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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

士師記 21章

2024年12月30日 | 士師記
士師記21・25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところを行った。

ベニヤミン族を完膚無(かんぷな)きまでにたたいてしまって、男子600人を残すのみとなった時、イスラエルの人々ははたと気づきました。このままではベニヤミン族は絶えてしまうと……。

このカナンの地は、神がイスラエルの各部族に嗣業として与えてくださったミッションではなかったのか。そんな使命を、憎しみのあまり失おうとしているのです。「我にかえって」とでもいうのでしょうか、人々はようやく本心に立ち返って、ことの重大さに気づいた次第です。

人の怒りは物事の解決には役立ちません。行き過ぎた報復を生みだし、果てしのない憎しみを増幅させることがほとんどです。

だから聖書は、「怒っても罪をおかしてはならない。怒ったままで翌日を迎えてはならない」と教えています(エペソ4・26)。なぜなら、人の怒りは神の義を全うできないからです(ヤコブ1・20)

さて、21章には、我に返ったイスラエルの人々が、ベニヤミン族を絶やさないために、嫁を提供することにしたことが記録されています。

士師記に記録された嫁さがしの方法は、「本当のこれでいいのか」と疑問に思います。人々は神に祈っているようですが、いけにえを献げて礼拝の形式をとってはいるのですが、主からの応答があったわけではありません。神の啓示を受けられずに、皆で協議した結果のことです。

皆で決めたから正しいのか。多数決で真理は見出せるのか。そんな問いかけが生じます。

そもそも、人々はベニヤミン族に自分たちの嫁はやらないという「妙な誓い」に捕らわれていました。この誓いそのものが墓穴を掘る結果になっているようにも思えます。この誓いに縛られているために、とんでもない解決策を導いたのです。

人間の誓いは信心深げに映るのですが、多くの場合、それに縛られるあまり主の御心を見失ってしまいます。あのエフタの誓いもそうだったではありませんか(士師11・31)。それよりは、自分が間違っていたら速やかに悔い改める大胆さの方が大切です。

さて、士師記が――特に17章以降――いわんとしていることは、この時代が混沌(こんとん)としている原因は、その頃、イスラエルに王がいなかったので、人々は各々自分の正しいと思うことをしていたからだと、繰り返し述べています(17・6、18・1、19・1、21・25)

私たちには〝正しい王〟が必要です。私たちを正しくさばき、導いてくださる王が必要です。絶対的な基準となる王が必要です。

まさしく、士師記はそのような王を待望する記録です。まことの王のいない人類がいかに愚かで、道を踏みはずす者であるかを表している書物です。

旧約聖書全体が、このまことの王の来臨を預言する書物です。

この後、イスラエルの歴史は人間の王を擁立して国を治める歴史へと続くわけですが、罪人である人間が王として治めることの限界を提示しています。

王は、神の預言者によって油を注がれて即位するのですが、その「油注ぎ」は、神によって立てられ、神の権威が与えられたことを表しています。

この「油を注がれた者」という語句が、ヘブル語で「メシヤ」、ギリシャ語で「キリスト」です。こうしてイスラエルの歴史は、メシヤ(キリスト)を待ち望む歴史として展開して行きます。

メシヤ待望の歴史はこれからまだ先が長いのですが、メシアなるまことの王を迎える道は確実に備えられて行きます。


士師記 20章

2024年12月28日 | 士師記
士師記20・47 しかし6百人の者は身をめぐらして荒野の方、リンモンの岩まで逃げて、4か月の間リンモンの岩に住んだ。

強姦の罪をおかしたベニヤミン族の町ギベア(ギブア)を征伐(せいばつ)するために、イスラエルの11部族は軍隊を集結させました。しかし、ギベアと同族のベニヤミン族の人々はこれに対抗したため、イスラエルは内戦状態に陥りました。


結果、11部族の連合軍はベニヤミン部族を徹底的に撃ったため、600人の男子を残すのみとなってしまいました。

このような戦争が必要だったのでしょうか。同じ神を信じる人々が、ここまで憎みあわなければならなかったのでしょうか。そこに、ゆるしと和解が生じる余地はなかったのでしょうか。

旧約の出来事は、新約聖書の光で照らして読まなければなりません。なぜなら、旧約の出来事は未完成な事柄ばかりだからです。イエス・キリストが来られるまで、真の解決はありません。

理屈では罪をおかした者はさばかれて当然です。律法は、罪人の行き着くところが「死」であると宣告します。ですから、旧約の出来事は「死」とか「さばき」が鮮烈に描かれています。

律法は論理的には正しいのですが、真理ではありません。筋の通ったことを主張していますが解決がありません。

真理はイエスにあります。解決はイエスにあります。「わたしが来たのは律法を完成するために来た」とイエスは言われましたが、それは「律法に完全なゆるしを与える」ことによって完成なさったのです。

律法それ自体は正しいものです。でも、正しいから真理なのではありません。正しくても、いのちを与えることができなければ真理ではありません。

律法はどんなに正しくても、いのちを与えることができません。ひたすら、私を罪人としてさばいて死を宣告するのです。イスラエルの人々がベニヤミン族を徹底的にたたいてしまった姿は、律法の結末を象徴する出来事と言えるでしょう。

