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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

年末年始 お休みのお知らせ

2024年12月31日 | 教会の様子

いつも朝マナをご愛読いただきありがとうございます。

さて、2024/12/31 ~ 2025/1/6の期間、朝マナは年末年始のお休みをいただきます。

再開は2025/1/7からとなります。

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

読者の皆様には本年も大変お世話になりました。

神様の祝福の中で、良いお年をお迎えください。


士師記 21章

2024年12月30日 | 士師記
士師記21・25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところを行った。

ベニヤミン族を完膚無(かんぷな)きまでにたたいてしまって、男子600人を残すのみとなった時、イスラエルの人々ははたと気づきました。このままではベニヤミン族は絶えてしまうと……。

このカナンの地は、神がイスラエルの各部族に嗣業として与えてくださったミッションではなかったのか。そんな使命を、憎しみのあまり失おうとしているのです。「我にかえって」とでもいうのでしょうか、人々はようやく本心に立ち返って、ことの重大さに気づいた次第です。

人の怒りは物事の解決には役立ちません。行き過ぎた報復を生みだし、果てしのない憎しみを増幅させることがほとんどです。

だから聖書は、「怒っても罪をおかしてはならない。怒ったままで翌日を迎えてはならない」と教えています(エペソ4・26)。なぜなら、人の怒りは神の義を全うできないからです(ヤコブ1・20)

さて、21章には、我に返ったイスラエルの人々が、ベニヤミン族を絶やさないために、嫁を提供することにしたことが記録されています。

士師記に記録された嫁さがしの方法は、「本当のこれでいいのか」と疑問に思います。人々は神に祈っているようですが、いけにえを献げて礼拝の形式をとってはいるのですが、主からの応答があったわけではありません。神の啓示を受けられずに、皆で協議した結果のことです。

皆で決めたから正しいのか。多数決で真理は見出せるのか。そんな問いかけが生じます。

そもそも、人々はベニヤミン族に自分たちの嫁はやらないという「妙な誓い」に捕らわれていました。この誓いそのものが墓穴を掘る結果になっているようにも思えます。この誓いに縛られているために、とんでもない解決策を導いたのです。

人間の誓いは信心深げに映るのですが、多くの場合、それに縛られるあまり主の御心を見失ってしまいます。あのエフタの誓いもそうだったではありませんか(士師11・31)。それよりは、自分が間違っていたら速やかに悔い改める大胆さの方が大切です。

さて、士師記が――特に17章以降――いわんとしていることは、この時代が混沌(こんとん)としている原因は、その頃、イスラエルに王がいなかったので、人々は各々自分の正しいと思うことをしていたからだと、繰り返し述べています(17・6、18・1、19・1、21・25)

私たちには〝正しい王〟が必要です。私たちを正しくさばき、導いてくださる王が必要です。絶対的な基準となる王が必要です。

まさしく、士師記はそのような王を待望する記録です。まことの王のいない人類がいかに愚かで、道を踏みはずす者であるかを表している書物です。

旧約聖書全体が、このまことの王の来臨を預言する書物です。

この後、イスラエルの歴史は人間の王を擁立して国を治める歴史へと続くわけですが、罪人である人間が王として治めることの限界を提示しています。

王は、神の預言者によって油を注がれて即位するのですが、その「油注ぎ」は、神によって立てられ、神の権威が与えられたことを表しています。

この「油を注がれた者」という語句が、ヘブル語で「メシヤ」、ギリシャ語で「キリスト」です。こうしてイスラエルの歴史は、メシヤ(キリスト)を待ち望む歴史として展開して行きます。

メシヤ待望の歴史はこれからまだ先が長いのですが、メシアなるまことの王を迎える道は確実に備えられて行きます。


士師記 20章

2024年12月28日 | 士師記
士師記20・47 しかし6百人の者は身をめぐらして荒野の方、リンモンの岩まで逃げて、4か月の間リンモンの岩に住んだ。

強姦の罪をおかしたベニヤミン族の町ギベア(ギブア)を征伐(せいばつ)するために、イスラエルの11部族は軍隊を集結させました。しかし、ギベアと同族のベニヤミン族の人々はこれに対抗したため、イスラエルは内戦状態に陥りました。


結果、11部族の連合軍はベニヤミン部族を徹底的に撃ったため、600人の男子を残すのみとなってしまいました。

このような戦争が必要だったのでしょうか。同じ神を信じる人々が、ここまで憎みあわなければならなかったのでしょうか。そこに、ゆるしと和解が生じる余地はなかったのでしょうか。

