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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

イザヤ書 12章

2022年07月30日 | イザヤ書

イザヤ書 12章
主よ、私はあなたに感謝します。あなたは、先に私にむかって怒られたが、その怒りはやんで、私を慰められたからです。
(12・1)


人は怒りにまかせて「そんなもん知るかっ!!」と以前のことをひっくり返してしまいますが、神は怒られてもご自分の約束をお忘れになりません。

罪に対して激しい御怒りをくだされる神ですが、悔い改める者たち……、残りの者たちをあわれみ、神の御もとに立ち返るようになさいます。放蕩息子を待っている父のようです。

ですから、先の第11章では、残りの者たちが世界の隅々から戻ってくるのだと預言されています(11・11~12)

その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。(11・11~12)

この預言が語られたように、やがて南ユダの人々はバビロン捕囚の地から戻ってきました。しかし「地の四方から」の帰還ではありませんでした。これは、さらに後の時代のことを預言しています。

先に、聖書の預言は「二重の預言」になっている場合があることを見ましたが、この預言もそのように理解すべき箇所です。

紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは流浪の民となり、世界各地へと散らされて行きました。しかし1948年イスラエルの建国と共に、多くのユダヤ人たちが、文字通り「地の四方から」集まってきました。

この預言はいまも〝現在進行形〟です。イエス・キリスト再臨のとき、残りの者たちは文字通り地の四方から集められ、約束の御国の中に入れられることになるはずです。

その時、彼らは今日の聖句のように告白します。

主よ、私はあなたに感謝します。あなたは、先に私にむかって怒られたが、その怒りはやんで、私を慰められたからです」。

神は、罪に対して怒られる神ですが、御怒りは罪をきよめるためであって、怒りそのものが目的ではありません。御怒りの終着駅は慰めです。

この原則はイスラエル民族だけでなく、新約時代の私たちにも同じです。神は、罪に対する御怒りを、イエス・キリストの十字架に注がれました。私たちが受けるはずの御怒りを、イエスは十字架の上で引き受けてくださいました。

この十字架は私のためであったと信じる者は、神の御怒りから解放され、神の慰めを受けるのです。このように、イエスの十字架には神の御怒りと慰めとが込められています。

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イザヤ書 11章

2022年07月29日 | イザヤ書

イザヤ書 11章
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。
(11・1~2)


神のさばきと御怒りは、他国軍 ――それは、アッシリヤであり、その後に続くバビロン―― による進撃によってもたらされることが、先の章で語られていました。

その結果、南ユダは壊滅的な打撃を受けます。それは、茂った林が伐採されたような状態です。主は斧をもって茂りあう林を切られる。みごとな木の茂るレバノンも倒される(10・34)。しかし、そのような伐採された地から、ひとつの「芽」が生え出て実を結ぶのです。それは、エッサイの根株から生え出るのだと預言されています。伐採されたあとの根は死んだも同然。しかし、そんな死の中にも、神は新しいいのちをお与えになります。

「エッサイ」とはダビデ王の父の名です。かつて、神は、ダビデ王家からキリストが誕生すると約束なさいました。そのために家系を絶やさすことはないのです。神はその約束をお忘れになっていません。

たとえ切り株にしてしまうほどにお怒りになっても、神は、ご自分の約束を変更なさいません。私たち人間は、激しく怒るあまりに、かつての約束もなかったことにしてしまうのですが、神はそういう方ではありません。

さて、この切り株から生え出たとは、だれのことでしょうか。それはイエス・キリストです。エッサイの家系、ダビデ王家から来られたイエスこそ、新芽のように生え出たキリストです。

イエス・キリストはその公生涯を始められるにあたり、聖霊を受けて働かれました。預言の言葉の通り彼には主の霊がとどまるのです。

このお方は、父なる神を愛し従順して、正しいさばきをなし、公平をもって治められる王です。預言は次のように告げています。

彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国の内の柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。(11・3~5)

キリストは〝見るところ、聞くところによってさばかない〟のです。

見もしないでさばいたり、聞きもしないで他者のことをあれこれと決めつけてはいけません。だから、よく見て、よく聞いてから判断しなければなりません。しかし、キリストはさらに、〝見るところ、聞くところによってさばかない〟のです。人には見えない、その人の動機であったり生い立ちもふくめて、さばかれるという意味です。

人間は、見たからといって、すべてを見たわけではありません。聞いたからといって、すべてを聞いたわけではありません。それなのに、知ったかぶりしてさばいてしまいます。

さて、実際に2千年前、キリストが来られても、いまだに実現していない項目もあります。それは……

狼は小羊と共にやどり、豹は子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである
という預言です(11・6~9)


被造界全体が、創造された当初の状態に回復するのだと預言されていますが、まだ実現に至っていません。それは、イエスの再臨によって実現するはずです。

今は、被造界全体が、その時を待ってうめいている時代です。私たち人間もうめいています。それは、霊的には救いを受けましたが、肉体はまだ完全には贖われていないからです。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っている私たち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいるのです(ローマ8・22~23)

聖書の預言は、アッシリヤによって滅ぼされるが、回復が用意されている……という直近の予告と共に、キリストの来臨によってなされる更に先の予告も重ねて語られています。二重に三重にと、預言されているわけです。

キリストにあって、これら神の御言は、ひとつとして地に落ちることなく完成します。

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イザヤ書 10章

2022年07月27日 | イザヤ書
イザヤ書 10章
その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。
(10・20~21)


「その日」には、アッシリヤ帝国によって、北イスラエルは滅ぼされ、南ユダも激しい攻撃にさらされる。それは、神がご自身のさばきの杖として、また怒りの鞭としてアッシリヤを用いるのです(10・5)

そのような刑罰の日に、民よ、どう対処するのか考えてみよと主は迫っておられます。

あなた方は刑罰の日がきたなら、何をしようとするのか。大風が遠くから来るとき、何をしようとするのか。あなた方は逃れていって、だれに助けを求めようとするのか。また、どこにあなた方の富を残そうとするのか。(10・3)