イエスの十字架と復活だけが、正しいさばきとゆるしを与えてくれる唯一の道です。このイエス様の福音が真理です。律法ではなく、福音を与えられていることに大いに感謝しよう。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 20章 【聖書通読】
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士師記 19章

2024年12月27日 | 士師記
士師記19・19 何も欠けているものはありません。

ひきつづき醜態が記録されています。読んでいて心が痛みます。この物語の登場人物もまたレビ人です。17章~18章の記されたレビ人とは別人です。彼はひとりの女性を妾(めかけ)としていたと記しています(19・1)

このあたりからして歪んでいます。めかけですから、正式な結婚ではありません。夫婦関係が壊れてしまっています。

さて、ことの次第はこうです。めかけの女性との間にトラブルがあって、彼女は里帰りをしてしまった。よりを戻そうとレビ人は実家に迎えに行く。そこで、引き留める舅(しゅうと)のために5日間も滞在し、結局その日の午後遅くに女を連れて出発した。

そのため、連れて帰る途中、ベニヤミン族のギベアの町で一泊しなければならくなったが、その町の道徳は廃れていて、町の男たちは、レビ人のめかけを強姦して死に至らせてしまった。まるでソドムとゴモラの町のようです。神の選びの民がソドムとゴモラのように落ちぶれてしまったのです。

いみじくも、このレビ人はギベアの町に来たとき、宿泊を提供してくれる老人に、われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありませんと語ったのですが、「本当ですか?」と言いたくなります。 ※新共同訳「必要なものはすべてそろっています」。新改訳「足りないものは何もありません」。

足りないものがあるでしょ!。神が共におられないじゃないですか。レビ人さん!。愛が無いじゃないですか!。

愛がないから、そばめを持ちます。愛がないから、しゅうとは夕暮近くまで引き留め、危険な旅の原因をつくりました。愛がないから、ギベアの人々は旅人をもてなしません。愛がないから、レビ人は彼女をならず者たちに差し出しました。

大いに足りないものがあります。愛です。神が共におられることです。

イスラエルの中で霊的リーダーであるべきレビ人が塩味を失っています。カナンの地に神の民として置かれたはずのイスラエルが、神の御国の塩味を失っています。新約の民であるキリスト教会も同じであってはなりません。

このことに義憤をいだいたレビ人は、彼女の遺体を12に切り裂き、12部族の長老たちに送りつけました。このショッキングな出来事に、各部族の長老たちは、ことの収拾を話し合うために集まりました。

さあ、どうすべきでしょう。人々は、「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」(19・30)と言ったように、よく考えなければなりません。どこからずれてしまったのでしょうか。

イエスの御霊は、エペソの教会にメッセージを送られました。あなたはどこから落ちたのか思い起こしなさい。あなた方は初めの愛から離れてしまった(黙示録2・4~5)

そうです。どこからずれてしまったのか、思い起こしましょう。主イエスの愛の中にとどまっているだろうか。「わたしの愛の中にとどまっていなさい」と言われた主イエスの御言に立ち返ろう。イエス様の愛に立ち返ろう。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 19章 【聖書通読】
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士師記 18章

2024年12月14日 | 士師記
士師記18・19 彼らは言った、黙りなさい。あなたの手を口にあてて、我々と一緒にきて、我々のために父とも祭司ともなりなさい。ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか

ダン部族はまだ嗣業の地を獲得していませんでした。それを得るために戦いに向かう途中、前述のミカの家の宮で仕えている祭司と出会いました。

これから戦うにあたって、神の加護を祈ってくれる祭司が従軍してくれることは、彼らにとって心強かったのでしょう。だから、ダン部族の兵士たちは「我々と一緒に来い」と、半ば強制的に引っ張って行くことにしたのです。

その時のさそい文句が、ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいですかです。ひとりの家の祭司であるより、ダン部族専属の祭司の方が肩書きも立派でいいではないか。それに給料だってアップしますよというわけです。

イスラエルの民自身も堕落していますが、それ以上にレビ人たちの堕落が問題です。信仰的、霊的支柱となるはずのレビ族の腐敗が、イスラエルの民全体に暗い影を落としています。

そもそも、このレビ人の青年がミカの家の祭司となったこと自体が間違いです。ミカが与える給料に目がくらんだからです。始まりが間違っていれば、そのあとも歪みます。シャツの第一ボタンをかけ間違うと、最後までズレてしまうのと同じです。

それに、レビ人の青年の使命はどこに行ってしまったのでしょうか。すでに見てきたように、レビ人には土地としての嗣業ではなく、主なる神が嗣業であったはずではありませんか。

それなのに、身分や給料に目がくらんで、時の勢いに流されてしまうとは……。彼はレビ人としての嗣業、つまりミッションを見失っていました。だから、歩むべき道を見失ってしまったのです。

ミカの母親が偽りの神を鋳造しました。ミカは偽りの宮を建造し偽りの祭司を雇いました。そこにダン部族が登場し、偽りの出世を持ちかけ、偽りの預言をさせ、偽りの勝利を得ました。

