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朝マナ

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エゼキエル書 13章

2022年12月31日 | エゼキエル書
エゼキエル書 13章
わたしはまたあなた方の、かぶり物を裂き、わが民をあなた方の手から救う。彼らは再びあなた方の獲物とはならない。そしてあなた方はわたしが主であることを知るようになる。
(13・21)


エゼキエルはエルサレムの滅亡を預言したのですが、他の自称預言者たちは逆のことを語りました。エルサレムは神の聖なる都であって滅びることはない。安心せよ。捕囚となった人々は早期に解放される。捕囚とならずにすんだ我々は、特別な恩恵を受けた選ばれし者たちだ……と。

しかし、神は、そのような預言者を遣わした覚えがないと言われます。彼らは勝手におもむくままを語り、主の御告げだと言ってる。そのような偽預言者をエルサレムと共に滅ぼしてしまうというのです。

彼らについて神はこう言われました。彼らは虚偽を言い、偽りを占った。彼らは主が彼らをつかわさないのに『主が言われる』と言い、なおその言葉の成就することを期待する。(13・6)

しかし、人々は、エゼキエルが語る預言よりも偽預言者の言葉を歓迎しました。人は自分の都合の良い言葉を聞きたいものです。偽預言者たちの言葉は人々の耳には心地よく、その心をとらえたのです。

新約の時代にも同じことが起きます。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4・3~4)

都合の良い言葉を求める民にも問題がありますが、それ以上に霊的リーダーたちに問題があると、神は指摘なさっています。今日の13章は、偽預言者……つまり偽りの霊的リーダーの問題を指摘しています。

彼らには大きな壁のような問題があるのに、それにしっくいを塗って美しく飾って、あたかも問題など存在しないかのように偽りを語りました。

そのことを神は、彼らはわが民を惑わし、平和がないのに『平和』と言い、また民が塀を築く時、これらの預言者たちは水しっくいをもってこれを塗ると指摘なさっています(13・10)

でも、そんな上辺だけのしっくいは神の御手によって剥がれ落ちてしまうのだと言われます(13・11~16)。化けの皮はやがて剥がれるのです。

また、偽のリーダーたちは、かぶり物を被せるようにして、人々の心の目を覆(おお)ってしまいます(13・18)。ベールが覆ってしまうので、真実を見ようとしません。真理が分からなくなってしまいます。ベールを被せて人々を罠にかけるというのです(新改訳)

新約でもこう言われています。「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリ4・4)

「この世の神」とは悪魔とか悪霊のことです。彼らが発信する偽りの預言や惑わしの言葉が、心に覆いをかけて真理を見えなくするのです。

しかし、それを取り除く方法があります。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです(Ⅱコリ3・16)

旧約の時代も新約の時代も、霊的リーダーたちの責任は重大です。キリストにしっかりと目を向けるように語らなければなりません。また、民はリーダーたちのために祈らなければなりません。彼らが、神の言葉を正しく語ることができるように……と。

なぜ、民は偽預言者にだまされてしまうのですか。それは「聖書を読まないから」です。旧約の民は、聖書を手にできる時代ではなかったのですが、今や聖書を手にできる時代です。

聖書を通して、私の目をくらましている「かぶり物(ベール)」を取り除こう。神の真理のあらわれであるイエス・キリストに目を向けよう。そのようにして救いを得よと、冒頭の聖句は告げているのです。

わたしはまたあなた方の、かぶり物を裂き、わが民をあなた方の手から救う。彼らは再びあなた方の獲物とはならない。そしてあなた方はわたしが主であることを知るようになる。」 ※旧約でも新約でも〝偽預言者〟が民をミスリードしてる。偽りの霊的リーダーたちである。黙示録の患難期には、偽預言者と呼ばれる「地からの獣」が大いに民を惑わし悪魔礼拝を主導する。警戒しなければならない。

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エゼキエル書 12章

2022年12月30日 | エゼキエル書
エゼキエル書 12章
人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である。
(12・2)


「バビロンへ捕囚となった人々の中で、神は彼らの聖所となられる」という預言を、エゼキエルは捕囚の民に語りました(11・25)。しかし、捕囚の民がみな、神の御言を受け入れたかといえば、そうではありませんでした。神がおっしゃるには、「彼らは反逆の家だ」と言われるのです。

どんなに素晴らしい御言が語られても、それを受け取らない人々がいます。彼らは見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしないのです。

見る目があったら見えるはずです。聞く耳があったら聞こえるはずです。でも、見えないし、聞こえません。何故ですか。

それは「反逆の家」だからです。心の中が「反逆の家」となっているからです。聴覚や視覚は正常でも、それを認識する心が病んでいるのです。心が反逆していたら、聞こえているのに真意が聞こえません。見ているのに、真実が見えません。

人間関係も同じです。嫌いな人のことは、彼に素晴らしい所があっても、それが見えません。むしろ、あら探しをします。気にくわない人の言うことは、どんなに素晴らしいことを語っていても、彼の言葉を聞くことができません。裏があるに違いないと、疑いの耳で聞こうとします。

