礼拝を貫いた者たちは、小羊と共にシオンの山に立つことになります。

イスラエルの中から選ばれた14万4千人は患難期を生き抜いたのです。彼らは神の厳しいさばきも、またその中に込められた神の哀れみも、みなつぶさに見て来た聖徒たちです。そんな彼らだからこそ歌うことのできる賛美があるのです(3)

彼らは患難期に勝利する者たちの初穂だと記されています(14・4)。つまり、初穂のあとには続々と実りが出てくるという意味です。彼らの伝道と証しによって多くの勝利者たちが続きます。

本当の勝利者とは誰でしょうか。世で成功者となることではありません。世におけるいのちを長らえることでもありません。獣への礼拝に屈しない者こそ本当の勝利者です。  

(2)悔い改めへの招き(14・6~7)

これは患難期の後期の出来事と思われます。最後の最後に、神は天使を用いて、地上に住むすべての人々に、あらゆる言語を通じて福音が伝えられるのです。その宣教は大声でなされます。

神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め。(6~7)

天使による超自然的な宣教です。こんな宣教方法があるのなら、これを今の時代になさったら良いのにと思うのは、私だけでしょうか。

今の時代は、口下手な私たちによって宣教がなされています。これといった立場も身分もない私たちに福音が委ねられています。発言しても世の雑踏で消されてしまう私たちの声に、この尊い福音が運ばれるのです。もどかしく隔靴掻痒の思いです。

でも、神の御心はここにあります。こんな小さな者が告げる福音を聞き入れるには、よほどの謙遜がなければなりません。福音は賢い者には隠され、幼子たちに現されるのは父の御心なのです(マタイ11・25~26)。天国に入るためには身を低くして、小さい者になって入ります。ですから、私ごときの話を聞いて信じてくださる方は、〝小さい者〟となっているのです。

しかし、最後の最後には、神は大胆な宣教をなさいます。もはやこれ以上待てない!!というギリギリの状況です。ここで信じるなら、獣に殺されることでしょう。殉教を覚悟して信じます。逆に、ここで信じない者は、肉体のいのちを惜しむあまり獣に己の魂を売ることになるでしょう。

古代ローマの迫害下で火刑に処せられた〝老聖徒ポリュカルプスの殉教〟の記録です。「火あぶりにするぞ」という脅しに対して、彼は「ほんの1時間ばかり燃えて消えてしまう火で脅そうというか。来るべき火、不信者への永遠の刑罰の火を知りなさい」と言い残し、彼は火炎の中で息絶えたのです。

真の勝利者とは、サタンのごとく神を無視して頂点に立つ者ではありません。サタンは自らを神として、天の頂きに登ろうとした者です。その結果は滅びです。そうではなく、神の御前に伏して礼拝する者こそ真の勝利者です。  

(3)大バビロン滅亡の宣告(14・8)

大バビロンとは、患難期に獣と手を組んで繁栄する宗教組織とその都市のことです。詳しくは17章で述べることにします。この都市も患難期の最後には滅亡します。

(4)獣礼拝者の滅亡(14・9~11)


獣を礼拝する人々はイエス・キリストの福音を知らないのでしょうか。いいえ、患難期には14万4千人の伝道者が世界宣教に遣わされています。また、先の14章6~7節にあるように、天使による超自然的な宣教によって聞いているはずです。

ここで指摘されているのは、それでも獣を礼拝する道を選んだ者たちへのさばきです。だから、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられるというのです(10)

神の〝混ぜものがない怒り〟とは恐ろしい表現です。

今の時代、私たちは神の〝混ぜものがない福音〟を聞いています。イエスを信じるだけで救われるのです。これに混ぜものがあってはなりません。信じる以外に良い行いが必要だとか、もう少しましな人格者であるべきだなどの条件がつくなら、それは混ぜものです。この混ぜもののない福音ゆえに、私のような者でも完璧に救われるのです。

それと同じように、混ぜもののない神の御怒りとは、わずかばかりの善行や人格者ゆえに、御怒りを手加減したり薄めるようなことをしないという意味です。だから、今という時にイエスを信じてください。今は恵みの時、今は救いの日なのですから。

(5)忍耐し続ける理由(14・12~13)

真の神を礼拝することは、時代によっては殉教を覚悟することになります。なぜ、そこまでして信じ続けますか。たとい肉体のいのちを損しても、霊魂のいのちは永遠だからです。

日頃は、肉体のいのちばかりを意識しています。それも大切ですが、霊魂のいのち、すなわち内なる人のいのちが生きていてこそ、この肉体のいのちの使い道がはっきりするというものです。肉体のいのちを保つために、肉体のいのちを使うのですか。その人生の最後に何が残りますか。そうではなく、霊魂のいのちを保つために、「肉体の死」という肉体の使い道があるのです。そのような選択を迫られる時代がやがて来ます。過去にもありました。そして、黙示録が預言する患難期はそのような時代です。

「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」と宣言できるのは、霊魂のいのちに目覚めている人の告白です。

