goo blog サービス終了のお知らせ 

朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 5章

2024年04月30日 | 民数記
民数記 5章
イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病
ツァラトにかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。(5・2 新改訳)


なぜ、神は、このような非情なことを命じられるのでしょうか。この箇所のみならず、旧約聖書にはこのような厳しい命令が出てきます。神は、何を意図されているのでしょうか。

まず、抑えておくべきことは、旧約は新約に至るための予表(ひな型)だということです。新約が実際であって、旧約は新約の比喩として理解すべきです。

たとえば、旧約ではイスラエルが異教徒と戦争をします。それが新約の時代に、十字軍のように異教徒を滅ぼす戦争を意味しているのではありません。中世の時代はそう解釈して戦争を正当化しましたが、それは間違った戦争であったと私は考えています。旧約における戦争の記述は、新約における私たちの内なる偶像との闘いであり、闇の世の主権者である悪魔とかサタンと呼ばれる者たちとの闘いを表しています。

さて、話しをもどしましょう。当時のイスラエルは成人男子だけでも60万人規模の大所帯です。しかもテント暮らしです。そんな密集状態で伝染病が発生すれば、枯れ木に火がつくように被害は拡大しました。そういう意味からも、公衆衛生を保つことは重要な課題でした。そのために、厳しいようですが、宿営の外に出すという処置が必要でした。

もうひとつは、民にきよさを教えるためです。とはいえ、この場合、肉体の清さ(衛生的清さ)に重きがおかれていました。漏出の放置、重い皮膚病、死体に触れるといったことは衛生面で問題があります。しかし、死者が出た場合、当然ながら対応しなければなりません。そして、律法の規定通り、水で体をきよめて衛生的な対処をし、きよめの期間を他者と隔離して過ごしました。 ※2015年に西アフリカで発生したエボラ出血熱は、遺体の取り扱いがずさんであったことから大流行となった。

このように、肉体の衛生面でのきよさを通して、さらに霊的なきよさを学ぶように神は意図なさったのです。ここから学ぶべきことは内なる霊魂の清さです。罪から遠ざかる清さです。

新約にいたって、イエス様は、外側(肉体、見た目)はきよめても、それは白く塗られた墓だと指摘なさいました。外側は白く塗られて綺麗だけれど、中身は死に至る罪で満ちている……と。

外側の手は水できよめて食事をしているが、本当に人を汚すものは、口に入るものではなくて、口から出るもの、即ち、罪に満ちた内なる霊魂から出るものが人を汚すのです。

ですから、旧約の人々が、重い皮膚病や漏出の者や死人に触れて汚れた人々を宿営の外に追いやったように、新約の私たちは、日ごとの罪を告白し、私たちの内側から罪を追い出します。

また、罪から離れようとせず、忠告を受け入れようともしない者を、教会の交わりから出さなければなりません。

コリント教会には、姦淫の罪を改めようとしない者がいましたが、その者を除くように命じています。このような悪質な罪を放置しておくなら、パン種がパン全体をふくらませるように、教会全体に悪影響を及ぼすからです(Ⅰコリント5章)

実際にそのような場合は希であろうと思いますが、そうなる前に、互いが愛をもって戒め合い、信徒同士のきよい交わりがなされることが肝心です。


民数記 4章

2024年04月29日 | 民数記
民数記 4章
庭の回りの柱と、その台座、釘、ひも、これらの用具と、その奉仕に使うすべての物である。あなた方は彼らが担う任務のある用具を名指して割り当てなければならない。
(4・32)


先の3章では、幕屋で直接仕え奉仕するためにレビ人が聖別されました。第4章ではその働きの詳細が記録されています。レビ人の各氏族ごと、各自に至るまで働きが及びました。

「幕屋」とはテントでできた神殿のことです。荒野における神殿ですから、一箇所に定住するわけではありません。移動することもあります。そういう時は、分解し手分けして移動しました。第4章には、その分担が記されています。

分担は移動の時だけでなく、日頃の清掃やメンテナンスの分担でもあったと考えられます。ここで注目したいのは、その分担には「契約の箱」の担当からはじまって、冒頭の聖句のように、ひもとか釘1本に至るまで大切にされ、また、それを担当する奉仕者が名指しで割り当てられたことです。

