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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

マルコの福音書 13章

2024年08月31日 | マルコ福音書
マルコ13:23 だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。

当時のエルサレム神殿は、バビロン捕囚からの帰還民によって再建されたもので、その後、ヘロデ王の時代の大改修によって立派な神殿へと生まれ変わりました。それはユダヤ民族の誇りでした。弟子たちの言葉にもそれが垣間見られます(13・1)

しかし、終わりの時代には、その神殿が跡形なく破壊される時が来ると予告されました(2)。それは、最初の神殿……ソロモン王の時代の神殿で「第一神殿」と呼ばれる……がバビロン軍によって破壊された時のことを想起させる驚きの預言でした。いつそんなことが起きるのでしょう。イエスは「いつ」とは言わず(32)、前兆となる出来事を提示されました。

①自称キリストと名乗る「偽キリスト」が出現する。
②戦争が頻発する。
③天変地異が起きる。
④キリスト者に対する迫害が強まる。
⑤福音が全世界に宣べ伝えられる。

①~④はすでに現在進行形で起きています。つまり、イエス・キリスト以後から今に至るまで、すでに「終わりの時代」です。そして、今やインターネットや情報革命によって、⑤「福音がすべての民に伝えられる」も実現しつつあります。こうして「終わりの時代」の最終段階になると、「荒らす憎むべき者」が登場します(14節以降)。 ※「反キリスト」「不法の人」「獣」とも呼ばれ、終末の時代に登場するカリスマ的な支配者である。

だから、油断してはいけません。 13章では何度も「気をつけて」「目を覚まして」と記されています。この終わりの時代に起こる異変に慌てふためくことなく、全世界に福音を伝えます。それが私たちの任務です。そこで、イエス様は四つの「気をつけなさい」を教えられました。

(1) 人にまどわされないように「気をつけていなさい」。(13・5)

戦争によってまどわされる時が来ます(7)。民族が民族に敵対する時が来ます(8)。そのような中で、惑わされないように気をつけなければなりません。

近年、ナショナリズムが再び台頭してきました。日本人であることを強烈に意識させ、国のためにということで、ナショナリズムこそ最高の価値観のように宣伝されています。人間のための、人間による国家作りによって、まどわされてはなりません。神は、まことの礼拝者からなる神の御国を建てようとなさっているのですから。

(2) イエスの証しをすべき時に語れるように「気をつけていなさい」。(9)

なぜ、イエスを証しする者に迫害が起こるのでしょうか。それは、福音がすべての民に宣べ伝えられたら世(今の時代)が終わると預言されており、それを阻止したいサタン(悪魔)の働きがあるからです。

世の終わりは「救いが完成する時」でもあると同時に、「サタンが完全に滅ぼされる時」でもあるので、サタンは福音を伝える者たちを迫害します。

そんな時、私たちはどうやってイエスを証しすることができるでしょうか。人の熱心や知恵では太刀打ちできません。だから、聖霊が語らせてくれるのだ……とイエスは言われました。

「人々があなた方を連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなた方自身ではなくて、聖霊である。」(11)

この聖霊はイエスが復活されて50日後、ペンテコステの日に降りました。この聖霊を受ける前のペテロは、大祭司の家で行われた裁判の席で、「イエスを知らない」と三度も証言を拒否してしまいました。

しかし、聖霊を受けてからのペテロは、大胆にイエスを証しして殉教の死に至りました。そうです。聖霊は、イエスを証しする言葉を与えてくれるのです。この聖霊をいつも信頼できるよう、気をつけていなければなりません。

(3) 偽キリストや偽預言者たちに「気をつけていなさい」。(22~23)

多くの偽預言者たちが自分がキリストだといって、人々をまどわすからです。自分がキリストだと言っている統一協会の文鮮明氏もいれば、キリストはすでに霊のかたちで来たとする「ものみの塔(エホバの証人)」の人々もいます。

霊的な現象ゆえにすごいと思わせるのも、人をまどわす力です。スピリチュアル云々(うんぬん)といって霊的な領域を扱っているようでも、イエスを主と告白しない霊は、神からのものではありません(Ⅰヨハネ4・1~3)

(4)「気をつけて」目をさましていなさい。(33)

主イエスの再臨に焦点を合わせて生きることが、目をさましていることです。つまり、再臨から目をそらさないように「気をつけて」ください。

再臨のイエスは、善と悪に対して精算するために来られます。今は、善に対して何の報いもなくて、善を行うことが空しく感じられます。また、悪に対して何のお咎(とが)めもないので不公平に感じられます。

しかし、そんな矛盾を精算するために、主は再臨されます。善には祝福をもって、悪には滅びをもって報いられます。だから、その時が来ることに焦点をあわせて、善を行うことに疲れてはなりません。

 


マルコの福音書 12章

2024年08月30日 | マルコ福音書
マルコ12:17 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。

事の発端は、イエス様の言葉尻をとらえて訴える口実を得ようとするパリサイ人たちの質問にあります。彼らは、カイザルに税金を納めることは正しいことかとたずねました。

カイザルとはローマ皇帝のことです。当時のユダヤは王国としての体裁は保っていたものの、実質はローマ帝国の支配下にありました。神による支配とその御国を待ち望むユダヤ人にとっては、異教の帝国ローマに税金を納めることは屈辱的なことでした。

だから、ローマに税金を納めよと答えるなら、イエスはユダヤの裏切り者として責め立てる口実になります。逆に、カイザルに税金など納めなくても良いと言えば、ローマへの反逆罪としてイエスを訴えることができるわけで、どちらに転んでも不利な状況です。

しかし、イエス様の智恵は、罪人の悪巧みを打ち砕きます。

納税するデナリ銀貨にはローマ皇帝カイザルの肖像が刻印されていたのですが、イエスはその点を指摘して、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさいと命じられたわけです。名答ぶにりに感心するに終わらず、ここに込められたメッセージを汲み取りたいと思います。

世に流通している銀貨はローマが発行し、カイザルの刻印がなされているのだから、カイザルに返せば良い。しかし、人間は神に似せて、神の形に創造された者……神の刻印が押された者だから、神のものとして属すべきであるというわけです。

つまり、神に属するものと世に属するものを区別されたのです。

このことから、神がなさることと、人間にまかされたこととの区別を考えてみようと思います。しばしば、私たちは神に属することまで引き受けて、神の領域に足を踏み入れてしまっていることがあります。神のものは神に返すべきです。

例えば、神の御言はこう命じています。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである(ローマ12・19)

復讐はだれのすることですか。それは神のなさる領域です。それを、人間が成そうとするなら、神の領域を侵しています。私たちのすべきことではありません。人間にはあまりにも重い荷物となります。

子どもが大人の背負うべき荷物を負うなら、その重みでつぶれてしまいます。なのに、人は、神の負うべき復讐 ……さばきとも言い換えることができる……を自分が背負ってつぶれてしまうのです。それは、神にお返しすべきです。

人間である私のすべきことは、「あなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい」ということです(ローマ12・20)

また、御言はこうも命じています。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3・6)

私たちは、何とかして人生の道をまっすぐにしようと躍起になるのですが、思い通りにならずに悩みます。しかし、御言は何と言っていますか。〝主が〟道をまっすぐにされるのです。道をまっすぐにすることは、神のなさる領域です。

自分で、自分の人生をまっすぐにしようという我力をやめて、それは神の領域ですから、神にお返しすべきです。私たち人間に任されたことは、「すべての道で主を認める」ことです。どんな時も、主を礼拝し、主に祈ることです。

神のものは神に返し、私のなすべきことをさせていただくことの幸いがありますように……。

◆◆◆◆◆◆

さて、先の11章27節から12章までは、イエスと律法学者らの論争が展開されているのですが、かえって、それを通して彼らの偽善性が浮き彫りにされています。その極めつけが、イエスによる律法学者たちに対する評価です(12・38~40)

「長い衣をまとう」とは律法学者特有の服装のことです。この長い衣を見るや、人々は彼らに敬意をあらし、ていねいに挨拶をし、上座に案内をしてくれるのです。律法学者はこのような待遇にあぐらをかき、地上における報いを受けています。信仰深げな長い祈りをし、祈祷の報酬を貧しい者からも受け取りました。

このような偽善はどこから生まれるのでしょう。それは、神ではなく人を意識するからです。神ではなく人からの評価を得ようとして偽善が生まれます。そんな偽善的な宗教家とは対照的なひとりの婦人が登場します。彼女は、人からは見向きもされないわずかなレプタ2枚をささげました。

レプタはギリシャ貨幣の単位で、ローマ貨幣に換算するなら2レプタが1コドラントです。1コドラントが1デナリ(労働者1日分の賃金)の64分の1というわけですから、日本円で100円ぐらいの金額です。でも、これが彼女の全財産でした。少しでも取っておきたい100円さえも、彼女は神に感謝してささげました。

何と、このわずかな献金を〝イエスが〟ご覧になっていました。

人々は金額に注目するでしょうが、イエスは信仰をご覧になります。隠れたことを、隠れたところでご覧になっている神の視線をもって、イエスは彼女の信仰に注目なさったのです。

偽善的な宗教指導者たちとは対照的に、神を愛し、神を意識し、神を信頼する彼女の信仰はイエスをして感動させたのです。

私たちのささげる祈りは、奉仕は、そして献金は、神を意識してささげられているでしょうか。それとも人のことが気になっているでしょうか。神への真実な信仰を神は喜ばれます。

イエスは人に見せるために人前で善行をするなと戒められました(マタイ6・1)。当時の律法学者たちのこれ見よがしの献金、大通りでの目立つ祈り、やつれた断食顔等々。それらは人からの評価を期待しているのだと指摘されました。

そうではなく、隠れたところで、隠れたことをご覧になっている神を意識せよと教えられました(同6・4、6、18)。真実な信仰は神の視線を意識します。真実な信仰は真実な献金となって表れます。

さて、当時の献金箱の投入口はラッパ管になっていて、硬貨を投げ入れると音が鳴る仕組みになっていました。ですから、大金を投げ込むや「ラッパ」が吹き鳴らされて、周囲の人々の注目するところとなりました。おぉ、あんなに多額の献金して凄(すご)いなぁ~と人々の賞賛を得ます。 ※「献金をするとき人前でラッパを吹く」とはこのこと。