神無き世界は、このような偽りの世界、虚構の世界を作り上げて行きます。この第18章の冒頭には、その頃イスラエルには王がなかったと記録されていますが、まさに、王として治められる神を見失った世界が描かれています。

祈りましょう。まことの王である神を見上げる真実な世界が来ますように。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 18章 【聖書通読】
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士師記 16章

2024年12月12日 | 士師記
士師記16・6 デリラはサムソンに言った、「あなたの大力(たいりき)はどこにあるのか、またどうすればあなたを縛って苦しめることができるか、どうぞ私に聞かせてください」。

サムソンは士師とはいえ、道徳的にはほめられたものではありません。遊女とつきあったり(16・1)、異邦人の女性デリラと同棲するなど(16・4)、問題の多い人です。

結局、このデリラがペリシテ人のスパイ役となって、サムソンの怪力の秘密を探ることになりました(16・5)

サムソンの怪力の秘密は、母の胎に身ごもるときに与えられた「神の約束」にありました。それは、サムソンが神によって選ばれた者である証拠に、頭髪を剃(そ)ってはならないというものでした(13・5)

頭髪を剃らないという約束を守っている限り、サムソンには神からの特別な力が与えられるのでした。

初めのうちは、愛人デリラにも秘密を教えませんでした。ところが、「それでもあなたは私を愛しているの?」と色仕掛けで泣き落とされると、サムソンもついにその秘密を明かしてしまいました(16・15~17)

サムソンは、自分の怪力の秘密に対して忠実ではありませんでした。その軽率さが身を滅ぼしてしまいました。サムソンは眠っている間に、デリラに髪を剃られ、その力を失ってしまったのです。あの長子の特権を軽んじて、煮物と引き替えたヤコブの兄エサウのように、神の約束を軽んじてはなりません。

では、クリスチャンの力の源泉はどこですか。

サムソンの怪力の源が神の約束にあったように、私たちの場合も、イエス・キリストとの約束にあります。私の肉の力は限界があり、肉の力で神の栄光を表すことはできません。

主イエスにある約束は、私たちの罪をゆるす約束であることはもちろんですが、そこで終わりではありません。主イエスは「約束の聖霊を受けよ」と言われたように、〝約束の聖霊〟こそ力の源泉です。

サムソンも約束のうちにある限りは ――だらしない点もありますが―― いざという時に聖霊が臨んで怪力を発揮できました。

私たちも、主イエスが十字架の血で立てられた約束を軽んじてはなりません。そして、〝約束の聖霊〟こそが、私たちの力の源泉であることを忘れてはなりません。これを忘れると力を失います。

サムソンはペリシテ人に捕らえられてみて、自分の力の源泉が神の約束にあったことを実感したはずです。それまでは、自分の怪力を当たり前のように思っているふしがあります。

捕らえられている間に、サムソンは神の約束を軽んじたことを悔い改めました。そしてサムソンは次のように祈ったのです。

ああ、主なる神よ、どうぞ私を覚えてください。ああ神よ、どうぞもう一度私を強くして、私の二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください。(16・28)

サムソンが祈ったという記録はここしかありません。ペリシテに捕らえられるまで、彼はあまり祈らなかったのではないかと思います。

力の源泉は神にあることを再確認したサムソンはようやく神に祈ったのです。

クリスチャンの力の源泉は〝約束の聖霊〟です。だからこう記されています。神の聖霊を悲しませてはいけない(エペソ4・30)。この聖霊の力が私にあふれるように、今日も祈ろう。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 16章 【聖書通読】
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士師記 17章

2024年12月12日 | 士師記
士師記17・12 ミカはレビびとであるこの若者を立てて自分の祭司としたので、彼はミカの家にいた。

第17章からは士師たちは登場しません。ただ、人々が各自の思いのままにふるまっている、混沌とした時代が描かれています。そこから学ぶべきことは何でしょうか。

17章ではエフライム部族の人でミカという男について記されています。彼の母は銀製の刻んだ像と鋳た像をこしらえ、ミカはそれを拝むために、自分勝手に宮神殿を用意したのです。

もちろんこれは神の憎まれることです。神は言われました。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。……それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(出エジ20・4~5)

ミカの行為は十戒に反することです。銀の像が何をかたどっていたのかは分かりませんが、おそらくカナンの地で拝まれていた異なる神々の像であったと思われます。

ミカはそれだけではなく、自家製の神殿で祭儀を司る祭司を募集したのです。そんなある日、旅の途中で出会ったレビ人の若者を引き留めて、祭司として雇いました。

ミカの行為は何もかも自分の都合にあわせたものです。神を拝みたいという宗教心はあるものの、自分中心の礼拝です。

新約のキリスト教会にも、これと似た自分中心の礼拝や信仰が紹介されています。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4・3~4) ※この手紙は、初代教会の熱心な時代から徐々に衰退や変質が見られる時代に移る頃に書かれた。士師記の時代とも重なるものがある。

私たちの信仰は、人間中心のものではなく、神中心です。このフォーカスをずらしてしまうと混乱を生じます。自分の都合に神をあわせるのではなく、神の御心に自分の都合を合わせるのです。

