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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

歴代志下 12章

2018年05月31日 | 歴代志

歴代志下12:8  これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである。


南ユダの王レハベアムの治世の第5年に、エジプトの王シシャクは大群を率いてユダに攻め上ってきました。ユダは苦戦を強いられ、次々と前線は破られて行きました。

その時、主は預言者シマヤを通して語られました。「あなた方はわたしを捨てたので、わたしもあなた方を捨ててシシャクに渡した」と(12:5)

主がご覧になるに、レハベアムは主を捨てたというのです。どのようにして主を捨てた〟のでしょうか。歴代志はこう記しています。「レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった」(12:1)

「主のおきて」とは「律法」のことです。律法とは「神の御言」です。神を捨てるとは、神の御言を捨てることを意味します。

神の御言を捨てることは人として致命的です。アダムはエデンの園において、「善悪を知る木の実を取って食べてはならない」という神の御言を捨てて、「食べても死にません。神のようになれのだ」という悪魔の言葉に従いました。

イスラエルの王サウルもそうでした。彼は、敵を聖絶せよという神の御言に従わず、自分がよいと思うことを主張して譲りませんでした。そのサウルに対して、「あなたが主の御言を捨てたので、主もあなたを捨てて、王の位から退けられた」と語られました(サムエル上15:23)

この罪人の流れはレハベアムに、そして、すべての人の中に流れています

だから、イエス・キリストは、「わたしの御言にとどまっていなさい」と言われたのです。また、「わたしの御言にとどまっているなら、あなた方は本当の弟子なのだ」とも言われました。

さて、レハベアム王は、この神の警告を受けて悔い改めました。しかし、神は、ユダ王国を滅ぼしはなさいませんでしたが、エジプトの属国となるように導かれました。

何故そうなさったのでしょうか。

今日の冒頭の御言が示すように、「これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである」と言われるのです。

神を信じるとは、神に従うことです。でも、人はそれを窮屈に感じて、神の支配から逃れようとします。丁度、父から財産わけをしてもらった弟息子が、遠い町に出ていったしまった例え話に似ています。

でも、この弟息子は自由になれたのではありませんでした。むしろ、彼は世俗や快楽の奴隷となって自由を失ったのです。彼は、富にもてあそばれ、財産を湯水のように使い果たし放蕩の限りを尽くしました。

こうして、弟息子は世の富と欲望を主人としてこれに仕え、苦しみを味わったのです。父親が彼に財産をわけ、旅に出ることをゆるしたのは、富と快楽を主人として生きることの虚しさを知らせるためでした。

父親に仕えることは厳しいこともあるでしょうが、真実に愛してくれる父のもとで生きることの幸いと、富と快楽のもとで仕えることとの違いを知らせるために、時としてそのような荒療治もなさるのです。

レハベアムの場合も、神は彼を愛し、また南ユダの人々を愛するがゆえに、エジプトの手に渡されたのです。それは、悔い改めて主に立ち帰るためです。神の愛と厳しさを知ろう。(Ω)

歴代志下 11章

2018年05月30日 | 歴代志

歴代志下11:4 主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなた方の兄弟たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるように仕向けたのだから。(新改訳)


ヤラベアム率いる北王国が分離独立をするや、南の王レハベアムは南北統一のために戦うべく出兵しました。しかし、神の御告げが預言者シマヤによって語られました。冒頭の御言の通りです。

南北分裂は神が仕向けられたことだと言われるのです。

実は、歴代志には記録されていないのですが、列王紀には分裂に至った経緯が詳しく述べられています(列王紀上11章)。要約するなら、晩年のソロモンが偶像礼拝に傾斜していったこと度々の警告にもかかわらず悔い改めなかったので、ヤラベアムを用いて分裂に至らしめた……ということです。

自己正義に立って戦い挑む前に、こうなった経緯を考えよというのが、ヤラベアムに対する神の御心です。

人は自己正義に立つとものごとを冷静に見ることができなくなります。この時のレハベアムもそうだったのでしょう。我が父ソロモンに敵対しエジプトに亡命したあげく、父亡き後に恩を仇で返すように独立するとは……憎きレハベアム!!っといったところでしょうか。

この分裂騒動で北イスラエルに分散していたレビ人たちは、神殿のあるエルサレムに終結しました(11:13-14)。こうして、神の奉仕者たちが都に集中することによって、南ユダの宗教事情は補強されました。

方や、北イスラエルでは御心に反した神殿造営や資格のない祭司職制度、偶像との混合宗教へと変質して行きました。信仰の本流を南ユダに集中させようとの神のご計画だったのではとも考えられます。

