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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

サムエル記下 11章

2025年02月28日 | サムエル記
サムエル記下11・27 しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。

一般的な歴史書は、その王朝にとって都合の悪いことは抹消したり改ざんして、王の正当性を擁護し称賛する記録に終始するものです。

日本の歴史教科書問題もその点が議論されています。しかし、聖書はダビデ王の過ちを克明に記録しています。

何もここまで詳しく記録しなくても……と思うほどです。

なぜなら、この記録は、ダビデ王朝の正当性のためではなく、主なる神のご支配の正当性を主張するための記録だからです。天の公式文書だからこそ、正直にありのままが記されています。

さて、先のアンモンとの戦争は続いていましたが、ダビデ王は王宮にとどまっていました。そんな中、出兵しているウリヤの妻バテシバを見初(みそ)めたダビデは姦淫の罪をおかしました。

彼女の妊娠を知るや、ダビデは事態をもみ消そうと躍起になるのですが、それもうまく行かず、とうとうウリヤを戦争の激戦地に追いやって戦死させ、喪が明けるやバテシバを妻として迎えたのです。

だれにも知られることなく、ダビデは自分の罪の隠蔽(いんぺい)に成功しました。状況を知っていた側近もいたでしょうが、王に忖度(そんたく)して、黙認するしかありませんでした。

人の目には隠すことはできても、神の目をごまかすことはできません。ダビデのしたこの事は、を怒らせたと、聖書は記しています。 ※新改訳では「ダビデの行なったことは主の御心をそこなった」。

人は罪を隠そうとします。しかし、隠すことによって罪の苦しみは増します。人は罪をおかすと、ありのままの姿で神の前に出られなくなって、自分で自分を隠そうとします。

アダムとイブが罪をおかしたときも同じでした。まず、イチジクの葉でおおいを作って、裸である自分を隠しました。それから、主が来られる足音を聞き、彼らはものかげに隠れました。

そして、なぜ善悪を知る木の実を食べたのかとの問いに、アダムは「イブのせいです」と言い、イブは「ヘビのせいです」と、それぞれ言い訳によって自分の罪を隠しました。

悪魔は、罪を隠すように誘導します隠すことによって人の心に闇の世界を作るためです。悪魔は、その闇を砦(とりで)として支配するのです。このように、罪を隠そうとすることは悪魔の罠です。

罪を隠そうとすると、ますます悪魔の支配が強まるだけです。闇が広がるだけです。 ※悪魔や悪霊は心の暗闇を足掛かりにして、わたしたちを支配する。

ダビデは、まさに闇が広がる経験をしました。人の目からは隠し通すことができましたが、その分、闇の世界は広がりました。その分、悪魔の支配の深みへと落ちて行きました。

神は、ダビデのしたことを「怒られた」のです。それは、神の御心に反することです。自分のしたことを怒ってくださる方がおられるとは、何と幸いなことでしょう。

罪を怒られる神は、また、隠されていることを明るみになさるお方でもあります。どんなに隠そうとしても、神の目から隠すことはできません。神の目にはすべてが明かです。

神の目を意識するなら、光の中を歩くことができます。神は、私たちを光の世界へと招いておられます。その招きに応えて、罪を告白する勇気を得よう。隠せば大丈夫だという悪魔の罠にはまってはならない。

サムエル記下 10章

2025年02月27日 | サムエル記
サムエル記下10・2 そのときダビデは言った、私はナハシの子ハヌンに、その父が私に恵みを施したように、恵みを施そうそしてダビデは彼を、その父のゆえに慰めようと、しもべをつかわした。

アンモン人の王ナハシ(ナハシュ)が死にました。ダビデ王はかつて世話になったナハシの訃報(ふほう)に接し、使節をつかわして哀悼の意を表しました。

ダビデ王は、先のヨナタンの息子メピボセテに恵みを施したように、隣国アンモンの王ナハシの息子ハヌンにも恵みを施そうとしたのです。

国を安泰させる手段は戦争以外にないと思われた時代に、ダビデの政策は、恵みの手を差し伸べることによって平和をもたらそうとするとするものでした。

しかし、ナハシの息子ハヌンは、ダビデの厚意を疑い、ダビデの使者に侮辱を加えて帰らせました。

ハヌンはダビデのしもべたちを捕え、おのおの、ひげの半ばをそり落し、その着物を中ほどから断ち切り腰の所までにして、彼らを帰らせた。(10・4)

これによって両国の関係は悪化。アンモン軍の蜂起に対してイスラエルが応戦して勝利した。以上が第10章のあらすじです。

イエス様が語られた例え話を思い出します。

ある人がブドウ園を造り、農夫たちに管理させました。収穫の季節になって分け前を得ようと使いの者を差し向けると、袋叩きにしたり、殺したりして主人のつかわした使いの者を愚弄(ぐろう)した話しです。

また、王子の婚宴の準備ができたので、あらかじめ招待してあった人々に使いをやったら、彼らは断ってしまったという話しもなさいました。

ブドウ園の主人も、王も、自分自身が直接出向かないで、使いの者を派遣するところが同じです。そして、使いの者であるが故に、人々はこれを軽んじました。

神は直接に出向かれるお方ではありません。旧約聖書の時代は、天使を遣わして語られ、預言者を派遣して伝えました。新約の時代になって、御子を遣わされました。でも、その御子も大工の息子の身分で来られたので、人々は軽んじました。

さらに、御子イエスはご自分が選んだ弟子たちを派遣されました。しかし、弟子の多くは漁師や取税人や遊女などの取るに足りない人々でした。だから人々は彼らを軽んじました。