(6)2つの刈り取り(14・14~20)

もう一度申し上げますが、終わりの時代は区別される時代です。言いかえれば収穫の時代です。イエス様は世の終わりを収穫にたとえて語られました。その時には、実のあるものと無いものとを篩にかけて区別すると言われました。

良い麦と毒麦も区別されます。生育途中で毒麦を抜いてしまおうとする僕に、「収穫の時まで待ちなさい」と主は言われました。神は、収穫の時期を待っておられます。実が熟して結果が明瞭になる時を待っておられるのです。

まさに、神は農夫のようなお方です。人類の中に「御言」という種をまき、信仰の実が熟する時まで待っておられます。

神は、そのために信じる者に聖霊を注いでくださり、御霊の実を結ぶようにいつも手入れしてくださっています。時には、農夫である神の御手による剪定をうけて痛い思いもします。

良き実りの収穫だけではありません。神は、悪魔による悪しき実が熟する時も待っておられます。悪しき実が熟したら、それを収穫して、永遠の火の中で焼きつくてしまわれます。

14章には2種類の刈り取りが記されています。14~16節の〝刈り取り〟は良い実りの収穫です。先ほどの14万4千人に続く多くの勝利者を神は収穫なさいます。患難期に救われた人々のことです。

しかし、17~20節の〝刈り取り〟は、激しいさばきの刈り取りです。悪しき実りは熟しました。その実は、踏み潰されるようにしてさばきを受けるのです。

以上の結末を覚えて、信仰のある者は忍耐せよと勧めています。イエスを信じ続ける信仰の忍耐の理由はここにあるのです。


ヨハネの黙示録 13章

2023年04月29日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 13章
獣・反キリストは聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(13・7)


第13章は〝獣〟についての預言です。聖書では、神に敵対する存在を〝獣〟と象徴的に表現しています。たとえば、創世記では、アダムとエバを誘惑したヘビを野の獣の中で最も狡猾な……と記しています(創3・1 新改訳)。またその後、ヘビは獣の中で最も呪われるとも言われています(創3・14)

極めつけは、ダニエル書で預言されている種々の獣です。獣は神に敵対する帝国や王のことで、歴代の帝国を獣として表しています。

第1の獣〝獅子〟はバビロン帝国です。
第2の獣〝熊〟はメディアペルシャ帝国。
第3の獣〝豹〟はギリシャ帝国でした。

そして次に登場する帝国は第4の獣です。獅子と熊と豹とを合わせた……それ以上の凶暴な特別な獣として描かれています。

実は、この第4の獣は歴史の順序でいえばローマ帝国に相当します。そして事実、ローマ帝国の時代にキリストは殺され、キリスト教会は大迫害を受けました。この邪悪ぶりはまさに獣でした。ですから、初代教会の迫害時代のことが、黙示録の預言する患難期であると解釈する神学もあります。

しかし、その歴史的な経過を見ると黙示録の預言通りには展開しませんでした。ローマ帝国は第4の獣の要素を含んではいましたが、さらに終わりの時代に究極の獣の時代が来るのです。それが、黙示録に登場する海からの獣です。

黙示録ではふたつの〝獣〟が登場します。海からの獣地からの獣です。両者は別の獣ですが、その背後にあって働くのは龍でありサタンです。順をおって見てみましょう。

(1)海から上ってくる獣、それは反キリストだ。

〝獣〟とは、ひとりの人物であると共に、彼が統治する帝国のことです。この獣こそ反キリストとか不法の者とも呼ばれる存在です。これがダニエル書の第4の獣です。※不法の者は第二テサロニケ書2章3節によれば、神殿にて自分を神だと宣言するが、再臨のキリストによって滅ぼされることになっている。

この獣には10本の角と7つの頭があり(13・1)第4の獣と形態が酷似しています(ダニ7・7)。10本の角は10人の統治者とか、10ヶ国の連合体のような帝国を表していると思われます。獣の国は10ヶ国連合です。 ※現在の欧州連合(EU)のことだとの指摘は早計である。かつて10か国であった加盟国も現在では27か国。これは患難期時代に登場する国である。

ダニエル書によれば、10本の角の中から1本の角が出て来たために10本のうちの3本が引き抜かれることになります(ダニ7・8)。その後、登場する1本の角が反キリストであり、獣の国を代表する支配者になるのではと考えられています。

また、獣の7つの頭とは、獣の帝国の統治における7段階を表すという説があるが、理解しやすい解釈だと思います。それによれば、患難期に登場する反キリストは最後の段階……つまり7番目の頭の時代の統治者であるわけです。※詳細は17章を参照。

すでに先の12章で見たように、赤い龍(サタン)も10本の角と7つの頭がありました。つまり、龍と獣は根は同じです。獣とは、龍(サタン)が人間の姿でやって来たような人物と考えてよいでしょう。

御子イエスが人として世に来られたのは、父なる神の栄光を見える姿で現すためであったのと同様に、獣は見えないサタンの邪悪さを見せてくれる人物です。御子イエスが「天の父とひとつである」お方であるように、獣は龍の化身のような人物です。彼らは根っ子ではひとつです。

