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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ゼパニヤ書 3章

2023年07月19日 | ゼパニヤ書
ゼパニヤ書 3章
その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、すべて彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる。
(3・9)


ゼパニヤをはじめ多くの預言者たちは主の日の到来を預言しました。それは、主がこの地をさばかれるその日です。しかし、そのさばきの後にもたらされる、新しい世界についても預言しました。

ゼパニヤもさばきの後に完成する新しい世界を預言しています。そしてその世界は、冒頭の聖句にあるように、まことの礼拝の回復です。

神はまことの礼拝者を求めておられます。しかし、それを妨げるのが「偶像礼拝」です。だから、預言者が告げる主の日におけるさばきは、この偶像礼拝に対する激しい神の御怒りとして描かれています。

ゼパニヤが預言した「まことの礼拝」は、人々のくちびるをきよめることから始まります。

私たちの口は何を語っていますか。不平の言葉、呪いの言葉、さげすみの言葉、時々感謝の言葉……。聖書は、この言葉を発する「舌」は、船を操る舵のようだと言っています。つまり、この口が何を語るかによって、人生という船の行き先を決めるのです。

私たちの人生の行き先は、運命に引きずられるようにして否応がなしに進んでいるのではありません。各自のくちびるから出る言葉によって舵を切っているのです。

問題は、そのくちびるからどんな言葉が出されているのかです。

神は、さばきの後に私たちのくちびるをきよめてくださいます。私たちの口から神を讃美する言葉が出るようにしてくださいます。私たちの口が主の御名を呼ぶようにしてくださいます。

それは聖霊の働きによるのです。

こうして、私たちは主の御名を呼び、主を礼拝する民として回復されます。礼拝の中で、私たちの口は、主を讃美する言葉で溢れます。このようなことは、救いを得る以前にはなかったことです。

さあ、主を礼拝しよう。霊とまことをもって礼拝しよう。私の内に住まわれる聖霊によって、新しい言葉を語ろう。呪いの言葉ではなく、祝福の言葉が湧き出るのです。不平の言葉ではなく、感謝の言葉が私の口から出るようになるのです。ゼパニヤが預言した新しい世界は今や始まっています。


ゼパニヤ書 2章

2023年07月18日 | ゼパニヤ書
ゼパニヤ書 2章
すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなた方は主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
(2・3)


神は、主の日のさばきから救われるように、「集まれ」と呼びかけておられます。それは、主に立ち帰れという呼びかけです。神に立ち帰る者とは、冒頭の聖句にある「へりくだる者」です。

神はこの「へりくだる者」に呼びかけておられます。

主を求めよ
正義を求めよ
謙遜を求めよ」。この三つの〝求めよ〟です。


この三つは連動しています。主を求めるとは、主の助けを求めることですが、それは主の正義による正しいさばきに立脚します。私の正しさなど何の足しにもなりません。神の公正なるさばきに身をまかせるしかありません。これは、先のハバクク書で学んだ通りです。だから、自己正義を捨てて、神の正義を求めます。そのためには謙るしかありません。だから謙遜を求めよと言われるのです。

そうすれば、主の御怒りの日に〝隠される〟かもしれないと言われます。

「隠される」とは「かくまわれる」という意味です。「あるいは……であろう」とは、キリストにある確実な救いが成就していない時代ゆえの不確かな表現なのでしょう。

しかし、神は、私たち人間が救いを受けるようにと、いにしえより定めておられます。これは、先のミカ書5章でも見ました。神は、人間を罪の中で滅ぼすために創造なさったのではありません。それは、新約においても、神は、私たちを怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのであると言われている通りです (Ⅰテサロニケ5・9)

つづいて、ゼパニヤ書2章4節以降は、イスラエル以外の周辺諸国にくだる御怒りについて預言されています。西のペリシテ人に対して(4~7)、東のモアブとアモン人に対して(8~9)、南はエチオピア人に対して(12)、北のアッシリヤに対して(13~15)語られています。

興味深いことに、そのような異邦人たちの中にも、悔い改めてまことの礼拝者となって救いを受けると記されていることです(2・11)。主はいつの時代にも、いかなる民族にも、「まことの礼拝者」を求めておられるのです。