現代の世相はますます人間中心の世の中です。人々は自分中心に生きて行きます。キリスト教界にもその影響がおよんでいます。だからこそ、神の御言、神の御心に従う者でありたいと願います。

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士師記 15章

2024年12月11日 | 士師記
士師記15・11 そこでユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った、「ペリシテびとは我々の支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうして我々にこんな事をしたのですか」。

サムソンの戦いは単独行動であって、イスラエルの総意ではありませんでした。むしろ、事を荒立てずに穏便(おんびん)に済ませたいのが人々の考えでした。

ところが、サムソンによる一連の騒動のおかげで、ペリシテ人のイスラエル支配は厳しさを増してきました。そして、ついにペリシテ軍がイスラエルのユダ族に対して戦いを挑む事態になったのです(15・9)

そこでユダの人々はペリシテと一戦を交えるのではなく、むしろ事を荒立てないために、サムソンをペリシテ人に引き渡そうとやって来たのです。

その時の人々の言い分が何とも情けない。

ペリシテびとは我々の支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうして我々にこんな事をしたのですか」(15・11)。ユダの人々は、ペリシテの支配を前提にものを言っています。人々にはペリシテの支配が常識になっていたのです。

カナンの地は神から与えられた嗣業であるという気概はどこに行ってしまったのでしょうか。「長いものには巻かれろ」式に、目先の平和だけを考えているのでしょうか。

悪魔に支配されたこの地に、神の御国をもたらすために来られた主イエスは、地上につるぎを投げ込むために来たのであると言われたではありませんか(マタイ10・34)。

ペリシテの支配が常識になっていた人々には、サムソンは非常識な男です。常識的な人は非常識な人を ―― 正確には「超常識」ですが ――〝二重の綱〟で縛ってしまうのです(15・3)

罪と死による支配が常識だと思っている人にとって、罪に打ち勝つキリストの教えは非常識に見えます。日曜日は遊ぶ日だと思っている人には、主を礼拝するクリスチャンは変人に見えるでしょう。

〝世の常識という綱〟は、それから自由になろうとする者たちを縛るのです。どうか荒立あらだ)てないでくれ!。現状のままで構わないのだから……と。

さて、ユダの人々はサムソンを綱でしばってペリシテに引き渡すことで、穏便に済まそうとしました。しかし、ペリシテの手に渡されたサムソンに、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちたのです(15・14)

神の御業を綱で縛っておくことなどできません。イエス・キリストの福音を、世の常識に閉じ込めておくことなどできないのです。古い皮袋を破くようにして、新しい酒(福音)は膨らんで行きます。
 
この福音を信じる者には、主の聖霊が内に住まわれます。そして、様々な世の束縛の綱を聖霊の火は断ち切るのです。罪と死の支配という常識から自由になるために。まことの礼拝者として大胆に神の御前に行くために。

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士師記 14章

2024年12月10日 | 士師記
士師記14・4 彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。(新改訳)

成人したサムソンは、ペリシテ人の女性が気に入り、嫁にしたいと父母に相談しました。

イスラエルの律法では異教徒との婚姻は禁じられています。それは、イスラエルの民を異教の神々やその習慣から守るためでした。ですから、父と母はサムソンの結婚に反対でした。

ところが聖書は、父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかったと記しています。 ※口語訳では「サムソンが機会をねらっていた」と訳しているが、新改訳・新共同訳の翻訳を参照。


つまり、サムソンとペリシテの女性との婚姻を通して、ペリシテを撃つためのチャンスを、〝主が〟計画なさっていたというわけです。

士師記に記された士師たちは、卓越した人物ではありませんでした。欠点の多い人たちです。その点では、イエスの弟子たちも、そして私たちも同じです。

しかし、欠点と思われることさえも、主はご自身の御業のために用いられるのです

サムソンは女性に弱い人物で、このあとも女性問題で失敗します(15~16章)。サムソンがペリシテ人の女性を結婚相手に選んだことも、彼の弱さの現れです。好きになったら、突き進んでしまうタイプです。

ところが、その弱ささえも、神はペリシテ人を撃つための足掛かりとなさるのです。そのことが父母は分かりませんでした。このように、私たちには、神のなさることが分からない時があります。

すべてのことを相働かせて益とされる神に、私たちはもっとお任せしても良いのです。主よ、御心が成されますようにと祈りつつ……。

さて、サムソンは婚宴の席で謎かけを告げました。サムソンにしか分からない謎かけなのですから、無茶振りです。言いがかりをつけるようなものです。それは強引で非常識にも感じられます。

こうして、難解な謎かけを口実にペリシテとの戦いの火蓋(ひぶた)が切られました。こんな非常識なことでいいんですか……と疑問を抱いてしまいます。

そのためには当時の状況を考えてみなければなりません。イスラエルがペリシテ人に支配されるようになって40年が経過していました(13・1)

これまでも他民族支配がありましたが、その場合は8年とか18年といった期間でしたが、ペリシテによる支配は40年という長期間です。

イスラエルの人々はペリシテの支配になすすべがありませんでした。ペリシテの支配を前提に生活が成り立っており、できればペリシテ人との間にもめ事を起こさないようにしていました。

