歴代志下12:8 これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである。
南ユダの王レハベアムの治世の第5年に、エジプトの王シシャクは大群を率いてユダに攻め上ってきました。ユダは苦戦を強いられ、次々と前線は破られて行きました。
その時、主は預言者シマヤを通して語られました。「あなた方はわたしを捨てたので、わたしもあなた方を捨ててシシャクに渡した」と(12:5)。
主がご覧になるに、レハベアムは主を捨てたというのです。どのようにして〝主を捨てた〟のでしょうか。歴代志はこう記しています。「レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった」(12:1)。
「主のおきて」とは「律法」のことです。律法とは「神の御言」です。神を捨てるとは、神の御言を捨てることを意味します。
神の御言を捨てることは人として致命的です。アダムはエデンの園において、「善悪を知る木の実を取って食べてはならない」という神の御言を捨てて、「食べても死にません。神のようになれのだ」という悪魔の言葉に従いました。
イスラエルの王サウルもそうでした。彼は、敵を聖絶せよという神の御言に従わず、自分がよいと思うことを主張して譲りませんでした。そのサウルに対して、「あなたが主の御言を捨てたので、主もあなたを捨てて、王の位から退けられた」と語られました(サムエル上15:23)。
この罪人の流れはレハベアムに、そして、すべての人の中に流れています。
だから、イエス・キリストは、「わたしの御言にとどまっていなさい」と言われたのです。また、「わたしの御言にとどまっているなら、あなた方は本当の弟子なのだ」とも言われました。
さて、レハベアム王は、この神の警告を受けて悔い改めました。しかし、神は、ユダ王国を滅ぼしはなさいませんでしたが、エジプトの属国となるように導かれました。
何故そうなさったのでしょうか。
今日の冒頭の御言が示すように、「これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである」と言われるのです。
神を信じるとは、神に従うことです。でも、人はそれを窮屈に感じて、神の支配から逃れようとします。丁度、父から財産わけをしてもらった弟息子が、遠い町に出ていったしまった例え話に似ています。
でも、この弟息子は自由になれたのではありませんでした。むしろ、彼は世俗や快楽の奴隷となって自由を失ったのです。彼は、富にもてあそばれ、財産を湯水のように使い果たし放蕩の限りを尽くしました。
こうして、弟息子は世の富と欲望を主人としてこれに仕え、苦しみを味わったのです。父親が彼に財産をわけ、旅に出ることをゆるしたのは、富と快楽を主人として生きることの虚しさを知らせるためでした。
父親に仕えることは厳しいこともあるでしょうが、真実に愛してくれる父のもとで生きることの幸いと、富と快楽のもとで仕えることとの違いを知らせるために、時としてそのような荒療治もなさるのです。
レハベアムの場合も、神は彼を愛し、また南ユダの人々を愛するがゆえに、エジプトの手に渡されたのです。それは、悔い改めて主に立ち帰るためです。神の愛と厳しさを知ろう。(Ω)

