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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

コロサイ人への手紙 4章

2022年07月07日 | コロサイ書
コロサイ書 4章
いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか分かるであろう。
(4・6)


先の3章18節からは、「妻と夫」「子と父」、そして「奴隷と主人」の関係が記されています。4章1節の、主人の奴隷にたいする姿勢についての教えは、3章に含まれるべき記録です。

この3つの人間関係は、エペソ6章でも取り上げたように、神と人との関係を表しているのを思い出してください。神との関係は抽象的なことではなく、実際の人間関係の中に活かされます。

見方を変えると、三位一体の神と私の関係を表しています。

御子なる神には、妻が夫に従うように愛をもって従います。御父なる神には、子が父に従うように尊敬をもって従います。そして、御霊なる神には、奴隷が主人に従うように忠実をもって従います。

さて、4章2節からは、生活上の勧めが記されています。① 目をさまして祈ること、② 福音を語ること、③ 時間を神のためにあがなうこと、④ 塩で味付けた言葉を使うこと……この4点です。

③については、口語訳では「時を活かして」、新改訳では「機会を活かして」と訳されていますが、「時をあがなう」が原意です。「朝マナ」のエペソ5章を参照してください。

ここでは④の塩で味付けられた言葉を見て行きましょう。

私たちの人生上の悩みは、病気とか、お金のこともありますが、多くの場合は人間関係ではないでしょうか。 ※某心理学者は、全ての悩みは「人間関係」だとも言い切っている。

その人間関係で重要な鍵は言葉です

神と人間の関係も言葉を通して成り立つように、人間同士の関係も言葉が重要な役割をはたします。

聖書は、「舌(言葉)」を制御できる人は完成した人であり、その舌(言葉)は船をあやつる舵(かじ)のような役割を果たすのだ」と記しています。言葉という舵の切り方ひとつで、人生の方向が決まります。

言葉は簡単に口から出てきます。自分の心にあることがスルスルと出てくるので厄介です。だから、今日の聖句は、塩で味付けられた言葉を使うように勧めているのです。

塩は調味料の基本です。塩味がないと、どんな味も決まりません。甘みを引き出すために、まったく逆の塩味が大切であるのは興味深いことです。私の口から出る言葉が、人間関係によい味付けをする言葉になりますように祈りましょう。

また、塩は防腐の役目があります。塩漬けの食品は腐らず長持ちします。会話の中には、うわさ話し、人を中傷する話し、卑猥な話しが飛び交う場面もあります。いずれも人間関係を腐らせ破壊する言葉です。

私の口から出る言葉が塩で味付けられて、人間関係の腐るのを防ぐ言葉になりますように、また、人間関係をこわす言葉ではなく、結びつける言葉になりますように祈りましょう。

塩は良いものです。大切なものです。でも、適量でなければなりません。良いものだからといって、大量の塩をいっきに食べたら体をこわします。スプーン一杯の塩でも食べるのは無理です。

つまり、言っていることは正論なのですが、塩味がききすぎて食べられないような言葉もあります。適量が大切です。

塩は良い味を引き出しますが、塩そのものは自己主張しません。塩が固まりのままでは、味付けになりません。塩は「溶ける」ことによって効果を出します。塩は前面にでるのではなく「隠し味」です。

私の口から出る言葉が、自己主張する言葉ではなく、ほどよく溶け出て、全体を引き立てる言葉になるように祈ります。

そして、最も大事なのは、言葉がでてくる私の内側です。聖霊が宿るなら、その人の腹からいのちの水が川となってわき上がると聖書は約束しています(ヨハネ7・38)

泉が腐っていたら、腐った水が出てきます。泉が清ければ、うるわしい水が出てきます。言葉もそうです。私の内側を、聖霊がご支配なさって、人を活かす言葉の水が流れ出るようにと祈ります。聖霊の賜物の多くが〝言葉の賜物〟であるのは興味深いことです(Ⅰコリ12・4~11)

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コロサイ人への手紙 3章

2022年07月06日 | コロサイ書

コロサイ書 3章
あなた方はキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
(3・1)