これは新約の教会の姿にも共通しています。釘1本もおろそかにされない神は、教会で仕える聖徒たちの小さな働きさえも覚えておられるのです。

ある人は清掃かもしれません。清掃の中でも、この部屋のこの箇所はいつも気にかけている……という奉仕があるかもしれません。目立たない奉仕もあります。執り成しの祈り、トラクトの配付、手紙を書く、友や病人への訪問……様々です。

それらは〝釘1本ほどの奉仕〟かもしれません。あなたに神が名指しでお与えになった奉仕があります。大切な働きです。あなどることなく、誠実に仕える人は幸いです。


民数記 3章

2024年04月27日 | 民数記
民数記 3章
わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべての初子の代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。
(3・12)


イスラエルの部族の中で「レビ人」は神のものとして取り分けられました。もちろん、大きな意味ではイスラエルの民全体が神のものですが、レビ人は、幕屋で直接神に仕える民として区別されました。

冒頭の聖句の初子とは何を意味するのでしょう。 ※初子とは「初めて生まれた子」のこと。

事の発端は、エジプトを脱出する前夜、あの過越しの事件があったことを思い出してください。その夜、神はエジプト中の初子――人であれ家畜であれ全ての初子――のいのちを奪われました。

エジプト在住のイスラエルも例外ではありません。しかし、彼らは初子の身代わりに小羊を屠っていのちを捧げ、そのしるしに小羊の血を玄関に塗りました。そのことによって、死のさばきはイスラエルの家を過ぎ越して行きました。

本来ならば、イスラエルの初子も死んでいたはずです。しかし、身代わりの死があったので、イスラエルの初子は死ななかったのです。 ※これは、やがてイエス・キリストが人類の身代わりに死なれることによって、死のさばきは、イエス・キリストの血を塗られた民を過ぎ越して行くことの預言となっている。

身代わりの小羊が殺されたお陰で死なずに済んだイスラエル人の初子は、神の所有であると宣言なさっているわけです。小羊の血であがない取った神のものだという意味です。とはいえ、全イスラエルの初子を神のものとなさるのではなく、レビ人をその初子の代わりに神のものとなさると冒頭の聖句は宣言しているわけです。

イエス・キリストの死は全ての人類の死の身代わりです。でも、イエス様が私の代わりに死んでくださったので、「あぁ~やれやれ、あとは自分の好きなように生きよう」というのでしょうか。神がレビ人を初子の代わりに取られたように、イエスを信じる民を、全人類の初子として神のものとなさったのです。

こうして、神に仕え、神に奉仕する者として、彼らを区別なさったのです。神の選びと働きに召された者は幸いです。


民数記 2章

2024年04月26日 | 民数記
民数記 2章
イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。
(2・2)


荒野におけるイスラエルの人々の宿営地は、各部族ごと、各父祖ごとに整然と並んでいました。興味のある方は、民数記の記述をもとに図を書いてご覧になると明確です。

さて、おのおのの宿営地はすべてが幕屋に向かっていました。

幕屋とは、神が住まわれる所です。正確には「神の御名」が置かれている所です。神の御名がある所……それは、神が臨在なさる所と言っても間違いではありません。

こうして人々は幕屋を中心に生活したのです。

私たちの生活の中心はどこにあるりますか。職場やビジネスですか。家庭での家事や育児ですか。もちろん、そのために多くの時間を費やしますが、だからといって、それが中心ではありません。

神を礼拝すべく幕屋、「祈りの家」と唱えられる幕屋が中心です。それは神への礼拝です。もちろん、多くの時間は仕事や家事や子育てに費やしていますが、中心は「神への礼拝」です。

この中心をずらしてはなりません。この中心……つまりフォーカスをずらしてはなりません。フォーカスをずらすとピンぼけの写真のように、何が写っているのか分からないような人生です。礼拝を疎かにして、ピンボケ人生になってはいけません。

イスラエルの人々が幕屋を中心に宿営したように、新約の私たちは神への礼拝を中心に据えよう。


民数記 1章

2024年04月25日 | 民数記
民数記 1章
イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。
(1・3)


「民数記」とは読んで字のごとく、民の数を数えたことから名づけられた書名です。

先の出エジプト記は幕屋が完成した時点で終わっていました。時は、エジプトを出立して1年が経過していました。こう記されています。「第2年の正月になって、その月の元日に幕屋は建った」(出40・17)

そして民数記はエジプトの国を出た次の年の2月1日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋でモーセに言われた(民1・1)とあるので、幕屋完成から1ヶ月後以降の記録です。

