詩篇68:16 峰かさなる諸々の山よ、何ゆえ神が住まいにと望まれた山をねたみ見るのか。まことに主はとこしえにそこに住まわれる。
この詩篇は、ダビデが契約の箱をエルサレムの都にかつぎのぼったときの歌だと言われています。「契約の箱」とは、その中に「十戒の板」「アロンの杖」「マナの入った壺」の3点が納められた箱で、神聖な箱です。
イスラエル民族が荒野を旅する段階で、神が「幕屋」を建造するように命じられましたが、その幕屋の最も神聖な場所である「至聖所」に置かれたのが「契約の箱」です。 ※「幕屋」とはテントで出来た移動式神殿。
荒野の旅を終え、イスラエル民族が約束の地カナンへ入り定着してからは、幕屋の形態は崩れていったようで、その心臓部分といえる「契約の箱」が各地を転々とし、礼拝の中心となっていました。
その契約の箱を、イスラエル王国の都であるエルサレムに安置しようと、そのために盛大なパレードを計画し、ついにエルサレムに契約の箱を迎えることができました。その時の祝いの賛美がこの詩篇だと言われています。
やがてソロモン王の時代に、この契約の箱を中心に石造りの神殿が建立されるわけですが、このように、エルサレムは神の住まわれる街と呼ばれるようになりました。
エルサレムは小高い丘の街で、「シオンの山」とか「シオンの丘」とも呼ばれます。神はご自分の住まいを、そのような小さな山、小さな街に定められました。それは、神がかねてからご計画なさってきたことでした。「わたしの名を置くところ」として、定めておられた場所です。
さて、古来から人々は荘厳な山々に神が住まわれるという思想を持っています。山岳信仰とでも言ったらよいでしょうか。日本でもそうです。富士山は神の山としてあがめられ、「霊山」と言われ、神秘的な力が得られるとして、多くの宗教団体が富士山の麓(ふもと)に拠点を構えています。
そのような思想は中東にもあって、エルサレムのような小さな山より、もっとすごい山々が「神の山」として人々からあがめられていました。
「バシャンの山」と呼ばれる山もその内のひとつです。ゴラン高原にある山だと言われています。その他にも「峰かさなる諸々の山」もありますが(68:16)、ヘルモン山連峰のことかと思われます。
そんな荘厳な山々が嫉妬するほどに、主なる神は、ご自分の住まわれる場所を小さなシオンの丘・エルサレムに定められました。
神は、姿形の良いところに共におられるのではありません。人が見向きもしないような小さな場所を選ばれます。幼な子のような小さな場所を選ばれます。威厳に満ちた場所ではなく、謙遜で身を低くする場所を選ばれます。
自分自身はどんな存在でしょうか。ヘルモン山やバシャンの山のようでしょうか。それとも、神を歓迎し、身を低くするエルサレムのような丘の姿でしょうか。(Ω)
詩篇67:2 これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに知られるためです。
私たちは、神の豊かな祝福があるようにと祈ります。今日の詩篇もそのような祈りで始まっています。「どうか、神が我らをあわれみ、我らを祝福し、そのみ顔を我らの上に照されるように」(67:1)。
この祝福は、「神が共におられる」という祝福です。それは具体的には、病のいやしであったり、豊かな食物であったり、家庭の平和であったりもします。神は、それらを豊かに与えることの出来るお方です。私たちは遠慮せず、それらを大胆に求めて良いのです。
しかし、それが単に、私たちが他の人より快適な生活をするためであるなら、エゴイステックなご利益宗教に成り下がってしまいます。私たちが祝福を求めるのは、この祝福が私だけにとどまらず、全世界の人々に及ぶためです。
今日の詩篇は、何度も「諸々の国民が……」と、その目は世界に広がっています。
「神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、諸々の民にあなたをほめたたえさせてください」(67:3)。「諸々の国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。あなたは公平をもって諸々の民をさばき、地の上なる諸々の国民を導かれるからです」(67:4)。
神は、アブラハムを祝福されました。それは、アブラハムを「祝福の基(もとい)」とするためでした。つまり、祝福がアブラハムから諸々の民に広がるためです。基とは祝福の出発点であり、祝福をお配りする基地のようなものです。