旧約の出来事は、新約聖書の光で照らして読まなければなりません。なぜなら、旧約の出来事は未完成な事柄ばかりだからです。イエス・キリストが来られるまで、真の解決はありません。

理屈では罪をおかした者はさばかれて当然です。律法は、罪人の行き着くところが「死」であると宣告します。ですから、旧約の出来事は「死」とか「さばき」が鮮烈に描かれています。

律法は論理的には正しいのですが、真理ではありません。筋の通ったことを主張していますが解決がありません。

真理はイエスにあります。解決はイエスにあります。「わたしが来たのは律法を完成するために来た」とイエスは言われましたが、それは「律法に完全なゆるしを与える」ことによって完成なさったのです。

律法それ自体は正しいものです。でも、正しいから真理なのではありません。正しくても、いのちを与えることができなければ真理ではありません。

律法はどんなに正しくても、いのちを与えることができません。ひたすら、私を罪人としてさばいて死を宣告するのです。イスラエルの人々がベニヤミン族を徹底的にたたいてしまった姿は、律法の結末を象徴する出来事と言えるでしょう。

イエスの十字架と復活だけが、正しいさばきとゆるしを与えてくれる唯一の道です。このイエス様の福音が真理です。律法ではなく、福音を与えられていることに大いに感謝しよう。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 20章 【聖書通読】
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士師記 19章

2024年12月27日 | 士師記
士師記19・19 何も欠けているものはありません。

ひきつづき醜態が記録されています。読んでいて心が痛みます。この物語の登場人物もまたレビ人です。17章~18章の記されたレビ人とは別人です。彼はひとりの女性を妾(めかけ)としていたと記しています(19・1)

このあたりからして歪んでいます。めかけですから、正式な結婚ではありません。夫婦関係が壊れてしまっています。

さて、ことの次第はこうです。めかけの女性との間にトラブルがあって、彼女は里帰りをしてしまった。よりを戻そうとレビ人は実家に迎えに行く。そこで、引き留める舅(しゅうと)のために5日間も滞在し、結局その日の午後遅くに女を連れて出発した。

そのため、連れて帰る途中、ベニヤミン族のギベアの町で一泊しなければならくなったが、その町の道徳は廃れていて、町の男たちは、レビ人のめかけを強姦して死に至らせてしまった。まるでソドムとゴモラの町のようです。神の選びの民がソドムとゴモラのように落ちぶれてしまったのです。

いみじくも、このレビ人はギベアの町に来たとき、宿泊を提供してくれる老人に、われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありませんと語ったのですが、「本当ですか?」と言いたくなります。 ※新共同訳「必要なものはすべてそろっています」。新改訳「足りないものは何もありません」。

足りないものがあるでしょ!。神が共におられないじゃないですか。レビ人さん!。愛が無いじゃないですか!。

愛がないから、そばめを持ちます。愛がないから、しゅうとは夕暮近くまで引き留め、危険な旅の原因をつくりました。愛がないから、ギベアの人々は旅人をもてなしません。愛がないから、レビ人は彼女をならず者たちに差し出しました。

大いに足りないものがあります。愛です。神が共におられることです。

イスラエルの中で霊的リーダーであるべきレビ人が塩味を失っています。カナンの地に神の民として置かれたはずのイスラエルが、神の御国の塩味を失っています。新約の民であるキリスト教会も同じであってはなりません。

このことに義憤をいだいたレビ人は、彼女の遺体を12に切り裂き、12部族の長老たちに送りつけました。このショッキングな出来事に、各部族の長老たちは、ことの収拾を話し合うために集まりました。

さあ、どうすべきでしょう。人々は、「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」(19・30)と言ったように、よく考えなければなりません。どこからずれてしまったのでしょうか。

イエスの御霊は、エペソの教会にメッセージを送られました。あなたはどこから落ちたのか思い起こしなさい。あなた方は初めの愛から離れてしまった(黙示録2・4~5)

そうです。どこからずれてしまったのか、思い起こしましょう。主イエスの愛の中にとどまっているだろうか。「わたしの愛の中にとどまっていなさい」と言われた主イエスの御言に立ち返ろう。イエス様の愛に立ち返ろう。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 19章 【聖書通読】
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降誕節10 《礼拝しない人々》

2024年12月26日 | 降誕節・復活節
マタイ福音書2:13~23 主の使いが夢でヨセフに言った、立ってエジプトに逃げなさい。……ヘロデが幼な子を探し出して、殺そうとしている」。
 