キリストが私の中におられるということは、キリストのものが100パーセント、私の中に〝すでに〟あるのです。私たちは、その宝を発見する旅に出かけた冒険家のようです。

この世でも色んな発見があります。何千年前の遺跡を発見したり、大自然の不思議な法則を発見したり、そんな世紀の大発見のために生涯をつぎ込む冒険家や科学者がいます。

クリスチャンはそれ以上の冒険家です。

キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、地上のものを糞土のように思っていると告白したパウロは、キリストの中に隠された宝を発見するために旅立った冒険家です。彼は、この冒険のために、地上の価値と思われるすべてのものを、塵芥(ちりあくた)を投げ捨てるようにつぎ込んだ人です。

私たちはキリストの中に隠された無尽蔵の富を、どれぐらい掘り当てることができたでしょうか。まだほんのわずかしか発見できていないのではないかと、私は思っています。

最近のスマホやパソコンは高機能です。でも、それを使いこなしていません。それは取扱説明書を読んでいないからです。あるいは、機能を活用すべく状況に迫(せま)られていないからです。それと同じように、聖書を読まなければ、私の中に神がくださったキリストという宝のすごさ知ることができません。また、必要に迫られる事態に遭遇していないので、キリストのすごさを体験していないのです。

キリストの中で実現していることは、すでに私の中にも実現しています。その最たることは「死と復活」です。聖書はすでに死んだと言い(3・3)キリストと共に復活したとも言っています(3・1)

死と復活」。これがキリストという宝の基本です。

罪人の行き先は「死」です。この死は肉体の死ではありません。神との永遠の断絶です。地獄の死です。どんな偉い人も、お金持ちも、頭のよい人も、この永遠の死から逃れることができません。

しかし、キリストがこの死を、すでに十字架で受けてくださいました。このキリストを私の内にお迎えすると、自分は十字架のキリストと一緒になって、すでに、死んで葬られたことを発見します。

クリスチャンとは、すでに、永遠の死の刑罰を受けてしまった人のことです。死の刑罰を免除されたのではありません。だれも、死の刑罰を逃れることはできません。キリストと一緒に死の刑罰を受けるのか、それとも自分自身で死の刑罰を受けるのか……。どちらかです。

何という感謝。私は〝すでに〟キリストの十字架で自分の受けるべき刑罰を受けて死んでしまった者です。だから、肉体の死後、永遠の死の刑罰を受けることがありません。それだけではありません。キリストが復活して天の王座に座されたので、私も復活して天に座しています。これが私に与えられた身分です。

今日の聖句は、あなた方はキリストと共によみがえらされたのだからと言っていますが(3・1)復活して天に属する者になったのだからという意味です。ですから、私たちの生き方は、地上の価値観で生きるのではなく、天の価値観で生きるのです。地上を基準として生きるのではなく、天国を基準として生きるのです。地上のものを思わず、天にあるものを思いなさいとはそういう意味です(3・2)

3章5節以降は、様々な罪から離れよと命じています。言われてできるものではありません。でも、自分が何者かという深い自覚が、罪から離れる生活を選択させます。

私たちは、聖書に記されている生き方と、実際の自分の生活に乖離(かいり)を感じて悩みます。自分を責めます。でも、そのような生き方をやめよう。コロサイ書3章1~4節の基本姿勢にしっかり立つのです。

永遠のいのちは、すでにキリストの中に隠されているからです(3・3)。この〝いのち〟とは、新しい生き方をする力のことです。永遠のいのちのことです。これは、隠れているだけで、持っていないのではありません。だから発見すれば良いのです。失敗して古い自分が死にます。でも、そこに、隠されていたキリストのいのちを発見して、新しい生き方をします。クリスチャン生活はそんなことの連続です。

そして遂に、完全に現れる時が来ます。「いのちなるキリストが現れる時には、あなた方も、キリストと共に栄光のうちに現れる」のです(3・4)。キリストが再び来られる時です。

キリストの中に隠された ―それは私の中に隠された― 宝を発見する旅に祝福がありますように祈ります。

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コロサイ人への手紙 2章

2022年07月05日 | コロサイ書
コロサイ書 2章
キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなた方は、キリストにあって、それに満たされているのである。
(2・9~10)


第1章では、「私の内におられるキリスト」が奥義であることを見ました。キリスト信仰とは、勉強して真理を突きつめたり、修行したり、登りつめてようやく到達するといったものではありません。