それは、心に反逆があるからです。

神は、バビロンという奴隷の地で、民の心を造りかえ、新しい霊をそそぎ、彼らの心から石のような固い心を取り除き、柔らかい心を与えようとご計画なさっています。

しかし、人々の関心事は、神の深いお取り扱いよりは、目先の問題解決でした。捕囚の早期解決、祖国復帰、祖国の平和を語る偽預言者たちの言葉の方が魅力的でした。

そんなわけで、彼らの心は「反逆の家」となっていました。しかし、そのような中からも、心砕かれ、へりくだる人々が育ってきます。私たちの心の中はどのようでしょうか。

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エゼキエル書 11章

2022年12月29日 | エゼキエル書
エゼキエル書 11章
主なる神はこう言われる。たとい、わたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる。
(11・16)


かつてエレミヤを通して預言された神の御言を思い起こして頂きたいのですが、それは「バビロンの奴隷となってバビロンに仕えよ。そうするなら、いのちを得るのだ」というものでした。

バビロンに屈することが、なぜいのちを得ることになるのでしょうか。
 
真意はこうです。神が、バビロンを用いてエルサレムを撃たれるのであって、バビロンに屈して奴隷となることは、すなわち、神の御手の下に降伏することであるから、その結果、神の御手の中でいのちを得るのです。

逆に、エルサレムに籠城してバビロンと戦い続けることは、悔い改めを迫る神に対して敵対することを意味するのであって、その結果は滅びです。

そして、ついにバビロン軍に包囲され、エホヤキン王をはじめ一部の民は奴隷としてバビロンへ連れて行かれました。この民の中にエゼキエルも含まれていました。第1回目のバビロン捕囚です。

この時点では一部の民が捕囚となっただけで、エルサレムの町も神殿も無傷でした。そこで、エルサレムにとどまった人々は、自分たちは助かったのだ。神のご加護があったのだと考えました。

家を建てるにはまだ期間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ(11・3)と言っているのは、エルサレムにとどまった人々です。

彼らはこう考えたのです。これで、エルサレムの平和は保たれた。だから、ゆっくり家を建てればよい。わが町は鍋のように鉄壁の町だ。捕囚となった者たちは運が悪かったのだ。捕囚となった者たちは、肉にたとえるなら、食べることのできない「骨」の部分だ。われらは旨味のある「肉」の部分であって、良い者が残されたのだと高ぶったのです。

しかし、神の見解はまったく逆でした。エルサレムとその住民は滅ぼされるのです。逆に、彼らがあざ笑った捕囚の民の中に、神は、聖所となって共に住まわれると言われるのです。

捕囚となった人々は、自分の不運を嘆きました。自分は神に見捨てられて、こんな遠くの異国にまで追いやられててしまったと考えたのです。

しかし、それは、神の恵み深い取り扱いでした。彼らはバビロンの地で、神の力強い御手のもとで、へりくだりと従順を学ぶのです。そのような民の中に、神は、彼らの聖所となって共に住むのだと言ってくださるのです。

表向きだけ立派な神殿、形式的な礼拝儀式がくり返されていたエルサレムの神殿からは、神の栄光は去って行きました(10章)。しかし、貧しくつらい環境ではありましたが、へりくだった民の中に神は共に住まわれて、その栄光をお顕わしになるのです。

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エゼキエル書 10章

2022年12月28日 | エゼキエル書
エゼキエル書 10章
時に主の栄光が宮
(神殿)の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。(10・18)


次にエゼキエルが見た幻は、先のケバル川のほとりで見た「生きもののようなもの」の再登場です。これはケルビムと呼ばれる天使であって、神のご性質を顕わす存在です。 ※ケルビムについては第1章の「朝マナ」を参照。「ケルブ」は単数形、「ケルビム」はその複数形。

神は如何(いか)に栄光に富んだお方でしょうか。その栄光の輝きは私たち人間には想像できないほどのものです。その一端をあらわすかのようにケルビムはえがかれています。

神の「栄光」は光ではありますが、電気による人工の光でもなく、天然の太陽のような光でもなく、衰えることも萎(しぼ)むこともない永遠の輝きです。太陽の輝きは、神の栄光の素晴らしさを、ほんのわずかに見せてくれているにすぎません。

その栄光はケルビムによって表現され、実際にはエルサレム神殿にあらわれていました。神殿本来の輝きはどれほどに眩(まばゆ)いものであったことでしょう。しかし、その神殿を汚したために、とうとう、〝その栄光がエルサレム神殿から去って行く〟という幻をエゼキエルは見たのです(10・18)

エルサレムの人々は、この町には神殿があり、神の住まわれる町が滅ぼされるはずがないと高ぶっていましたが、すでに栄光が去ってしまったことに気づいていませんでした。

でも相変わらず、神殿で物の売り買いをする人々で賑(にぎ)わっていたことでしょう。でも、そんなことが栄光ではありません。黄金で造られた調度品が神殿に華やかさを演出していたことでしょう。しかし、そんな地上の金銀が栄光なのでもありません。

