キリストが王として誕生されたことによって、3種類の人が登場しました。
①東方からの博士たち……何をおいても礼拝するために馳(は)せ参じる人々です。野の羊飼いたちもそうでした。
②ユダヤの聖書学者……彼らはキリストの生誕の地まで知りながら、何も行動を起こさない無関心派の人々です。
③ヘロデ王……彼は自分以外の王を認めませんでした。そこで、イエスを殺すためにその地方の幼児を虐殺しました。
多くの人々が「無関心派」です。キリストについて知識はあります。クリスマスがキリストの誕生を祝う日だと知っています。キリストが十字架にかかったことも知っています。でも、キリストを受け入れようとしません。
無関心とは、自分との関わりを否定する人です。キリストが十字架で死なれたことを知っていても、それが〝自分のためだ〟とを認めないのです。
ユダヤの律法学者たちほど、聖書に詳しい人は他にいません。特に彼らは王宮おかかえの学者ですから、ユダヤの国内の選りすぐりの学者であったはずです。しかし、どんなに豊富な知識も、自分との関わりがなければ空しい知識です。聖書の御言を自分のこととして受けてください。
たとえば、「神は御子をたまうほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)という御言は、「神は御子イエスを〝私に〟与えてくださるほどに、〝私を〟愛してくださった」と受け取ることです。
さて、ヘロデのように、自分を王とするタイプの人もいます。
あなたは誰を王としていますか?。「自分」が王になっていると、ヘロデ王のように反応します。自分を王とする人は自分以外の王を認めません。
ヘロデは自分の王座を守るために何でもした人物です。非常に猜疑心(さいぎしん)の強い人で、王座を危うくする者であれば妻や息子たちさえも粛正(しゅくせい)した王でした。そのために人々から、「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚であるほうが安心だ」とまで揶揄(やゆ)されました。ユダヤ人は豚を食べないから、豚であるほうが安全だという皮肉です。
私たちの心を点検してみましょう。ヘロデ王のようにキリストを殺そうとする心はないだろうか。あるいは、律法学者らのように無関心の心はないだろうか。結局はそのような心が、キリストを十字架につけてしまうのであり、それが私たちの罪です。
キリストは神の国の王として降誕されました。キリストを信じるとは、キリストを私の王としてお迎えすることです。
人類は歴史の中で、さまざまな王政を体験してきました。有能な王の治世は平和をもたらしますが、むしろ、そのような王はまれで、王制統治による悲惨な歴史が続きました。歴代の王たちも罪人に過ぎませんでした。
そこで、現代では、王制は象徴になって、民主主義による政治が一般的になりましたが、その民主主義も汚職と腐敗でいたる所にほころびが出てきました。民主主義という名の王も、堕落し、悪魔に豹変します。
地上には王にふさわしい人物も王制に代わる制度もないのです。キリストこそ私たちの王となるべきお方です。
「主なる神はイエスに王座をお与えになり、その支配は限りなく続く」(ルカ1:32)ようにご計画なさいました。そのような神の御国は、キリストを王として受け入れた私たちの中で実現します。(Ω)