キリストが王として誕生されたことによって、3種類の人が登場しました。
 
①東方からの博士たち……何をおいても礼拝するために馳(は)せ参じる人々です。野の羊飼いたちもそうでした。
 
②ユダヤの聖書学者……彼らはキリストの生誕の地まで知りながら、何も行動を起こさない無関心派の人々です。
 
③ヘロデ王……彼は自分以外の王を認めませんでした。そこで、イエスを殺すためにその地方の幼児を虐殺しました。
 
多くの人々が「無関心派」です。キリストについて知識はあります。クリスマスがキリストの誕生を祝う日だと知っています。キリストが十字架にかかったことも知っています。でも、キリストを受け入れようとしません。
 
無関心とは、自分との関わりを否定する人です。キリストが十字架で死なれたことを知っていても、それが〝自分のためだ〟とを認めないのです。
 
ユダヤの律法学者たちほど、聖書に詳しい人は他にいません。特に彼らは王宮おかかえの学者ですから、ユダヤの国内の選りすぐりの学者であったはずです。しかし、どんなに豊富な知識も、自分との関わりがなければ空しい知識です。聖書の御言を自分のこととして受けてください。
 
たとえば、「神は御子をたまうほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)という御言は、「神は御子イエスを〝私に〟与えてくださるほどに、〝私を〟愛してくださった」と受け取ることです。
 
さて、ヘロデのように、自分を王とするタイプの人もいます。
 
あなたは誰を王としていますか?。「自分」が王になっていると、ヘロデ王のように反応します。自分を王とする人は自分以外の王を認めません。
 
ヘロデは自分の王座を守るために何でもした人物です。非常に猜疑心(さいぎしん)の強い人で、王座を危うくする者であれば妻や息子たちさえも粛正(しゅくせい)した王でした。そのために人々から、「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚であるほうが安心だ」とまで揶揄(やゆ)されました。ユダヤ人は豚を食べないから、豚であるほうが安全だという皮肉です。
 
私たちの心を点検してみましょう。ヘロデ王のようにキリストを殺そうとする心はないだろうか。あるいは、律法学者らのように無関心の心はないだろうか。結局はそのような心が、キリストを十字架につけてしまうのであり、それが私たちの罪です。
 
キリストは神の国の王として降誕されました。キリストを信じるとは、キリストを私の王としてお迎えすることです。
 
人類は歴史の中で、さまざまな王政を体験してきました。有能な王の治世は平和をもたらしますが、むしろ、そのような王はまれで、王制統治による悲惨な歴史が続きました。歴代の王たちも罪人に過ぎませんでした。
 
そこで、現代では、王制は象徴になって、民主主義による政治が一般的になりましたが、その民主主義も汚職と腐敗でいたる所にほころびが出てきました。民主主義という名の王も、堕落し、悪魔に豹変します。
 
地上には王にふさわしい人物も王制に代わる制度もないのです。キリストこそ私たちの王となるべきお方です。
 
主なる神はイエスに王座をお与えになり、その支配は限りなく続く(ルカ1:32)ようにご計画なさいました。そのような神の御国は、キリストを王として受け入れた私たちの中で実現します。(Ω)


降誕節09 《東方賢人たちの礼拝》

2024年12月25日 | 降誕節・復活節
マタイ福音書2:1~12 ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは……その方を拝みに来ました。
 
神の国の王としてお生まれになったイエス・キリストを礼拝するために、東方から博士たちが来訪しました。「東方」とは、今日のイラクかイランの地方ではないかと言われています。
 
さて、イエス様を出産したあとも、ヨセフとマリヤはベツレヘムにそのまま滞在していたようです。生後間もない幼な子を連れての旅は無理と判断したのでしょう。
 
その滞在期間中に、きよめの儀式のためにエルサレム神殿に詣でました。それは、すでにルカ福音書で見たとおりです。
 
ですから、東方からの博士たちが来訪したのは、イエス誕生の当日ではなく、出産後のベツレヘム滞在中の時だと考えられます。しかも、誕生後、数ヶ月は経過していたことでしょう。
 
さて、当時の旅は現代の旅と比較にならないほど大変なことでした。旅に出るときには、別れの杯を交わしたほどに、生きて帰れないかも知れない、途中でどんな災難が待ち受けているかも知れないのです。
 
そのような時代ですから、東方からやって来た博士たちも、よほどの決意をもって旅に出たはずです。彼らはキリストに会うために何かを捨てて旅に出たのです。
 
「博士」ですからそれなりの地位のある人たちですが、その職を辞して旅立ったのかもしれません。また、ボディーガード役の傭兵や、道案内のために地元のガイドを雇いながらの旅ですから、相当の費用がかかったはずです。そのために、財産も費やしたことでしょう。
 