かたや、婦人の献げ物は2レプタです。投げ入れた音は雑踏の中で消されてしまったことでしょう。しかし、そんなかすかな音ですが、信仰のこもった音を神が聞かれます。イエスはそれを聞かれたのです。

実に、私たちの愛する主は、小さなことに気を留めて下さる神です。どんなに小さな献金でも、そこに信仰があるなら主の心に響くのです。どんなに弱々しい求めでも、あの長血をわずらった婦人がふれたその感触をお感じになったように、振り返って応えてくださる神です。幕屋での〝釘1本の奉仕〟でさえも覚えておられる神なのです(民数記4・32)

このレプタ2枚には彼女のすべてが込められていました。献身の献げ物は神に届きます。人の目には取るに足りない金額でも、そこに込められた信仰の大きさゆえに、天では栄光のラッパが高らかに響き渡ったことでしょう。

小さな祈りでも、小さな奉仕や献金でも、信仰のこもったささげものを、神は確かに受け止めてくださっています。

真実な神に、私たちも真実な信仰で応答しよう。


マルコの福音書 11章

2024年08月29日 | マルコ福音書
マルコ11:17 そして、彼らに教えて言われた、『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった

宮とは「神殿」のことです。出エジプト記では「幕屋」と呼ばれていました。両者とも大まかな構造は同じですが、幕屋は移動可能なテント式の神殿です。そこは神の住まわれる家であり神への礼拝がささげられる所です。

ところが、イエスが当時ご覧になった神殿は、本来の姿を失っていました。

そこは神殿参拝関連の商売でにぎわっていました。例えば、献金をするにしてもローマ貨幣は「皇帝(カイザル)は神の子」と刻印されていたので、真の神をまつる神殿にはふさわしくありません。そこで、ユダヤの貨幣に両替する商売が成立しました。

また、律法によれば、傷のあるいけにえを捧げてはならないので(申命17・1)、参拝者がいけにえを持参しても、旅の途中で怪我をしたり病気になると捧げることができません。そこで、神殿では〝祭司お墨付き〟の傷のない動物が販売されました。

これら商売人と神殿側との癒着によって〝神殿ムラ〟なる集金システムが形成され大きな富をもたらしていました。 しかし、イエスの宗教改革によって利権を脅かされると判断した神殿幹部(祭司長・律法学者)たちは、イエス抹殺計画へと、やがて大きく舵を切ることになるのです。  

真の神を「主人の座」から引きずり下ろし、偽りの神である「富」が鎮座する神殿の姿に、イエスは激しい憤りを覚えられました。本来の姿は祈りの家です。それが今や強盗の巣と化しています。偽りの神々や悪魔や悪霊たちが、神の栄光を強盗のように横取りしている始末です。

本来の姿を失った神殿に神が住まうことができるはずがありません。だからこう言われました。きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない(マタイ8・20)

旧約では建造物としての神殿をとおして、神が人と共に住まわれることが啓示されましたが、新約においては、私たちが聖霊の宮であり神殿です。果たして、新約時代の神殿である私は、イエスに「枕するところ」を提供できているでしょうか。

イエスが宮をきよめられたのは、神殿本来の姿を回復するためであったわけですが、換言するなら人間本来の姿を回復するためです。

神は、私たちと共に住もうとなさっているのです。枕するところを求めておられるインマヌエルの神です。そこは罪のきよめられた場所です。そこは礼拝がささげられる祈りの家です。

イエスはそんな場所を得ようと、私たちの罪のきよめのために十字架で血を流されました。そして、きよめられたところに聖霊が内住なさいます。ですから、新約のクリスチャンこそ、祈りの家ととなえられるべきです。聖霊の宮たる神殿です。

イエスがエルサレムの神殿に対してお怒りになった事件は他人事(ひとごと)ではありません。聖霊の宮である私はどうですか。祈りの家となっていますか。宮の主人はイエス様ですか。

商売で栄えていた当時の神殿は、見た目には荘厳な建造物でしたが、その主人は「富」でした。そんな姿に神は怒って蹴散らされます。

さあ、祈りの家になろう。強盗に巣を作らせないように目を覚まして祈っていよう。

◆◆◆◆◆◆

さて、その祈りの家であるべく私たちに、イエス様は祈りのアドバイスをしてくださいました。

第一は、何でも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じることです。 イエス様はこう言われました。「あなた方に言うが、何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11・24)

祈っても実現しないのではないか……と、疑いながら祈っていませんか。駄目で元々だから一応祈っておこう……という程度の祈りですか。そのような祈りであれば、結果もそのようになります。

自分のしもべをいやしてもらいたいと願い出た百卒長に、イエス様は、「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われました(マタイ8・13)

そうです。私たちが信じているとおりになるのです。疑っていれば、疑った通りの結果になります。信じていれば、信じているとおりの結果になります。

だからイエス様は、すでにかなえられたと信じなさいと教えてくださいました。つまり「先取りの信仰」です。かなえられた事柄を受け取るまでにまだ時間を要するかも知れませんが、それを信じて待つ心で、主を讃美する祈りを続けます。

第二は、恨み事があるなら、ゆるしなさいということです。  ゆるさない心のままでは、祈りの効果がありません(マルコ11・25)。「ゆるさない心」は、神からの祝福の流れの川を堰(せ)き止めてしまうからです。

祈りの応答が感じられないとき、もしや自分にはゆるさない心がありはしないかと点検してみよう。見つかったら、それを主に告白して取り除いてしまうことです。ゆるしは神の偉大な働きへの扉(とびら)です。

神も、ご自身の祝福を人類に流し出すために、まずなさったことは、イエスの十字架によって「ゆるし」の扉を開くことでした。神が先に扉を開いてくださったのですから、私たちも開くべきです。

私たちの心の扉を開くとは、悔い改めることです。1万タラントの借金をゆるしていただいた自分であるのに、100デナリを貸している友人をゆるすことのできない罪を悔い改めることです。

私たちが、このゆるしの扉をしっかりと開くなら、私たちを通して、神のいやし、神の愛、神の救いの働きが流れ始めます。

さあ、ゆるしの扉を開けよう。ゆるさないでいることの弊害は大いにあっても、ゆるすことで受ける害は何ひとつありません。もちろん、ゆるすことは少しの損をすること※」です。しかし、その小さな損が大きな益へと変えられるのです。 ※〝少しではない〟との反論もあるだろう。しかし、ゆるさないで悶々と憎しみながら生きる人生の損失はもっと大きい。その大きさから比べれば、今ゆるすことは〝少しの損〟で済むのだ。 マタイ18章も参照。

力強い祈りのために……、①すでにかなえられたと信じること、②恨みごとがあればゆるすこと。この二つを点検しながら、今日も祈りましょう。


マルコの福音書 10章

2024年08月28日 | マルコ福音書
マルコ10:14 幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。

イエス様のもとには様々な人々がやって来ます。幼な子もやって来ました。しかし、イエス様の疲労を配慮してか、弟子たちは幼な子たちをたしなめたのですが、冒頭の御言のように、イエスは言われました。

幼な子のようにがテーマです。どのような態度が幼な子のようなのでしょうか。逆に「幼な子らしくないもの」とは何なのか。マルコ10章全体から見えてくるものがあります。そこで〝何が幼な子らしくないのか〟を見てみましょう。

マルコ10章の最初に登場するのがパリサイ派の律法学者たちです。彼らは、イエスを試そうとして、離婚について質問しました。彼らは幼な子のようではありませんでした。幼な子は、画策をもって近づきません。ありのままの姿でイエスのもとに来ます。

その後、裕福な青年がやってきました(17~22)。彼は、どんな良い行いをすれば天国に入れるだろうかと悩み、イエスに質問しました。彼は、立派になれば、神に受け入れてもらえると考えていました。彼も幼な子のようではありませんでした。幼な子は、立派になることで神に近づけるとは考えません。何の誇りも自慢もなく、ただ、イエス様を慕って近づきます。

続いてイエスの弟子たちです(35~45)。弟子たちは、天国で誰が一番偉いのかが気になっていました。そこで、ある弟子は、御国でイエスの右と左に座する者にしてくださるように願い出ました。彼らもまた幼な子のようではありませんでした。幼な子は偉くなろうとしてイエス様に近づきません。あわよくば、イエスの右に左に就こうなどという野望もありません。ただ、イエスを愛して、イエスに近づきます。

そして、マルコ10章の最後に、盲人のバルテマイが登場します。彼は幼な子のようにイエスに近づきました。なりふりかまわず、イエスに求めました。大声で叫ぶので、周囲の人々は恥ずかしく感じましたが、バルテマイは大胆に求めました。

彼にはパリサイ人のように下心(したごころ)がありませんでした。裕福な青年のように、何か立派になって求めたわけでもありません。「何を求めるのか」というイエスの問いかけに対して、弟子たちのように出世を願ったわけでもありません。ただ、「見えるようになることです」。このひとことでした。ここに幼な子のようになってイエス様に近づく姿があります。

◆◆◆◆◆◆

さて、バルテマイはイエスのことをダビデの子と呼びました。それは、キリストはイスラエルの偉大な王ダビデの子孫として来られるという預言にもとづいています。バルテマイは、イエス様が聖書で預言されているキリストであると信じて求めたのです。

何を根拠にイエスに求めるのですか。評判が良さそうだからですか。キリスト教が性(しょう)に合っているからですか。そうではありません。重要な根拠があります。バルテマイが告白したように、聖書の預言通りに来られた正真正銘の救い主だから求めるのです。

さて、バルテマイの求め方は半端ではありませんでした。叫び続けたのです。あまりにもうるさいので、周囲の人々が黙らせようとするほどでした。

紳士的な人は、大声を出さなくても、神はちゃんと聞いてくださると考えます。しかし、切実な問題であればあるほど、叫ばざるを得ません。叫びは人間として自然な表現です。

また、叫びは感情を解き放ちます。感情を押し殺していると、それは心のとびらを固く閉めているような状態です。心が堅い状態だと、自分のなかにある問題もなかなか表面化しませんし、解決すべき悩みや悲しみは閉じこもったままです。逆に、心が堅い状態だと、神が私たちの中に入ろうとなさっているのに受け付けず、拒んでいるようにも思います。

