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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨナ書 4章

2023年06月30日 | ヨナ書
ヨナ書 4章
ましてや、わたしは12万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。
(4・11)


ニネベに素晴らしい悔い改めが起きました。神の民イスラエルが主流である旧約の時代に、異邦人たちの救いの記録はまれです。すごいことが起きています。新約にいたって異邦人にも救いが及ぼされることを予見するかのような記録です。

ところが、ニネベ宣教の功労者である預言者ヨナ自身は、その結果を素直に喜んでいません。神が、ニネベをゆるされたことに腹を立てています。放蕩三昧の弟が戻ってきたのに、その歓迎会に加わろうとしない兄の姿が思い浮かびます(ルカ15・11~32)

ヨナは同胞のイスラエルをこよなく愛していましたが、それは偏った愛でした。偏った愛はしばしば人を傷つけ、神を悲しませます。もちろん、神は、イスラエルを愛しておられますが、それと同じように異邦人を愛しておられます。これはヨナ書に啓示された重要な神の御心です。

神のなさることに不満をもつヨナは、ニネベの成り行きを見極めようと、小さな小屋を建て、そこに座り込みます。とても暑い地域です。神は、そんなヨナを慈しんで、トウゴマを生やせて日陰を用意なさいました。神の粋なおはからいです。神は時に愉快なことをなさいます。へそを曲げるヨナに怒られるのではなく、やさしく寄り添ってくださるのです。 ※トウゴマは大きな葉を持つ多年草で、暑くなると急激に成長するが、茎のわずかの傷で枯れてしまう性質がある。

ヨナはわかっているのです。主は恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされるお方であることを(4・2)。でも、わかっていても腹が立つのです。神もまた、ヨナの心持ちをわかってくださっています。だからこそヨナをあわれんで、トウゴマの日陰をかざすようにして、なだめてくださっているのです。

本音で神と対面するヨナの姿と、そんなヨナを微笑みながら対応なさる神との交わり。そこに、真の信仰の姿を見ます。形式的に神を敬うだけの宗教ではありません。信仰とは、神の愛を信頼して、正直に自分をさらけ出しながら神と共に生きて行くことです。

さて、神はトウゴマを一夜のうちに枯らせてしまいました。翌日、かんかん照りの中でヨナは暑さに耐えられず、トウゴマを枯らせた神に文句をつけるのです。神を批判するなんてとんでもないですか。いいえ、ここにも神とヨナの麗しい信頼関係を見ます。

そこで、神はお応えになりました。あなたは、こんなトウゴマが滅びることでさえ惜しむのか。ましてや、わたしは、ニネベの人々が滅びることを惜しまないでいられようか……と(4・10~11)

自分中心の愛は偏っています。だから都合の良いトウゴマが枯れることは惜しむが、都合の悪いニネベが滅びることは惜しまないのです。しかし、神の愛は偏っていません。神は、イスラエルが滅びることを惜しむように、異邦人の滅びも惜しむお方です。

わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ(エゼキエル18・32)。これが神の御心です。神の愛です。



ヨナ書 3章

2023年06月29日 | ヨナ書
ヨナ書 3章
人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
(3・8)


大魚の腹から救い出されたヨナは、遂に神の命令に従って一路ニネベへ向かいました。神の御言を告げるためです。到着するや、ヨナはニネベの町を3日かけて行き巡り、「40日を経たらニネベは滅びる」と告げました。

神がこうしてあらかじめ告げられるのは何故でしょうか。ニネベの人々に悔い改める機会を用意するためです。

それは、今日においても同じです。神は、この罪の世界もろとも、サタンとその手下たちを滅ぼすことになさっています。その最後の様子はヨハネの黙示録に克明に預言されています。つまり、あらかじめ滅びが告げられているのです。

しかし、今は恵みのとき、救いの日です。悔い改めて救いを得る期間です。神の目的は、罪をおかした御使を滅ぼすことであって、人間に対しては救いを得るように用意なさっています。だから、悔い改めて生きよと言われるのです。

するとどうでしょう。ヨナの宣教によってニネベの人々は悔い改めたのです。人々は主を信じ、断食を呼びかけ、身分の低い者から高い者までみな「荒布を着た」のです(3・5)。荒布を着るとは、悔い改めの姿勢です。断食は神への祈りです。

一般市民の悔い改めは王さえも動かし、彼はその王座から立ち上がり、王の服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座したのです(3・6)。神は、人々の真実な悔い改めをご覧になり、災いをくだすことを思い直されました(3・10)

この時のアッシリヤ帝国の王は、アダド・ニラリ三世ではないかと言われています。アッシリヤの文献によると、彼だけが一神教信者であったようです。彼の治世の時代にアッシリヤの拡大路線は穏やかになり、それに呼応するかのように、北イスラエルは領土を回復しています。

そう考えると、歴代志下巻の14章の記述とも符合します。次のように記録されています。

彼(北イスラエルの王ヤラベアム二世)はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。(列王紀下14・25)

こうして、ニネベでは町をあげての悔い改めがなされました。それを奨励するための王の布告はとても興味深い内容です。今日の冒頭の聖句です。

悔い改めが人に対してだけでなく、動物たちに向けても勧めているからです。不思議な表現ですが、聖書で度々その主旨のことが啓示されています。

神によって創造された被造物たちの任務は、神をほめたたえることです。万物は神の栄光を現すために創造されたからです。だから詩篇でも、息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよと命じられています(150・6)。人間だけではありません。「息のあるすべてのもの」です。