しかし、そのような神の御心を悟るどころか、南の王レハベアムは父ソロモンと同じ道をたどって行きました。妻18人、側室60人という大所帯をかまえると共に、偶像礼拝を根絶できませんでした。(Ω)

歴代志下 10章

2018年05月29日 | 歴代志

歴代志下10:8 しかし彼は長老たちが与えた勧めをすてて、自分と一緒に大きくなって自分に仕えている若者たちに相談した。


ソロモン王の死後、その子レハベアム(レハブアム)が王位に就いたのを機会に、ソロモン時代の重税路線に苦しんできた人々から変革の声があがりました。

彼らはイスラエル12部族うちの10部族からなる人々で、かつてソロモンに敵対してエジプトに亡命していたヤラベアム……レハベアム(ソロモンの子)とは別人……を担ぎ出し変革を迫ったのです。

この事態に、ソロモンの子レハベアム王は如何に対処したのでしょうか。

彼はまず、父ソロモンの時代からの長老たちに相談しました。長老たちは、重税路線をやめるよう提言しました。長老たちは、民が疲弊していることを気付きながらも、ソロモン時代には言えなかったが、レハベアムの代になってようやく言える機運になったのでしょう。

しかし、若き王レハベアムは長老たちの意見を捨てて、自分と共に育ってきた若者たちの意見に従いました。この若者たちは、重税派の者たちです。ソロモン王の庇護のもとにぬくぬくと育ってきた若者たちに、民の苦しみは理解できなかったのです。

レハベアムは、意見を聞くと称しながら結局は自分に都合のよい意見を求めたのです。

「売り家と書く三代目」といわれますが、いつの時代もいずれの国でも同じことがくり返されています。

創業者といえる初代の王ダビデ。初代はたたき上げです。苦労して事業を立ち上げます。その土台を引き継いで拡大路線を進んだのが二代目の王ソロモン。そして、その豊かさの中で甘やかされて育った三代目がレハベアム

しかし、三代目になって王国は分裂。亡命先から戻ったヤラベアムを王とする「北イスラエル王国」と、ダビデ~ソロモン~レハベアムの流れを汲む「南ユダ王国」の南北朝時代の始まりです。

長老の提言を聞いていれば……。いいえ、それ以上にレハベアムは主なる神に祈り求めたのでしょうか。(Ω)

歴代志下 9章

2018年05月28日 | 歴代志
歴代志下9:13 さて1年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は666タラントであった。
 
ソロモン王の知恵と名声は当時の世界に知れ渡りました。その繁栄をひと目見ようと、多くの来訪者があったと聖書は告げています。その中にシバの女王の訪問も記録されています(9:1-9)
 
ソロモン時代の繁栄はイスラエルの歴史で最高の栄華でした。しかし、この後のイスラエルは、物質的な富の空しさを証しするようにして衰退して行きます。
 
冒頭の聖句が示すように、当時の歳入は膨大な金額でした。年間666タラントの金が入ってきたというのです。
 
1タラントは約34㎏に相当します。金価格は計算しやすいように5,000円/㎎として1㎏で500万円。34㎏つまり1タラントで約1億7000万円。666タランで総額1,132億円の歳入といったところでしょうか。何ともスケールの大きな話しです。
 
旧約の時代、神は物質的な富をもって祝福をお示しになりました。しかし、神が物質的な富を通して啓示なさりたかった事は、天における祝福であり繁栄のことです。
 
ですから、これほどの富を得たソロモンでしたが次のように告白しています。
 
空の空、いっさいは空である(伝道1:2)
 
また、彼はその富をもってありとあらゆる事を経験してみました。物欲、食欲、性欲など欲するところを満たしてみました。その記録が「伝道の書」の2章に詳しく記録されています。
 
そして、その結論は……、
 
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何ひとつ益になるものはない。(伝道2:11)
 
彼は真の豊かさとは何かと問うたのです。それは、神にある交わり、霊的豊かさにあることを告白して「伝道の書」を閉じています。
 
彼が毎年得た金の目方が「666」タラントであった。という記録は、文字通りの数値であったのか。その真偽のほどは分かりませんが、その数字の示すところは興味深いものがあります。
 
聖書では「7」が完全数、聖なる数として用いられています。ですから「6」は不完全を意味する数字として用いられます。
 
ヨハネの黙示録には反キリスト(獣とも呼ばれる)という人物が登場し、彼は神に刃向かう権力者として描かれていますが、「彼を恐れるな。彼の数字は666である」と記されています(黙13:18)彼は神のように振る舞うけれど神ではない。そのことを示すために「666」と描かれているのです。
 