幕屋が完成し、律法が与えられ、生活の諸規定が定められ、いよいよ約束の地へ向かって旅を進めるわけですが、そこで神は、冒頭の聖句のように兵役に就くことのできる20歳以上の男子を数えるように命じられました。約束の地への旅には幾多の戦いがあり、その備えをするためです。

これは新約の私たちにとって何を意味しているのでしょうか。

イスラエルの民が約束の地に向かって旅をすることは、新約の私たちが天の御国に向かって地上生涯を生きることの予表なのですが、民数記の記事を根拠にクリスチャンたちによる軍隊を編成するという意味ではありません。

新約の私たちの闘いは霊的な闘いです。聖書はこう記しています。

「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6・12)

イスラエルの民の行く手を異教徒たちが阻んだように、新約の私たちの旅路を妨害するのは、闇の世の主権者である悪魔やその手下たちです。

ですから、救いの兜をかぶり、正義の胸当てをつけて、御言の剣をとって戦うようにと命令しています。悪魔を恐れてはいけませんが、しかし、あなどってもなりません。

私たちはその戦いの用意ができているでしょうか。20歳以上の男――新約では男女の区別はない――に数えられる成長をなしているだろうか。主の闘いのために間に合うものとなれるよう祈ろう。


レビ記 27章

2024年04月24日 | レビ記
レビ記 27章
地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。
(27・30)


天地万物は神が創造なさいました。しかも、御子のために創造なさったのであり(コロサイ1・16)、御子が相続者であると聖書は宣言しています(ヘブル1・2)

ただ、私たちは預かっているに過ぎません。預かっているという謙虚さを失う時、私たちは自分の持ち物によって誇ってみたり、他者を見くだすのです。愚かなことです。

預かっているのですから、やがて、それは神にお返しする時が来ます。

主人からタラントを預かったしもべたちの話をご存知でしょう。主人はしもべたちにタラントを預けて旅に出かけ、「だいぶ時を経てから、精算するために戻って来られた」とあります。

残念ながら、随分と時を経るうちに、預かったものを、さも自分のものであるかのように思い込み、高ぶるのです。精算する時が来るのを忘れてしまうのです。だから、すべては神のものであることを忘れてはなりません。

レビ記で神は、すべての十分の一はわたしものだと宣言なさっています。すべてが神のものだと主張なさってもよいのですが、十分の一は神のものであって、それを献げるようにと言われるのです。神の所有権を忘れないために献げるのです。

キリスト教会でも十分の一献金をお勧めする根拠です。それは、万物の主権は神にあり、神のものを預かっているのに過ぎないことを告白し、感謝し、謙遜に生きる道だと言えるでしょう。


レビ記 26章

2024年04月23日 | レビ記
レビ記 26章
彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。
(26・44)


数々の規定が述べられて後、26章にいたって「わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば」(26・14)とあるように、違反した場合の罰則について語られています。

「七倍重く」「七倍の災い」等々、「七倍」という語彙が神の怒りの厳しさをあらわしています。

それはイスラエルの民を懲らしめるためであると言われます。18節の七倍も重く懲らしめる(新改訳)のは、民を訓練し、彼らの中に根深く残る高慢を打ち砕くためです。わたしはさらに、あなた方の力を頼む高慢を打ち砕き(19)と言われるように、神の懲らしめは、私たちの高慢を打ち砕くためです。

とはいえ、訓練は楽しくはありません。逃げ出したくなります。ずるをして避けたいものです。しかし、神は、イスラエルの民を厳しく取り扱われました。彼らの歴史がそれを物語っています。

では、神は、イスラエルを見捨てられるのでしょうか。いいえ、どんなに神の厳しい御怒りが臨もうとも、神はご自分の民をお見捨てになりません。それは、神の御名によって契約を結ばれたからだと、主は言われます。イスラエルの民が他国に追いやられようとも、敵が彼らを忌み嫌おうとも、神は、ご自分の民を断ち滅ぼさず、ご自身の契約を忘れることはないと、冒頭の聖句でも宣言なさっています。アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約を思い起こすのだと、何度も語られています。

聖書の神は「契約の神」です。契約は破られるためにあるなどとうそぶく人もいます。それは罪人の不誠実な言葉です。確かに、私たち人間は誠実をつらぬことのできない弱さを持っています。

