マルコ16:3 彼女らは「だれが、私たちのために、墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
イエスの遺体を引き取った弟子たちは、翌日が安息日(土曜日)であるため、金曜日の日没までに急ごしらえの葬りをすませました。
そして「何もしてはならない」という安息日に、弟子たちはなすすべもなく重苦しい時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。イエスを守ることも弁護することもできなかった弟子たちは、悔いと恥じとで完全に落胆していました。
十字架の後の土曜日は、何とつらく、暗く、長い1日だったでしょう。聖書には、この土曜日の記述がありません。何もできない、何もする気がしない、無力で落胆しきった弟子たちを象徴するかのようです。
しかし、それでも復活の朝はやって来ます。
日曜日の朝、女弟子たちは「イエスに油を塗りに」と墓に向かいました。先日の葬りでは不充分だった分を処置しようというわけです。彼女らは「墓の入り口の石を転がしてくれる人がいるだろうか」と案じながら出かけて行きました(3)。
大きな墓石(はかいし)は封印されており、ローマ兵の厳重な管理下にあることを考え合わせれば、彼女たちの行為は無謀でした。しかし、この無謀さゆえに彼女たちは復活の最初の目撃者になり得たのです。
さて、案ずることなかれ。行ってみると封印された墓石は転がされていたのです。
墓にいた若者(御使)から告げられたことは、①十字架で死なれたイエスは復活なさってここにはおられない。②復活のイエスはガリラヤで会おうと言っておられると報告せよ。このふたつでした。
復活を信じられずに死人の中に慰めを求める者に語られています。「ここにはおられません」と(6)。この宣言こそ本当の慰めであり希望です。
番兵がいて封印された墓に入ろうなど無謀なことです。〝冷静な〟男弟子たちは、無謀な婦人たちをたしなめたことでしょう。しかし、彼女たちはイエスを愛するがあまり、忠告を聞き流して墓へと向かいました。
端から見ればハラハラするような婦人たちですが、動かないと思われた「石」は動いたのです。イエスを愛して大胆に動きだすとき、無理だと思える「封印」は解かれるのです。何もせず、「見るまでは信じない」と言い張った理性派のトマスとは対照的です。
教会には、男性に多く見られるような「計画性」とか「論理性」とか「冷静さ」が必要です。それをなくしたら、その場限りの行き当たりばったりの教会になってしまうでしょう。
しかし、イエスの墓に出向いた婦人たちのように、後先(あとさき)を考えずに愛によって大胆に動き出すエネルギーも必要です。「計画にないことだから」とか、「そんなの無理だよ」と冷静になり過ぎないで、愛によって動き出す信仰も大切です。そんな時に、動くはずのない〝墓石(はかいし)〟が動き出すのですから。
さて、イエスを愛する女弟子たちであっても、イエスの復活は想像だにしていませんでした。事実、この出来事に彼女たちは震え上がり、気も転倒していたと告げられています(8)。
そもそも彼女たちは、遺体となったイエスに会うためにやって来たのでした。想い出を振り返り、わずかばかりの慰めを得ようとしたのでしょう。でも、そこにはおられないのです。本当の希望は復活のイエスにあります。過去にはありません。
また、イエスに「ガリラヤで会おう」(7)と告げられ、その後ガリラヤに戻った弟子たちはガリラヤ湖でイエスと出会いました(ヨハネ21・1~14)。それは、最初にイエスと出会った状況と同じでした。かつて、何の収穫もなかったペテロに、「これからは人間をとる漁師になるのだ」と召された時のことを思い起こさせたに違いありません。
いまだ、つまずきから癒えていないペテロに対するイエスの粋(いき)な取り計らいでした。ガリラヤでの復活のイエスとの再会は、信仰の原点に立ち戻ることになりました。かつて受けた召しと選びとを確かにすることになりました。そうするならつまずくことはないのです(Ⅱペテロ1・10)。
復活のイエスにフォーカスを合わせて生きよう。死んだ過去の悲しみや苦しみという「墓」にとどまっていないで、そこから、復活のイエスと共に出て来よう。そして、復活のイエスと共に使命を再確認しよう。
◆◆◆◆◆◆
かくして復活のイエスに出会った弟子たちは、ここから福音宣教へと派遣されて行きます。その福音が神からのものであることの証明として、しるしが伴うのだとイエスは約束されました。
「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。