ですから、ソロモンが手にした莫大な富も、天にある本物の豊かさからすれば取るに足りない富であるということから「666タラント」と記されているのかもしれません。
 
どうか、私たちの目も心も、本当の宝が蓄えてある天に向きますように……と祈ります。(Ω)

歴代志下 8章

2018年05月26日 | 歴代志

歴代志下8:11 ソロモンはパロの娘をダビデの町から連れ上って、彼女のために建てた家に入れて言った、「主の箱を迎えた所は神聖であるから、わたしの妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない」。


歴代志は、先の列王紀のように王の働きについて詳しく述べていません。王が中心ではなく、神殿が中心に描かれているからです。ソロモンの場合も例外に漏れず、彼の業績についてはわずかな紙面を割いているだけです。

その中で、ソロモンが律法および父ダビデの命令に従って礼拝を尊重し、各種の献げ物、安息日、季節ごとの祭を律法に従って成し遂げたことが記録されています(8:12-15)

そして、主の宮は「完成」した……と歴代志は述べています(8:16)。新改訳聖書は「主の宮は完全であった」と翻訳しているのですが、ソロモンが建てた神殿も礼拝も完全であったのとのは対照的に、この時すでに小さなほころびが生じていました。

それは、エジプトの王パロの娘を妻に迎えた事にあります。

イスラエル王国の安泰のための政略結婚という意味合いもあったのでしょうが、それにしてもパロの娘との結婚が、イスラエルに偶像礼拝をもたらすことになったことは見逃すわけには行きません。

そのことにソロモンも注意深くあったようで、彼女をダビデの町には住まわせませんでした。今日の冒頭の聖句が示すとおりです。

信仰による国作りも大事だが、大国エジプトの外交交渉もおろそかにはできない……。両方を上手くやろうとするあまり、ジレンマを抱えることになったのでしょう。

しかし、「神と富と両方を主人にすることは出来ない。一方を尊べばもう一方を疎んじることになる」と言われた主イエスの御言に耳を傾けなければなりません。

両方バランスよく両立させたい。そうできるものなら願ってもないことですが、そんな欲張りから、信仰のほころびが生じます。

信仰を第一とするあまり、世的にはうまく行かなかいことも時にはあります。だからといって主イエスを恨んだり、イエス様から離れるのではなく、困難な現実を引き受ける「いさぎよさ」を持ちたいものです。(Ω)

歴代志下 7章

2018年05月25日 | 歴代志

歴代志下7:20 わたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨てて、もろもろの民のうちにことわざとし、笑い草とする。


神殿奉献にあたりソロモンは渾身の祈りをささげました。その祈りに応答するかのように、天から火がくだって、いけにえの燔祭を焼きつくしたのです。こう記されています。

ソロモンが祈り終ったとき、天から火が下って燔祭と犠牲を焼き、主の栄光が宮に満ちた(7:1)

丁度、新約にいたっては、イエス様の弟子たちが祈っているとき、聖霊が火の炎のようにして彼らに降りました。そのようにして、神は、私たちの祈りに応答して聖霊を賜るのです。

さて、その後、神はソロモンに語られました。それは神殿に関わる約束です。神が、ご自分の名が置かれている神殿に、いつも目を開き、耳を傾けて、心を注いでおられます(7:15-16)

ですから、悔い改めて神に立ち帰り、この神殿で祈り求めるなら、神は私たちをゆるし、いやしてくださると約束なさっています。

「わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。(7:14)

神は恵み深くあわれみ深いお方です。そして、いつも、私たちが悔い改めて神に立ち帰ることを願っておられるお方です。しかし、その恵みの約束さえも無視して、神殿を汚すようなら、神は御怒りを下されます。冒頭の聖句はそのことを語っています。

こんなに大切な神殿さえも、神は容赦なく投げ捨ててしまうと言われるのです。

後のイスラエルは神の御言に反して偶像礼拝に傾斜して行くのですが、人々は神殿のある都エルサレムが滅びるはずがないと高をくくっていました。ところが、遂に神はバビロン軍を用いて都を滅ぼし、神殿を投げ捨ててしまわれました。これがバビロン捕囚の事件です。

新約に生きる私たちはどうでしょうか。私たちは聖霊の宮と呼ばれています。つまり、私たち自身が「イエス」という神の御名が置かれ、聖霊が宿っておられる神殿なのです。

私はイエスを信じているから不摂生をしても病気にもならない。事業も成功すると高をくくるような生き方をしてはなりません。聖書はこう教えています。

あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなた方はその宮なのだからである。(Ⅰコリント3:16-17)