神の栄光は、人間の目には見えるときもあれば、見えないときもあります。私たちの霊の感覚が開いていないと見ることができません。だから、肉なる人間には、地上の富や地位や名誉のことが栄光だと感じます。そうではありません。本当の栄光とは、神が共に居られることです。

神は、ウルの町から出て生涯を旅人として生きたアブラハムと共に居られ、彼の上に栄光を顕(あら)わされました。土地もなく、生涯天幕暮らしのアブラハムに……です。傍目(はため)にはみすぼらしい遊牧民です。

また、神は、あのエジプトに奴隷として売られた惨めなヨセフと共に居られて、彼の人生に栄光を顕わされました。兄弟たちに裏切られ、人生のどん底を味わったヨセフに……です。

また、神は、奴隷の地から出エジプトしたイスラエルの民と共に住まわれ、その栄光を顕わされました。夜は火の柱、昼は雲の柱をもって顕わされました。どの国民より弱く、まだ何の土地も得ていないイスラエルに、神は栄光を顕わされました。端(はた)から見れば荒野を放浪する「みすぼらしい民に栄光を顕われました。

そして、ついに、神の御子イエスを通して、神はご自身の栄光を完全に顕(あら)わされました。旧約の時代は御使たち(天使)を通して顕わされましたが、終わりの時代には御子を通して顕わされました。

しかし、御子によって顕わされた栄光は、肉なる人間の目には見えませんでした。ですから、人々にはみすぼらしく映りました。田舎出身の大工のせがれとしか見えませんでした。

そんな中で、イエスの栄光が分かる存在がいました。それは、悪魔や悪霊たちでした。だから、彼らは御子イエスを見るや恐れ、震えおののきました。闇の存在にとっては、御子が栄光に輝いておられるのが分かったからです。

この御子であるイエス・キリストは、私たちの救い主です。私たちと共に居られる神です。ですから、私たちも、御子の栄光をもって輝くようにされました。

私たちが地上的に成功したから、それが栄光になるわけではありません。たとい全世界を得るほどの成功であっても、神が共に居られなければ、それがどれほどの栄光でしょうか。

逆に、たとえ、私たちが名もない平凡な人生であっても、私たちの心は、神を愛し、神だけを礼拝し、神への謙遜と従順があるなら、それは眩(まばゆ)いばかりの栄光です。闇は打ち砕かれ、地上のどんな世俗の栄光をも、太陽の前の蝋燭(ろうそく)のようです。

天の父よ、御子イエスが人の子として栄光をあらわされたように、どうか、私たちを通してもあらわしてください。

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エゼキエル書 9章

2022年12月17日 | エゼキエル書
エゼキエル書 9章
町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ。(9・4)
 
先の第8章では、数々の偶像や偶像崇拝で汚れていたエルサレム神殿の様子が描かれていました。
 
あなたは、そのような様子を見聞きして嘆き悲しんだでしょうか。また、自分自身の中もそのような要素があることを知って恐れを感じたしょうか。エルサレムの町にも、それを嘆き悲しみ、真の礼拝が回復するようにと祈る人々がいました。神は、そのような小さな存在をお忘れになっていません。
 
そこで、神は、その人々の額にしるしをつけるようにと御使に命じました。 ※腰に墨つぼをもった者とは天使である。
 
堕落し汚れてしまったエルサレムを滅ぼすにあたって、神は、現状を嘆き悲しむ者たちを一緒に滅ぼすことのないように、〝しるし〟をお付けになるのです。こうして、真実な礼拝者は守られるのです(9・6)。 ※かつての出エジプトの時は、身代わりの小羊の血を家の門柱に塗ってしるしとした。黙示録でも守るべき聖徒らの額にしるしをつけると預言されている。
 
今の世界も、さばきと滅びを目前にひかえたエルサレムの様相を呈(てい)しています。そんな世界の惨状を目の当たりにして、悲しみつつも、この世界がきよめられますようにと祈るのはだれですか。主イエスを信じる者たちではありませんか。
 
いつの時代にも、キリストにある者たちは天国人としての味付けを失わずに、世に、光と塩をもたらす存在です。それが、時流に抗(あらが)うことになってしまっても……です。
 
そのために、神は私たちにしるしをつけてくださっています。それは聖霊の証印です。あなた方はあがないの日のために、聖霊の証印を受けたのであるとあるとおりです(エペソ4・30)
 
世にあって天国の塩味を保つことは、困難なことです。しかし、その塩味が消されないようにと、主は守ってくださいます。主の御守りを信頼して、世の光、地の塩として生きよう。
 
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エゼキエル書 8章

2022年12月16日 | エゼキエル書
エゼキエル書 8章
彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。(8・17)
 