とはいえ、獣は優秀で卓越した人物です。その秀でた才能ゆえに人々から称賛を浴び、人々は彼を全世界の統治者として承認するようになるでしょう。それほどのカリスマ的な人物です。

この獣すなわち反キリストは、何らかの事件で殺されたのですが復活を遂げます。「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」のです(黙13・3)。しかも、その反キリストがあのふたりの証人に打ち勝ったのですから、地上の人々は彼を統治者として承認し、崇めるようになるのです。その様子がこう預言されています。

龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、『だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』。」(13・4)

龍である悪魔は、自分も神のように賛美を受ける者になりたいと願って堕落した元天使です。自分が神としてこの世を支配し、人々からの礼拝を受けたい。これが悪魔の本性です。だから、こうして龍は自分の化身である獣に力を与え、獣を通して自分が崇められるように画策するのです。

真実な礼拝は、神の御子イエス・キリストを通して天の父を礼拝することですが、この時代は大きな惑わしによって、獣礼拝は地にはびこることになります。 ※昔から悪魔礼拝をする人々がいるが、一般人にはおぞましくて身近な事ではない。しかし、この時代になると様態を変えて公然と獣への礼拝がなされるであろう。

(2)地から上ってくる獣、それはにせ預言者だ。

11節には、地から上ってくるほかの獣が登場します。「ほかの」とは、〝まったく同じ性質であるほかの〟という意味です。ですから、龍と海からの獣と、そしてこの地からの獣とは形こそ違いますが同質の存在です。

この獣には小羊のような角が二つあるのですが、これは宗教的な活動を意味します(13・11)。先の獣すなわち反キリストを神として礼拝するために、宗教活動をする獣です。

さらに龍のように物を言ったとあるので、悪魔の代弁者です。巧みな言葉と説得力ある情報発信によって、人々を獣礼拝へと駆り立てるのでしょう。この獣なるお方こそ世界を救う神であると説明し、人々を惑わすのです。まるで預言者です。 ※インターネット上のフェイクニュースやAI技術によるフェイク動画が世界を惑わすだろう。技術が進めば見分けるのは至難のわざだ。「地からの獣」はそれらを巧みに利用するだろう。

かくして、民衆を獣礼拝へと導くのですから、この獣は別名〝にせ預言者〟と呼ばれます。初代教会の時代にも、にせ預言者に注意せよと警告がありましたが、彼らの背後には獣と龍の働きがあります。そして、患難期にいたって究極の〝にせ預言者〟が登場し暗躍するというわけです。※黙示録も「地からの獣」が「にせ預言者」だと証言している(16・13、19・20)

にせ預言者なる獣の宗教政策は徹底しています。獣礼拝のために獣の像を各地に建立して礼拝を強要します(13・14~15)。また、獣を礼拝する者に刻印を押して、刻印のない者は経済活動ができないようにします(13・16)

獣が人々の額か手に刻印を受けさせるわけですが、例えば微細な電子チップを埋め込むことも考えられます。実際に犯罪歴のある人に実用化され、行動を管理しています。また、自ら進んでチップを埋め込んで、その電子データでドアや車の開閉やカード決済をする人もいます。いまや現実の世界です。

電子決済が飛躍的に進み、インターネットによって経済活動は捕捉されて行きます。だれが何を買ったのか、どんなネットにつながっているのかをAIが管理しています。それは、やがてネットを牛耳る者が人々を支配する環境作りになるでしょう。

イエスを信じる私たちには聖霊の刻印が押されます(エペソ1・13)。聖霊の刻印を受けた者は偽りの神々を礼拝しません。否、したいと思わないのです。獣を拝むなら、内なる聖霊も我が霊も苦しみ悲しむからです。だから古代ローマ時代の聖徒たちも、この聖霊ゆえに、イエスを主と告白し殉教して行きました。ここにも聖徒たちの忍耐と信仰があります。 
 
(3)獣の支配は一時的だ。必ず終わりが来る。

獣は終わりの時代に世界を支配し、その悪魔的な本性を現します。しかし42ヶ月の間活動する権威を与えられたに過ぎないのです(13・5)。それをゆるされたのは神です。

冒頭の聖句も彼は聖徒たちに打ち勝つことをゆるされた(13・7)とありますが、それをゆるされたのも神です。いかに獣が力があるようでも、神のゆるしがなければ彼は何もできません。

「神様!ひどいじゃないですか」と訴えたくなりますが、神はあえてそうなさる時があるのです。

総督ピラトはローマ帝国の権威の下で、イエス様を尋問してこう言いました。「私にはお前をゆるす権威も十字架につける権威もあるのだ」と。そのピラトに対してイエスは、「神がその権威を与えなければ何もできないのだ」とお応えになりました(ヨハネ19・10~11)。そうです。神にこそ本当の権威があり、すべてはその支配の下にあるのです。

