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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

イザヤ書 66章

2022年10月01日 | イザヤ書
イザヤ書 66章
わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
(66・2)


先の65章では、神は新しい天と新しい地を創造なさろうとしていることを見ました。「新しい器」を用意なさろうというわけです。しかし、その中身はどんなものでしょうか。

それは〝まことの礼拝〟です。

66章1~2節では神殿について述べられています。

天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか。わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。

人は、神に住んでいただくための神殿を建築するのですが、そこに神は住まわれるのだろうか。地を足台にし、天を座にしておられる神を、地上に建設した神殿などにお入れすることができるだろうか。そもそも、その建築資材もみな、もとをただせば神ものではないかと、問うておられます。

そのような物質の神殿ではなく、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者の中に住むのだと言われるのです。そのような人々の真実な礼拝こそが、神の住まいなのです。

神は、まことの礼拝者からなる新天新地を目指しておられます。

しかし一方で、偽りの礼拝もあります。自分勝手な礼拝者もいます。うやうやしく生贄をささげるその手で人殺しをする者たちの礼拝を、どうして神は受け入れることができましょうか。そのことを3~4節は述べています。

また、栄光のしるしを見たら礼拝してやろうと言う不遜の輩(やから)もいます(66・5)。彼らが生み出すものは、早産によって未熟児が誕生するような、いのちのないものだと指摘されています(66・6~9)

しかし、まことの礼拝者である「エルサレム」から生み出される者たちは、豊かな母乳を受け成長する子どもとして表現されています(66・10~14)この場合のエルサレムは、まことの礼拝者である〝人々〟を表しています。

ですから、イエス様も、天の父の御心について次のように語られました。

まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。(ヨハネ4・23)

神は、まことの礼拝者を求めておられるのです。それこそ、神の御国における基本です。だからこそ、神は、その礼拝を破壊するサタン(悪魔)を滅ぼし、人類をまことの礼拝者とするために救いを得させてくださいました。

私たちがイエスの十字架によって罪のゆるし受け、救いを受けたのは、商売が繁盛するためではありません。家内安全無事息災のためでもありません。地上で肉の喜びを満喫するためでもありません。

もしそうなら、ヒューマニズムのキリスト教になってしまいます。人間の幸福ために神を仕えさせ、そのために御子イエスが十字架にまでかかってくださったと考えます。

キリスト信仰は、人間中心ではなく、神中心です。人本主義ではなく、神本主義です。少し極端に感じられる人もいるでしょうが、大切なことです。

今日の御言は何と言われますか。わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である」。これこそ、まことの礼拝者の姿です。このような者たちを、神は顧みてくださいます。

まことの礼拝者になろう。そのために、つねに謙虚であろうと祈るものです。

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イザヤ書 65章

2022年09月30日 | イザヤ書
イザヤ書 65章
見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
(65・17)


いよいよ、イザヤ預言のクライマックスです。神のご計画は、新しい天と新しい地を創造することです。

先の64章では、神は、陶器師のように人間を新しく造りかえてくださることを見ました。そして、ついには、罪によって汚された世界をさばき、まことの礼拝者からなる世界を、神は目指しておられます。

65章の1~16節は、新しい天と地が実現する前の、全世界に臨むさばきです。その詳細は、ヨハネの黙示録でも語られているところです。

神のさばきは突然ではありません。神の忍耐強い呼びかけを無視した結果です。わたしはここにいると呼びかけ(65・1)わたしは終日(ひねもす)手を伸べて招いたのです(2)

さて、厳しいさばきの後に、新しい天と地が完成します。その新しい世界では、地の産物、動物たち、自然環境などのすべてが回復されると預言されています。ちょうど、アダムが堕落する以前のエデンの園のような環境です。

その世界観の中心は〝喜び〟です。

神は民に向かって、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よと言われ(65・18)、神はその創造したエルサレムを喜び、その民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中には聞こえないと言われるのです(65・18~19)

神が私たちに「いつも喜びなさい」と命じているだけでなく、神もまた、私たちの信仰を見て喜ぼうとなさっているのです。新しい天と地の世界はこれから実現しますが、それに先だってイエスにあって「いつも喜ぼう」と思うのです。

さて、寿命は飛躍的に伸びるようです。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪人とされる。(65・20)

また、動物界には肉食はなくなり、とても穏やかな世界になるようです。狼と小羊とは共に食らい、獅子は牛のようにわらを食らい、蛇はちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない。(65・25)

このような新しい時代が来るのだと、神は言われます。それは、神の子とされたクリスチャンたちの救いが完成されるのと、時を同じくするであろうと考えられます。そのような至福の時を自然界もうめきながら待っています。

そのことを聖書はこう告げています。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っている私たち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる。(ローマ8・22~23)