ブドウ園の主人が直接行けばいいのに……、王みずから出向けばいいのに……と思いますが、神のなさり方は使者を遣わすのです。それは謙遜を学ばせるためです。

神は、神への謙遜を学ばせるために、あえて欠点のある牧師を教会にお立てになります。人々がへりくだりを学ぶために、神はあえて無きに等しいクリスチャンを証人として用いられます。

こうして、終わりの時にこの小さい者にしたことは、わたしにしたのだと、主からのねぎらいの言葉を受けることになるでしょう。

アンモンのハヌンは、使いの者だというので軽んじました。ダビデが差し向けた恵みの手を拒絶しました。ハヌンのようになってはらない。しもべを侮辱したブドウ園の農夫のようになってはならない。婚礼の知らせを断った民のようであってはならない。神の招きに謙遜になって応じる者は幸いです。
 

サムエル記下 9章

2025年02月26日 | サムエル記
サムエル記下9・7 ダビデは彼に言った、「恐れることはない。私は必ずあなたの父ヨナタンのためにあなたに恵みを施しましょう。あなたの祖父サウルの地をみなあなたに返します。あなたは常に私の食卓で食事をしなさい」。

王朝が代わると、以前の王朝に関わる人物は粛正(しゅくせい)れてしまうのが世の常です。以前の王家の生き残りがいると、その者を担ぎ出して政権転覆を画策する者も多かったからです。

イスラエルにおいても、サウル王朝からダビデ王朝へと代わったわけですが、そのような危険性がないわけではありませんでした。

実際に、将軍アブネルがサウル王の息子イシボセテを王に担ぎ出して、ダビデ王朝に対立した時代があったことは、すでに見てきたとおりです。

ようやく一段落(いちだんらく)したところで、ダビデ王は、サウル王家の生き残りを探すように命令を出しました。「時にダビデは言った、『サウルの家の人で、なお残っている者があるか。私はヨナタンのために、その人に恵みを施そう』」(9・1)

ダビデの場合、前王朝の生き残りをひとり残らず粛正しようというのではなく、恵みを施そうとしたのです。その理由は、サウル王の息子ヨナタンとの契約があったからです。

ご存知のように、ダビデとヨナタンは信仰を同じくする友情で結ばれていました。しかも、ふたりは「契約を結んでいた」のです。その時の様子を聖書はこう記しています。

ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。サムエル上18・3)

友人同士で契約を結ぶなど、日本では馴染みのないことです。日本は契約について、とてもアバウトな社会です。契約よりも、互いの腹芸で物事が決まって行くといった社会です。

ところが聖書の世界は契約社会です。神がアブラハムと契約を結び、イスラエルと契約を結び、そして、イエス・キリストが新しい契約を結ばれたわけです。

聖書の正式な名称も「旧約聖書」「新約聖書」です。旧い契約の書と、新しい契約の書で成り立っているのが聖書です。

話しをもどしましょう。ダビデとヨナタンのふたりは、互いがどんな状況にあっても助け合おうという契約を結んだのです。その後、ヨナタンの父サウルが、ダビデ殺害の命令を出したため、ダビデは逃亡生活に入りました。それ以来、ふたりは合うことができず、ヨナタンは先のペリシテとの戦争で父サウルと共にギルボア山で戦死しました。

しかし、ダビデはヨナタンとの契約を忘れませんでした。いかなることがあっても助け合うという約束です。ヨナタンの家族は自分の家族同様にあつかうという契約です。

こうして調査をしたところ、ヨナタンの息子メピボセテ(メフィボシェテ)が生き残っていました。彼は戦争の惨劇の中で足を怪我して歩けませんでした。

ダビデに見つかったら殺されると思い、メピボセテはひっそりと身を隠すようにして暮らしていたのです。ついにその所在が判明し、王の前に引き出されてきました。怖かったと思います。そんなメピボセテに対するダビデ王の言葉が今日の聖句です。

恐れることはない。私は必ずあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施しましょう。あなたの祖父サウルの地をみなあなたに返します。あなたは常に私の食卓で食事をしなさい。(9・7)

この対応に、メピボセテは驚きました。王の息子同様の扱いを受けることになったのです。天の神が、私たち罪人に施される恵みもこれと同じです。アメージング・グレイス(驚くばかりの恵み)です。

本来なら、神の御前に引き出された私たち罪人は、死の宣告を受ける他はありません。

ところが、神は言われるのです。イエス・キリストとの契約のゆえに、わたしはあなたに恵みを施そう。あなたは永遠にわたしの食卓で食事をしなさい。これからは、あなたはわたしの息子なのだ

メピボセテに何か取り柄があったからではありません。生かしておいて有利なことがあるからでもありません。ただ契約ゆえの恵みです。

私たち罪人も同じです。何も神の前に誇れるものがありません。助けていただく理由がありません。ただ、イエス・キリストとの契約ゆえです。イエス・キリストを信じる者は罪ゆるされ、神の子どもとなります。

神が提示なさったこの契約を受け入れてください。すでに受け入れた方は、神のくださった契約の恵みをさらに深く味わってください。
 

サムエル記下 8章

2025年02月25日 | サムエル記
サムエル記下8・15 こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。

ダビデの治世は安定して行きました。それは、外敵に対して勝利しただけでなく、全イスラエルにおいて、正義と公平を行ったからです(8・15)