私たちが順調な時、それは主がゆるされなければあり得ないことですから、高慢になることなく感謝しなければなりません。逆に、何もかもうまく行かない時、それも主がおゆるしになったのですから、意味のあることです。すべては神の御業が現れるためです。主を賛美しましょう。ここに〝聖徒たちの忍耐と信仰〟があります(13・10)

(4)神は〝獣〟と〝家畜〟を区別される。

そもそも、神はなぜ、反キリストを〝獣〟と呼ばれるのでしょうか。

神は動物を創造なさったとき〝獣〟と〝家畜〟を区別して創られました(創1・24)。犬は家畜ですがオオカミは獣です。馬とシマウマ、猫とヤマネコ等々同様の区別です。似ていますが、獣と家畜は違います。 ※進化論では、人類がオオカミを飼い慣らしてやがて犬なったと説明する。オオカミと犬のDNAはほとんどが同じだが、残りの数%の違いは大きな差である。動物園の調教師はライオンや熊を飼い慣らしている。だからといってDNAの変化は起こりえない。遺伝子学の立場からは、オオカミと犬との違いには超えることのできない大きくて高い隔たりがある。この「遺伝子の壁」を乗り越えられない。

家畜は人になつきますが獣はなつきません。家畜は主人に仕える性質を持っていますが、獣にはありません。自分が主人です。反キリストも偽預言者も、そういう意味で〝獣〟です。

神に仕えず自らを神として生きる者は〝獣〟です。どんなに教養や能力があっても、神を主人とする謙遜と従順がない者は〝獣〟です。

私たちクリスチャンは獣ではなく家畜です。家畜の羊です。羊は弱い存在ですが、牧者に従います。牧者がいなければ生きられない存在です。まことの羊飼いであるイエスに聞き従う者です(ヨハネ10・1~6)

牧者であるイエスに対して、常に謙遜と従順をもって仕える者でありましょう。ここにも〝聖徒たちの忍耐と信仰〟があります。


ヨハネの黙示録 12章

2023年04月28日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 12章
兄弟たちは、小羊の血と彼らの証しの言葉とによって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
(12・11)


第7のラッパが吹き鳴らされると、7つの鉢のさばきが始まることは先に説明しました。そこに至るまでの経緯が、第12~14章に記されています。ですから、過去の出来事もふくめて包括的に述べられています。特にこの12章は過去の歴史的な出来事も含めて記されているので、時間軸は前後しますが、混乱のないようにお読みください。

大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に12の星の冠をかぶっていた(12・1)。この〝ひとりの女〟とはだれのことでしょう。

女といってもある特定の婦人のことではありません。この場合、人間の集団のことです。黙示録には3つの〝女〟が登場します。今日の箇所の「ひとりの女」と、「大淫婦」とよばれる女と、「キリストの花嫁」としての女です。 ※聖書では人間を〝女性〟として表現する聖句は随所にある。

「太陽と月と星」で思い出されるのは、創世記37章9~11節の記録です。ヨセフが見た幻が記されているのですが、その場合、太陽は父ヤコブ、月は母ラケル、星は兄弟たちを現していました。つまり、太陽・月・12の星とはイスラエル民族を表しています。

ですから、黙示録12章1節の〝ひとりの女〟はイスラエル民族のことです。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいたとあります(12・2)。イスラエルは世にキリストを生み出す使命を受けた民族ですが、キリストの誕生を阻止する悪魔による長年の執拗な攻撃によって、苦しみながらキリストを世に送り出したのです。

だからこう記されています。「見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。」(12・3~4) ※「龍」は「竜」とも表記される。

この赤い龍とはサタン悪魔のことです龍はその尾で天の星の3分の1を地に投げ落とした……とありますが、サタンが天の御使たちの3分の1を引き連れて地に落とされたことを意味しています。 ※龍の形態は後に登場する獣と酷似している点に注目。その意味は13章で読み解くことにする。

この赤い龍は女が産もうとしている男子(キリスト)を食い殺そうと待ちかまえています(12・4)。これは、クリスマスの時、サタンがヘロデ王を用いてベツレヘムの幼子を皆殺しにしたことを暗示しています。

女が産んだ男子は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられたとあるように、神の御国の王として統治するお方であり、かつ、みもとに引き上げれるようにして、復活して天に上げられたことからも、イエス・キリストのことです。

ここまでは、歴史上確認できる内容です。つまり、すでに実現しています。

しかし、6節の女は荒野に逃げたとは、これからのことだと考えられます。反キリストが神殿にて我こそ神であると宣言し、その偶像を神殿にすえる時が来ます。その時、女すなわちイスラエルは「荒野に逃げる」ことになるでしょう。

そのタイミングはイエスも指摘なさっています。預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのを見たならば読者よ、悟れ、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよと予告された時のことです(マタイ24・15~16)

これは、反キリストが患難期の半ばで契約を破棄する時のことです(ダニ9・27)。それまでは、世界平和に貢献する良き指導者を振る舞っていましたが、いよいよ反キリストが本性をあらわにし、神の民に向かって牙を剥くことになります。