万物はうめいていますが、絶望的なうめきではありません。新しい天と地の完成という希望のあるうめきです。ですから、いましばらくは、うめきながら歩むことになるでしょうが、神のご計画を信頼して進もう。

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イザヤ書 64章

2022年09月29日 | イザヤ書
イザヤ書 64章
されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
(64・8)


ああ、あなたが天を裂いて降(お)りて来られる」。64章冒頭の御言です。主が、地をさばくために天から降(くだ)ってこられることを意味しています。

この降ってこられるお方は、キリストを意味するものと考えられますが、直近ではバビロンによる滅亡を表現したものです。

この主によるさばきを前にして「国々は御前で震え」「山々は揺れ動く」のです(64・2~3 新改訳)。「見よ、あなたは怒られた、我々は罪を犯した。我々は久しく罪のうちにあった。我々は救われるであろうか」(5)。神のさばきを前にして絶望的な状況です。

しかし、イザヤは祈って執り成すのです。

されど主よ、あなたは我々の父です。我々は粘土であって、あなたは陶器師です。我々はみな、み手のわざです(8)。滅ぼされて当然の私たちですが、主よ「あなたは私たちの父です」と告白しました。

これは〝神への信頼〟です。

父は厳しく叱っても我が子を慈しむように、神よ、私たち罪人をあわれんでくださいと祈りました。父は子に良いものを与えるのです。ましてや天の父はなおさらだと、イエス様も教えてくださいました。 ※旧約聖書に、神を父と呼ぶ表現は珍しい。新約になってイエスが神を父と呼ぶに至ったが、新約の萌芽が表れている。

次にイザヤは告白しました。「あなたは陶器師です」と。そして、自分は土塊です。陶器師の手の中で土塊(つちくれ)はいかようにも作られ、用いられるのです。

これは〝神への服従〟です。

陶器師は土塊を壊しては再び練り直します。壊すようですが、それは新しく造るためです。今やバビロン軍によって民は壊されようとしていますが、それは陶器師が新しく作り直そうとする課程であると受け止めたのです。

壊すも造るも陶器師の権限です。その権限を認め服従する告白です。主よあなたは陶器師であって私は土塊ですと告白したのは、神への従順を表しています。

窮地に追いやられてもなお、神への信頼神への従順が告白されています。滅ぼされんとする直前にも、なおも父である神の慈愛に信頼しよう。破壊されんとする直前にも、なおも陶器師である神への服従を告白しよう。

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イザヤ書 63章

2022年09月28日 | イザヤ書
イザヤ書 63章
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
(63・9)


63章のはじめには罪に対する神の激しいさばきが描かれています。罪人が踏みつけられるようにして滅ぼされる姿です。その返り血によって衣服は赤く染まっています(63・1~6)

この描写は、世界の終末になされる激しいさばきの様子です。ヨハネの黙示録でも同様の光景が描かれています(黙19・13~16)。神が罪を憎んでおられることの描写です。しかし、神の民への愛は消えることはありません。それは、父が子をいつくしむ愛です。まことに彼らはわが民、偽りのない子らであると主は言われます(イザヤ63・8)また、あなたは我々の父ですと民も応えます(16)罪を憎みつつも、罪のために滅びる人間への忍びがたい愛が描かれています。

ですから、神と人との関係の基本は〝信頼〟です。神は人を力ずくで支配なさいません。また、人間も罰(ばち)が当たらないように神を拝みつつ、あわよくば利益を引き出そうというのでもありません。利害関係を超えた愛に基づく信頼関係が信仰です。

人とは、神の目的のために共に労苦し、共に喜ぶ存在です。「キリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ1・29)と記されているとおりです。

ですから、彼らのすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられたのです(イザヤ63・9)。こうして、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られたのが神と人との歴史なのです。

しかし、イスラエルの場合は、それでもなお、神に逆らったと語られています。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた(63・10)

63章の後半は、なおも逆らうイスラエルの民を執り成すイザヤの祈りの言葉です。私たちは同じ轍(わだち)を踏まないようにと祈ります。

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イザヤ書 62章

2022年09月27日 | イザヤ書
イザヤ書 62章
シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
(62・1 新改訳)


神は黙っていないといわれ、また、民に対しても、主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならないと命じられます(62・6)。 ※口語訳は「休んではならない」と翻訳。

神は何を「黙っていない」のでしょうか。それは、神の民に対するご計画であり民への愛です。

神は、エルサレムを「花婿が花嫁を愛するように」愛しておられます。バビロンによって破壊されたエルサレムは、「見捨てられ」「荒れ果て」ていました。しかし、もうそうは言わせないと、宣言なさっているのです(62・4)

神は、エルサレムを花嫁のように回復なさるのです。若い者が処女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれるのです(62・5)