キリストに出会うための旅とは、何かを捨てる旅だと言えるでしょう。
 
キリストを得るためには欲張りになってはなりません。物事をきわめることの背後には、多くの捨てなければならないものがあるはずです。「これだ」と確信するものをつかむために、それ以外のものを捨てます。
 
俳句の美しさは、たくさんの言葉を捨てることによって、残された「五・七・五」の言葉に輝きが増すのだと思います。捨てることによって、何が大切なのかが明確になります。
 
欲張って持ちすぎて、かえって何も得ることができません。焦点がぼやけるだけです。
 
聖書の真理は逆説的です。捨てることで得るのです。自分でいのちを得ようとしたらそれを失い、キリストのために捨てるものはそれを得るのだと、主は言われました。
 
自分で自分のいのちを得ようとすること……つまり得ようとすることによって、私たちは多くの重荷を背負い込み、大切なものを見失っていないでしょうか。
 
物を捨てられないでゴミ屋敷になった話は、現代人を象徴するかのようです。人生の様々なしがらみ、こだわり、自慢、誇りなど……捨てられないで、重荷になっているものが沢山あります。
 
そのような大きな荷物は、キリストに出会う旅路には足手まといです。旅人は身軽でなければなりません。東方の博士たちのいさぎよさと大胆さに続く者は幸いです。(Ω)


降誕節08 《待望者たちの礼拝》

2024年12月24日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書2:21~39 わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。
 
イエス様の誕生後、律法の規定に従って犠牲を献げるために、幼な子と共にエルサレム神殿に詣(もう)でると、そこで、ふたりの老人と出会いました。
 
この出来事は、イエスが誕生されて8日目に割礼を受けるのですが、さらにきよめの期間としての33日が経過した日のことです。
 
律法によれば、この日数が経過しなければ神殿に入ることを許されなかったとありますので(レビ12:2-6)、イエス様の誕生から約1ヶ月半が経過していることになります。 ※東方からの博士たちの来訪を機に、ヘロデ王がベツレヘム地方の幼児殺害を行ったのは、更にこの後の事件である。ルカは幼児殺害事件を記録していない。
 
さて、神殿で出会った老人のひとりシメオンは、キリストを待ち望む敬虔なユダヤ教徒でした(ルカ2:25)。彼は聖霊によって、救い主(キリスト)を見るまでは死ぬことはないと知らされていました。
 
もうひとりはアンナという老女(ルカ2:36)、彼女もキリストの誕生を待ち望んでいました。そして、幼な子イエスを知って、キリストを待ち望む他の人々にこの知らせを語りました。
 
ふたりともキリストとの出会いを待ち望んでいました。待ち望むことは、彼らをいかに元気にしたことでしょう。たとえ歳老いたとしても、主を待ち望む者は新たな力を得るのです。
 
イザヤはこう預言しました。「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)
 
今の時代は「待つ」ことが苦手な時代です。何でもスピード化された社会です。ほしければすぐにコンビニ店で手に入れることができ、新幹線や飛行機でアッという間に目的地に行ける時代です。
 
そんな時代に、あえて待ち望む人々……それがクリスチャンです。
 
神の御言が実現するのを待ち望みます。たとえ何世代も後になろうとも、信じて、その信仰を後生に伝えてでも待ち望みます。そのように待ち望んだ人々にクリスマスの祝福はとどけられました。
 
旧約のユダヤ人たちもキリストを待ち望みました。そして、新約のクリスチャンたちも、このキリストを知り、キリストが再びおいでになるのを待ち望む人々です。
 
主を待ち望むことは、主が来られるための道を用意することです。
 
この道を通って主は来られます。この道を通って、私たちは主とお会いします。今日も、待ち望む人々に祝福と新たな力がありますように祈ります。(Ω)


降誕節07 《羊飼いたちの礼拝》

2024年12月23日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書2:8~20 羊飼いたちは、見聞きしたことが何かも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰って行った。
 
クリスマスの出来事を最初に知らされたのは、野で羊の番をしていた羊飼いたちでした。このすばらしい知らせは、世の地位ある人々にではなく、名も知れない羊飼いたちに伝えられました。
 