エゼキエルは再び幻を見ました。日付は「第6年の6月5日」とありますが、エホヤキン王をはじめエゼキエル自身が捕囚としてバビロンへ連れてこられてから6年目であろうと思われます。  ※この時点ではエルサレム神殿は破壊されていないが、まもなく、バビロン軍によって神殿も町も破壊されてしまう。
 
幻によって、エゼキエルは、バビロンから遠く離れたエルサレムの神殿を見させられました。それは、偶像で満ちた悲惨な現状でした。神はそのことを「悪しき憎むべきこと」だと言われます。「悪い忌み嫌うべきこと」(新改訳)です。3つのことが指摘されています。
 
①偽りの神々の像が神殿におかれ、壁面には獣や偶像が彫刻されている(10)
 
②タンムズ神のための「泣きの儀式」をする人々がいる(14) ※タンムズとは幼なくして死んで生き返った息子を抱いている母親像。
 
③太陽を拝む人々がいる(16)
 
16節に記された人々は、せっかく神殿に来ていながら、「主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた」というのです。滑稽な姿ではありますが、せっかく教会に集いながら、イエス・キリスト以外の事がらに心を捕らわれている姿にも似ています。
 
神は、このような神殿の状況を「大いなる憎むべきこと」「忌み嫌うべきこと」だと言われます。
 
でも人々にとっては、そんなに悪いことには思えませんでした。だから神は、それは軽いことだろうかと問い詰めておられるのです(17)。新改訳ではささいなことだろうか」。
 
教会の礼拝堂に仏像が置かれていたら、それは些細(ささい)なことですか。礼拝に来ながら、東の窓の方を向いて太陽を拝むことは軽いことですか。新約のクリスチャンにとっては、とてもおかしなことです。忌み嫌うべきことです。これが、私の内に住まわれる聖霊の感覚です。聖霊がそれを感じさせてくださいます。
 
ただ、エゼキエルの時代の人々には、些細なことだと思えたのです。だから、エゼキエル書では新しい霊を注ぐ時代が来ると預言するのです。
 
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エゼキエル書 7章

2022年12月15日 | エゼキエル書
エゼキエル書 7章
あなた方はわたしが主であることを知るようになる。(7・4)
 
主イエスは「目を覚ましていなさい」と度々命じられました。何故なら、終わりがやって来るからです。神のさばきの時です。罪に対しては刑罰をもって報い、善に対しては栄光をもって報われる時です。
 
だから、目を覚ましているべきです。もちろん、肉体の目ではありません。霊魂の目を覚ましていなさいという意味です。それは、神のさばきがあることを忘れないで生きることです。
 
今日の第7章には、何度も「仕返しをする」「報いる」「罰する」という語句がくり返されています。いずれも神がなさることです。神の主権でこれらのことはなされます。
 
「今」だけを見ていると、何をしようと、どう生きようと、すべてが自由のように感じます。その結果を考えようともしないし、その結果など存在しないかのようです。
 
神を無視して生きたとしても、だれも責めもしませんし、平気です。また、人知れず善を行ったとしても、だれも認めてくれないし、報われないようにさえ感じます。正直者はバカを見るのです。
 
しかし、忘れないでください。神がお報いになるのです。「わたしが仕返しをする」「わたしが報いる」と主は言われるのです。つまり、神が精算をなさる時が必ず来るというのです。
 
この神による精算を意識して生きることが目をさましていることです。逆に、霊魂が眠っているとは、今だけを生きている人のことです。
 
ですから、目を覚ましていよう。「今」は今のままで終わるのではありません。善につけ、悪につけ、やがて神が報いてくださる時が来ることに目覚めていよう。この時のことを、聖書は「主の日」「終わりの日」と呼んでいます。この終わりの日を知っているので、今をどう生きるかを考えます。このような人が、目を覚ましている人です。
 
しかし、霊魂の眠っている人々にとっては、「主の日」とか「終わりの日」は、まるで眠りから急に覚まされるような出来事です。それを新改訳聖書では興味深い訳をしています。
 
終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る(7・6新改訳)。主の来臨は、眠っている人を起こしにやって来られるのです。
 
こうなって、ようやく、このお方こそが主であり、まことの神であることを知るのだと語られています。第6~7章にかけて、何度もわたしが主であることを知るだろうとくり返されています。でも、その時になって知るのでは遅いのです。
 
新約の民はイエスこそ主であると知っています主イエスが再び来られて、善であれ悪であれ、正しく報われる神であることを知っています。眠った者ではなく、目を覚ましている者たちです。
 
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エゼキエル書 6章

2022年12月14日 | エゼキエル書
エゼキエル書 6章
見よ、わたしは剣をあなた方に送り、あなた方の高き所を滅ぼす。(6・3)
 
先の第5章では、罪とは、神への礼拝を破壊することだと学びました。もちろん、殺人・不倫・盗みなどといった悪事も罪の範疇(はんちゅう)に入りますが、それは〝枝葉の罪〟です。その〝根っ子の罪〟こそが根源です。神を否定し、神への聖なる礼拝を汚すことです。そのような根っ子があるので枝葉が出てきます。
 