このタイミングでイスラエルは山に逃げ、1260日の間守られます(黙12・6)患難期の後半の3年半にあたります。ここで、イスラエルは悔い改めてキリストを信じるに至るのであろうと思われます。

民が逃げ込む〝山〟とは、エドム地方のボツラであると考えられます。死海のほとり南東に位置する町です。この預言はイザヤ書63章1節に記されているのですが解説の詳細は割愛します。 ※「ボツラ」はエドムの主要都市でギリシャ語では「ペトラ」である。岩をくり抜いた町で荒野における要塞である。

12章7~9節は、サタンがどのようにして天から地に投げ落とされたのかが記されていますが、そのサタン(悪魔)は「龍」とか「へび」と呼ばれています。エデンの園でアダムとエバをだましたのは「へび」でしたが、この黙示録の記述によって、その正体は悪魔であったと分かります。

悪魔は天の戦いで敗れて地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落されたとあります(12・9)。患難期の出来事であろうと予測されるのですが、地に落とされる以前でも悪魔はこの地上で働いていました。すでに悪魔は「空中の権をもつ者」ですから、地上をはじめ宇宙空間でも働いてきました。時には神の霊界である天にでさえ顔を出すこともありました(ヨブ1・6)。しかし、黙示録12章9節の段階で、その活動範囲は地上に限定されたという意味でしょう。

だから地に投げ落とされたが意味するところは、悪魔および堕天使たちの活動は地上においては激しさを増すことを表しています。それは、地上に住む者たちにとってはわざわいです。しかし、天上においては勝利と完成に向けて大きな前進ですから、喜びがあります(黙12・12)

さて、龍は、自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけたとあります(12・13)。この記述は先の12章6節から跳び越えるようにしてつながっています。 ※7節~12節は悪魔についての説明が挿入されている。

悪魔がイスラエルを滅ぼそうとするのは、この時に限ったことではありません。歴史の中で何度もくり返されてきました。

旧約の歴史の中では、エジプト王パロはイスラエル民族の男児殺害を実行しました。また、ペルシャ帝国の時代、ハマンは法律によってイスラエル民族を抹殺しようとしました。このように、歴代の帝国はユダヤ人を迫害しました。 ※ダニエル書ではこの帝国を種々の〝獣〟にたとえて記している。

新約の歴史の中では、中世の教会がキリスト教に改宗しないユダヤ人を迫害しました。各地でなされたホロコーストも宗教の違いによる憎悪が理由です。宗教的な反ユダヤ主義です。

また、近代に入ると民族的な反ユダヤ主義に転換してきました。ナチスによるユダヤ人大量虐殺は顕著な例です。そして、現代に至っては紛争の火種になっているイスラエルを問題視するかたちで、政治的な反ユダヤ主義へと変貌を遂げています。

このような一連の反ユダヤ主義思想の背後には赤い龍、すなわち悪魔の働きがあるのです。

悪魔が反ユダヤ主義を画策する理由とは何か。それは、イスラエル(ユダヤ人)を通して神のご計画が実現することになっているからです。それを阻止するために、悪魔は人類に反ユダヤ思想を植えつけて、いまもその力は働いています。

そして、世の終わりの患難期において、サタンによるユダヤ人迫害は頂点に達するでしょう。しかし、そのような中でも神はイスラエルを3年半の期間守られるはずです。こう預言されています。

女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きなわしの二つの翼を与えられた。そしてそこで、へびからのがれて、1年、2年、また半年の間、養われることになっていた。(12・14) ※この保護は12章6節で説明したとおりである。ボツラ、別名ペトラの要塞で守られることになるであろう。

イスラエル民族はサタンの攻撃―反キリストによる迫害―によって苦しみますが、死に至るまでいのちを惜しみません(12・11)①小羊の血と、②証しの言葉が彼らを強めます。

これは今日の私たちも同じです。小羊なるイエスの血は私を救う血であり、きよめる血です。私たちには小羊の血が塗られています。この血は救いのしるしです。死さえも過ぎ越してしまうしるしです。

もうひとつは、証しの言葉です。イエスを信じた体験の言葉とも言えるでしょう。実際に体験した証言は、力強い希望となります。

サタンの攻撃はなおも増してきます(12・17)。また、サタンは私たちを日夜訴えるのです(12・10)

しかし、勇気を出してください。私たちには小羊の血証しの言葉があります。そればかりか、主イエスはすでに世に勝っています(ヨハネ福音16・33)。しかも、その勝利は勝ち得て余りがあるほどなのですから(ローマ8・37)


ヨハネの黙示録 11章

2023年04月27日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 11章
この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。
(11・15)


第11章からは、エルサレムの街と神殿 ――「聖所」とは神殿のこと―― に舞台が移ります。この記録は、長い間、現実のものとは思われませんでした。

なぜなら、ヨハネが黙示録を記録した時点では、すでにローマ軍によって都エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ユダヤ人たちは離散の民となっていたからです。ですから、神殿を舞台とする記述は、当時としてはあり得ない環境なのです。 ※エルサレム陥落が紀元70年。ヨハネが黙示録を記録したのは紀元90年代であったので、その時点で神殿は存在していない。