しかし、人類が罪に服して以来、罪の重荷は被造界全体に暗い影を落として来ました。ですから、被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいるのです(ローマ8・19)。「神の子たちの出現」とは、人類が救いを受けて、本来の姿に回復することを指しています。本来ならば、人間は自然界の良き管理者として地を従わせ、神の祝福に満ちた世界を治める任務が与えられていました(創世記1・26)。しかし、罪の結果、その使命を果たせておらず、戦争、破壊、汚染、搾取などによって実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けているのです(ローマ8・22)

ですから、罪人が悔い改め、神と和解し、本来の姿を回復することは、被造物全体の回復をも意味するのです。本来、神が創造なさった被造物の目的を果たす時が来るのです。その回復された世界を、預言者イザヤは次のように描写しています。

「狼は小羊と共にやどり、豹は子やぎと共に伏し、子牛、若獅子、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、

乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(イザヤ11・6~9)

ニネベに起きた悔い改めは、それをほんの少し先取りした姿です。やがてこれが全ての世界で実現する時が来ますようにと祈ります。これが、主の祈りの「御国を来たらせたまえ」の内容です。


ヨナ書 2章

2023年06月28日 | ヨナ書
ヨナ書 2章
私は悩みのうちから主に呼ばわると、主は私に答えられた。私が陰府の腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞かれた。
(2・2)


海に投げ込まれたヨナは大魚に飲み込まれ、その腹の中で神に悔い改めの祈りをささげました。

人間が大魚に飲み込まれることは、実際にも記録があるそうです。しかし、その中で生存する可能性は限りなくゼロに近いことでしょう。ヨナは神に祈りをささげ、その後、仮死状態となって三日目に吐き出されたのではないかと私は想像しています。

さて、第2章はヨナの祈りです。

神に本音でぶつかっていったヨナは、悔い改める時も本音です。神は、私たちの本音の祈りを喜ばれます。大きな声であろうが、小さな声であろうが、正直な祈りは神に届きます。陰府の底からでも届きます。

※余談であるが、ヨナにとって建前と本音の区別はない。それがあるのは日本人特有の文化だ。建前と本音を使い分けるので「忖度文化」が生じる。相手はこれを願っているのだろうなと推察して応じるとか、逆に、本音で願うのは恥ずかしいので、相手に慮って欲しいと願うのだ。だから、忖度しなければならないのが日本文化だ。「よろしくお願いします」という挨拶が通用するのも忖度の〝おかげ〟である。

しかし、神の御前では忖度する必要がない。大胆に本気で向き合うことが最良の道である。神はそれを喜び、真実に応答してくださるからだ。

ヨナは大魚の腹の中を陰府だと表現しました。陰府とは死者の霊が行く所です。そんな絶望的なところからでも、悔いし砕けし霊魂の祈りは神に届きます。自分の置かれている場所がいかに悲惨で絶望的であっても、誠実な祈りは神に届くのです。

いま、あなたは、大魚に飲み込まれたかのような環境におかれているでしょうか。まさに、私たちに住む世界は、行いによって評価される成果主義という大魚の中に飲み込まれているかのようです。

また、この世界は、罪と死という大魚に飲み込まれた世界のようです。だれも、この大魚の中で生きのびることはできません。こんな大魚の中で、私たちは苦しみあえいでいます。
でも、そんな大魚からの叫び声を、主は聞いてくださいます。


ヨナ書 1章

2023年06月27日 | ヨナ書
ヨナ書 1章
時に、主は大風を海の上に起されたので……
(1・4)


アミッタイの子ヨナは列王紀下14章25節にも記録されています。それによれば、ヨナはガテヘペエルの出身です。ガテヘペルは北イスラエルのナザレに近い町であり、そこで彼は預言者として召され、ニネベに行って預言せよと命じられました。

ニネベはアッシリヤ帝国の首都です。現在のイラク北部、チグリス川の中流域にある大都市でした。アッシリヤは残虐な侵略政策をもって次々と隣国を攻め滅ぼし、支配を広げて行きました。イスラエルもこの脅威にさらされていたのです。

しかし、神はそのアッシリヤに向かって、悔い改めよ。ニネベは40日後には滅びるのだと告げるために、ヨナをニネベに派遣なさったのです。

イスラエル人のヨナにしてみれば、敵国アッシリヤが滅びるのであれば大歓迎です。わざわざ悔い改めを告げなくても、放っておいて40日後に滅びてしまえばいいじゃないですか。なのに、主よ、なぜ私を遣わされるのですか。

悔い改めを告げて、万が一にも彼らが悔い改めたらどうなさるのですか。主よ、あなたはニネベの滅亡を思いとどまられるのですか。そんなことなら私は嫌です。あんな奴ら滅びてしまえば良いんです。

そんなやり取りが、神とヨナとの間に交わされたことでしょう。ヨナは神の命令に反発しました。納得できないヨナは、ヨッパの港にくだってタルシシ行きの船に乗ったのです。タルシシはスペイン南部の町で、ニネベとは正反対の方向です。