声を出すことによって感情を表に出すと、心は柔らかくなります。だから、祈りは声に出して祈るのが秘訣です。そして、時には大声で叫び求めてみましょう。幼な子のような祈りはそういう祈りです。

バルテマイは主が振り向いてくださるまで叫びました。主は必ず自分の叫びを(祈りを)聞いてくださると信じて叫び続けました。私たちも、求める課題が切実なことがらであれば大いに叫んでみましょう。

川で溺れているとき、通りがかりの人に大声で「助けてっ~!!」と叫びます。「あの~よろしければ手をかしてほしいのですが」と静かに求める人などいません。

イエス様でさえも、ご自身の働きのためには叫ばれました。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル5・7)

幼な子のように叫ぼう。幼な子のように求めよう。


マルコの福音書 9章

2024年08月27日 | マルコ福音書
マルコ9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。

聖書にはたくさんの力ある御業(みわざ)が記されています。病のいやし、悪霊の追い出しはその顕著な働きでした。このようなことは、イエス様だからできたのだと考える人がいます。しかしイエス様は、「わたしを信じる者は、またわたしのしている業をするであろう」と言われました(ヨハネ14・12)

また、このような御業は初代教会の時代だけの特別な事だと考える人もいます。しかし聖書は、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」と証しています(ヘブル13・8)

それでも、「そんなことができるのだろうか」という不信仰な思いが出てきます。一応はやってみるけれど、「もしできれば」という思いがよぎります。しかしイエス様は、もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできると、私たちの揺らぐ心に釘を刺されるのです(マルコ9・23)。どうでしょうか。このイエス様の御言に励まされて、何度でもチャレンジしてみようではありませんか。

悪霊で苦しんでいる息子の父親が、霊を追い出してもらおうとイエスに願い出ました。「霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、私どもをあわれんでお助けください」(22)

この父親も「もしできれば……」と思っていましたが、イエス様からお叱りを受けて、「信じます。不信仰な私をお助けください」と告白しました(24)

中には祈っても、願ったとおりには実現しないという人もいます。病気が癒されたら信じるが、癒されなかったら信じない。あるいは、癒されないから自分は不信仰なんだと、自分を責める。そんなことの繰り返しに中で、信じることに疲れてしまう人もいます。信仰生活はこんなことの連続です。不信仰とのたたかいです。

でも、くじけず、自分を責めることもなく、何度でも告白しましょう。主よ、信じます。不信仰な私をお助けくださいと。

願った通りになることと祈りが成就することとは区別しましょう。イエスの御名によって祈った事は確実に天に届いています。宛名は〝神の御名〟なのですから……。主は、ご自分宛に届いた祈りをしっかりと受けとめてくださっています。

だから、必ず主は祈りに応えてくださいます。最も良い応えを、最も良いタイミングで応えてくださいます。主は、求めてくる者に良いものをくださらないことがありましょうか。アーメン。

この信頼こそが「信仰」です。これを失ってはいけません。失いそうなとき、「主よ、信じます。不信仰な私をお助けください」と告白しつつ、信頼し続ける者であろう。

◆◆◆◆◆◆
 

さて、 9章の締めくくりは互に和らぎなさいです(50)。この聖句は福音書の中ではマルコだけの記録です。どのような経緯でこの教えをなさったのかを見てみましょう。 ※新改訳「互いに和合して暮らしなさい」。新共同訳「互いに平和に過ごしなさい」。

まず、弟子たちは「だれが一番偉いのか」と論じあっていました(33)。その直前には、イエスご自身の受難の予告が語られたにもかかわらず(31)、弟子たちはその真意を理解しようともせず(32)、ひたすら、神の御国が完成した暁(あかつき)の地位に関心がありました。

そこでイエスは、幼な子を引き合いに出して「このような幼な子や小さい者を軽んじてはならない」「仕えなさい」と教えられたのです(35~37)

その教えもどこ吹く風やら……。今度はヨハネが、「先生の名で悪霊を追い出している者がいたが、仲間ではなかったので止めさせた」と誇らしげに報告したのです。「仕える」とはほど遠い態度です。

それに対してイエスは、わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方だと応えられました(40)

ここに、神の御国の裾野の広さを感じます。彼らさえも仲間として受けとめる謙虚さを教えられたのです。だれが偉いとか、だれが正しいとかという狭い世界観ではなく、小さい者から大きい者まで受けとめるふところの深さが、神の御国にはあります。

だから、イエス・キリストに賛同して、水1杯を提供してくれる〝小さな者〟であったとしても、仲間なのであって、彼らをつまずかせてはならないと言われたわけです(41~42)

さらには、自分自身さえもつまずけるなと教えられました(43~48)。もちろん、文字通り手・足・目を切り取れば罪を犯さなくなるわけではありません。罪の誘惑となるつまずきの要素を取り除けという意味です。

「自分が一番だ」「自分たちこそ正統派だ」と高ぶっているなら、小さな者をつまずかせ、やがて自分さえもつまずかせることになるのであって、御国の豊かさを損なうことになります。だから、心して和合せよと言われます。

仕えることは〝天国の塩味〟です。この味付けを失ってはなりません。そこでイエスは「幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのだ」と言われました(37)

それは単に幼児だけでなく、軽んじられる立場や弱さのある人々であっても同じです。イエスを歓迎する心で、そのような〝小さい者〟を受け入れる仕えることは、キリストを受け入れることに通じます。

それと同じように、今度はキリストの弟子だからということで、その者に水1杯でも飲ませてくれる人を、イエスは必ず祝福をもって報いてくださるというのです。そして、その約束は「確かなことだ」と念を押すように言われました(9・41 新改訳)

伝道してもイエスを信じる人は少ない。あまりにも少ないので伝道をやめてしまいそうです。田舎で農業をしている私の両親もそうです。私が牧師に転身するのを反対しませんでしたが、その後、信じてバプテスマを受けたというわけではありません。でも時折、お米を送ってくれて支援してくれます。

私は祈るのです。「主よ、このように良くしてくれる父母を、あなたの報いからもらさないでください」と。今日の御言を信じてそう祈るのです。

神の御国は、実にふところが深いと私は思っています。

思い出したかのように教会にやって来る人。集会には来ないけれど、何かと教会の行事には協力してくれる近所の人。そんな「イエスに反対しない人々」の支えがあって今の私があります。私たちの教会があります。そんな人々のこともお忘れになっていないイエスの大きな愛を知って、私も根気強く祈って行こうと思うのです。

私とかかわる小さい者を軽んじることがないように。

つまずかせることがないように。また、そのことに心を砕くことができるように。そして、そのような人々と互いに和らいで行くことで、神の御国の広さや豊かさを証しできるように導いてください……と祈ります。


マルコの福音書 8章

2024年08月26日 | マルコ福音書
マルコ8:15 イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。

パン種とは、パンをふっくらと焼き上げるイースト菌のことです。昔はイースト菌そのものを保管したのではなく、イースト菌を練り込んだパン生地を団子状にして保存しました。その団子のことを「パン種」と呼びました。

パン生地をこねる時にパン種を少しちぎって混ぜることで、パン種に入っていたイースト菌がパン全体に広がって、ふっくらと焼き上がるわけです。

ですから、少しのものが全体に影響を及ぼすことの例話として、「パン種」という語彙が使われるようになりました。そして、多くの場合、パン種は「罪」とか「悪」の象徴して語られています。

では、イエス様が警戒せよと言われたパリサイ人のパン種とヘロデのパン種とは何でしょうか。

パリサイ人のパン種とは極端な分離主義です。パリサイとは分離を意味する言葉です。その名の通り、パリサイ人たちは世俗と距離をおくことによって、自分たちのきよさを保とうとしました。

しかし、クリスチャンはこの世と離れて生きる者ではありません。この世にありながら、この世の者ではない……これがクリスチャンの立場です。

世の光であるべきクリスチャンが、世と隔絶していて如何にして世を照らすことができるでしょうか。それはまるで、灯火をますの下に隠すようなものではありませんか。

また、地の塩であるべきクリスチャンが、世と隔絶していて如何にして塩の効き目を現すことができるでしょうか。クリスチャンはこの世にあって、塩が溶かされるようにして、世に浸透して行く存在です。純粋であろうとするあまりに孤立してしまっては、塩の効果がありません。

次に、ヘロデのパン種 ……マタイ福音書ではサドカイ人のパン種と記録されている…… とは、サドカイ派の生き方のことです。サドカイ派の人々は、ローマ政府と妥協することで自分たちの宗教的立場を守ろうとする人たちです。

つまり、ヘロデのパン種(サドカイ派のパン種)とは世俗主義のことです。世とうまくやろうとするあまり世俗的になって行くことです。パリサイ人のパン種とは対称的です。

しかし、クリスチャンはこの世と調子を合わせて生きる者ではありません。この世と妥協するなら天国の塩味を失います。塩味を失ったら、どうやって味を取り戻すことができるでしょうか。

パリサイ派のように純粋を保とうとして、分離するあまり、世から孤立してしまうクリスチャンであってはならないのですが、一方で、サドカイ派のように世に溶け込もうとして、妥協するあまり、世に埋没してしまってもなりません。

前者のような純粋の孤立型クリスチャンでもなく、後者のような妥協の埋没型クリスチャンであってもなりません。イエスはその両方を警戒せよと言われたのです。私たちは、純粋でありながら、世に溶け込んで行く純粋の埋没型クリスチャンを目指します。

つまり、私たちはこの世にありながら、この世の者ではありません。神の御国の国民です。神の子たちです。祈りましょう。極端な分離主義にもならず、また世俗主義にもならず、聖霊の助けの中で、神の子どもとして生き抜くことができますように……。

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このイエスの警告を弟子たちは理解できませんでした(8:16)。その理由は、先のパンの奇跡を通して悟らず、心が鈍くなっていたからだと、イエスは指摘なさいました(17)。この〝心の鈍さ〟はまだ続きます。

イエス様が、キリストの受難と復活を予告なさっても、その真意を悟ることができませんでした。返って「そんなことがあってはならないと」主張するペテロに対して、サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っていると叱責を受ける始末でした(31~33)