しかし、神は真実なお方です。何をもって真実というのでしょうか。それは、神の御名によってなされた契約(約束)を、決して、ご自分の方から破られることがないという誠実です。

イエスの名によってバプテスマを受け、神との契約の中にある者は何と幸いないことでしょう。しかし、それは、恐ろしいことでもあります。神は、契約ゆえに私たちを子としての訓練もなさるからです。

でも、大丈夫です。神は真実で、誠実なお方だからです。信頼すべきお方だからです。


レビ記 25章

2024年04月22日 | レビ記
レビ記 25章
七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。(25・4)

神は6日間で天地を創造し7日目を安息日と定められました。6日間働いて、7日目はまったき休みの日として命じられました。人間には必ず休息の日がなければなりません。

それと同じように、土地に関して安息年が命じられています。7年目は土地を休ませよと言われるのです。

一般的にも連作は土地を痩せさせます。私の子どもの頃、実家でスイカを栽培していましたが、スイカ畑は毎年別な畑でした。父に理由を聞くと、スイカは稲作以上に土地の養分を吸収するので、同じ畑では駄目なのだと教えてくれました。休ませた田はレンゲが植えられ、レンゲの養分でその畑を肥やすようにしていました。

人には、そしてこの世界にも、「安息」が必要です。しかし、安息など必要がないと言わんばかりに、人間も世界も神の命令を無視して、富を獲得するために働きます。

安息なんかしていたら、追い抜かれてしまう。安息なんかしていたら、収入が減ってしまう。そんな恐れに急き立てられて、神が定められた安息の法則を無視しています。

果たしてそうでしょうか。出エジプト後の荒野の旅において、神は天からマナを降らせて民を養われましたが、6日間はマナが降ったのですが、7日目の安息日には降りませんでした。だから、安息日はマナを収穫する作業を休みました。

しかし、安息日は何も食べなかったのではありませんでした。前日の第6日目に2日分のマナを降らせてくださったのです。

では、安息年の場合はどうでしょうか。土地を休ませるのであれば、その1年間の収穫はありません。でも、神はこう言われます。わたしは命じて6年目に、あなた方に祝福をくだし、3年分の産物を実らせるであろう(25・21)

3年分の収穫の内の1年分は安息年の分です。そして、もう1年分は翌年に蒔くための種としての収穫です。神の深い配慮が記されています。

安息日も安息年も共に言えることは、神が養っておられるということです。安息を無視して働くことのできる健康はどこから来ますか。それは、いのちの源である神が与えてくださるのです。

私たちは安息することによって、すべての根源は創造主なる神だと体験し、そのお方を礼拝します。毎週、この基本を体にも霊魂にも染みこませます。これを忘れたら、自分は何でもできるという傲慢によって滅びます。

レビ記25章では、その安息年の7巡目の翌年(7×7+1)の50年目はヨベルの年として定め、すべての負債を帳消しして、他者に渡った土地も元の持ち主に戻します。また、奴隷となった民も解放しなければなりません。

これも、安息日や安息年と共通して言えることは、すべてが神の所有だということです。神が人に労働する健康を与え、神が植物を実らせ、神が大地にいのちの活力を与えたのです。

それを忘れて、私たちは自分が獲得したものは自分のものだと思い込んでいます。しかし、本当の所有者は神です。私たちは一時的に神からあずかっているだけです。このことを忘れるなら、人は傲慢ゆえに滅びます。

今の社会は少しでも多くの富を得ようと乱獲し、土地も人もやせ衰えています。地球全体が悲鳴を上げるかのように、自然災害が頻発しています。より大きなエネルギーを得ようと、核の分野にまで手を伸ばし、その圧倒的なエネルギーを制御しきれず、大変な事態を招いています。

こんな時こそ安息し、すべての源である神の御前にひれ伏し、謙遜になり、礼拝する……そんな、人間本来の姿を取り戻さなければなりません。
 


レビ記 24章

2024年04月20日 | レビ記
レビ記 24章
オリブを砕いて採った純粋の油を、灯火のためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えず灯火をととのえさせなさい。
(24・2)


幕屋(神殿)で消してはならない火がふたつありました。ひとつは、既に見てきたように6章に記された祭壇の火でした。そして、もうひとつは、この24章に記された聖所の火です。