このアブラハムに告げられた約束は、今やクリスチャンである私たちに受け継がれています。クリスチャンの皆さん、どうぞ大いに祝福を受けてください。それは霊的な祝福……罪のゆるし、神が共におられるという祝福……だけでなく、物質的な祝福も含めて受けてください。
それは、そこから祝福の分かち合いが周囲に広がるためです。そして、「諸々の国民」におよぶためです。(Ω)
詩篇66:10 神よ、あなたは我らを試み、銀を練るように、我らを練られた。
この詩篇では、神の大いなる救いの御業を賛美しています。「あなたの御業は、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します」(66:3)。
かつてエルサレムがセナケリブ率いるアッスリヤ軍に完全包囲されたのですが、ユダの王ヒゼキヤとユダの民はひたすら主なる神を信頼し、賛美しました。
すると、あの誇り高ぶるアッスリヤ軍はある夜突然戦場に倒れ……疫病ではなかったと言われている……、母国への帰還を余儀なくされました。それは、紅海を渡った出エジプトや、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入った時の御業にも匹敵する出来事でした(66:6)。
でも、そんな御業がトントン拍子になったわけではありません。
聖書の神は、困っている私たちにすぐに手を差し伸べて、赤子をあやすように私たちを取り扱われるお方ではありません。困った時にすぐさま解決してくれる神……そんな都合のよい人間の願望に仕える奴隷のような神ではありません。
むしろ逆で、私たちこそ、神のしもべとなって謙遜に仕えるべき存在です。
神は、私たちを訓練なさるお方です。愛するがゆえに試練を通して、私たちを練りきよめるお方です。今日の御言は、銀を練るように、試練を通して私たちを練られたと言っています。
銀は純銀のまま土に埋まっているわけではありません。岩石の中に様々な不純物と混ざって含まれています。そこで、純銀を得るために、高温の火の中で不純物を焼いて取り除きます。
丁度、神が私たちに与える試練も、その銀を製錬する工程のようです。
神は、困難という火の中をくぐらせて、神を信頼しない心……それは神から見れば不純物……を取り除こうとされます。また、時には、試練の中で、憎しみとかゆるさない心……それは神の御国には相応しくない不純物……をきよめようとなさいます。
こうして、「我らは火の中、水の中を通った。しかし、あなたは我らを広い所に導き出された」(66:12)という恵みに至るのです。
多くの場合、試練や困難に出会うと、それをどのように乗り切ろうかということに関心が注がれます。しかし、重要なことは、神はこのことを通して、何を訓練なさろうとしているのだろうかということです。
神は、私たちを子として取り扱っておられるのです。神の子に相応しい者にするために、試練を通して私たちの心を「精錬」なさるのです。この目的を見失わないで、火の中、水の中を通過する者は幸いです。
その人は「広い所に導き出される」のです。新改訳では「豊かな所へ連れ出される」と訳しています。そうです。本当の豊かさを得るために、私たちは試練という荒野を通過して約束の地に入って行くのですから……。(Ω)
詩篇65:3 咎(とが)が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦(ゆる)してくださいます。
苦しみの中にも、主のご支配のあるところに、平安のある恵みが歌われています。
「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう」(65:4)。
どんなに困難が私たちを覆っても、神の御側には平安があります。「聖なる宮」とは、神に最も近い場所のことを表しています。
神に近づくことのできる道を知っている人は、何と幸いなことでしょうか。多くの場合、こんな罪人が今さら神に近づくなんて……と思っています。ある人は、「もう少しきよい人間になってから教会に行きます」と言います。
旧約の時代は、神の宮に行くためには「いけにえの血」をたずさえて出るようにと、律法に定められていました。「いけにえの血」とは、罪のきよめのために、罪の代価であるいのちが注がれた“しるし”を意味します。
新約に時代には、イエス・キリストがその血を十字架で流されました。この血をたずさえて、神の御側に近づくことができます。動物のいけにえの血は、あくまでも代用です。本当のいけにえとはなり得ません。しかし、イエスの血は完全ないけにえの血です。
イエス・キリストが十字架で流された血は、神が用意された究極の「いけにえの血だ」と信じる人は、この血を受けた人です。あなたは、このイエスの血をたずさえて、神の御側に大胆に近づくことができます。