これが実現するまで、神は黙っていないと宣言なさいました。

この〝花嫁〟にたとえられたエルサレムは、新約では、天の都エルサレムを表しており、それは〝キリストの花嫁なる教会〟のことです。いま、教会は「見捨てられている者」でしょうか。そうは言わせないと主は宣言なさっています。

主は、キリストの教会をシミも傷もない栄光の花嫁として迎えようとご計画なさっています。主はこの事を宣言し、黙っておられません。「必ず成し遂げる」と力強く宣言なさいます。

一方、民に対しても黙っているなと命じられています(62・6)。新改訳では、エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。

見張り人とは敵が攻めてきたときに大声で人々に伝えなければなりません。黙っていては仕事にならないわけです。

では、この見張り人とはだれのことでしょうか。直接的にはエルサレムの人々ですが、今日の私たちのことでもあります。

私たちは、神の約束が成就する時が近いとを知っているのですから、黙っていてはなりません。キリストは私たちを愛しておられ、用意ができたら迎えに来ると言われたのですから、その準備をせよと伝えるべきで、黙っていてはならないのです。

私たちの声は、世の声に比較して小さいし、言葉足らずです。しかし、それでひるむことなく、福音を語り続けます。神の義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで(62・1)語り継げよう。

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イザヤ書 61章

2022年09月26日 | イザヤ書
イザヤ書 61章
主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしを遣わして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ……、
(61・1)


ここで言われている「わたし」とは、誰でしょうか。イザヤのことでしょうか。イザヤは聖霊の導きを受けて、イスラエルの解放と救いを預言したのですから、そうとも解釈できます。

あるいは、バビロンを倒してイスラエルを解放したペルシャの王クロスのことでしょうか。彼は「油注がれしクロス」と預言されていましたから、そのようにも解釈できます。

この預言から約700年の後、この聖句を読み上げ、この聖句は、あなた方が耳にしたこの日に成就したと宣言なさった方がおられます(ルカ4・21)。その方こそイエス・キリストです。

イエスこそ真の解放者。神から聖霊の油を注がれて遣わされた救い主キリストです。 ※キリスト原意は「油をそそがれた者」。ヘブル語で「メシヤ」。

この時から、イエスは貧しい人々に福音を宣べ伝えはじめられました。冒頭の御言の通りです。

それは単に経済的に貧しい人々という意味ではなく、心の貧しい人々のことです。真理を求め、正義を求めても、満たされない心の貧しさゆえに飢え渇いている者に、イエスの福音は宣べ伝えられました。

また、罪と死の縄目に苦しんでいる人々を解放するために、イエスは来られました。

現代は車や電車に乗って自由にどこでも行ける時代です。SNSで自由に発言もできます。現代ほど自由を謳歌した時代はないでしょう。しかし、人の心は罪に縛られ、その重荷から自由になることができないでいます。

まさに、そのような心の貧しさに気づいている人は幸いです。イエス・キリストは、心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げるお方だからです(61・1)

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イザヤ書 60章

2022年09月24日 | イザヤ書
イザヤ書 60章
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
(60・1)


先の59章では、人々は罪のゆえに光の中を歩むことができないのだと語られていました。太陽が照って真昼のようであっても、たそがれ時のように躓(つまず)き、やみの中にいる死人のようだと語られていました。

「盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。」(59・10)

しかし、主イエスにあっては、闇は光の世界へと展開します。神が一日を創造なさった時も、「夕があり、朝となった」のであり、朝で終わるようになっています。 ※聖書では「日没」から一日が始まる。

朝になれば太陽が昇って夜が明けるように、神の御子イエス・キリストが来られると、そこは朝です。朝になったので〝起きよ〟というわけです。

電気でもなく太陽の光でもない。神の栄光という本当の光を放つお方が来られました。もはや、太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照らさず、主は永久にあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられるからです(60・19)

だから、神は命じられるのです。起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ(60・1)

自分ごときに何ができるかと言い訳をして、惰眠(だみん)をむさぼってはならない。もう義の太陽は昇っているのです。今や目をさまして起きる時間です。

イエス・キリストによって救いの光が照らされる時代が来ました。太陽の光が万民に照らされるように、神の栄光の光は、罪人にも、弱い者にも、小さい者にも惜しみなく照らされています。

ですから、朝の太陽の光を浴びるようにして〝起きよ〟と主は言われます。

イエス様も言われました。あなた方は世の光だと。この〝私が〟ですか?と尻込みしてはなりません。イエスを信じて罪ゆるされた私たちが立ち上がらなくて、だれがこの世を照らすのですか。

もちろん、イエスご自身が世の光です。主は、罪と死の暗やみに、ゆるしと永遠のいのちという光を照らしてくださいました。しかし、世の光であるイエスは、その使命をクリスチャンたちに託されたのです。