やけになってふて腐れる人がいます。一方で、しずまって自分の生き方を振り返り、神の御前に正直になって祈る人もいます。

神のさばきには、常に悔い改めて神に立ち返れというメッセージが込められています。罪に対するさばき……それは神の「義」です。しかし義で終わらず、悔い改めて救われる道を用意なさっています。それは神の「愛」です。

悔い改めて神に立ち返れ。

これが神の願っておられる道です。しかし、この道を選ぶ人が少ないのです。その道は細く、その道に入る門は狭いからです。むしろ、多くの人々は、広い門と広い道を選びます。

自分は間違っていないと「自己正義」に立つ人ほど、悔い改めは狭い門であり、細い道です。そして、嫌いで苦手な方法です。

ですから、このイザヤの時代も、多くの人々は悔い改めないであろうと預言されています。わずかな「残りの者」が、神に立ち返るのだと……。

あなたは、そして私は、この〝残りの者〟となっているでしょうか。

残りの者とは、悔いし砕けし霊魂の者たちです。神のさばきに対して、「逃れていって、だれかに助けを求めようとする」のではなく、悔い改めて、まことの神に立ち返る者たちです。

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イザヤ書 9章

2022年07月27日 | イザヤ書

イザヤ書 9章
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
(9・2)


先の第8章の預言では、ダマスコとサマリヤはアッシリヤによって滅ぼされるのだと語られました(8・1~4)。しかし、そのような苦しみにあった地にも、やがて光が差す時が来るのだと、主は言われます。

苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。(9・1)

ダマスコとサマリヤの滅びは神のさばきであり、罪に対する神の御怒りであると語っているのですが、あわれみ深い神は、そのような滅びの中にも希望の光を注がれます。

上記のゼブルンとナフタリ地とはアッシリヤによって滅ぼされた北イスラエルのことです。そして、その地域はアッシリヤの植民政策によって外国人との混血がすすみ、やがて「異邦人の地」と呼ばれるようになりました。

端から見れば、神から見捨てられた地です。暗やみにつつまれた地です。そこは希望の光が閉ざされた地です。そのため、「ナザレからいったい何の良きものが出ようか」と揶揄(やゆ)される地です。

しかし、神は、そんな暗闇の地をお見捨てになっていません。そこに光を注がれます。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照ったのです(9・2)

預言の本文は〝過去形〟で記されていますが、預言が語られた時点ではまだ実現されていません。たとえ未来のことであっても、まるで過去のことのように表現してます。それほど確実な約束であることを意味しています。

では、この御言はいつ実現したのでしょうか。

イエス・キリストが来られた時です。イエス様はユダのベツレヘムで誕生されましたが、育ったのはガリラヤ地方の寒村のナザレです。神の救いの福音は、預言通りこのガリラヤから語り始められました。そのことをマタイは次のように記録しました。

「そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言(ことば)が、成就するためである。

『ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった』。」(マタイ4・13~16)

神は、約束をお忘れになってはいませんでした。イザヤを通して預言なさったことを、約700年の歳月を経て見せてくださいました。

神のなさることは、人の感覚では先延ばしになさっているようですが、お忘れになったのではありません。私たち人間の方が、神様の永遠の尺度に追いついていないだけです。その隔てを埋めるのは信仰です。

かくして約束された「大いなる光」は、キリストを通して照らされるようになりました。ヨハネ福音書は、このお方は世の光であって、暗闇はこれに打ち勝つことができなかったと紹介しています。

さて、イザヤはこの預言の成就をはるか彼方(かなた)に見ながら、そのお方が〝生まれたばかりのみどり子〟であると紹介しています。

ひとりのみどり子が我々のために生れた、ひとりの男の子が我々に与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イザヤ9・6~7)

この「みどり子」は、先のイザヤ書7章の「乙女が身ごもって生む男の子」のことなのでしょうか。

7章の男子は直近の意味では、預言者の妻から生まれた子でした。しかし、この子がやがてイスラエルを統治した事実がありません。ですから、9章の男子は、未来に生まれてくる男子のことです。

しかし、先の7章の男子が「インマヌエル」と呼ばれることと関連して、7章の男子誕生預言は2重の意味が込められていて、後に来られるみどり子によってより確実に実現すると解釈されます。

このお方によって、暗闇の中に住んでいた私たちの上に光が照るようになりました。罪の闇が照らされ、「ゆるし」という光のもとで生きることができるようになさいました。

9章1~7節はイスラエルの回復とキリスト誕生の預言が記されていますが、8節以降は再び北イスラエルに対するさばきが語られています。内容が前後していますので混乱しないように。

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イザヤ書 8章

2022年07月26日 | イザヤ書

イザヤ書 8章
彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。
(8・12~13)


状況は先の第7章で述べたとおり、北イスラエルとスリヤ(アラム)の連合軍が、南ユダに進撃してきた時のことです。国内は、王国存亡の危機にいかに対処すべきかで大混乱に陥っていました。

そんな中、「大丈夫だよ」というしるしが与えられるのです。それは、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産むという小さなしるしだということを、先の7章でとりあげました(7・14)。この〝男の子〟とは、新約の立場からは、乙女マリヤから生まれたイエス・キリストだと解釈してしまうのですが、イザヤが預言した当時の文脈からすれば、預言者の妻(新改訳では「女預言者」)が男の子を産んだことを意味しています(8・3)。そして、この子が、目前の危機から救い出してくれる象徴的な存在となるのです。

神は、この男子にマヘル・シャラル・ハシ・バズと名づけよと命じました。その名の意味は略奪が来る、損傷は速やかに来るです。そして、こう告げられたのです。

それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。(8・4)

つまり、迫り来る北イスラエルとスリヤを略奪し滅ぼすために、アッシリヤ軍が速やかにやって来ることを予見した名でした。 ※ダマスコとはスリヤ(アラム)の首都。サマリヤは北イスラエルの首都。