イスラエルの人々は、神から与えられた嗣業の地を治める使命を捨てて、ペリシテに飼い慣らされた犬のようです。骨抜き状態です。そんな長年の支配を打ち破るには、大胆な方法が必要でした。

40年も続いた現状を打ち壊すために、神は、女性に弱いサムソンを用いられたのです。無茶な謎かけをして喧嘩を売る破天荒なサムソンを用いられたのです。

主のご用にもちいられるのは真面目な人だという先入観がありませんか。だから、サムソンが士師として用いられることに驚くのです。でも、その常識を脇におくことにしよう。

40年にもわたるペリシテ人の支配を打ち破るために、破天荒なサムソンを用いられた神は、一向に前進しない日本宣教の壁を打ち砕くために、意外な人物を用いられるのかも知れません。主の方法に期待しよう。

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士師記 13章

2024年12月09日 | 士師記
士師記13・3 主の使がその女に現れて言った、「あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。

第12章からは、かの有名な士師サムソンの物語です。彼が誕生した頃のイスラエルは、またもや神の前に悪を行い堕落していました。そのため、40年にわたるペリシテ人による支配の下で、イスラエルは疲弊(ひへい)しきっていました。

その頃、ダン部族の出身でマノアという人がいましたが、彼の妻は不妊の女でした。この女性がのちにサムソンの母となるわけすが、ある日、主の使(つかい)が彼女に神の御言を告げたのです。

あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。(13・3)

神は、彼女が不妊の女であることをご存知です。彼女の〝今まで〟のことを承知の上で、「あなたは身ごもって男の子を産むのだ」と語ってくださいました。如何(いか)なる過去があっても、現在が如何なる境遇であっても、神の御言によって新しい世界が始まるのです。神の御言は、私たちを〝今まで〟から解放する力があります。

マノアの妻の〝今まで〟は、不妊の女という事実でした。そのような過去が、彼女を消極的にさせ、落ち込ませていたと思います。

同じように私たちも、新しく何かしようとか、前進しようとするとき、〝今まで〟のことが足を重くし、不安をかき立てます。二の足を踏ませるのです。しかし、そんな〝今まで〟から私たちを解放するのは神の御言です。

神の御言は、私たちの目を〝これから〟に向かせてくれます。マノアの妻の目を前に向けさせました。彼女は身ごもってサムソンを生みました。

神が私たちにご計画なさっていることは、「災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするもの」です(エレミヤ29・11)。神の御言によって〝今まで〟から解放されて、〝将来と希望〟に向かって目を向けようではありませんか。

さて、サムソンは成長しその活躍の原動力となったのが聖霊であることが記されています。主の霊は……彼を感動させた(13・25)とあります。新改訳では主の霊が揺り動かしたと訳されています。

眠っているのを起こすときに揺り動かします。聖霊は、私たちを揺り動かして霊的な眠りから起こしてくださるのです。逆に、聖霊の働きがなかったら私たちは眠ってしまいます。

このあと何度も、主の霊がサムソンを奮い立たせるという表現が出てきます。聖霊のお働きに期待しよう。

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士師記 12章

2024年12月07日 | 士師記
士師記12・1 エフライムの人々は集まってザポンに行き、エフタに言った、「なぜあなたは進んで行ってアンモンの人々と戦いながら、われわれを招いて一緒に行かせませんでしたか。われわれはあなたの家に火をつけてあなたを一緒に焼いてしまいます」。

イスラエルの内紛です。冒頭の聖句にあるように、エフライム部族の人々の憤慨はただならぬ様相です。

先のアンモン(アモン)人との戦いでは、士師エフタとギレアデの人々が活躍しました。ところが、エフライム部族は、自分たちが蔑(ないがし)ろにされたことで、怒りをあらわにしたのです。
 
「何だよ、水くさいじゃないか。声を掛けてくれれば、俺たちも一緒に戦ったのに」といった好意的な申し出ではありません。自分たちの部族こそ、イスラエルの中心部族であるという自尊心を傷つけられたことへの怒りです。

実は、以前にも、エフライム部族の人々は同様の反応を見せたことがあります。その時の様子を聖書は次のように記しています。

エフライムの人々はギデオンに向かい『あなたがミデアンびとと戦うために行かれたとき、われわれを呼ばれなかったが、どうしてそういうことをされたのですか』と言って激しく彼を責めた。(士師8・1)

この場合も、自分たちが戦いの中心から外されたことへの不満です。彼らの自尊心が傷つけられたことに対する反応です。

どうも、エフライム部族の人々は、自分たちが中心になっていないと気が済まない人々だったようです。それは肉なる自尊心です。それが、やがて後のイスラエル分裂への引き金となるのです。

彼らがそう考えるようになった要因があります。

かつて世界規模の食糧危機からイスラエル民族を救ったのはヨセフであり、その子孫がエフライム部族です。イスラエルをカナンの地に導いたヨシュアはエフライム部族の人です。エフライムの嗣業の地は、カナンのほぼ中央に位置していました。