イエスが十字架で死なれたのは、私たちの罪のゆるしのためだけではありません。私たちが世の光となって、世を照らす者となるためです。

何故なら、見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっているからです(60・2)。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われるのです(60・2)

神が照らしてくださるので、私たちは世の光です。いつも神の御前に出て、神の光を浴びるようにしよう。罪を告白して、おのが暗きところを照らすようにしよう。そんな私たちを、神は、世を照らす光として用いられるのです。

さて、この60章の内容は、第一義的にはイスラエルに対する約束です。イスラエルの回復の時が来れば、主の栄光で照らされて、国々は主なる神に礼拝をし、イスラエルを中心とした公義と平和の世界が訪れることを表しています。

しかし、この預言は、イスラエルの民がバビロンから帰還して国を再興した時点では実現していません。イエス・キリストが来られた時点でも、文字通りには実現していません。再びキリストが来臨される時に実現する約束だと考えられます。

人の目には時間がかかっているように見えますが、永遠の神にとってはわずかな期間です。その時が来るならば、すみやかにこの事をする(60・22)と言われるからです。

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イザヤ書 59章

2022年09月23日 | イザヤ書
イザヤ書 59章
見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
(59・1)


キリストは、神とはインマヌエルなるお方であることを見せてくださいました。インマヌエルとは「神はわれらと共におられる」という意味です。

しかし、神を身近に感じられないで、むしろ遠い存在に思う時があります。また、神への祈りが届いていなくて、神はちっとも聞いておられないように感じる時もあります。

それは、神の手が短いために、あなたを救うことができないのではない。また、神の耳が鈍くて聞き取れないのでもないのだと言われます。

では、何が妨げになっているのでしょうか。それはあなた方の不義が、あなた方と、あなた方の神との間を隔(へだ)てたのだ。またあなた方の罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのです(59・2)

罪が神と人との間を隔てています。神が人間に恵みを注ごうとなさっても、罪が塞いでいて、私たちに届いていないのです。丁度、血管に血栓ができて、その先の細胞が壊死(えし)しているようなものです。

罪によって神との交わりが断たれた状態を、聖書は「死」だと告げています。肉体は動いていても、霊的には死んでいます。太陽や電球の明かりがあっても、霊的には暗やみです。

私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだとは霊的な死と暗闇の世界のことを表現しています(59・9~10)

人間関係でも、互いの間に罪があれば、交わりは壊れます。挨拶もしなくなるし、顔を見たくありません。そこで、罪を悔い改めて、謝罪をして、和解することで交わりが回復し、いのちが流れ始めます。

神と私たちの関係も同じです。

しかし、今や感謝すべきかな。神との交わりを塞いでいた罪を、イエスが十字架の死によって取り除いてくださいました。罪が取り除かれたので、神は遠くにおられるのではなく、インマヌエルのお方です。

でも、ひとつ整理しておくべきことがあります。

イエス様が十字架で取り除いてくださった罪とは「原罪」です。神を否定し、自分を神とすることが罪の根源であって、それを神学的には原罪といいます。簡単にいえば〝根っ子の罪〟です。

この決定的な罪は取り除かれたので、神はインマヌエルとなってくださいました。しかし、神を否定しているわけではないのですが、日ごとにおかしてしまう罪があります。それは〝枝葉の罪〟です。

根っ子の罪は取り除かれて、神との交わりが回復したのですが、枝葉の罪を放置しておくと、その交わりに陰(かげ)りが生じてきます。陰りはやがて神との純粋な交わりを濁らしてしまいます。

この枝葉の罪は、神に告白します。「私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめて下さる」のです(Ⅰヨハネ1・9)

神の御前に告白するとは、神の光にさらけ出すことです。光のもとに出せば闇は消えてしまいます。隠したり黙っているので、その罪が闇をつくり出してしまうわけです。

神に告白すること……これは、私たちが光の中を歩む秘訣です。こうして、もはや神の御手は短いどころか、あなたと共にあるのです。神の耳は、あなたのささやきさえも聞き分けられるのです。

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イザヤ書 58章

2022年09月22日 | イザヤ書
イザヤ書 58章
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
(58・10)


神はイザヤに、イスラエルの民の罪を指摘せよと言われました(58・1)

しかし、民は自分たちは信仰深いと自負していました。礼拝を重んじ、断食もしました。だからこそ、神への不満がありました。「我々が断食したのに、なぜ、ご覧にならないのか。我々がおのれを苦しめたのに、なぜ、ご存知ないのか」と(58・3)

それに対して、あなた方の宗教儀式は立派だが、本質が伴っていないと神は言われます。かえって、自分は立派にやっているという自己正義が、他者を責める武器になっている。だから……、

見よ。あなた方が断食をするのは、争いと喧嘩をするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなた方は今、断食をしているが、あなた方の声はいと高き所に届かないと言われます(58・4)