神には従順すべきです、しかし、建前で従順なふりをするよりは、ヨナのように、神様と本音でぶつかり合うのも良いことでしょう。それは、神への信頼の現れだからです。ですから、神もまた、本音でぶつかってくるヨナを愛しておられます。

そこで冒頭の聖句が示すように、時に、主は大風を海の上に起こされました。神は、嵐を用いてでも、ヨナと関わって行かれます。少し〝手荒い関わり方〟ではありますが、神もまたヨナを信頼して窮地に追い込まれるのです。

事情がわからないのは、同じ船に乗船している人々です。彼らは、各々自分たちが日頃拝んでいる神々に命乞いをし始めました。しかし、ヨナだけは船底で「ふて寝」をしているのです。主に腹を立てて、ふてくされています。

一方、人々は嵐の原因を突きとめようとくじを引くと、ヨナに当たりました。神は、不信者の占いさえ用いて、ヨナに悔い改めをせまります。

それでもヨナは神に従いません。原因は自分だと認め、自分を海に投げ込むように申し出ました。自分の死をもって神の御怒りを鎮めれば、これ以上迷惑をかけることはないし、ニネベ宣教も頓挫してしまうから本望だと考えたわけです。かくして、人々は恐れつつヨナを海に投げこむと嵐は止んだのです。

しかし、それでも神はヨナに関わって行かれます。神は大魚を用いて、ヨナを大魚の腹の中に導かれ、一命を保たれました。

神は、愛する者ととことん関わって行かれます。嵐を用いてでも私たちに語りかけ、導かれます。海の底に投げ込まれようとも、陰府の暗やみのような大魚の中にあろうとも、神は私たちと共におられ、関わってくださいます。

私たちのなすべきことは、この神である主と真摯に向き合うことです。

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オバデヤ書

2023年06月26日 | オバデヤ書
オバデヤ書
主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。
(15)


オバデヤは南ユダの預言者ですが、いつの時代の人なのかは定かではありません。彼が預言したのは、エドム人に対するものでした。

エドム人の先祖はエサウ。エサウはヤコブ(後のイスラエル)の双子の兄です。ですから、もとをたどれば兄弟です。同じ父イサクの子孫です。

しかし、兄エサウは、弟の調理したレンズ豆の煮物を食べたかったがために、長子の特権を弟のヤコブにくれてやったという経緯があります。それを根拠に、ヤコブは家督を兄から奪い取り、兄エサウは別家となりました。

エサウが欲したレンズ豆の煮物が赤かったことから、「赤」を意味する語句がなまって「エドム」と呼ばれるようになりました。また、エドム人の地域は、鉄分の多い赤茶けた土地であったこともあり、そう呼ばれました。

そのような経緯をたどったエドム人は、弟ヤコブとその子孫であるイスラエル民族を快く思っていませんでした。イスラエルが出エジプトして約束の地に向かう途中、エドムの地を通過することを妨害しました。また、敵軍がイスラエルを攻撃した際も、エドムはそれを手助けしました。このことについて、次のように語られています。

あなたはその兄弟ヤコブに暴虐を行ったので、恥はあなたをおおい、あなたは永遠に断たれる。あなたが離れて立っていた日、すなわち異邦人がその財宝を持ち去り、外国人がその門におし入り、エルサレムをくじ引きにした日、あなたも彼らのひとりのようであった。(10~11) ※11節の「あなたが離れて立っていた」は、新改訳では「知らぬ顔で立っていた」と翻訳。

エドムはイスラエルが侵略されるのを傍らで見て喜び、あざ笑いました。隣人の困難を見て見ぬふりをする。そんな卑劣な態度が描かれています(12~14)。 ※新改訳では、そんなエドムを叱って「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな」と翻訳。

あのルカ福音書に記された「良きサマリヤ人」とは正反対の生き方をしているのがエドムでした。なぜ、そのようになってしまったのか。それは高慢であるからだと指摘されています。

「岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。あなたは心のうちに言う、『だれがわたしを地に引き下らせることができるか』。」(3)

新改訳ではあなたの心の高慢は自分自身を欺いたと指摘しています。高慢は自分自身をだますことになるのです。自分は神の前に身を低くする存在であるのに、さも高き者であると思うことは、自分を欺いているわけです。この高慢ゆえに人は滅びます。

そのように高ぶる者を、神は、必ず引きずりおろされます。たといあなたは、鷲のように高くあがり、星の間に巣を設けても、わたしはそこからあなたを引きおろすと主は言われるのです(4)

神の力強い御手で引きずり下ろされて、厳しいさばきを受けるのが良いですか。それとも、自ら身を低くして生きることを選びますか。その選択権は私たちにゆだねられています。

さて、冒頭の聖句が示すように、あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰するのです。悪いことも良いことも、やがて自分に戻ってくるようにして、神が報われます。

人間は、そのことに報いる能力も時間もありませんが、神はご覧になっています。そして、神が報いてくださいます。

人は、人からの報いを計算して、人の目を意識します。しかし、神は、隠れたところで、隠れたことをご覧になっています。善に対しても、悪に対しても、神が正しく報うお方であることを忘れてはなりません。


アモス書 9章

2023年06月24日 | アモス書
アモス書 9章
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである。
(9・11~12)


神のさばきは徹底しています。例外がありません。えこひいきもありません。賄賂も通用しません。9章の前半には、徹底的にさばかれ、滅ぼされる様子が語られています(1~4)。中でもこれは災いのためであって、幸いのためではない(4)という聖句が心に刺さります。これは罪人に用意されている末路です。だれも逃れることができません。 