キリストが私の内におられるのが信仰です。

キリストが私の内におられるので、〝すでに〟私は到達しています。〝すでに〟すべてを持っています。ただ、そのすばらしい恵みに目が開かれていない場合が多いのです。キーワードは〝すでに〟です。

ですから祈ります。どうか、聖霊が私たちの霊的な目を開いてくださって、それを見ることができますように、理解することができますように、体験することができますように(1・9)

キリストの中に知恵と知識との宝がすべて隠されています(2・3)。ですから、キリストが私の内におられることによって、すべての知恵と知識を〝すでに〟私は持っているのです。

そして、今日の聖句も、キリストの中に神のすべての徳(性質)が、かたちをとって宿っていると記されています(2・9)。だから、すでに、キリストによって、私の中にも神のご性質が宿っているのです。

私たちはキリストにあって、キリストにあるすべての事柄で満たされています(2・10)。しかも、「かたちをとって」と訳されていますから、「具体的に」という意味です。

こういうわけですから、難行苦行して登りつめるような宗教ではなく ――日本人の宗教観はそのようなイメージですが―― 私の中に神がすでに用意なさった宝を日々発見して行くようなものです。

キリストが十字架で死なれたことによって、すでに私も死んだのです(ガラ2・19~20、コロ3・3)。キリストが復活されたことで、すでに私の霊も復活しました。キリストが天で王の座にすわられたことで、すでに私も王の座にすわっているのです(エペソ2・6)

このように、キリストが私の内におられるとは、キリストにあるすべてのものが、私の中にすでに実現しているのです。

どうしようもない自分に身悶(もだ)えしながら、自己卑下に押しつぶされそうになりますが、キリストの中ですでに死んだ自分を発見します(コロ2・12)。な~んだ。すでに古い私は死んでいたんだと発見します。

無力感にさいなまれながら、キリストの中ですでに復活した新しい自分を発見します(2・12)。自分の足りなさを痛感しながら、キリストの中ですでに王の座にある偉大な力に目覚めます。な~んだ。すでに、私は復活していて、すばらしい身分にされていたんだ、と気づくのです。

このように、キリストの中で多くの恵みを発見して行きます。それは、すでに神がキリストの中で用意なさってることです。

すべてはキリストの〝中に〟です。

キリストを信じるとは、キリストの〝中に〟信じるです。英語では〝I believe in Jesus〟です。〝in〟とは「~の中に」をあらわします。ギリシャ語本分も英語表現と同じです。日本語としては変ですが、キリスト〝を〟信じるのではなく、キリストの〝中に〟信じるのです。これが聖書の本文を直訳した表現です。キリスト〝を〟となると、私から離れて向こう側にキリストが居られるイメージです。そうではなく、キリストの〝中に〟です。キリストと私は離れていません。キリストの中で一緒です。

キリストがなさったすべてのこと……絶望も悲しみも、苦難や試練も、喜びも勝利も、平安も裏切りも、そして愛も……キリストが私の中に住まわれることによって、私の中にあります。

私の人生は、ちょうどキリストの再現ドラマを上映する映画館のようです。途中は大変なシーンがありますが、しかし感謝です。その物語は復活と天の王座でクライマックスを迎えることになっているからです。これらはみなキリストの〝中で〟です。だから、感謝なのです。だから、困難な中でも喜ぶのです。キリストの中ですでにの世界を味わおう。

2章の後半では、このようなキリストがすでに私の内におられ、生きておられるのですから、どうしてこの世の幼稚な教えに振り舞わされるのかと諭しています(2・8、20)。 ※口語訳聖では「世の諸々の霊力」と訳しているが、新改訳では「この世の幼稚な教え」と翻訳。

世の習わしや言い伝え、宗教儀式や建造物など。年数が古かったり、巨大であったり、謎めいた雰囲気など。これらはすごいことのように見えるだけで、内住のキリストと比べるなら、「世の幼稚な教え」です。
 
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コロサイ人への手紙 1章

2022年07月04日 | コロサイ書
コロサイ書 1章
この奥義は、あなた方の内にいますキリストであり、栄光の望みである。
(1・27)


日本語でいう「奥義」とは、それを会得すれば道を極めたとされる大事なテーマです。しかし、聖書でいう奥義は、それまで隠されていたが、今やあきらかにされた真理のことです(1・26)