私たちの日常はあいかわらず「咎が圧倒しています」。この「圧倒」ゆえに押しつぶされそうです。でも、イエスの血を信じる者には、神に近づく道が開かれています。イエスの血によって、私たちの一切の罪は赦されているからです。
「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます」。(Ω)
詩篇64:7 しかし神は矢をもって彼らを射られる。
今日の詩篇には、神をあなどり、神を畏(おそ)れることを知らない人々の姿がえがかれています。ダビデはそのんな人々に悩まされていました。
神を畏れずあなどる人々は、「その舌を剣のように、とぎすまし、苦い言葉の矢を放ちます」(64:3)。矢の先に毒が塗られています。その言葉の矢で傷つき、その言葉の毒が心をむしばみます。
今度出会ったこんな風に言ってやろうと心の中で何度もシュミレーションをする……。こうして「舌を剣のように研ぎすます」のです。しかも、それは「苦い言葉」となって放たれます。そうではなく「塩で味付けられた言葉」をもちいたいものです。
神を畏れず、あなどる人々の悪巧みは一見、順調にさえ進みます。だから、彼らは言うのです。「だれがわれらを見破ることができるか。だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」(54:5-6)。
神は見逃しておられるのだろうか。神の目は節穴(ふしあな)なのであろうか。
いいえ、神に隠れているものなど何ひとつありません。ただ、神は忍耐深いお方であるので、人は、その忍耐深くあられることをいいことに、神をあなどるのです。
「しかし神は……」です。今日の御言はそう告げています。「しかし神は……」。この事を忘れてはなりません。神が彼らに正式に報いられます。私のすべきことは、神の御前に「直ぐなる者」であることです。 ※神を畏れ正直な者。
私は常々祈ります。「神を畏れる正直な人々を起こしてください」と。政治家の中にも、官僚の中にも、ビジネス界の中にも、教育界の教師の中にも、神を畏れる正直なリーダー達が起こされますように……。(Ω)
詩篇63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
この時のダビデの様子は非常な困難の中にありました。但し書きには、ユダの荒野にあった時と記されているので、サウル王に追われ逃げまどう時のことだと思われます。
非常な困難の中で、私たちは何を求めるでしょうか。主よ、水と食糧を与えてください……と求める人もいるでしょう。またある人は、敵の手から逃れさせてください……と求めるでしょう。
しかしダビデは、主である神ご自身を求めました。
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」(63:1・新改訳)。
ここに聖書が指し示す信仰の真髄があります。
聖書が教える信仰とは、地上で快適に生きるために食物や安全を得るための“手段”ではありません。神を得ること……これが信仰です。たとえ、満ち足りた食糧があっても神不在の人生なら……つまり、永遠のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。
双子の兄弟であるエサウとヤコブのことをご存知でしょう。兄エサウは目先の食物を優先しました。だから、空腹ゆえに、目の前にある煮物を得るために長男の祝福の権利を弟のヤコブにくれてやりました。
そしてついに、弟ヤコブがその祝福を受けました。この祝福とは「神が共におられる」という特権です。兄エサウは食物を得、弟ヤコブは神ご自身を得たのです。地上的にどんなに豊かであっても、もし神が共におられない人生であるなら、それは空しい人生です。
しかし逆に、たとえ肉体のいのちを失うことになっても、もし神が共におかれる人生であるなら、それは神不在のままの百歳にまさる祝福です。
だから、ダビデは告白したのです。「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します」と。
神を得ること……それは、すべての根源である方が私と共におられるという祝福です。否、祝福とはまさに「神が共におられる」ことそのものです。ですから、このお方を得ているのであれば、食物も、地位も、寿命も必要に応じて与えられるのは至極当然のことです。