しかし、ただひとつの救いの道があります。イエス・キリストです。神のさばきが厳しければ厳しいほど、救いはキリストの十字架以外にないことを確信させてくれます。キリストが、私たちに対するさばきを十字架で引き受けて下さったことが、いかに恵みであるかを教えてくれます。 

神は、このような徹底的なさばきの中でも、わたしはヤコブの家をことごとくは滅ぼさないと言われます(8)。これは、例外的にお目こぼしがあるという意味ではありません。くじを引いて「当たり」が出るという意味でもありません。

この者たちは悔い改めた霊魂です。悔いし砕けし魂の者たちです。ヤコブの家にそのような残りの者たちがいることの預言です。そんな彼らに約束されているのが冒頭の聖句です。神は、ダビデの倒れた幕屋を再興してくださいます(アモス9・11)。 

ダビデの倒れた幕屋とは、今や風前の灯火となったダビデ王朝を表しています。かつての輝かしい王国からすれば、崩壊寸前の幕屋であり、仮庵のようなみすぼらしい姿のことです。

アモスの預言は、その幕屋を再興するというのですが、それは、かつてのダビデ王国の単なる復興ではありません。意図的に〝幕屋〟と表記されているように、神が人と共に住まわれる世界が興されるという意味が込められています。

つまり、来たるべきメシヤ(キリスト)による、神の御国の完成を表す預言なのです。その御国では、不完全な人間の王が統治する世界ではなく、キリストが王として治める至福の世界です。その豊かな世界観が、13~14節に描かれているわけです。

さて、その「ダビデの倒れた幕屋」が興される時に、エドムの残った者、および、わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有することになるのだと預言は続きます(9・12)

エドムとはイスラエルの兄エサウの子孫ですが、不仲で敵対関係にあった民です。最も近い存在なのに犬猿の仲です。でも、そんな敵対者も、神の御名を呼ぶ者となって御国の民となるのです。ここに和解の福音の完成した姿があります。

それだけではありません。神の名をもって呼ばれるすべての国民とありますから、異邦人のことです。神の名であるイエスの御名を信じる者たちです。それがたとえ異邦人であっても神の所有となるのです。つまり、救われるという意味です。

やがて、新約の時代になって、ユダヤ人クリスチャンたちが一堂に会して協議しました。使徒行伝15章に記録されているエルサレム会議のことです。議題は「異邦人も救われるのか」です。喧々諤々のすえ議会がたどり着いた見解は、このアモス書9章11~12節の聖句を引用し、異邦人も同じ神の御国の民であるという結論でした。

つまり、イエスの御名を呼ぶ異邦人も、建て直されたダビデの幕屋の中で、共に同じ天の国民として、加えられたことを確認したのです。

神がそうなさったのは、異邦人も神の御名を呼ぶようになったからです。イエスの名による罪のゆるしを受け取り、イエスの名によってバプテスマを受け、イエスの名で救われ、イエスの名を賛美するに至ったのです。

このイエスの御名のもとに全ての国民が建て直されたダビデの幕屋で礼拝し、神と共に生きるようになるのだと神はアモスを通して預言なさっていたのです。

こういうわけですから、大切なことは、私たちが最後までイエスの御名を持ち続けることです。認知症になっても最後まで、この神の名だけは忘れたくありません。臨終の間際でも「イエスの名によってアーメン」と言って終わりたいものです。 

さあ、悔いし砕けし魂を主にささげよう。そして、イエスの御名を賛美しよう。


アモス書 8章

2023年06月23日 | アモス書
アモス書 8章
見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る、それはパンの飢饉ではない、水に渇くのでもない、主の言葉を聞くことの飢饉である。
(8・11)


先の第7章で取り上げた4つの幻の4番目は、第8章1節のひとかごの夏の果物です。夏の果実は熟し切っていて、地に落ちる手前の状態のことを意味します。

つまり、罪が熟して、もはや木に連なることもできず、地に落とされる寸前のイスラエルの姿をあらわしていると考えられます。

北イスラエルは不正なさばきと賄賂によって社会は腐敗していました。表面上は繁栄していました。しかし、その富は貧しい人々から搾取し、弱者への虐げの上に築かれた偽りの繁栄でした。

彼らは形式的には主を礼拝していますが、その心は商売のこと、世の富のことばかりです。

新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、我々は穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、我々は麦を売り出そうとは、そんな人々の欺瞞を指摘しています(8・5)。新月や安息日の礼拝の最中も礼拝のことなど上の空。頭の中は礼拝後の商売や金儲けのことでいっぱいです。「早く終わってくんないかな~」とはやる心で苛ついています。

また、何とかごまかして少しでも儲けを増やそうと企む様子も描かれています。我々はエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう(8・6)。これでは正式な商売ではありません。詐欺です。こんな欺瞞や不正が続くはずがありません。

そこで神は「飢饉」をもって臨まれると預言されています。冒頭の聖句のことです。それは、単なる食物や水がないという飢饉ではなく、神の御言を聞くことのできなくなる飢饉です。