でも、こんな幼な子の名前が何の励ましになりますか。人々は侮ったのです。

こうしてある人々は、この際、北イスラエルおよびスリヤと和を講じ、北東に迫り来るアッシリヤの脅威に対抗すべく、反アッシリヤ連合を結成すべきだと考えました。また、ある人々は、逆に、アッシリヤと手を結ぶことで、当面の敵を挟み撃ちにすればよいと考えました。また、別の人々は、神ならぬ霊媒や口寄せに答えを求めて拝んでいました。神ならぬ者にどうして求めるのか。そのような時こそ、主である神に求めるべきではないのかとイザヤは告げます。

人々があなた方に向かって『さえずるように、ささやくように語る巫子(みこ)および魔術者に求めよ』という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。(8・19)

人は恐れに支配されると、正しい判断ができなくなります。ですから、イザヤは人々に語りました。彼らが恐れるものを恐れてはならないと。ただ、恐れるべきは、われらの神であると。

人々が恐れているものは、「造られた存在」に過ぎません。それらを造られた創造主である神こそ、本当に畏(おそ)れるべきお方です。その方を知らないので、被造物を恐れます。

恐怖に支配されそうになるとき、創造主である神を見上げよ。その方に祈り求めよ。万物を創造なさった方は、被造物たちより圧倒的に強いお方であることを覚えよ。

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イザヤ書 7章

2022年07月25日 | イザヤ書

イザヤ書 7章
気をつけて、静かにし、恐れてはならない。
(7・4)


ダビデによって統一されたイスラエル王国は、後に南北に分裂し、北はイスラエル王国、南はユダ王国となったことはすでにお話ししたとおりです。

先の第6章で、ユダの王ウジヤが死去したことが述べられていましたが、そのウジヤ王の孫にあたるアハズ王の時代のことです。北イスラエルの王ペカとスリヤ(アラム)の王レジンとの同盟軍が、南ユダ王国に進軍してきたのです。

当時、北東の大国アッシリヤが勢力を伸ばしており、小国の北イスラエルとスリヤ(アラム)は連合してこの脅威に対抗しました。彼らは、さらに南ユダ王国にも連合軍に参加するよう要請したのですが、アハズ王はそれを拒絶します。すると一転、北イスラエルとスリヤ(アラム)の連合軍は先手を打ってユダ王国を支配下におこうと進軍してきたわけです。

この時の南ユダの民と王の心境が記されています。「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」のです(7・2)。 ※「エフライム」とは北イスラエルの別名。

そんな時に、イザヤは神の御言を預言したのです。気をつけて、静かにし、恐れてはならないと語られました。また、もしあなたがたが信じないならば、立つことはできないとも語られました(7・9)

目に見える戦力や人間を頼るのか。それとも万物の創造主であり支配者である神を信頼するのか。そのことが問われています。

理屈では、神を信頼すべきであることは分かっていても、実際は目に見える戦力や人を頼ってしまいます。ですから、戦力や人を見て恐れも生じるのです。

日頃の小さな戦いの中で ――仕事上のこと、家族のこと、経済的なこと―― 戦いの場は小さくても、私たちは、目に見えるものを頼るのか、それとも神を信頼するのか。その選択の訓練です。

そんな中で神は私たちと共にいるインマヌエル)」というしるしを見せてくださいます。

アハズ王にも、見よ、乙女がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる(7・14)というしるしがあるのだと、主は語られました。乙女が生んだ赤子が〝しるし〟だと言われるのです。

もっと大きなしるしなら心強いのに。赤ん坊がしるしだなんて……、見落としてしたり、軽んじてしまいそうなしるしです。でも、小さなことに神はしるしを表して、「わたしはあなたと共に居るんだよ」と語ってくださっています。

敵の数ばかりを見ないで、小さなしるしに目を留める信仰をもとうではありませんか。「神が共におられる」と確信を与えてくれる小さく隠れた出来事に感謝しようではありませんか。

だからこそ気をつけて、静かにし、恐れてはならないのです。神は小さなしるしをもって、「わたしは共に居るよ」と見せてくださっているのですが、注意散漫で、心が騒いでいて、恐れていては、それに気づくことができません。

イエス・キリストが誕生なさったときもそうでした。だれもこの幼な子の誕生に気付きませんでした。気付いたのは東方の博士たちと、野宿をしていた羊飼いたちだけでした。

周囲の波風に翻弄(ほんろう)されそうなとき、気をつけて、静かにして、恐れないようにしよう。きっと身近なところに、インマヌエルのしるしはあるのです。

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イザヤ書 6章

2022年07月23日 | イザヤ書

イザヤ書 6章
私はまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれを遣わそうか。だれが我々のために行くだろうか」。そのとき私は言った、「ここに私がおります。私をおつかわしください」。
(6・8)


第6章の記事は「ウジヤ王の死んだ年」となっていることから、紀元前約740年頃のことです。南ユダ王国は列強のはざまで、舵(かじ)取りの難しい時代を迎えていました。

そんな時、イザヤは神による神秘体験を得ました。ウジヤ王の死んだ年、私は主が高く上げられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見たのです(6・1)

彼に顕(あらわ)れたのは〝主〟という名によって遣わされた御使(天使)です。人は神を直接見ることはできません。そして、神が人に対して、ご自身を顕現なさるのは、御使を通してです。

ただ一度、神が見える姿でご自分をあらわされたのは、御子イエスによってのみです。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ、父のふところに居るひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」と語られているとおりです(ヨハネ1・18)

旧約の時代は、御使が〝主〟という名で神をあらわしましたが、新約の時代は、神の御子が〝イエス〟という名で神をあらわされました。

御子が受け継がれた名は父の名であったので、イエスの名に最高の権威が与えられました。ですから、イエスの名に罪をゆるす権威、すなわち救いの権威が与えら得ました(使徒4・12)。それゆえ、「御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」とはそういう意味です(ヘブル1・4)