なぜ、悟ることができないのか。それは、神のことを思わないで、人のことを思っているからです。自分の計画にキリストを利用しようとする人は悟ることができません。

神の御心のために自分をお使いくださいと、自分の人生(いのち)を投げ出す者は悟ることができます(35)

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

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マルコの福音書 7章

2024年08月24日 | マルコ福音書
マルコ7:13 こうしてあなた方は、自分たちが受けついだ言い伝えによって、神の言(ことば)を無にしている。

ことの発端は、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったので、そのことをパリサイ人と律法学者らが指摘したことから始まりました。彼らはイエスに対してなぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですかと責めました(7・5)

ユダヤ人にとって水の洗いはとても重要な意味をもっていて、律法には水によるきよめの命令が多く記されています。これは、やがて来臨するキリストによって罪がきよめられることの預言としての儀式でした。 ※「きよめ」の詳細に関しては、マタイによる福音書15章の「朝マナ」を参照。

法律すなわち神の御言も、やがて〝言い伝え〟になり、習慣になって、本質を失って行きました。形式的に水で洗えばきよくなったと勘違いするようになっていました。

そのことをイエスは、あなた方は、自分たちが受けついだ言い伝えによって、神の言(ことば)を無にしていると言われたのです。 ※新改訳では「空文にしている」。

旧約における「水の洗い」は、来るべきキリストによる霊的なきよめの予型(よけい)です。モデルとか模型といえば分かりやすいでしょうか。そこで、本当のきよさとは何かを、イエスは教えられました。

旧約で定められていた「水によるきよめ」は外側のきよめでした。それは新約においては「御言による霊的なきよめ」のことです。つまり内側のきよめを表しています。

イエスの言われるとおり、私たちの内側から出るもの……つまり、口から出る言葉が人をけがすのですから、言葉の出所(でどころ)である内側をきよめなければなりません。そのためには、聖霊なる神が私の内側に住んでくださり、ご支配くださるしか方法がありません。

聖霊は、私の内側を御言できよめます。御言が私の考えとなり、感覚となります。御言を基準に考え、感じるようになります。神の御言は、水が体をきよめるようにして、私の内側すなわち考えや心をきよめます。これは聖霊なる神の働きです。

この聖霊の働きを無視するなら、今の時代においても、神の御言を無にしてしまうということが起こります。2千年前のパリサイ人たちが、言い伝えにっよって神の御言を無にしたのと同じことが起こります。今の時代の「言い伝え」とは何でしょうか。

(1) 聖書の記録は人間の言葉に過ぎない……という「言い伝え」です。

聖書は人間である弟子たちの言葉だ。単なる歴史的な記録文書だとして徹底的に批判的に科学的に分析しようとする神学があります。それは神の御言を無にする「現代の言い伝え」になっています。そのような言い伝えは、神の御言としての権威を骨抜きにしてしまいます。神の御言に伴うべき力を奪い取ってしまいます。

(2) 聖書の奇跡は初代教会で終わった……という「言い伝え」です。

聖書に記されている、しるし……いやしや異言などを伴う聖霊の働き……は初代教会の時代で終わったとする神学も、神の御言を無にする「言い伝え」になっています。

(3) 日本宣教は難しい……という「言い伝え」です。

日本の伝道は難しいと言われて久しくなりますが、そのような人々の考えも、「言い伝え」のようになって、神の御言を無にしてしまっています。

祈りましょう。神の御言の権威が回復されますように。言い伝えによって空文化されてしまった神の御言に、2千年前と変わらないしるしが再現しますように。

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さて、マルコ福音書の7章で、もうひとつの聖句を考えてみましょう。証言禁止命令についてです。これは、他の福音書でも記されています。なぜ、イエスは禁止なさったのでしょうか。聖書にはこう記されています。

イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。(7・36)

先の6章では、イエスを拒絶した郷里の人々を見ました。それに続いて、ヘロデ王の拒絶が記録されていました。そして、7章では、パリサイ人らの拒絶の記録です。本質を見失った律法解釈は、真理(イエス)を目の前にしても受け入れません。

一方で、イエスを信じたスロ・フェニキアの婦人が登場します。彼女は異邦人であるにもかかわらず、イエスを主と信じ恵みを受けました(7・24~30)

そして、31~37節の出来事です。ここに、耳が聞こえず口のきけない人が連れてこられました。両耳に指を差し入れるとか唾をして舌にさわる行為は、当時の呪術的な習慣だという説もありますが、聾唖(ろうあ)の人に対して感覚的に、かつ視覚的に分かるようにイエスがなさったとも考えられます。

こうしてイエスは「開け」とおっしゃって、彼の耳は開き、口が開いたのです。

イエスの声を直に聞く耳を持ちながら、真理を聞き分けることのできない人々とは対照的です。また、もの申す口を持ちながら、その口でイエスを非難する人々とは対照的です。

私たちの耳は、神の御言を聞くために与えられているのです。私たちの口は、イエスを主と告白し、主の証しを語るために与えられているのです。そのために、耳と口が開かれたのは聾唖の人であったとは……。意義深い出来事です。

さて、にもかかわらずイエスは彼に口止めされました。この類の禁止命令はマルコ福音書に幾つも記録されています。ツァラトがいやされた時(1・44)。汚れた霊に対して(3・12)。ヤイロの娘が生き返ったとき(5・43)。弟子たちに対して(8・30、9・9)しかし〝 聖霊降臨の後〟は全世界に出て行って証しせよと命じています。ここに謎解きのヒントがあります。

イエスは「だれにも言ってはならない」と命じられたが、彼は口止めされればされるほど、返って言いふらしました。この証し禁止令は、人間の天の邪鬼(あまのじゃく)な心理を利用して、布教が広がる作戦ですか。そうではありません。8章に至っては、「あなたはキリストです」と的を射た告白をした弟子たちにでさえ、そのことをだれにも言わないように命じておられます。

イエスがキリストだと分かったら、是が非でも伝えたい。恵みを体験したら、語らずにはいられない。自然な反応です。でも、そこに「待った」をかけられるにはそれなりの理由があるはずです。

イエスは、助け主なる聖霊が来られたら、そのお方はイエスについて証しをなさると言われました(ヨハネ15・26)。三位一体の神のうちで〝聖霊なる神〟こそがイエスを最も正確に教えてくださるお方です。このお方によって、イエスは主であると告白し(Ⅰコリ12・3)、このお方によってイエスの証人になるのだと言われました(使徒1・11)

また、復活後のイエスも聖霊を受けよと命じられ(ヨハネ20・22)、はやる弟子たちをいさめるようにして聖霊を受けるまで都に留まっていなさいと命じられました(ルカ24・49)。イエスの証しは聖霊のなさることだからです。

一時の感情の盛り上がりでするのでもなく、興味本位のうわさ話で広がるものでもありません。もし、そうであったら、今日、イエスの福音は歪んだ内容で伝わっていたことでしょう。

事実、中世の教会では聖霊を軽んじる神学が主流でした。そのことで、福音という神の言を無にしていました。宗教改革しなければならないほど歪んでいたのです。聖霊を無視した結果です。

ルターやカルヴァンの宗教改革で神の御言は回復されました。これも聖霊なる神の働きです。でも、この改革で完全に回復したとはいえません。ますます聖霊の助けを得て神の御言を知ろう。聖霊の助けを得てイエスがキリストであると証ししよう。


マルコの福音書 6章

2024年08月23日 | マルコ福音書
マルコ6:5 そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。

イエス様が郷里に戻られた時の様子が記されています。イエスは神である父のふところから来られた方ですが、マリヤを母として地上にお生まれになったので、この場合の郷里とはマリヤとその家族が住むナザレの村のことです。

郷里では、イエス様は「力あるわざをひとつもすることができなかった」と記されていますが、その時に限ってイエス様の調子が悪かったのではありません。原因は郷里ナザレの人々にありました。

イエスを幼い時から知っている村人にとって、イエスが神の子だとは、にわかに信じがたいことでした。また、村の人々がイエスのことをマリヤの子と呼んでいることにも表れています(6・3)

当時の呼び名は、「ヨナの子シモン」とか「ゼベダイの子ヤコブ」などと、父の名をかざして呼ぶのが通例です。ところがイエスに対しては、母の名マリヤをかざして「マリヤの子」と呼んだのは、人々がイエスの出生にかねてから疑問を抱いていたからです。「聖霊によって身ごもったと言っているが怪しい。ヨセフの子ではなさそうだ。訳ありの妊娠じゃないのか」などと陰口がささやかれたことでしょう。

そのように、いぶかしく思う心、軽んじる心のあるところは、石地に種を播くようなものです。実を結ばないばかりか、芽を出すことさえもできません。

この出来事を私たちの郷里伝道にそのまま適用するのはおこがましいのですが、私たちも郷里では伝道の難しさを感じます。郷里とか、家族のなかでクリスチャンとして生きる ……これって、なかなかストレスがあるというか、妙に肩を張っているというか……そんな戦いを大なり小なり感じるものです。

未信者の家族や友人の対応がそうさせることもあるでしょうが、多くの場合、自分にその原因があります。クリスチャンだから良い所を見せなくては証しにならない……といった「律法」がいつの間にか、自分を窮屈にしていませんか。イエス様の場合は、村人の肉なる思いが福音の妨げとなったのですが、私たちの場合は、自分自身の肉なる思いがそうしていることが多いのです。

律法的になって、その律法に添って頑張っていられる間は上手く行くのですが、それはあくまでも肉の力です。人間の頑張りですから、長続きしません。そんな頑張りは時に悲愴感さえただよいます。

家族とは正に〝肉親〟です。肉の関係なのです。だから、つい、肉の力が入るのです。

私たちは、律法の束縛から解放されて、福音の中に生きる者とされたはずです。御霊で始めたのに肉の力で仕上げようとするのでしょうか。信仰の始まりは御霊(聖霊)によってスタートしたのですから、その後も最後まで聖霊によって進みます。

救われるために、肉の頑張りは何も通用しなかったように、救われた後も同じです。肉は何の役にも立たないのだと心得るべきです。

そういう意味で、肉親への伝道は、数ある伝道の中で最も難しいのかも知れません。身近な人への伝道が一番難しいのです。にもかかわらず、最もあきらめることのできない伝道でもあります。