旧約の時代にも、神はご自分のことを現して来られましたが、それがすべてではありませんでした。新約の時代になって、遂に神は、御子イエスを通してご自分を現されました。この御子イエスによって、今まで隠されていた真理が現されるようになりました。それが奥義です。

コロサイ書の1章に、その奥義のひとつが紹介されています。それは私の内におられるキリストです。

キリスト信仰は難しい哲学や学門の世界ではありません。それなら頭の良い人しか理解できません。また、難行苦行をして鍛錬することでもありません。それなら克己心のある人しか到達できません。

ただ、キリストを私の内にお迎えすることです。このお方をお迎えし、このお方の中で生きることです。ですから、難しいことが分からなくても大丈夫です。私の内におられるキリストが教えてくださいます。克己心がなくても大丈夫です。私の内におられるキリストが、私を良い行へと導いてくださいます。

では、どのようにして、キリストが私の内に住んでくださるのでしょうか。それは御言」と「聖霊によってです。

はじめに言(ことば)があった。言は神であった。ヨハネ福音書の有名な聖句です(ヨハネ1・1)。神はご自身を言葉を通してあらわされます。神を受け入れるとは、神の言葉を受け入れることです。人間関係でも同じことです。相手の言葉を受け入れることは、相手自身を受け入れることです。相手の言葉を拒絶するなら、相手を拒絶しているのです。

さて、その神である(ことば)は、人となって世に来られましたこれは神秘です。「言」が人となって来られた……それがイエス・キリストです。ですから、イエス・キリストは神の御言100%のお方です。

神の御言を受け入れることが、キリストを内にお迎えすることです。これは、御言を研究したり暗記したりといった頭脳の作業ではありません。聖霊による体験です。

ですから「御言」と「聖霊」によって……なのです。

キリストが私の内におられるからといって、イケメン俳優の顔をイメージして、そんなお方が私の内におられて……と、想像たくましくすると間違った方向に行きそうです。

神の御言を受け入れるのです。

聖書に記録された御言は単なる文字です。印刷された活字です。その文字を紙に書いて身体にはったり、丸めて食べても、私の内にキリストが住まわれるのではありません。

「文字」は、御言という食物を盛る皿にすぎません。皿に盛られた御言を食べるのであって、皿そのものを食べてはいけません。

牧師が語る説教も同じです。牧師が語る言葉そのものが神の御言ではありません。それはあくまでも人間の言葉であり音です。牧師の言葉という皿に盛られた御言を食べます。

なのに、牧師の言葉という皿を食べたら、お腹をこわします。この皿は料理に合っていないとか、皿のヒビやよごれが気になって、肝心の御言を食べるのを忘れてしまいます。

味噌汁の椀にプリンが盛られていたら、ウッて思います。でも、プリンは美味しいですよ。でも、できればプリンにふさわしいガラス食器に盛られていれば、もっと美味しく感じます。説教者の言葉はそんなものです。

さて、御言をどのように食べますか。信じることによって食べます。学問のように理解しようとすると頭に入ります。それは御言ではなく、文字情報があなたの頭に入ったのです。

神がおっしゃる通りです。「アーメン」と信じます。記憶は脳の機能ですが、信じることは霊の機能です。ですから、信じるとき聖霊が共に働かれます。もう一度いいます。信じるとき、聖霊さまが働かれて、御言があなたの霊に住まわれます。こうして、キリストが私の内に住まわれます。キリストの言葉をあなた方の内に宿らせ(3・16)、とありますが、御言は生きておられて、私の中で宿り住まわれるのです。そうです。キリストが住まわれるのです。

私たちの脳細胞に保存された聖句は、知識として留まっても、それ以上ではありません。しかし、信じて私の霊に記録された御言は生きておられます。生きているのでいのちがあります。いのちがあるので新しい考えや新しい行動を生み出します。聖霊はそのような御言と一緒にお働きになります。

イエス様はご自分のことを「いのちのパンだ」と言われました。私を食べるものは永遠に生きるのだと約束されました。この御言を信じたら、その人はイエスを食べた人です。その人の内にイエス・キリストが住んでおられます。