宮を破壊し投げ捨ててしまう事態になる前に、神は、私たちが悔い改めるようにと慈しみ深く願っておられます。

先の約束……「もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす」と言われた神のあわれみを信頼して祈ろう。(Ω)

歴代志下 6章

2018年05月24日 | 歴代志
歴代志下6:18 しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。私の建てたこの家などなおさらです。

神殿を奉献したソロモンは民を代表して祈りました。

ソロモンは、天来の知恵によって、この神殿に神が直接住まわれるのではないことを悟っていました。神は偉大な方です。だから、「天もいと高き天も神をお入れすることはできない」と祈りました。 ※「いと高き天」は新改訳では「天の天」と翻訳。

「天」とは、空 (sky) とか宇宙空間(space)のことです。宇宙がどれほど広大な空間でしょうか。しかし、そこにお入れすることができないほど、神は大きく偉大なお方です。

次の「いと高き天」とは、霊界の天(Heaven)のことです。宇宙がいかに広大であっても有限の世界です。しかし、霊界の天はもっと広大です。……といっても、物質界のspaceと霊界のHeavenを物理的に比較することはできませんが……。

そのようなHeaven(天)にもお入れすることができないほど、神は偉大なお方です。

えっ、神は天にお住みではないのですか?。そうです。正確には、神は、ご自分の住む場所として天を創造なさったのではありません。住む場所がなければ、存在できない神であれば、真の神ではありません。

神は「自存者」なるお方です。自ら存在なさる神であって、何かに依存して存在なさるお方ではありません。かつてモーセに対して、神は、「わたしは〝あってあるもの〟である」とご自分を証しされました。英語では「I am who I am.」というお方です。

ですから、神はご自分の住む場所がないので天(Heaven)を創造なさったわけではありません。神は、ご自身の栄光を表現なさるために、天をはじめ万物を創造なさったのです。

芸術家が、自分の内面のすべてを作品によって表現するように、神は、ご自分の栄光とか、ご自身のご性質である愛と義を表すために、万物を創造なさいました。そして、その主役に御子なるイエス・キリストをお立てになったわけです。

だからこう記されています。

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。(コロサイ1:16)

その御子であるイエス・キリストが天を治められるにあたり、私たち人間も、この御子と共にその栄光ある務めにあずかるようにと定めて、神は人間を創造なさいました。

この天がいかに栄光に富んだ所であるか……今の私たちの想像をはるかに超えるものに違いありません。そんな、天の情景を表すために、神は地上に神殿を建てるようになさいました。

つまり、神殿は「天の模型」です。

天がいかに栄光に富んだ場所であるかを、神殿は表しています。天で、神が人類と共に住まわれることの祝福がいかにすばらしいものであるかを、神殿は表しています。

ですから、ソロモンが奉献した神殿は、天における御心が完成するまでの暫定的なものです。

そのような天の模型である神殿に、神をおいれすることができません。そこで、神殿には「神の御名」が置かれました。神の御名が置かれた所……それは、神がおられるのと同じ意味をなします。

私たちがイエスの御名によって集まるとき、そこにイエスが共におられると約束されたように、イエスに御名のあるところに、イエスが共におられます神の御名があるところに、神が共におられるのです

同じように、神の御名が置かれた神殿に、神は昼も夜も目をそそぎ、耳を傾けておられます。だから主は、「わたしはあなたが建てたこの宮(神殿)を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう(Ⅰ列王紀9:3)といわれたのです。

ある日、私は病院の待合室で自分の名が呼ばれるのを待っていました。他の人の名が呼ばれても気になりません。しかし、自分の名が呼ばれると、本を読んでいる最中でもすぐに反応しました。このように、自分の名に、耳も目も心も注がれています。

同じように、神はご自分の名のあるところに全神経を集中なさっています。自分の名が置かれている神殿に、目をそそぎ、耳を傾けておられます。

ですから、私たちが神の御名によって祈るとき、神はその祈りを真剣に聞いてくださるのです。私たちがイエスの御名によってなすとき、神は共におられて、栄光を表してくださるのです。

新約の時代に、神の名は神の御子を通して啓示されました。その尊い御名は「イエス」です。

あなたはイエスの御名を受けておられますか。イエスを信じるとは、イエスの御名を受けることです。「イエス」という神の御名を受けた人は、そこが神殿です。イエスの御名によって集まる教会、そこが神殿です。

イエスの御名を讃美します。神が共におられて、私たちと親しく住まわれる光栄を感謝します。(Ω)

歴代志下 5章

2018年05月23日 | 歴代志

歴代志下5:14 祭司たちは雲のゆえに立って勤めをすることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。


