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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ミカ書 7章

2023年07月08日 | ミカ書
ミカ書 7章
主はわが訴えを取りあげ、私のためにさばきを行われるまで、私は主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主は私を光に導き出してくださる。私は主の正義を見るであろう。
(7・9)


人は自己正義という「よろい」を着て神と戦おうとします。それはまったく勝ち目のない戦いです。そもそも、神と戦おうなど恐れを知らない愚か者のなせる業です。知恵ある者は、おのが罪を認めて、神の正しいさばきに身をゆだねる他に道がありません。

神のさばきのもとでお叱りを受け、その結果、痛みのともなうこともあるでしょう。冒頭の聖句は、そのことを告白しています。

しかし……です。幾度となくこの書で取り上げてきたことですが、さばき故の痛みは、私たちがきよめられ、光の中に導かれる方法なのです。

自己正義という「よろい」で身を固めるのは、自分を強者のように見せたいからです。自己正義という虚飾で自分を着飾るのは、少しでもよく見られたいからです。それを脱いでしまうと、敵にあざ笑われるので嫌なのです。

しかし御言は告げます。わが敵よ、私について喜ぶな。たとい私が倒れるとも起きあがる。たとい私が暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられるからです(7・8)。この「敵」とは、私たちを訴え出る悪魔(サタン)のことです。「敵」を見誤ってはいけません。神との戦いではなく、悪魔との戦いです。

しかし、その悪魔と戦うにあたって、人間の正義や真面目さは何の威力もありません。

むしろ、敵である悪魔にあざ笑われようが、そんなことで怯んではなりません。悪魔の前に格好をつけるよりは、神の御前に正直になって悔い改め、神の光の中に歩む方が圧倒的な勝利者です。

私たちが神の御前に罪を認めてへりくだるなら、一時は敵があざ笑うことになりますが、私たちは神の義の衣を着て、敵なる悪魔に恥をかかせることになります。「『お前の神、主はどこにいるかと私に言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、わが目は彼を見てあざ笑う。彼は街路の泥のように踏みつけられる。からです(7・10)

こういうわけですから、神が、私たちの罪をさばかれることに全幅の信頼を寄せるべきです。さばきが済むまでしばらくは痛みがともないます。冒頭の聖句のように私は主の怒りを負わなければならないわけです。しかし、その後主は私を光に導きだしてくださるのです。つまり、罪のゆるしを受けます。それは主の正義を見ることであり、神の義の衣を着せていただけることです。こうして、敵である悪魔に恥をかかせることになるというわけです。

このことを知っているので、犯してしまった過ちを隠すのではなく、神の御前にあきらかにして、こう申し上げるのです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください(7・19 新改訳)。神はそれがおできになるのです。


ミカ書 6章

2023年07月07日 | ミカ書
ミカ書 6章
わが民よ、わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか、わたしに答えよ。
(6・3)


神は、法廷で論争なさるかのようにして、被告人であるイスラエルの民に語りかけておられます。その法廷では、証人としてもろもろの山と丘が呼び出されています(6・1~2)。カナンの山や丘はイスラエルのたどった悪をつぶさに見てきた証人です。

そこで、神は言われるのです。何故にイスラエルの民よ。わたしに不正を働くのか。わたしが、あなた方にいったいどんな間違いをしたというのか。答えてみよと。つづく3~6節を意訳するとこうです。

神は、民を奴隷の地エジプトから救い出したではありませんか。これはあなたにとって負担になることだったのですか。また、モーセを指導者として立てて、民が荒野で迷わないように導き、教え、育んできたではありませんか。さらに、バラクやバラムといった敵対する者たちから守ってきたではありませんか。何か余計なお世話でしたか。

この神の論述を前に、言い開きのできる民はひとりもいません。新約における私たちも同じではありませんか。主イエスは、私たちを疲れさせるような負担を何ひとつお与えになっていません。何の返礼も要求なさっていません。主は私たちにいつも真実を尽くしてくださっています。

私たちのなすべき事は、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないかと言われているように、イエスとご一緒に歩むことです(6・8)。共に歩む中で、主はいつも〝公義のお手本〟を見せ、〝いつくしみのお手本の手ほどきしてくださるのです。そのことをイエスは、わたしのくびきを負うて、わたしに学べといわれたわけです(マタイ11・29)

第6章の後半は、主を畏れることを知らない民の偽りの数々が指摘されています。「不義の財宝」「不正な枡」「不正なはかり」「偽りのおもり」等々……悪のオンパレードです。人々は偽りの上に築き上げられた偽りの繁栄を謳歌していました。そんな誤魔化しは隠せるはずもなく神には丸見えです。神は、その悪を暴き滅ぼされるのだと告げられています。