クリスマスの時、世間では何が行われていたか思い出してください。ローマ政府の命令によって人口調査が行われ、人々はそれぞれ生まれ故郷で住民登録している時でした。
 
人口調査は、ローマ政府の徴税と徴兵の対象者を登録するためですが、羊飼いたちはその対象外の人々でした。ですから、登録をする人々でにぎわうベツレヘムの村をよそに、クリスマスの夜も羊飼いたちは野で羊の番をしていたのです。
 
正式な人口としてカウントされない羊飼いたちでしたが、神はお忘れになりませんでした。救い主を待望している名もない彼らに、いの一番にキリスト誕生の福音は伝えられました。
 
ローマ帝国は羊飼いを数の内に入れなくても、神の国は、信仰のある羊飼いたちをひとりも間違えずに数えています。地上の国は羊飼いの名を記録しませんが、神の国には彼らの名が記されています。
 
神は、この世での名声や立場や能力をご覧になりません。その人の信仰をご覧になります。
 
さて、天使からクリスマスの知らせを聞いた羊飼いたちは、さっそくベツレヘムの村へ急ぎました。すごい行動力ではありませんか。
 
狼などに羊が襲われないために夜番をしているのに、羊を放置して出かけるのは心配です。かといって、目の悪い羊をぞろぞろと夜中に連れて行くのもおおごとです。私の想像ですが、たぶん彼らは羊を野に残して行ったのではないかと思います。財産以上に、救い主にお会いすることの方が彼らにとっては大切なことでした。
 
いずれにせよ、神の御言を聞いてよし!行ってみようとする彼らの信仰には教えられます。聞いたことを実行しようとする心……このような耕された地(心)に御言がまかれるとき、すばらしい収穫があります。
 
その収穫とは、見聞きしたことが、自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰ることでした。
 
御言を聞いたとき、あれこれと都合をつけないで、御言を優先できるように祈りましょう。「あぁ、主の御言の通りでした」と告白できる喜びを味わいたいものです。(Ω)
 

降誕節06 《キリストの誕生》

2024年12月21日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書2:1~7 マリヤは月が満ちて、初子を生み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
 
キリストを身ごもったマリヤと夫ヨセフは、ナザレという村に住んでいました。ナザレはイスラエル北部のガリラヤ湖の西側に位置する小さな村でした。
 
ところが、人口調査のために各自の生まれ故郷にもどって住民登録せよとの法令が、ローマ帝国より出されたのです。そのため、ヨセフとマリヤはナザレから南へ100km以上もあるベツレヘムに旅立たなければなりませんでした。
 
そんな旅先のベツレヘムで月が満ち、マリヤはキリストを出産することになったのです。
 
もし、この法令が出されていなかったなら、「キリストはベツレヘムで生まれる」という預言は成就しませんでした。預言者ミカは、キリストの出生について次のように預言しました。
 
ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである(ミカ5:2)。その他にも、キリストはダビデの家系から生まれること(イザヤ11:1、エゼキエル37:24-25)、処女が身ごもること(イザヤ7:14)などが、数百年も昔から預言されていました。
 
これらの預言は、キリストの誕生が偶然ではなく、神からの確かなしるしであることを証ししています。
 
釈迦が誕生する預言も、マホメッドが誕生する預言も事前にはありません。しかし、キリストの誕生とその働きについては、あらかじめ多くの預言がなされており、そして予告どおりに成就しました。
 
これは、キリストの誕生とその働きが人間的なわざではなく、天的なわざであることの証しです。
 
さて、このようにして来られたキリストは、何と家畜小屋で誕生されました。神の御子が世に来られたというのに、神の国の王がおいでになったというのに、家畜小屋で誕生なさったとは……。 ※家畜小屋でお生まれになったという根拠は、宿屋に彼らの宿泊する場所がなかったこと。飼い葉桶に寝かせられたことから推測される。
 
その時のベツレヘムは、住民登録のための人々でごった返しており、宿屋はどこも満員で、キリストの誕生を迎える場所がなかったのです。宿を空けてくれる人はだれもいなかったのです。キリストのこのような誕生は、キリストをお迎えする余地のない、閉ざされた人の心を象徴するかのようでした。
 
では、私たちの心に、キリストをお迎えする部屋は用意されているでしょうか。
 
クリスマスは、キリストが私の内にお生まれになる場所を用意することから始まります。すばらしい部屋をご用意できれば良いのですが、そうも行かない人もおられるでしょう。ともあれキリストを歓迎する心が大切です。そこにキリストはお生まれくださいます。
 