そう言われても、人々は鼻で笑うことでしょう。御言が何の腹の足しになるか。それよりもパンだ。それよりも酒だ。そのために金儲けだ……と。

しかし、うそぶいている人も必ずこの飢餓を体験します。肉体は満たされていても、言いようもない空しさという飢餓です。これは霊的存在である人間特有の飢餓です。だれもこの飢餓に耐えることのできる者がいません。あの放蕩息子のように、豚の餌で腹を満たしたいと思うほどの霊的な飢餓です。

しかし、そんな放蕩息子も「われにかえって」父のもとに立ち帰ったように、神に立ち帰る以外に道がありません。神に立ち帰って神の御言で生きる他に道がありません。

空しいという霊的飢餓を体験した人は幸いです。神の御言で生きるようになるからです。でも、それさえもかなわない「御言を聞くことのできない飢饉」が来るのだと、アモスは預言しているのです。

それは凄まじい事態です。なぜなら、彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。その日には美しいおとめも、若い男も渇きのために気を失うとあるからです(8・12~13)

これは終わりの時代に、反キリストが神の御言を持つ民を徹底的に迫害する時代のことと思われます。その時になると、聖書は没収され焼き払われ、聖書を所持しているだけで投獄され殺される……そんな危機的な時代が来るでしょう。

そうなる前に聖書を読みましょう。たとえ、聖書が取り去れても、御霊によって心の板に刻まれた御言で生きられるほどに読み込むのです。



アモス書 7章

2023年06月22日 | アモス書
アモス書 7章
見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
(7・8 新改訳)


アモスは4つの幻を見せられました。

第一はいなごの大群です。文字通りいなごの大発生による被害を意味するのか、あるいは敵軍がいなごのように来襲する様子なのか定かではありませんが、いずれにせよイスラエルには耐え難い試練です。アモスはこのために執り成しの祈りをし、結果、その災難はくだりませんでした。

第二はです。大火事によってイスラエルを滅ぼすのか、火の中で精錬されるようにして、神の激しいさばきの中をくぐらなければならないのか。それもまた恐ろしい試練です。

再び、アモスの執り成しによって、火のさばきはくだりませんでした。

この幻と執り成しの記事は、預言活動の幾つかの節目でなされたもので、アモスの激しい祈りの記録だろうと思われます。アモスはイスラエルに対して冷めた心で預言していたのではなく、民への深い哀れみをもって語ったのでした。

さて、第三の幻は冒頭の聖句にあるように重りなわの幻です。

口語訳は測りなわと翻訳されていますが、新共同訳の下げ振りが適訳だろうと思います。なわの先端に重りをつけて釣り下げ、建築物が垂直に建てられているかを測る道具のことです。

重りなわ」(下げ振りは地球の重力に引かれて、地球の中心にまっすぐに垂れ下がります。この「なわ」にそれているなら、その建築物はゆがんでいるのであり、やがて倒壊します。

神は、そのような重りなわでイスラエルを測ると言われるのです。しかも「もう見過ごすことはない」と言われるのです。

神は、私たちの心に、目に見えない「重りなわ」を垂れ下げてくださっています。それは、御霊なる神であり、神の御言です。

この重りなわは、神に向かってまっすぐに伸びています。その線に沿って私たちの心は建てられます。もし、それに沿わずに、ゆがんで建てるなら、その心は遅かれ早かれ、エリコの城壁のように崩れ去ることになります。ごまかしは利きません。

私たちの心の重心はどこに向かっているでしょうか。御霊と御言の指し示す方向へ、心をまっすぐに向けようではありませんか。

さて、アモスはこれらの預言を北王国のイスラエルで語っていました。ところが、北イスラエルの祭司であるアマジヤは、彼の預言に耐えかねて、彼を国外追放しました(7・10~13)。

アモスの預言は、イスラエルの人々にとってまさに「重りなわ(下げ振り)」でした。それに添って、民はまっすぐに神に向かうべきでした。なのにイスラエルは、その下げ振りを捨てるようにしてアモスを追放したのです。

こうして、神の御言を追放したイスラエルは、やがてアッシリヤによって滅びます。


アモス書 6章

2023年06月21日 | アモス書
アモス書 6章
馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。ところがあなた方は公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた。
(6・12)


「馬は岩の上を走るだろうか」。いいえ。馬は草原を走ります。では、「人は牛で海を耕すだろうか」。そんなことはあり得ません。牛で耕すのは畑です。当たり前のことです。

なのに……です。

イスラエル民は、公道を毒に変じるという、あり得ない事をやっているのです。「公道」とは社会の普遍的な正義を表してます。「公義」とか「正しいさばき」のことです。

裁判は正しくさばくからこそ正義が保たれます。しかし、これが権力によって歪められたり、賄賂によって変更されるなら、社会は根底から崩壊してしまいます。つまり、公道を毒に変じてしまいます。

これは法の安定性の問題です。

政権が交代する度に、憲法解釈が変わると、国の根底から揺らぎます。だから、いかなる政権であろうとも、憲法審査会の見解に立って政治を行います。こうして「法の安定性」の上に国が成り立ちます。もし、これを政権の都合で変更するなら、国は倒れてしまいます。まさに公道を毒に変じるのです。

その毒によって滅びます。それがイスラエルの姿だったのです。

私見ですが、当時のイスラエルも、神の律法ではこう定めているが、このようにも解釈できるではないかと、「法の安定性」を失っていったのでしょう。その結果が、神殿で偶像礼拝が正当化される根拠にもなったのではないかと想像します。