この聖書預言が実現するには……、
 ①エルサレムの都が再建されている。
 ②そこにユダヤ人たちが住んでいる。
 ③神殿が再建されていなければなりません。

ところが、1900年以上の歳月を経て、今や①と②が実現しているのです。黙示録11章の預言が実現する舞台が整いつつあるのです。ですから、やがて神殿も再建されるでしょう。しかし、かつて神殿が建っていた場所に、現在はイスラム教のモスクが建っています。容易い話ではありません。

この難題がどのように解決されるのかは、さらに時を経てみなければ分かりません。ただ考えられることは、反キリスト(「獣」と呼ばれる人物と帝国)とイスラエルとの契約によって、何らかのかたちで神殿再建が可能になるのかも知れません。

さて、その神殿について命令がありました。神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい(11・1)。測るとは吟味することです。終わりの時代のイスラエルの信仰のあり方を、神はお調べになるのでしょう。

しかし、聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、42か月の間この聖なる都を踏みにじるであろうと記されています(11・2)

旧約の律法によれば、神殿の外庭は「異邦人の庭」と呼ばれ、異邦人が入ることのできる場所として定められています。この患難期の神殿の場合は、異邦人(反キリストの民のこと)によって42ヶ月の間(3年半)踏みにじられるのです(11・2)

ここで思い出されるのが、ダニエル預言の最後の1週7年間の半ばに、反キリストが契約を破棄して神殿をけがすという預言です(ダニエル9・27)。ダニエル預言の〝1週〟と黙示録の〝7年の患難期〟がここでも符合します。

次に、患難期にはふたりの証人が活動します(黙11・3)。彼らの活動する期間も1260日つまり3年半です(1年を360日で計算)。これは7年の患難期前半の3年半です。
ふたりの証人は7章4節にある14万4000人の伝道者とは別の人物ですが、ふたりはイエスの証人であり、ふたりの言動はユダヤ人をはじめ全世界の人々に影響を及ぼすことになるでしょう。

ふたりの証人のことを全地の主の御前に立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台であると説明しています(11・4)この描写はゼカリヤ書4章にも描かれています。2本のオリーブの木から油が供給されることで燭台の灯火が煌々と照る幻です。ふたりの証人たちの働きは聖霊の油を世に供給し、世の光として照らす働きとなるのでしょう。

ふたりの証人の活動拠点はエルサレムです。その街でふたりの証人は、先にイスラエルと契約を結んだ反キリストの正体をあばくでしょう。彼はいかにも自分こそがイスラエルを救い、世界さえも救うキリストであるかのように振る舞うが、その正体は偽キリストであり反キリストであると証言します。

ユダヤの人々よ目をさませ。イエスこそキリストであると証しをするのです。こんなことを証言されては反キリストも黙っていません。彼らを殺害しようとするのですが、1260日の期間が満ちるまでは手出しできません(11・5~6)

こうして、ふたりの証人は、神の御怒りのさばきがくだることを世界に知らせると共に、人々に悔い改めをうながします。

かつて、モーセとアロンのふたりが、エジプトのパロに災いをもってさばきを警告し、悔い改めを迫りました。あのエジプトの事件は、世の終わりに実現する世界的規模のさばきの「ひな型」です。

そして、エジプトから神の民を救出されたように、神は、終わりの時代に、激しい御怒りを下しつつも、その中から神の民を救い出されます。そのために「ふたりの証人」を遣わされるわけです。そして、獣である反キリストを信じるのか、それともイエスこそキリストだと信じるのかが問われるのです。

彼らがそのあかしを終えると……と記されているように、ふたりの証人の活動が終わります。ここで患難期前半の3年半が終わるわけです。すると底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺すのです(11・7)

この獣とは反キリストのことです。彼は「底知れぬ所からのぼってくる」とあるように、一度は死んだかに思われたのですが、奇跡的に生き返って、ふたりの証人を殺すのです。 ※13章3節の「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」とはこのことを意味するのであろう。

それまで誰も太刀打ちできなかったふたりの証人を殺したことで、反キリスト(獣)は人々から称賛され、その地位を強固にすると思われます。そして、彼は勝利を誇示するために、ふたりの証人の遺体をエルサレム※の大通りにさらします(11・8~9)。 ※「ソドムやエジプトにたとえられている大いなる都」とはエルサレムのことである。聖なる都であるはずのエルサレムが、反キリストを迎え入れてソドムやエジプトのように堕落していることを表している。

処刑の様子はネット配信で世界中に拡散されることでしょう。これは大ニュースです。速報が撃たれます。それどころか、ふたりの証人の処刑を歓迎する多くの人々が、贈り物をして喜び祝うというのです(11・10)。これは異様な光景です。