そして、宗教的な形式ではなく信仰の本質を取り戻せと主は語っておられます。

6~10節の内容は、虐げられている人々を解放せよ、貧しい人々を思いやれと命じられていますが、それこそが本質を取り戻した信仰の姿です。新約的に言い換えるなら愛の実践です。

形式ではなく本質を取り戻すなら、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられるのです(8)。そして、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになるのです(10)

信仰生活は、形式的に立派にやったから輝くわけではありません。表面的な見栄えの良さではなく本質が大事です。立派にやれない自分を正直に神に申し上げ、神を愛し、人を愛する道を歩ませてくださいと祈りつつ進むのです。

本質を大切にして生きる者の光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは真昼のようになるのです。神の御前に砕かれた心で、謙遜と従順をもって生きることこそ、神の栄光で輝く生き方です。「立派にやれない」という自分の暗やみも、真昼のようになるのです。そのような人には、義の太陽が昇って、真昼のように照らされる人生です。

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ゴスペルの力ラジオ放送でお話ししたことがPodcastで配信されました。
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イザヤ書 57章

2022年09月21日 | イザヤ書
わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。(57・15)

イザヤ書40章以降は「バビロン捕囚からの解放とその後の繁栄」について預言されていましたが、57章に入って、再びイスラエルの堕落についての預言と警告です。

先の56章9節から、イスラエルの指導者たちの堕落が指摘されており、今日の57章はその続きです。この堕落ぶりはバビロン捕囚以前の様子ではないかと思われます。

人々は主なる神を礼拝しつつ、一方で偶像の神々を礼拝し、その習慣をやめようとしませんでした。このような偶像礼拝のことを、神は「姦淫」だと言われます。偶像を慕う民に向かって、あなたがた女魔法使いの子よ、姦夫と遊女のすえよ、こちらへ近寄れと言われます(57・3)

「姦夫と遊女のすえよ」とは何と忌まわしい表現でしょう。でもそんな彼らに近寄れと言われ、なおも呼びかけておられます。

イスラエルの民が受け入れた偶像礼拝はひどいものでした。そのひとつが、アモン人が拝むモレク神への礼拝でした。人々はモレクへのいけにえとして、幼児犠牲を行っていました。

「あなた方は、樫の木の間や、すべての生い茂る木のしたで、身を焦がし、谷や、岩のはざまで子どもをほふっているではないか」(57・5)とはモレク神への幼児犠牲のことです。

偶像礼拝が盛んなところは道徳的にも乱れてきます。偶像礼拝の目的の多くは豊穣です。穀物の豊穣だけでなく、子宝の豊かさも求める中で、性的な淫乱を推奨する傾向にあります。そこで、性交を宗教的儀式と称して堂々と不品行を行っていたのです。そのようすが次の通りです。

「そびえる高い山の上に、あなたは寝床を設け、そこにも、上って行ってあなたはいけにえをささげた。あなたは、とびらと柱のうしろに、あなたを象徴する像を置いた。あなたはわたしを捨てて、裸になり、寝床に上ってそれを広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、その象徴物を見た」(57・7~8)

現代社会も同じです。性的堕落ぶりは偶像礼拝に起因しています。まことの神をさしおいて他の神々を拝む姿は、夫がありながら他の男たちと情欲を貪(むさぼ)るのと同じです。それは、神の目には姦淫であり、それが人間の男女関係にも現れています。

唯一の神、創造主である神、まことの神だけに貞操をつくして礼拝をする……そのような霊的なきよさが、男女関係のきよさと連動します。

さあ、話を堕落したイスラエルに戻しましょう。そんな民に向かって、神は「土を盛り、土を盛って道を備えよ、わが民の道から、つまずく物を取り去れ」と命じられました(57・14)

「つまずく物」とは偶像礼拝のことです。そこから生じる道徳的退廃です。それを取り去ってまことの神である主に立ち返るように命じられました。

「こんな連中、ほっておけばいいのに」と思いますか。人はそう考えるでしょう。しかし、神の思いと人の思いは違うのです。その愛の深さや高さは、天が地よりも高いほどに違うのです(55・8~9)

あわれみ深い神は、悔い改めて立ち返る者と共に住まわれるのです。

わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。わたしはかぎりなく争わない、また絶えず怒らない。霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。(57・15~16)

神は、ご自分が創造なさった者に最後まで責任を負われるのです。白髪になるまで持ち運ぶのです(46・4)。このように最初から最後まで責任を負われる神ですから、単にゆるすだけでなく〝生かす〟と言われるのです。霊を生かし、心を生かすのです。

それは〝いやす〟ことでもあります。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。(57・18~19 新改訳)