神ご自身を求めよう。神は、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された……とは、神がご自分を私たちに下さったということです。こんな祝福を受けないで、それ以外の何を求めるというのですか。
たとい、この肉体のいのちを差し出してでも、神ご自身を受け取ることは幸いです。なぜなら、「神の恵みは、いのちにもまさるゆえ……」だからです。(Ω)
詩篇62:1 わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救は神から来る。
「もだして」とは、「黙って」「沈黙して」という意味です。それは「不平を言わないで」という意味です。もちろん、単に不平を言わないだけなら消極的な「待つ」です。そうではなく、神の御言を信頼するがゆえに、黙って待つということです。
神の御言は必ずそうなるからです。
この詩篇を歌ったダビデも、「あなたはイスラエルの王になるのだ」という神の御言(約束)を受けました。でも、トントン拍子に王になる階段を駆け上ったのではありませんでした。
むしろ「王になる」とは正反対の境遇を何年も味わいました。主君のサウル王から謀反の嫌疑をかけられ、いのちを狙われ、逃亡生活を続けました。つまり、神の御言通りになんかならないじゃないか!という不平や不満を言いたくなるような状況に何年もおかれたのです。
しかし、神が言われたことは、その通りになると信じたのです。この「御言を信じる信仰」という土台の上に立って、「わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救は神から来る」と告白したわけです。
キリストを身ごもったマリヤもそうでした。
「お言葉どおりこの身になりますように」と、神の御言を受け入れたマリヤは、どんな状況の中にあっても「これらのことを心に留めていた」女性でした。黙って、神の御言を信頼して、御言が成就するのを待った人です。
さあ、御言を信頼して今日も待つことにしようではありませんか。私たちの本当の救いは「神から来る」のですから……。ダビデは自分の手でサウル王を打つチャンスがありましたが、それをしませんでした。なぜなら、本当の救いは「神から来る」ことを心得ていたからです。
「待つ」ことは時間のかかることです。合理的で利便性ばかりを追及する現代社会では、「待つ」ことは似合わないことです。時代遅れの方法です。でも、私たちは、この「待つ」という道を選択します。
時間はかかっても、それが最も確実な道だからです。主を待ち望め。その者は鷲のように翼をはって舞い上がるからです。その者は走ってもたゆまず、歩いても疲れないのですから……。(Ω)
詩篇61:12 わが心のくずおれるとき、私は地のはてからあなたに呼ばわります。私を導いて、私の及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください。
人生の中で「心がくずおれるとき」があります。新改訳では「心が衰え果てるとき」と訳していますが、立ち上がろうにも立ち上がる元気がまったく無くなってしまった時のことです。神からも、遠~く離れてしまったような感覚です。
でも、そんな時でも、私たちには呼び求めることの出来るお方がいらっしゃることを忘れないでください。
この詩篇を歌ったダビデもそんな経験の中で、「私は地の果てからあなたに呼ばわります」と告白しました。「地の果て」とは、まさに、神から遠く離れてしまったような場所を表しています。
しかし、どんなに離れているような所でも、私たちは神に呼び求めることが出来ます。だれも神の愛から、私たちを引き離すことが出来ないからです。
この詩篇は、後代になってユダヤの民がバビロンに捕囚された地で歌われるようになりました。まさに、その時代にあって、バビロンはエルサレムからすれば「地の果て」です。
エルサレム……その名は「神の平安」……から遠く離れた地と境遇に追いやられた民の心は「くずおれた」状態だったことでしょう。しかし、彼らも地の果てから、神に呼ばわりました。「私の及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください」と(61:12)。
その後、ユダヤの民はペルシャ王クロスによって解放され、エルサレムに戻ることができました。まさに、「私の及びがたいほどの高い岩」にいたる劇的な展開を迎えました。想像にも及ばないような導きを、神はなさいます。
いま、あなたがいる場所は「地の果て」でしょうか?。しかし、そこからでも神に呼ばわることが出来ます。そして、思いもよらない「高い岩」へとのぼらせてくださいます。そんな神である主イエスを信頼して、今日もイエスの御名を讃美しよう。(Ω)