また、イスラエルの信仰の拠り所である幕屋が設置された町シロも、エフライムの領地にあります。そのようなわけで、自分たちがイスラエルの中心的存在だという自負心があったのです。

さらに、士師の時代から王政へ移行する間に重要な働きをした預言者サムエルもまたエフライム部族の出身です。

このようなことが相い重なって、エフライムの優越意識というか、自己中心性といったものが養われたのではないかと思われます。

さらに後の時代になって、ソロモン王の死後、イスラエル王国は南北に分裂するのですが、その時、ダビデ王朝に反対して立ち上がり、北王国を率いたヤラベアムもエフライム部族の人です。

そんな悲しい歴史への萌芽が、士師の時代にすでに芽生えていました。

自分が中心でないと気が済まないという感覚を、十字架につけて葬らなければなりません。自分中心という自我……これが肉の感覚です。

イエス様は「日々おのが十字架を背負って従って来なさい」と命じられましたが、この肉の感覚を日毎に十字架につけて従うのです。これを放置しておくと、エフライムの人々のように、後になって悲しみを刈り取るようになります。

祈りましょう。自己中心の思いを今日も十字架で葬ります。主よ、私たちが肉によらず、御霊によって歩むことができますように導いてください。

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士師記 11章

2024年12月06日 | 士師記
士師記11・31 私がアンモンの人々に勝って帰るときに、私の家の戸口から出てきて、私を迎えるものは誰でも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう。

次に士師として用いられたのはギレアデの子エフタです。

エフタは、父ギレアデが遊女との間に生んだ子であったため、親族から疎遠にされて育ったようです。そのような生育環境が影響したのでしょう。エフタはやくざ者たちと徒党を組み、略奪を常とする人物でした。所謂(いわゆる)やくざの親分です。

主なる神は、いろんな人を用いられます。士師記を読んでいると、くり返される人々のあやまちに悲しい思いもするのですが、一方で、臆病者のギデオンや、やくざ者のエフタをお用いになる主の御業に感動を覚えます。

士師と呼ばれる人たちは、不完全で失敗の多い人たちでした。でも、そんな罪深い人間を用いてプラスに変えることのできる神を賛美しようではありませんか。私たちの主は、マイナスを益に変えることのできる神です。弱さを恵みに変えてしまいます。

さて、イスラエルを悩ましていたアンモン(アモン)人と戦うにあたって、エフタはひとつの誓願を立てました。

主が勝利を与えて下さるなら、私を最初に迎えに出てくる者を燔祭(全焼のいけにえ)として捧げると約束したのです。このような誓いは、共に闘う仲間たちの心を鼓舞したのですが、はたして神の御心にかなったことなのでしょうか。

結果としては、凱旋(がいせん)するエフタを迎え出たのは、彼の愛するひとり娘でした。エフタは嘆きながらも、神に誓ったことを撤回できないと考え、ついにひとり娘を全焼のいけにえとしてささげたのです。何と悲惨なことでしょうか。

エフタと同じように、ひとり息子をささげた人物がいます。それは信仰の父祖アブラハムです。父祖アブラハムの場合、息子イサクを殺そうとするその時、神は介入なさって、身代わりの小羊を用意してくださいました。そもそも、息子を捧げよと命じたのは神ご自身でありました。

しかし、娘をささげるエフタの場合、神は沈黙してこの悲惨な行為に対して介入なさいませんでした。何故でしょうか。

アブラハムは、「ひとり子をささげよ」という神の御言に従順した結果であったの対して、エフタは自分の肉なる熱心さから出たことでした。御言に従順する熱心さと、自分の考えから来る熱心さとは区別しなければなりません。

御言に従順する熱心さから来る犠牲は、痛みの中にも神の栄光があります。イエス様の十字架は御言への従順ゆえの苦難であり、その結果は、復活という栄光につながりました。

しかし、自分の肉なる熱心さから来る犠牲は悲愴感がただよいます。エフタの誓願とそれにともなう悲しみは、まことに残念なことですが、私たちに御言への従順の大切さを教えてくれています。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 11章 【聖書通読】
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士師記 10章

2024年12月05日 | 士師記
 士師記10・16 彼らは自分たちの内から異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。

アビメレクの一件も落着した後、神は、トラとヤイルを士師として召して用いられました。しかし、彼らの死後、残念なことに再びイスラエルの人々は偶像礼拝に落ちて行きました。

「イスラエルの人々は再び主の前に悪を行い、バアルとアシタロテおよびスリヤの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕え、主を捨ててこれに仕えなかった。」(10・6)

〝主を捨てて〟という表現が示すように、偶像礼拝とは真の神である主を捨てる行為に等しいのです。そして、それは人としての本分を失った根本的な罪です。これを私は〝根っ子の罪〟と呼んでいます。

この根本的な罪から「盗み」「殺人」「姦淫」「偽証」といった枝葉の罪が生じます。そういう意味で根っ子の罪(原罪)です。

「盗んではいけません」とか、「隣人に親切にしましょう」といったスローガンや道徳で、この人間の〝根っ子の罪〟を引き抜くことなど不可能です。

それを証明するかのように、イスラエルの人々は、神である主から何度も離れて悪を重ねてしまいます。ここまで来れば、「いい加減にしろよ!」と言いたいところです。まさに主はそう言われました。