そうです。救いとは「ゆるす」だけでなく、「いやす」のです。罪がゆるされただけでなく、罪を犯す性質、考え、生き方(ライフスタイル)をいやすのです。

その癒(いや)しは単に肉体を元気にする程度のことではなく、霊を生かし、心を生かすという深いところからの癒しです。悔いし砕けし者と共に住まわれる主が、生涯にわたって癒されるのです。そのお方を心から歓迎しよう。

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イザヤ書 56章

2022年09月20日 | イザヤ書
イザヤ書 56章
主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ず私をその民から分かたれる」と。宦官
(かんがん)もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。(56・3)


イスラエルの救いだけではありません。異邦人の救いについてもイザヤは預言しました。

聖書はイスラエルを中心にして記されています。しかし、イスラエルだけの物語ではありません。言わば、イスラエルは〝初穂の民〟です。〝基の民〟です。ですから、良きことも悪しきことも、まずイスラエルが最初です。イスラエルの民は、全人類の見本として、神が用いられる民族です。イスラエルに始まり、イスラエルで終わります。

しかし、それを理解できないイスラエルは、誤った選民思想を持っており、異邦人のことを地獄の薪(たきぎ)と呼んでいました。地獄の火で罪人はさばかれるわけですが、その地獄の釜の薪だという意味です。

また、宦官(かんがん)のことを枯れ木と呼んで揶揄(やゆ)したのです。当時、宮殿の婦人達に仕える役人は、男性としての機能を取り除くために去勢され、宦官という身分となりました。子孫を残せないので枯れ木だという意味です。屈辱的な境遇です。

そのような、イスラエルから見れば陽のあたらない民や身分にさえ、神は救いをもたらされるのだと預言されています。

異邦人の自分など、神は見向きもされない。お見捨てになったのだと言ってはなりません。宦官の自分など枯れ木であって、何の実も結べないと嘆いてはなりません。「こんな罪人の私が救われるわけがない」と言ってはいけません。「何の取り柄もない私を神が愛するはずがない」などと言ってはいけません。これは神は命令です。

異邦人であるツロ・フェニキアの婦人は、娘の癒しをイエス求めました。イスラエルの子たちの食卓から落ちたパンくずでかまわないと求めました。異邦人でも恵みをいただけるに違いないと、確信して求めたのです。そして彼女は救いを受けました。

また、エルサレムで礼拝を終えて帰途の中、エチオピアの宦官はイザヤ書53章を読んでいました(使徒8・26~39)。彼は、伝道者ピリポに導かれて、イザヤが預言したメシアがイエスであると信じました。その後も彼はイザヤ書を読み進めて、この56章に読みすすんだはずです。そして、もはや自分のことを枯れ木などと呼ぶまい、私を通して神は豊かな実を結ばれるのだと確信したに違いありません。

かつては蔑(さげす)まれた異邦人や宦官であっても、神の恵みは豊かに与えられるのです。どのような恵みですか。絶えることのない、とこしえの名を与えるという恵みです(56・5)

今、私たちは〝イエス〟という最高の名を受けています。この名で祈るなら確実に天にとどく名です。この名で何でも求めることのできるのです。この名で罪をゆるされ、この名で救われ、この名で神の子どもとされるのです。すべての権威にまさる名です。

神が与えるもうひとつの恵みは、家を与えるという恵みです(56・7)。この家は祈りの家と呼ばれます。皆さんはこの〝祈りの家〟を受け取りましたか。私たちが主に向かって祈るとき、そこが祈りの家になります。しかも主は、わが祈りの家で楽しませると言われます。祈りのあるところ……。そこは、主と共に楽しむ家です。

このような約束は、イスラエルだけのものではありません。主イエスにつながる全ての人に与えられた恵みです。

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イザヤ書 55章

2022年09月19日 | イザヤ書
イザヤ書 55章
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(55・8~9)


今日、主は呼びかけておられます。「わたしに求めよ」と。本物の「いのち」を得るために、わたしに求めよと呼びかけておられます。これは、求める者には必ず与えるという腹づもりで言われています。だから、大胆に求めてください。

さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ(55・1)とありますが、お金(かね)がないのにどうやって「買え」と言われるのかと、突っ込みたくなりますね。

なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか(55・2)と言われているように、朽ちてしまう物のために金銭や労力を費やすのでお金がないわけです。そうではなく、朽ちないいのちのために求めよという意味です。

朽ちないいのちとは何でしょうか。それは、罪のゆるしです。それを神に求めよと言われるのです。どうやってそれが得られるのでしょうか。

悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられるのです(55・7)

神は豊かにゆるされるのです。

さあ、それを求めるのは〝今〟です。あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよです(55・6)