さて、イザヤ書に戻りましょう。イザヤにあらわれた主は、神のメッセージを伝える人物をさがしておられます。だれを遣わそうかと言われます。この時、イザヤは「ここに私がおります。私をおつかわしください」と申し上げました。

神は、ご自分の重要な働きをなさるとき、必ず人々に伝えてからなさるお方です。いよいよ「終わりの日」「その日」が実現しようとしているのです。突如として、その日が来ることがないように、神はそれを伝えようとなさいます。

大洪水の時もそうでした。神は、ノアとその家族を用いて、洪水による神のさばきがあることを知らせました。そのように、イスラエルに臨まんとするさばきの場合も、神は、それを伝える人物を求められ、イザヤはその召しに従ったのです。

今の時代も同じです。キリストが再び来られるとき、「終わりの日」が完成します。ですから、その日の到来とイエスの救いを伝える者を神は求めておられます。

さて、イザヤが主の召しに応答した直後に告げられた預言が、私たちの理解を苦しめます。

あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなた方はくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなた方はくりかえし見るがよい、あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである。(イザヤ6・9~10)

人々の心は頑(かたく)なだと言われたのです。語っても受け入れる者はほとんど居ないと。御子イエスが来られた時もそうでした。神の御言を聞いて見ているのに、人々はイエスを信じなかったのです。

私たちがイエスの証人として遣わされるのも同じです。神のみことばを伝えるのは一筋縄では行かないんだよ……という、主の警告と励ましです。それでも、時が良くても悪くても語るのがイザヤの使命でした。そして、新約時代の私たちの使命です。

「こんな私には無理です」と断りますか。それとも、勇気を出してここに私がおります。私をおつかわしくださいと主の召しに応えますか。

イザヤを召された神は、いま私たちを召しておられます。

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イザヤ書 5章

2022年07月22日 | イザヤ書

イザヤ書 5章
わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。
(5・4)


イザヤによる預言は、再びイスラエル民族への叱責です。

神は、イスラエル民族を特別に選び、神の民とし、神の御国を建てあげるために用いようとなさいました。そのために、彼らを奴隷の地であるエジプトから連れ出し、荒野で律法を与え、約束の地であるカナンに導き入れました。ぶどうの木を植えるようにして、神はイスラエル民族をカナンの地におかれました。それは、良い実を収穫するためです。神への謙遜と従順という聖なる実を収穫しようとなさったのです。

しかし、イスラエル民族の結んだ実は野ぶどうの実(新改訳では「酸っぱいぶどうの実」)であったと、主は言われました(5・2、4)

神は農夫のような方です。御子イエスも「わたしの父は農夫だ」と言われました。神は、豊かな収穫を得ようと人々を養い育ててくださる方です。

旧約の時代に、イスラエルが結んだ実は酸っぱい実でした。神を喜ばせる芳醇な甘い実ではありませんでした。しかし、神は、なおも豊かな実を結ばせるために、御子イエスをお遣わしになりました。それが新約の時代です。イエスは「わたしはぶどうの木だ。あなた方はその枝だ」と言われ(ヨハネ15章)、罪の実を結ぶ悪しき木から切り取って、イエス・キリストというぶどうの木につながるようになさいました。

このキリストからは、いのちの御霊の流れが供給されるので、豊かな実を結びます。「いのちの御霊の法則」の中で結実するのです。

しかし、イザヤが預言した当時は、まだ「その時」は来ていません。キリストの来臨を待たなければなりませんでした。

当時のイスラエル民族の退廃ぶりは手の施しようがありません。「わざわいなるかな、彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、車の綱をもってするように罪を引きよせる」のです。罪に車輪がついていて、いとも容易く罪を引き寄せる始末です。

神は、このぶどうの木(イスラエル)をカナンの地から切り取ってしまわれます。それは、遠くからひとつの国民を起こして、イスラエルをこの地から引き抜いてしまうのです(5・26~30)。はたして、イスラエルの未来はいかに……。

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イザヤ書 4章

2022年07月21日 | イザヤ書
イザヤ書 4章
シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
(4・3 新改訳)
 ※口語訳聖書では3~4節をまとめている。


さて、先の第3章では、御国の完成のために、人間的に頼りにしているものや飾りは取り除かれることを見ました。それは、神からの厳しい取り扱いを受ける事態になるでしょう。

しかし、真に頼るべきお方は主です。神がお遣わしになるキリスト(メシア)です。

それをイザヤは主の枝」「主の若枝と表現しています。そして、このお方に信頼するものを「残りの者」と呼んでいます。

この残りの者という思想はイザヤ書でくり返し語られるテーマです。多くの人が神から離れ、滅びて行くが、それで終わってしまうのではない。主を信頼する「残りの者」がいる。その者たちによって、神の御業はなされるのだ……という預言です。冒頭の聖句でも、その「残りの者」が聖なる者で、エルサレムを構成する民であることを言っています。メシア王国の聖なる市民のことです。

新約の時代は、イエスを信じるクリスチャンもこの残りの者に相当します。今はイエスを拒絶しているユダヤ人の中にも、この「残りの者」の系譜は細々とではありますがつながっています。

神は聖なる方です。ですから、私たち人間を聖なる者にしようと取り扱われます。そのために、先の第3章でみたように、不要なものを取り除いて、純粋なものを残そうとなさいます。

その取り扱いを、主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるときと表現されています(4・4 新改訳)

さばきの霊」と「焼きつくす霊とあるように、それは聖霊の取り扱い、あるいは天使によってもたらされる試練のことです。それによって、神は、私たちを聖なる者になさいます。不純物は取り除かれ、純粋な信仰が残るようにされます。

