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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

マタイの福音書 14章

2024年07月31日 | マタイ福音書
マタイ14:18 イエスは言われた、それをここに持ってきなさい

イエス様のもとにはいつも大勢の人々が御言を聞くために集まっていました。「人はパンだけで生きる者ではない。神の口からでる御言によって生きる」のですが、やはりお腹も空きます。そこでイエス様は、集まった人々に給食を提供するようにと弟子たちに命じられました。

しかしこの時、弟子たちには5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。男だけで約5千人もいたのですから、5つのパンと2匹の魚では到底無理です。むしろ解散させて、各自で食事をとらせたほうが無難だと弟子たちは考えました。

私たちは、多くの場合、無難な方法を選択するものです。現実的な方法を選びます。もちろんそれで良いのだと思います。いつも突拍子もないことを考えたりやっていては長続きしません。

でも、イエス様のご用とあらば、大胆な選択もあるはずです。ところが、普段から無難な道ばかり歩んでいるので、いざ主のご用という時も同じような感覚でやってしまいます。何が大胆さを妨げているのでしょうか。

弟子たちの反応はこうでした。私たちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません(17)。5つのパンと2匹の魚〝しか〟ないと言ってしまいます。
つまり数が問題なのです。

私たちは数量がいつも気になります。お金がどれだけあるだろうか。人数はどれだけいるだろうか。時間はどれだけあるだろうか。数量が多いほど安心します。数量が多ければ自信も湧いてきます。

旧約の士師の時代に、神はギデオンにミデアン人と戦って民を救えと命じられたことがありました。そこでギデオンは3万2000人を集めたのですが、神はそれを「多すぎる」と言われたのです。

そこで、戦意の無い者は家に帰るように命じると、なんと2万2000人が去ってしまい、残りは1万人です。人数が減るのは心細いことです。海の砂の数ほどの敵軍が迫ってきているというのに……。それでも、神は「多すぎる」と言われ、結果的に300人まで減らしました。

私たちは数を問題にしますが、神は、数が問題ではないことを示すために、あえてそうなさるのです。この時、ギデオンは300人の兵士によって敵軍を滅ぼすことができました。これが神の方法です。

人は数を問題にしますが、神は、それが誰の手にあるかを問題にされます。だから、イエス様は言われました。「それをここに持ってきなさい」と。

少ない金額です。心細い人数です。わずかな時間しかありません。でも、「それをここに持ってきなさい」とイエスは言われます。数が問題ではなく、イエスの御手にあることが重要なことです。主はそれを幾倍にもして用いられるからです。

数の論理に縛られて、いつの間にか、これ〝しか〟ないと思い、それを失わないようにと頑張ってしまいます。でも、それをイエス様の所有としよう。自分の所有だと主張しないで、主にお渡ししよう。

自分で自分のいのちを救おうとするなら、それを失うと主は言われました。自分のいのちは自分の所有だと主張し、それを守ろうとするなら、いのちを失うことになるという意味です。5つのパンと2匹の魚を自分のものだと固執していたら、2~3人分の食事として消えてしまうだけです。

しかし、イエス様の御手にお渡しするとき、主はそれを祝福して、5千人以上の人々の空腹を満たしました。主の御手の中にある幸いを体験できるよう祈ろう。

◆◆◆◆◆◆

さて、祝福に満ちた給食が終わるや、イエス様は群衆を解散させると共に、しいて弟子たちを舟に乗りこませ、向こう岸へ先におやりになった(14・22)とあります。

なぜ〝しいて〟なのでしょうか。祈りの時間を必要となさったからです(23)。この出来事の前に、イエスの先駆者であったバプテスマのヨハネ殉教の訃報(ふほう)が届いたばかりでした(10~12)

ヨハネはイエスがキリストであると証しして殺されたのですから、その証しの当人であるイエスは尚更です。いよいよ、自分の死期が近いことを悟られたイエス様は祈らざるを得なかったのです。また、弟子たちも湖上で祈るようにと、舟で先に追いやられたのだと思われます。

さて、弟子たちの舟が逆風のために進みあぐねていた時でした。イエスが水の上を歩いて彼らに近づいてこられました。

「水の上を歩く」なんて、自然界の理屈からすれば、あり得ないことです。信じられないので、ある人々は、そこは浅瀬の葦(あし)の茂みだったので、水の上を歩いているように見えたのだ……と無理に解釈します。それでは、同じ場所でペテロが溺れてしまったことの説明がつきません。

この地上には、この地上の理屈があります。それを体系化したのが自然科学です。でも、それはこの地上という範囲で通用する理屈です。それと同じように、天上の理屈もあります。天の御国の法則です。

イエス様は、天の御国が近づいたと言われて、その御国の王として、世に来られた方です。つまり、地上に天の理屈をもたらされたのです。

地上では罪と死の法則が支配していて、地上の国民はこの罪と死にしばられていましたが、神の国の王キリストは、神の国の法則をもたらしてくださいました。だから、もはやキリストにある者は誰も罪に定められることがないのです。天の御国の国民には、いのちの御霊の法則が適用されるのです。

地上の理屈では、1プラス1は2です。5つのパンと2匹の魚で満腹になる人数はせいぜい5人です。これが地上の計算です。でも、神の国の王キリストは、天上の計算方法を教えてくださいました。

イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々を満腹にさせてくださいました。同じように、地上の理屈では人が水の上を歩くなんて考えられませんが、神の国の法則はその理屈を超えるのです。

地上の理屈で考えたり生きるのなら、それは信仰ではありません。信仰とは、地上の理屈を超えて、天の理屈で生きることです。天の理屈を地上にもたらすことです。ですから、私たちは「主の祈り」で祈るではありませんか。天で御心が行われたように、地上でも行われますように……と。

さて、イエス様が水の上を歩かれる姿を見たペテロは、幼な子のような心で、自分も歩けるかもしれないと考えました。イエス様がなさったのなら、自分にもできる……そんな幼な子のような信仰を主は喜ばれます。

ペテロはイエス様のお供をする中で、少しずつ気づいていました。イエス様の言葉には権威がある。イエスが言われると、その通りになるのだ……と。

嵐に向かって「しずまれ」と言われたら、嵐はしずまった。悪霊に向かって「出て行け」と言われたら、悪霊は出て行った。「あなたのしもべはいやされた」と言われたら、百卒長のしもべはいやされた。つまり、万物はイエスの言葉に従うのです。

なぜ、そのようなことが可能なのでしょうか。それは、イエス様の言葉が単なる人間の言葉ではなく神の御言だからです。神が言われたら、そのようになるからです。神の御言は一点一画も廃(すた)れることはないからです。

ペテロは考えたのです。それならば、イエス様が歩きなさいと言われたら水の上を歩けるはずだ……と。ペテロはそう信じたので、「主よ。私に水の上を歩くように命じてください」と願ったのです(28)

あの百卒長が、「主よ、お言葉をください」と願い出たように、主よおっしゃってください。あなたが「水の上を歩け」と言われるなら、私は歩くことができます。あなたが、「起きて床を取り上げて歩け」と言ってくだされば、私はこの病から立ち上がることができるのです。主よ、おっしゃってください。主よ、私に御言をもってお命じになってください。そうすれば、御言の通りになるのです。私は、ただ、御言の通りこの身になりますようにと受けるだけです。

御言を求めたペテロに向かって、イエス様は「来なさい」という御言をくださいました。ああ、何という幸いでしょう。人は、このような主の口から出る御言によって生きるのです。

私たちの人生には、嵐の海を渡らなければならない時があります。しかし、イエス様が「来なさい」と言ってくだされば、嵐のような人生の中を通り抜けることができます。沈みそうな危機的な場面でも、主の御言の上を歩くことができます。

ペテロは水の上を歩いたのではなく、御言の上を歩いたのです。御言の上を歩く。それは細い道です。でも、それがいのちにいたる道です。人の言葉、世の中の理屈の上を歩く人もいます。その道は広くて歩きやすいのですが、滅びにいたる道です。いのちにいたる道は細くて狭いと主は言われました。

さて、水の上を歩いたペテロでしたが、風を見て恐ろしくなったとたんに沈み始めました。祈りましょう。周りに振りまわされないで、イエスだけをしっかり見て、御言の上を歩いて行くことができますように。


マタイの福音書 13章

2024年07月30日 | マタイ福音書
マタイ13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。

有名な種まきの譬(たと)え話です。イエス様は群衆に向かっては譬えで話されることが多かったようです。そのことで弟子たちは、なぜ、彼らに譬(たとえ)でお話しになるのですかと質問しています(13・10)

一般的には、譬えで話すのは「分かりやすくする」ためです。難しいことを分かりやすく説明するために、例話を用います。しかし、イエス様はそうではないと言われました。

あなた方には、天国の奥義を知ることが許されているが、彼ら(群衆)には許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。(11~13)

イエス様は優しいお方ですが、侮ってはなりません。愛とあわれみに満ちておられますが、神の義をつらぬく厳しさをお持ちです。

宣教を始められた頃は、多くの人々がイエス様を絶賛しましたが、マタイ11章のあたりから、人々は批判的になり、もっとしるしを見せろと要求するようになって来ました。5つのパンと2匹の魚で満腹する異跡を体験した人々も、もっと食べたいという思いでイエスについて行きました(ヨハネ6・26)。イエスによって癒しと力ある業が成されましたが、それは、イエスをキリストと信じて、イエスを王としてお迎えするためであるのに、多くの場合、肉の満足のために求めるようになっていました。つまり、彼らは「肉の実」を求める人々です。

だから、イエスは譬えで話されるようになりました。イエスの譬え話は表面的には分かりますが、その真意は、霊的な悟りを得なければ理解できません。群衆のように、「肉の実」を得ようとイエスに求めるなら、その意味は表面的です。

しかし、弟子たちのように、イエスを主として迎え、「霊の実」を求めている者には、豊かな霊的収穫を得るようにと、意図的に譬えで話されたというわけです。

あなたは肉の実を求める群衆ですか、それとも霊の実を求めるイエスの弟子ですか。肉の実を求める人には、イエス様の語られた種まきの話は、単なる収穫の話で終わってしまいます。しかし、イエス様は霊の実(霊的な収穫)を得るための話をなさいました。こうして、持っている者はいよいよ豊かになり、持っていない者は持っているものまでも失って、霊的な格差が生じるようになさいました。

とは御言のことです。神の御言は、私たちの内側に霊的な実を結ばせる種のようです。御言によって結んだ実は永遠に残る実です。天国に持って行くための実です。地上における実はやがて朽ちてしまうし、それを天国に持って行けません。

神は農夫のような方です。私たちの内側に御言の種をまいて、永遠に至る収穫を得ようとなさいます。でも、道端とか石地のような頑固な心をしていると、神の御言がまかれても、根を張ることができません。

収穫のためには、耕された柔らかい心に御言の種がまかれるようにします。耕された心とは、悔い改めのある心です。人は、神の御前に悔い改めるとき、素直で、柔らかい心になります。神は、私たちの悔いし砕けた心を喜ばれます(詩51・17)。それは、耕された良い地であるからです。

御言の種が芽を出し成長しても、いばらが生え出て、その成長をふさぐ場合もあります。雑草取りをしないで放っておくと、せっかくの収穫も台無しになってしまいます。その「いばら」とは「世の心づかいと富の惑わし」です(マタイ13・22)

世の心づかいと富の惑わしが覆(おお)ってくると、「今週の礼拝の御言は何だったかな」と忘れてしまいます。朝毎に御言を受けて出かけるのですが、お昼頃になると、御言はどこかへ行ってしまっています。それほどに、いばらは私たちを覆うのです。