神のゆるしの豊かさを、私たちは知っているだろうか。神のゆるしの大きさや深さを、あなたはどれほど知っているだろうか。

冒頭の聖句のように、神の思いは、人間の思いよりもはるかに大きく、高く、深く、広いのです。天が地よりも高いようにと言われているとおりです。

こんな罪多き者がゆるされるのだろうかと、自分を嘆いていますか。あんなひどい奴(やつ)がゆるされて良いはずがないと、他者(ひと)を憎んでいますか。でも、神のゆるしの高さ、大きさを知るべきです。

えっまさか、神のゆるしが大きいなんて!!……信じられないと疑う人もいます。でも、神はゆるすと言われるのです。この約束は戯言(たわごと)ではありません。ご自身の言葉について力強く宣言なさいます。

天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。

このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。
(55・10~11)


天から降る雨が、途中で天に引き返すことがありますか。あり得ないです。天から降った雨は、確実に地に落ちて、地を潤し、地に豊かな産物を生み出すではありませんか。

それと同じように、神の御言は雨のように地に降りそそぎ、罪人たちの飢え渇きをいやし、いのちのない者にいのちを与え、恵みの収穫を結ぶようになさるのだという意味です。

今日、神の呼びかけに応答しよう。明日に先延ばししてはなりません。明日にしたら、明後日になります。そして、それがずっと続きます。だから今日です。ゆるしの神を信頼して、今日、神に立ち返ってください。

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イザヤ書 54章

2022年09月17日 | イザヤ書
イザヤ書 54章
あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。
(54・2)


捕囚の地バビロンからの解放預言は、イスラエルの民に大きな希望を与えました。その励ましの預言が語られています。

子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。(54・1 新改訳)

この表現は説明が必要です。

「あなたを造られた者はあなたの夫であって」(54・5)と言われているように、創造主とイスラエルとの関係は、夫と妻の関係になぞらえています。神が夫でイスラエルが妻です。ですから、偶像の神々を礼拝することは、他の男性を慕う妻にたとえて、それは霊的な姦淫になります。

さて、不妊の女とは、夫なる神との交わりによって良き実を結ばない民であると指摘しています。「良き実」とは、信仰による霊的な実とも言えますし、また、信仰の子孫でもあります。イスラエルの民は不信仰ゆえに、良き実を生むことのできない「不妊の女」と呼ばれたわけです。 ※「野ぶどうの実を結んだ」という表現も同じ意味です。

そのため、神は、しばらくの間ではありますが、民を捨てるかのように、バビロンに引き渡されました。そのことを「夫に捨てられた女」と表現しています。

しかし……、

わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむのです(54・7~8)

つまり、イスラエルはゆるされて回復する時がやって来る。もう一度、夫である神と、よりを戻す時が来るのです。その時になれば、彼女の子どもは、「夫のある女」の子どもより多くなると言われます。

この夫のある女とは、以前のイスラエルのことです。その時に結んだ実よりも、バビロンから戻ってきた民が結ぶ実は多く、豊かなのだという意味です。だから、その準備をせよと言われます。

どんな準備でしょうか。

あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよとの準備です(54・2)

バビロンから戻ってきた民よ、多くの人々を受け入れるための準備をせよと主は言われます。その数は増し加えられるので、天幕を大きくし、その天幕を支えるための杭も強固にしなければ、民を収容できないと言われるのです。

それは、新約の時代になって、罪の奴隷から解放されたクリスチャンにも同じことが言えます。沖にこぎ出して漁をしてみなさいと言われたイエスの御言に従った弟子たちは、大漁のあまり、その網は破けそうになりました。

その収穫とは、イエスを信じて救われる人々のことです。また、イエスを信じた者の霊魂に結ぶ御霊の実のことでもあります。

そのような多くの実を受け入れる用意ができているでしょうか。イエスは新しい皮袋を用意せよとも言われましたが、それは、多くの人々を受け入れるための柔軟な心です。

個人的な好き嫌いや、主義主張の違いで仲違(なかたが)いしているようでは、そこに多くの収穫を入れることはできません。それは古い皮袋であって、収穫量の多さに耐えられずに破けてしまいます。

私たちは、御霊の実である豊かな収穫を受け入れる準備ができているだろうか。肉の心のままでは、そのような実を受け入れても、吐き出したり、腐らせてしまいます。むしろ肉の実を結ぶばかりで、御霊の実を排除してしまいます。

新しい価値観という皮袋を用意しよう。目に見えるものではなく、目に見えないものこそ永遠に残るという価値観です。見えるものにではなく、見えないものに目をそそぐという生き方です。

さあ、神は豊かな収穫を計画なさっています。「沖へ出よ」と勧めておられます。天幕を惜しみなく広げ、その綱を長くし、強固な杭を打とうではありませんか。終わりの日の収穫は近いのですから。

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イザヤ書 53章

2022年09月16日 | イザヤ書
イザヤ書 53章
私たちはみな、羊のようにさまよい、各々自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎
(とが)を彼に負わせた。(53・6)