クリスマスの聖画に描かれている家畜小屋は美しく描かれています。実際は臭くて汚いところです。明かりもありません。そんな所にキリストは生まれてくださいました。
 
私たちが主の誕生のために用意した心の部屋は、散らかしっぱなしの恥ずかしい部屋かも知れません。また、あちらこちらと罪でよごれた陰気な部屋かも知れません。でも、そんな私たちの闇の心に来てくださる救い主であることに感謝しましょう。
 
無理に小手先できれいにした部屋を用意したところで、すぐに化けの皮が剥がれるのは時間の問題です。ありのままの私の心にお迎えしようではありませんか。ささやかな場所ではありますが、そこで本当のクリスマスを祝おうではありませんか。
 
祈りましょう。主イエス様!。むさ苦しい場所で申し訳ないのですが、しかし、主よ、どうぞおいでください。歓迎します。(Ω)


降誕節05 《ヨセフへの告知》

2024年12月20日 | 降誕節・復活節
マタイ福音書1:18~25 その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
 
マリヤの婚約者ヨセフは、マリヤの胎内に子が宿っていると知って当惑しました。自分の身に覚えのない妊娠だからです。マリヤは「聖霊によって身ごもった」と言うが、果たして本当なのか。ヨセフにとっては受け入れがたい現実です。
 
そこでヨセフはマリヤとの婚約を破棄しようとしました(1:19)。もし婚約を破棄するなら、「ダビデの家系からキリストは誕生する」という神の預言は成就しません。
 
しかし、神はご自分の御言が実現するために、神自らお働きになります。夢で主の御使が現れてヨセフに告げられたのです。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」と(1:20)
 
もちろん、御言の実現のために私たちも努力します。しかし、それ以上に神ご自身がお働きになります。大切なことは、マリヤがしたように「お言葉どおりこの身になりますように」と御言を信じて受け入れることです。
 
ですから、ヨセフも神の御告げを信じて受け入れました。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えたのです(1:24)
 
そこでヨセフは、マリヤの胎内の子が生まれるまで、彼女を知ることはありませんでした(1:25)。性交を持たなかったという意味です。つまり、人間の業(わざ)を加えなかったのです。そうすることによって、マリヤとヨセフは、生まれてくる子が人間の業によるのではなく、聖霊による誕生であり、この子が神のキリストであるとの確信が強められました。
 
このように、神の御業の始まりはいつも聖霊100%です。人間の業や考えを越えたところで始まります。人間的な何かを加えようとしたら失敗します。
 
あのアブラハムも、「あなたの身から出る子が約束の子だ」という神の御言に対して、年老いたサラではなく、女奴隷のハガルによって子を得ようとしました。つまり、神の御言を人間的な方法で実現しようとした事例です。
 
しかし、女奴隷ハガルから生まれたイシマエルは約束の子ではありませんでした。神の御言の通り、サラから生まれたイサクが約束の子でした。神のわざを人間的な方法で成そうとして、アブラハムはイシマエルを生みましたが、それは神の方法ではありませんでした。
 
先の婚約者ヨセフも、当初は、マリヤと離縁することでこの事態を解決しようとしました(1:19)。つまり、ヨセフの人間的なわざで事態を乗り越えようとしたのです。
 
しかし、神は、ご自身の御業を成就するために人間的な仕業ではなく、私たちの献身をお求めになります。御言の通りこの身になりますようにと、わが身を差し出す信仰を要求なさるのです。
 
私たちが神の子どもとして新しく生まれたのも、聖霊100%の働きであったはずです。私の人間的な努力や能力はまったく無力でした。血すじによらず、肉の欲によらず、ただ神によって生まれたのです(ヨハネ1:13)
 
聖霊100%によって生まれたのですから、その救いは本当の救いです。
 
それなのに、救いを肉によって仕上げようとする人がいます。律法の行いによって救いの確信を得ようとするのも、人間のわざを加えることです。聖霊100%で始めた純粋な救いに混ぜものをするのです。 ※行いが不要というのではない。救いの確信の根拠を行いに求めてはならない。
 
混ぜものがあるので、救いの確信が濁ります。また、薄まります。「聖霊によって始めたのに肉によって仕上げるのですか」と聖書は問いかけています(ガラテヤ3:3)
 
イエス・キリストの働きは聖霊によって始まり、聖霊によって完成します。神の子どもとして新生したクリスチャンも同じです。聖霊を頼りましょう。(Ω)
 

降誕節04 《受胎告知》

2024年12月19日 | 降誕節・復活節
ルカ福音書1:26~38 私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。
 
主は乙女マリヤに、「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その子はキリストです」と告げられました。
 