そのようにして「残りの者」が起こされます。小さい群れですが、神は、この残りの者たちを用いて、ご自身の御国を完成しようとなさっています。

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イザヤ書 3章

2022年07月20日 | イザヤ書

イザヤ書 3章
見よ、主、万軍の主はエルサレムとユダから支えとなり、頼みとなるものを取り去られる。
(3・1)


先の第2章では「メシヤ王国」の預言が記されていました。この王国は新約聖書では「御国」とか「神の国」と呼ばれています。

さて、この王国が実現する日のことを、イザヤ書では「その日」とか「終わりの日」と呼ばれており、その日がいつなのかは明示されていません。しかし、その日には様々なしるしがあります。たとえば、第3章では、「取り去られる」という出来事があると預言されています。2つの〝取り去られる〟です。

第一の取り去られる
は、人間的な支えとなっているものが取り去られます。「すべて支えとなるパン、すべて支えとなる水:……を取り去られる。すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、50人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。」(3・1~3)


人は、目に見えない神を信頼するよりも、目に見える「食糧」「富」「人間」を信頼しがちです。しいては魔術や占いを信頼する始末です。それは愚かなことです。ですから「あなた方は鼻から息の出る人間に頼ることをやめよ」と主は言われます(2・22)

被造者と創造者とどちらに力がありますか。被造者を拝みますか、それとも創造主を礼拝しますか。自明の理です。もし、私たちから、神以上に頼りにしているものが取り去られたなら、それは、神の御国の仕上げのためです。私の中に、創造主への真実な礼拝を完成するためです。

第二の取り去られるは、人間的に飾っているものが取り除かれます。「その日、主は彼らの美しい装身具と服装すなわち、くるぶし輪、髪ひも、月形の飾り、耳輪、腕輪、顔おおい、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、指輪、鼻輪、礼服、外套、肩掛、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、帽子、被衣などを取り除かれる。」(3・18~23)

アダムとイブが罪をおかして以来、人は自分を隠し、自分を飾るためにイチジクの葉でおおうようになりました。右記に記されている飾りは、みな「イチジクの葉」の延長線上にあります。

それらは神の御国では不要なものばかりです。御国は〝イエス・キリストを着た〟者たちの世界です。王子の婚宴の席に礼服を着ていない者がつまみ出されたように、イエス・キリスト以外の服を着た者は外に出されるでしょう。

御国では人間的な虚飾は通用しません。そのような飾りを捨てて、イエス・キリストを着るべきです。

終わりの日に取り除くと言われた「飾り」は、目に見える装飾品というより、むしろ学歴や地位や世的な誇りです。また、言い訳や嘘も目に見えない飾りとして、自分をおおっているものです。

そのような諸々の「飾り」や「おおい」を神は取り除こうとなさいます。それは、真実な行いによって飾られるべき御国を完成するための、神の取り扱いです。

今日も再び祈るのです。「御国が来ますように」。

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イザヤ書 2章

2022年07月19日 | イザヤ書

イザヤ書 2章
彼(主)は諸々の国の間
(あいだ)にさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(2・4)


時は戦乱の時代です。アッシリア帝国は勢力を拡大し、北イスラエルを侵略し、その勢いはとどまることを知らず、ついに南ユダにまで及ぼうとしています。

そんな戦乱の時代に、神の御言は光のように輝いています。神は、平和な世界を完成なさるのだと宣言なさっています。

かつて、アメリカのオバマ大統領は核兵器廃絶を提唱しましたが、それ以前から、神は、「剣を打ちかえて鋤(すき)とし、その槍を打ちかえて鎌(かま)とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」という世界を宣言なさっています。

この聖句はニューヨークの国連本部にも掲げられていますが、いったい、いつ実現するのでしょうか。それとも神は、この宣言を撤回なさったのでしょうか。そんなことはありません。主はこう言われています。

「わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない」と(詩篇89・34)

武器のない、武器を必要としない世界を、神は必ず実現されます。そんな王国が誕生するのだという預言は、旧約聖書のなかに一貫して流れる約束であり、それを実現するために神はキリスト(メシヤ)をお遣わしになるのです。 ※これは旧約預言の中心テーマ。この王国は「メシヤ王国」と呼ばれている。

ですから、神の御子イエスが来られたとき、「天の御国は近づいた」との宣言は、この旧約のメシヤ王国の実現が近づいたという意味なのです。

そこで、はたしてイエスはメシヤ(キリスト)なのか否かが論争になったわけです。イエスがキリストであるなら、彼はメシヤ王国の王となって新しい世界秩序をもたらす方であるはずです。

ですから、イエスをキリストと信じた人々は、その御国がすぐにでも実現するであろうと期待し熱狂しました。ところが、反対派の人々からイエスは十字架で殺され、神のご計画は頓挫したかに見えました。

しかし、イエスは復活してご自身の姿を弟子たちに現されました。ならば今度こそその御国が実現するのだろうかという弟子たちの質問に対してイエスは答えられました。その質疑応答は次の通りです。

「弟子たちが一緒に集まった時、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなた方の知る限りではない。ただ、聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』」(使徒1・6~8)

メシヤ王国の約束は中止になったのではない。ただ時期と場合は父なる神の御心の中に隠されている。今は、聖霊を受けて、御国の王であるイエス・キリストの福音を世界中に届けよと命じられています。そして、この御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである(マタイ24・14)とは、メシア王国の実現を意味しています。

その時、イエスは再び来られます。2千年前に来られたときは十字架で死なれるために来られましたが、再臨のイエスは、御国の王として、御国を完成するために来られるはずです。

とはいえ、それに先だって、メシヤ王国は私たち個人の中で実現します。剣のような私の言葉を打ち替えて鋤(すき)に変え、槍のような私の考えを鎌(かま)に打ち変えるのです。つまり、人を傷つける言葉を打ち替えて、人の心を耕すための鋤とするのです。人と戦おうとする考え方を打ち替えて、豊かな交わりという収穫を刈り取るための鎌のような考えに変えるのです。