まさに公義公道を毒に変じたのです。そして、その毒によって死を招いたのです。

また、正義の実が苦よもぎに変じることも、あり得ない事です。正義は、社会に豊かな実りをもたらします。人々に甘い香りの果実を結ばせます。なのに、正義をゆがめて、それを苦よもぎのようにしてしまうなど、もう、その社会はもはや〝死に体〟です。

そんな「毒」と「苦よもぎ」の上にイスラエルの生活は成り立っていました。人々は、「象牙の寝台に伏し」(6・4)「琴の音に合わせて歌い騒ぎ」(5)「鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり」(6)贅をつくして文明を謳歌していました。

しかし、そんな文明はやがて滅び行くバベルの塔です。なのに、彼らは「ヨセフの破滅を悲しまない者たち」なのです(6・6)。現代の日本や世界の姿を見るような思いです。

公義を毒や苦よもぎに変える世にあって、イエス・キリストを知る者たちは、神の義とその国を世に現す者として生きるのです。


アモス書 5章

2023年06月20日 | アモス書
アモス書 5章
あなた方はわたしを求めよ、そして生きよ。
(5・4)


先の4章は、自分勝手な礼拝をする民に対して叱責でした。しかし、そんな中にも、悔い改めて立ち返れという神の願いが込められていました。そして、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよと呼びかけて4章は終わりました(4・12)

今日の冒頭の聖句にも、激しい御怒りの中にも神の愛の眼差しを感じます。

人は困難や試練に遭遇すると、他者を頼ったり富に助けを求めます。しかし神は、ベテルを求めるな、ギルガルに行くな。ベエルシバにおもむくな。ギルガルは必ず捕えられて行き、ベテルは無に帰するからであると言われます(5・5)

これらは当時の繁栄した町々です。しかし、その町の物質的富が助けになるのではない。町の人脈が人を救うのでもない。罪に満ちた偽りの繁栄は、あのバベルの塔のように崩れ去るのです。

だから、それを頼るな。そこに行くな……と。

罪に満ちて不品行で腐敗したソドムとゴモラの町を、神は滅ぼすことになさいました。そこで、ロトとその家族は、町にとどまろうとするのではなく、そこを出ました。躊躇せず、真の助けである主を信頼して生きました。

同じように、今はイスラエルの民に語りかけておられます。

あなた方は主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のようにヨセフの家に落ち下られる。火はこれを焼くが、ベテルのためにこれを消す者はひとりもない。(5・6)

そして、この呼びかけは現代でも同じです。主イエス・キリストを求めて生きよ。主イエスと共に天につながる者となれ。この地はやがて朽ちて行く世界なのですから。悪魔とその手下たちに用意された火と硫黄の池に投げ込まれるのですから。彼らに助けを求めるのではなく、主イエスを求めて生きよと、今も神は呼びかけておられます。 

「あなた方は正しい者を虐げ、賄を取り、門で貧しい者を退ける」 とあるように、当時のイスラエルは正義がゆがめられ、不正がはびこる世界でした(5・12)。その結果、「賢い者は沈黙する。これは悪い時代だからである」(5・13)。不正が闊歩する時代は、正しいことが発言できなくなる時代です。イスラエルも、今の日本も同じではないですか。

こんな時代だからこそ、公道公義を水のように、正義をつきない川のように流れさせよと言われるのです(5・24)。正しいことが、川のように堂々と流れて行く社会にせよとの命令です。

このためには、冒頭の聖句のごとく主を求めて生きよなのです。


アモス書 4章

2023年06月19日 | アモス書
アモス書 4章
それでも、あなた方はわたしに帰らなかった。
(4・6)


神は、民を滅ぼすことが目的ではありません。神が滅ぼそうとなさっているのは、天で罪をおかした御使たち ――その長が悪魔―― であり、彼らによって作り出された罪の世界です。

むしろ、私たち人間に対しては、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るようにと願っておられます。「さばきの預言」を学ぶ時、この視点を忘れてはなりません。

旧約聖書だけだと、罪人を滅ぼす神が描かれていると思ってしまいます。旧約は神の啓示の書ではありますが、新約の啓示からすれば、ほんの少しをあきらかにしたに過ぎません。新約にいたって神の御子が真理を明らかにし、さばきとはこの世の君すなわち悪魔にくだされるのだと啓示されています。むしろ、人には「主イエス・キリストによって救いを得るように定められた」のです(Ⅰテサ5・9)

ですから、神は、様々な出来事の中で、わたしのもとに立ち帰れ。悪魔と共に滅びてはならないと呼びかけておられます。

4章1節のバシャンの雌牛どもとは、北イスラエルの首都サマリヤのことで、その街で裕福に暮らす人々のことです。彼らの豪奢な生活を支えるために、どれだけ多くの貧しい人々、小さき者たちが搾取されて来たことかと語られています。

彼らは主を礼拝しているようですが、それは自分勝手な礼拝だと、皮肉まじりに指摘されています。あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ(アモス4・4)

ベテルには北イスラエル独自の神殿があって、偶像礼拝の場所になっていました。また、ギルガルは、かつての王サウルが自分勝手に生贄をささげて神から厳しい叱責を受けた場所です。つまり、ベテルもギルガルも、自分よがりの礼拝を象徴する場所です。そんな、ベテルやギルガルでの礼拝は、ますます神に対する罪を増し加えることになるのです。