伝統的なユダヤ教の教えの元で育ったマリヤは、救い主(キリスト)の来臨を待ち望んでいました。でも、まさか、そのキリストを自分のお腹に宿す身になるとは想像だにしていなかったことでしょう。
 
しかも、まだ結婚もしていないのに子を産むなんて……。当時としては非難のまとでした。「いったいだれの子を宿したのか」「ふしだらな女だ」。そんな世間の冷ややかな目にさらされるのです。時には、姦淫の罪を問われて処罰されることだってあったのです。
 
でも、マリヤは、お言葉の通りこの身になりますようにと申し上げ、神の御言を受け入れました。これはマリヤの献身です。
 
天の父が御子を世に遣わされるのも神の献身ですが、御子を宿すために自分の身を献げ、人々の誤解や疑いの目に一生涯自分をさらすことを受け入れたマリヤもまた献身したのです。
 
このような献身のあるところにクリスマスは成立しました。私たちも、マリヤのような献身をもってクリスマスを迎えようではありませんか。献身とは、フルタイムの伝道者や牧師になることだけを意味しているのではありません。神の御言を宿すために、自分の人生を提供することが献身です。
 
神の御言が、単に「絵に描いたぼた餅」に終わるのではなく、私の中で実現するために、自分の人生を神に提供することです。
 
聖書はあなた方の体を、神に喜ばれる生きた聖なるそなえものとして神にささげなさい。それが霊的な礼拝だと教えています(ローマ12:1)。自分自身を神に差し出すことが、霊的な礼拝だというのです。
 
神との交わり、神との出会い……それは私の外側で起きるのではなく、私の内側で起きることです。神の御言を受け入れた私の内側で起きるのです。私の体を……つまり人生を、そのまま神に差し出した私の中で起きる出会いです。
 
マリヤも御言のとおりこの身になりますようにと、身も人生も提供しました。彼女は、外側で神と出会ったのではなく、内側で出会いました。彼女は、神の御子を自分の内側に宿したのです。
 
こんなすばらしい出会いが他にあるでしょうか。
 
御言は種のようにして、私の内側に蒔かれ、私の内側で育ち、実を結びます。御言は種のように、私の内側に身ごもり、時が満ちていのちが生まれるようにして実を結びます。
 
神は、〝見えない御言が見える姿になるために〟私たちの体人生を用いられます。見えない御言が、マリヤのお腹で見える姿となって宿られたように……です。
 
電気を見ることができないように、御言も見ることができません。しかし、電気が電球に流れ込むことによって、電球が光り輝きます。見えない電気は、電球という器を通して現れます。
 
それと同じように、神の御言は、私たちの肉体とか人生という電球を通して現れるのです。光り輝いて栄光を現されるのです。
 
主よ、私の人生を使って、あなたの御言が現れるようにしてください。あなたの御心が、私の人生を通して表現されるためにお用いください。そう祈るクリスマスです。(Ω)
 

降誕節03 《出生地の預言》

2024年12月18日 | 降誕節・復活節
ミカ書5:2 ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族の内で小さい者だが、イスラエルを治める者があなたの内から、わたしのために出る。
 
ベツレヘム・エフラタはエルサレムの南にある村で、イスラエルの王ダビデがこの村の出身でした。かつては、ユダヤの王の出生地として、当時はにぎわい、注目をあびたことでしょう。
 
しかし、月日は流れ、かつての栄光もすっかり薄れて、寒村となってしまいました。しかし、そんな村から、神の国の王であるキリストはお生まれになるのだと預言されています。
 
ミカの預言は、敵軍に完全に包囲された中で語られました(5:1)
 
周囲は八方ふさがりでしたが、上を見上げれば天は開いています。この励ましの言葉は天からの言葉です。私たちもどんな困難に囲まれたとしても、上を見上げましょう。救いは天から来るのですから……。
 
風前のともしび同然のベツレヘムの村から王としてのキリストがお生まれになるのだと語られました。この約束は村人たちに勇気と希望を与えたことでしょう。
 
そして歳月を経て、ついにイエス・キリストは、このベツレヘムでお生まれになりました。
 
ベツレヘムとはパンの家という意味です。
 
そんな村に、天からくだったいのちのパンであるイエス様がお生まれになりました。イエスご自身も、ご自分はいのちのパンだと言われました(ヨハネ6:48)。人々から忘れ去られたような村でしたが、その名のごとく、いのちのパンを宿す家になりました。
 