そんな取り組みから「神の御国」は始まります。今日も祈りましょう。「御国が来ますように」。

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イザヤ書 1章

2022年07月18日 | イザヤ書
イザヤ書 1章
主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなた方の罪は緋(ひ)のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
(1・18)


預言者イザヤは、ユダの王ウジヤの時代から活動を始めたといわれていますから、紀元前700年代の預言者です。

イスラエル王国はダビデ王によって統一王国として始まったものの、息子ソロモン王が死去すると南北に分裂してしまいました。北はサマリヤを首都として北イスラエル王国。南はエルサレムを首都とする南ユダ王国。以後、南北は長きにわたってゆるやかな敵対関係が続きました。

そのような中で南ユダ王国は、北東には新興国アッシリヤ、南にはエジプトという大国のはざまに生きる小国として翻弄(ほんろう)される歴史をたどります。このような時代背景の中で、イザヤは南ユダ王国の人々に対して預言を語りました。 預言とは「神のことばを預かって語る」という意味であって、未来に起こり得ることに対する〝予言〟の部分も含まれるが、それがすべてではない。

さて、神が預言者イザヤを通して語られたメッセージとは何でしょうか。

神は、特別に選び訓練したイスラエル民族に対して、悲しみを表しておられます。家畜でさえも自分の主人のことを忘れないのに、あなた方は主である神を忘れている……と。

わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない。(1・2~3)

神は、ご自身の働きのためにイスラエルの民を選び、エジプトから導き出されました。それは、神へのまことの礼拝者とするためでした。そして、この民から始めて世界中に、神への従順と謙遜を広げるためでした。神は、ご自身の御心を実現するために、イスラエルの民を用いようと選ばれたわけです。

イスラエルの民は神を礼拝しなかったのではありません。しかし、彼らの礼拝は形式的で、神に心を向ける真実な礼拝ではありませんでした。ですから、こう言われました。

あなた方がささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭(はんさい)と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。あなた方は、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。(1・11~12)

犠牲が捧げられているので、形としては礼拝がなされていましたが、いったいその礼拝は主である神に向かってなされた礼拝なのでしょうか。「わたしの庭を踏み荒らす」という表現にあるように、偶像への捧げ物であれば由々(ゆゆ)しきことです。

ですから、神は、そのような礼拝や集会に耐えられない(1・13)、わたしには重荷であり、それを負うのに疲れたとまで言われたのです(1・14)

新約時代の教会はどうであろうか。形式だけの礼拝になっていないだろうか。御利益だけを求める礼拝になっていないだろうか。吟味すべきです。

そんなイスラエルの民に、神は語りかけておられます。さあ、われわれは論じ合おうと。忍耐深く民と語り合い、罪から救い出そうとなさる神の慈愛の深さがあらわれています。神が「論じ合おう」と言われるのは、力尽くで悪を滅ぼそうとか、間違いを正そうとかなさるのではなく、民の中に神の御言を植えつけ、御言によって造り変えようとなさるからです。

神は、罪をはげしく憎まれますが、その罪によって民が滅びることを願われません。そこで、神は、民が悔い改めるようにと、慈愛と忍耐をもって御言を語られるのです。何と語られていますか。

たといあなた方の罪は緋(ひ)のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだと言われます。

人間には己の罪をきよめる力がありません。だから、神がなさるのだと言われます。

どのようにしてですか。それは、わたしはわが敵にむかって憤りをもらし、わがあだにむかって恨みをはらす。わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁(あく)で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除くのです。(1・24~25)

灰汁とは灰の水溶液の上澄みの汁のことです。アルカリ性なので、洗剤の役割をしました。旧約では罪のいけにえの動物を焼きつくし、その灰から灰汁を作って罪の汚れを落としました。でも、それはあくまで動物です。真の犠牲であるイエス・キリストの血によって完成するきよめを預言しています。

さあ、このように預言される神と論じ合ってみませんか。神の御言の中で救いを得てみませんか。

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テサロニケ人への手紙Ⅱ 3章

2022年07月16日 | テサロニケ書
第二テサロニケ書 3章
最後に、兄弟たちよ。私たちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなた方の所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。
(3・1)


この手紙が記された当時も、そして今も、聖書的にいうなら終わりの時代です。主イエスの初臨から再臨にいたる期間は「終わりの時代」です。

主イエスの再臨に備えて福音を伝えます。これが、福音を知った者に与えられた使命であり責任です。パウロは、そのために祈ってくれと要請しました。

生活上の必要もあったことでしょうが、パウロが要請したのは主の言葉が……ここでも早く広まり、あがめられるようにという課題でした。福音のために生きるパウロの潔(いさぎよ)さに教えられます。

福音を聞いて信じるか否かは、聞いた人にゆだねられています。

信じてくれなかったとしても、それ自体は残念なことですが、伝えた人の信仰が足りなかったからではありません。私たちがなすべきことは、福音を伝えることです。

福音を伝える時に大切なことは、私たち自身が、神からの生きた手紙だということです。神は、私たちの心に御言を書き記してくださって、私たちを手紙のように人々に届けられます。

ある人は、それを読まずに破いてしまうかも知れません。それでも、神は手紙を書き続けられます。主よ、私をそのような手紙として用いてください。

さて、主イエスの再臨が近いことを知って、生活が落ち着かなくなる人がいます。テサロニケの教会にもいたようです。手紙にはこう記されています。

ところが、あなた方の中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています(3・11 新改訳)。「締まりのない」とは、口語訳では「怠惰な」と訳されています。原意は「無秩序な」とか「無計画な」です。

再臨を待ち望むという点では熱心なようでも、生活面では「締まりのない」「怠惰で」「無計画な」信仰生活になってはいけません。それは、再臨に対して間違った対応です。

第一は、主イエスが来られたら何もかも終わるんだから、仕事なんかしていられないと考えます。 そこで、仕事もやめてしまい、蓄財を消費しながら再臨を待ち望みました。しかし、やがて蓄えも底をつき、教会の人々からのほどこしを受けて生活する羽目になったようです。