建築物としての神殿は完成しました。最高の資材と技術を用いて仕上げられました。しかし、それで神殿が完成たわけではありません。こう記されています。

「ソロモン王および彼のもとに集まったイスラエルの会衆は皆箱の前で羊と牛をささげたが、その数が多くて、調べることも数えることもできなかった。こうして祭司たちは主の契約の箱をその場所にかつぎ入れ、宮の本殿である至聖所のうちのケルビムの翼の下に置いた。」(5:6-7)

「ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ、感謝した、そして彼らがラッパと、シンバルとその他の楽器をもって声をふりあげ、主をほめて、『主は恵みあり、そのあわれみはとこしえに絶えることがない』。」(5:13)

第一に、罪のゆるしときよめである「いけにえ」の血が流されました。第二に、神の御言を表す「契約の箱」が至聖所に安置されました。第三に、讃美の歌が献げられました。礼拝です。

すると……です。

神の栄光が神殿に満ちたのです。その栄光は「雲」として現れ、その雲のゆえに神殿で奉仕する祭司たちは立ちすくむほどの状態であったと記録されています。

この雲とは水蒸気の雲ではなく、あまりにも多くの天使たちが、天と地を上り下りする様子が雲のように見えたのではないかと考えられます。新興宗教の教祖が、自分を神々しく演出するためにドライアイスによってモクモクさせて登場するのとはわけが違います。

神が臨在なさるしるしとして、そこには天の御使が上り下りして働くので、それが雲の柱のように見えたり、時には火の柱のように見えたりする様子が、聖書の至るところに記録されています。

さて、このような栄光が現れるに至ったのは、罪の贖いのためのいけにえの血が注がれ、神の御言が中心に据えられた時であることは、とても重要なことです。

新約聖書の時代になって、イエス・キリストが罪のいけにえとなって、贖いの血が流されましたそれを信じる者の私たちには、その血が注がれています。先程の第一の条件です。

そして、聖霊なる神が私たちの心霊に来られて、神の御言を書き記してくださいます。契約の箱が……そこには、神の御言が刻まれた石板が入っていたとある(5:10)……至聖所に安置されたように、今や聖霊なる神が御言を私の中心に刻んでくださっています。第二の条件です。

そして、私たちは心ひとつにして主を讃美し、礼拝を献げます。第三の条件です。

これらが満たされるとき栄光が現れます。私たちには、そして教会には、天の御使たちが雲のように上り下りをして、神の御臨在の栄光を現すことになります。

神は、新約のクリスチャンたちをそのように取り扱うことに決めておられます。イエスの血を受け、聖霊を歓迎し、主を礼拝する者たちに、神はご自身の栄光を現すように定めておられます。

このことを信じて祈りましょう。その祈りは、栄光の光のスピードで御使が天にとどけてくれ、栄光の光のスピードで応答をもたらしてくれるはずです。私たちの祈りは虚しく地に落ちないはずです。

だから、信じて大胆に神に祈れ!とイエス様は命じられました。ですから、そうしましょう。(Ω)

歴代志下 4章

2018年05月22日 | 歴代志
歴代志下4:22 また、神殿の開き戸は、至聖所に通じるとびらも、本堂に通じる神殿のとびらも、金で作った。(新改訳)

先の第3章と4章は、神殿の様々な器具についての記録です。至るところに純金が使用されていることに注目してみましょう。最高の物を献げることこそ、神礼拝に相応しいことです。

「金」は希少金属だから価値があるとも言えるでしょうが、しかし、近年注目を浴びている「レアメタル」と呼ばれる希少金属が、「金」の地位を脅かすことはありません。古今東西いつの時代も、「金」は絶対的な価値を表すのに用いられてきました。

それは希少であることの他に、眩い輝きを放っていることも値打ちの要因でしょう。その輝きは神の栄光の輝きを表すかのようです。

そのような「金」を神殿に多用しました。まことの神の住まいに相応しい材質です。冒頭の聖句は、至聖所はありとあらゆる物が純金製であり、その他の器具は金箔で覆われていました。

しかも、聖書は、その金が「混じりけのない純金」であると記しています。 ※新改訳聖書では「混じりけのない純金」と翻訳。口語訳は「精金」。

混じりけのない純金を精製するのは大変な時間と技術を要します。現代の技術をもってしても100%純金は至難のわざと言えるでしょう。そのような「混じりけのない純金」は神に相応しいことです。

新約時代は私たち自身が神殿です。しかし、私の心にはまだ「混じりけ」があります。神を信頼しきれない疑い。神に告白していない罪。神に反抗する心。そんな不純物を抱えています。