この聖書箇所は、新改訳では正しいさばきを行なった新共同訳では裁きと恵みの業を行ったと訳されています。

かつて、自分のいのちをつけねらったサウル王の死でさえ、ダビデは哀悼の意をあらわしました。これは決して民の好評価をねらったパフォーマンスではありませんでした。

サウル王の息子イシボセテを擁立して敵対した将軍アブネルの死に際しても、また、イシボセテの死に際してもダビデの態度は変わりませんでした。

ダビデは、人間的な裏工作をもって取り入ろうとする人々を退け、神の正義をつらぬきました。この点が、「正義と公平を行った」とされる所以(ゆえん)です。

それでも、人間としてのダビデの限界はあります。真の王であるイエス・キリストが支配なさる王国で、この正義と公平は完成します。そのような神の国が完成する時を待ち望みつつ、クリスチャンは少しでも「正義と公平」を表すために世におかれています。

祈りましょう。神の国の正義と、神の国の公平を表すことができますように。そして、神の御国が来ますように……。
 

サムエル記下 7章

2025年02月24日 | サムエル記
サムエル記下7・12 あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。

ダビデ王に神の御言が与えられました。「あなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする」と神は約束されました。

あなたの身から出る子とは、だれのことでしょうか。〝身から出る〟のですから、ダビデ直系の子孫でなければなりません。

一見して、ダビデの子ソロモンのことのように思えます。たしかに、ダビデ王のあとを継いだソロモン王の時代に、イスラエル王国はイスラエル史上空前の繁栄をもたらしました。まさに、王国を堅くするような統治でした。

しかし、その王国は長く続かず南北に分裂します。分裂後、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南王国はバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。

このように、ソロモンの栄光ある統治は一時的であり、御言が示すような堅く立つ王国ではありませんでした。では、いったいだれのことでしょうか。

預言をさらに見て行きましょう。

彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。(7・13)

「彼」とは、ダビデの身から出る子のことです。その人物は、神の名のために家を建てます。「家」とは「神殿」のことです。ダビデの息子のソロモンは神殿を建てた王として有名です。

やっぱり、「彼」とはソロモンで決まりっ!と言いたいところですが……、答はNOです。というのは、ソロモン王は確かに神の家である神殿を建立(こんりゅう)したのですが、やがてバビロン軍によってその神殿は破壊されてしまいました。

では、いったい神は、だれのことを預言なさったのでしょうか。

さらに預言は続きます。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう7・14)。神が〝彼〟の父となり、〝彼〟は神の子となるという預言です。

もうお分かりですね。神が預言なさったのは、イエス・キリストのことです。

イエス・キリストがバプテスマを受けられたとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者だ」という天の御声がありました(マタイ3・17)イエス様は神の御子として、神を「我が父」とお呼びになり、神もイエスを「我が子」とお呼びになりました。

また、イエス・キリストは、「わたしは神殿を三日後に建てる」と言われました(ヨハネ2・19)十字架の死の三日目に復活したイエスの御体こそ、神を住まわせる真の家、神殿です。そして、イエスの御体なる教会が新約時代の神殿です。

ダビデに与えられた神の約束は、その息子ソロモンにおいて一部は実現しましたが、完全には実現しませんでした。ソロモンに現されたできごとは、後のキリストによって実現することの比喩(ひゆ)です。神の御子によって実現する本物の神殿の栄光を、ほんのわずか垣間見させてくれたのです。

こうして、この預言の約千年後に、神の御子イエス・キリストが来られ、完成なさいました。

神の時は、人間の時間感覚からすれば途方もなく長く感じられます。ですから、多くの人が途中経過だけを見て失望します。でも、神の約束は必ず実現します。そして、実現したのです。

同様に、主イエスの再臨の約束も必ず実現します。その時こそ、キリストによる王国の完成なる時です。祈りましょう。「主イエスよ、来てください」。


サムエル記下 6章

2025年02月22日 | サムエル記
サムエル記下6・12 ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。

王が手にする権力やまるで神のごときです。ですから、その権力故に、多くの王が権力におぼれて堕落して行きます。それは、たとえ王であっても跪(ひざまず)くべき真の王・神の存在を認めないからです。

しかし、ダビデ王は神を忘れませんでした。戦乱の期間、祭司アビナダブの家に安置されていた「神の箱」を、イスラエルの都エルサレムに迎えようとしました。

※ユダの王であった期間、その首都はヘブロンであったが、イスラエル統一後はエルサレムを都とした。エルサレムの一部は「ダビデの町」と呼ばれた。

イスラエルの真の王は自分ではない、神なる主こそが真の王であることを、ダビデは十分に承知していました。だからこそ、神を都エルサレムに迎えようとしたのです。真の王である主を都にお迎えしなくて、神の王国はあり得ないからです。

そこで、神の象徴である「神の箱」(契約の箱とも呼ばれる)をかき上ることにしたのです。

人々は、神の箱を「新しい車」に載せて運ぶことにしました(6・3)。ところが、道路事情が悪かったため、途中で車が傾いてしまい、そばにいたウザという人が思わず神の箱を手で押さえたのです。

すると……、

「主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ」のです6・7)

これにはダビデもショックでした。神を歓迎する心で盛り上がっていた民の心は一瞬にして冷めてしまいました。何がいけなかったのでしょうか。

律法によれば、神の箱を罪人が手でふれるとか、中を覗(のぞ)などはかたく禁じられていました。それは、神が聖なる方であることを教えるためであり、人は罪をきよめられなければ神に近づくことができないことを教えるためでした。