しかし、北のアッシリヤに関しては徹底的な滅びが語られています。何故なら、彼らは、私だけは特別だとおごり高ぶっていたからです。この箇所は、口語訳の「ただ私だけだ、私の外にはだれもない」という翻訳では分かりにくいので、新改訳聖書を参照してください。

自分は大丈夫。自分は特別だから滅びない。神のさばきなどあるはずがない。そう高をくくってはなりません。主イエス・キリストの中に隠されるほかは、特別な道も場所もないのです。


ゼパニヤ書 1章

2023年07月17日 | ゼパニヤ書
ゼパニヤ書 1章
彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができない。
(1・18)


預言者ゼパニヤはヒゼキヤ王の5代目の子孫であると記されています(1・1)。ゼパニヤの曾々祖父にあたるヒゼキヤ王は南ユダの宗教改革を推進した王として有名です。しかし、次のマナセ王はこの改革をぶちこわしてしまいました。信仰の面では暗闇の時代に逆戻りしてしまいます。

やがてヨシア王の時代になって、再び宗教改革がなされ、その時代に本書の著者であるゼパニヤが預言者として召され、ヨシア王の宗教改革を霊的に支えたわけです。

ゼパニヤは、「バアルの残りの者」(4)と呼ばれる偶像礼拝者たちに、悔い改めてまことの神である主に立ち帰れと語りました。神は、偶像礼拝とそれに伴う道徳的退廃した南ユダを滅ぼそうと準備なさっているからです。

主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである(7)とありますが、「備えられた犠牲」とは、さばきの日に屠られる南ユダのことを指しています。また、それを屠る祭司役として「招いた者」がいます。それは何と、南ユダを滅ぼすバビロンのことなのです。

この日のことを、ゼパニヤをはじめ他の預言者たちは主の日と呼んでいますが、14節以降は、主の日のさばきが如何に厳しく激しいものであるかが記されています。彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができないのです(18)

神がもっとも忌み嫌われることは何かご存知ですか。聖書はそれを繰り返し述べています。それは偶像礼拝です。だから、ゼパニヤをはじめ多くの預言者たちは、終わりの日には偶像礼拝が徹底的にさばかれ、滅ぼされると預言したのです。

かつてのヒゼキヤ王は宗教改革を試みたものの、すべての偶像を取り除くことができませんでした。また、志を同じくするヨシヤ王も道半ばにして、改革しきれませんでした。

しかし、歴代の敬虔な王たちが成し遂げられなかったことを、神が完成なさいます。終わりの日に、偶像礼拝を徹底的に滅ぼし罰せられるのだと、ゼパニヤ書第1章は語っています。

神が偶像礼拝をこれほどに忌み嫌われるということは、裏をかえせば、神が求めておられるのは、まことの礼拝だという意味です。イエス様も、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである と言われたとおりです (ヨハネ4・23)

神は、まことの礼拝者を求めておられます。この目的に向かってすべての出来事は繋がります。聖書はこの神はまことの礼拝者を求めておられるという視点で読むべきすそれを「人類の救いのため」という視点だけで読み解くのは無理があります。すると、どうしても人本主義つまりヒューマニズム的キリスト教になってしまい、神の御心を見誤るからです。聖書は神本主義です。

さて、話題を戻します。

偶像礼拝といっても、仏像などの偶像もあれば、富や地位や名誉といったものも偶像になり得ます。それを神のように崇拝するならそれは偶像です。

イエス様は、神と富との両方を主人とすることはできないといわれました。神こそまことの主人です。なのに、富が主人となり、富に仕え、富の奴隷となるなら、富は偶像です。私たちは神のしもべにはなっても、富のしもべになってはなりません。神が私たちのまことの主人であって、富に対しては、私が主人となって、富を正しく管理するのです。この順番が逆転してはいけません。

冒頭の聖句が示すように、金も銀もまことの主人ではないので、終わりの御怒りの日に、私たちを救い出すことができません。救い出すことのできるのは、私たちの主イエス・キリストだけです。