だからです。8節にあるように、神と共に歩んで、公義といつくしみを愛すべきなのです。


ミカ書 5章

2023年07月06日 | ミカ書
ミカ書 5章
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族の内で小さい者だが、イスラエルを治める者があなたの内から、わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
(5・2)


第5章は、イスラエルが敵軍に包囲されている情景から始まります。「司の頬を撃つ」とは、国の統治者が滅ぼされることを意味します。もはや国としては成り立ちません(5・1)。しかし、都エルサレムの南方約9キロの地、寒村ベツレヘムにはイスラエルを治める者が誕生するのだという預言です。世俗の統治者は滅びるが、御国のまことの統治者なるキリストが誕生するという対比として描かれています。このお方こそ、イエス・キリストです。

ベツレヘムは偉大な王ダビデの生誕地ですが、そこにキリストが誕生するというのは、神の御業にはふさわしい一致です。

エフラタとはベツレヘムとほぼ同じ地名と考えてよいでしょう。かつてヤコブの妻ラケルは旅の途中で亡くなり、このエフラタに埋葬されました。また、ルツ記に登場するナオミの夫や息子たちは「ベツレヘムのエフラタ人」と表記されています。後にルツの夫となったボアズもこのエフラタの人であり、その家系からダビデ王が誕生し、さらにキリストの誕生へとつながっています。

事実、イエス様はダビデの家系のヨセフの長男として、ベツレヘムでお生まれになりました。

このベツレヘムとはパンの家という意味です。イエスはご自分を「いのちのパン」だと言われ、ご自分を食べるようにと人々に語られました。まさに、パンの家であるベツレヘムに誕生なさるとは、なんと意義深い出生でしょうか。

キリストの誕生は昔から、いにしえの日からであるとあります。新改訳では、永遠の昔からの定めであると訳されていますが、それは、アダムが罪をおかしたので、急きょ立てられた計画ではないという意味です。永遠前からの御心です。となれば、人類の堕落さえも神のご計画の中にあったということになります。この深遠なる神のご経綸についてお話するには紙面が足りません。ただ言えることは、神の愛と御心を信頼することです。ベツレヘムにお生まれになった御子イエスを信じて永遠のいのちを得るという御心もまた、永遠の昔からの定めだからです。

さて、ミカ書5章は、そのキリストの力強い統治の様子が描かれています。

アッスリヤびとが我々の国に来て、我々の土地を踏むとき、7人の牧者を起し、8人の君を起してこれに当らせる
(5・5)とありますが、ヒゼキヤ王の時代にアッシリヤ軍を撃退することを予見したとも言えますが、更に終わりの時代にエルサレムが敵軍に包囲される時のことも予見されているのでしょう。


キリストが王として支配なさる世界では……、

①全ての兵器や武具が打ち壊されます。(5・10~11)
②様々な偶像礼拝は取り除かれ、主なる神への真実な礼拝が回復します。(5・12~15)

この約束は、2千年前のキリスト誕生によっては実現していませんが、再臨のキリストによって完成するはずです。そこに至るまで、キリストを受け入れた私たちの中で、先取りするようにして実現する約束でもあります。私たちの心から、人を殺す武具は取り除かれ破壊されます。憎しみ、恨み、殺意は核兵器以上に恐ろしい兵器です。また、私たちの中から偶像は取り除かれ打ち砕かれます。私たちの心には、主イエスに対する礼拝が回復します。このようなキリストの統治は信じる私の中から始まるのです。


ミカ書 4章

2023年07月05日 | ミカ書
ミカ書 4章
シオンの娘よ、産婦のように苦しんでうめけ。あなたは今、町を出て野にやどり、バビロンに行かなければならない。その所であなたは救われる。主はその所であなたを敵の手からあがなわれる。
(4・10)


第4章からは回復の預言です。

神は、イスラエルを裁かれますが、それは滅ぼすためではなくきよめるためです。神は、私たちに御怒りを下されますが、それは、その試練の中で悔い改める者を興し、そこから新しく始めるためです。

冒頭の聖句では、妊婦の産みの苦しみ」「町を出て野に宿るそしてバビロン捕囚が描かれていますが、これから「シオンの娘※」に臨まんとする試練のことです。 ※「シオンの娘」とはエルサレムの人々のことであり、さらにはイスラエルの民のことである。

さて、試練の時に悔い改める者たちのことを、聖書は残りの者と称して、次のように預言しています。その足のなえた者を残れる民とし、遠く追いやられた者を強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえに彼らを治められる(4・7)

足がなえた者とは、神の厳しい取り扱いによって痛みを受けた者です。悔いし砕けし魂の者たちのことです。遠く追いやられた者とは、バビロンへ捕囚となった者たちのことです。

いずれも、見捨てられたかのように見える者たちです。しかし、神の哀れみはそのような者に注がれています。冒頭の聖句でも、神は民をバビロンへ追いやられるが、〝そこにこそ〟本当の救いが用意されているというのです。その所であなたは救われると主は言われるのです(4・10)