正式には、神の箱は専用のかつぎ棒で運ぶべきことが定められています出エジ37・3~5)。ちょうど日本の神輿(みこし)をかつぐ要領です。

イスラエルの民がヨルダン川を渡ったときも、祭司たちはこの棒を通してかついで渡りました。人々はそのことを覚えていなかったのでしょうか。

大統領が豪華な高級車に乗ってパレードするように、神の箱も〝新しい車〟にお乗せして運んだ方が、神を歓迎する心が、より良く表現できると人々は考えたのでしょうか。

神を歓迎する熱心は分かるのですが、御言に従う熱心こそ正しい熱心です。

私たちは、人間的な智恵や技術という〝新しい車〟を用意して神を喜ばせようとするあまり、神の御言に従うよりも、自分の熱心を押しつけてしまうことがあります。

神が求めておられるのは、人間ごときが考え出した目新しい方法ではなく、御言への従順です。民がそのことに目覚めるために、ウザの尊い命が犠牲になりました。

このような経緯で、神の箱を歓迎する計画は中断してしまったのですが、ダビデとその民は悔い改めました。そして再び時を得て、オベデ・エドムの町から再びかつぎ上ることにしました。今度は律法の御言のとおりです。

新約において私たちは聖霊の宮として召されたのですから、私たちは聖霊なる神を歓迎します。ダビデが踊りながら歓迎したように、心から聖霊をお迎えします。その際、自分勝手な方法や人間的な熱心という〝新しい車〟でお迎えするのではありません。神の方法があります。ダビデの場合と同じです。御言どおりに迎えるのです。

それは悔い改めて主イエスを信じることです。主イエスが十字架で流された血によって、私の罪がきよめられたことを信じることです。この信仰なくして、聖霊なる神をお迎えすることはできません。

ペテロがユダの人々に語った勧めの言葉を最後に記しておきます。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪をゆるしていただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2・38 新改訳)
 

サムエル記下 5章

2025年02月21日 | サムエル記
サムエル記下5・4 ダビデは王となったとき30歳で、40年の間、世を治めた。

イスラエルの全部族はヘブロンにいるダビデのもとに来て、ダビデを全イスラエルの王として歓迎し、王の就任式を執り行いました(5・1~3)

すでに見てきたように、ダビデがユダの王になったのが30歳の時でした。その時は首都をヘブロンに定め、7年半の間ユダを治めました。そしてついに、全イスラエルの王として就任しました。

預言者サムエルによって油を注がれ、王としての任命を受けたのは、ダビデが少年の時でした。ダビデが10~15歳の頃ではないかと思われます。その間、何と20年近くが経過しています。

神はご自分の約束(御言)を必ず実現なさいます。しかし、それがいつ実現するのかは定かではありません。それは、「神の時」です。人がこうあってほしいと期待する時とは異なるのです。

20年という歳月の中で、神の約束(御言)を疑ったり、放棄してしまいたい誘惑もあったでしょう。王になろうとしなければ、いのちを狙(ねら)われることもないし、こんな苦労もないのに……と。

神の御言に従うとは、恵みを受けることですが、見方を変えれば重荷を負うことでもあります。それは、神の御言が実現するために、自分の人生を提供することだからです。

神の御言(約束)が私の身に実現するには、苦難を負うことになります。御言という種が芽を出し、成長し、実を結ぶためには、「わがまま」「自分中心」「欲張り」といったものが妨害します。

ですから、そのような「わがまま」「自分中心」「欲張り」といった自分を日々十字架につけて葬ってしまわなければなりません。だから、イエス様は、「日々自分の十字架を背負って従え」と言われたのです。

ダビデの場合は旧約の時代ですから、まだそのような十字架の概念はありませんでしたが、ダビデなりに十字架を負って従う人生だったと思います。自我が砕かれ、神への従順と謙遜を学ぶ十字架の時代を経なければならないのです

神の御言が実現するためには、十字架を負うことになります。神は、十字架を負う者をとおして、神の御言の完成を見せてくださいます。

ダビデ王とサウル王の違いは何だったのでしょうか。神の御言を最後まで持ち続けた者と、途中で御言を捨てた者の違いです。

神の御言は霊的ないのちです。人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きるのですから、御言を持ち続ける者にはいのちがあります。ダビデは、神の御言を持ち続けた人です。

どんな困難な中にあっても、ダビデがくさらずに前向きに生きることができたのは、彼にいのちがあったからです。御言による霊的ないのちが生きていたからです。

しかし、サウル王は神の御言を捨てた人です。神の御言より自分の意見や主張を優先した人です。彼が神の御言を捨てた時から、彼の霊的な死が始まりました。いのちがないのでサウル王はくさり始めました。

彼の最期は猜疑心をおさえられず、憎しみと恐怖心、あきらめと自暴自棄で満ちていました。神の御言に込められた霊的いのちを捨てたからです。

神の御言を最後まで握りしめよう。神の御言の中にとどまろう。主イエスは言われました。「わたしの御言の中にとどまりなさい」。「わたしの御言があなた方にとどまっているなら、あなた方は本当の弟子である」と。

「イスラエルの王となる」という神の御言に最後までとどまったダビデのように、私たちも栄光の復活の約束、キリストと共に王として御国を相続すると言われた約束の御言を最後まで持ち続けよう。
 