また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけばいやされる。」(16・17~18)
(1) イエスの名で悪霊を追い出す。
罪の刑罰が終わったのに、なおも刑務所に入ってる人がいるでしょうか。私たちの受けるべき罪の刑罰は終わりました。イエスが十字架で受けてくださったからです。つまり、私たちは死の獄から出てきた者です。
それなのに、いまも刑務所に入っている者のように、罪の責めに苦しむことがあるでしょうか。イエスは十字架の上で「すべてが完了した」と宣言されました。そうです。罪の刑罰はもう終わったのです。
また、刑務所から出てきたのに、相変わらず罪をおかしつづけ、刑務所に逆戻りするような人間のままで、それが本当の救いになるでしょうか。
イエスが私たちにくださった救いは、「罪のゆるし」だけにとどまりません。
イエス様は〝法的に〟私たちをゆるしてくださっただけではなく、〝実際的に〟も救ってくださいます。実際的な救いとは、罪に勝利する生活のことです。それは具体的には、罪の背後にあって、私たちを支配しようとする悪魔に勝利する生活です。
小羊の血が流された夜、過越しの事件があったにもかかわらず、もし、イスラエル民族がそのままエジプトにとどまっていたら、彼らの救いは完成しませんでした。彼らは出エジプトしました。ましてや、今や神の小羊としてイエスが血が流されたのですから、出エジプトすべきです。悪魔の支配から出エジプトするのです。
悪魔とその手下である悪霊は、霊的な束縛をもって私たちの生活を妨害します。「悪霊を追い出す」とは、私たちが悪魔の支配下から出エジプトして、神の国の支配にあることの具体的なしるしです。
(2) 新しい言葉を語る。
私たちの口から出る言葉が変わります。口からどんな言葉が出てきますか。悪口や不平でしょうか。それでは、せっかくの救いが台無しです。だから、イエスは、新しい言葉を語るようになると約束なさいました。そして、ペンテコステの日に弟子たちは、新しい言葉を語り出しました。
その第一は、「福音」という新しい言葉です。イエスを信じる以前は、福音を語ることはありませんでした。しかし、今や私の口は福音を語り出します。主への讃美を歌い出します。
新しい言葉の第二は、「異言」という言葉です。これは、救いを受けた私の霊が語り出すことです。イエスを信じる以前の私の霊は死んでいたので語ることができませんでした。
異言で祈り、異言で讃美し、心の奥底から……つまり霊からの言葉を神に語ることができるようになりました。
自分の舌を制御できる人は完全な人です(ヤコブ3・2)。つまり、舌が何を語るかによって、人生の舵取りをするわけです(ヤコブ3・3~4)。言葉(舌)は人生という船の舵取りをします。
ですから、新しい言葉を語ることによって、私たちの生き方が変わります。私たちが何を語るかによって、人生の方向性を決めるからです。
聖霊が与える賜物の半分が「言葉」に関する能力であることは興味深いです。異言、異言の説き明かし、預言、智恵の言葉、知識の言葉です。これも、救われた者にあらわれる「新しい言葉」です。
(3) へびをつかむ。
イエスを信じる以前は悪魔のもとで押さえつけられていました。しかし、救いを受けた者の立場は逆です。悪魔の象徴である「へび」をつかむとは、悪魔に対する勝利のことです。イエスを信じる者は、悪魔に勝利します。
エジプトに遣わされたモーセが、杖を投げると、それがへびになり、へびをつかむと杖になったというしるしがありました。「杖」は権威をあらわします。つまり、へびである悪魔をつかむ権威をもつようになるということです。ただ、そのような権威が与えられていることに気づかないので、悪魔に振り回されます。さあ、へびをつかむのです。
(4) 毒を飲んでも害を受けない。
わざと毒を飲んで神を試みてはなりませんが、迫害下でそのような事態になったとき、主はそうなさることができるお方です。
一般的な毒物以外にも、この世はさまざまな毒で満ちています。人の口から出る毒の言葉もそのひとつです。あなたは、他者(ひと)の言葉で落ち込んでいますか。それは、世の言葉の「毒」に害されています。また、あなたは世にあふれる新聞やテレビの情報で振り回されていますか。それは、世の言葉の「毒」に害されています。
神の御言に養われ訓練された心には、毒気のある言葉に対する免疫力がついてきます。
さらに、この世には、富の誘惑とか性の誘惑といった毒もあふれています。だから、免疫力のあるクリスチャンになってください。世にあふれる罪と悪の数々……そのような毒から害を受けない免疫力は、御言によって養われた心に宿ります。
(5) 病人に手をおけばいやされる。
イエスの救いは、霊的な救いにとどまりません。心も体も救われます。だから、病気があれば手をおいて祈ってください。