問題は〝根っ子の罪〟です。神は、その根っ子の罪を滅ぼすために「さばき」を下されます。
 
そこで、聖なる礼拝を汚している「偶像礼拝」を滅ぼしてしまわれる様子が預言されています。「あなた方の祭壇はこわし荒され、あなた方の偶像は砕かれて滅び、あなた方の香の祭壇は倒され、あなた方のわざは消し去られる」(6・6)
 
興味深いことは、あなた方の高き所を滅ぼすという預言です(6・3)
 
旧約聖書の列王紀とか歴代志には、この「高き所」が登場します。偶像礼拝がささげられた場所であるわけですが、詳細は記録されていません。
 
歴代の信仰あつき王たちは、まことの礼拝を回復しようと尽力したのですが、だれも「高き所」を取り除くことができませんでした。あれほど熱心な宗教改革者たちをしても、この「高き所」を取り除くことができなかったのです。しかし、神が、この高き所を打ち壊されるのです。
 
では、高き所とは何を意味しているのでしょう。昔から多くの偶像礼拝は「高き所」でなされています。日本の神社も石段を登り切った高い所に建設され、多くの山頂には鳥居や社が立てられています。
 
諸外国でも同様です。あのマチュピチュも山の頂上に礼拝所が建築されています。建造された理由には諸説ありますが、そのひとつは、かつて神はノアの時代に大洪水で偶像礼拝者たちを滅ぼされた。しかしその後の人類は、「洪水で滅ぼされてなるものか」と反抗するかのように、高き所を目指して偶像の祭壇を築くようになったという解説は興味深いものです。
 
その説の真偽は不明ですが、人類の根っ子には、このような神への対抗心からくる偶像礼拝があるのです。あの「バベルの塔」も、神に反抗する人々が、高き塔を建造して自分たちの名を高めようとした思想にも通じるものがあります。
 
そのような建造物としての「高き所」より、さらに強固に建てられているのは、私たちの心にある「高き所」です。自分を神として祀(まつ)っている高き所……それは、人間の心に根深く潜んでいます。
 
人の心にある高き所は、神の御手によらなければ取り除くことのできない領域です。十字架の血のきよめと聖霊降臨によってのみ、人の心に巣くう「高き所」は打ち壊されます。
 
おのれを神とし、おのれを誇り、神を王座から引きずり下ろし、自分が座ろうとする人間の高慢。これこそ、私たちの高き所です。人の手によっては取り除くことのできなかった「高き所」です。
 
自分を神とする自我は、イエスの十字架の死によって砕かれ、その高き所から降りてこなければなりません。そして、ひざをかがめ、イエスこそ主であると告白し、まことの礼拝者になるのです。
 
第6章では、このような神の取り扱いの中で、人々はわたしが主であることを知ることになると預言されています(6・7、13、14)
 
主によって砕かれた者は幸いです。彼らは告白します。「主イエスこそ礼拝を受けるべきお方です」と。
 
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エゼキエル書 5章

2022年12月13日 | エゼキエル書
エゼキエル書 5章
わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。(5・13)
 
先の4章に続いてエルサレム崩壊の預言です。具体的にはバビロン軍の進撃によって滅ぼされるわけですが、それは、罪をおかしつづけ悔い改めない民に対する神のさばきであると預言されています。
 
たまたま戦争に勝てなかったからではありません。一般の歴史書には、戦力に勝るバビロンが弱小国のユダヤを滅ぼしたと記録しますが、聖書は神の視点で描かれています。それは罪の結果である……と。
 
では、その罪とは何ですか。
 
あなたは、あなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。(5・11)
 
聖所とは神殿のことです。神への礼拝がささげられるところです。聖所を汚すとは、神への礼拝を汚すことです。 ※神殿域全体には庭もあり、祭壇、洗盤もある。その中央の建造物が正確な意味での聖所である。聖書ではそれらもふくめて〝聖所〟と呼ぶ場合がある。
 
神は、昔から今も、まことの礼拝者を求めておられます。神の意図は、まことの礼拝者による聖なる世界を完成することです。
 
さて、剃られた頭髪とヒゲはユダの民のことを表しています(5・1)。彼らは神の御怒りから逃れることができない。滅ぼされると語られています。
 
ある人は「そこまでしなくても」とお考えでしょう。でも、神は、そこまでしなければ、民は悟らないのだと言われます。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう(5・13)
 
何故、神は、ひとり子を罪のいけにえとして十字架で葬られたのですか。そこまでしなければ、民は悟らないからです。私たちのかかえている罪の大きさ、重さ、深さ、広さは、神のひとり子が壮絶な死をとげるほどの罪であることを……。
 