さらに預言は続きます。

朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。種を入れたパンの感謝祭をささげ、心よりの供え物をふれ示せ。イスラエルの人々よ、あなたがたはこのようにするのを好んでいる。(4・4~5)

犠牲をささげているようだけど、それは〝あなた方の犠牲だ。十分の一も〝あなた方の〟十分の一だと、神は皮肉っておられるのです。新改訳では、この「あなた方の」のニュアンスがありません。十分の一は本来は神のものです。なのに、自分勝手な十分の一のささげ物なので、神がご覧になるに、それは〝あなた方の十分の一〟だと表現されています。

こんな自分よがりの礼拝になるのは、神を知らないからです。先の預言者ホセアも神は、神を知ることを切に願っておられると力説しました。そして、主イエスもわたしが好むのは生贄ではなくあわれみであるとはどういう意味か学んできなさいと言われたわけですが、表面的に律法を守るだけで、神を知らない学者たちを叱責なさいました。

さて、そんな自分勝手な人々に、神は様々な事件を起こされます。干ばつや疫病などによる食糧不足等々。4章6節以降には、その出来事がくり返し記録されています。しかし、それでもあなた方はわたしに帰らなかったと5回も語られています。

神は、事件や災害の中で、民が悔い改めて神に立ち帰るようにと願っておられるにもかかわらず、まさに親子の心、子知らず。人々の心はかたくなです。

神の厳しい取り扱いを受けたとき、われに返って、悔い改める者は幸いです。あの、父の財産を受け取って飛び出した放蕩息子でさえ、放蕩三昧のどん底で、彼は「われに返って」、自分が何者であるのかを取り戻しました。

そうだ、自分はあのお父さんの子ではないか……と。

そうだ、自分は神の民ではないか。神の聖なる国民ではないか。イエス・キリストによって買い取られ、神の子どもではないか。キリストと共に生き返って、天の座につく者ではないか。

神の取り扱い、神のさばき、神の御怒りの背後に、「わたしのもとに帰れ」と叫ばれる神の御声を聞き逃してはなりません。


アモス書 3章

2023年06月17日 | アモス書
アモス書 3章
まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
(3・7)


ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうかという文言から始まって6節まで、自明の質問がくり返されます。それと同じように、神は事前に預言しないでは、何事もなさらないのだ……と語られています。

これから起きる神のさばきは、突然、何の前ぶれもなく起こるのではありません。神は、事前に予告なさっています。突然に起こるのであれば、悔い改める機会がありません。

神が事前に預言なさるのは、私たちが悔い改めて救いを得るためです。イエス・キリストは「もう一度来る」と預言なさって天に昇られました。それは、その間に人々が悔い改めるためです。その間に、福音が全世界に宣べ伝えられるためです。

そして、先ほどの3章3節でふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうかと語られているように、事前に神のなそうとしていることを告げることで、私たちも神と共に同じ目的のもとに歩むためなのです。

人は人で勝手に自分の赴くままに生きるのではなく、神の御心を知って、神と共に〝歩く〟ことを、神は願っておられます。だから、神は預言なさるのです。人よ、わたしの心を知って共に歩めと。預言を解釈するとき大切な視点です。

9節以降は解釈の難しい所です。

アッスリヤの宮殿とエジプトの宮殿に宣べて言えとは、神が、これからイスラエルをさばかれるその出来事を目撃せよと異教徒たちを招いておられます。 ※「アッスリヤの宮殿」は新改訳では「アシュドデの宮殿」いずれも異教徒たちの王宮である。

罪を悔い改めないなら、神の民であっても容赦なく滅ぼされるという現実を、お前たちは来て目撃せよ。自分たちは異教徒たちだから関係ないとでも思っているのか。他人事のように思うな。わが身のことだと思い、お前たちも悔い改めよ……。そんなメッセージが込められています。


アモス書 2章

2023年06月16日 | アモス書
アモス書 2章
これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた偽りの物に惑わされたからである
(2・4)


神のさばきは、神の民である北イスラエルと南ユダにも及びます。ご自分の宝の民であっても身びいきはなさいません。

先の異邦人たちへのさばきの理由は、残虐な行為であったり不品行のゆえでありました。しかし、神の民たちにはその理由が違います。冒頭の聖句、2章4節に指摘されているように、主の律法を知りながら、その律法御言を捨てたからです。

これには大きな責任が問われます。

神は、イスラエル ――南ユダと北イスラエルも含めた意味のイスラエル―― に律法を与え、神の聖なる御国の水準をお示しになりました。それは、彼らを通して聖なる御国が異邦人に及ぶためでした。ところが、その大切な主の教えを捨てたのです。

その結果、神の民でありながら、彼らは貧しい人々とか小さな者たちを顧みることをしなかったと指摘されています(2・6~7)。それは神の御名を汚していることになるのだと言われます。

律法では、貧しい人々を顧みるようにと、くり返し命令されています。神は、貧しい者、弱い者、小さな者をあわれまれるお方だからです。それによって神の愛を世に現すようになさったのです。なのに、その愛を世に現さなかったイスラエルの罪が問われているのです。終わりのさばきにおいて、「この小さな者にした親切は、わたしにしてくれたのだ」という主イエス預言は心に留めるべきです。