私の手をとおして、主が手をおいてくださっているイメージで祈りましょう。私を通して、主は今も2千年前と同じようにいやしてくださいます。私がいやすのではありません。いやすのは主イエスです。私のすべきことは、「信じて手をおくこと」です。
さあ、祈りましょう。信じる私たちに〝しるし〟が伴うようにしてください。〝しるし〟によって、イエス様がキリストであることの証し(証拠)をあらわしてください……と。
イエスの遺体を引き取った弟子たちは、翌日が安息日(土曜日)であるため、金曜日の日没までに急ごしらえの葬りをすませました。
そして「何もしてはならない」という安息日に、弟子たちはなすすべもなく重苦しい時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。イエスを守ることも弁護することもできなかった弟子たちは、悔いと恥じとで完全に落胆していました。
十字架の後の土曜日は、何とつらく、暗く、長い1日だったでしょう。聖書には、この土曜日の記述がありません。何もできない、何もする気がしない、無力で落胆しきった弟子たちを象徴するかのようです。
しかし、それでも復活の朝はやって来ます。
日曜日の朝、女弟子たちは「イエスに油を塗りに」と墓に向かいました。先日の葬りでは不充分だった分を処置しようというわけです。彼女らは「墓の入り口の石を転がしてくれる人がいるだろうか」と案じながら出かけて行きました(3)。
大きな墓石(はかいし)は封印されており、ローマ兵の厳重な管理下にあることを考え合わせれば、彼女たちの行為は無謀でした。しかし、この無謀さゆえに彼女たちは復活の最初の目撃者になり得たのです。
さて、案ずることなかれ。行ってみると封印された墓石は転がされていたのです。
墓にいた若者(御使)から告げられたことは、①十字架で死なれたイエスは復活なさってここにはおられない。②復活のイエスはガリラヤで会おうと言っておられると報告せよ。このふたつでした。
復活を信じられずに死人の中に慰めを求める者に語られています。「ここにはおられません」と(6)。この宣言こそ本当の慰めであり希望です。
番兵がいて封印された墓に入ろうなど無謀なことです。〝冷静な〟男弟子たちは、無謀な婦人たちをたしなめたことでしょう。しかし、彼女たちはイエスを愛するがあまり、忠告を聞き流して墓へと向かいました。
端から見ればハラハラするような婦人たちですが、動かないと思われた「石」は動いたのです。イエスを愛して大胆に動きだすとき、無理だと思える「封印」は解かれるのです。何もせず、「見るまでは信じない」と言い張った理性派のトマスとは対照的です。
教会には、男性に多く見られるような「計画性」とか「論理性」とか「冷静さ」が必要です。それをなくしたら、その場限りの行き当たりばったりの教会になってしまうでしょう。
しかし、イエスの墓に出向いた婦人たちのように、後先(あとさき)を考えずに愛によって大胆に動き出すエネルギーも必要です。「計画にないことだから」とか、「そんなの無理だよ」と冷静になり過ぎないで、愛によって動き出す信仰も大切です。そんな時に、動くはずのない〝墓石(はかいし)〟が動き出すのですから。
さて、イエスを愛する女弟子たちであっても、イエスの復活は想像だにしていませんでした。事実、この出来事に彼女たちは震え上がり、気も転倒していたと告げられています(8)。
そもそも彼女たちは、遺体となったイエスに会うためにやって来たのでした。想い出を振り返り、わずかばかりの慰めを得ようとしたのでしょう。でも、そこにはおられないのです。本当の希望は復活のイエスにあります。過去にはありません。
また、イエスに「ガリラヤで会おう」(7)と告げられ、その後ガリラヤに戻った弟子たちはガリラヤ湖でイエスと出会いました(ヨハネ21・1~14)。それは、最初にイエスと出会った状況と同じでした。かつて、何の収穫もなかったペテロに、「これからは人間をとる漁師になるのだ」と召された時のことを思い起こさせたに違いありません。
いまだ、つまずきから癒えていないペテロに対するイエスの粋(いき)な取り計らいでした。ガリラヤでの復活のイエスとの再会は、信仰の原点に立ち戻ることになりました。かつて受けた召しと選びとを確かにすることになりました。そうするならつまずくことはないのです(Ⅱペテロ1・10)。
復活のイエスにフォーカスを合わせて生きよう。死んだ過去の悲しみや苦しみという「墓」にとどまっていないで、そこから、復活のイエスと共に出て来よう。そして、復活のイエスと共に使命を再確認しよう。
◆◆◆◆◆◆