神の人類に対するさばきの厳しさばかりに目を向けるのでなく、その筆舌し難い御怒りを、神のひとり子が、あの十字架上で引き受けてくださったことを忘れてはなりません。
 
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エゼキエル書 4章

2022年12月12日 | エゼキエル書
エゼキエル書 4章
それはパンと水が乏しくなるからだ。彼らは自分たちの咎(とが)のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう。(4・17)
 
神はエゼキエルに奇妙な命令をされました。粘土板(瓦)にエルサレムの町を描いて、町を囲むようにして町に顔を向けよと(4・1~3)。これは、やがてバビロン軍がエルサレムを包囲し攻撃することの預言でした。
 
奇妙な行動はさらに続きます。
 
エルサレムを描いた粘土板を前にして、左脇を下にして390日間横たわれと言われるのです。それが終わったら、逆に右脇を下にして40日間。
 
横になりながら雑穀入りのパンを1日1回だけたべて過ごせ。そのパンを焼くときには人糞を燃料にして焼け。当時、燃料として家畜の糞を乾燥させて、それを焼くことは一般的でしたが、人糞とは……。
 
異様な光景です。エゼキエルの行動は人々には奇異に感じられたことでしょう。
 
しかし、そうでもしなければ、人々に危機的な状況を理解させることは難しかったのです。言葉で語っても伝わらないのであれば、生活とか生き様を通して、神は語られるのです。
 
それは、今の時代でも同じです。私たちクリスチャンは、神の御言を自分の言葉で伝えますが、自分の生活で伝えることも大切な伝え方です。礼拝に集う姿。祈る姿。聖書を読む姿。きよい生活。そのような生き様や、価値観や言動が、キリストからの手紙のようにして、人々に読まれるように祈ります。
 
さて、彼の特異な行動は、後のエルサレム滅亡を表しています。バビロン軍に包囲された民が、燃料もなく、食べ物が不足する様子です。そうなるのは自分たちの咎のためだと語られました(4・17)。新共同訳では「罪のゆえに」。口語訳では「罰のために」と翻訳していますが、エルサレム滅亡は民のはなはだしい罪が原因です。
 
今日もその原則は変わりません。しかし、感謝すべきは、その罪の結果、受けるべく滅びを、イエス・キリストは十字架で引き受けてくださいました。このことを忘れてはなりません。
 
これからエゼキエル書を読み進めると、ますます、罪に対する神の御怒りと、さばきと、滅びが預言されて行きますが、だからこそ、イエス・キリストの十字架の恵みの大きさも明確になります。
 
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エゼキエル書 3章

2022年12月10日 | エゼキエル書
エゼキエル書 3章
人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。(3・17 新改訳)
 
(1)御言による腹ごしらえ
 
神はエゼキエルにひとつの巻物をお見せになりました。それには神の御言が記録されていました。そして、それを食べよと命じられたのです。
 
「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」(3・3)
 
神の御言を食べて霊的な腹ごしらえをして出かけよと言われるのです。私たちが毎朝、聖書を読み続けるのは、今日一日の腹ごしらえなのです。「腹が減ってはいくさはできぬ」というわけですね。
 
(2)同胞に遣わされる
 
こうして腹ごしらえをしたエゼキエルを、神は派遣されます。どこに派遣なさいますか。「むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わす」のです(3・5)
 
もちろん、むずかしい外国語を学んで他国に派遣されるように召された人もいます。海外への宣教師たちです。私の知る宣教師は、高校生の時に中国宣教のビジョンを受け外語大学の中国語を専攻。今では中国人と区別がつかないほどです。
 
しかし、多くの場合、クリスチャンは同胞に遣わされています。あなたの身近な場所、生活の場が、神が遣わされた大切な場所です。宣教地です。
 
自分は母国にいて、宣教師だけが派遣されていると誤解していませんか。私たちの母国は天国です。そこから、この地に宣教師として派遣されています。
 
変な言い方ですが、私やあなたの「日本語」が用いられるのです。得意とする日本語が、福音を伝えるために神に用いられるのです。どうか、神の御言を伝えるために、日本語が研ぎすまされますように……。
 
(3)見張り人とした
 
神は、エゼキエルを「イスラエルの家の見張り人」として任命なさいました。
 
「見張り人」とは敵の進撃をいち早く発見し、それを知らせるのが任務です。ですから、目を覚ましていなければなりません。重要な任務です。
 
神のさばきが近い。神はエルサレムを滅ぼそうとされている。そんな危機的な状況下で、人々は惰眠をむさぼっていました。エゼキエルの任務は、そのような人々に警鐘を鳴らし、終わりの時に備えるようにと、人々の目を覚ますことでした。
 
今の時代、この見張り人の役割はイエスを信じるクリスチャンたちに託されています。主イエスの再臨の日が近いことを知って、人々に警鐘を鳴らさなければなりません。
 
そのような警鐘は、昔も今も、惰眠をむさぼる人々は聞きたくありません。うるさい! 静かに寝かせておいてくれ!!と、怒鳴られます。そんなわけですから、起こしてあげるにも工夫が必要です。
 