反キリストを支持する人々の目には、患難期の災いは、このふたりの証人が元凶だと見ていたからです。彼らさえいなくなれば一連の天変地異は終わると考えたのでしょう。だから、人々はこの処刑を喜び、贈りものを取り交わすのです。

しかし、神は、ふたりの証人を復活させ、天に引き上げられます(11・11~12)。この状況も、インターネットのライブ配信を介して、瞬く間に全世界の知るところとなるでしょう。

ヨナのしるし(復活のこと)以外にしるしはない(マタイ16・4)とイエスが言われたように、患難期においても、ふたりの証人の復活は、人々が救いを受ける最後のしるしとなるのです。

2千年前のイエスの復活の時もそうでしたが、罪人の心はかたくなです。それでも悔い改めない者へのさばきが遂にくだります。それが、第7のラッパに込められたさばきです。

この第7のラッパのさばきは「7つの鉢のさばき」のことで、具体的には第16章から記されています。まさに最後のラッパです。これによって悪を滅ぼし、神の支配なさる御国が完成します。

ですから、天では神の御国の完成の喜びを先取りするかのように賛美が歌われます。この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう(11・15)。主イエスの再臨を待ち望む現代の私たちも、この賛美を先取りして日々の礼拝で歌うのです。

黙示録のメッセージは一貫しています。どんな厳しい状況を経ようとも、神の御国の計画は実現に向かって力強く前進するのだ。だから希望をもって戦いつづけよとのメッセージです。

だから祈ります。御国が来ますように……と。


ヨハネの黙示録 10章

2023年04月26日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 10章
私は御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、私の口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。
(10・10)


第7のラッパが吹き鳴らされると、いよいよ最終段階に入るのですが、この第10~14章までは、ことの詳細を補足説明するようにして挿入されてる章です。途中、11章15節で「第7のラッパ」が吹かれるのですが、時間経過は記されていません。

もう一度整理します。

この第10~14章までは、第6のラッパと第7のラッパが吹かれるまでの間に、時間的に前後しておこる出来事を総じて説明しています。

第7のラッパが吹き鳴らされると、「神がそのしもべ、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」のですが(10・7)、その前にひとりの御使(天使)が登場します。彼は小さな巻物を手にしていました(10・2)

この御使が手にした小さな巻物と小羊イエスが手にした巻物とは別物です。前者は〝開かれた〟小さな巻物ですが、後者は〝7つの封印〟のある巻物ですから違うものです。

さて、この小さな巻物を手にした天使が叫ぶようにして語りました。その内容はおそらく、小さな巻物の内容であろうと思われます。ヨハネはそれを書きとめようとしたのですが、書きとめるなと禁じられました(10・4)

ですから、内容は私たちには分かりません。ヨハネにだけ伝えられたことで、私たちに知らせる必要のないことです。自分に向けて語られた御言は書きとめるのではなくこのあとに記されているように食べるのです(10・9~10)

ただ、少なくとも言えることは、ヨハネをはじめ同時代に苦難の中にあった聖徒たちへの励ましの言葉であったと思われます。

だからこう述べられています。もう時がない。第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就されるのです(10・6~7)

この宣言は、流刑の身であるヨハネをはじめ迫害下にある人々に勇気を与えたことでしょう。もうすぐだ。期待して待っておれ……と主イエスは励ましてくださっているのです。

さて、ヨハネはこの小さな巻物を受け取ると、取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘いと言われました(10・9)

終末の預言を知ることは、ヨハネが巻物を食べたように、〝預言のことばを食べる〟のです。神の御言は知的な理解で終わりません。それを食べるのです。いのちのパンのようにして食べます。

それを食べると、私の口には蜜のように甘かったとヨハネは告白しました。

神のご計画を学びその御心に触れることは、エキサイティングで刺激的なため口には甘く感じます。詩篇の作者もこう歌いました。「あなたの御言はいかに我があごに甘いことでしょう。蜜にまさって我が口に甘いのです」(詩篇119・103)

しかし、腹には苦く感じます。なぜなら、重要な神のご計画を知ったことで責任を感じるからです。神の御言は私を励まし養いますが、同時に使命を受けることでもあるからです。内容が重要なだけに責任の重さを感じて、腹には苦みを味わいます。

こうして御言の甘みを味わった私たちは、次に苦みを感じつつ、その御言を伝える者として遣わされるのです。


ヨハネの黙示録 9章

2023年04月25日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 9章
これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
(9・20)


まことの神は愛なるお方であると同時に義なるお方でもあります。愛と義は、互いに相反するもののように思われますが、その両者を矛盾なく両立なさっているのが主なる神です。

神は最後の最後まで、人間が悔い改めて救いを受けることを願っておられます。これは神の「愛」のご性質です。しかし、いつまでも時をのばして、罪を放置なさるのでもありません。必ず罪をさばかれます。これは神の「義」なるご性質です。

