イザヤ書 66章
わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。(66・2)
先の65章では、神は新しい天と新しい地を創造なさろうとしていることを見ました。「新しい器」を用意なさろうというわけです。しかし、その中身はどんなものでしょうか。
わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。(66・2)
先の65章では、神は新しい天と新しい地を創造なさろうとしていることを見ました。「新しい器」を用意なさろうというわけです。しかし、その中身はどんなものでしょうか。
それは〝まことの礼拝〟です。
66章1~2節では神殿について述べられています。
「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか。わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。」
人は、神に住んでいただくための神殿を建築するのですが、そこに神は住まわれるのだろうか。地を足台にし、天を座にしておられる神を、地上に建設した神殿などにお入れすることができるだろうか。そもそも、その建築資材もみな、もとをただせば神ものではないかと、問うておられます。
そのような物質の神殿ではなく、「へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者」の中に住むのだと言われるのです。そのような人々の真実な礼拝こそが、神の住まいなのです。
神は、まことの礼拝者からなる新天新地を目指しておられます。
しかし一方で、偽りの礼拝もあります。自分勝手な礼拝者もいます。うやうやしく生贄をささげるその手で人殺しをする者たちの礼拝を、どうして神は受け入れることができましょうか。そのことを3~4節は述べています。
また、栄光のしるしを見たら礼拝してやろうと言う不遜の輩(やから)もいます(66・5)。彼らが生み出すものは、早産によって未熟児が誕生するような、いのちのないものだと指摘されています(66・6~9)。
しかし、まことの礼拝者である「エルサレム」から生み出される者たちは、豊かな母乳を受け成長する子どもとして表現されています(66・10~14)。この場合の「エルサレム」は、まことの礼拝者である〝人々〟を表しています。
ですから、イエス様も、天の父の御心について次のように語られました。
「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネ4・23)
神は、まことの礼拝者を求めておられるのです。それこそ、神の御国における基本です。だからこそ、神は、その礼拝を破壊するサタン(悪魔)を滅ぼし、人類をまことの礼拝者とするために救いを得させてくださいました。
私たちがイエスの十字架によって罪のゆるし受け、救いを受けたのは、商売が繁盛するためではありません。家内安全無事息災のためでもありません。地上で肉の喜びを満喫するためでもありません。
もしそうなら、ヒューマニズムのキリスト教になってしまいます。人間の幸福ために神を仕えさせ、そのために御子イエスが十字架にまでかかってくださったと考えます。
キリスト信仰は、人間中心ではなく、神中心です。人本主義ではなく、神本主義です。少し極端に感じられる人もいるでしょうが、大切なことです。
今日の御言は何と言われますか。「わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である」。これこそ、まことの礼拝者の姿です。このような者たちを、神は顧みてくださいます。
まことの礼拝者になろう。そのために、つねに謙虚であろうと祈るものです。
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