詩篇60:11 われらに助けを与えて、あだに向かわせてください。人の助けはむなしいのです。
ダビデはサウル王のもとで仕えた時もそうでしたが、王となってイスラエル王国を盤石なものとするまでにも、数々の戦いを経ました。しかし、いつも勝利の連続ではありませんでした。大きな痛手を被ることもあったようです。
今日の詩篇では、そんな痛手を負った時の様子がえがかれています。神から見捨てられたような敗戦であったようです。
「神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました」(60:1・新改訳)。自分の力で勝利できるという思い上がっていたダビデの鼻をへし折るような敗戦であったのではなかったかと思われます。
今日の詩篇は、神を信頼せず我力に頼った傲慢を悔い改める祈りです。
冒頭の但し書きでは、「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で12000人のエドム人を討ち取ったとき」と記されていますが、この悔い改めの結果に得た勝利の歌であったと思われます。
大勝利を得たときの歌ですが、それを単なる武勇伝の歌にしないで、高慢ゆえに失敗したときのことを告白し、主が共に出陣してくださった故の勝利であると歌い上げたのです。
これは大丈夫だと思い上がると、主をより頼むことを忘れてしまいます。自分の経験を頼ったり、手勢の数の多さに慢心したりして、主が共に戦ってくださることをないがしろにしてしまいます。
ダビデは、神が共に出陣してくださなければ、それは空(むな)しい戦いであると告白しています。
「神よ。あなたご自身が私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか」(60:10)。
神が共におられること……これより素晴らしいことはありません。これ以上の祝福はありません。人を頼みとし、数や能力におごっていても、神が共におられないのなら、「人の助けは空しいのです」(60:11)。
これぐらい自分で大丈夫だと慢心しないで、小さな事でもひと言祈ろう。「主イエス様、どうか共に歩んでください」……と。(Ω)
詩篇58:11 まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある。
現世は不条理に見えます。正しい者が報いられず、悪しき者が勝利者のように生きているからです。しかし、神は、必ず報いられるお方です。正しい者には祝福をもって報い、悪しき者にはさばきと滅びをもって報いられます。
今日の詩篇はその神の正しい報いを語っています。だから、私たちは目先の損得勘定に流されないで、正しく報われる神を意識して生きることを教えています。
さて、「報いる」ことは神がなさることです。でも、神のなさる「時」を待ちきれなくて、自分で「報い」を成そうとするので、混乱が起きます。
悪に対して、自分が報いたくて復讐します。つまり自分が報復するのです。こうして報復の連鎖を生み出します。本当は神がなさるべきことです。神の領域を、人間ごときの自分がするので大きな重荷を背負います。
また、善に対しても、神からの報いを待ちきれません。人からほめてもらいたくて自己顕示欲に振り回されます。そのような人に対しては、「天で受けるべき報酬をすでに受けてしまった」とイエスは言われました。
報いることは神がなさる領域です。
さて、今日の詩篇では、悪人が神からさばかれ、滅ぼされることを喜ぶといった記述があります(58:10)。その気持ちは分からないわけでもありません。
しかし、そう思うのは、自分が「正しい者」の側にいると“誤解”しているからです。ひょっとして、自分は悪しき者の側かも知れません。この詩篇が述べているように、悪人が滅ぶことを高笑いするような態度は、神の御心なのでしょうか。
この詩篇が記された後の時代になって、神は預言者を通して次のように語られました。
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がその行いを離れて生きることを好んでいるではないか」(エゼキエル18:23)。
これが神の御心です。さらに神はこう言われます。
「あなた方がわたしに対して行ったすべての咎(とが)を捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなた方はどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻(ひるがえ)って生きよ」(同18:31-32)。