イエス様があなた方は世の光であると言われたように、私たちは神の聖霊が住まわれる神殿として、私たちの内なる火を消してはなりません。世の人々が私たちを見る時、そこに希望の光を見ることになるのだ、と主は言われたのです。罪の暗やみを照らし出すきよい光を見ることになるのだと……。

順境の時も逆境の時も、その先の永遠のいのちの希望に輝いている時、それは世の光となります。罪を悔い改め、罪に勝利する姿……それは、世の暗やみを照らす光となります。

このような光を照らし出すために、神は、オリーブ油を用意するように命じられます。しかも、純粋なオリーブ油です。

冒頭の聖句にオリーブを砕いて採取した純粋の油とあるように、オリーブの実を砕いて笊に入れておくことによって、自然と流れてくる油のことです。それが純粋な油のことです。 ※新改訳聖書では「質の良い純粋な油」と翻訳。具体的には「砕いて流れ出た油」のこと。口語訳聖書・新共同訳聖書を参照。

純粋な油が流れ出た後、さらにその実を圧搾すると次の段階の油をとることができます。しかし、聖所で使う油は、圧搾して得た油ではなく、砕かれた状態で流れ出る最初の油です。

単に火を灯すのであれば、最初の純粋の油だろうが、圧搾して得た油だろうが問題ありません。でも、神は、それを区別なさいます。

時として私たちは「世の光」であろうとして、肉なる熱心さで灯そうとします。不純な動機で、表面的な明るさだけで、世の光であろうとします。しかし、それは、純粋の油による灯火ではありません。

オリーブの実が〝砕かれた状態で流れ出る油〟だと指摘されているように、私たちの悔いし砕かれし霊魂から流れ出る油です。それは、私たちの内なる霊、聖霊によってきよめられた霊が燃やされるのです。

大切なことは、私たちが神の御前に悔いし砕かれし霊魂であることです。肉の力、我力、虚栄心によって灯す光ではありません。


レビ記 23章

2024年04月19日 | レビ記
レビ記 23章
その時々に、あなた方が、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。
(23・4)


神は毎年祝うべき「祭」を定められました。この祭は「例祭」とか「聖なる集会」「聖会」とも呼ばれています。全部で7つの祭があります。結論から申し上げます。これらの祭は、キリストにある救いの預言となっています。 ※このような預言を〝予型〟という。

(1)過越しの祭(5)

すでに出エジプト記12章で詳しく見てきました。第1月の14日に過越しの出来事があり、それを機にイスラエルはエジプトの奴隷から解放され、荒野へ旅立ちました。そのことを記念して毎年、過越祭を祝います。

やがて、この過越祭の日にイエス・キリストは十字架で死なれ、罪のゆるしをなしとげ、人類を罪の奴隷から解放し、私たちを天国への旅人として導き出されました。

(2)除酵祭種なしパンの祭
(6~8)


過越祭から7日間を祝う祭です。出エジプトした民は急いで出立したので、パンにパン種(酵母菌)を入れることができず、種なしパンを食して旅をしました。そのことを覚える祭です。

このパン種はを象徴しており、やがて、イエス・キリストによって罪を取り除かれたことを祝うことの預言となっています。

(3)初穂の祭(9~14)

この祭の日付けは決まっていません。過越祭の後の最初の安息日(土曜日)の翌日となっています。つまり、必ず日曜日になるわけです。

過越祭は毎年1月14日で固定されていますが、曜日は異なります。ですから、初穂の祭は過越祭から数えて翌日から7日後にまで変動するわけです。

さて、この初穂の祭は大麦の刈り取り時期に当っており、大麦の初穂を神に献げる祭です。実は、イエス・キリストが復活された日は、この初穂の祭の日でした。ですから日曜日です。

しかも、その年の過越祭が金曜日でしたから、直近の安息日の翌日……つまり、3日目がその年の初穂の祭でした。キリストは死んで3日目に復活するという聖書の預言は、このような日程の年でなければ成就しなかったのです。このことは、イエスこそまことのキリストであり、神の預言通りに来られたお方であることに確信を与えます。

初穂の祭は「初穂」ですから、その後次々に穂が出てくることを意味しています。イエス・キリストが初穂としての復活を成し遂げられ、イエスを信じる人々が次々に復活を体験するようになるのです。

(4)五旬節の祭刈り入れの祭
(15~22)


先の初穂の祭は大麦の刈り入れ時期の祭でしたが、1ヶ月ほど後には小麦の刈り入れ時期にあたります。初穂の祭から50日目に祝います。10日を単位にしているので五旬節と呼びます。