私たちがなすべき事は、神の手厳しいお取り扱いの時でも、神を信頼することです。「神がいるなら何故こんなことが」と恨み節を言わないことです。そして、試練の時こそ悔い改める機会です。私たちは、悔い改めることによる以外に、神に喜ばれる「悔いし砕けし魂」を用意することができないからです。

ここではシオンの娘よ、苦しめと言われますが、その先にある回復の希望に至るために通過しなければならない苦しみです。しかし、かたや、その望みに焦点をあてて、神はシオンの娘よ、大いに喜べとも語られるのです(ゼカリヤ9・9/ゼパニヤ3・14)。このバランスを見失ってはなりません。


ミカ書 3章

2023年07月04日 | ミカ書
ミカ書 3章
先見者は恥をかき、占い師は顔をあからめ、彼らは皆そのくちびるをおおう。神の答えがないからである。
(3・7)


第3章に入ると、神の御言は指導者たちに向けて語られています。

わたしは言った、ヤコブのかしらたちよ、イスラエルの家のつかさたちよ、聞け、公義はあなたがたの知っておるべきことではないか(3・1)。なのに、公義を歪め、民を食い物のように扱っているではないか……と(3・2~3)

つづいて、神の御言をもって民を導くべき預言者に向けて語られます。

彼らは、神がご覧になるに「わが民を惑わす預言者」たちです。なぜなら、彼らは食べ物のある時には、『平安』を叫ぶけれども、その口に何も与えない者にむかっては、宣戦を布告するからです(3・5)

これは皮肉たっぷりの指摘です。つまり、自分にご馳走を奢ってくれるような〝お得意さま〟には、平安な未来を予告し、そうでない者には不吉な戦いを語るのです。そんなご都合主義の預言は偽りです。

そのような偽り者に対して、神は顔を背けられます。もはや、彼に聞こえてくるのは惑わしの言葉、悪霊たちの言葉ばかりです。だから、彼らには真理は啓示されず、大いに恥をかくことになります(3・6~7)

冒頭の聖句のように、先見者は恥をかき、占い師は顔をあからめ、彼らは皆そのくちびるをおおうのです。何故なら、神の答えがないからです。

求める者は与えられ、探す者は見出し、門をたたく者は開けてもらえる。これが真実な神の誠実な応答です。しかし、自分の利得のために信仰を利用し、人からの人気を得ようと預言をする者に対して、神はもはやお応えにならなくなるのです。

先のアモス書でも、終わりの時代には、神の御言を求めても聞くことのできなくなる霊的な飢饉がやって来ると預言されていました。「見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る、それはパンの飢饉ではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことの飢饉である」と(アモス8・11)

霊的指導者たちの堕落は、そのような霊的な飢饉を招くことになります。そんな堕落を招かないように、私たちは目を覚ましていなければなりません。


ミカ書 2章

2023年07月03日 | ミカ書
ミカ書 2章
見よ。わたしは、こういうやからに、災いを下そうと考えている。あなた方は首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。
(2・3 新改訳)


「その床の上で不義を計り、悪を行う者はわざわいである。彼らはその手に力あるゆえ、夜が明けるとこれを行う」(2・1)とあるように、民の堕落ぶりは限界を超えていました。少しは遠慮をして暗やみに隠れて行われる悪も、いまや白昼堂々と成されていました。大手を振って悪をなせるほどに、彼らは力をもっていました。

さらに、公然と他人のものをむさぼり、奪うこともしました(2・2)

だから、神は、わたしは、こういうやからに、災いを下そうと考えている。あなた方は首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだと言われます。

罪を犯して平然としていられるのは何故ですか。さも偉い者でもあるかのように高ぶっていられるのは何故ですか。

本当の聖なるお方を知らないからです。神の眩いばかりの聖さを知らないのでは、人は畏れを知りません。また、天地万物をご支配なさる神の権威を知らないので、人はさも自分が偉い者であるかのように高慢に振る舞うのです。

漁師のシモンが主イエスとお会いした時、彼はひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」(ルカ5・8)と告白し得たのは、イエスが聖なる方だとわかったからであり、その聖さを前に己の罪深さを畏れたからです。

悪霊たちはイエス様とお会いするや、「あなたこそ聖なるお方です」と叫んで出て行きました。しかし、律法に熱心なパリサイ人たちと出会っても、悪霊たちは出て行く必要がありませんでした。何故なら、パリサイ人たちは表向きは立派でも内側は邪悪と欺瞞が満ちた罪人にすぎないので、悪霊たちは恐れあわてる必要がなかったからです。ところが、聖なるお方、権威あるお方であるイエスと出会うや、汚れた霊たちはおのれの罪を恥じいって、うなだれて出て行くしかありませんでした。