この御心にフォーカスを合わせよう。(Ω)
詩篇57:7 神よ、私の心は定まりました。私心は定まりました。私は歌い、かつほめたたえます。
今日の聖書箇所は、新改訳では「私の心はゆるぎません」。新共同訳では「私は心を確かにします」とそれぞれ訳が異なります。私見ですが、「私の心は定まりました」という訳が心に響くように思います。
さて、この詩篇は、サウル王からの執拗な追跡を逃れたダビデが、岩のほら穴に隠れていたときのものです。問題の最中です。少しも事態は良くなっていません。むしろ事態は悪くなるばかりです。
実際にこの後もサウル王に追跡は終わらず、ダビデの逃亡生活は長期に及びます。
事態が良くなったので私の心が「定まる」のではありません。困難な状況がなくなったらイエスを信じる心が定まるのでしょうか。環境が整ったら心は安定して揺るがなくなるのでしょうか。
そうであれば、多分、一生心は定まらないでしょう。心が定まらなくてフラフラとした人生を過ごすでしょう。そうです。心が定まらないので、人生がふらつくのです。
人生を土台から揺るがすような時こそ、心を定めることです。しっかりと、神に信頼する心に固定すべきです。すべてをご支配なさっている神に、心を定めることです。
ダビデを取りまく環境はちっとも良くなっていません。でも、彼は、心に決めたのです。「私は主を賛美しよう」と。
とはいえ、事態がすぐに改善する訳ではありません。でも、私は主を賛美します、主に感謝します……と、心を定めます。だから事態は動き始めます。
あの放蕩息子もわれに返って、「そうだ。お父さんのところに帰ろう」「悔い改めてお父さんにあやまろう」と心を定めました。そこから事態は好転し始めました。
主を賛美することが先です。主に感謝すると心を定めることが先です。決して逆ではないのです。(Ω)
詩篇56:4 私は神によって、そのみ言葉をほめたたえます。
この詩篇は「これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられた時によんだもの」と説明されています。
ダビデがサウル王からいのちを狙われ逃亡生活をするなか、とうとうペリシテ人の地ガテに逃げ込むほどの窮地に追いやられた時のことです。ダビデは狂人を装ってこの地に逃れたのです。
惨めだったことでしょう。恐れや不安もあったに違いありません。そんな状況で、「私は神によって、そのみ言葉をほめたたえます」と賛美しました。
ダビデは自分が羊飼いの少年であった頃、預言者サムエルから神の御言(みことば)を受けました。それは「あなたはイスラエルの王になるのだ」という神の預言でした。しかし、その後の実際は「イスラエルの王」とは逆の方向に進んでいました。
王になるどころか、サウル王からいのちを狙われ、あげくの果てにペリシテ人の地に逃げ込む始末です。しかしそんな中でも、ダビデには、かつて受けた神の御言を信頼する信仰が生きていました。
御言と現実は異なっていても、御言は必ず実現するのだ。なぜなら御言は“神の”御言だからです。
現実を見ないようにせよと言うのではありません。現実はやがて変化します。でも、神の御言は必ずそのようになって行くことにフォーカスを合わるのです。変化するものにフォーカスを合わせるのではなく、変化しない御言にフォーカスを合わせるとき、私たちの生き方は安定します。
だから、ダビデも「御言をほめたたえます」と告白したあと、「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」と告白し得たのです(56:11)。
ビデオカメラで撮影する前に「ホワイトバランス」を調整します。白い部分にカメラのフォーカスを合わせて、カメラにこれが「白」だって覚えさせるのです。そうしないと、撮影時に逆光になったり、暗い場面になったり、光の加減が違ったりとすると、そのたびに色のバランスが狂うからです。
絶対的な基準を持たない人は、現実が変化するたびに、それに合わせて生きようとするので右往左往します。
しかし、変化しない神の御言にフォーカスを合わます。必ず御言の通りになるのだという基準を持って生きます。それが、ダビデが歌った「私は神によって、そのみ言葉をほめたたえます」という生き方です。(Ω)
詩篇55:22 あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。
人生には、この現実から逃れたいと願うほどの苦しみに出会うことがあります。今日の詩篇をよんだダビデもそのような体験をしたようです。あまりにも苦しくて、気が狂いそうだと告白しています。