次に、律法を捨てた神の民は、神が起こされた預言者やナジル人献身者を軽んじました。その上に献身者を堕落へと誘惑し、預言者には神の御言を語るなと禁じたのです(2・12)
こんな事があってはいけません。

神の民に求められる水準は高いのです。律法(御言)という大事な使命をゆだねられた民なので、神は多く問われ、多くさばかれます。

しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。(ルカ12・48)


アモス書 1章

2023年06月15日 | アモス書
アモス書 1章
ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。(1・3 新改訳)

アモスは「テコアの牧者のひとり」とあるように、南ユダの寒村テコアで羊を飼う農夫でした。

時代はBC760年頃です。神はアモスを預言者として召して、祖国の南ユダのみならず、北イスラエルとその周辺諸国に神のさばきが下ることを大胆に語るよう導かれました。

第1章は、周辺諸国に対するさばきです。いずれの国に対しても、おかした三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さないと語られています。

そむきの罪の数が文字通り数えられているのではなく、三つ+四つで、完全数のになるわけで、完璧におかしている罪、逃れることのできない罪を意味していると思われます。

ダマスコ(1・3)、ガザ(1・6)、ツロ(1・9)、エドム(1・11)、アモン(1・13)、モアブ(2・1)、ユダ(2・4)、イスラエル(2・6)……と、神のさばきに抜かりはありません。だれも、いかなる民もこのさばきから逃れることはありません。例外がありません。えこひいきもありません。

ローマ人への手紙で語られているように、「こうして罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」のです(ローマ5・12)

冒頭の聖句も語っているように、罪の結果である刑罰は取り消されることがありません。少しは大目に見てくださいよ……と泣きを入れても、そう言うわけには行きません。

では、どこまでなら大目に見ることができますか。人間の義を基準にするなら、お目こぼしもあるでしょう。しかし、神の義は絶対的な義です。絶対的な義が我々の陳情によって揺らぐのであれば、サタンでさえ天国の住民に潜り込むことができます。

ですから、「刑罰は取り消さない」と言われるのです。

罪は必ずさばかれなければなりません。罪の結果である死は必ず支払わなければなりません。これは原則です。

もちろん、このままでは、人には救いの道がありません。イエス・キリストによる以外は……。

 
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ヨエル書 3章

2023年06月14日 | ヨエル書
ヨエル書 3章
わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。
(3・2 新共同訳4章2節)


 この内容は、終わりの時代の更に終盤に起こるとされる出来事です。すべての国民が裁かれると預言されています。 

そこで神は、諸国の民をヨシャパテの谷に集められます。その谷とはエルサレムの町とオリーブ山の間にあるケデロンの谷であるとの説もありますが、正確な所は不明です。ただ、ヨシャパテが「主は裁かれる」という意味からして、そこで諸国の民に対するさばきが成されるのです。 

これは、ヨハネ黙示録でも預言されているところの「患難期の最後に、神および神の民イスラエルに敵対して集結する各国からなる軍隊」に対するさばきだと考えられます。 

その諸国から集結する民について、ヨエルは、「諸々の国民の中に宣べ伝えよ。戦いの備えをなし、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせ、のぼらせよ」と述べています(3・9)。それは、神が、神に敵対する国民に向かって言われている言葉です。

ですから、次の10節の諸々の国民の中に宣べ伝えよ。戦いの備えをなし、勇士を奮い立たせ、あなた方の鋤を剣に、あなた方の鎌を槍に打ちかえよ。弱い者に、私は勇士である』と言わせよとは、「さあ、敵対する民よ、わたしと戦うがよい。勇気を出すがよい。武器を手にするがよい」と、嘲笑まじりの挑発的な神の呼びかけです。

9節の「戦い」を、新改訳では「聖戦」と訳しているので、イスラエルの民を奮い立たせる言葉だと誤解されてしまいます。しかし、ここは前後の文脈で読めば、神に敵対する諸国民へのさばきです。ですから、イスラエルを殲滅しようと奮い立つ民とその軍隊からすれば、イスラエルを滅ぼすことは、皮肉ではありますが正に聖戦」 です

ですから、今に至るまで、神に敵対する人々や勢力は、鋤を剣に、鎌を槍に打ち替えるようにして、軍備を増強してきました。とうとう核兵器にまで〝打ちかえ〟てしまいました。

しかし、神を信じる者たちは逆です。こうして彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって、剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばないのです(イザヤ2・4)。 

神に敵対する者たちに対する預言と、神を信じる者に対する預言とは真逆です。

そして、神に敵対する者たちは軍備をまとって、ついに、神の民であるイスラエルを滅ぼそうとヨシャパテの谷に集結します。しかし、そこで神は敵対する者たちを滅ぼされます。こう預言されています。

もろもろの国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷にのぼらせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばく。(ヨエル3・12)

10節の「主よ、あなたの勇士をかしこにお下しください」とあるのは、敵対する民(軍隊)に包囲される中、イスラエルの叫びです。神が遣わされる天の軍勢たち(天使)の助けを要請する祈りです。 

最後に確認しましょう。あなたはどちらにつく者ですか。神に敵対する者なのか。それとも「主の御名を呼ぶ者」であろうか。

主の御名を呼ぶ者はみな救われるのです(2・32)