だから、神殿としては相応しくないといいたいのではありません。

そんな私たちの心も、人生の試練や失敗、嵐や混乱を通過する中で、火で精錬されるように不純物が焼かれて行きます。こうして、主イエスが花嫁を迎えに再臨なさる時までに、混じりけのない純金のような私たちに造りかえようとなさっています

聖書の末尾の「ヨハネの黙示録」では、天で完成する都は、透き通ったガラスのような純金で出来ていると預言されています(21:18)。その都にまことの王であるキリストが住まわれる……と。 (Ω)

歴代志下 3章

2018年05月21日 | 歴代志

歴代志下3:1 ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。


神殿を建てる場所は「モリヤの山」であり、その山の「オルナンの打ち場と呼ばれる場所です。オルナンの打ち場は、神が疫病をもって民を撃たれたとき、神の御怒りをしずめるためにダビデが犠牲の祭壇を築いた場所です。

そして、さらに遡ること、アブラハムが自分のひとり息子イサクをいけにえとして献げた山。そこがモリヤの山でした。

偶然にそうなったのではなく、神がはじめからご計画なさっていたことです。そして後の時代になって、この山で神のひとり子であるイエス・キリストが、人類の罪のいけにえとして十字架で殺されたのですが、ここに至るまで神のご計画です。

そんな意義深いところに、神は神殿を建てるように導かれました。今後、神殿では罪のゆるしを受けるために、日々いけにえの動物が屠られて行きます。そして、それはイエス・キリストが十字架に死なれるまで続きました。

イエス・キリストの十字架の死は偶然ではありません。あとでこじつけで意味づけしたのでもありません。天地創造の前から神がご計画なさったことです。故に、イエス・キリストにあって私たちが救いを受けることは、神の御心なのです。(Ω)

歴代志下 2章

2018年05月19日 | 歴代志

歴代志下2:6 主のために宮を建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者です。(新改訳)


いよいよソロモン王は神殿建造へととりかかりました。

①父ダビデの友情

ソロモン王は父ダビデとの親交があったツロの王フラム(ヒラム)に、神殿建設に必要な資材と職人の提供を依頼しました。第2章は、その文面とフラムからの返信の内容になっています。

父の世代の交流がこの世代へと引き継がれる事は幸いです。あなたのお父さんにお世話になったからと、この世代にもよくしていただく……。ソロモンは父ダビデの恩恵に与っています。

②ソロモンの謙遜に学ぶ

ソロモンの告白には謙遜がにじみ出ています。親の七光りで高慢になることなく、「いった自分は何者なので、神殿建設という光栄を得ることが出来るのだろうか」と告白しています。

これは謙遜であって自己卑下ではありません。自己卑下は自分は駄目だとして何もしません。謙遜は身を低くしながらも大胆に行動します

ソロモン王は身を低くして、自分が何者であるかを深く自覚していました。それは、冒頭の聖句が示すように、「主の御前に香をたくだけの者」です。「香をたく」とは、〝祈る者〟〝礼拝者〟を意味しています。

人間相手には偉そうにしていても、神の御前では「香をたく者」「礼拝者」に過ぎないことを忘れてはなりません。「礼拝者」としての立場……これこそが、私たちに人間の基本的なアイデンティティーです。

③神は小さい者の働きをお忘れにならない

第2章の冒頭には、神殿建設にたずさわった人々の中で、「荷役人夫7万人、山で石を切り出す者8万人、彼らを指揮する者3,600人の人数をそろえた」と記録しています(2:2)

設計士とか調度品の職人や総監督などの人々に注目が集まるところを、あえて、石材を切り出して運んだ人々の数を、建設の作業の最初に記録しているのは注目すべきことです。しかも、第2章の終わりにももう一度記録し、その人々は在留異国人であったことを証しています。

石を切り出すのは地味な働きです。でも、そのような働きがなければ神殿は建ち上がりません。神は、そんな目立たない働きも数えておられるお方です

しかも、異邦人たちによる働きであることも覚えておられます。今日、キリストの身体である教会を建て上げるために、私たち異邦人も加えられ、数えられているのです。分に応じた働きを謙遜にささげる者であろう。(Ω)