あなた方はわたしを捨てて、他の神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなた方を救わない(10・13)。何という厳しい御言でしょうか。

ところが、再びイスラエルの人々は悔い改めました。何度も罪をおかしながら、何度でも悔い改めるイスラエルの姿は見上げたものです。

もう駄目だ!という所まで来たとしても、私たちのできることは悔い改めることです。こんなに何度も何度も悔い改め、その都度ゆるしをいただくなんて虫が良すぎると思っても、なおも悔い改めることです。私たちに最後にできることは悔い改めしかないのですから。

みじめで格好悪くても、神の御前では恥にはなりません。それは人の目には恥ずかしいことでも、神の御前では喜ばれることです。

主はそのようにして、何度でも悔い改める民を見て、イスラエルの悩みを見るに忍びなく感じられる神であられます。

あなたを救わないと言われた神の峻厳と、見るに忍びなくなったと言われる神の慈愛がここにあります。このような神に、私たちは誠実であるべきです。まさに神の慈愛と峻厳とを見よです(ローマ11・22)

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士師記 9章

2024年12月04日 | 士師記
士師記9・56 このように神はアビメレクがその兄弟七十人を殺して、自分の父に対して犯した悪に報いられた。

エルバアルと呼ばれたギデオンには70人の子供の他に、女奴隷の子アビメレクがいました。

先のミデアン人との戦いに勝利した以後、ギデオンの生き様はどのようなものであったのでしょうか。子供の数からしても分かるように、多くの妻をめとり、その生活におごりが感じられます。

彼が作った「金のエポデ」に象徴されるように、ミデアン人との戦いの勝利が、神への礼拝と謙遜にいたるのではなく、次なる支配者を巡って権力争いへと展開して行きました。

アビメレクは異母兄弟の69人を殺害し、実母の出身地であるシケムの人々の支持を得て王となりました。さらに、ギデオンの子で生き残りのヨタムが反対したので、その同調者千人を焼き殺しました。

イスラエルは神の民であるはずなのに、このような悪が入り込むとは何ということでしょうか。

偶像礼拝という罪の根が抜かれないまま、それが苦(にが)い根となって人々を苦しめます。イスラエルはその根を抜ききらないまま進んで行きます。

士師記は、罪の根を残したままの人間の混沌(こんとん)とした姿を描いています。それは、旧約聖書のテーマでもあります。

人間の根本的な罪……、それは神を認めない罪です。神への礼拝を捨て、偶像を拝む人間の罪です。裏をかえせば自らを神とする罪です。これが〝根っ子の罪〟です。神学用語では原罪(げんざい)と呼びます。

でも、主はそれをいつまでも放っておかれません。

悪を重ねたアビメレクが名もない女が落としたひき臼の石で殺されたのは、神がアビメレクの罪に報われたのだと記されているように、神は罪を放っておかれません。

そのように、神は人類の根っ子の罪を放っておかれません。それを、完全に引き抜いてくださる時が来ます。御子イエスの十字架の死による解決です。

十字架の死によって罪が滅ぼされるまで、なお時を待たなければなりませんが、士師記の著者は、神による報いにる解決に希望を託しながら、アビメレクの記録を残したのです。

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士師記 8章

2024年12月03日 | 士師記
士師記8・27 ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって罠となった。

先のミデアン人との戦いで、ギデオンは大勝利をおさめたので、イスラエルの人々はギデオンを王として擁立しようとしました。

「あなたはミデアンの手から我々を救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫も我々を治めてください。」(8・22)

人々から担ぎ上げられると魔がさすものです。いい気になってしまいます。浮き足立ってしまいます。そのような事で失敗する人が多いのです。

そんな時、自分がひれ伏すべき神を知っている人は幸いです。礼拝すべき神を知る人は、謙遜という名の砦(とりで)を持つ人です。

かろうじて、ギデオンはこの誘惑をいなすことができました。

私はあなた方を治めることはいたしません。また私の子もあなた方を治めてはなりません。主があなた方を治められます。(8・23)

そのとおりです。私たちの王となるべきお方は、主なる神以外に居ません。神の御国は、神が王となって支配なさる国です。

「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」といいますが、勝利のあとに誘惑があります。成功のあとに油断が生じます。それは、自分が王となる誘惑です。自分が栄光を受けようとする誘惑です。

だから、私たちは礼拝を第一にするのです。礼拝を通して、栄光が神にあることを告白し、神の御前にひざをかがめるのです。

ところがギデオンの心に隙間が生じました。

ギデオンはまた彼らに言った、私はあなた方に一つの願いがあります。あなた方のぶんどった耳輪をめいめい私に下さい』。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。(8・24)

もちろん、それくらいのことならお安いご用ですと言わんばかりに、人々は金の耳輪を集めたところ約20㎏の金になりました。

そこで、ギデオンは今回の勝利を記念して金のエポデを作ったのです。エポデとは祭司服のことで、それを金で鋳造して作ったのです。

しかし聖書は、このことがギデオンとその家の者にとって罠(わな)となったと記しています。

勝利を神に感謝し、神に目を向けるべき記念のエポデが、人々の御利益(ごりやく)の対象となって行ったのです。自分もギデオンの成功にあやかろうとエポデを崇拝する人々がでてきました。こうして金のエポデは霊的姦淫をおかす原因となりました。