野菜を食べるとは野菜のいのちを食べることです。牛肉を食べるとは牛のいのちを食べることです。いのちを食べるから、いのちを受けます。

それと同じように、イエスを食べるとはイエスのいのちを食べることです。イエスを食べて、イエスの霊的ないのちが私の霊に宿ります。イエス・キリストご自身が宿られます。

ですからイエス様はこう言われました。わたしがあなた方に語った言葉は霊であり、いのちである(ヨハネ6・63)。だから、イエス様の御言を信じて受けることは、イエスの霊的ないのちを受けることです。

こうして、イエス・キリストが私の内に住まわれます。さあ、「私の内におられるキリスト」という奥義がどんなにすごいことか、体験しようではありませんか。

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コロサイ人への手紙4章

2020年09月09日 | コロサイ書

コロサイ4:6 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか分かるであろう。

先の3章18節からは、「妻と夫」「子と父」そして「奴隷と主人」の関係が記されています。4章1節の、主人の奴隷にたいする姿勢についての教えは、3章に含まれるべき記録です。

この3つの人間関係は、エペソ6章でも取り上げたように、神と人との関係を表しているのを思い出してください。神との関係は抽象的なことではなく、実際の人間関係の中に活かされます。

見方を変えると、三位一体の神と私の関係を表しています。御子なる神には、妻が夫に従うように愛をもって従います。御父なる神には、子が父に従うように尊敬をもって従います。そして、御霊なる神には、奴隷が主人に従うように忠実をもって従います。

さて、4章2節からは、生活上の勧めが記されています。①目をさまして祈ること、②福音を語ること、③時間を神のためにあがなうこと、④塩で味付けた言葉を使うこと……この4点です。

③については、口語訳では「時を活かして」、新改訳では「機会を活かして」と訳されていますが、「時をあがなう」が原意です。エペソ5章の「朝マナ」を参照してください。

ここでは④の塩で味付けられた言葉を見て行きましょう。

私たちが悩むのは、病気とか、お金のこともありますが、多くの場合は人間関係ではないでしょうか。そして、その人間関係で重要な鍵は「言葉」です。

神と人間の関係も言葉を通して成り立つように、人間同士の関係も言葉が重要な役割をはたします。

聖書は、「舌(言葉)」を制御できる人は完成した人であり、その舌(言葉)は船をあやつる舵(かじ)のような役割を果たすのだ」と記しています。言葉という舵の切り方ひとつで、人生の方向が決まります。

言葉は簡単に口から出てきます。自分の心にあることがスルスルと出てきます。だから厄介でもあります。だから、今日の聖句は、塩で味付けられた言葉を使うように勧めています。

塩は調味料の基本です。塩味がないと、どんな味も決まりません。甘みを出すために、まったく逆の味である塩が大切であるのは興味深いことです。

私の口から出る言葉が、人間関係によい味付けをする言葉になりますように祈りましょう。

また、塩は防腐の役目があります。塩漬けの食品は腐らず長持ちします。会話の中には、うわさ話し、人を中傷する話し、卑猥な話しが飛び交う場面もあります。いずれも人間関係を腐らせ破壊する言葉です。

私の口から出る言葉が塩で味付けられて、人間関係の腐るのを防ぐ言葉になりますように、また、人間関係をこわす言葉ではなく、結びつける言葉になりますように祈りましょう。

塩は良いものです。大切なものです。でも、適量でなければなりません。良いものだからといって、大量の塩をいっきに食べたら体をこわします。スプーン一杯の塩でも食べるのは無理です。

つまり、言っていることは正論なのですが、塩味がききすぎて食べられないような言葉もあります。適量が大切です。

塩は良い味を引き出しますが、塩そのものは自己主張しません。が固まりのままで入っていたら、味付けになりません。塩は「溶ける」ことによって効果を出します。塩は前面にでるのではなく「隠し味」です。

私の口から出る言葉が、自己主張する言葉ではなく、ほどよく溶け出て、全体を引き立てる言葉になるように祈ります。

そして、最も大事なのは、言葉がでてくる私の内側です。聖霊が宿るなら、その人の腹からいのちの水が川となってわき上がると聖書は約束しています(ヨハネ7:38)。

泉が腐っていたら、腐った水が出てきます。泉が清ければ、うるわしい水が出てきます。言葉もそうです。私の内側を、聖霊がご支配なさって、人を活かす言葉の水が流れ出るようにと祈ります。(Ω)