まずは、私たちは「見張り人」として目を覚ましていることが肝心です。今日も目を覚ましていよう。
 
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エゼキエル書 2章

2022年12月09日 | エゼキエル書
エゼキエル書 2章
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。(2・7)
 
エゼキエルは神から預言者として召されたわけですが、派遣されるにあたって、「彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない」と命じられました。つらいことです。人々が神の言葉を拒むこと知りながら、それでも語り続けよと言われるのです。
 
しかし、視点を変えれば、神は、私たち人間が聞こうが聞くまいが、語り続けておられるということです。反逆の民と呼ばれたイスラエルにも語り続けてくださる神の慈愛を知ることができます。
 
ですから、私たちが聞こうという意志さえあれば、神の御言を聞くことができるのです。
 
主イエスは聞く耳のある者は聞くがよいと呼びかけられました。 ですから私は聞きます。主よお語りくださいと祈ろう。すると、ある時は、聖書を通して語ってくださいます。ある時は、出来事の中で語ってくださいます。ある時は、祈りの中で語ってくださることがあります。
 
明確な声として聞かなくても、こうおっしゃりたいんだな……と感じるのでも良いのです。
 
お願い事ばかりの多い祈りに、聞く祈りを加えてみよう。「聞こう」と意識しないので、聞こえないのです。主は私に語りかけてくださっていることを意識して祈るのです。
 
イエス様は、無きに等しい私にさえも語ってくださいます。その感動が、今度は、私も人々に語ろうという勇気と励ましを生み出します。
 

エゼキエル書 1章

2022年12月08日 | エゼキエル書
エゼキエル書 1章
その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。(1・28)
 
エゼキエルは先のエレミヤと同時代の人物で、共にバビロン捕囚を体験した預言者でした。エレミヤは捕囚を免れてユダヤにとどまりましたが、エゼキエルは捕囚となってバビロンに連れて行かれました。
 
そのエゼキエルが預言者として召されたのは、バビロンに移住して5年目のことでした。エホヤキン王が捕囚となった時から5年目と記されていますので紀元前592年のことです(1・2)
 
この時点では、エホヤキン王と一部の民が ――この中にエゼキエルも含まれている―― 捕囚となっただけであり、祖国のユダヤ王国は存続していました。
 
ただし、バビロンの主権のもとにゼデキヤが王として擁立されたのであり、実質的にはバビロンの傀儡(かいらい)政権として、かろうじて王国の体裁を保っている状況でした。
 
最終的にエルサレムが陥落してユダヤが滅ぼされるのが、紀元前586年のことですから、エゼキエルが預言者として召されたのは、エルサレム陥落の6年前ということになります。
 
しかし、当時のユダヤ人は非常に楽観的でした。捕囚も長くは続かない。すぐにでも戻って来ることができる。それに、神の都エルサレムが滅びるわけがない。神はそれをおゆるしになるはずがないと、都合良く考えていました。
 
そんな中で、預言者エレミヤおよびエゼキエルは、「エルサレムは滅ぼされる。悔い改めて神に立ち帰れ」と語ったわけですから、人々からは受け入れられず、反感をかうことになりました。
 
さて、神は、エゼキエルに幻をお見せになりました。そこには〝四つの奇妙な生き物が見えました。これはケルビムと呼ばれる天使であることが、後の第10章で明らかになります。
 
神を見ることはできません。しかし、神は、このように天使の姿を通して、神のご臨在を証しなさいました。それらには、各々に四つの顔があって、
 
① 獅子、② 牛、③ 人間、④ 鷲……
の顔だったと記されています。
 
この表現は黙示録にも表されており(黙4・7)、神のご性質を表しています。獅子は〝王〟を表し、力とか権威の象徴。牛は〝しもべ〟を表し奉仕の象徴。そして人間は知性ある〝人〟の象徴。鷲は天的存在である〝神〟を表しているとされます。
 
新約聖書の四福音書も、マタイは王であるイエスを、マルコはしもべであるイエスを、ルカは人であるイエスを、ヨハネは神であるイエスを描いていることにも対応しているようです。
 
神の臨在を表す幻は、世界中を行き巡り、罪をさばき、万物を統べ治められる様子を表しています。これから、ユダヤとエルサレムに臨まんとしている大いなるさばきの序章のようにも思われます。
 
しかし、エゼキエルは、そんな恐ろしい姿や情景の中に雨の日の雲の間にある虹のような栄光を見ることができました。嵐のような激しい雨の向こうに虹が見えるとき、それは希望の虹です。
 
ノアの時の大洪水が終わって、神はノアに虹をお見せになりました。それは、洪水による恐ろしいさばきが終わったしるしでした。
 
エゼキエルは、神の激しいさばきを預言しますが、その向こうに希望の虹を見つめながら語った預言者でした。私たちも、いかなる環境の中にもこの〝虹〟を見出すものであろう。
 
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哀歌 5章

2022年12月07日 | 哀歌
哀歌 5章
私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。(5・16~17)
 