第二は、再臨はすぐ来るのだから、福音を伝えることを最優先すべきであって、生活費をかせぐ仕事は二の次だ。 仕事は俗的なことだと、仕事を軽視します。

前者の場合は、再臨を言い訳にして、仕事をしない怠け心を正当化しているように思います。また、後者の場合は、福音にかかわる働きはきよくて立派だが、パンを得るための仕事は俗的だとしてさげすむ心があります。いずれもゆがんだ考えです。

この世の仕事は大切です。自らの手で仕事をしてパンを得るようにしなさいと聖書は勧めています。パウロもそうしました。いつ主が来られても良いように、落ち着いた生活をしなさいと。

神が天地を創造なさったとき、神は人に地を治めよと命じられました。地を治めるとはしっかりと仕事をしなさいという意味です。この地を正しく管理することも、私たちの大切な使命です。

私たちの生活のすべてが、神からの手紙です。その手紙の内容を、自分で勝手に書きかえてはいけません。神の書かれた内容が、私の生活の中であらわされますようにと、主にあって祈ります。

テサロニケ人へ第一の手紙でも、パウロが福音を伝えたとき、「言葉」と「聖霊」と「ふるまい」によったことを見ました(Ⅰテサ1・5)。主イエスの再臨を待ち望みつつ、その生き様を通して、主の御言を広げよう。そのために祈ろう。

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テサロニケ人への手紙Ⅱ 2章

2022年07月15日 | テサロニケ書

第二テサロニケ書 2章
その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。
(2・8)


イエス・キリストの再臨の前兆について、イエスご自身が次のように語られました(マタイ24・4~13)

①自分がキリストだという者が人々をまどわす。
②戦争が激しくなる。
③民族や国同士の争いが激しくなる。
④飢饉・地震などの天変地異が多くなる。
⑤不道徳がはびこり、人々の愛が冷える。

昔からこのような状況はありましたが、近年ますます予告された時代になっています。テサロニケ教会への手紙では、その前兆について、さらに次のように記しています。

(1)再臨があったというデマが流れる。(2・2~3)

「私は再来のキリストだ」とか、「某年某月に世界は滅びる」などと言って混乱させている宗教団体がいくつもあります。キリスト教を名のっていますが、慌(あわ)てたり騙(だま)されたりしてはなりません。

再臨の日時は天の父がご自身の権威をもって定めておられます(使徒1・7)。また、イエスご自身も「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と語られています(マタイ24・36)

(2)背教する者たちが続出する。(2・3)

信仰を捨ててしまう人が増えてきます。終わりの時代は、適当に、何となく信じて行けるような状況ではなくなります。信じるのか、信じないのかはっきりする時代が来ます。
ですから、あいまいな信じ方をしていると、道ばたにまかれた種を鳥がついばんで行くように、その信仰をサタンが奪って行きます。

(3)「不法の者」が現れる。(2・8)

これはある特定の人物のことです。主の再臨の直前に登場する人物です。ヨハネ黙示録およびヨハネ書簡では、この人物のことを「反キリスト」とか「獣」と呼んでいます。

神は人となってご自身を世に現わされ、神の愛を啓示なさいました。それと同じように、終わりの時代に、サタンは、この不法の者と呼ばれる人物によって、自分の邪悪な姿と働きを現すようになります。とはいえ、彼はとても有能な人物で、世の人々は彼を世界的なリーダとして称賛し歓迎するでしょう。

やがて、彼は自分を神だと宣言し、神の宮に座すると聖書は予告しています(2・4)。まるでローマ帝国を支配した皇帝(カイザル)のようです。カイザルも自分を神だと宣言し、民に礼拝を強要しました。

不法の者は、そんなカイザルをはるかに超えた人物です。霊的に目覚めたクリスチャン以外は、彼が不法の人だと見抜けないほど、カリスマ的で政治手腕にすぐれた人物です。

彼は自分を神とすることによって、真の神に敵対するようになります。そして、ユダヤ人やクリスチャンに対して激しい迫害を始めます。こうして、悪魔的な力が完全に現れる時代が来ます。

このように、終わりの時は、罪と悪に満ちた時代がやって来ます。この時代に、神の最終的なさばきと激しい御怒りが臨みます。これが「大患難」と呼ばれる時代です。前述の「携挙(けいきょ)」が、この大患難の直前に起こると私は信じますが、携挙されなかった人々は、この大患難を通過することになるわけです。

しかし、再臨のキリストは、不法の者とその背後で支配してきたサタン、それに従った者たちを滅ぼしに来られます。主は、この不法の者を、口の息をもって殺し、来臨の輝きで滅ぼしてしまわれます。(2・8)

武力や腕力で滅ぼすのではなく、口の息と輝きで滅ぼすのです。とはのことです御言とも解釈できます。イエスの御言は信じる者には救いの霊であり、信じない者には滅ぼす霊です。

輝きは主イエスの栄光の輝きです。闇の世の主権者に対しては、神の栄光が最大の武器です。光が来れば闇は滅びます。

主イエスが来られるまで、クリスチャンは「光の子」として世に派遣されています。私たちが罪に勝利して、神の栄光で輝く生活は、サタンに対して最も効果的な戦い方です。「悪に負けてはならない。かえって善をもって悪に勝ちなさい」という命令は、そのことを意味しています(ローマ12・21)。私たちが聖なる生き様を世に現すことで、主の再臨までの間、サタンとの前哨戦(ぜんしょうせん)を戦っているのです。ですから、目をさまして祈ってください。主は近いのです。

主の再臨の直前には、反キリストが神殿に立つとかエルサレムを包囲してユダヤ人を迫害するなどの前兆を、聖書は預言していますが、これらは皆、ユダヤ人たちがエルサレムに帰還していることが前提になります。