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コロサイ人への手紙3章

2020年09月08日 | コロサイ書

コロサイ3:1 あなた方はキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

キリストが私の中におられるということは、キリストのものが100パーセント、私の中に〝すでに〟あるのです。私たちは、その宝を発見する旅に出かけた冒険家のようです。

この世でも色んな発見があります。何千年前の遺跡を発見したり、大自然の不思議な法則を発見したり、そんな世紀の大発見のために生涯をつぎ込んでいる冒険家や科学者がいます。

クリスチャンはそれ以上の冒険家です。

キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、地上のものを糞土のように思っていると告白したパウロは、キリストの中に隠された宝を発見するために旅立った冒険家です。彼は、この冒険のために、地上の価値と思われるすべてのものを、塵芥(ちりあくた)を投げ捨てるようにつぎ込んだ人です。

私たちはキリストの中に隠された無尽蔵の富を、どれぐらい掘り当てることができたでしょうか。まだほんのわずかしか発見できていないのではないでしょうか。

最近のスマホやパソコンは益々高機能になってきています。多くの人はそれを使いこなしていません。それは取扱説明書を読んでいないからです。あるいは、機能を活用すべく状況に迫(せま)られていないからです。

それと同じように、聖書を読まないと、私の中に神がくださったキリストという宝のすごさ知ることができません。また、必要に迫られる事態に遭遇していないので、キリストのすごさを体験していないのです。

キリストの中で実現していることは、すでに私の中にも実現しています。その最たることは「死と復活」です。聖書はすでに死んだと言い(3:3)、キリストと共に復活したとも言っています(3:1)。

「死と復活」。これがキリストという宝の基本です。

罪人の行き先は「死」です。この死は肉体の死ではありません。神との永遠の断絶です。地獄の死です。どんな偉い人も、お金持ちも、頭のよい人も、この永遠の死から逃れることができません。

しかし、キリストがこの死を、すでに十字架で受けてくださいました。このキリストを私の内にお迎えすると、自分は十字架のキリストと一緒になって、すでに、死んで葬られたことを発見するようになります。

クリスチャンとは、すでに、永遠の死の刑罰を受けてしまった人のことです。死の刑罰を免除されたのではありません。だれも、死の刑罰を逃れることはできません。

キリストと一緒に死の刑罰を受けるのか、それとも自分自身で死の刑罰を受けるのか……どちらかです。

何という感謝でしょうか。私は〝すでに〟キリストの十字架で自分の受けるべき刑罰を受けて死んでしまった者です。だから、肉体の死後、永遠の死の刑罰を受けることがありません。それだけではありません。キリストが復活して天の王座に座されたので、私も復活して天に座しています。これが私に与えられた身分です。

神は、私たちを罪人の身分に留め置かず、神の子としてくださいました。子ですから相続者です。聖書には「御国の相続者」という表現がたくさん記されています。

この新しい身分、立場が、新しい生き方の根拠になります。

今日の聖句は、あなた方はキリストと共によみがえらされたのだからと言っていますが(3:1)、「復活して天に属する者になったのだから」という意味です。

だから、私たちの生き方は、地上の価値観で生きるのではなく、天の価値観で生きるのです。地上を基準として生きるのではなく、天国を基準として生きるのです。

地上のものを思わず、天にあるものを思いなさいとはそういう意味です(3:2)。

3章5節以降は、様々な罪から離れよと命じています。言われてできるものではありません。自分が何者かという深い自覚が、罪から離れる生活を選択させます。

あなたはキリストと共に復活して、天に座する立場になっています。このことがいかに栄光に富んだことか。それを発見するのがクリスチャン人生です。この宝はキリストの中に隠されています(3:3)。

そして、私たちは、この土の器の中に宝を持っているのです。

そして、この宝が、完全に現れる時が来ます。いのちなるキリストが現れる時には、あなた方も、キリストと共に栄光のうちに現れるのです(3:4)。キリストが再び来られる時です。

キリストの中に隠された……それは私の中に隠された……宝を発見する旅に祝福がありますように祈ります。(Ω)

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コロサイ人への手紙2章

2020年09月07日 | コロサイ書

コロサイ2:9-10 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなた方は、キリストにあって、それに満たされているのである。

第1章では、「私の内におられるキリスト」が奥義であることを見ました。キリスト信仰とは、勉強して真理を突きつめたり、修行したり登りつめてようやく到達するといったものではありません。