でも、諦(あきら)めないことです。収穫を得るためには忍耐が必要です。神も忍耐なさっていますが、私たちも忍耐しなければなりません。良い地を耕そう。

◆◆◆◆◆◆

さて、この13章では、様々な譬え話を用いて、主は教えてくださっています。まず始めに「種まきの話し」そして、「毒麦の話し」「からし種の話し」「パン種の話し」「畑に隠された宝の話し」「真珠商人の話し」、そして「網を引き上げる漁師の話し」です。

いずれも「収穫」とか「決算」の話しです。神の国は、漫然と時が経過して行くのではなく、収穫とか決算に向かって進んで行くというイメージです。

ぼんやりしていても、神のご計画は着実に前進しています。と同時に、敵である悪魔の働きも休むことなく続いています。だから、私たちは目を覚まして祈っていなければなりません。

そこで毒麦の話しに注目してみましょう。せっかく神の御言が播(ま)かれたのですが、敵が「毒麦の種」を播いていったのです。さあどうするかというお話しです(13・24~30)

キリストの教会といえども良いことばかりではありません。また、神の御国も完成なる時まで、さまざまな試練の中を通ります。悪魔に足をすくわれて、とんでもない失敗をすることもあります。キリスト教会の歴史は、輝かしく美しい出来事もありましたが、神の御国とは縁遠い出来事も多くありました。それは、今日においても同じです。

どうして、そのようなことがあり得るのでしょうか。「それは敵の仕業」です(28)。悪魔が、教会の中に毒麦の種を播いたのです。

いつの間に播いたのでしょうか。それは、私たちが眠っている時にです(25)。信仰の目が眠っている時です。だから、主イエスは、目をさまして祈っていなさいと言われたのですが……。

今すぐにでも毒麦を抜いてしまおうという僕(しもべ)たちの提案に対して、主人は「そのままにしておけ」と命じています。

なぜ、神は、そのような悪しき働きを放っておかれるのでしょうか。それは、現段階で毒麦を抜いてしまうと、良い麦も抜いてしまうからです。 現段階では区別がつきにくいのです。 でも、収穫の時になると実を見ればはっきりします。その時点で区別するのです。

これから救われる可能性のある人まで、一緒に抜いてしまわないためです。神は、すべての人が悔い改めて、救いにいたること待っておられるのです。だから 焦りは禁物です。何事も先走ってさばいてはいけません(Ⅰコリ4・5)

神は、私たちを、毒麦も生えないような消毒の行き届いた快適な環境で育てようとはなさいません。毒麦の働きを、あえて世の終わりまで残しておられます。それは、私たちを強くするためです。

でも、終わりには、必ず収穫の時があることを忘れないでください。その時には区別されます。

温室育ちのひ弱な神の子たちであってはなりません。毒麦の妨害の中にあっても、終末の豊かな収穫に向けて、力強く、豊かに実ることができるように祈ります。


マタイの福音書 12章

2024年07月29日 | マタイ福音書
マタイ12:8 人の子は安息日の主である。

当時のユダヤ社会は律法社会でした。生活のすべての基準は律法にありました。人々は律法を厳格に守ることで、キリストを迎える準備をしました。キリストが王として支配なさる御国で、自分たちこそ、その御国に相応しい人間であろうとしたわけです。

中でも安息日に関する律法は特徴的なものでした。安息日は1週間の第7日目(土曜日)のことで、その日は聖なる日であり、いかなる労働もしてはならないと定められていました。

そこで律法学者らは安息日を厳格に守るために、まず「労働」とは何かを定義しました。何㎞以上の移動は労働であるとか、何㎏以上の物を持ち上げることは労働であるとか、何文字以上の文字を書くことは労働である……等々。

本来の目的は「休む」ことにありました。すべての肉なる働きを休んで、神との交わりの中で安息することこそ本来の趣旨です。

でも、今日の聖書箇所にもあるように、お腹が空いたので穂を摘んで食べたことは、収穫という労働をしたとして安息日違反を指摘され非難されました。他にも、イエス様が病人をいやすことも、安息日違反だとして非難されました。

このようなわけですから、安息日といっても名ばかりで、これをしたら違反だ、あれは駄目だとか、律法に違反しないかと意識するあまり、気の休まらない安息日でした。規則を守ることが目的となって、本質が見失われていました。

あなたは本当の安息を得ていますか。

真面目人間が多い日本では、仕事をしていないと落ち着かないという人も多いのではないでしょうか。何もしないでいることがとても苦手なのが日本人です。何もしないでいることを悪だとさえ感じる国民性です。先ほどのユダヤ社会にしても、今の日本でも、本当の安息を得られずに「重荷を負って苦労している人」(11・28)のようです。

安息日の本来の意味を見失った人々に向かって、イエス様は人の子は安息日の主であると宣言されました。「人の子」とはイエスご自身のことです。つまり、安息日の主はイエス・キリストです。イエス様が主として臨在されるところに「安息」があるのです。

当時のユダヤ社会のように、表向きは立派でも、イエスを主としてお迎えしないでいたため、彼らには安息がありませんでした。立派になろうと頑張れば頑張るほど安息は遠のいて行きます。

むしろ、皮肉なことに、罪を悔い改めてイエスのもとに集った取税人や遊女たちが、本当の安息を得ていました。

そもそも、安息日律法の始まりは何だったのかを見てみましょう。

イスラエル民族は奴隷の地エジプトから解放されて後に「十戒命」を授かりました。その第4戒命に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と定められています。この十戒命を授かる以前のイスラエルは、エジプトでは奴隷であって、休日とは無縁の民でした。

しかし、エジプトから救い出された民はようやく、労働から解放され休日を得るようになったのです。それが安息日です。民が安息日を守るのは、自分たちはもはや奴隷ではない、神の民、自由の民であるとの誇りであったはずです。

それなのに、本来の趣旨からそれて、安息日を守るための奴隷になっていました。律法の奴隷となっていたのです。自由の民、神の民とされたことを喜び祝うべきが、不自由な民となっていました。

新約の時代にも、日曜日の礼拝を旧約の安息日律法のように解釈してしまうことで、恐怖心を抱きながら日曜礼拝を守る人々がいます。そうではなく、罪の奴隷から解放されたことを喜び、神の子どもとされた誇りを育む日であるべきです。イエス・キリストを主としてお迎えするとき、本来の安息の意味を取り戻すことができます。

さて、安息日の特徴はいかなる労働もしないことです。それは、新約においては、肉の働きをやめて、神の御前にしずまることを意味します。

立派にやろうとか、人に良く見せようとか、あの人に負けたくないからとか……そんな肉の頑張りを休んで、罪人を迎えてくださるイエスに身を委ねるとき、本当の安息があります。

肉の頑張りでやっている時は、自分が主となっています。でも、安息日の主はイエス様です。主人であるイエス・キリストをお迎えして、本来の安息日を得てください。


マタイの福音書 11章

2024年07月27日 | マタイ福音書
マタイ11:6 わたしにつまずかない者は幸いである。

イエス様とその弟子たちを通して、多くのしるしがあらわされていました。病人はいやされ、盲人の目が開き、死人がよみがえり、貧しい人々は福音を聞いていのちを得ていました。

旧約で預言されていたキリスト来臨の約束が成就したのです。この時のことを預言した旧約の預言者たちは、それは「いつ」「どのように」実現するのだろうかと調べました。彼らは、できれば自分の目で目撃したいものだと願いました(Ⅰペテロ1・10~11)

旧約最後の預言者であるバプテスマのヨハネも同じ思いでした。

彼は、キリストが間もなく来られることを預言しました。その方こそナザレのイエスであると宣言しました。しかし、今では投獄されており、果たしてイエスは本当にキリストなのであろうかと、一抹の不安を感じていたのでしょう。だから、自分の弟子を遣わして確認したかったのです。

それに対する主イエスの返答が述べられています。

すでに神の国は始まっています。ローマ帝国などの地上の王国とは形態は違いますが、神の御国は確かに始まっていて、その御国の王はイエス・キリストです。バプテスマのヨハネが御国とキリストの到来を預言して以来、その御国に入ろうとする人々がぞくぞくとおこされています。天国は激しく襲われている。そして、激しく襲う者たちがそれを奪い取っているのです(マタイ11・12)

こんなに明確なしるしがあらわされているのに、神の国を歓迎しない人々がいます。悔い改めて神の国に入ろうとしない人々がいます。彼らはイエスにつまずく人々です。

罪で堕落したあのソドムとゴモラの住民でさえ、もしイエスの時代に生きていてそのしるしを見たなら、悔い改めて神の御国を歓迎したであろう。それなのに、イエスとその御国を拒絶するカペナウムの人々は、ソドムとゴモラよりもきびしい神のさばきを受けるだろうと言われました(11・20~24)

だから、イエスは言われました。わたしにつまずかないものは幸いだと。

神の国は強力な軍事力による支配とか政治的な王国だと考える人々は、イエスにつまずきました。彼らは自分に都合のよい御国のイメージをいだいていたからです。

現代にもそのような自分なりのイメージを抱いているために、イエスにつまずく人々がいます。神がいるならなぜ世界に戦争があるのだ。神が愛ならなぜこんな悲惨な事件が……と、自分なりのイメージで救いをとらえ、神の国を考えています。

どうか、イエス様につまずかないでください。つまずかない人は幸いです。

イエスの救いは罪からの救いです。罪からの救いとは霊的な救いです。罪と死の法則によって支配する悪魔からの救いです。この闇の王国の支配から救われるので、病もいやされます。悪霊も出て行きます。

イエス様が実現しようとなさっている神の国は、罪と死から解放された国です。の国は、この世の国とは領域が違います。この世にありながら、この世に属していない御国です。

どうぞ、罪を悔い改めて、この御国に入ってください。すでに入った人は、他の人々を招待してください。そして、この神の御国が広がり、完成するように祈り働いてください。今日も祈りましょう、「御国がきますように」。

◆◆◆◆◆◆

ところで、マタイ福音書の10章まではイエスが御国の王として来られたことの証明として記されていますが、この11章からは王に対する段階的な反対が起きてきたことが記されています。弟子たちの派遣にもかかわらず、つまずく人々もいたのはそのことの表れです。

御国の福音を受け入れたのは、聖書学者などのユダヤ教指導者たちではありませんでした。むしろ、無学で幼な子のような素直な人々でした(11・25)。でも、それは神の御心にかなったことだと言われます。

真理は賢い者は隠されています。むしろ、心の貧しい人に開かれています。「自分は罪人という病人だ」と謙遜に受けとめる者に啓示されます。だから、主は、次のように語られたのです。すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。(11・28)

(1)イエスのもとに来て重荷をおろす

人生とは、重い荷物を背負って遠き道を行くようなものだと、ある人は言いました。しかし、そんな強がりも長くは続きません。現実は、その重荷に耐えかねて押しつぶされそうです。

人生の重荷……それは第一に生活上の重荷です。仕事のこと、お金のこと、人間関係のこと。重荷となってずっしりと肩に食い込んできます。そして、人生の重荷の第二は罪の重荷です。

重荷が重たいのは重力が働いてからです。生活上の思いわずらいは、重荷となって、地上の生活につなぎ止めようとする重力です。天を見あげ天につながろうとする努力を諦めてしまいそうです。

