ミカ書 7章
主はわが訴えを取りあげ、私のためにさばきを行われるまで、私は主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主は私を光に導き出してくださる。私は主の正義を見るであろう。(7・9)
人は自己正義という「よろい」を着て神と戦おうとします。それはまったく勝ち目のない戦いです。そもそも、神と戦おうなど恐れを知らない愚か者のなせる業です。知恵ある者は、おのが罪を認めて、神の正しいさばきに身をゆだねる他に道がありません。
神のさばきのもとでお叱りを受け、その結果、痛みのともなうこともあるでしょう。冒頭の聖句は、そのことを告白しています。
しかし……です。幾度となくこの書で取り上げてきたことですが、さばき故の痛みは、私たちがきよめられ、光の中に導かれる方法なのです。
自己正義という「よろい」で身を固めるのは、自分を強者のように見せたいからです。自己正義という虚飾で自分を着飾るのは、少しでもよく見られたいからです。それを脱いでしまうと、敵にあざ笑われるので嫌なのです。
しかし御言は告げます。「わが敵よ、私について喜ぶな。たとい私が倒れるとも起きあがる。たとい私が暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる」からです(7・8)。この「敵」とは、私たちを訴え出る悪魔(サタン)のことです。「敵」を見誤ってはいけません。神との戦いではなく、悪魔との戦いです。
しかし、その悪魔と戦うにあたって、人間の正義や真面目さは何の威力もありません。
むしろ、敵である悪魔にあざ笑われようが、そんなことで怯んではなりません。悪魔の前に格好をつけるよりは、神の御前に正直になって悔い改め、神の光の中に歩む方が圧倒的な勝利者です。
私たちが神の御前に罪を認めてへりくだるなら、一時は敵があざ笑うことになりますが、私たちは神の義の衣を着て、敵なる悪魔に恥をかかせることになります。「『お前の神、主はどこにいるか』と私に言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、わが目は彼を見てあざ笑う。彼は街路の泥のように踏みつけられる。」からです(7・10)。
こういうわけですから、神が、私たちの罪をさばかれることに全幅の信頼を寄せるべきです。さばきが済むまでしばらくは痛みがともないます。冒頭の聖句のように「私は主の怒りを負わなければならない」わけです。しかし、その後「主は私を光に導きだしてくださる」のです。つまり、罪のゆるしを受けます。それは「主の正義を見る」ことであり、神の義の衣を着せていただけることです。こうして、敵である悪魔に恥をかかせることになるというわけです。
このことを知っているので、犯してしまった過ちを隠すのではなく、神の御前にあきらかにして、こう申し上げるのです。「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」と(7・19 新改訳)。神はそれがおできになるのです。
主はわが訴えを取りあげ、私のためにさばきを行われるまで、私は主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主は私を光に導き出してくださる。私は主の正義を見るであろう。(7・9)
人は自己正義という「よろい」を着て神と戦おうとします。それはまったく勝ち目のない戦いです。そもそも、神と戦おうなど恐れを知らない愚か者のなせる業です。知恵ある者は、おのが罪を認めて、神の正しいさばきに身をゆだねる他に道がありません。
神のさばきのもとでお叱りを受け、その結果、痛みのともなうこともあるでしょう。冒頭の聖句は、そのことを告白しています。
しかし……です。幾度となくこの書で取り上げてきたことですが、さばき故の痛みは、私たちがきよめられ、光の中に導かれる方法なのです。
自己正義という「よろい」で身を固めるのは、自分を強者のように見せたいからです。自己正義という虚飾で自分を着飾るのは、少しでもよく見られたいからです。それを脱いでしまうと、敵にあざ笑われるので嫌なのです。
しかし御言は告げます。「わが敵よ、私について喜ぶな。たとい私が倒れるとも起きあがる。たとい私が暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる」からです(7・8)。この「敵」とは、私たちを訴え出る悪魔(サタン)のことです。「敵」を見誤ってはいけません。神との戦いではなく、悪魔との戦いです。
しかし、その悪魔と戦うにあたって、人間の正義や真面目さは何の威力もありません。
むしろ、敵である悪魔にあざ笑われようが、そんなことで怯んではなりません。悪魔の前に格好をつけるよりは、神の御前に正直になって悔い改め、神の光の中に歩む方が圧倒的な勝利者です。
私たちが神の御前に罪を認めてへりくだるなら、一時は敵があざ笑うことになりますが、私たちは神の義の衣を着て、敵なる悪魔に恥をかかせることになります。「『お前の神、主はどこにいるか』と私に言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、わが目は彼を見てあざ笑う。彼は街路の泥のように踏みつけられる。」からです(7・10)。
こういうわけですから、神が、私たちの罪をさばかれることに全幅の信頼を寄せるべきです。さばきが済むまでしばらくは痛みがともないます。冒頭の聖句のように「私は主の怒りを負わなければならない」わけです。しかし、その後「主は私を光に導きだしてくださる」のです。つまり、罪のゆるしを受けます。それは「主の正義を見る」ことであり、神の義の衣を着せていただけることです。こうして、敵である悪魔に恥をかかせることになるというわけです。
このことを知っているので、犯してしまった過ちを隠すのではなく、神の御前にあきらかにして、こう申し上げるのです。「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」と(7・19 新改訳)。神はそれがおできになるのです。
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