だからこそ、肉によらず、聖霊によることを体験する恵み深い場でもあるはずです。肉の力が最も働くところ……そこが一番弱いところです。しかし、その最も弱いところこそ、聖霊の助けを必要とするところです。

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その後のことですが、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人々の給食を提供なさった出来事がありました(6・30~44)。このテーマはマタイ福音書で取り上げたので割愛します。

5千人の給食という大仕事を終えた弟子たちはガリラヤ湖を舟で渡っていたのですが、逆風で漕(こ)ぎあぐねていました。多くの場合、困難なことがあると、悪い方へと考えてしまう傾向があります。

逆風にあうと、マイナス思考のスイッチが入ってしまいます。やっぱり駄目か。以前も駄目だったもんな……と。

ガリラヤ湖上の弟子たちもそうでした。逆風のため「マイナス思考」になっていました。だから、イエスが水の上を歩いて来られたのを見て、幽霊だと思って恐れてしまいました。敬愛する先生が助けに来てくれたというのに、そのお方を幽霊だと見間違うなんて、どれだけマイナス思考なのですか。

なぜ、マイナス思考になってしまうのでしょうか。聖書は先のパンのことを悟らず、心が鈍くなっていたからだと説明しています(6・52)。 ※新改訳では「心が堅く閉じていたからだ」。

「先のパンのこと」とは5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人々の空腹を満たしたことです。このことで弟子たちが悟っていれば、逆風の中でも恐れることはなかったというわけです。では、何を悟るべきだったのでしょうか。

5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々が食事をするのは不可能に思えました。つまり、弟子たちはマイナス思考で考えました。だから、食事をさせるより帰宅させようとか、200デナリでパンを購入しても足りないとか、5つのパンと2匹の魚が何の役にたつかと考えたわけです。

ところが、5つのパンと2匹の魚をイエス様の御手に渡すと、5千人以上の人々の空腹を満たすことができました。

このことを通して、神の御手にあるならマイナスがプラスに変わるのだ……と悟るべきでした。神の国の計算方法は、地上の計算方法とは違うのです。

私たちはそのことを悟っているでしょうか。主が共におられることを悟っているでしょうか。普段の何気ない出来事の中に、主がなしてくださった愛を悟っているでしょうか。

悟らないでいると、心が鈍くなってしまいます。心が堅く閉じてしまい、マイナス思考の渦(うず)に巻き込まれてしまいます。蟻地獄に落ちるようにして、ますます悪い方へと思いが沈んでしまいます。

心を柔らかくして観察してみよう。何ひとつ偶然はありません。主が共におられることの証しが身近なところにあるはずです。神の御手にあるなら、万事が益と変えられることを見るはずです。

祈りましょう。目の前の現実をマイナス思考で受け止めるのではなく、プラス思考で見ることができますように。地上の計算方法から解放されて、神の計算方法で受け止めることができますように。神の圧倒的な愛を前提にものごとを見ることができるように……。


マルコの福音書 5章

2024年08月22日 | マルコ福音書
マルコ5:30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、わたしの着物にさわったのはだれかと言われた。

会堂司ヤイロの娘をいやすために、イエスとその一行は道を急いでいました。その道中での出来事です。12年間も病を患っている婦人が、群衆に紛れ込んでイエスの着物にさわったのです。彼女は「きっとなおる」と信じてさわりました。 ※「会堂司」とは「会堂管理者」のこと。

そこでイエス様は、わたしの着物にさわったのはだれかと問われたのです。実際は沢山の人がさわっていたのです。なのに、イエスにとっては、〝本当にさわった〟のはひとりだったのです。

ところで、なぜイエスは、着物にさわった者を見つけ出そうとなさったのでしょう。彼女はいやされたのですから、それで目的を果たしたのです。しかし、わざわざ彼女を見つけ出し、あなたの信仰があなたを直したのだと宣言なさいました。

もし、イエスのこの取り扱いがなかったら、やがて彼女は「あの時は偶然直ったのかな?」と思うようになったでしょう。そして、偶然であれば再発するかも知れないという不安をかかえながら、イエスに対する信仰は衰えていったことでしょう。

イエス様は彼女の信仰を明確になさったのです。イエスこそ罪をゆるし、病をいやす権威のある救い主、神の御子であるという信仰が彼女を救ったのです。この信仰告白へと至らなければ、いやされても単なる幸運な出来事で終わってしまいます。こういう理由で、イエス様は急いでいるにもかかわらず、足を止めて彼女と向き合ってくださったのです。

さて、あなたは、群衆のようにイエスにさわろうとしている者ですか。それとも、信じてさわる者ですか。祈りも同じです。心から信じて祈ろう。

群衆がどんなにさわっても、イエスは何も感じられませんでした。さわってみて御利益でもあれば幸運だと思っている程度だからです。でも、長血を患っていた婦人は違いました。心から信じてさわったのです。それは、イエスにも感じられるほどの信仰です。イエスに〝伝わる信じ方〟です。

私たちの祈りや賛美はどうでしょうか。呪文のような祈りでしょうか。自己陶酔の賛美でしょうか。そのような祈りや賛美は〝群衆の手〟のようです。自分はさわっているつもりでもイエスに伝わりません。

だから、心から信じて祈ろう。イエスを心から愛して賛美しよう。だれですか。いまわたしに祈ったのは?と尋ねられるほどに。信仰のある祈りは、先を急がれるイエスの足さえも止めるのです。

さて、イエス様は彼女を捜し出し、その信仰を確かなものとしてくださいました。彼女は恥ずかしかったでしょう。できれば、そっと帰りたかったでしょう。

でも、信仰は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです(ローマ10・10)

密かに信じているのではなく告白するのです。バプテスマを受けることで信仰を確かなものにします。また、いやしを受けたらそれを証しするとよいでしょう。証ししておきながら元に戻ったら格好が悪いと考えて黙ってしまうのではなく、それを証しすることでいやしが確かなものになります。

◆◆◆◆◆◆

さあ、この出来事は会堂司ヤイロの娘を癒そうと急いでおられる道中のことでした。 しかし、そうこうしているうちに、お嬢さんは亡くなりましたいう知らせがとどきました。ああ遅かったか。このロスタイムがなかったら……と、ヤイロは悔しく思ったことでしょう。

しかし、イエスはその話している言葉を〝聞き流して〟、会堂司に言われた、恐れることはない。ただ信じなさいと言われたのです(5・36)。 ※口語訳では「聞き流して」と翻訳。 私たちは人の話しに影響を受け過ぎていないだろうか。イエスの御言に集中しよう。

「人の話しは無視せよ」というのではありません。ただ、物事には「筋(すじ)」が必要だと申し上げたいのです。鉄筋が入っていなければ、どんなに固いコンクリート建築も地震で崩れてしまいます。私たちの人生には、鉄筋のようにして、神の御言が「筋」となって入っていなければなりません。

神の御言という「筋」を間引きして、代わりに人の言葉で置き換えて、手抜き工事の人生になってはなりません。人生の耐震偽装をしていると、試練という地震で倒壊してしまいます。

神の御言がです。たくさんの御言を、建築物の鉄筋のように人生の中心に埋め込むことです。

周囲には「お嬢さんはなくなった」とか「もう遅いです」とか「イエス様に御足路いただく必要はない」などと、人々の言葉が行き交います。しかし、イエス様は人の言葉に左右されずに進みます。

イエスがヤイロに語られたように、恐れることはない。ただ信じなさいです。この御言が、私たちの鉄筋になりますように……。

ヤイロは「遅かったか」と思ったことでしょう。しかし、神の時に遅いはありません。すべてに時があるのです。イエス様の御言を信じ、イエス様の時を信じてください。すべてのことは時にかなって美しいのです(伝道3・11)


マルコの福音書 4章

2024年08月21日 | マルコ福音書
マルコ4:20 良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのである。

父なる神は農夫のようなお方です(ヨハネ15・1)。この地に「御言」という種をまいて、終わりの時代に収穫を得ようとなさっています。

黙示録で、世の終わりが「大収穫の時代」として描かれているのは興味深いことです。終末の大収穫において、信仰による実りは天の倉に収め、罪の実は収穫後に地獄の火に投げ込まれます。

神は〝御言〟という種をまいておられます。私たちは「一日一章」をこつこつと取り組んでいますが、日々にいただく御言は、私の中にまかれた霊的な種です。

(1)神の御言は種です。

種は小さくてもいのちが充満しています。たとえば、麦の種であれば、その種の中に麦に関する100%が入っています。だから、条件さえ整えば、確実に芽を出し結実します。

だから、神の御言を信じるとは、神のもっておられる100%を受け取るようなものです。ただ、それが小さいので軽んじる人もいますが、種には豊かな実りをもたらす力がすでに潜在しています。

(2)問題は御言がまかれた後です。

道ばたにまかれた種は、根付く前に鳥がついばんでしまいます。それは、御言を知識として受ける人です。信じる以前の状態です。

御言は私たちの霊の領域に受けなければなりません。しかし、知識とか記憶といった脳細胞の領域にまかれても、脳細胞が弱って記憶力がなくなると、御言は消えてしまいます。

知的に御言を受け止めても、この世の理論によってもみ消されます。鳥が道ばたの種をついばむように、サタンが持ち去ってしまいます。

堅い土地にまかれた種は根が深く張ることができないので、芽を出してもやがて枯れてしまいます。堅い土地とは、心がかたくなな人のことです。疑いの心がいつも邪魔をします。根が少し伸びても、疑いの心という岩盤に突き当たって、それ以上に根が伸びません。

いばらの地にまかれた種は、成長しても、周囲のいばらによってふさがれてしまいます。毎日の生活のわずらわしさによって、御言を見失う人です。だから、御言を見失わないために、一日一章の取り組みは大切です。

(3)耕された霊魂に御言を受けよう。

良い地にまかれた種は豊かに実ります。良い地とは、耕された土地のことです。試練を通過することによって、かたくなな心や強情な心が砕かれ耕されます。悔いし砕けし魂は、耕された良い地です。

良い地とは、神の御言を歓迎する心です。御言は、私たちの心にまかれると、御言の実を結ぶために働き始めます。でも、その働きを歓迎しない心では、充分に力をあらわすことができません。