せっかくの勝利の証しが、後生にゆがんで伝えられるようになってしまいました。

どんなにすばらしい証しでも、それが自慢話になってしまうのか、それとも、勝利を与えてくださった神への感謝と謙遜へと導かれるのか……。これは大きな違いです。信仰の体験談が〝金のエポデ〟になってしまわないように、主に栄光を帰すよう絶えず心がけねばなりません。

それを考えれば、ギデオンはこのようなモニュメント作るべきではありませんでした。いつしか、勝利が自分の栄光になってしまうような証しのモニュメントは不要です。

私たちが目指すべき事は、神への礼拝と謙遜です。この軸をずらしてはなりません。

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士師記 7章

2024年12月02日 | 士師記
士師記7・2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い」。

ミデアン人と戦うためにギデオンのもとに集結した人々の数は、3万2千人の大軍団となりました。多くの兵士が志願してくれたことで、ギデオンは勇気を得たことでしょう。

ところが、神は多すぎると言われるのです。

その理由が興味深いことです。イスラエルは主に向かって自らを誇り、自分自身の手で自分を救ったのだと言うからです(7・2)

私たちが神の御前で学ぶべき大切なレッスンは、神への礼拝と謙遜です。これは人としての本分であり、基本中の基本です。

神は、神の御国をお建てになるにあたって、国の体裁よりもまず最初に、国民である私たちの内面を建て上げられます。それは、神への礼拝と謙遜を、人々の中に徹底させることです。これを失うならサタンと同じ轍(わだち)を踏むことになります。

ですから、イスラエルが、兵士の数の多さゆえに勝利したことで高慢にならないように、神は兵士の数を減らせと言われたのです。

そこで、戦いを恐れる者は帰れと伝えると、なんと2万2千人が帰ってしまいました。残ったのは1万人です。帰って行った彼らはいったい何だったのですか。あの人が行くから自分も行かなくてはと他者(ひと)を見て、見栄(みえ)で加勢した人々です。人ではなく神を見上げる人材が必要です。

この結果、ギデオンは急に心細くなったことでしょう。人の感覚では、数が減ることは心もとないことであり、逆に数が増えることは頼もしく感じるものです。それが、肉の感覚です。

人は霊的存在であるのに、罪によって霊的な感覚が麻痺(まひ)しています。霊的な感覚が麻痺しているので、神を正しく礼拝できませんし、自分を霊的に活かす道を選び取ることができません。

アダムが罪をおかして以来、人類は肉の感覚で生きてきたのです。

肉の感覚は、神を礼拝するよりも、肉体を喜ばせようとします。肉の感覚は、見えない神よりも、見える世界を優先しようとします。肉の感覚は、霊的な自分を愛することができません。

肉の感覚は、数が多ければ大丈夫だと思い、数の多さを自慢します。そして、持っている武器がすごければ大丈夫だと思い、肉の力を誇ろうとします。

このような肉の感覚が神を拒絶し、謙遜を失い、礼拝をおろそかにします。

主なる神は、私たちがこのような肉の感覚にとらわれていることを、よくご存知です。肉の感覚が邪魔をして、神の栄光を見ることができないでいることも、よくご存知です。

だから、3万2千人は多すぎる。減らしなさいと言われるのです。

私たちは人数が多い方が良いと思います。あれもこれもあれば良いと思います。しかし、数の問題ではありません。信仰の問題です。霊的な問題です。

どんなに数があっても、それが肉の力であれば、神の働きを妨げます。だから、私たちの肉の力を減らすように、神は導かれます。私たちの肉の感覚を打ち砕くように、神は導かれます。

こうして、肉の力が多い時、それは多すぎると主は指摘なさいます。減らそうと働かれます。

イエス様を喜ばせようと、マルタは接待のことで一生懸命でした。でも、それは彼女の肉の力でした。肉の力でやっていると、人と比較したり、うまく行かないとイライラします。

だから、マルタは腹を立ててイエスに言いました。「妹のマリヤにも接待を手伝うように言って下さい」。その時、イエスは言われました。「無くてならぬものはそう多くはない」と。

そうです。無くてならぬものは信仰です。マリヤがイエスの膝元で御言に聞き入ったように、神の御言に聞き従う信仰です。

それなのに、私たちは、肉の力であれもこれもと、多くを成そうとしています。数を増やそうとしています。でも、その結果は、やがて自分を誇り、少ない人や、やらない人を批判するようになります。

それでは、神への礼拝が生まれてきません。神の御前での謙遜を失ってしまいます。だから、主は言われるのです。「多すぎる」と。

つまり、肉の力が多すぎるのです。

ギデオンは神の御言に従って、結局は300人に減らしました。そして、300人でいなごのような大軍に打ち勝つことができました。

祈りましょう。肉の力が減ることに対する恐れから解放してください。そして、信仰による勝利を信じる勇気を与えて下さい。

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