ヨハネの黙示録 22章
見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。(22・12)
神の聖なるご計画は、イエス・キリストの再臨によって完成します。その完成のために「わたしはすぐに来る」との約束で黙示録は終わっています。あなたはこの約束を信じますか。それとも、荒唐無稽な夢物語のように思いますか。科学的に証明できないことだから信じられないでしょうか。
科学によって到達した人類の英知は偉大ではありますが、その科学をもってしても、宇宙の神秘、人の存在目的、心と霊の世界についてなど、知り得たことはほんのわずかな領域です。数千年をついやしてやっとここまで来たに過ぎません。
見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。(22・12)
神の聖なるご計画は、イエス・キリストの再臨によって完成します。その完成のために「わたしはすぐに来る」との約束で黙示録は終わっています。あなたはこの約束を信じますか。それとも、荒唐無稽な夢物語のように思いますか。科学的に証明できないことだから信じられないでしょうか。
科学によって到達した人類の英知は偉大ではありますが、その科学をもってしても、宇宙の神秘、人の存在目的、心と霊の世界についてなど、知り得たことはほんのわずかな領域です。数千年をついやしてやっとここまで来たに過ぎません。
しかし、聖書は神のことばです。神の霊感をもって記された啓示の書物です。神からの啓示はこう告げています。
「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちの魂の神なる主は、すぐにも起るべきことを僕たちに示そうとして、御使を遣わされたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は幸いである。」(22・6~7)
旧い契約(旧約)は、「キリスト(救い主)が来る」ことを約束しました。そして約2千年前にそのキリストは来られました。そのキリストとは、十字架で死んで葬られ、復活して、天に昇られたイエスというお方です。新約聖書は、そのイエスこそが旧約で約束されていたキリストであると証言する書物です。
そして更に「キリストはもう一度来られる」と約束しているのです。
2千年前に来られたイエス・キリストは、人類を悪魔の支配から救うために来られました。そして、2度目に来られるときは、その救いに決着をつけるために来られます。
その決着とは正しい報いのことです。主は言われます。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれの仕業に応じて報いよう」(22・12)。 イエスこそが正しく報いることのできるお方です。
どのような報いでしょうか。悪に対しては永遠の滅びという報いです。そして善に対しては永遠の救いという報いです。
悪に対しての神の報いがいかなるものか……。この黙示録を通して明確になりました。この真の報いを知らないと、人はいつも苛々します。あんなひどい政治がなぜ放置されたままなのか。あんな凄惨な事件が迷宮入りなんてゆるせない。そんなやり場のない怒りで自滅してしまいます。
善に対しての神の報いがいかなるものか……。この黙示録、特に21章で明確になりました。これこそ私たちが受けるべき真の報いです。なのに、地上で早く報いを得たいが為に、人からの評価を得ようとします。いつかは消えてしまう人の評価が欲しいですか。それとも、永遠に続く神の報いが欲しいですか。
そのような、真の報いを携えて主イエスは来られます。この方を待ち望むのです。
しかも、すぐに来られます。黙示録22章では3回も「わたしはすぐに来る」と記されています(7、12、20)。でも、もう2千年が経過しているので、人の目にはその約束は忘れ去られたように感じられます。それは、人と神との時間の感覚が違うからです。
幼い息子を車に乗せて実家の京都(丹後)に帰省するとき、1時間も経たないうちに、「まだ着かないのか」とたずねてきます。私は「あと8時間くらいだよ」と応えます。「8時間ってどれくらい?」。「すぐだよ」と応えます。大人にとっては〝すぐ〟です。でも、幼な子にとっては延々と続くように感じます。主イエスが「すぐに来る」と言われたのと、私たちが「もう2千年も経っているのに」と感じるのには、そのような違いがあります。
永遠を見ることのできない人間には、神が随分と延期なさっているように思えますが、神はご自身の御業を速やかになさっています。私たちの肉なる感覚が鈍いだけで、主イエスはすぐに来られるのです。
私たちはそれに対して、「主よ来てください」と告白します。「御霊も花嫁も言う。『来てください』。これを聞く者は、『来てください』と言いなさい」(22・17)。
もし、「主よ、来てください」と告白するのを躊躇させるものがあるなら、その原因を掘り下げると良いでしょう。たぶんそこは、主をお入れしなければならない心の部屋です。そこは神の光にまだ照らされていない部屋です。
これだけはゆずれないと思って頑張っている心の部屋はありませんか。ここだけは、イエス様にも分からないと高を括っている部屋はりませんか。そんな心の部屋にも、主イエスを歓迎しましょう。
そういう意味で、まず私の内側に「主よ来てください」と告白することから始めるのです。イエス様に対して、いつも心の扉を開いてください。主はその心に「すぐに来られるお方」です。
「わたしはすぐに来る」といわれるイエス様に、いつでも、「主よ来てください」と呼び求める者であってください。それが、目を覚ましている者の姿です。主が戻ってこられたとき、目を覚ましてお迎えできる者は幸いです。
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