「キリストが私の内におられる」のが信仰です。

キリストが私の内におられるので〝すでに〟私は到達しています。〝すでに〟すべてを持っています。ただ、そのことに目が開かれていない場合が多いのです。キーワードは〝すでに〟です

ですから祈ります。どうか、聖霊が私たちの霊的な目を開いてくださって、それを見ることができますように、理解することができますように、体験することができますように(1:9)。

キリストの中に知恵と知識との宝がすべて隠されています(2:3)。ですから、キリストが私の内におられることによって、すべての智恵と知識を〝すでに〟私は持っているのです。

そして、今日の聖句も、キリストの中に神のすべての徳(性質)が、かたちをとって宿っていると記されています(2:9)。だから、すでに、キリストによって、私の中にも神のご性質が宿っているのです。

私たちはキリストにあって、キリストにあるすべての事柄で満たされています(2:10)。しかも、「かたちをとって」と訳されていますから、「具体的に」という意味です。

こういうわけですから、難行苦行して登りつめるような宗教ではなく……日本人の宗教観はそのようなイメージですが……、私の中に神がすでに用意なさった宝を日々発見して行くようなものです。

キリストが十字架で死なれたことによって、すでに私も死んだのです(ガラテヤ2:19-20)。キリストが復活されたことで、すでに私の霊も復活したのです。キリストが天で王の座にすわられたことで、すでに私も王の座にすわっているのです(エペソ2:6)。

このように、キリストが私の内におられるとは、キリストにあるすべてのものが、私の中にすでに実現しているのです。

どうしようもない自分に身もだえしながら、自己卑下に押しつぶされそうになりますが、キリストの中ですでに死んだ自分を発見します(2:12)。な~んだ。すでに古い私は死んでいたんだと発見します。

無力感にさいなまれながら、キリスト中ですでに復活した新しい自分を発見します(2:12)。自分の足りなさを痛感しながら、キリストの中ですでに王の座にある偉大な力に目覚めます。な~んだ。すでに、私は復活していて、すばらしい身分にされていたんだ、と気がつくのです。

このように、キリストの中で多くの恵みを発見して行きます。それはすでに神がキリストの中で用意なさってることです。

すべてはキリストの〝中に〟です。キリストを信じるとは、キリストの〝中に〟信じるです。英語では〝I believe in Jesus〟です。〝in〟とは「~の中に」をあらわします。ギリシャ語本分も英語表現と同じです。日本語としては変ですが、キリスト〝を〟信じるのではなく、キリストの〝中に〟信じるのです。キリストと私は離れていません。キリストの中に一緒です。

キリストがなさったすべてのこと……絶望も悲しみも、苦難や試練も、喜びも、勝利も、平安も、裏切りも愛も、キリストが私の中に住まわれることによって、私の中にあります。

私の人生は、ちょうどキリストの再現ドラマを上映する映画館のようです。途中は大変なシーンがありますが、しかし感謝です。その物語は復活と天の王座で終わることになっているからです。

これらはみなキリストの中で……です。だから、感謝なのです。だから、困難な中でも喜ぶのです。キリストの中で「すでに」の世界を味わおうではありませんか。

2章の後半では、このようなキリストがすでに私の内におられ、生きておられるのですから、どうして「この世の幼稚な教え」に振り舞わされるのかと諭しています(2:8,20)。 ※口語訳聖では「世の諸々の霊力」と訳しているが、新改訳では「この世の幼稚な教え」と翻訳。

世の習わしや言い伝え、宗教儀式や建造物など……。年数が古かったり、巨大であったり、謎めいた雰囲気など……。これらはすごいことのように見えるだけで、内住のキリストと比べるなら、「世の幼稚な教え」です。(Ω)

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コロサイ人への手紙1章

2020年09月05日 | コロサイ書

コロサイ1:27 この奥義は、あなた方の内にいますキリストであり、栄光の望みである。

日本語でいう「奥義」とは、それを会得すれば道を極めたとされる大事なテーマです。しかし、聖書でいう奥義は、それまで隠されていたが今やあきらかにされた真理のことです(1:26)。

旧約の時代に神はご自分のことを現して来られましたが、それがすべてではありませんでした。新約の時代になって、遂に神は御子イエスを通してご自分を現されました。この御子イエスによって、今まで隠されていた真理が現されるようになりました。それが奥義です。