黙示録の出来事は、この神の愛と義の緊張関係の中で受け止めるべきことがらです。

引き続きラッパの預言を見て行くわけですが、第5のラッパからさばきの厳しさが各段と増します。

だから、第5のラッパのさばきを、わざわざ第1のわざわいと言い直しているのです(9・12)。それに続いて第6のラッパのさばきを第2のわざわいとよび、つづいて、第7のラッパのさばき以降のことを第3のわざわい」と呼んでいます(11・14~15)。それだけ、今までの患難とはレベルの違う厳しいさばきを表しています。

第五のラッパが吹き鳴らされると……

ひとつの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開く鍵が与えられたと記されています(9・1)

この「星」は文字通りの天空の星々のことを意味することもあれば、御使(天使)を意味する場合もあります。9章1節の「星」は後者の御使と解釈すべきでしょう。では、神の御怒りを世に現すための天使なのか、それとも、堕落した天使である悪魔のことなのでしょうか。

これは「悪魔」のことであると考えられます。悪魔のことをイザヤ書では「明けの明星」と星にたとえています(イザヤ14・12~15)。この預言によれば、この〝星〟は天から落とされたのです。 ※黙示9章1節の「地上に落ちた」とは、悪魔の働きが非常に過激になることを意味するのであろう。それまでも、悪魔の働きはあったが患難期の悪魔の働きは桁違いであろう。

この悪魔は「底知れぬところの穴を開くかぎ」を使って、そこに閉じ込められていた〝いなご〟を解き放ちます(9・2~3)底知れぬ穴とは悪霊たちが閉じ込められている霊界です。イエスによって追い出された悪霊たちは、この底知れぬ穴に入れないでくれと懇願しています(ルカ8・31)。つまり、ここに入れられてしまうと活動できないからです。

しかし、閉じ込められていた悪霊たちも、患難期には解放されて、最後の大足掻きを働くのです。その結果、「いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が彼らに与えられた」(9・3)とあるように、いなごは悪霊たちであり、彼らにはサソリのような力が与えられます。それがどんな力なのかは分かりません。

いなごである悪霊たちの標的は、額に神の印のない者たちに向けられます(9・4)。殺すのが目的ではなく、5ヶ月のあいだ苦しめることにあります。ひと思いに死んでしまった方が楽だと思うのですが、「死」が逃げて行くのです(9・6)

一瞬にして死んだら、悔い改めの機会がありません。悪霊によって苦しみがもたらされるのですが、神はそれを悔い改めの機会に用いるのです。ここにも、神の厳しい義の中に愛が示されています。

第六のラッパが吹き鳴らされると……

大ユウフラテ川のほとりにつながれている〝四人の御使〟を解いてやれという声が響きます(9・14)。この4人の御使とは、悪魔と道連れに堕落した天使たちで、活動できないように〝つながれていた〟のであろうと考えられます。

先ほどの天から落とされた「星」である悪魔、次に底知れぬ穴に閉じ込められていた「いなご」すなわち悪霊たち。そして、ユフラテ川につながれていた「4人の堕天使」の活動……と展開して行きます。こうして、総動員された悪しき霊たちによる災いがなされて行くわけです。

9章15~16節に記されている、人類の3分の1を滅ぼすためにやって来る2億からなる騎兵とは、文字通り2億の軍人の数なのか、あるいは多数の霊的存在なのか。解釈は分かれます。ましてや、某国の軍隊であると特定するのは間違っています。

先ほどの文脈からすれば「2億の悪霊たち」と理解して良いのではと思われます。人間である2億人の軍人が進軍するのは、近代戦では現実的ではありません。 ※兵站はどうするのか。食糧や兵器の供給を考えると無理が多い。近代戦では無人兵器とかサイバー攻撃などが主流になって行くだろう。

17~19節では2億の騎兵の描写が記されていますが、これが何を意味しているかは不明です。未来の兵器の描写だとの解釈もありますが、こじつけにならないように留意すべきでしょう。

ただ言えることは、この段階になって人類の3分の1が死んでしまうことです。衝撃的な事態です。すでに4分の1が死んでいますから(6・8)、これによって人類は半減したことになります。こんな危機的事態になって、残された人々はどうでしょう。

これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせずとあります(9・20)。彼らは、あのエジプトのパロのように、かたくなな心の持ち主です。

彼らは、悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかったのです。愚かな姿です(9・20)

偶像とは本当の神ではありません。偽者ですから、「見ることも聞くことも歩くこともできない」のです。心がかたくなになると、偽者と本物の分別もつかなくなります。

旧約の時代、神がイスラエル民族にくり返し言われてきたことは、「あなた方の心をかたくなにしてはならない」ということでした。このメッセージは万民に通じるものです。

私は願います。何か事があったら、心をかたくなにする者ではなく、素直に悔い改める者でありたいと思います。「私は間違っていない」と自己正義をつらぬいて、自分で自分のいのちを救おうとするよりも、悔い改めることによって―それが、自分の面子をつぶすようなことであっても―霊的ないのちを失うことがないようにと願います。

きょう、あなた方が御言を聞いたなら、あなた方の心をかたくなにしてはいけません(ヘブル3・7~8)。悔い改めてイエスに立ち返ってください。