サムエル記下 4章

2025年02月20日 | サムエル記
サムエル記下4・9 私の命を、諸々の苦難から救われた主は生きておられる。

サウル王家の生き残りイシボセテは、後ろ盾となってくれていた将軍アブネルの死によって、急速に求心力を失って行きました。

それに追い打ちをかけるように、レカブとバアナはイシボセテの寝首をかき、その首を意気揚々とダビデのもとに携えて来ました。

ある見方によれば、自分のいのちをねらったサウル王が死に、その将軍も死に、さらにサウル王の息子イシボセテも死んだのですから、ダビデ王の地位は安泰であり、彼らは吉報をもたらしたわけです。

しかし、ダビデは彼らのしたことの悪を喜びませんでした。王は彼らの悪に対して死刑をもって報いました。彼らの悪によって自分の王としての地位を固めようと思わなかったからです。ダビデの告白にはその気概が込められています。

私の命を、諸々の苦難から救われた主は生きておられるのです。今も生きておられる神が、自分のいのちを守ってくださったのであり、今の王としての立場を守ってくださっているのだと告白しました。

だから、レカブとバアナによる悪の手助けを、ダビデは断固として拒絶したのです。

諸々の苦難から救ってくださるのは神である……という気概を持とう。人を頼ったり、悪や不正によって自分を救おうとしないことこそ、神の国にふさわしい義です。

ダビデはこの時、神の国とその義を求めたのです。彼に与えられた使命は、この地に神の国をもたらすことです。その国が悪や不正によって裏打ちされて良いはずがありません。

この使命は、新約のクリスチャンにも引き継がれています。まず神の国と神の義を第一にしよう。それが神の国の相続者とされた私たちの気概です。


サムエル記下 3章

2025年02月19日 | サムエル記
サムエル記下3・39 私は油を注がれた王であるけれども、今日なお弱い。ゼルヤの子であるこれらの人々は私の手に負えない。どうぞ主が悪を行う者に、その悪にしたがって報いられるように。

先の2章では、神の御心を求める人は「神の時」を待つ人であることを学びました。ダビデにその時が来ました。敵将アブネルから和平工作の手が差し出されたのです。

アブネルはヘブロンにいるダビデのもとに使者をつかわして言った、『国はだれのものですか。私と契約を結びなさい。私はあなたに力添えして、イスラエルをことごとくあなたのものにしましょう』。」(3・12)

アブネルはこれ以上の内紛が何の益をもたらさないことを悟ったのでしょう。また、交渉を有利に進めることによって、主君の息子イシボセテの安泰をはかったのだと思われます。

しかし和平協定が成立した矢先に、ダビデ側の将軍ヨアブはアブネルを暗殺しました(3・27)ここでも利権に絡む人の肉なる行動が現れています。

統一後のイスラエル王国でどちらが将軍になるかという利権です。また、先の戦いでヨアブは弟のアサヘルをアブネルによって殺されていましたから、個人的な恨みもありました。

イスラエル民族同士がこれ以上殺し合うことなく、イスラエルを統一しようとする神の御業に、個人的な利権や恨みによって汚点を残してしまいました。

ダビデは、敵将アブネルの死を心から悼み、その証しとして真心を込めて葬儀を執り行いました。わが身をねらったサウルを愛し、また、そのサウルに仕えた将軍アブネルをも愛しました。ダビデのこのような愛に基づく敬意が、民の心をひとつにしました。民はみなそれを見て満足した。すべて王のすることは民を満足させたとあるとおりです(3・36)

しかしながら、将軍ヨアブを制御できないダビデ王の非力さも垣間見えます。ダビデも自分の弱さを自覚していました。それが今日の聖句の告白です。

私は油を注がれた王であるけれども、今日なお弱い。ゼルヤの子であるこれらの人々は私の手に負えない。どうぞ主が悪を行う者に、その悪にしたがって報いられるように。(3・39)

「ゼルヤ(ツェルヤ)の子ら」とは将軍ヨアブとその兄弟たちのことです。ダビデの強力な軍隊は彼らによって成り立っていました。王といえども、彼らの逸脱行為を処罰しきれないダビデの弱さがありました。

真のリーダとは自分の弱さを知って謙遜である者です。また、神のさばきを畏れ、神のさばきに委ねる者です。ですからダビデは、このできごとを神のさばきにまかせようと告白しています。

自分の力のおよばないとき、その弱さを感じるとき、「神の時」を待ってはどうだろうか。神が報われる時を待つことは、弱い私たちの勇気ある決断ではないだろうか。
 

サムエル記下 2章

2025年02月18日 | サムエル記
サムエル記下2・4 時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。

ついにダビデが王として就任する時が来ました。とはいえ、それはユダ族の王としてです。イスラエルは12の部族からなるのですが、その内のユダ族の人々から、王として迎えられたというわけです。

※ダビデの場合、王としての油注ぎが3回あった。回目は預言者サムエルによる油注ぎ。これは神からの任命であった。2回目はユダ族がダビデを王として迎えた時。回目は全イスラエルが王として迎えた時。回目以降の油注ぎは、神が油注がれた王を人々が承認したという意味でなされた。

ダビデはユダ族の出身ですから、ユダの人々はダビデが王となることを歓迎しましたが、その他の部族は承認しませんでした。

先の戦争でサウル王と3人の息子は戦死しましたが、イシボセテが生き残っていました。そこで、サウル王家に仕えた将軍アブネルは、このイシボセテを王に擁立して政権を維持しようとしました。サウル王家の出身のベニヤミン族をはじめ、他の10部族もイシボセテを支持したため、イスラエルは二分された格好です。