人も同じです。自分が歓迎されていないと感じるなら、居心地が悪いです。早く退席したくなります。だから、御言を心から歓迎してください。御言が居心地の良い環境を整えることです。

最後に忘れてならないことは、私たちは畑だということです。

種が実を結ぶために手入れをし、収穫にいたらせるのは農夫です。畑はそんなに頑張りません。農夫である神が、畑である私たちを耕し、手入れをなさいます。ですから、時には痛い思いをするかも知れません。

私たちにできることは、御言がまかれる畑として自分の人生を提供することです。御言のとおり実現しますようにと、自分自身を提供することです。

「あなたは神の子を身ごもるのだ」といわれた主の御言に対して、乙女マリヤは、「どうぞ、御言の通りこの身になりますように」と自分の人生を神に提供しました。彼女は、神の御言を受け入れて、キリストを出産する畑として、自分を提供した人です。

同じ神の御言を聞いても収穫に差が出ます。だから、心を柔らかくして、御言の真意を悟る必要があります。聞く耳のある者は聞きなさいと言われ(4・23)、さらに持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろうと言われました(25)

これは、お金持ちはますます裕福になって、貧乏人はますます貧しくなるといった、経済格差を予告しているわけではありません。イエスがこのように語られたのは、先程の種まきの話に基づいています。

まかれた種(御言)は同じでも、土地によって結果が異なります。問題は種ではなく土地です。土地とは、御言を受けた自分自身のことです。それは「信仰」という良く耕された畑なのか、それとも、「無信仰」という道端なのか、あるいは「不信仰」という石地とかいばらの地なのかということです。

信仰が良く準備された地では、豊かな実を結ぶようになるのです。

信仰を豊かに持っている人は、ますます豊かに実を結ぶようになります。しかし、とりあえず信じておこうと、人生の〝おまけ〟程度なら、その信仰はますます貧弱な信仰になってしまいます。

だから、信じるなら、しっかりと信じてください。光を灯しながら、それを枡(ます)の下や寝台の下に置くようなことをしてはならないのです。灯火は燭台の上に置いて照らすように、信仰もはっきりさせなさいと言われたのです(4・21)

灯火を燭台の上に置くように、信仰を日々の生活の中でしっかりと掲げるのです。信じてるのか、信じていないのか分からないような中途半端な生き方ではなく、旗印をはっきりとするのです。

こうして、持っている人は更に与えられるのです。霊的豊かさは、終わりの時代になればなるほど格差が生じることになるでしょう。


マルコの福音書 3章

2024年08月20日 | マルコ福音書
マルコ3:9~10 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。

イエス様を通して、多くのいやしと力あるわざがなされ、その評判を聞きつけて大勢がイエスのもとに押し寄せてきました。集まったのは地元ガリラヤの人々をはじめ、様々な地域からの人々でした(3・7~8)。伝道集会としては大成功。しかし、イエスは人数に一喜一憂することなく冷静に対応なさっています。群衆と一線を画すように小舟に乗られたのです。

何故そうなさったのでしょうか。第一に、イエスにさわっていやされようとする人々で集会が混乱しないためでした。しかし、それだけではありません。イエスは舟の上から御言を語られました。奇跡を体験したいばかりに押し寄せる群衆に対して、イエスはまず御言を語ろうとなさったのです。

この記事の直前には、イエスを訴える口実を得るために奇跡を期待する人のことが記されています(3・2)。そんな不信仰な記録に続いて、奇跡を求める群衆の姿が描かれています。彼らはイエスにさわろうとして押し寄せて来ましたが、彼らに必要なことは肉の手でさわってイエスを知るのではなく、御言を聞いて知ることです。

けがれた霊でさえ「あなたこそ神の子です」と知っていたのに(11)目の前で奇跡を体験しながらイエスが誰なのか分からないのが〝群衆〟です。

この後、群衆とは区別するかのように〝弟子〟の任命記事が続いているのは興味深いことです(13~)。弟子とは、御言を聞いて悟る人のことです。御言によってイエスを知る人のことです。都合の良い奇跡を願うだけでなく、イエスと苦労を共にしようとする者たちです。それが弟子です。

はたして自分は「いいとこ取り」を願ってイエスについて行く〝群衆〟だろうか。それとも、イエスの栄光だけでなく、苦難をも共に受ける〝弟子〟だろうか。それが問われています。

さて、人はどうしても肉体の感覚で神を知ろうとします。だから、「見たら信じられるのに」といいます。トマスのように「さわるまで信じない」という人もいます。手でさわり、目で見ることこそ確かだと考えるからです。

しかし、神は、人間が神の御言によって神を知るように創造なさいました。ですから、信仰は神の御言を聞くことから始まります。なのに、群衆はイエスにさわろうとしてやって来ました。この目で奇跡を見たら信じようとしていました。

自分の部下のいやしを願いでたローマの百卒長は、イエスが直接おいでになって手でふれてくださらなくても大丈夫だと申し上げ、「ただ、御言をください」と求めました。

ルカ福音書によると、彼はイエスと直接に会っておらず、友人を介して御言を求めたと記録しています。彼はイエスを見ていませんし、さわってもいません。ただ、神の御言を通してイエスを知り、いやしを体験しました。

この百卒長と同様に、現在の私たちもイエスを見ることも、触れることもできません。しかし、聖霊によって、2千年前と同じように神の御言を聞くことができます。

今日、聖霊の助けを得て、私たちの内なる霊の感覚を研ぎすまして、小舟の中に立って語られるイエスの御言に耳を傾けよう。

◆◆◆◆◆◆

御言を通してイエスを知る人々がいる一方で、奇跡を体験しても、それは悪霊の仕業だと批判する人々もいました(3・22)。それに対してイエスは人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められると言われました(3・28~29)

これは難解な聖句です。イエス・キリストは私たちの罪の赦(ゆる)しを成し遂げてくださったはずですが、聖霊をけがす罪とはどういうことでしょうか。しかも、それはいつまでも残るのです。

そこで整理しておきましょう。イエス様が十字架で死なれることで解決してくださった罪は、原罪です。アダムが罪をおかして以来、人類の霊に受け継がれてきた〝根っ子の罪〟とでもいうべき罪です。

イエスを信じた私たちの根っ子の罪はすでに解決済みです。完全にゆるされています。だから確実に救いを受けています。もはや地獄に行くことはありません。でも、日毎におかしてしまう罪があります。それは、〝枝葉の罪〟です。〝根っ子の罪〟とは、創造主を否定する罪のことです。そのような根っ子から生え出た枝葉のようにして、行いの罪が生じます。

イエスを信じることによって、原罪をおびた根っ子は切り捨てられ、イエス・キリストという罪のないきよい根っ子に接ぎ木されました。ですから、救いを受けています。しかし、枝葉の部分にはまだ以前からの罪の性質が残っています。そのような〝枝葉の罪〟については、罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめて下さいます(Ⅰヨハネ1・9)

以上の基本をふまえて「聖霊をけがす罪」とは何かを考えてみます。

父なる神は御心(計画)をお立てになる神です。子なる神キリストは父の御心を実現なさる神です。その御心(計画)とは、人類の罪のために十字架で死ぬことです。

つまり、子なる神・キリストは、人々から裏切られ、あなどられ、殺されるために来てくださったのですから、そのような仕打ちを受けることが前提になっています。だから、それはゆるされます。

人の子に対して言い逆らう者はゆるされます(マタイ12・32)。また、人のおかすすべての罪、神をけがす言葉さえもゆるされます(マルコ3・28)。ですから、イエスを十字架につけて殺した人々もゆるされました。イエスを裏切ったペテロもゆるされました。クリスチャンたちを殺したパウロでさえ、神はゆるして、彼を使徒として用いられました。

さあ、整理しましょう。子なる神が人々から裏切られ、あなどられ、殺されるために来られた神であるのに対して、聖霊なる神は、信じる私たちの中で主人となるために来られた神です。

聖霊なる神は、私の中で主人となられて、私の中にキリストの御姿を映し出そうとなさる神です。こうして聖霊は、私たちの人生の中に、キリストの働きを再現なさいます。

ですから、聖霊は私をして、「イエスは主だ」と告白させます。聖霊は、知恵・知識・力あるわざ・預言・異言・いやし・けがれた霊の追い出しなどの賜物をもって、キリストの働きを再現されます(Ⅰコリ12・1~10)。

聖霊なる神は私の中で主となられて、キリストを証しなさいます(ヨハネ15・26)。聖霊なる神は、私の中で主導権をにぎって、キリストがなさったように私たちにも種々の賜物を現されます。しかし、このような働きは、当時も今も、世では批判的です。

聖霊をけがす罪とは、このような聖霊を拒絶することです。意図的に、意志的に聖霊に逆らうことです。このような罪は帳消しにはならず、主から懲らしめを受けることになるという意味です。 ※地獄に行くという意味ではない。

ただし、気づかずに聖霊に反してしまうことがありますが、それはここで言われる「聖霊をけがす罪」ではないと思います。それは、私たちの弱さから来るものであって、主にあってゆるされると信じます。

神は、聖霊に従順することを願っておられます。私たちが聖霊に従順することによって、聖霊なる神は、子なる神が実現した神の御心を、あますことなく私の内にも再現しようと願っておられるのです。

祈りましょう。私が聖霊に反することがないように。聖霊が私の中で自由にお働きになりますように……。


マルコの福音書 2章

2024年08月19日 | マルコ福音書
マルコ2:17 丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。

第1章では、人々がキリストと出会うための道を整えた人物……バプテスマのヨハネのことを取り上げました。彼は、人々に罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを教えました(1・4)。その教えを聞いて、多くの人々は、〝自分の罪を告白し〟、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けました(1・5)

つまり、罪の告白が、キリストと出会うためのとなりました。自分は罪人だと知った人は、キリストと出会う道を見出したのです。なぜなら、罪の解決はキリスト以外にないからです。逆に、罪人だと認めない人はキリストと出会うことができません。

ですから、イエス様のまわりには罪人だと自覚した人々が集まっていました。こう記されています。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大勢いて、イエスに従ってきたのである(2・15)