「敵の声と、悪しき者のしえたげとによって気が狂いそうです。彼らはわたしに悩みを臨ませ、怒ってわたしを苦しめるからです」(55:3)。※気が狂いそうです、と訳しているのは口語訳のみ。
しかも、その敵というのが外部の者であればまだ耐えられるのですが、昨日まで親しくしていた仲間からの非難や攻撃でした。
「私をののしる者は敵ではありません。もしそうであるならば忍ぶことができます。私に向かって高ぶる者はあだではありません。もしそうであるならば身を隠して彼を避けることができます。 しかしそれはあなたです、私と同じ者、私の同僚、私の親しい友です」(55:12-13)。
親しい友からの攻撃や裏切りほど辛いものはありません。だから、この場所から一刻も早く逃げ出したいと思います。翼があれば、この場を飛び去りたいものだ……と。
「どうか、鳩のように翼をもちたいものだ。そうすれば私は飛び去って安きを得るであろう。私は遠くのがれ去って、野に宿ろう。私は急ぎ避難して、はやてと嵐をのがれよう」(55:6-8)。
しかし、現実はそのままです。逃げ場のない悩みです。今日の御言は、「主イエスにゆだねよ」と指し示しています。苦しみや重荷から逃げ出すことは出来なくても、主にゆだねることは出来ます。
「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来て荷をおろしなさい」と言われる主イエスに、お任せすることが出来ます。主は、それを共に負ってくださるお方です。
何も負わないで気楽に行こうというわけではありません。
負わなければならない重荷もあります。逃げ出すことの出来ない苦しみがあります。しかし、それを自分ひとりで負うのではなく、イエス様は、それを共に負ってくださり、共に苦しんでくださるおかたです。
見えないお方ですから、ゆだねると言っても抽象的に思えるかも知れませんが、例えば友人に今の苦しみを告白して共感してもらうだけでも楽になれるように、イエス様に祈りの中で申し上げることです。
そのような祈りの中で、きっと、主が共に負ってくださるという体験があります。主イエスは生きておられるからです。(Ω)
詩篇54:4 見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。
神によって油注ぎを受け王と任命されたダビデですが、王位に固執するサウルからいのちを狙われ、逃亡生活を余儀なくされたことは、すでに何度も確認してきたところです。
「ここにダビデがいる」とサウルに密告する者たちがあったため、ダビデは荒野を転々としなければなりませんでした。
今日の詩篇もそのような状況の中でうたわれたもので、次のように但し書きが記されています。「これはジフびとがサウルにきて、『ダビデはわれらのうちに隠れている』と言った時によんだもの」。
人の好意によって隠れることが出来ても、それはほんのひと時に過ぎません。味方がいるから安心、武器が揃っているから大丈夫とはいえません。苦しい逃亡生活の中で、神が守ってくださることをダビデは体験したのです。
今日の御言はその告白です。「見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです」。新改訳では「神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です」。
かつての苦しい時代をで振り返ってみれば、「ああ、イエス様が守ってくださったんだ」と告白せざるを得ないことばかりです。あんな危険な所を通っていたんだ……と分かって冷や汗をかくこともあります。
いのちを与えてくださった神は、それを守るお方でもあります。いのちの源であるお方が、いのちを守ってくださっていることを、もっともっと信頼しようと思います。
奴隷の地エジプトを脱出したイスラエル民族が、あの荒野40年を通過した後に知ったことは何だったでしょうか。荒野のを通過しているときは目の前のことで精一杯で気がつかなかったけれど、神は毎朝「マナ」をふらせて養ってくださったではないか……という感動でした。
あの荒野を通過してみて知らされたことは、40年間、着物はすり切れず、足は腫れなかったという恵みです。そして、この荒野の経験は、神の恵み深い訓練であったということです(申命記8:2-6)。
いのちを守られるのは主であることを覚えて、ゆだねる者になろう。きっと振り返ってみて、主が守ってくださったという恵みの事実を発見するこでしょう。(Ω)