罪の重荷もそうです。物理的な重みはなくても、悪魔と闇の世につなぎ止めようとする重力のような働きをします。罪の重荷があるとき、天につながることができません。

だからイエス様は、そのような重荷をおろしなさいと命じられます。そのような重荷はおろして良いのです。そして休んで良いのです。

そして、イエスのもとに来て、人は地上では旅人であることを学びます。旅人であれば、荷物は少なくします。天の故郷を目指して旅をしているのですから、地上での荷物が重荷になるのであれば、それはおろすべきです。おろして良いのです。

イエスのもとに来て、人は創造された存在であり、創造主が責任を負ってくださることも学びます。人がなすべき事は、まず神の国と義を求めることです。何を食べ飲み着るか等の必要は主が必要に応じて与えてくださいます。

罪の重荷もイエス様のもとにおろします。主が引き受けてくださるからです。あの十字架で罪の支払いを済ませてくださったイエス様のもとにおろせば良いのです。罪の重荷をもったままでは、足取りも重く、つまずきの多い旅になってしまいます。

(2)イエスとくびきを共にする

重荷をおろしたら、次にイエス様と共にくびきを負います。「くびき」とは牛とか馬の首をつなぐ道具のことで、この場合の「くびき」は2頭だてのくびきのことです。2頭が並んで田を耕したり荷を引きます。

聖書には「未信者と釣り合わない〝くびき〟を共にしてはならない」と記されていますが、それは、信者と未信者とでは向かう方向が違うからです。この地上にできる限りとどまって楽しもうとする未信者と、天を目指すクリスチャンとが同じくびきにつながれていたら、歩調も方向も合いません。むしろ、未信者に引きずられて行きます。

だから、イエス様とくびきを共にするのです。イエスなら大丈夫です。イエスの歩調に合わせれば良いのです。時には、否、多くの場合、イエスが私たちの歩調に合わせてくださいます。

(3)イエスに学ぶ

2頭だてのくびきでは、ベテランの牛と新米(しんまい)の牛を組ませて仕事をさせます。そうすることで、新米の牛はベテランの牛に学ぶからです。イエス様とくびきを共にすることで、私たちはイエスの生き方をすぐ側で学びます。

人はイエス様に似せて創造された存在です。つまり人の本来の姿はイエスです。でも、人間は神から離れて、本来の自分の姿を見失いました。だから、イエスに学んで、本当の姿を回復して行きます。

くびきを共に負うことによって、イエス様はその姿を見せてくださるので、私たちは真似をするようにして学びます。

 
 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

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マタイの福音書 10章

2024年07月26日 | マタイ福音書
マタイ10:7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

御国の王であるキリストは弟子たちを選び、ご自分の権威を彼らに与えて伝道に派遣なさいました。行った先でまず伝えるべきことは、天の御国は近づいたです(10・7)。そして、病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せとイエスは命じられました(8)

イエス様が来られたとき以来、天の御国(神の国)は限りなく近づいてきています。遠くにあるのではありません。近づいているばかりか、イエスを信じて心の王座にお迎えする人の中に始まっています。

とは何でしょうか。それは王の支配を意味します。地上の国には、それぞれの国の王がいて、一定の領域を支配しています。 ※小さな領域では、自分という王が支配する自分自身の世界も「国」である。その王座をイエスに明け渡すなら、そこに天の御国が始まる。

イエス様が宣べ伝えられた天の御国(神の国)は、霊的な領域を支配する国のことです。そして、キリストはその御国の王です。この点が、日本とか韓国といった地上の国とは違うところで、人為的な国境線を超越した霊的な領域のことです。

ところが、霊的な領域においては、この世は悪魔が支配する闇の王国だというのが、聖書の見解です。そのような闇の王国のただ中に、天の御国という霊的な国の支配が入り込んできたのです。

悪魔が支配する闇の王国の特徴は、罪と死が支配する世界です。ですからいのちがありません。闇の王国ですから光がありません。光のように見えても、それは有限の光です。いつか朽ちてしまう光です。

そんな世界に、天の御国が支配を広げ始めました。闇の世界に本物の光……それを栄光と呼ぶ……が輝き始めたのです。天の御国は、神の栄光(本物の光)がある世界だからです。

天の御国では、罪と死の法則が支配しません。いのちの御霊の法則が支配するところです。つまり、罪のゆるしのある世界です。罪と死が効力を持たないので、病がいやされ、悪霊も出て行きます。わたしが悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでに来ているのだとイエスが言われたとおりです(12・28)

日本の国が支配する所であれば、それが遠方の離島でも日本の法律が適用されます。その島民も日本国民としての恩恵にあずかることができます。それと同じように、王であるキリストの支配するところはどこであっても天の御国です。そして、そこには御国の法則が適用され、その恩恵にあずかります。

ところで、もし日本の国に他国の王や軍隊が侵攻してきたら、そこに戦いが生じます。それと同じように、悪魔の支配する闇の王国に、天の御国の王が来られたのです。そして、病をいやし、悪霊を追い出し、罪のゆるしを宣言し始めたのです。

当然、そこには霊的な戦いが生じます。

イエス様は私たちを罪から救うだけでなく、御国の支配をこの世にもたらすために、私たちを世に派遣なさいます。弟子たちの派遣はそのような意味をもっています。そこには当然、霊的な戦いが生じます。

つまり、イエスが弟子たちを世に派遣するのは、霊的な戦いの中に派遣するようなものです。ですから、私があなた方をつかわすのは、羊を狼の中に送るようなものであると言われました(10・16)。そこで、この第10章は、世に派遣される者たちへの心構えだと言えます。即ち、私たちの心構えです。

悪魔が支配する闇の王国に殴(なぐ)り込みをかけるようなものですから、迫害(悪魔の攻撃)があるのだと言われました。つまり、イエスの名のゆえに世から憎まれるのです(10・22)

イエス様も、この戦いをこう表現されました。

地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのだ(34)。これは、霊的な戦いのことです。

でも、その戦いを恐れてはなりません。悪魔は、肉体を殺すことはできても、霊魂を滅ぼすことはできないのですから(28)。この肉体を殺されても、私たちの霊魂は神との和解を受けて永遠のいのちを得ています。ここに勇気の源があります。

また、何をどう言おうか心配する必要はありません。語るべき言葉は聖霊が教えてくれます(19~20)。聖霊の導きを信頼して、大胆に口を開いて聖霊に舌をまかせれば良いのです。聖霊は、私の舌が福音を語るように導いてくださいます。

このように、イエス・キリストは私たちを派遣なさいます。そしてこう言われました。あなた方を受け入れることは、わたしを受け入れることだ(40)。まさに、私たちはキリストの大使です。

米国からの大使を日本が受け入れることは、米国大統領を受け入れることです。もし、入国を拒否したり、侮辱をもって待遇したら、それは米国への宣戦布告です。

私たちは、キリストの大使です。神の国から派遣された和解の使節です(Ⅱコリ5・20)これが私たちのアイデンティティーです。祈りましょう。このような光栄ある任務をはたすことができますように。


マタイの福音書 9章

2024年07月25日 | マタイ福音書
マタイ9:6 人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなた方にわかるために……

先の第8章では、神の国の王であるキリストは、病を従わせる権威、被造物(海や嵐)を従わせる権威、悪霊を追い出す権威をお持ちであることが記されていました。

つづいて第9章では、中風の人のいやしを通して、イエス様には罪をゆるす権威があることが記されています。

権威にも次元の違いがあります。親に与えられた権威、教師に与えられた権威、為政者に与えられた権威……それぞれの権威があり、その力の及ぶ範囲が違います。数ある権威の中でも、罪をゆるす権威だけは地上のどんな立場の人にも与えられていません。天下のだれにも与えられていません(使徒4・12)。罪をゆるす権威は神だけがお持ちです。

ところが、イエスが「あなたの罪はゆるされた」(マタイ9・2)と宣言なさったので、それを聞いた律法学者たちは憤慨しました(9・3)。律法学者には、イエスの〝ことば〟が単なる人の言葉に聞こえたのです。しかし、イエスのことばは神の御言です。権威ある王の命令です。この権威を認めて、その御言に従うとき、御言の通りになります。

中風の男は、イエス様の御言に従いました。起きて歩くなんて不可能だと思っていましたが、王が命じられたので「ハイ!」と従いました。そうしたら、歩くことができたのです。

王が、「あなたの罪はゆるされた」と宣言なさったら、「ハイ」と従います。そうしたら、あなたの罪はゆるされるのです。罪がゆるされるなんて難しいと思っていても、王がそう命じられるので従うのです。

さて、イエスは、「中風の人に起きて歩け」と言うのと「あなたの罪はゆるされた」と言うのとどちらが容易いかとたずねられました。どちらが「難しいか」とはたずねられませんでした。権威ある王にとって、難しいことは何もないからです。

人間的に見れば、中風の人に「起きて歩け」と言っても、その通りに歩ける確証がありませんから言い難いことです。一方、「あなたの罪はゆるされた」というのは簡単です。ゆるされた結果は目に見えないことなので、言うのは容易いです。しかし、あえて人間的に難しい方をイエスはなさって、ご自分には病をいやす権威があることを示されました。それならば、より簡単な「罪をゆるす」という権威もあるはずではないかという論理です。これはユダヤ式論法です。

イエス様には罪をゆるす権威があるのです。それは神だけがお持ちになる権威です。

通りすがりの人から「あなたの罪はゆるされた」と言われても、真実味はありません。しかし、裁判官から言われたら少し嬉しいです。しかし、王なるキリストが、「あなたの罪はゆるされた」と宣言してくださいました。これは確実な宣告です。

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さて、中風の人をお癒しになったイエス様は、その後、収税所に座っているマタイに向かってわたしに従いなさいとお招きになりました(9・9)。この福音書を記したマタイ自身の原体験です。

彼は取税人としてローマ帝国の権威の下で働いていましたが、天の御国の権威によって召し出されました。権威ある御言は、マタイの霊魂を揺さぶりました。彼の人生を大きく動かしたのです。

人生の大転換を祝おうと宴を催し、多くの取税人仲間や罪人たちが集まりました。しかし、そんな集まりを快く思わないパリサイ派の人々は、「なぜ取税人や罪人などと食事を共にするのか」と批判しました。

それに対してイエスは、丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である(12)とお答えになりました。健康な人は医者のところには行きません。調子がおかしいとか、痛かったり熱っぽいので医者のところに行きます。イエス様のところに来る人も同じだと、主は言われたのです。

病院には多くの人がやって来ます。いつも駐車場はいっぱいです。待合いロビーは人々でごった返しています。こんなにも多くの人が、病気を自覚して医者のところにやって来ます。

でも、どうして、イエス様のところにはやって来ないのでしょうか。それは、自分が病気(〝罪人〟という名の霊魂の病い)だと分かっていないからです。

肉体の病気であれば一生懸命に治そうとします。医者の言うこともキチンと守ります。塩っ辛いものは食べてはいけませんとか、お酒は駄目だとか言われれば、頑張ってそれを守ります。寿命を5年でも10年でも延ばそうとして、医者のところに通います。少しでも健康で美しくあろうと、健康食品や体によいとされる物を取り入れようとします。

しかし、もっと深刻な病気にかかっているのに気がついていません。それは罪人という病気です。癌も大変な病気ですが……癌をわずらっている方や、家族や友人にそのような方がおられる場合は、失礼なことを申し上げますがご容赦いただきたい……それは肉体のいのちを奪うだけです。

しかし、罪人という病気は永遠のいのちを奪う病気です。放っておいたら確実に地獄に堕ちて行く病気です。この病は全人類がかかっている病気です。聖書はこう記しています。

ひとりの人(アダム)によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ5・12)