この祭の日に聖霊がイエスの弟子たちに降りました。新約では聖霊降臨祭と呼ばれる日のことです。

過越しの日にイスラエルがエジプトを出立して、シナイ山に到達した頃が、日数でいえば五旬節の頃に相当します。このシナイ山でモーセを通して人々は律法を授かったわけです。

ですから、イスラエルの民はこの五旬節の祭で小麦の刈り入れを祝うと共に、律法を授かった感謝の祭としても祝いました。

そんな五旬節の祭に、新約の人々は聖霊を授かったのです。旧約の民は律法を基準にして荒野を旅しましたが、新約の私たちは、文字による律法ではなく、聖霊が私たちの心に書き記してくださる御言を基準に旅立ちます。

残りの祭は、夏をはさんで秋の祭になります。

(5)ラッパ祭、(6)贖罪の日、(7)仮庵の祭です。

イエス様が再臨なさる時、天の御使のラッパが鳴り響くと預言されていることからも(Ⅰテサ4・16)、後半の三つの祭は、再臨のイエス様によって成就して行く事と考えられます。それは別の機会に取り上げることにします。


レビ記 22章

2024年04月18日 | レビ記
レビ記 22章
あなた方の神となるために、あなた方をエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である。
(22・33)


祭司職に関する命令が語られてきたのですが、この聖句は、その結びの言葉です。

これから長きにわたり代々この祭司職は受けつがれて行きます。伝統として受けつがれることは大切なことですが、一方で形骸化、形式化して行く危険性も持ち合わせています。

3節に「あなた方の代々の子孫のうち、だれでも…」と述べられていることからしても、その危険を先取りして、神はこの命令を語っておられることが分かります。

祭司職は職業ではない。自分の生活を保つための手段ではない。主である神がどういうお方であるかを語り、教え、あらわして行く使命なのです。この使命を忘れてしまうと、祭司職は形骸化して行きます。

祭司はレビ族の者でした。このレビ族は、約束の地に入ってのち、土地としての嗣業、つまり物質的な割り当ては与えられませんでした。彼らの嗣業は神への奉仕でした。

もちろん、私たちはこの地上にあって食べて行かなければなりません。仕事もします。お金も必要です。人間としての営みがあります。

しかし、忘れてはならないことがあります。22章で祭司たちに命じらているように、私たちの主は「私たちを罪の奴隷であるエジプトの地から導き出されたキリスト」であることです。いわば神の民のルーツです。これをしっかりと押さえておかないと、祭司職は単なる職業になってしまいます。職業ではなく嗣業であるべきです。

このルーツは、自分たちが約束の地である天国を目指して旅する者であるとを表明しています。私たちはこの地上にあっては旅人であり、寄留者であることを忘れてはなりません。

私たちの信仰の先達もそのように生き、あらわしてくれたのです。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」のです(ヘブル11・13)


レビ記 21章

2024年04月17日 | レビ記
レビ記 21章
垂幕に近づいてはならない。また祭壇に近寄ってはならない。身にきずがあるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしはそれを聖別する主である。
(21・23)


21章の前半は祭司についての規定です。神に仕えるべく祭司はきよく身を正していなければならないと命じられています(1~9)

そして後半は、大祭司についての規定です。その求められるきよさ、完全さは、祭司たちより厳しく求められています(10~24)※複数ある祭司たちの代表が大祭司であり、より重要な任務を負った。

大祭司は身に傷のない者でなければならないと規定されています。その「きず」とは、欠陥とか障害とも訳されており、骨折や病気などもない健康体の者でなければならない……と(21・18~21)。そういう者は聖なる場所に近づいてはならないと命じられているわけです。これは障害者差別だ、人権侵害だとクレームがつきそうな記録です。

そうではありません。律法で規定されている大祭司の条件は、やがて本当の大祭司としてこられるキリストの〝予型〟として描かれています。 ※〝予型〟とは形や出来事によって預言すること。

罪のゆるしを得るための「いけにえ」は、最高で完全ないけにえでなければなりません。何しろ、すべての民の罪を負うわけですから……。

まさに、イエスは、罪のない汚れのないいけにえとなってご自身をささげ、ご自身の血を携えて神の前に執り成しの祈りをする大祭司となられました。

イエス様は十字架にかかる前、律法学者らの質問攻めに遭いましたが、完璧に応えられました。また、裁判の席で数々の取り調べを受けるも、罪を見出すことができませんでした。つまり、全人類の罪を引き受けるに足る、〝傷のない〟いけにえであり、それをささげる大祭司であることを証明したわけです。このようなお方だからこそ、私たちは救われたのです。