ところが、今や、ユダヤ人たちは約束の地にもどり、国を復興させています。やがて、彼らは神殿建築に取りかかるでしょう。聖書の預言が成就する舞台は整いつつあります。

しかし、まだ「不法の人」の登場を引き留めているものがあります。彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがあると記されている通りです(Ⅱテサ2・6)。2千年後の今も引き留めています。

キリストの花嫁である教会の存在が、不法の人の登場を阻止していると考えられます。やがて教会が携挙されます。地上から取り去られて天に引き上げられます。こうして、引き留めていたものが地上からなくなると、不法の人すなわち反キリストが登場すると私は予測しています。

また、二義的な解釈ですが、不法の人を引き留めているものは民主主義という政治形態ではないかと考えられます。

これから益々混乱した時代になるでしょう。混乱した時代になればなるほど、多数決では対応できない時代になると、人々は誰かに権力を委任し決定力のある政治を期待するようになるでしょう。こうして、民主主義という政治形態に失望する時代が来ます。

不法の人とは、先ほど述べたようにカリスマ的な人物です。混乱した世界を統治するにふさわしいと思えるようなリーダーシップに富んだ人物です。

テロとか戦争、新型コロナなどの世界的疫病、巨大地震や地球規模の気候変動、グリーバル化した経済システムなどといった世界情勢は、民主主義では対処できない問題を提起しています。こうして、不法の人が登場する舞台装置は整いつつあります。

祈りましょう。終わりの時代、いかなる状況の中でも、最後まで信仰を全うできますように。希望の光を照らすことができるように用いてください。

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テサロニケ人への手紙Ⅱ 1章

2022年07月14日 | テサロニケ書
第二テサロニケ書 1章
これは、あなた方を、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなた方も苦しんでいるのである。
(1・5)


初代教会は迫害による苦難の中を通りました。その苦難は、キリスト教がローマ帝国の国教となった時点で終わったのではなく、形をかえて今日にいたるまで続いています。 ※迫害については「朝マナ」第1テサロニケ3章を参照。

そのような試練とか患難のことを、あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきと表現しています(1・5)

聖書に記された「さばき」には、二通りがあります。

第一は、サタンに対するさばきです。 罪を処罰して滅ぼしてしまうためのさばきです。罪を悔い改めず、神に反逆する人々にも、このさばきは臨みます。

第二は、信者に対するさばきです。 この場合は、滅ぼすためのさばきではなく、きよめるためのさばきです。冒頭の聖句で述べられている神のさばきは、きよめるという意味が込められています。

神は聖なるお方ですから罪や悪をお受けになりません。食事の時、手を洗い、食材も食器を洗ってきれいにしていただくように、神は私たちを天に迎えるために、私たちをきよめられます。

実は、すでに神は、私たちの罪をきよめるために、御子イエスを十字架につけて血を流されました。罪の代価である血が流されたのです。私たちは、このイエス様の血を受けることによって、すでにきよい者とされました。イエスの血によって義とされたという表現も同じことです。

ですからイエスを信じた私たちを聖なる者だと、神は見なしてくださいます。キリストの御言を受けてすでにきよいのです(ヨハネ15・3)

でも、クリスチャンのどこが聖なる者か……と疑問を持つ人もいるでしょう。未信者から責められたり、自分が自分を見てもそう思うこともあります。

そう感じるのは、私のはきよめられましたが私の「考え」とか「心」の領域は、昔のままを引きずっているからです。考える部分 ―「心」とか「魂」と呼ばれる領域― は、いまだに神に反する思いが出てくるし、憎しみや怒りも日常茶飯事です。

人には、」と「」と「の領域があります。先のテサロニケ人への第一の手紙5章23節の祝福の祈りでは、「あなたがたの霊と心と体とを完全に守って」とありました。 ※「心」は「魂」とも訳される(新改訳)。

イエスを信じた時点で、神は私たちのをきよめられました。は人の本質ですから、霊がきよめられたなら、その人は基本的にはきよいのです。だから義なる者」「聖なる者と呼ばれます。

きよめには順番があって、次に「心(魂)」と呼ばれる領域のきよめです。思考という領域のきよめです。この魂とか心には、イエスを信じる以前に養った考え方が刷り込まれています。

ですから、救われたはずのクリスチャンでも、邪悪な思いが湧いてきます。そんな心の醜さを感じて、救いを疑う人もいます。それでも、神は、あなたを聖なる者だと見てくださっています。

そこで、神は、私たちの魂(心)をきよめるために、試練や苦難を用いられます。このことを今日の聖句は、あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきと表現しているわけです。

イエスを信じたら、困難や問題がなくなって、平穏無事な人生を過ごすことになる等と、聖書は約束していません。そうではなく、神はあなたを子として愛しておられるので、様々な試練を通してあなたを〝神の国にふさわしい者にしよう〟と訓練なさいます。主の祈りでも「御国が来ますように」と祈りますが、それは同時に、御国の国民である私たちもその国にふさわしいものになることを祈っているわけです。

試練の最中にある時はつらいです。いやです。楽しくありません。逃げ出したいです。でも、これは、私が神の国にふさわしい者になるための道です。十字架を負って従うとは、こういうことです。

でも、試練の最中にあっても、神の愛が途絶えたわけではありません。十字架の死の経験は、必ず栄光の復活につながっていることを忘れないでください。

日々負う十字架によって、邪悪な心が死んで、キリストにある新しいきよい心が復活します。こうして、心(魂)の領域がきよめられて行きます。そのために試練を通過します。

このつらい経験も必ず報われる時が来ます。そのことについて、聖書はこう記しています。

苦しめられているあなた方には、私たちと共に、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。(1・7)

主イエスの再臨の時、私たちに用意されているのは完全な安息です。ですから、今の試練や苦難でめげないでください。不当な仕打ちがあってもくさらないでください。

いのちの無いものはくさります。キリストのいのちを持っている人は、どんな苦難の中でも、くさらない人です。私たちは、神の子としての永遠のいのちを持っている者です。

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