肉体の病気を治しても……お医者さんには失礼な言い方ですが……肉体のいのちを少し延ばすだけです。ましてや、罪という病気のゆえに、霊魂が永遠の火で滅びることから救うことができません。

罪人という病気は、群馬大学医学部でも治すことができません。もちろん群馬の名湯草津の湯でも治りません。

以前は、癌が発見されると本人に告知しない場合も多かったのですが、罪人という病気はどうでしょうか。告知しないで死を待つだけの人生を送るべきでしょうか。それとも、病状を告知して、病に勝利するために戦うべきでしょうか。

聖書は私たちの病状を明確に告げて罪の支払う報酬は死であると宣告しています(ローマ6・23)。そう告知するのは、気づかずに死を迎えないためです。罪に勝利できる道があることを示すためです。

罪人という病をいやす唯一のお方がおられます。それはイエス・キリストです。丈夫な人に医者はいりません。しかし、病人には医者が必要です。どうですか。罪をいやし、永遠の死から救い出すことのできる名医のもとに行く決心ができたでしょうか。

肉体の病気を治すために医者の言うことを聞くなら、なおさら、罪人を治してくださる本当の医者であるイエス・キリストの言われることに従順すべきではありませんか。

主治医であるイエスは、わたしの血を飲みなさい」「わたしの肉を食べなさいと言われます(ヨハネ6・54)。これが罪人という病をいやす特効薬です。イエスが十字架で流された血は、私たちの罪をきよめます(Ⅰヨハネ1・7)。病原菌を殺すようなものです。そして、イエスが十字架で引き裂かれた肉を食べるとは、イエスの御言を食べることです。

「御言が肉体となって来られた」(ヨハネ1・14)のがイエス様ですから、イエスの肉を食べるとは、御言を食べることです。病原菌を滅ぼしたら、栄養のある食事をとって元気にならなければなりません。

神の御言は、日々の食物です。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る御言で生きる存在ですから……。

さあ、主治医であるイエス様の言われることに従順する決心をなさったでしょうか。もう治ったからと油断してイエス様から離れてはいけません。いつも、主治医に状況を報告して、適切な指示をうける必要があります。それが祈りです。


マタイの福音書 8章

2024年07月24日 | マタイ福音書
マタイ8:8 ただ、お言葉をください。そうすれば僕(しもべ)はなおります。

イエス・キリストは神の国の王として来られました。王には権威があります。先の第7章の終わりには、イエス様が権威をもって教えられたことに人々が驚いたと記されていました(7・28~29)。パリサイ人や律法学者の先生方にも権威がありましたが、イエス様の場合その比ではなかったのです。それ以上の権威、王としての権威がイエス様には見出されたのです。

そこで第8章からは、イエス・キリストの権威はどのような権威なのか。具体的な出来事を通して聖書は証ししています。

冒頭にツァラト病の人のいやしが記されています。旧約の時代では不治の病、呪われた病と言われ、だれもそれを治すことができませんでした。

それをお心ひとつで治すことができるのです、と病人は申し出ました。そこでイエスはわたしの心だ。きよくなれ※」と宣言なさっていやされました。 ※新改訳参照

一般庶民である人の心は〝ひとつ〟では無力です。だから、署名をして嘆願書をしたためて〝沢山の心〟を集めて願います。それでもかなわないことがあります。

でも王は違います。王の一存で、その心ひとつで事は決まるのです。御国の王であるイエスは、ツァラトはきよきよくなれと心に決められたのです。呪いの病ではなく、不治の病でもなく、いやされたのです。

このように「心ひとつ」でそうなさる権威ある方として、8章の冒頭は書き始めています。

その次に百卒長(百人隊長)が登場します。彼はローマ帝国の王(カイザル)に仕える軍人です。王の口から出る命令によって、戦地におもむき、いのちさえも差し出します。このように、王の言葉には権威があることを、百卒長は身をもって知っています。その百卒長のしもべが中風で苦しんでいました。彼はしもべを何とかして治してやりたいと思い、イエス様に癒しを申し出たのです。

その時、彼はただ、お言葉をくださいと求めました。

百卒長は、王の権威は言葉にあると知っていました。王があれをせよと命じれば、そうなるのです。百卒長は、イエスが神の国の王であり、王としての権威があると認めたのです。

地上の王の権威でさえも、兵隊が動き、戦況が変化します。ましてや、神の国の王が命じられたら、病はいやされます。神の国の王が命じられるので、悪霊は出て行きます。王の言葉には権威があるのです。神の国の王は万物の支配者であられるので、彼が嵐に向かって「しずまれ」と命じられるなら、嵐は鎮まるのです。

イエスを信じるとは、イエスが神の国の王であり、イエスの御言には権威があると信じることです。王が命じるのです。それには従わねばなりません。

王が「床を取り上げて歩けと」命じられたら、病人であっても立って歩かなければなりません。王が「あなたの罪はゆるされた」と命じられたら、罪責感で悲しんでいても、ゆるされたことを感謝して立ち上がらなければなりません。

王の命令は絶対です。王の言葉には服従しなければなりません。神の国の王であるイエス・キリストの御言は、私たちにわざわいをもたらす言葉ではありません。祝福をもたらす言葉です。

王であるイエス様の御言に従順しようではありませんか。

百卒長はイエスを神の国の王として認めたので、権威あるお言葉をくださいと求めました。そして、「あなたの信じたとおりになるように」と言われたイエスの御言を受け取ると、しもべはいやされました。

イエス様を神の国の王と認める人は、イエスの権威ある御言の結果を受け取ることができます。しかし、たかがナザレの大工の息子だと考える人には、イエスの御言は力を伴いません。

百卒長はイエスの「ことば」に権威があると認めました。そのような信仰を立派だと、イエスはおほめになりました。私たちもそのような信仰をもって求めよう。「お言葉をください」と。

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このように、天の御国の王であるイエスが行かれるところには、いつも権威ある御言と御業が現れました。これこそ「天国が近づいた」ことの証しです。

8章では、ツァラト(らい病人)が癒され(3)、中風で苦しんでいた百卒長のしもべも癒され(13)、さらに熱病におかされたペテロの姑も癒されました(15)。そして、その病をもたらしている悪霊も追い出されました(16)

これらは天国が近づいたことの証拠です。聖書に記されていることは、むかし〝だけ〟の出来事ではありません。また、イエス様〝だけ〟に現れた出来事でもありません。

「天国は近づいた」との御言を信じて、イエスを迎え入れ天国を迎えた人であれば、いつの時代でも、誰にでも現れる出来事です。さあ、信じて祈ってみてください。イエスの名によって病気の癒しを祈ってみようではありませんか。 ※癒されない場合もある。だからといって御国が来ていないとはいえない。最終的な完全な癒しは「復活」である。私たちは終わりの時に癒されて、病も死もない完全な身体に変えられるのだから。

さて、天の御国の権威は、地上のあらゆる権威を超越します。例えば自然界に生じる嵐を超越します。

弟子たちの乗った舟はガリラヤ湖で嵐に遭遇しました。沈みそうになる舟の中で弟子たちは恐れるのですが、イエスは舟の中で沈黙しておられました。そこでイエスは言われたのです。なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになったのです (8・26)

なぜ嵐は鎮まったのですか。天国が近づいたからです。天国の王であるイエスが、天国の権威をもってご支配なさるからです。この権威は、地上の国のあらゆる権威より高い権威です。だから海も嵐も従います。

たとえば会社の部長には権威があります。社員は部長の命令に従います。でも、社長が部長に「いや、こうしろ」と命令したら方針は変わります。社長の権威の方が上だからです。

それと同じように、イエスがお持ちになっている権威は天の御国の権威ですから、地上のすべてのものは、イエスに従います。こんなスゴイお方を、私たちの人生にお迎えしたのです。

でも、嵐の中で弟子たちは恐れました。イエスはなぜこわがるのかとたずねられましたが、皆さんはいかがですか。人生の嵐の中でなぜ恐れますか。弟子たちの場合と一緒に考えてみましょう。

第一に、弟子たちは、イエス様が共に船に乗っておられることを忘れていたからです。イエスの存在を忘れて、自分たちだけで何とかしようとして、どうにもならなくて恐れました。イエスはこんな嵐の中でも共におられることを忘れてはなりません。

イエス様は、私たちの調子の良い時だけ共におられる方ではありません。嵐の中にも共におられます。自分で何とかしようと焦る時、このお方が自分の人生に共に乗船なさっていることを思い出してください。

第二に、弟子たちは、イエス様がどのようなお方であるか悟っていなかったからです。風も海も従わせることのできる権威ある方であることを悟っていませんでした。だから、彼らは驚いて、「いったいこの方はどういう方なのだろう」と言わざるを得ませんでした。

あなたは悟っていますか。イエスがどういうお方か分かっていますか。最高の権威をお持ちになっているお方です。罪をゆるす権威、病気をいやす権威、悪霊を追い出す権威、自然界を支配する権威をお持ちのお方です。

そんなお方が、私たちの人生の船に乗船なさっていることが分かっていれば、恐れることはありません。


マタイの福音書 7章

2024年07月23日 | マタイ福音書
マタイ7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

先の第6章では、天に宝を積むことによって、私たちの目は天に向くようになるのだと、イエス様は教えてくださいました。

私たちの目がどこに向いているかによって、目の明るさが異なります。地上に宝を蓄えていると、私たちの目は地上にばかり向いてしまいます。すると、地上の思いわずらいによって、目は曇ってきます。

しかし、天に目を向ける人の目は、天の栄光の光を取り入れるようにして、その目は澄んだ目になります。その目は明るくなって、ものごとを正しく見ることができるようになります(6・19~23)

さて、私たちの目が正しく見ることのできない原因がもうひとつあります。それは、自分の目に梁(はり)が横たわっているからです。イエス様は、この梁を取りのけるなら、はっきり見えるようになると言われました。

この梁は、どうやら虫メガネのように拡大して他者の目にある「ちり」がやたら大きく見えるのです。これでは、健全な人間関係が成り立ちません。

他者のちょっとした欠点や間違いが、大きな問題に見えてしまうので、他者の目の「ちり」が気になって仕方がないのです。それを上手に取ってあげるどころか、かえって「ちり」を理由に他者を攻撃したり、傷つけてしまいます。

このように目に梁が横たわっていると、正しく見ることができません。

あの1万タラント(20万年分の賃金)の借金をゆるされた男は、自分が100デナリ(100日分の賃金)を貸していた友人を許すことができませんでした。それは、男の目に大きな梁が横たわっていたからです。

梁は、他人に対しても自分に対しても、正しく見えなくしてしまいます。友人に貸した100デナリがとてつもなく大きく見えるのです。逆に、自分が免除された20万年分の借金が小さく見えるばかりか、膨大なゆるしの恵みを見失うのです。

だから、天国に国籍のある者として、正しく見る目を持たなければなりません。そのために、主イエスは、目から梁を取りのけなさいと言われます。

私たちの目にある梁とは自己正義のことです。自分を義とする心、自分が正しいとする心です。この自己正義という梁が自分の目にあると、相手の目の「ちり」を正確に把握できません。

自分の義ではなく「神の義」を求めなさい、と主は言われました。人の怒りは、神の義を全うするものではないからです(ヤコブ1・20)

つまり、人の怒りは、多くの場合、自分の義を主張することであって、神の義を全うすることにはならないのです。自己正義という梁が目にあると、人の怒りは過剰な怒りへと展開して行きます。