歴代志下 1章

2018年05月18日 | 歴代志

歴代志下1:7 その夜、神はソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。


あなただったら何を求めますか。地上の富を求める人もいます。世で成功できるような能力とか技術を求める人もいます。体の健康を求める人もいます。

何を求めるかは、その人の心を支配している価値観で決まります。

イエス様をたずねた金持ちの青年は、「永遠のいのちを得るには何をすればよいですか」と質問しました。彼は「永遠のいのち」を求めたわけです。

しかし、財産を貧しい人々に施して従ってきなさいというイエスの御言につまずき、悲しみながら去って行きました。この青年の価値観は、究極的には、地上の富だったのです。

たとえば、恵みキリスト教会で「永遠のいのちを得るために」と題してセミナーを開いたとしましょう。ところが、同じ日時に公民館では……恵みキリスト教会の前には公民館がある……「お金持ちになる秘訣」といった題で、有名経済学者による講演会が開かれたら、どちらに多く集まるでしょうか。

言わずとしれたことです。人々の考えは地上のことです。

だからこそ、物事の本質を見抜く目が必要です。それを判断する知恵が必要です。ソロモンは地上の富でもなく、権力や武力でもなく、自分が王として国を治めるための知恵を求めました。

そで主は次のように語られました。

「この事があなたの心にあって、富をも、宝をも、誉をも、またあなたを憎む者の命をも求めず、また長命をも求めず、ただわたしがあなたを立てて王としたわたしの民をさばくために知恵と知識とを自分のために求めたので、

知恵と知識とはあなたに与えられている。わたしはまたあなたの前の王たちの、まだ得たことのないほどの富と宝と誉とをあなたに与えよう。あなたの後の者も、このようなものを得ないでしょう。」(1:11-12)

どんなに豊かな富を得たとしても、それを活かす知恵がなければ、人は富によって滅びます。どんなにすばらしい環境を手にしたとしても、環境がその人を幸せにするのではなく、それを活かす知恵です。

私たちには、地上で養った知恵がありますが、それは偏(かたよ)った知恵です。神を認めない、人間中心の知恵です。だから、私たちの古い考えが一新されて、神からの知恵を求めましょう。

聖書はこう勧めています。

あなた方は、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ12:2)

古い考え方は葬られ、御言が私の考えや知恵となって、私たちの心は一新されて行きます。こうして心を新たにすることで、何が神の御旨であるかを知る知恵を得ます。何が善であり、神に喜ばれることかを知る知恵を得ます。

祈りましょう。主よ、あなたの御言が私の考えとなるようにしてください。あなたの御言が、私の知恵となるようにしてください。(Ω)

歴代志上 29章

2018年05月17日 | 歴代志

歴代志上29:1 この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。


ダビデ王の遺言はさらに続きます。それは、民に向けて語られています。ソロモンにゆだねた「神殿建設」という大事業を、皆の協力のもとで完成してほしいとのメッセージです。

ソロモンはまだ若くて経験も少ない。そんなソロモンがひとりで出来ることではない。皆の献身的な協力が必要でした。

そして、この偉大な事業は、「人のためではなく、主なる神のためである」と述べています(29:1)

新聞や報道をにぎわせる様々なイベントや事業は、ほとんどが「人のため」のものです。いったい「主なる神のため」といえる事業はどこにあるのでしょう。

人のための事業が悪いと言いたいのではありません。単なる自己顕示とか金儲けといった自分のための事業もあれば、他者のためという愛と配慮のこもった事業まで様々です。震災や戦争避難民のための事業だって大切な事業です。

でも、忘れてはならないことは、「主なる神のため」という視点です。それが、一般の事業とか商売という事業であっても、「主なる神のために」という視点を見失わないでいよう。

これを見失うと、やがてそれをなした人間が褒めそやされ、肉なる自慢話になり、さらにはやっかみや嫉妬を生み出し、何やらドロドロとした権力争いへと堕落してしまうのです。

どうか、キリストの体なる教会を建て上げるという新約の一大事業……、これが、神を愛し、神に栄光を帰そうとする人々によって成し遂げられますように。「主なる神のため」という崇高で霊的な視点を失うことなく完成しますように……と祈ります。(Ω)

歴代志上 28章

2018年05月16日 | 歴代志

歴代志上28:10 それであなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい。


ダビデは神殿建設のためにさまざまな準備をし、晩年にはソロモンをはじめ国の有識者たちをあつめて遺言を残しました。それは、息子ソロモンこそが王であり、彼のもとで神の聖なる御国を建て上げるための命令でした。

ソロモンには神殿建設の使命をあたえ、これを最優先するようにと励ましています。国の王であれば、なすべきとは他にも多くあることでしょう。軍事、治安、経済、教育等々……。

しかし、何よりも神殿を中心に据えて国作りをせよというのです。

他国の統治を参考にするなら、軍事補強を優先すべきだと考えるかもしれません。あるいは、経済優先の政策を第一に掲げるかもしれません。そして、それが一般の国のあり方です。