レビ記 20章

2024年04月16日 | レビ記
レビ記 20章
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
(20・10)


再び姦淫等の罪について語られています。先の18章でも取り上げられましたが、この20章では罪に対する刑罰の規定です。

嬰児をモレクへのいけにえとする罪から始まり、占いなどの偶像礼拝の罪、種々の姦淫の罪などの結果はその者たちは必ず殺されなければならないという恐ろしい刑罰です。

それほどに神は、霊的姦淫である偶像礼拝と、肉体的姦淫を憎まれるのです。

イスラエルが入ろうとしているカナンの人々は、そのような罪に満ち溢れた人々でした。ですから、神は、彼らを憎むと言われ、彼らをそこから追い出し、彼らの悪しき風習に見習うなと言われるのです。

あなた方の前からわたしが追い払う国びとの風習に、あなた方は歩んではならない。彼らは、この諸々のことをしたから、わたしは彼らを憎むのである。(20・23)

さて、姦淫の現場で捕らえられ、イエス様の御前に引き出された婦人も同様でした。彼女を訴えた人々は、このレビ記の規定に従って、この女を石打ちの刑にて殺そうとしました(ヨハネ8・1~11)

かくして悪魔は、私たちの罪を律法に照らし合わせて「殺されなければならない」と訴え出るのです。

このレビ記を学ぶことで私たちは自分の罪をあらわにされ、胸がいたむことでしょう。恐ろしく感じるでしょう。平安な心でレビ記を読むことのできる人はひとりもいません。大なり小なり殺されなければならないという訴えが心の片隅に響くのです

しかし、イエス様は何といわれましたか。

「罪のない者がこの女に石を投げつけるがよい」と。すると、だれも投げつけることはできませんでした。そうです。あなたを責める人はいないのです。私たちを訴える者は、もういないのです。

イエス様は私もあなたを罰しない。もう罪をおかさないようにと宣言なさって、彼女の罪をおゆるしになりました。なぜなら、その罪の結果である死を、イエスは十字架で負われたからです。

たとえ悪魔が訴え出ようとも、神は私たちを義とされるのです。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのであるとある通りです(ローマ8・33)

神は「殺されなければならない」私をゆるし、義としてくださいました。これが新約の恵みです。だから、イエスが彼女に言われたように「今後はもう罪をおかさないように」と語りかけられています。


レビ記 19章

2024年04月15日 | レビ記
レビ記 19章
あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である
(19・18)


主イエス様は律法を「ふたつの命令」に要約なさいました。ひとつは、心を尽くして神を愛することです。レビ記では神へのささげ物を通して、神を愛する道を示しています。

そして、もうひとつは、今日の19章にあるように、自分を愛するように隣人を愛することです。律法は窮屈な教えではありません。目指す所はです。神を愛し、隣人を愛する愛です。

この愛は、聖なる神のご性質です。19章に示された愛のすがたを、7つのポイントにまとめてみました。

(1)弱者への配慮(19・9~10)

全部を収穫してはならない。落ち穂はそのままにしておけ。それは、貧しい人や寄留者のために残しておくべき恵みです。神はあわれみ深いお方で、弱い者や小さい者にも目をかけてくださいます。その心を私たちも隣人に対して持ちます。

(2)正しいさばき(15~16)

「さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を偏ってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない」。情によって正義を曲げてはならず、また、媚びて正義を曲げてもなりません。これも隣人を愛することです。

(3)正しく戒める(16~17)

他者の嫌な面や気にくわないこと、また失敗話などを人々に吹聴して回る人がいます。聖書は「民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない」と禁じています。

それは行商人が商品を売り歩くようにして、他者の悪口を売って歩く行為です。むしろ「心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない」と勧めています。「ねんごろにいさめる」。このさじ加減が難しいのです。でも、これが、自分を愛するように隣人を愛することです。

(4)結実をあせらない(23~25)

「あなた方が、かの地に入って、諸々の果物の木を植える時は、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは3年の間あなた方には、割礼のないものであって、食べてはならない」。