このように、聖なる方と出会う時、私たちは自分の本当の罪深さを知ることになります。光の前に出れば出るほど、自分の汚れている部分がより鮮明になるのと同じです。

このお方の前で、首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなるのです。このお方の前で、謙遜に罪を認め、悔い改める者こそ幸いな者です。

しかし、そんな神の御告げを聞いても、うなじの固い人々は冷ややかでした。おれたちに説教しようというのかと預言者ミカを前にして反発します(ミカ2・6)。新改訳では、そんなたわごとを言うなです。つまり彼らには、神の御言は「正気を失った言葉」に聞こえるというわけです。いったい、正気を失っているのはどちらですか。

さらに預言はつづきます。イスラエルの民は神に敵対する民である(8)。また、彼らは約束の地を汚してしまったが故に、神はこの地を滅ぼしてしまわれる。もはや、ここはおまえ達の住む所ではない。出て行け!と、怒りをあらわになさっています(10)

しかし……です。そんなひどい民なのに、神は彼らを最後は回復なさるのです。散らされた地から残りの民を集め、まことの牧者である神が、羊を養うように彼らを守り導くのだと(12~13)。神の忍耐強い愛がこの業を完成なさいます。


ミカ書 1章

2023年07月01日 | ミカ書
ミカ書 1章
マレシャに住む者よ、わたしはまた侵略者をあなたの所に連れて行く。イスラエルの栄光はアドラムに去るであろう。
(1・15)


ミカは南ユダの預言者です。活動した年代は紀元前8~7世紀ころ。預言者イザヤと時代を同じくするところがあります。列王紀に北王国の預言者ミカヤの記事がありますが別人です。

ミカを通して告げられた預言は、南ユダの信仰の堕落と欺瞞を指摘するものでした。

第1章2~3節では、主ご自身が〝さばきのために〟天の御座から立ち上がり、この地に立っておられる様子が描かれています。このお方のさばきの前に、地表は耐えられず溶け去ってしまうと描写されています。「溶ける」とは、それまでは確かな存在として立っていたのに、もろくも崩れ去ってしまう「むなしさ」を表現しています。

しかも、神のさばきを証言するために、神ご自身が法廷の「証人」として立たれるのです(1・2)。全知全能の神、隠れたところで隠れたことをご覧になっている神が証人となれば、私たちに下される判決は「罪人」であることに間違いありません。 ※新約に至っては、キリストが私の証人となって、私が義人であることを証言してくださる。ここに救いがある。

さて、はじめに北イスラエルの罪です(1・5)。北イスラエルは「ヤコブ」と呼ばれたり、その首都の名をもって「サマリヤ」と呼ばれたりしますが、いずれも北イスラエル王国のことです。

北王国の罪は南ユダ王国にまで影響を及ぼし、その傷は癒しがたいほどになったと指摘されています。「サマリヤの傷はいやすことのできないもので、ユダまでひろがり、わが民の門、エルサレムまで及んでいる」のです(1・9)

その影響は偶像礼拝において顕著に表れています。その彫像はみな砕かれ、その獲た価はみな火で焼かれる。わたしはその偶像をことごとくこわす。これは遊女の価から集めたのだから、遊女の価に帰ると言われます(1・7)

今は繁栄しているようだが、それは滅びに向かう繁栄であるとの指摘です。偽りの神礼拝の上に築き上げられた繁栄は遊女の報酬なのです。 ※偶像礼拝は物質的な繁栄をもたらした。偶像を受け入れることで異教徒である他民族との交流や商売が盛んになり、その経済効果は莫大な富をもたらした。しかし、そのようにして得られた富を、神は「遊女の報酬」と言われたのだ。

さて、第1章の後半は、町々の名をあげて預言されていますが、ヘブル語では同義語の掛け合わせのようにして語られています。冒頭の聖句もその流れです。

マシャレとは「所有」を意味する町の名。自分たちは豊かな富を所有し、地位や誉れをも所有していると豪語するマシャレの人々よ。「わたしは侵略者をあなたの所に連れて行く」と言われます。

この侵略者とはバビロン軍のことでしょう。当時の人々には想像もできない事件です。まさか、我々が他国軍に支配され略奪されるなんて……。

預言は更に続きます。「イスラエルの栄光はアドラムに去るであろう」。アドラムとは「洞窟」という意味の町。アドラムの周囲には洞穴がたくさんあり、敵から逃れるためにこの洞穴に隠れたのです。

何でも所有していると思い上がる人々よ。神は敵軍をこの地に送られるが故に、それまで所有していた栄光は去ってしまい、洞穴に追いやられてしまうのだというのです。神の民の栄光が去って行く時が来ます。神をあなどり、おごり高ぶる者たちへの警告です。