エルサレムの陥落。バビロンによる捕囚。このような悲しみと苦しみの原因は何なのか。
 
哀歌は、それは罪をおかしたからだと告白しています。さらに、今日の聖句では、罪の結果、心が病み」「目が暗くなったからだと告白しています。
 
すべての問題は「罪」から始まっています。その罪とは「神を認めない」「神に従わない」という根っ子の罪のことです。
 
罪のゆえに心が病みます。目が暗くなります。目が暗いとは、霊的世界のことが分からない状態のことです。物事の本質を見抜くことができないことです。
 
人は霊的存在であり、神と共に生きる者として創造されています。神との交わりの中で生きるのが人間の本来の姿です。つまり、神の御言によって生きるように創造されています。
 
なのに、その神を否定したら、人の心は暗くなります。心が病むのは当然です。
 
社会が悪い、環境が悪い、教育が悪い、景況が悪い……様々なことが原因のようですが、さらに深いところには、この罪が大きく根深く横たわっています。哀歌はその罪を告白し悔い改めています。
 
問題の根は罪であると気がつかされることは何と幸いなことでしょうか。神を主とせず、自分を主としてる罪に気づき、悔い改め、本当の主であるイエス・キリストを迎えることができるからです。
 
神は、人が霊的に生きるように罪を意識する心つまり罪責感を与えてくださっています。これがいかに幸いなことでしょうか。つまり、罪の痛みを感じる能力が与えられているのです。
 
たとえば肉体の傷を痛いと感じる能力があります。痛いので、その痛みの原因である傷に対処して肉体のいのちを保とうとします。それと同じように、罪の痛みを感じることによって、神との関係を修復し、神と共に霊的に生きようとするのです。
 
このような機能が働かなくなったら、人は罪をおかすことが平気になってしまいます。だれだってやっているじゃないか。人に迷惑かけなければいいじゃないか……といった理屈もそうです。
 
罪の痛みを感じることのできる人は幸いです。その人はイエス・キリストを信じるようになるからです。神が人の心に植えつけてくださった霊的な感覚に目覚めている人は幸いです。その人は神に立ち帰ろうとするからです。
 
バビロンを通して神に撃たれた人々は、罪の意識、霊的な感覚に目覚めました。だからこそ、彼らは叫んだのです。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです(5・21)
 
試練や困難を通して「神も仏もあるものか」と反応してしまう人もいれば、逆に、悔い改めて神に立ち帰ろうとする人もいます。
 
人の深いところには私は神のもとに帰りたいという霊的な本能があるはずです。それに気づくことのできる人は幸いです。父の財産を使い果たしたあの放蕩息子の場合も、彼は最後に「本心に立ち帰って」とあります(ルカ15・17)
 
神は、様々な困難を通して、「私は帰りたいのです」という本心に目覚めることを願っておられます。もちろん、そこまで撃たれなくても目覚めていれば、それに越したことはないのですが……。
 
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哀歌 4章

2022年12月06日 | 哀歌
哀歌 4章
ああ、精金にも比すべきシオンのいとし子らは、陶器師の手のわざである土の器のようにみなされる。(4・2)
 
さらに悲しみの祈りは続きます。バビロンの攻撃によって、見るも無惨な姿に落ちぶれたエルサレムがえがかれています。
 
金銀をはじめ最高級の調度品で飾られた神殿は、異邦人の手によって無残にも踏みにじられ、かつての輝かしい姿は見る影もありません。
 
ああ、黄金は光を失い、
純金は色を変じ、
聖所の石はすべてのちまたのかどに
投げ捨てられた。 (4・1)
 
かつての、神殿は黄金の輝きを放っていました。栄華をきわめたソロモン王によって建立されたエルサレム神殿は、神の栄光を表していました。
 
それは、イスラエルの民にとって誇りでした。しかし、神が住まわれない神殿など、その黄金の輝きは空しいものです。無残にも破壊され、略奪された神殿の姿は、純金のように高価であったはずのシオンの子ら(神の民)の姿を象徴していました。何の値打ちもなくなった土塊(つちくれ)のように投げ捨てられたのです。冒頭の聖句はそれを表しています。
 
そもそも元をただせば、イスラエルは異邦人同様の石ころであり、土の器であったはずです。
 
エジプトで奴隷であった民が神に選ばれ、神の民として仕えて行く中で、彼らは純金のような民……すなわち神の宝」「祭司の国」「聖なる民とされたのでした(出エジプト19・5~6)
 
その原点を忘れて、その立場にあぐらをかいて堕落していったのがイスラエルの歴史でした。神の民としての塩味を失うなら、外に投げ捨てられる〝塩の石〟のようになってしまいます。
 
私たち新約のクリスチャンはどうだろうか。その召された時のことを忘れていないだろうか。無きに等しい者を神は選び召してくださった原点を忘れてはならない。
 
そんな私を「あなたは高価で尊い」と言ってくださる主の恵みを忘れてはなりません。
 
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