しかし、そんな彼らの集まりを冷ややかに見る人々もいました。

「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』。」(16)

パリサイ派の律法学者たちは、律法を厳格に守る立派な人々でした。でも、問題がありました。立派だから問題が無いのではありません。自分は立派にやっているから何の問題もないと思い込んでいることが問題です。だから、パリサイ派の律法学者たちは、イエス様を目の前にしながら、キリストと出会うことができませんでした。

現代にもこのような人々が大勢います。聖書を読んでイエスのことを知っていますが、キリストと出会っていない人々がいます。また、イエスを信じなくても自分は立派にやれるからと考えて、キリストと出会おうともしない人々がいます。

自分が、永遠の滅びにいたる〝罪人〟という病気にかかっていると知った人は幸いです。その人は、罪人を癒(いや)す唯一の医者イエス・キリストのもとに駆けつけるからです。イエスは、そのような罪人を招いておられるのです。

◆◆◆◆◆◆

自分は立派にやっていると自覚する人々は、何かと他者に批判的です。その最たるがパリサイ派の人々でした。彼らは、イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食したことをとがめたのです(2・23~24)

律法は週の7日目(土曜日)を「安息日」と定め、この日の一切の労働を禁じて休息するようにと命じています。そこで律法学者は、「歩く距離」「運ぶ荷物の重量」「記録する文字数」等々、労働をこと細かく定義して安息日を厳守しました。弟子たちが、麦の穂を摘んで食したことは、この安息日規定に違反すると指摘したわけです。

このような状況ですから、安息日規定に違反せずに過ごすには、神経をすり減らしたことでしょう。皮肉なことに、「休みなさい」と言われているのに、気の休まらない安息日です。

パリサイ人の指摘に対してイエスは、王ダビデと祭司アヒメレクとの事例(サムエル上21章)をあげてお応えになりました。神殿に供えたパンは祭司以外が食してはならないという律法の規定も、緊急事態に応じて変更されたではないかと……(マルコ2・25~26)

それは、単なる人間中心のご都合主義ではなく、律法の本質である愛」を基準に判断されるべきことを教えています。

ある時、イエスは律法学者達との論争の中で、あなた方は受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしていると指摘なさいました(マルコ7・13 新改訳)

この「言い伝え」とは、本質である愛を見失った律法解釈のことです。愛を見失った宗教は、神のことばを空文にしてしまいます。実りのない空しい宗教生活を強いるだけです。

空文と化した安息日の中身を取り戻す必要があります。安息日の本当の主人であるイエス人の子を中心にお迎えしなければなりません。そこにこそ、人間が本当に安息できる「安息日」の完成があるのです。だから、人の子は安息日にもまた主なのであると言われたのです(2・28)

「愛」という本質を見失うなら、福音の時代といえども「新手(あらて)の律法主義」が生まれます。安息日の主であるイエスを、あなたの中心にお迎えしよう。イエスの愛を、しっかりとあなたの中心に据えよう。

さて、人間の言い伝えによって空文化された安息日には本当の安息がありませんでした。しかし、安息日の主であるイエス・キリストをお迎えするとき、そこに真の安息があります。律法の本質である愛は、イエスによって満たされるからです。

アルパヨの子レビの家に設けられた食卓には、大勢の罪人や取税人たちが集まっており、彼らはその食卓の中心にイエスをお迎えしていました(15)そこにこそ、律法では成し得なかった真の安息がありました。なぜなら、そこには神の愛が満ちているからです。神の恵みが満ちているからです。

律法の行いによるのではなく、イエスを信じる(中心にお迎えする)だけで救いを受けるのです。

この信仰による恵みを知る以前は、何とか良い行いをして、立派な人格者になって神に認めてもらおうと躍起でした。そこには安息がありませんでした。しかし、イエスの中で安息があります。肉なる〝仕事〟を休んで、何もしないで居られる世界です。

私たちの住む世界は、絶えず努力を要求します。まさに現代版律法主義の世界です。

しかし、その頑張りを休んで、信じるだけで義としていただける安息があるからこそ、現世で生きる勇気を得るのです。さあ、安息の中に入ろう。この安息を失ってはならないのです。


マルコの福音書 1章

2024年08月17日 | マルコ福音書
マルコ1:2~3 見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。

イエス・キリストはいきなり来られた方ではありません。偶然に来られた方でもありません。長い間の準備がありました。その準備として、神の預言……神の啓示……がありました。ここが一般宗教と決定的に異なる点です。

はじめに預言があって、その預言通りに来られた方なので、人間の業(わざ)ではないことを意味しています。人間が哲学的に構築して仕上げた宗教ではなく、神の方から与えてくださった信仰です。それがイエス・キリストを信じることです。

さて、旧約聖書には何が書いてあるのでしょうか。ひとことで言えばやがてキリストが来られるという預言です。モーセをはじめ多くの預言者たちが、キリストの来臨を預言しました。旧約聖書はその預言で満ちています。

冒頭の聖句も、旧約の預言者イザヤが語った言葉です。キリストが来られる前に、キリストが来られる道をまっすぐに整える者が登場するのだ……と預言しました。さらに、その人物とは荒野で呼ばわる者の声だと紹介しました。そして、新約聖書は、その〝声〟なる人物とは、バプテスマのヨハネだと証言し ているわけです。

荒野には道がありません。道がない所が荒野です。そんな荒野でキリストと出会うためには道が必要です。バプテスマのヨハネは、キリストと人が出会うための道を備えた人物でした。その道を示すための〝声〟として用いられた人物です。

旧約聖書の民であるイスラエルの人々にさえ、このような「道」が必要でした。ましてや、日本のように、聖書的な土台のない民がキリストに出会うためには、なおさら道が必要です。

日本は、福音宣教の立場からすれば「荒野」の国です。そんな荒野で呼ばわる者の〝声〟が必要です。あなたも祈りませんか。私を荒野で呼ばわる者の声として用いてください……と。

〝声〟というのは、やがて消えてしまうものです。ある意味ではとても無力です。でも、やがて消えてしまう声に〝御言〟を乗せて運びます。声は消えても、御言は永遠に残ります。

私たちの地上生涯も声のようにやがて消えて行きます。しかし、その消えてしまう人生に、御言を乗せて歩むことができます。そんな〝荒野の声〟として、私たちが用いられますように……。

さて、いよいよ、バプテスマのヨハネが用意した道を通って、イエス・キリストの登場です。そのイエスの特徴的な活動とは何でしょうか。その教えが律法学者たちのようではなく、権威ある者のようであったことです(1・22)

イエス様の教えは、知識がすごいとか、高度で難解なロジックではありませんでした。イエス様の「ことば」に力がありました。単なる「良いお話し」ではなく、結果が伴いました。

それは、けがれた霊が出て行き、病がいやされることでした。マルコ福音書は第1章からけがれた霊の追放記事が次々と記されています。こんなことは、旧約の歴史の中にはありませんでした。

ですから人々は驚いて、権威ある新しい教えだ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだと告白しました(27)

旧約の時代にも、神の力ある働きはありました。紅海が分かれました。荒野でマナが降って民は養われました。エリコの城壁が崩れました。病人はいやされ、死人はよみがえりました。預言者エリヤを迎えたやもめの家の小麦と油はつきませんでした。

しかし、ひとつだけ現れなかったことがあります。それはけがれた霊が出て行くという現象です。それは新約になって、イエス・キリストが来られてから現れるようになりました。

何故でしょうか。それは、神の御子イエス・キリストが王の権威をもって来られたからです。

旧約の時代は、神の国の王(キリスト)が来るための準備期間でした。ですから、王の任命を受けて御使たちが働きました。御使、つまり天使は子の身分ではなく、しもべの身分です。彼らはしもべの身分で働きました。 ※イエス・キリストは神の御子。王の子の身分。王の権威を持って来られた。

同様に、旧約の時代に用いられた人物たちもまた、御使に導かれて、しもべとしての身分で働きました。天使たちは、神による天からの〝使い〟ですから、それなりの権威が与えられています。しかし、王の権威とは次元が違います。それを示す興味深い記録があります。

「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、『主がおまえを戒めて下さるように』と言っただけであった。」(ユダ9)

悪魔とその仲間であるけがれた霊をさばく権威は、王にあります。しもべである天使にはありません。天使のかしらであるミカエルでさえ、『主がおまえを戒めて下さるように』と言うに留めました。しもべは王の権威を越えてはならないのです。

しかし、ついに新約の時代になって、神の国の王が来られました。王が来たのは、暗闇の王である悪魔とその手下であるけがれた霊たちを滅ぼすためです。ですから、神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためであるとあります(Ⅰヨハネ3・8)

けがれた霊は、そのことが分かったので叫びました。「ナザレのイエスよ、あなたは私たちと何の係わりがあるのです。私たちを滅ぼしに来られたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」(マルコ1・24)。このように、新約の時代に入って、王が直接に来られて、今まで病や混乱・腐敗・堕落などを、陰であやつっていた悪魔や悪霊をさばいて滅ぼす時代が来たのです。

福音とは、単なる良いお話しではなく、具体的かつ霊的な解放をもたらすことです。私たちが救われることと、悪魔が滅ぼされることとは表裏の関係です。悪魔は罪を根拠に人類を支配し、死の中に閉じ込めてきました。その悪魔を滅ぼすことは、その悪魔のもとで一生涯奴隷であった人類を救うことです。

イエス様が、肉体をまとって世に来られた目的は、「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」なのです(ヘブル2・14~15)

祈りましょう。このようなわざが、私にも、私たちの家族や友人にもあらわされますように……。


マタイの福音書 28章

2024年08月16日 | マタイ福音書
マタイ28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

イエスが十字架で死なれたのが過越祭のあった金曜日です。その3日目の日曜日にイエスはよみがえられました。教会が日曜日に礼拝をささげるようになったのは、この復活を記念して集まったからです。

さて、弟子たちは、かねてから「わたしは三日後によみがえる」との予告を聞いていましたが、真意を理解できずにいました。復活どころか、イエスの死さえ理解できていなかったことは、すでに見てきたとおりです。