私たちも、そして教会も、世にあってはベツレヘムの村のように小さい存在ですが、いのちのパンであるイエス様を宿すパンの家」(ベツレヘムです。
 
人々を本当のいのちで満腹させられる「パンの家」(ベツレヘム)になるべく、私たちの内に御子イエスはお生まれくださいました。本当のいのちをあたえる「パンの家」となる使命のために祈りましょう。(Ω)
 

降誕節02 《家系の預言》

2024年12月17日 | 降誕節・復活節
イザヤ書11:1 エッサイの株からひとつの芽が出、その根からひとつの若枝が生え出て実を結ぶ。
 
エッサイとはイスラエルの王ダビデの父親の名です。つまり、王家の家系を示しています。そんな家系が切り株になってしまうという預言です。ダビデ王家はやがて没落し、ついにバビロン帝国の進撃のもとに滅亡します。つまり、切り株となったわけです。
 
しかし、神の激しい御怒りと共に、神の哀れみと慈しみも表されています。木を切り倒しても、切り株は残しておかれるからです。
 
神はダビデ王朝を根こそぎ抜いてしまわれたのではなく、切り倒されはしましたが、切り株を残されました。そして、イザヤによる預言は、その切り株から若枝が出てくるのだと語っているのです。
 
死んだような切り株ですが、神はそこからご自身の御業をはじめられます。そこから救い主キリストがお生まれになるとの預言です。そして遂に、クリスマスの時、ダビデ家の末裔としてお生まれになりました。
 
ですから、たとえ神の激しい御怒りの中にあっても、つまり、切り株のような状況の中からも、主は救いの御業をなさるのだと信じ期待するのです。主イエスも言われました。「神はこの石ころからでもアブラハムの子孫を興される」と……。
 
神の怒りは終着駅ではありません。神が成そうとしておられるご計画は、慰めと救いです。さらにイザヤはこう預言しています。
 
その日あなたは言う、『主よ、私はあなたに感謝します。あなたは、さきに私に向かって怒られたが、その怒りはやんで、私を慰められたからです。見よ、神はわが救である。私は信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからである』。(イザヤ12:1-2)
 
クリスマスに向けて、主が「ひとつの芽」を生えいだして、実を結ばせてくださることを期待して祈りましょう。(Ω)


降誕節01 《処女懐妊の預言》

2024年12月16日 | 降誕節・復活節
イザヤ7:14 見よ、乙女がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる
 
いよいよクリスマスです。10回にわたって、クリスマスに関連する御言をいただくことにします。
 
預言者イザヤはキリスト降誕の約700年前の人物です。彼は、やがて神がつかわされるキリスト(メシヤ)について預言しました。
 
ユダヤの国を攻撃するために、北のエフライムとアラム(スリヤ)が同盟を結びました。それを聞いたユダの王アハズの心も民の心も、風に吹かれる林の木々のように動揺しました(7:2)。そんな時に語られたのが、この預言です。
 
「この戦いは勝利するのだ」と神はいわれるのですが、人の目には圧倒的に不利な状況です。そこで、神は、その証拠となる「しるし」を求めよと言われました(7:10)。しかし、アハズ王は遠慮してしるしを求めませんでした。
 
皆さんならどんなしるしを求めますか。この時、神が啓示なさったしるしは、「乙女が身ごもって男の子を産む」というものでした。
 
えっ!国家存亡の危機を前に、生まれたばかりの男の子がしるしですか。いったいそれが何の役に立つというのですか……。そう言いたくなるようなしるしです。
 
もっと大きなしるしはないのですか。勇気がわいてくるような、インパクトのあるようなしるしです。だれもが納得できるようなしるしがほしいのです。
 
しかし、神は小さなしるしを見せてくださいます。「信仰のある者は見なさい」とでも言わんばりに、神のしるしは小さいのです。だから、「気をつけて、静かにして、恐れてはならない」のです(7:4)
 
主はちょっとしたことの中に、わたしは共にいるよというしるしを見せてくださっています。
 
乙女が身ごもった男の子はインマヌエルと呼ばれると言われていますが、インマヌエルとは「神が共におられる」という意味です。「神が私と共におられる」というしるしは小さなことに現されています。
 
信仰の目をもって、今日の一日を見るとき、「ああ、今日も主は共におられた」「インマヌエルだった」という感謝で終わることでしょう。
 
キリストがお生まれになった時も、人々は気づきませんでした。マリヤが身ごもったことを、人々は疑わしい目で見るだけで、神のすばらしい知らせだとは知りませんでした。しかし、こんな小さなことから神の御業が始まることに期待して祈りましょう。(Ω)