聖書はイエス・キリストについて記された本です。

イエス様ご自身も、あなた方は、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものであると言われました(ヨハネ5・39)

聖書にはアブラハムも登場します。モーセもダビデも、イザヤを始め多くの預言者たちも登場します。しかし、それはイエス・キリストを指し示すための物語です。律法もそうです。イエス・キリストに導くための道しるべです(ガラテヤ3・24)

聖書はイエス・キリストについて書かれており、イエス・キリストに焦点を合わせるとき、聖書の全容がが見えてきます。

かつてエチオピアの宦官(かんがん)が帰途につく馬車の中で、このイザヤ書53章を朗読していました。彼はここに記された「わたしのしもべ」とは誰のことか分からず、伝道者ピリポに質問したのです(使徒8・26~40)ピリポは、その〝しもべ〟とは、十字架で死なれたイエス・キリストであると説き明かしたのでした。

このように、イザヤ書53章はイエス・キリストについて記されています。神のしもべとして登場する人物……それはイエス・キリストです。このお方は罪の生贄の小羊のようにして血を流し、いのちをささげるのだと預言しています。

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです(イザヤ53・5)

まさにイエスは、私たちの罪のために十字架で刺し通され、苦しまれ、打たれました。主が、私に代わって罪の代価を支払われたが故に、私は心底からの平安をいただきました。

罪の解決こそが、本当の平安を与えます。

何事も起きないことが平安なのではありません。たとえ、人生を揺るがすような洪水が押し寄せたとしても倒れないことが真の平安です。その平安の土台となるように、神は罪のゆるしをお与えになりました。そのために、苦難のしもべなるキリストをお遣わしになるのです。

なぜ、罪のゆるしが人生の土台となるのでしょうか。罪のゆるしによって神との和解を得るからです。神との交わりのある人生こそ岩の土台です。

逆に、神との関わりにない人生は、いのちや時間や能力をどのように使うべきか分からない人生です。創造者である神が、その使い道をご存知です。活かし方をご存知です。

なのに、神を無視して、自分のおもむくままに生きる人生は、神がご覧になるに、飼う者のない羊のように彷徨(さまよ)い、各々自分勝手に向かっているのです(53・6)。その先が滅びであることも知らずに、人生の成功者のように自慢し、高ぶっているのです。

父の財産を分けてもらい放蕩に身を持ち崩した弟息子のように、いのちという尊い財産を、湯水のように使い果たしています。そのような人々のために、イエス様は十字架の上で祈られました。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないで居るのです」。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをするとイザヤが預言した通りでした(53・12)

そのような、何をしているのか分からない私たちの罪を、神は、イエス・キリストに負わせになりました。冒頭の御言の通りです。主は、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせたのです。

預言通りに生まれ、預言通りに死なれたこのお方こそ、本当の救い主です。十字架で死なれたイエスこそキリストであり、このお方を信じることによって、私たちは救われます。

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イザヤ書 52章

2022年09月15日 | イザヤ書
イザヤ書 52章
主はあなた方の前に行き、イスラエルの神はあなた方のしんがりとなられるからだ。
(52・12)


第52章は、バビロン捕囚から救われた者たちの祝福が語られています。それは、イエスを信じて罪の奴隷から解放された者たちへの祝福の言葉としても読むことができます。

シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よと語られているように、バビロンから戻ってきた者たちは、力を着て、美しい衣を着るのだと預言されています。 ※「エルサレム」とか「シオン」は町そのものでなく、そこに住む人々のこと。

イエスを信じて神のもとに戻ってきた者も同じです。私たちは「力」を着るようになります。それは聖霊の力を意味します。そして、聖霊の助けを得て、美しい衣を着るようになります。その衣とは、汚れのないきよい生き方のことです。黙示録ではこのように預言されています。

「小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである。」(黙19・7~8)

この白い衣を着た花嫁 ――それはキリストの教会―― は、花婿であるキリストとの婚宴の席につくことになります。

さて、イザヤ書に戻りましょう。バビロンから救い出されたイスラエルの民は、いかに栄光に富んだ姿で出てきたことでしょう。あなた方はあわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよいと神は言われます(52・12 新改訳)。つまり、申し訳なさそうに救われるのではないのです。それは、神が先頭となり、かつ、しんがりとなられるからです(52・12)

神は、私たちを救うにあたって、雄々しく先頭に立たれるだけでなく、落伍者が出ないように、しんがりにもなってくださいます。「初めであり、終わりである」おかたは、同時に、先頭としんがりを務められるのです。

このように、ねんごろに導かれる神を信頼して、旅を進もうではありませんか。罪の世界から救い出され、天の御国に至るまでの道のりは、険しく苦労がありますが、神が先立ち、かつ、しんがりとなって共に歩んでくださるのですから、心強いではありませんか。

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