怒りそのものもが悪いのではありません。怒っても良いのです。神もお怒りになります。イエスも怒られて、神殿の商売人たちをお叱りになりました。

ただ、人間である私たちの場合、怒ってもそれを翌日まで持ち越してはいけません(エペソ4・26)。何故なら、往々にして自己正義が絡んでくると、陰湿な怒りへと変質するからです。

自己正義という人間の義は、神の義を全うできません。だから、自己正義という梁を十字架につけて葬ります。そうしたら、正しく見えるようになって、他者の目の「ちり」を取ってあげることができます。

今日の御言は、他者の目にあるちりを取ってあげようなんて、お節介はやめなさいというのではありません。お互い五十歩百歩。相手の目のちりを取るなんておこがましいというのでもありません。自分の目にある梁を取りのけるなら、他者の目のちりを取ってあげることができるのです。自己正義は十字架に葬られ、愛をもって互いの目からちりを取りのけることができれば、神の子たちの目は澄んでくるでしょう。

互いの目からちりが取り除かれるなら、私たちの目はしっかりと天の希望を見据えることができるでしょう。目が天に向けば、心は清くなることでしょう。こうして、心の清い者たちは幸いです。彼らは神を見るのですから(マタイ5・8)

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「山上の垂訓」と呼ばれる5~7章をひと言でまとめるなら天国人としての生き方です。主は説教の最後に、それを実現するための秘訣を語られました。岩を土台にして家を建てる人と、砂を土台にして家を建てる人の話です(7・24~27)。主はわたしの言葉を聞いて行う者を、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができようと言われました。

かたや、イエス様の御言を聞いても、それを実行しない人は、砂の上に家を建てるような人生です。両者の家は表面的には違いが分かりません。しかし、洪水が押し寄せたときに、倒れない家と倒れる家の違いが明らかになります。

その差は「体験」が有るのか無いのかの違いです。御言を聞いただけでは知識です。もちろん知識も大切です。何も知らなければ始まりません。学校でもいろんな知識を学びます。でも、知識を得たことが即ち身に付いたのではありません。

身に付けるためには、学んだことを実行してみることです。知識と実際では大違いです。実行するので体験します。体験するので身に付きます。身に付くので土台になります。

神の御言も同じです。神の存在の有無を議論しても何にもなりません。神がおられるのを知りたければ、神の御言を実行してみることです。そうすれば、神が生きておられることを体験します。神が生きておられることを体験した人生は、岩の上に建てた家です。人生の洪水が押し寄せて来ても倒れません。神が共におられるという体験が土台だからです。

さて、御言を実行することと、御言を実現することとは違います。この区別がないと、御言を行うことが苦痛になるので説明しておきます。

たとえば、愛しなさいという御言です。御言を聞いて愛を実行するのですが、実際は、愛せないことの連続です。でも、くじけないで御言に従順して愛を行います。これが御言を実行するということです。実際に愛が実現しているかどうかは別の問題です。

こうして「愛しなさい」という御言を実行する中で、愛せない自分さえも神は愛してくださっていることを体験します。神の愛をもっと身近に感じます。神が共におらることを体験します。そして、もう一度、愛そうと立ち上がるのです。

また、思いわずらうなという御言もあります。朝にこれを聞いて、「思いわずらわないぞ」と実行してみるのですが、夕方には思いわずらっています。でも、神の命令ですから、何度でも「思いわずらうな」という御言を行います。

このような実行と失敗の繰り返しの中で、神にゆだねることを学びます。神のように完璧にやろうとして思いわずらってる自分に気づき悔い改めます。自分は神の座から退いて、真のの神にゆだねる生き方を体験します。

このような一連の体験が岩の土台になります。その上に〝人生〟という名の家を建て上げるのです。

しかし、御言を実行してもしなくても、みなそれぞれが家を建てます。表向きは違いが分かりません。御言を実行しなくても立派な家を建てる人もいます。問題は洪水が押し寄せてきた時です。その時、土台が岩なのか砂なのかの差があらわれます。

学校でも、勉強が身に付いているかどうか試験があります。神も、時々私たちに御言が身に付いているのかどうかを試されることがあります。平穏無事なときは御言が土台になっているかどうか分かりません。しかし、やがて試練や困難の時が来ます。それは御言を実行するチャンスです。御言を体験するチャンスです。岩の上に人生を立てているかの試験です。

だから、御言を聞くだけでなく、実行してみましょう。これは救いのためではなく、……救いは御言を聞いて信じることです……せっかく救われた人生を、しっかりと建て上げるためです。

主イエスを王としてお迎えして、天の御国が始まったのです。なのに、王であるイエスの御言を聞くだけで実行しないなら、王の支配は限定的です。天国の祝福を味わいたいなら、王の御言を行うことです。そこには名実共に天国が現れます。この天国は〝死〟という大洪水でも倒れることがありません。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/4sPD0a16U1xLQNLG9driYe?si=lhnawlmPQPiEamEOKcAsxw
You Tube
https://youtu.be/8WKedLo5l7M

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マタイの福音書 6章

2024年07月22日 | マタイ福音書
マタイ6:18 すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

悔い改めて、イエス・キリストを王として歓迎した私たちの内には、天の御国がスタートしました。まだ、未完成ではありますが、完成に向かって、神のご支配なさる領域が広がって行きます。

そういうわけですから、私たちの内なる人(霊)の国籍は天にあります。肉体は地上で生まれたので地上の国に国籍があります。しかし、イエスをお迎えし、イエスを信じた者の霊は新しく生まれて、天に国籍があります。

あなたは何人ですか?。天国人です」。

簡単に整理しておきましょう。イエスを信じた者は神によって生まれました。聖書はこう記しています。「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である」(Ⅰヨハネ5・1)

この時、神から生まれたのは私の「霊」です。肉体は地上で生まれたので地上に国籍があり、地上の国民として生きようとする感覚があります。これが〝肉の思い〟です。しかし、私・霊は神から生まれたので、国籍は天にあります。天国人として生きようとする感覚が生じてきます。この感覚のことを〝霊の思い〟とか〝御霊の思い〟と言います。

だから、イエスを信じる者たちは二重国籍者のようです。しかし、もちろん、天国人として生きる者です。ところが、地上の国民として生きようとする感覚もなかなかぬぐいきれないのが現状です。

そこで、イエス様は、天国人としての生き様を教えてくださいました。それが第6章の内容です。

冒頭にあげた隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださる(6・4、6、18)という御言が3回も繰り返されていることに注目してみましょう。いずれも、自分の義(良い行い)を人に見られるようにしてはならないと教えられています。

献金をする時、ラッパを吹き鳴らすなと言われました(2)。当時の献金箱の投げ込み口はラッパ管状になっていて、たくさんのコインを入れるとジャラジャラ~ン!!と投げ込む音が響くわけです。だから、たくさんの献金をする人は、これ見よがしにラッパを鳴らすようにして献金をしました。

すると、それを聞いた周囲の人々は、スゴイ!信仰の篤い人だ!と賞賛します。しかし、献金という良い行いに対する報いを人から受けてしまいます。すると、天の父からの報いを受け損ねてしまうのだ……とイエスは教えられました。

なぜ、ラッパを吹くようにして献金をするのでしょうか。それは人からの報いを得たいからです。いま生きている地上で報いを得たいのです。そのような感覚は、地上に国籍のある人の感覚です。

地上に国籍のある人は地上で報いを得ようとします。だから、目に見える人を意識します。しかし、天に国籍のある人は違います。隠れたことをご覧になっている天の父なる神を意識して献金します。

だから、そっと献金します。金額を見せびらかすこともしません。右手のしたことを左手に知らせるなとあるように(3)、他者(ひと)に知られないようにします。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるのです。「正しく報いてくださるのは神だ」と知っているのが、天国人の生き方です。かたや、地上に国籍のある者は、地上で報いを得ようとします。

祈るときもそうです。人からの報いを受けようとする偽善者は、会堂や大通りの辻に立って祈ります(5)。断食もそうです。いかにも頑張ってます!というような格好をします(16)

私たちはどうですか。人を意識していますか。それとも神を意識していますか。地上の国民は目に見えることがすべてですから、目に見える人を意識します。目に見える現実の世界で報いを得ようとします。でも、天国人は目に見えない神に目を注ぎます。地上での報いはやがて消えて行きますが、天での報いは永遠に続くからです。

天国人の目は天に目を向けて生きます。

そのためには、虫が食い、さびがつき、また盗人が押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならないと教えています(19)。宝のある所に自分の目も向くからです。

地上の宝を見続けると、私たちの目は曇ってきます。目が濁ってくるので、地上のことも正しく見えなくなります。あなたの宝のある所には、心もあるからである。目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろうと言われるとおりです(21~23)。

地上の宝にばかり注目して目が濁ってしまうなら、どうやって地上を天国人として生き抜くことができましょうか。

天で生まれた私は、神の国のためにこの地上に派遣されている……これが私たちの立場です。これが私たちのアイデンティティー(ID)です。このIDを失うと、自分を見失い、生き方が分からなくなります。 ※自分が自分であることのしるしのこと。

私たちの国籍は天にあります。私たちは神の国の国民です。ですから、私たちの関心事は天にあります。私たちの視点も、発想も天に属しています。

そして、地上の言葉以上に、生まれ故郷の言葉を愛します。それは神の御言です。現在は地上に生活してはいるものの、神の国の国民としての誇りをもって生活します。私たちは、地上で暮らしてはいますが、天国人としての心意気で暮らします。地上に国籍のある人々と同じ水準で生きることをしません。神の国の国民としての水準で生活します。この水準が「神の義」です。だから、天国人としての誇りと心意気をもって、宝を天に蓄えなさいと、キリストは教えてくださったのです。

思い出してください。私たちが地上の国民であった時は、地上に宝を蓄えることに全ての関心がありました。その時の私たちの目は地上に注がれていました。しかし、今や、私たちは神の国の国民です。国籍は天にあります。天に宝を蓄えることは、私たちの目を天に向けるためです。私たちの天国人としての立場を見失わないためです。

天に宝を蓄えることは、少しも惜しいことではありません。地上の国民は惜しいと思い、地上に蓄えようとします。でも、地上では虫が食い、さびがつき、盗まれます。天に宝を蓄えることは、肉の感覚ではそれを失うように見えるのですが、誰も盗み出すことのない天に、しかも永遠に蓄えることです。私たちが、神の国のためにささげた献金・時間・いのち・祈り……それらは、天で永遠にとどまるのです。

マタイ第6章では、天に蓄えるべく宝について教えています。それは、施し献金)」(2~4)祈り(5~15)断食(16~18)といった「良い行い」のことです。

ただし、それは人に見せるためではなく、隠れたところで見ておられる(口語訳・隠れたことを見ておられる)天の父に対して行うのだと、先程述べたとおりです。

長くなりましたが、まとめましょう。6章は天国人の歩き方が記されています。地上の民は視点がいつも地上です。世の人々からの評価を意識し、地上の富に関心があります。だから、富を主人に生きようとします。

天国人でさえ惑わされて、神と富と両方を主人にしようとしてしまいます。でも、それは無理です。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をう疎(うと)んじるからである。あなた方は、神と富とに兼ね仕えることはできないからです(24)。

地上の民は、地上での生活がすべてなので、「何を食べようか、何を飲もうか」と思いわずらいます(31)。でも、天国人は違います。まず神の国と神の義を求めるのです(33)

日本の国民は、日本の法律によって守られています。国民としての最低限の生活ができるように生活保護が受けられるのに、どうして天国の国民が、神から保障されないことがありましょうか。