もちろん神が王として任命なさったのはダビデです。人々は自分たちに都合の良い王を支持したのです。いつの時代も、正義よりも利権を優先するのは罪人の常です。

利権の絡んでいる人々は戦争をします。ダビデ側の将軍のヨアブは、サウル側の将軍アブネルとの戦争を引き起こしました。しかし、ダビデはこの戦争を指示していません。 ※この時の戦争にダビデが登場していない。将軍ヨアブがダビデの指示をあおがずにおこした戦いであろう。第3章で、ダビデは敵将アブネルと和平工作を試みているのはその証左。

ダビデは神の時を待っていました。すべてに時があるのです。ダビデは己の利権のために王になろうとしていません。神の御心を求めて「神の時」を待っていました。

ダビデは長い逃亡生活をとおして、「神の時」を学んだのです。利権に絡んだ人々は力ずくで解決しようとしますが、神の御心を求める人は、「神の時」を忍耐強く待ちます。

利権に絡んだ人々は、自分の都合の良い王を求めます。しかし、神の御心を求める人々は、神が定めた王に従います。

イエス・キリストが神の国の王として来られたとき、人々は自分の都合の良い王を求めました。ローマ帝国の支配から解放してくれる王です。

しかし、イエスは軍事的な王でもなければ、政治的な王でもありませんでした。そんなイエスに失望した人々は神の御国の王であるイエスを拒絶し、十字架につけてしまいました。

このように、人は自分の都合の良い王を求めます。己の利権が絡むので、己の都合の良い王を要求します。ダビデの時代のイスラエルも同じです。

しかし、イエス様は間違いなく神の御国の王です。神が立てたキリストです。私たちを悪魔と罪の支配から解放する王。武力によらず、ご自身の犠牲の血によって救い出してくださる王です。

あなたは利権がらみで、都合の良い王を選びますか。それとも、神がお立てになった王であるキリストを我が王としてお迎えになりますか。
 

サムエル記下 1章

2025年02月17日 | サムエル記
サムエル記下1・14 ダビデはまた彼に言った、「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。

イスラエルとペリシテとの壮絶な戦いをかいくぐって、チグラグにいるダビデのもとにやって来た男は、サウル王と息子ヨナタンの戦死を報告しました。

彼は、王が瀕死の状態であり、敵になぶり殺しにされるよりは、ひと思いに殺してくれと依頼された。そこで、自分は王のとどめを刺して、遺品を持ち帰ったのだと、事の次第を報告しました(1・6~10)

しかし、彼の報告は、先のサムエル記上31章におけるサウル王の最期の記述と食い違っています。

確かにサウル王は、「自分を殺してくれ」と従者に依頼していますが、それを頼まれた者は、「非常に畏(おそ)れて、それに応じなかった」ので、王は自ら剣の上に伏して自刃(じじん)し、その従者もまた自刃しています。

ですから、ダビデのもとに来て報告した男は、「殺してくれ」と頼まれた従者ではなく別人です。

たぶん、戦場でそのやり取りを目撃したのです。そこで、すぐさま王の冠と腕輪を取り、自分の手柄(てがら)話としてダビデに知らせたわけです。その際に、念のため、王にとどめを刺したのだと思われます。

この男は策を講じたのです。ダビデはサウル王から終始いのちをねらわれていた。サウル王の死を報告すれば喜ぶだろう。しかも自分がそのとどめを刺したと伝えれば、出世も夢ではない……と。

これに対してダビデは怒りました。どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。

こう語るダビデは畏れたのです。何を畏れたのでしょうか。それは、サウルに油を注いで王とされた〝神を畏れた〟のです。正しい方を正しく畏れること……これは信仰の基本です。

現代社会は、正しい畏れを失った社会です。

まことの神への正しい畏れを失うとき、権威を軽んじるようになり、安易な平等主義へと流れて行きます。また、位や主権といった秩序を軽んじるようになり、不安定な自由主義がはびこるようになります。

神が万物を創造なさったとき、それは物質界だけを創造なさったのではありませんでした。秩序とか権威といった見えない世界の仕組みも創造なさいました。聖書はこう述べています。

「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」コロサイ1・16)

権威とか支配といった仕組みは、人間が考え出したものではありません。神が創造なさったのです。しかも、それは御子イエスのために造られたのです。このことは注目すべきです。

それなのに、人間はこの権威とか秩序を〝自分のため〟に使うので、ゆがんだ権威とか窮屈な支配に変質させてしまいます。

人類の歴史の中で、そのようにしてゆがんだ権威に対して、人々は不信感をいだき、いつわりの支配の中で傷ついてきました。そして、自由と平等を勝ち取り、神の支配からさえ自由になろうとします。

しかし、それはとても危険なことです。

ダビデに報告した男は、神を畏れず、油注がれた者を殺したことを、自分の手柄のように思っていました。彼は、神が創造された霊的な秩序に敵対したのです。

祈りましょう。私に中に、そしてキリスト教会の中に、神を正しく畏れる霊的秩序を回復してください。また、誤った権威や支配の中で傷ついた心がいやされ、神の真正なる権威と支配を歓迎することができますように……。