でも、神が建てようとなさっている御国は違います。

私たちの最優先課題は、軍事でも、経済でも、治安でもありません。神との和解です。そして、神への真実な礼拝です。だからこそ、神は、御子イエス・キリストを世にお与えになりました

御子を世に遣わし、人間の罪のゆるしのために、御子イエスを十字架に引き渡し、御子を通して罪にゆるしを与え、御子を通して神との和解を与え、御子通して、われらをまことの礼拝者として招かれたのです。

経済問題が最優先であれば、神は有能な経済学者を世にお遣わしになったでしょう。軍事問題が最優先であれば、神は勇猛果敢な将軍を世にお遣わしになったことでしょう。

しかし、神は、軍馬ではなくロバに乗った柔和なキリストを世にお遣わしになりました。政治学者や経済学者を引率するのではなく、無学で粗野なガリラヤ出身の弟子たちを引き連れてエルサレムに入城されました。

ソロモン王がまずなすべきは神殿建設でした。

それと同様に、私たちがまずなすべきは神との和解です。神への礼拝です。神は既にその道をイエス・キリストによって開いてくださいました。神は、和解の御手を私たちに差し伸べ、その道へと招いておられます。

ダビデ王がソロモンに命じたように、今も神は私たちに、「主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから、心を強くしてこれを行いなさい」と命じておられます。

主を礼拝する人生に、心強くして進もう。


追記) 神殿建設にまつわる全てのことは父ダビデが計画し、その計画を子ソロモンが実行した。この父ダビデと子ソロモンの関係は、父なる神と子なるキリストの関係を表している。

父なる神は全ての御心をお立てになるお方だ。子なるキリストは、その父の御心を行うために来られた(ヨハネ6:38)。また、その御心を行うことが、神の子どもとされた私たちの使命でもある(マタイ12:50)。(Ω)

歴代志上 27章

2018年05月15日 | 歴代志

歴代志上27:23 しかしダビデは20歳以下の者は数えなかった。主がかつてイスラエルを天の星のように多くすると言われたからである。


第27章は軍務につく人々の組織(27:1-24)、王の農地や財産を管理する組織(25-31)、王の参謀役(32-34)について記録されています。このようにして王国は組織化され、神の聖なる御国を建てるという目的のもとに整えられました。

「組織」という語彙は無機質で冷ややかな印象を受けます。しかし、聖書でいう「組織」は、各自が適材適所、有機的に組み合わさった「生きた身体」のように結び合わされ、組み合わされるものとして描かれています。

新約聖書では「キリストの身体」として表されています。口と目は全く異なる器官ですが、互いが必要とし協力しあう。足も手も、目も耳も……取り上げるなら枚挙にいとまがありません。

社会の様々な組織が、「身体としての組織」をイメージして組み合わされるなら、如何にいのちに溢れた組織になるでしょうか。しかし、むしろ多くの場合、身体の各器官としてではなく、機械の部品のようにして組み合わさる組織なので、いのちを失います。教会がそのようであってはなりません。

さて、冒頭にあげた聖句は、王国を組織化するに当たり人数を数える際に、20歳以下の者を数えなかったと記されています。

以前にも似たことがありました。ダビデ王が民を数えようとして、それを将軍ヨアブがたしなめたのですが(21:1-4)、今回の場合は、ダビデ王は20歳以下の者を数えないとしながらも、将軍ヨアブは数えようとして、神の御怒りがイスラエルにくだりました(27:24)

どうも、民を数えることに何かと問題がつきまとうようです。数えて良い時もあれば、悪い場合もある。その違いは、「神への信頼」ということにありそうです。

前回は、自分が安心したいが為に数を数えました。これだけの軍事があればイスラエルは安泰だと、安心したかったのです。また、それは自国の軍隊を誇りたいためでもあったのでしょう。それを神は怒られました。

しかし、今回は違います。秩序正しく組織するために数えたのです。数を誇ったり、数で安心を得るためではありません。

私たちは何を数えますか。何のために数えますか。例えば、金銭を聖別して献げるために数えますか。それとも、富を信頼し、富を誇るためですか。「星の数ほどに増やす」といわれた神の約束を信頼して数えるべきです。

つまり、現状を把握するために数えますが、20歳以下の者……それは「未来の領域」です。「神がご存知の領域」です。そこは、神におまかせします。神の御約束を信頼し、人間的な計算で把握しようとはしません。

私の数える数は現実です。5つのパンと2匹の魚という数かも知れません。でも、それをどのように増やされるかは、神の領域です。私たちは、神の領域まで足を踏み入れません。むしろ、神を信頼します。現実の数を数えて、神にゆだねます。(Ω)