天に国籍のある者として、まず神の国と神の義を求めようではありませんか。これが天国人としての心意気です。そうすれば、我らの王は、地上に派遣されている私たちのいっさいの必要を満たしてくださるのです。まず神の国と神の義を第一としなさい。そうすれば、必要はそえて与えられるのです。

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

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マタイの福音書 5章

2024年07月20日 | マタイ福音書
マタイ5:3 心の貧しい人たちは、幸いである、天国は彼らのものである。

イエス・キリストは天国が近づいたと宣言されました。では、どのようにして天の御国が私の中に実現して行くのでしょうか。冒頭の聖句が示すように、心の貧しい者の中に実現するのだと、主は教えられました。

でも、どうして心が貧しいと、天国はその人のものなのでしょうか。

「心が貧しい」といっても、それは、心が狭いとか、情け知らず、高慢、自己中心といった意味ではありません。そんな心の持ち主に天国がやって来るなんて、理解しがたいですよね。

本来の意味は立ち上がれないほどに打ちのめされた状態のことです。といっても、それもまた理解しがたいです。心が打ちのめされた状態がどうして天国につながるのでしょうか。何か連想ゲームをしているようです。

すでに私たちは、先の章で、天国を迎えるために悔い改めることを見ました。その悔い改めとは、自分が王座に居座っていることを悔い改めて、御国の王であるイエス・キリストに座っていただくことでした。

でも、そうは言うものの「自分」とは頑固な存在です。なかなか王座を明け渡さないのです。しぶとく居座り続けようとします。

しかし、やがて感謝なことに、王座に居座り続ける自分の高慢さゆえに打ちのめされる時が来ます。自分中心ゆえの醜いおのれの姿に驚愕する時が来ます。自分は王に相応しくないことに気づく時が来ます。自分はひとりよがりの〝裸の王様〟だとに気がついて愕然とする時が来ます。

まだ来ていない?。それは残念!!。

しかし、自分の本当の姿に愕然として打ちのめされている人……つまり、心の貧しい人は幸いです。自分の王座をイエス・キリストに明け渡すことができるからです。そのお方が王座につかれるなら、その所は天の御国です。

自分中心に何でも自分の思い通りになる所が天国なのではありません。そんな世界などあり得ません。たとえ実現できたとしても、朝露のように空(むな)しく消えてしまう世界です。

おのが罪人の姿に打ちのめされる人は幸いです。悔いし砕けし魂の人は幸いです。その人は、キリストを求めるからです。その人はキリストをお迎えし、キリストの支配される天の御国を、おのが内に体験するようになるからです。

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このように、5章3節からは御国の王なるキリストによる珠玉の説教集です。まず、取り上げられている中心テーマは御国の義についてです。

とは〝水準〟です。日本の学力水準とか、技術水準、人生観や価値観の水準、道徳的な水準……と、日本国民の水準があります。おなじように、天国(神の国)にも水準があります。正しさの水準です。それが神の国の義です。

そして、その水準は、律法学者やパリサイ人が到達している義よりもまさっていなければならないと、主は言われたのです(5・20)

律法学者やパリサイ人の義とは、かなり高い水準です。正しさを競うオリンピックがあるなら、間違いなく彼らが金・銀・銅を独占するでしょう。彼らは律法を厳格に守っている人々です。安息規定などの十戒、断食、十分の一献金などをキチ~ンと実行している人々です。

それ以上の義(水準)でなければ……と言われたのですから、聞いている人々は呆然としました。あぁ、自分には無理だと落胆したことでしょう。

ですから、第5章はあまり楽しく読むことのできない箇所です。むしろ、落ち込んでしまいます。自分は何て罪人なんだろうと、自己卑下しながら読む人が多いはずです。

イエス様は救い主なんだから、天国に入る水準を引き下げて、誰でも入れるようにしてくださるのではないのですか。律法に熱心な律法学者やパリサイ人だけが入れるのではなくて、われわれ庶民でも入れるようにしてくださるのではないのですか。

でもイエスはこう言われるのです。わたしは律法や預言を廃するために来たのではない。むしろ、それを完成するために来たのだ(17)。つまり、神の国の水準を無くしたり、引き下げるために来たのではない。むしろ今までが低すぎたのだ。私はその水準を完全なものにするために来たのだ……という意味です。

律法学者やパリサイ人は、その水準を下げないように頑張ってきました。でもイエスがご覧になるに、まだまだ低いのです。

人々は、肉体を殺さないことが、殺すなかれ(21)という律法の水準だと思っていました。だから、肉体を殺していないので「殺してはならない」という水準を満たしていると考えました。しかし、兄弟に向かってばか者というなら、それは殺人なのだとイエスは教えられました。それが天国の水準です。

また人々は、肉体関係による姦淫をしないことが、姦淫するなかれ(27)という律法の水準だと思っていました。しかし、淫欲をもって女性を見るなら、それは姦淫なのだとイエスは言われました。それが天国の水準です。

さらに、目には目を、歯には歯を(38)という律法の水準では、過剰報復をしなければ神の民に相応しいと思っていました。しかし、右の頬をたたかれたら左の頬を差し出せと言われました。やられたら同じことをやり返すのではなく、祝福で返してあげることが、天国の水準です。

また、隣り人を愛せよ(43)という律法の水準があります。隣人を愛することが人として立派なことだと思っていました。しかし、敵をも愛することが天国の水準だと言われました。

神の国(天国)に入るための水準は、それほど高いのです。あなた方の義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできないのです(20)。この水準は、神の国の王であるキリストが提示されたのです。だれもその水準を引き下げることはできません。

そして、最後にだめ押しのようにして、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者になりなさいと主は言われました(48)

もうここまで言われたら絶望です。神の御言の前に打ちのめされてしまいます。立ち上がることができません。ノックダウンです。

いったい誰が救われるのですか。どうやって救われるのですか。しかし、人にはできないことも、神にはできます。人は、だれもこの義(水準)に到達できませんが、イエスは到達なさいました。

イエス様だけが神の国の義をお持ちです。神の救いの方法は、あなたの行いによってその義に到達しなさいというのではなく、イエスが完成なさった義をプレゼントするので受け取りなさいというのです。これが福音です。

マタイ福音書の第5章は、このように神の義(水準)を示しています。人の行いによっては到達できないことを示しています。そして、イエス様だけがそれを完成なさいました。このイエスを受け入れて、その義を受け取るのです。これが福音です。

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この福音には続きがあります。義を受け取ったクリスチャンは、神の国の国民として、その義水準を行えるようにしてくださったことです。

えっ、人間にはできないんじゃないんですか。そうです。できません。でも、人にはできなくても聖霊にはできます。だから、神は、義をプレゼントしてくださるだけでなく、聖霊をもくださるのです。

私の中に内住なさる聖霊は、行う力を与えてくださいます。私が行うというよりは、聖霊が私の内にあって行われます。私たちはそれに従順するのです。

新約は「律法を心の板に刻み込む」時代ですが、それは聖霊の御業です。聖霊の助けを信じてやってみましょう。聖霊によって、神の国の国民としての誇りをもって、神の義をあらわそう。罪を赦されただけで、良い行いができないのでは残念な救いです。

神は、神の子たちを神の義で輝かせて、世の光としたいと願っておられます。神は、神の子たちを、神のきよさで満たして、地の塩とならせたいと願っておられるのです。
 

マタイの福音書 4章

2024年07月19日 | マタイ福音書
マタイ4:1 イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。

イエス様はバプテスマを受けて新しい活動に入りました。それまでは大工の息子として歩まれましたが、バプテスマを受けてから後の活動を公生涯と呼びます。

公生涯の区切りは、イエス様がバプテスマをお受けになった時点からです。水のバプテスマを受け、そして聖霊を受けて公生涯に入られました。イエスを信じてバプテスマを受けた私たちも同じです。ですから、クリスチャンの生涯は公生涯です。神の国の国民としての生涯がここから始まります。

さて、イエス様が公生涯の期間に入られて、最初の出来事は悪魔との対決でした。このことは、神の国のためには霊的な戦いがあることを示しています。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、闇の世の主権者である悪魔との戦いです(エペソ6・12)。どのような戦いでしょうか。

(1)悪魔は、人はパンだけで生きられると思い込ませます。(4・3~4) パンを食べ、肉体を満足させることで、霊的な目を開かせないようにします。しかし、人は神の「ことば」という霊的な食物が必要です。

(2)悪魔は、神への信頼を失わせようとします。(4・5~7) 神の愛を試して飛び降りてみよと誘惑します。そして失敗させて、「ほら見たことか」と神の愛に疑いを持たせます。どんな事態も、神の愛から私たちを引き離すことができません。神の圧倒的な愛は、どんな事態にも、勝ち得て余りがあります(ローマ8・35~39)

(3)悪魔は、地上の栄華を求めさせます。(4・8~10) 地上の栄華は肉眼で見ることができるので魅力的です。でも、それは一時的な栄華であって、やがて消えて行きます。本物の影にすぎません。本物は「神の栄光」です。悪魔は、神の栄光を、地上の栄華にすり替えようとします。だまされないで、神の栄光を求めてください。

王であるイエス様は、私たちに先立って、この霊的戦いに勝利されました。しかも、「聖書には……と書いてある」と、すべて御言をもって勝利されました。悪魔との戦いには、聖書に記録された御言が最大の武器であり防御です。

神の国の国民である私たちも、イエスの御足跡に続こう。皆さんの公生涯が、祝福に満ちたものでありますように祈ります。

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こうして、この時からイエス様は教えを宣べはじめて言われた、悔い改めよ、天国は近づいた(4・17)。福音宣教の開始です。その第一声である「悔い改めよ、天国は近づいた」に注目してみましょう。

イエスが来られる準備をしたバプテスマのヨハネも、悔い改めよ、天国は近づいたと宣べ伝えました(3・2)。また、イエスの弟子たちが派遣されたときも、その第一声は天国は近づいたでした(10・7)。「悔い改め」については先に学びました。ここでは、天国が近づいたことを考えてみましょう。

「天国」というと……新改訳は「天の御国」と翻訳……雲の上に浮かんだ空想上の世界のように連想しがちですが、そうではありません。遠くにある世界ではなく近づいたと言われるように、具体的で身近な世界のことです。

といっても、それは現存の国や社会を変革することで実現するたぐいの世界ではありません。つまり、現存の社会の延長線上に成り立つ世界のことではありません。

イエスは御国のことを、「わたしの国はこの世のものではない」と証しされました(ヨハネ18・36)。ですから、イエスを王として擁立して世俗的な王国を実現しようとした人々とは距離を取り、ご自身は身を引かれました(ヨハネ6・15)

さて、イエス様が宣教をなさるとき、「御国の福音を伝えた」と聖書は記しています。マタイ4章23節でも「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆる患いをおいやしになった」のです。

イエスの弟子たちの活躍が記されている使徒行伝でも、彼らが伝えたのは「神の御国の証し」(使徒28・23)であり、最後まで「神の御国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた」のです(使徒28・31)。彼らが伝えたのは「神の御国」なのです。それは、この地にやって来た天国のことです。

どうでしょうか。あなたにとって天国は遠くにあるものでしょうか。肉体が死んでから入る未来の世界でしょうか。

もちろん、正確には、肉体の死を経てのち、復活の体で天国に入って行くのですが、それは、天国の祝福は死後のお楽しみという意味ではありません。現実の生活の中に、天国はやって来るのです。天国の栄光を先取りするのです。だから「主の祈り」でも、御国が来ますように」「御心が天で成されたように、地上でも成されるようにと祈ります。