サムエル記上 31章

2025年02月15日 | サムエル記
サムエル記上31・13 その骨を取って、ヤベシのぎょりゅうの木の下の葬り、七日の間、断食した。

サウル王はついに戦いに敗れ、壮絶な死をとげました。イスラエルの人々はサウル王の遺体を奪い返し、火葬にしその骨を葬り、7日間の断食をしたと記しています。

神の御言に不従順であったサウル王と、紆余曲折はありながらも神の御言に生きようとしたダビデ。サムエル記上巻は、この両者の生き様が対照的にえがかれています。

ふたりの歩みを決定づけたのは何だったのでしょうか。それは、主の前に悔い改める潔(いさぎよ)さではないかと思います。

ダビデの歩みをふりかえってみても、失敗の多い人です。些細なことに腹を立て一般の農夫を殺そうとしたり、神を信頼せずにペリシテのアキシを頼ってみたりと……。

しかし、そのたびにダビデは悔い改めて来ました。

サムエル記の下巻においても、ダビデの失敗がいくつも記録されています。やはりその場合も悔い改めが与えられています。

王という立場であれば、自分の成すこと、発言が、すなわちその国の法律となる権威ある立場です。正に「朕(ちん)は国家なり」の世界です。しかし、ダビデはその立場に傲らず、 潔(いさぎよ)く悔い改めた王です。

それは、彼が本当の王を知っていたからです。王の王、主の主である神を知っていたからです。

私たちには、真の王であるイエス・キリストがおられることを忘れてはなりません。人はどんな身分や地位を得たとしても、自分にはひざをかがめて礼拝すべきお方があることを忘れてはなりません。

それは、王の王、主の主であるイエス・キリストです。このお方の御前では潔くあろう。このお方の御前では正直に悔い改めよう。ここが、ダビデとサウルの決定的な違いです。
 

サムエル記上 30章

2025年02月14日 | サムエル記
サムエル記上30・24 戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。

戦列から離れよとのアキシ王の命令によって、イスラエルとの戦いは免れたのですが、ダビデたちの本拠地であるチグラグの町に戻ってみると大変なことが起きていました。

彼らの留守の間にアマレク人の襲撃を受け、妻子や家財を根こそぎ奪われ、町は焼かれてしまっていました。これにはダビデもその仲間たちも心底まいってしまいました。

これを機に、仲間たちのダビデに対する不満が爆発してしまい、彼らはダビデを殺そうと思いました。こんな結果を招いたのはダビデのせいだ。アキシ王に取り入ろうと偽った結果だ……と責め立てたのです。

そうです。ダビデはアキシ王のもとに身を寄せるとき祈りませんでした。「ダビデは心の内に言った」と記されているとおりです(27・1)

祈りがないとき、自分勝手に行動するようになります。ダビデは敵陣ペリシテの地で身を隠そうと考えました。そして、敵国の王アキシに頼りました。主こそ頼るべきお方なのに……。

人は信頼するもののしもべになります。お金を信頼すればお金のしもべです。そして妥協するようになります。ダビデは主を頼らずアキシ王を頼り、彼のしもべとなりました。これはダビデの世に対する妥協です。

聖書は「世と妥協してはならない」(ローマ12章2)と勧めています。それは世と関係を切ることではなく、世を主人としてはならないという意味です。なぜなら、その結果、世のしもべとなるからです。

私たちの信頼すべきは主です。世は真の主人になり得ません。不正の主人に仕えるので思い煩います。ダビデは偽りの主人に仕える1年4ヶ月の間、思い煩い、嘘の上塗りをするこになりました。

ダビデがペリシテの地に身を寄せた1年4ヶ月は、神の御言のない期間でした。ダビデにとって〝放蕩息子の時代〟だったのです。

ダビデはここまで追い込まれてようやく、主によって奮い立ったのです(30・6)。つまり、彼は本心に立ち返ったのです。アキシュを頼ったことを悔い改め、主をより頼む信仰に立ち返りました。

こうして、途絶えていた祈りの生活が回復しました。主にたずねて、「アマレクを追え」との主の示しに従い、妻子を取り戻しました。そして、多くの戦利品を得ました。

ところで、このアマレク討伐にあたって、途中で疲れてベソル川にとどまった200人がいました。残りの400人が追撃したわけですが、その者たちの中から、闘わなかった200人に戦利品を分配するのはおもしろくないとの意見が出てきました。「働いたのは自分たちだ」という理由です。

しかし、ダビデは、ベソル川にとどまった者たちも働いたのだ。荷の番をしていたし、後方を守ってくれたのだ……と、彼らの働きを認めて平等に分配しました。そしてこれがイスラエルの掟(おきて)となりました。

ダビデたちはこのことを通して何を学んだのでしょうか。

(1)ひとりでできることは何もない。

私たちはキリストの体であって各自は器官です。手だけでは何もできないように、私たちは〝互い〟が必要です。

聖書は〝互い〟を強調しています。互いに愛し、尊敬し、仕え、重荷を負い、忍耐し、許し、教え、戒め、励まし、徳を高め、祈りなさい。また、互いにしてはならないことも記しています。互いにさばかない、挑まない、ねたまない。互いに悪口を言わず、不平を言わない等々。

このように、私たちには〝互い〟が必要です。

(2)キリストの体はチームプレイだ。

多くのスポーツはチームプレイです。サッカーでも攻撃もあれば守りもある、絶妙なパスを出す者、相手の攻撃の芽を摘む者。ゴールを決める者。守る者。おとりになる者……それぞれです。