ですから、十字架の死の3日後、弟子たちは、「さあ、今日はイエス様が復活なさる日だぞ!!」と期待して待っていたのではありません。すでに何度も予告されていたのですが、彼らの心が閉ざされていたので、理解できていませんでした。何の希望もなく、ひたすら恐れていました。落胆していました。

また、女の弟子たちは亡骸(なきがら)に油を塗るために墓に出かけて行ったのですが、彼女たちも、イエスの復活を予期していません。だから、イエスの遺体を整えようと思って出かけたのです。

このように、復活の望みがない人生の究極の行き先は「墓」です。弟子たちは墓に何かを求めて出かけました。想い出にひたりたかったのでしょうか。イエスを裏切ったことへの懺悔(ざんげ)をするためだったのでしょうか。ともかく、人生の最終的な行き先が墓であるなら、私たちに希望はありません。

しかし、今日の御言は私たちに告げます。もうここにはおられない。よみがえられたのだと。何もない墓を探し回ることはやめよう。復活のイエス様に目を注ごう。

イエスが復活されたように、イエスを信じる私たちも、永遠のいのちを完成するために復活します。イエス様を信じるとは、イエスと同じようになることです。イエスと同じように死んで、イエスと同じように復活します。

イエス様はもう墓にはおられません。以前ヒットした千の風になってという歌曲があります。あの歌詞の中は……、

「私のお墓でたたずみ泣かないでください。
 私はそこにはいません。
 そこに眠っているのではありません。
 ……中略……
 私のお墓にたたずみ嘆かないでください。
 私はそこにはいません。
 私は死ななかったのです。」

と歌われていますが、イエス様の復活を思い起こさないではいられません。千の風の〝風〟は〝霊を〟を意味していますが、まさにイエスは聖霊となって永遠に私たちと共におられるのです。 ※ナチスの迫害下で母を失った友を慰めようとして書かれた歌だと伝えられている。肉体は朽ちても霊魂は生きていて復活のいのちの中にあることは、残された者に慰めであり希望である。

もう一度申し上げます。イエス様はもう墓にはおられません。

どこにおられますか。聖霊なる神として、イエスを信じる私の内におられます。しかも、世の終わりまで共に居られるのです(28・20)。イエスを信じるとは、復活されたイエスが私の内に生きておられることを体験することです。

キリスト信仰の奥義は内住のキリストです。このお方とひとつになることです。十字架で死なれたキリストとひとつになるので、罪人の私はキリストと共にすでに死んで葬られました。そして、復活されたキリストとひとつになるので、私はキリストと共に復活のいのちにあずかるのです。

◆◆◆◆◆◆

マタイによる福音書を終えるに当たり、イエス・キリストの復活は何を意味しているのかまとめておきましょう。

(1) 私たちの罪に対するさばきが完全に終わったことの証拠です。
 
イエス様は罪の結果である「死」という刑務所に入って、私たちの身代わりとなって刑罰を受けてくださいました。そして、「死」の刑務所から出てこられて、その刑罰が完了したことを証しされました。それが、イエスの復活です。私たちの受けるべき死の刑罰は完全に終わったという証拠です。

もし、まだ出てこられていないのであれば、身代わりの刑罰はいまだに続いていることになります。しかし、主は復活されたのです。私たちの受けるべき刑罰は完全に終わったのです。

(2) 死の向こう側に永遠のいのちがあることの証拠です。
 
人類にとって、死はすべてを飲み込む闇の世界です。まことしやかに死後の世界を語る宗教家たちも、実際は行ったことがないのです。死の向こう側まで行って帰ってきた者だけが、死の向こう側に何があるのかを証言できます。

イエス様は、死の向こう側に行かれて帰ってこられました。その証しが復活です。そして、永遠のいのちがあることを見せてくださいました。十字架の死の向こう側には、栄光の復活があることを見せてくださいました。この復活は、イエスを信じる私たちにも与えられています。

(3) イエスこそ神の国の王であることの証拠です。
 
この世で最も恐れるのが「死」です。この世のどんな偉大な権威も、死の権の前にはひれ伏すしかありません。全世界を手に入れるほどの王の権威をもってしても、死の権に打ち勝つことはできません。

しかし、神の国の王であるイエスは、この死の権を打ち破られました。このお方こそ、まことの王の王、主の主です。死の権を持つ君すなわち悪魔に勝利なさいました。

その復活の主は、天においても地においても、いっさいの権威を授けられたのです(28・18)。それゆえにあなた方は行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施せと命じておられます(19)

これは権威ある王の命令です。絶対に服従すべき命令です。すべての国民をイエスの弟子とせよと命じておられます。このことに、クリスチャンの働きは集約されます。教会のさまざまな活動は、すべての国民をイエスの弟子とするために集約されます。

そして、イエスの弟子とするために父と子と聖霊の名によってバプテスマするのです(19)。さらに、イエスの弟子として成長するために御言を守るように教えます(20)

御国の王であるイエス様は、神の御国のために働く同労者をを求めておられます。それが「弟子」です。救いを受けただけの人ではなく、イエスと苦労を共にする弟子を求めておられます。イエスの12弟子だけが弟子ではありません。2千年後の私たちもイエスの弟子です。

神の御国の働きは、まず私が、イエスの弟子となることから始まります。そして、家族や友人をイエスの弟子とすることによって前進します。祈りましょう。私をイエスの弟子としてください……と。

マタイの福音書 27章

2024年08月15日 | マタイ福音書
マタイ27:37 その頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。

犯罪人が処刑される十字架の上には、その人の罪状書きが張り付けられるのが通例でした。イエス様の十字架にも、その罪状書きが張り出されました。

その罪状書きは、これはユダヤ人の王イエスでした。イエスをさばいたローマ総督ピラトは、王であるイエスはローマ帝国に対する反乱罪に相当すると判断したわけです。

ヨハネ福音書は興味深い記録を残しています。ユダヤの指導者たちは、イエスの罪状書きについて、「王と自称していた」と書き直してくれと申し出たのですが、ピラトはその申し出を却下しました(ヨハネ19・21~22)。つまり、ピラトはイエスを王と認めていたのです。王と認めながらイエスを拒絶したピラトであり、王と認めずにイエスを拒絶したユダヤ指導者たちなのです。

イエス様こそ王の中の王、神の御国の王です。しかし、人々はその王を認めませんでした。御国の王を拒絶して、十字架につけて処刑しました。

自分を王とする者……これが罪人の姿です。罪人は、自分が中心であり、心の王座には「自我」がどっかりと座っています。そして、自分が王である人は、自分以外の王を認めません。あのヘロデ王も、王として誕生した幼な子イエスを殺そうとしたように、自分を王とする人々はイエスを殺すのです。これが罪人である私たちの姿です。

しかし、何という恵みでしょう。私たちの罪(自分を王とする罪)のゆえにイエスを十字架で殺してしまったのに、その十字架で私たちの罪が滅ぼされることになったとは……。

サタンは罪人である人類を利用して、王であるイエスに敵対しましたが、イエスの十字架の死が、サタンの罪と死の力を打ち砕くことになりました。イエスの十字架は、人類には救いをもたらし、サタンには滅びをもたらすことになりました。

さて、イエス様を信じるとは、イエスを王として歓迎することです。いま、私の心の王座にイエス様がお座りになっているでしょうか。

イエス様は復活してどこに座されましたか。そう、天です。天の御国では御子イエスが王として座しておられます。では、あなたの内でイエスが王として座してくださるなら、そこは天の御国です。イエスが王としてお座りになっているところが神の御国です。イエスを王として歓迎した私たちの内に、神の国は始まっています。でも、その神の国は建国途上です。だからイエス様を王の座から引きずりおろうとする〝内紛〟が時々起きるのです。

イエスを王座から引きずりおろそうとするのは誰ですか。私です。自分が王であろうとする限り、まことの王であるイエスに敵対してしまいます。しかし、そのたびに悔い改めます。悔い改めて、イエスを王座に迎えます。

イエス様が王座にお座りになっているとは、どういうことでしょうか。何でも王に報告します。王に対して隠しごとがあってはなりません。そして、王の指示をあおぐことです。

そのような、王なるイエスとの関係があるなら、そこは神の御国です。天国は近づいたのです。天国はここにあるのです。今日も、私の心の王座にイエスがお座りになっていることを確認しよう。そして祈ります。神の御国が私の内から始まり、周囲へと広がって行きますように……。

◆◆◆◆◆◆

イエス様が十字架につけられたのが午前9時頃。そして午後3時頃になって、イエスは大声で叫んでエリ、エリ、レバ、サバクタニと言われました。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(27・46)

イエス様は神の御子だから、十字架の死を難なく乗りきられたのだと思いますか。数々の病をいやし、悪霊を追い出し、嵐さえも従わせるイエス様なのだから、十字架の痛みはそれ程ではなかったのだと考えますか。「肉体を殺しても霊魂までも殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われたイエス様だから、十字架に対する恐れがなかったと思いますか。そんなことはありません。

イエス様は神の御子であると同時に、まったき人でした。痛みを感じる肉体を持ち、空腹や寝不足であれば動けない肉体を持ち、肉体の死の痛みも恐ろしさもお持ちでした。

そんなイエス様ですから、ゲッセマネの園での祈りで、わが父よ、できるものならどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてくださいと祈られました。杯とは十字架における死の苦しみのことです。ですから十字架上における、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの叫びは、本心からの叫びです。

もし、あまり苦しくなくて、演技でそう叫ばれたのであれば、それは私たちの身代わりとはなりません。キリストは人類の身代わりの死を味わう事になっていると預言されているのに、苦しみを演じているのなら、本当の身代わりにはなりません。

本当の身代わりだったので、イエスは正真正銘に苦しまれたのです。実に恐ろしくて、確実に神から見捨てられたのです。

神から見捨てられる」。これほど恐ろしいことはありません。人から見捨てられたり、社会から見捨てられることも断腸の思いですが、それ以上に恐ろしく絶望することは、神から見捨てられることです。

イエス様が本当に身代わりとなって見捨てられたので、イエスを信じる者は、もはや神から決して見捨てられることがありません。

イエス様のあの十字架での絶叫は、私の叫びだと告白できる人は幸いです。あのイエスの十字架で、自分も一緒になって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで葬られたと信じる人は幸いです。その人は、もはや二度と見捨てられることがないからです。