では、どのようにして天の御国が、私の中にやって来るのでしょうか。簡単なことです。天の御国の王キリストが支配なさるなら、そこは天の御国です。

自分が王として人生に居座っていませんか。ならば、その人生はあなたのちっぽけな王国に過ぎません。それを悔い改めて、自分は王座から退いてイエスを王座へお迎えするのです。そのような人生は、キリストが王として支配なさる御国です。

マタイ福音書は、御国の王であるイエスがどのような王なのか、そして、御国はどのように実現するのかが記されています。私の中に御国が実現するように祈りつつ、読みすすめてみたいと思います。


マタイの福音書 3章

2024年07月18日 | マタイ福音書
マタイ3:1 バプテスマのヨハネが現れ、ユダの荒野で教えを宣べて言った、悔い改めよ。天国は近づいた

バプテスマのヨハネの登場です。彼は、天国(天の御国・神の国)の王であるキリストが来られるために道を備える役目をはたした預言者です。

私たちはいきなりキリストを信じたのではありませんでした。バプテスマのヨハネのような人々がいて、キリストに出会えるようにと、様々な準備をしてくれたのです。このような道備えがあったので、私たちは王なるキリストを迎えることができました。キリストを伝えるとき、バプテスマのヨハネのような道備えの働きを大切にしたいものです。

さて、バプテスマのヨハネが用意した道備えとは、悔い改めでした。悔い改めはキリストにつながる道を準備するのです。だれも、この「悔い改め」という道を通らずしてキリストに出会うことができません。しかし、この「悔い改め」という道は狭いので、それを避けて広い道を通ろうとする人が多いのです。

この悔い改めとは考えを変えるという意味です。何を、どのように変えるのでしょうか。

(1)「自分には罪がない」という考えを変える。

罪がない人はキリストに出会うことができません。否、会う必要がありません。取税人とか遊女といった当時の罪人と呼ばれる人々はイエス様と出会いました。しかし、自分には罪がないと思い込んでいたパリサイ人や律法学者らは、イエスと出会うことができませんでした。

(2)「肉眼で見る世界が全てだ」という考えを変える。

見えない世界(天の御国・神の国)があります。それは今、肉眼では見ることができないだけです。

見える世界は一時的であり、見えない世界は永遠です(Ⅱコリ4・18)。今の見える世界は、霊的な世界によって成り立っています(ヘブル11・3)。霊的世界に盲目では救いが分かりません。

(3)「天国は遠くにある」という考えを変える。

ヨハネは「天国は近づいた」と宣言しました。 イエス様は「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました(ルカ17・21)。救いはすぐそこに来ているのです。

(4)「自分が王である」という考えを変える。

「国」と「王」は切り離すことができません。国のない王はいません。王のない国もありません。天国(神の国)を迎えるとは、王を迎えることです。

キリストを王として迎えるなら、そこが神の国(天国)です。そこは王なるキリストの支配がおよぶ国です。王が存分に力をあらわされる国です。そのためには、私は王座をおりてイエスに明け渡します。

「自分が中心だ」という考えを変えよう。「自分の人生、自分の好きなようにして何が悪いのだ」という考えを変えよう。自分中心、人間中心の王座から降りて、その王座にイエス様を迎えよう。

自分を考えを変えて、王であるイエス・キリストを迎える準備ができましたか。その「悔い改め」の道を通って、王はやって来られます。天国は近づくのです。悔い改めてキリストを迎えよう。

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このような悔い改めをした人々に、バプテスマのヨハネは悔い改めのバプテスマを授けていました。バプテスマ」とは「水に浸すという意味です。水の中に浸して過去を葬り、新しく生まれることを表しています。

たとえば、ノアの時代に洪水によって全地は水におおわれて滅ぼされましたが、その中からノアの家族を新しい人類の始まりとされました。その時の洪水はバプテスマの水を象徴しています(Ⅰペテロ3・21)

また、出エジプトしたイスラエルの民は紅海を渡って旅立ちました。エジプトでの奴隷の身分を葬って、神の民としての新しい歩みを始めました。この紅海の水もバプテスマを象徴しています(Ⅰコリ10・1~2)

ですから、ヨハネからバプテスマされた人々は、過去の歩みを葬って、キリストを迎える民として準備したわけです。しかし、このバプテスマはあくまで暫定的なバプテスマです。ですから、ヨハネはこう告げています。

私は悔い改めのために、水でお前たちにバプテスマを授けている。しかし、私のあとから来る人は私よりも力のあるかたで、私はその靴を脱がせてあげる値うちもない。この方は、聖霊と火とによってお前たちにバプテスマをお授けになるであろう。(マタイ3・11)

ヨハネが言う「私のあとに来る方」とはキリストのことです。ヨハネは預言者ですから、来るべきキリストは、聖霊と火によってバプテスマを授ける方だと預言しました。

まず、私たちはイエスがキリストであると信じて水のバプテスマを受けます。この水によるバプテスマは人が授けますが、それは単なる儀式で終わらず、イエス・キリストが聖霊と火によってバプテスマしてくださることにつながります。

「聖霊と火によるバプテスマ」は、水のバプテスマと同時的に成されるのが理想的ですが、そうではない場合もあります。同時であろうが、時間差があろうが、大切なことは、イエス・キリストが授けるといわれた聖霊と火によるバプテスマを受けることです。

水のバプテスマが「水の中に浸されること」であるように、聖霊と火のバプテスマは聖霊と火に浸されるという実際です。この経験は各自によって様々です。

私の場合は、イエス様を信じて10数年を経てからでした。知的には信じてそれなりの感動もありましたが、人間的な生真面目(きまじめ)さで信仰を保っている状態でした。肉の頑張りで10年以上やってきたわけです。

もちろん、そこには私の努力以上に、聖霊の導きと助けがなければ、早期に信仰からリタイヤしていたことでしょう。しかし、聖霊によって「浸される」という経験はしていませんでした。

ある日のこと、神の御言が私に臨みました。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。(ローマ8・15)。この御言を通して、聖霊の感動が私を包みました。

それまで、神の子とされたと〝信じて〟いましたが、この時、自分は神の子だと〝分かり〟ました。神を父だと〝信じる〟のではなく、父だと〝分かり〟ました。涙がとめどなく流れて、自分が神の子であることの感動に包まれました。この時から、この感覚は消えることがありません。聖霊が、私の霊に「神の子ども」としての感覚をくださったのです。

このような体験と共に、ある人は「異言」という賜物がともなう人もいます。私も異言の賜物を受けて、内なる霊からの祈りをささげるようになりました。知的な信仰から、体験的な信仰へと変えられたターニングポイントでした。

このバプテスマは火によるとも表現されています。火は不純物を焼きつくします。聖霊が私たちの人生に働かれると、肉の思い、肉の実、不純な動機、信仰の混ぜ物……等々を、聖霊は火のようにして焼きつくされます。

それは、私たちをきよめるためです。

バプテスマのヨハネは引き続きこう説明しています。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます(マタイ3・12)

ある時は、試練の中で焼きつくされます。ある時は、悲しみや失敗を通して焼きつくされます。そして、それこそ最後の火の中で各自の仕事が試されます(Ⅰコリント3・10~15)

このように、イエス様を信じるとは、イエスから聖霊と火によってバプテスマを受けることになるのです。そのスタートが、イエスの名によって受ける「水のバプテスマ」です。ここから始まります。イエスも水のバプテスマを受けて、それから聖霊がくだりました。

どうか聖霊の豊かな働きが、私たちの人生に溢れますようにと祈ります。

 


マタイの福音書 2章

2024年07月17日 | マタイ福音書
マタイ2:11 母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

いよいよ正真正銘の王の誕生です。世界が待ち望む王の王の誕生です。それを待ち望みつつ星を研究していた東方の博士らがエルサレムにやって来ました。 彼らはペルシャ地方の占星術の博士であろうと推測されます。

当時の占星術は正式な学問で、星の運行をもとに暦の計算や天候、自然現象など様々な分野につながる学問でした。そんな博士たちが、どうやってキリストの誕生を知ったのか不思議です。

その謎を解く鍵があります。キリスト誕生の500年ほど前に、ユダヤ人はバビロンへ捕囚として連れて行かれました。その後、ペルシャが支配するようになり、ユダヤ人は解放されたのですが、そのままペルシャに残った人々も多くいました。

ペルシャ在住のユダヤ人の中には、たとえば、モルデカイのように総理大臣にまで登りつめた人もいましたし、エステルのようにペルシャ王妃になる女性もいました。また、ダニエルのように、王宮で仕えながら、王の夢の説き明かしをした人物もいました。

つまり、当時のペルシャにはユダヤ的な影響力が多分にあったのです。ペルシャの知識人たちは、ユダヤに与えられた神の契約に興味をもち、彼らに約束された究極の王キリストについての預言解釈の学問も発展したと考えられます。

そのような歴史を経て、東方の博士たちのように、長年の研究の結果として、キリストの誕生を突き止め、それを確認しようと大胆な旅に出る人々がいても不思議ではないでしょう。

ところが、もうひとつの不思議は、キリストを待ち望んでいるはずの本家本元のユダヤでは、キリストの誕生の知らせを聞いて、かえって不安を感じる人々があったことです。
 
ヘロデ王もそのひとりでした。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じたのです(2・3)。なぜ、不安を感じたのでしょうか。

第一は、自分が王だからです。自分の立場が危うくなるので不安を感じたのです。今の時代でも、キリストを信じ受け入れることに不安を感じる人々がいます。

それは、自分が王だからです。人生の中心は自分だ、自分が王のようにふるまわないと気が済まない人は、本当の王の存在を嫌います。自分中心の立場から追いやられることへの不安があります。

はたして、自分中心でいることが本当に幸せでしょうか。罪人で、気まぐれで、不安定な自分が中心で、本当に上手く行くのでしょうか。

キリストこそが私の王となるに相応(ふさわ)しいお方です。キリストが支配なさるのであれば安心です。慈愛に満ちたキリストの支配のもとにこそ、本当の平安があります。さあ、自分中心という王座を明け渡すことへの不安を乗り越えて、キリストを迎えようではありませんか。

不安を感じる第二の理由は、環境の変化を嫌う故に感じる不安です。ヘロデが不安を感じただけでなく、エルサレムの人々も不安であったと聖書は記しています(2・3)。それは、このことでヘロデが何かをしでかすことへの不安です。今までの環境やバランスが崩れることへの不安です。

ヘロデは猜疑心の強い王であり、そのため、彼は度重なる粛正(しゅくせい)をくり返してきており、その度に民衆は大いに不安を感じてきたのです。

人間は基本的に保守的です。悪い状況でも、それなりの安定があれば、それを崩されるのを好みません。ユダヤの民がヘロデ王で満足していたわけではありません。でも、それなりの安定があれば、それを壊されたくないものです。

改革が必要だと理想を掲げて声高に叫ぶ人々を、どことなく冷めた目で見てしまうのものです。なぜなら、人間は基本的には保守的で、変化を好まないからです。よほどひどい状態にでもならなければ、変化とか改革を熱望しません。

多くの人が中流意識を持っているといわれる日本人は、ほどほどに幸せを感じている民族です。生ぬるい水の中で、熱くもなく、冷たくもない中で、ほどほどに安定している民族です。

そんな日本人ですから、罪を問われても、「少しは感じるけど、それほど自分は悪い人間だとは思わない」といった感覚の人がほとんどです。だから、何も、わざわざキリストを信じなくても、ほどほどに生きて行ける環境が日本です。