ボールを持ったら離さないのではなく、パスを出すのもチームプレイの大切なことです。

各ポジションは地位の上下や優劣ではなく、働きの違いです。互いの働きを認め合い組み合わさって、キリストの体なる教会は成り立つのです。

(3)ひとつの目標に向かって一致する。

ダビデたちが捕らわれた妻子や仲間を取り戻すために闘ったように罪の支配に捕らわれている人々を神のもとへ取り戻すために闘うのが、教会の目指すところです。

ここに焦点を合わせるのが教会です。その具体的な内容は、「人々をキリストの弟子とすること、バプテスマを授けること、教えること」(マタイ28・19~20)です。

教会の一致とは、好みが同じになるとか、服装を統一するとかではありません。私たちは同じ顔になれませんが、同じ方向に顔を向けることはできます。
 

サムエル記上 29章

2025年02月13日 | サムエル記
サムエル記上29・7 それゆえ今安らかに帰って行きなさい。彼らが悪いと思うことはしないがよかろう。

さて話しは前後します。ペリシテとの戦いにそなえてサウル王が口寄せの女のところに出入りしている頃、ペリシテの各軍はアベクという地に全軍を集結させていました。ペリシテの王のひとりであるアキシも出陣する際に、ダビデたちにも従軍を命じました。 ※複数のペリシテ人都市国家の王たちによる連合軍。その内のひとりがアキシ王。このアキシの下でダビデは従軍した。

さあ、困ったことになりました。このまま行けば、ダビデはイスラエルと対戦しなければなりません。どうして、神の選びの民を敵に回すことができましょうか。こうして、嘘の上に嘘を上塗りしてきた結果を刈り取らなければならなくなりました。

ダビデは、よろしい、あなたはしもべが何をするかを知られるでしょうと玉虫色の返答でごまかすのが精一杯でした(28・2)。まさに冷や汗ものです。そして、とうとうペリシテの陣営に到着しました。どうしますか。さあ、さあ、さあ……。焦る思いが今にも破綻(はたん)を来しそうです。

すると、ペリシテの他の王たちからクレームが付きました。今はアキシ王の護衛長であっても、かつてはイスラエル軍の将。そんなダビデが一緒なのはまずいだろう……と。もし戦いの最中に寝返ってでもしたらどうするんだ、というわけです。

そのようなわけで、ダビデは戻るようにと命令を受けたのです。内心ひと安心であったはずです。神の哀れみです。ダビデが自分でまいた罪の種ですが、神のはからいでかろうじて難を逃れることができました。
 
私たちにもそのような助け船が用意されています。主イエスの大いなる御手に信頼しよう。

サムエル記上 28章

2025年02月12日 | サムエル記
サムエル記上28・15 神は私を離れて、預言者によっても、夢によっても、もはや私に答えられないのです。

この言葉はサウル王の悲痛な叫びです。ペリシテの大軍が押し寄せてきたのですが、サウル王はどう対応すればよいか途方に暮れていました。神からの力強い言葉があれば、確信をもって闘うことができるのですが……。

かつて、サウル王は神の御言を捨てました。それ以来、神の霊はサウル王を離れてしまい、神の御言は与えられずに今に至っています。

人は霊的な存在ですから、パンだけでは生きることができません。神の御言が必要です。サウルは王ですから衣食住に困ることはなかったはずです。しかし、彼の霊魂は悲痛な叫びをあげています。

ここに旧約の時代の厳しさがあります。しかし、今や私たちはイエス・キリストによって新約に生きています。わたしはいのちのパンだと言われたイエス様を信じて食べる時代です。

イエスこそ神の御言が肉体となって来られたお方ですヨハネ1・14)。いのちのパンであるイエスを食べるとは、神の御言を受けることです。それによって、私たちは永遠に生きるようになります。

かつてのサウル王が神の御言を拒絶したように、イエスを拒絶する者にはいのちがありません。神の御言なるイエスを食べてください。イエスを食べる人には永遠のいのちがあり、その人を神は、終わりの日によみがえらせます。

さて、サウル王は神の御言に飢えて「口寄(くちよ)せの術」によってでもいいから神託を得たいと思いました。「口寄せ」とは「霊媒(れいばい)」と呼ばれ、死者の霊を呼び寄せて、その霊から教えを受ける呪術です。

神は、このような口寄せを禁じています。それは悪霊のわざです。一見、霊的な働きですから、すごいように見えますが、悪霊が語ることに従うことになりますから、聖書はこれを禁じています。霊のわざですから、肉体の制限がある人間よりも見える領域は広いです。ですから、占いが当たることもあります。しかし、当たるからといって正しいのではありません。それは悪霊の働きです。 ※日本でも青森の「イタコ」とか沖縄の「ユタ」が有名である。

サウル王は神が禁じている「口寄せの術」によって、すでに死んだ預言者サムエルの霊を呼び出したいと願いました。

そこで口寄せの女は、ある人物を呼び出しました。口寄せの彼女は、それがサムエルだとは一言もいっていません。神のような方が地からのぼられるのが見えると言っただけです。果たしてそれがサムエルだという確証にはなりません。主の聖なる預言者の霊が、悪霊の働きである口寄せの術によって呼び出されることがあるでしょうか。

これは悪霊の働きです。口寄せの女が見た霊をサムエルだと、サウル王が思ったにすぎません。

女が呼び出した霊は、サウル王の非業の死を予告します。そして実際に、ペリシテとの戦いで彼は戦死します。口寄せの女の占いは当たりました。しかし、悪霊でも占いをします。当たったからといって正しい霊の働きではありません。

神の御言を捨てた者の最期(さいご)は、このように惨めです。神の御言ではなく、悪霊の言葉によって動かされ、滅びを刈り取るのです。

神の御言100%のイエス様を信じてください。御言が肉体となって来られたイエスを ――御言がいのちのパンとなって来られたイエスを―― 信じて食べてください。

イエスを食べる人は、サウルのように霊的な暗闇を歩くことはありません。