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朝マナ

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ピレモンへの手紙

2023年02月27日 | ピレモン書
ピレモンへの手紙
もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
(1・18)


ピレモンはコロサイ教会の中心的な人物で、家族を挙げて福音のために仕えていました。2節のアビヤはピレモンの妻、戦友アルキポはピレモンの息子です。

そんなピレモン家にオネシモという奴隷が仕えていたのですが、役に立たない者(11節)と記されているように、何かと問題の多い奴隷だったようです。

そんなオネシモがピレモン家の金品を盗んで逃亡したようです。そして、流れ流れてついにローマで投獄中のパウロと出会うことができたわけです。その経緯は記されていませんが、神の不思議な導きです。

獄中のパウロと出会ったオネシモは、パウロの指導を受けてキリストを受け入れるようになり、彼は新しく造り変えられました。そして、役に立つ者・有益な者になって、パウロに仕える者になりました。

手紙ではこう記されています。オネシモは以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になったのです(11)

しかし、いつまでもこのままで良いわけがなく、オネシモの主人であるピレモンに彼を送り返すことになり、そのための手紙がこの「ピレモンへの手紙」というわけです。

さて、オネシモとは「有益な者」という意味の名です。以前は「無益な者」と言われるほどの問題児が、いかにして、名の如く本物の〝オネシモ〟に変えられたのか。二つの要素を考えてみましょう。

(1)オネシモを見出してくれる人物と出会えた。

オネシモはパウロによって見出されました。人々からは役立たずと評価されていたオネシモでしたが、パウロは彼の中にキラッと光るダイヤの原石のような輝きを見つけたのです。そんなパウロに出会えたことは何と幸いでしょうか。

まさに、そのようにして私たちの神は、私を見出してくださったのです。多くの場合、人は表面的な部分を見て評価します。しかし、神は内面をご覧になります。私たちの内側にある原石のような輝きを見つけ出してくださるのです。そのような神と出会うことは、なんと幸いなことでしょう。

アダムがエデンで罪を犯し神を離れたときも、「あなたは何処にいるのか」と、神は私たちを探し出そうとなさる方です。ザアカイを訪ねられたイエスも、私は失われた者を探し出して救うために来たのだと言われました。

私がイエスを発見したのではありません。自分が発見したと思っているとやがて見失うでしょう。イエス様の方が先に、しかも世の始まる前から、ザアカイを見つけだし、私にさえ目をとめ、そしてあなたを見出してくださったのです。

オネシモもそうだったのです。「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのだ」と言われるイエスの御言は真理です。オネシモは、自分の主人であるピレモンのもとから逃げ出し、ピレモンが仕えるキリストからも離れたのです。でも、そんなオネシモを主はローマで探し出してくださいました。それが投獄中のパウロとの出会いです。

かくまでして、探し出してくださるキリストとの出会いを大切にしましょう。主は罪人である私の内面を見てくださいます。悔いし砕けた魂を育ててくださいます。そのようにして、オネシモもパウロとの出会いの中で育てられました。役に立たない逃亡者が、本来あるべき姿に立ち戻ったのです。

(2)パウロはオネシモの保証人になってくれた。

パウロはオネシモを主人ピレモンのもとに返すにあたり、もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それを私の借りにしておいてほしいと手紙に記しました(18)

新改訳ではその請求は私にしてくださいと述べています。つまり、パウロが保証人になってくれたのです。この返済がなければオネシモは主人のもとに帰れなかったのです。

私たちも同様です。まさに、イエス様は私たちの保証人となって、こう言われるのです。「彼の〝罪〟という名の借金の請求はわたしにしてくださいこうして、主なる神に背を向け、逃亡奴隷のようになっていた私たちを、イエスは天の御父のもとへと送り返してくださったわけです。

さらに、イエスはこうも言われると信じています。「あなたの失敗の責任はわたしが負ってあげるから、さあ、大胆に生きて行きなさい」と勇気づけて、私たちを世の荒波の中に送り出してくださいます。このような後ろ盾があるので、無益な者が有益な者へと変えられるのです。

パウロがオネシモにこのようにできたのも、パウロ自身もイエス・キリストからそのように扱っていただいたからです。パウロを取りまく人々の関わりも、まさにそうでした。

実は、パウロがイエスを信じた当時、多くのクリスチャンは彼を信用しませんでした。かつては教会の迫害者であり、その急先鋒であったパウロが回心したといっても、にわかには信用できません。何かの罠かもしれません。そんなとき、バルナバがパウロの保証人になってくれたことで、パウロはキリスト教会に受け入れられたわけです(使徒9・26~27)。

それから数年が経過し、バルナバがアンテオケ教会を牧会するようになったとき、協力者としてパウロを推薦したのです(使徒11・19~26)。このように、バルナバがパウロを見出してくれなかったら、今日のパウロはなったでしょう。

そんなパウロでしたが、初期の血気盛んな頃は、第1回伝道旅行でリタイアしたマルコを、第2回伝道旅行では連れて行かないと主張し、バルナバと大激論になりました(使徒15・36~)。こうして、パウロと決裂したバルナバは、マルコを引き受けて育てました。

パウロは福音宣教(外向き)のタイプで、バルナバは人を育てる(内向き)タイプの人だと私は思っています。このタイプの違いは優劣ではありません。どちらも大切です。

結果どうなったかというと、パウロから「無益な者」と思われたマルコは、今ではパウロのもとで仕えていたのです(ピレモン24)。人が織りなす何とすばらしいハーモニーでしょうか。

パウロもそんなバルナバの働きに教えられ、オネシモを見出し養う人になったのでしょう。

主イエスは絶妙なご配在のものとで、私たちを見出し、養い、ダイヤの原石を研ぐように取り扱われるのです。感謝しましょう。あなたはその御手の中にあるのですから……。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/1MLLEvePySJ21aaBONttEK?si=k_yxWtUIREOWxnEyxPIg6g
You Tubehttps://youtu.be/mG3pz55lodk

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