植物に「割礼」がないとは、まだ未成熟であることを意味しています。急いで収穫しようとしないで、4年目の収穫は神に献げ、5年目以降は自分の収穫とすると記されている。

私たちも神の者とされましたが、奉仕の実とか、御霊の実など、クリスチャンとしての収穫を焦ってはなりません。「桃栗3年、柿8年」というではありませんか。愛するとは、あせらないことです。

(5)占いをしてはならない(26)

雑誌でもTVでも、占いコーナーが盛況です。人々は未来を知りたいのです。しかし、未来を知ることは、果たして有益なのでしょうか。自分を愛することになるのでしょうか。

神は何といわれますか。「わたしがあなた方に対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ29・11)

そうです。神は希望の計画をお持ちです。神の御言を信頼すべきです。目先の現実は失望のように見えても、神は「希望を与える計画だ」と言われるのですから、このお方に信頼することこそ有益な生き方です。

(6)体を大切にする(27~31)

「死人のために身を傷つけてはならない」「入れ墨をしてはならない」「娘に売春させてはならない」「占い師と関わりを持ってはならない」等々。これらを総じて「わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である」と言われます。

新約の聖所とは、私たちの体です。聖霊の宮である私の体に入れ墨をしたり、汚れたことに肉体を使ってはならないのです。それが、正しく愛することです。

(7)不正な富を得ない(35~36)

「物差し」「はかり」「升」「てんびん」は、物事を計量する尺度です。正しい計量で取引をするようにと命じられています。つまり、不正のはかりで、不正の富を得てはならないのです。

不正の富はやがて失う富です。不正の富は魅力的ですが、私を裏切る主人です。神と富と両方を主人とすることはできないと言われたイエス様の御言に従うべきです。

不正の富を受け取らず、まことの主人である神に仕える生き方は、正しく愛する姿です。

以上のように自分を正しく愛し、隣人を愛することが、法律の目指すところです。


レビ記 18章

2024年04月13日 | レビ記
レビ記 18章
あなた方の住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。また、わたしがあなた方を導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。
(18・3)


かつてはイスラエルの民はエジプトの奴隷でしたが、今では神の聖なる民とされました。過越しの小羊のいのちをもって、神が買い戻されたのです。  ※この「買い戻すこと」を「贖う」という。

ですから、もはやイスラエルの民はエジプトに属する者ではありません。

だからエジプトの習慣に見習ってはならないと主は言われます。神の民としての新しい習慣、新しい価値観、新しい生き方があるのです。それは、新約の私たちにとっても同じです。

かつての奴隷の地エジプト。これから後に入ろうとするカナンの地。そこは先住民によって、神の忌み嫌われる習慣が満ちていました。その習慣とは性的悪習慣です。

神は「性」を「聖」なるものと定められました。性の乱れは、聖の乱れと表裏一体です。

人はまことの神である主だけを礼拝すべきであって、主以外のものを礼拝することは霊的な姦淫です。それを教えるために、神は、人が妻以外(夫以外)の者と関係を結ぶことを禁じられました。

それは姦淫であって夫婦の関係を破壊するように、霊的姦淫である偶像礼拝は、まことの神との交わりを汚し、破壊するものです。つまり、偶像礼拝の禁止と姦淫の禁止とは表裏一体です。

18章で述べられている近親相姦とか獣姦は、エジプトでも、これから入るカナンの地でも日常茶飯事でした。神は、このような悪習慣を見習ってはならないと厳しく戒めておられます。

その中でモレクへ子をささげてはならないとあるのは、唐突なようですが、実は深い関連があるのです。こう記されています。

あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である(18・21 新改訳)

近親相姦によって沢山の望まれない嬰児が生まれることになります。そこで、その嬰児を、モレク神へのいけにえとして火に焼いたのです。性欲の実を、「モレク神への献げ物だと神秘化してごまかしているだけです何とおぞましいことでしょう。

これは昔の話でしょうか。いいえ、今も性の堕落によって身ごもった胎児を、まるでモレクへのいけにえのようにして中絶している現実があります。日本だけでも年間、約16万人以上のいのちが奪われています。1日あたり450人です。

昔も今も、神の聖なることを汚す者は、性を汚し、生を侮るのです。

そのような人々はこれらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すと神は言われるのです(18・24~25)

私たちは神に属する者です。天国々籍の者たちです。この世の悪習慣に見習ってはなりません。性においても、生においても、聖なる者であるようにと地に遣わされている者です。