そんな人々の心には、キリストだ。罪だ。救いだなんて言って、〝騒ぎ〟を起こさないでくれ!という不安が湧き上るのです。それは、エルサレムの人たちが感じた不安と同じ類(たぐい)のものです。

その通りです。キリストも、わたしが来たのは地上に剣を投げ込むために来たのだと言われ、従来の秩序が変化し、そこに戦いが生じるのだと言われた通りです。だから、不安を感じます。

でも、その不安を乗り越えて、キリストを迎えようではありませんか。そうすれば、漠然とした根拠のない平安ではなく、キリストのある確固たる平安があなたを支配するようになるのです。
 
◆◆◆◆◆◆◆

さて、不安どころか逆に、喜び勇んで馳せ参じた東方からの博士たちのことを考えてみましょう。王が誕生したとはいえ、生まれたばかりの乳飲み子です。そんな幼な子に王の権威を認めてひれ伏す態度は、まことの礼拝者の姿です。私たちはイエス様に対してどんな態度で御前に出ているでしょうか。

現代では、王が支配する国が少なくなってきました。たとえ王制が存続していても象徴的存在で、実際の国の支配は内閣などの政府が担当しています。

ですから、現代はを知らない時代です。

しかし、実際の王の言葉は絶対です。王の言葉はすなわち法律です。王とは絶対的な権力の持ち主です。イエス・キリストはまさにそのような「王の中の王」として来られました。

しかし、人類は歴史の中で数々の王に仕え、王から虐(しいた)げられる中で、権威に深く傷ついてきました。権威なんか信用できない、権威なんか嫌いだ……という傷を負っています。

その反動で、社会では平等と自由が叫ばれ、権威を否定することが進歩的だと考える人々が増えています。そして、絶対的なものは影を潜め、すべてが相対化された世界です。

しかし、権威のない平等はあり得ません。権威のない自由もあり得ません。権威のない秩序もありません。本当は、正しい権威を人々は求めているのです。不条理な世界を正しくさばき、正しく支配する権威を求めています。でも、その権威を、罪人である人間が悪用するので混乱します。

まことに服従すべき権威あるお方はイエス・キリストです。王の中の王であるイエスこそ、礼拝を受けるにふさわしい権威あるお方です。

礼拝は〝王にひれ伏す〟という謙遜です。真の権威を認め服従する姿は、人としての本来の姿です。人として麗しい姿です。博士たちは王である幼な子キリストの御前にひれ伏したのです。ところが、権威に傷ついた人は、ひれ伏すことを屈辱と感じます。権威に対して傷ついた心がいやされ、正しい権威が回復されるように祈る必要があります。

イエス様こそ、心から安心して服従できる権威ある王です。イエス様こそ、信頼してそのさばきに身をゆだねることのできる権威ある王です。さあ、イエスを礼拝しよう。イエスの御前にはすべての冠を投げ捨ててひれ伏そう。

正しい権威の前にひれ伏すことこそ、被造者(造られた側の者)としての本来の姿、麗しい姿です。

あの偉大なダビデ王は、自分がひれ伏すべきまことの王を知っていました。ダビデは王であって、我がもの顔にふるまうことのできる立場にありながら、真の王である神を認め、礼拝しました。そこが彼のすばらしいところです。

イエス様こそ神の国の王としてふさわしい権威あるお方です。罪をゆるす権威があり、病をいやす権威があり、悪霊を追い出す権威があり、嵐を鎮める権威のあるお方です。

このお方の前にひれ伏す者に、罪のゆるしが与えられます。いやされ、霊的解放が与えられます。王なるイエスを礼拝する者に祝福あれ。


マタイの福音書 1章

2024年07月16日 | マタイ福音書
マタイ1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

マタイによる福音書は王であるキリストを描いた福音書だと言われています。マタイは「神の御国の王」として来られたキリストを紹介するにあたって、まず最初に王の系図を記しました。

早速、見て行きましょう。イエス・キリストの系図だから、さぞかし立派な系図かと思いきや何のその。すさまじい系図です。男子が記されるのが当時の伝統的な系図なのですが、所々に女性の名が記されているのは異例ともいえる系図です。

しかも、その女性たちが〝わけ有り〟なのですから、なおさらです。

ユダはタマルとの間にパレスとザラを生んだと記されていますが(1・3)、このタマルという女性は、ユダの息子の妻です。ユダにしてみれば義理の娘です。何という出生でしょうか。

また、サルモンはラハブとの間にボアズを生んだと記されていますが(5)、このラハブという女性はカナン人で、エリコの町の売春婦でした。イスラエルがカナンに侵攻したとき、ラハブの家族が悔い改めて主を信じたので生き残ったのです。私見ですが、たぶん、エリコを調査するために侵入し、ラハブの家でかくまわれたイスラエル兵のひとりが、このサルモンであったのでしょう。

さらに、ボアズはルツをめとってオベデを生みました(5)。このルツという女性も異邦人でモアブ人でした。でも、彼女は姑(しゅうとめ)のナオミを通して、神である主を信じるようになりました。そして、彼女はイスラエルの偉大な王ダビデの曾祖母になりました。

さらにもうひとりの女性が登場します。ダビデはウリヤの妻との間にソロモンを生みました(6)。彼女はバテシバです。その名は記していませんが、ウリヤの妻と意図的に記しているように、ダビデの部下であるウリヤの妻を奪ったのです。

一般的な王であれば、功績は誇張し、汚点は隠したり美化するのが通例です。しかし、神の御国の王であるイエス・キリストの系図には、姦淫あり、殺人あり、投獄あり、裏切りあり……人の悪の悲喜こもごもが露わにされています。なぜ、このような系図が記されたのでしょうか。

第一に、キリストは罪のただ中に来られた王だからです。罪に苦しみ滅び行く人間を救うために来られた王だからです。そして、人間の最大の敵である罪と、罪の結果である死を滅ぼす王として来られたからです。私たちがどんな系図の者であっても、どんな経歴の者であっても、キリストはそのような私たちの中に来られる救い主です。

第二に、女性が系図に記され、しかも異邦人の名も記されているのは、ユダヤ民族だけではなく、全人類のキリストを意味しています。男女の区別なくすべての民の王として来られたのです。キリストはユダヤ民族だけのものでもなければ、欧米人のものでもありません。全人類の救い主です。

第三に、聖書の約束通りに来られた正真正銘の救い主であることを示しています。冒頭の聖句は、「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と記されています。神は、思いつきで何かをなさいません。必ず、前もって計画を立て、予告してからなさる神です。

その予告が旧約聖書の「預言」として語られています。キリストは「女の子孫」として来られると預言され、さらにアブラハムの子孫として来られる。そのまたダビデの子孫として来られる……と預言されています。

それは、だれも、人為的に、勝手にキリストを名乗らないためです。だれも、キリストを作りあげることも、演じることもできません。それは不可能です。しかし、マリヤという女性から生まれたイエスは、預言通りに来られた正真正銘のキリストです。

この方を信じよう。この方こそ、私たちを罪から救う権威あるお方です。この方こそ、私たちの霊を活かし、神の子どもとする権威ある王です。

◆◆◆◆◆◆

このように、マタイは王として来られたキリストをえがきました。他の福音書にもそれぞれのテーマがあります。ヨハネは「神であるキリスト」、ルカは「人であるキリスト」、マルコは「しもべであるキリスト」をえがきました。

旧約聖書で預言されているキリストの多くは、王としてのキリスト像が色濃く表れています。だから、ユダヤ人にとってキリストは王なるキリストであり、圧制からの解放者と期待されていました。歴代の王たちの中でダビデはすばらしい王ではありましたが、本当のキリストではありませんでした。彼も先祖と同じように死んで墓に葬られました。ソロモン王の時代は栄華の極みを体験しましたが、しかし、そこは神の国ではありませんでした。その国は後にバビロンに滅ぼされ、その後に復興したユダヤの国もローマ帝国の支配下で喘(あえ)いでいました。

そんな歴史の中で、ユダヤ人たちはキリストが来られるのを待ち望んでいました。神の国の王として、この地上に神の完全なご支配の現れるのを信じて待っていました。

そして、待望のキリストがついに来られました。それはナザレ出身のイエスというお方です。すでに確認したように、確かに預言通りに来られたお方です。

このお方は人としてはアブラハム~ダビデの子孫、つまり人の子としてお生まれになりました。しかし、霊的には神の子として来られた方です。それを証しするために、マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になったと記しています(18)

男女の営みによらず、聖霊によって懐妊したのです。これは、霊において罪を持たずに来られたことを示しています。これはとても重要なことです。 ※罪とは霊的な負債。だから、霊のない動植物には罪がない。霊的存在である人と天使に対してのみ罪が問われる。人間にはアダム以来の罪が人の霊によって受け継がれている。イエスは人としてはその肉体を引き継がれたが、霊は神の霊を受けたお方なので、罪のない者として世に誕生された。

イエス様は完全な人として来られましたが、同時に、罪のない方(かた)として来られました。罪のない方だからこそ、人類の罪を背負うことができる唯一の救い主です。

人類の罪の支払いのために身代わりの死を引き受けるのは、人でなければなりません。旧約では動物でしたが、それは仮の犠牲でした。しかし罪人では身代わりにはなり得ません。罪のない人間でなければなりません。これが両立するのは、罪のない神が人となって世に来られることでした。
 
人となられた神であるイエス・キリスト……ここに私たちの救いの根拠があります。


申命記 34章

2024年07月15日 | 申命記
申命記 34章
そして主は彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。
(34・4)


死期が近づいたモーセは、これから入ろうとするカナンの全地を見渡すことのできるピスガの山に登り、そこで冒頭の御言を神より受けました。

モーセは約束の地に入れませんでしたが、自身の役割を完全に果たしました。民をエジプトから導き出し、約束の地の手前まで導く。これが、モーセに課せられた神からの使命でした。

私たちにも、神は、私でなければできない使命をお与えになっています。そのことに「命を使う(使命とはそういう意味)」人生は何と幸いでしょうか。

モーセが約束の地に入らなかったように、自分の代で完成を見ないことがあります。自分の代で成したことは中途半端のようで、何もできなかったかのように感じることもあるでしょう。

でも、神の大きなご計画の中で、私でなければできない働きがあって、神はそんな各自の働きを組み合わせ一曲の交響曲を仕上げるコンダクターのようにして、ご自身の御心という名の作品を完成なさいます。

必要なことは各自の分を心得て、その分に応じて働くことです。

1タラント与えられた者は、少なさに不平を言わずに、また地に埋めたりせずにそれを生かします。また、5タラントを与えられた者には、5タラントの使命があるのです。自分の多さを誇ったり、高慢になってはいけません。私たちの人生は、ちっぽけな自己実現のためにではなく、神の御心の実現のために用いられるのです。

交響曲の中にはたった1回しか出番のない楽器もあれば、随所に音を奏でる楽器もあります。きらびやかな音を出す楽器もあれば、底支えをするような低音楽器もあります。皆が組み合わさって交響曲が完成します。トランペットだけが自己主張しても完成しません。出番が少ないからと、シンバルが演奏を放棄してはなりません。ひょっとして、神の御国の完成のクライマックスに、高らかに響きわたるシンバルの出番があるのかもしれません。

このように、大きな神のご経綸の中ではモーセの活躍も一部分に過ぎません。それをわきまえ、謙虚に従う多くの聖徒たちによって、神の国は完成するのです。

あなたの、あなたでなければならない使命が、あなたによって果たされますように祈ります。