コロサイ書の1章に、その奥義のひとつが紹介されています。それは私の内におられるキリストです。

キリスト信仰は難しい哲学や学門の世界ではありません。それなら頭の良い人しか理解できません。また、難行苦行をして鍛錬することでもありません。それなら克己心のある人しか到達できません。

ただ、キリストを私の内にお迎えすることです。このお方をお迎えし、このお方の中で生きることです。

難しいことが分からなくても大丈夫です。私の内におられるキリストが教えてくださいます。克己心がなくても大丈夫です。私の内におられるキリストが、私を良い行へと導いてくださいます。

では、どのようにして、キリストが私の内に住んでくださるのでしょうか。それは御言と「聖霊によってです。

はじめに言(ことば)があった。言は神であった。ヨハネ福音書の有名な聖句です(ヨハネ1:1)。神はご自身を言葉を通してあらわされます。神を受け入れるとは、神の言葉を受け入れることです。人間関係でも同じことですね。相手の言葉を拒絶することは、相手を拒絶することです。

さて、その神である「言」は、人となって世に来られました。これは神秘です。「言」が人となって来られた……それがイエス・キリストです。ですから、イエス・キリストは神の御言100%のお方です。

神の御言を受け入れることが、キリストを内にお迎えすることです。これは、御言を研究したり暗記したりといった頭脳の作業ではありません。聖霊による体験です。

ですから御言聖霊によって……なのです。

キリストが私の内におられるからといって、イケメン俳優の顔をイメージして、そんなお方が私の内におられて……と、想像たくましくすると間違った方向に行きそうです。

神の御言を受け入れるのです。

聖書に記録された御言は単なる文字です。印刷された活字です。その文字を紙に書いて身体にはったり、丸めて食べても、私の内にキリストが住まわれるのではありません。

その「文字」は、御言という食物を盛る皿です。皿に盛られた御言を食べるのであって、皿そのものを食べてはいけません。

牧師が語る説教も同じです。牧師が語る言葉そのものが神の御言ではありません。それはあくまでも人間の言葉であり音です。牧師の言葉という皿に盛られた御言を食べます。

牧師の言葉という皿を食べたら、お腹をこわします。この皿は料理に合っていないとか、皿のヒビやよごれが気になって、肝心の御言を食べるのを忘れてしまいます。

味噌汁の椀にプリンが盛られていたら、ウッて思います。でも、プリンは美味しいですよ。でも、できればプリンにふさわしいガラス食器に盛られていれば、もっと美味しく感じます。説教者の言葉はそんなものです。

どうやって食べますか。信じることによって食べます。学問のように理解しようとすると頭に入ります。それは御言ではなく、文字情報があなたの頭に入ったのです。

神がおっしゃるのだから、その通りです「アーメン」と信じます。記憶は脳の機能ですが、信じることは霊の機能です。ですから、信じるとき聖霊が共に働かれます。もう一度いいます。信じるとき聖霊さまが働かれて、御言があなたの霊に住まわれます。こうして、キリストが私の内に住まわれます。

私たちの脳細胞に保存された聖句は、知識として留まっても、それ以上ではありません。

しかし、信じて私の霊に記録された御言は生きておられます。生きているのでいのちがあります。いのちがあるので新しい考えや新しい行動を生み出します。聖霊はそのような御言と一緒にお働きになります。

イエス様はご自分のことを「いのちのパンだ」と言われました。私を食べるものは永遠に生きるのだと約束されました。この御言を信じたら、その人はイエスを食べた人です。その人の内にイエス・キリストが住んでおられます。

野菜を食べるとは野菜のいのちを食べることです。牛肉を食べるとは牛のいのちを食べることです。いのちを食べるから、いのちを受けます。

それと同じように、イエスを食べるとはイエスのいのちを食べることです。イエスを食べて、イエスの霊的ないのちが私の霊に宿ります。イエス・キリストご自身が宿られます。

ですからイエス様はこう言われました。「わたしがあなた方に語った言葉は霊であり、いのちである」(ヨハネ6:63)。だから、イエス様の御言を信じて受けることは、イエスの霊的ないのちを受けることです。

こうして、イエス・キリストが私の内に住まわれます。さあ、私の内におられるイエス・キリストという奥義がどんなにすごいことか、体験しようではありませんか。(Ω)

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