かくして復活のイエスに出会った弟子たちは、ここから福音宣教へと派遣されて行きます。その福音が神からのものであることの証明として、しるしが伴うのだとイエスは約束されました。
「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。
また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけばいやされる。」(16・17~18)
(1) イエスの名で悪霊を追い出す。
罪の刑罰が終わったのに、なおも刑務所に入ってる人がいるでしょうか。私たちの受けるべき罪の刑罰は終わりました。イエスが十字架で受けてくださったからです。つまり、私たちは死の獄から出てきた者です。
それなのに、いまも刑務所に入っている者のように、罪の責めに苦しむことがあるでしょうか。イエスは十字架の上で「すべてが完了した」と宣言されました。そうです。罪の刑罰はもう終わったのです。
また、刑務所から出てきたのに、相変わらず罪をおかしつづけ、刑務所に逆戻りするような人間のままで、それが本当の救いになるでしょうか。
イエスが私たちにくださった救いは、「罪のゆるし」だけにとどまりません。
イエス様は〝法的に〟私たちをゆるしてくださっただけではなく、〝実際的に〟も救ってくださいます。実際的な救いとは、罪に勝利する生活のことです。それは具体的には、罪の背後にあって、私たちを支配しようとする悪魔に勝利する生活です。
小羊の血が流された夜、過越しの事件があったにもかかわらず、もし、イスラエル民族がそのままエジプトにとどまっていたら、彼らの救いは完成しませんでした。彼らは出エジプトしました。ましてや、今や神の小羊としてイエスが血が流されたのですから、出エジプトすべきです。悪魔の支配から出エジプトするのです。
悪魔とその手下である悪霊は、霊的な束縛をもって私たちの生活を妨害します。「悪霊を追い出す」とは、私たちが悪魔の支配下から出エジプトして、神の国の支配にあることの具体的なしるしです。
(2) 新しい言葉を語る。
私たちの口から出る言葉が変わります。口からどんな言葉が出てきますか。悪口や不平でしょうか。それでは、せっかくの救いが台無しです。だから、イエスは、新しい言葉を語るようになると約束なさいました。そして、ペンテコステの日に弟子たちは、新しい言葉を語り出しました。
その第一は、「福音」という新しい言葉です。イエスを信じる以前は、福音を語ることはありませんでした。しかし、今や私の口は福音を語り出します。主への讃美を歌い出します。
新しい言葉の第二は、「異言」という言葉です。これは、救いを受けた私の霊が語り出すことです。イエスを信じる以前の私の霊は死んでいたので語ることができませんでした。
異言で祈り、異言で讃美し、心の奥底から……つまり霊からの言葉を神に語ることができるようになりました。
自分の舌を制御できる人は完全な人です(ヤコブ3・2)。つまり、舌が何を語るかによって、人生の舵取りをするわけです(ヤコブ3・3~4)。言葉(舌)は人生という船の舵取りをします。
ですから、新しい言葉を語ることによって、私たちの生き方が変わります。私たちが何を語るかによって、人生の方向性を決めるからです。
聖霊が与える賜物の半分が「言葉」に関する能力であることは興味深いです。異言、異言の説き明かし、預言、智恵の言葉、知識の言葉です。これも、救われた者にあらわれる「新しい言葉」です。
(3) へびをつかむ。
イエスを信じる以前は悪魔のもとで押さえつけられていました。しかし、救いを受けた者の立場は逆です。悪魔の象徴である「へび」をつかむとは、悪魔に対する勝利のことです。イエスを信じる者は、悪魔に勝利します。
エジプトに遣わされたモーセが、杖を投げると、それがへびになり、へびをつかむと杖になったというしるしがありました。「杖」は権威をあらわします。つまり、へびである悪魔をつかむ権威をもつようになるということです。ただ、そのような権威が与えられていることに気づかないので、悪魔に振り回されます。さあ、へびをつかむのです。
(4) 毒を飲んでも害を受けない。
わざと毒を飲んで神を試みてはなりませんが、迫害下でそのような事態になったとき、主はそうなさることができるお方です。
一般的な毒物以外にも、この世はさまざまな毒で満ちています。人の口から出る毒の言葉もそのひとつです。あなたは、他者(ひと)の言葉で落ち込んでいますか。それは、世の言葉の「毒」に害されています。また、あなたは世にあふれる新聞やテレビの情報で振り回されていますか。それは、世の言葉の「毒」に害されています。
神の御言に養われ訓練された心には、毒気のある言葉に対する免疫力がついてきます。
さらに、この世には、富の誘惑とか性の誘惑といった毒もあふれています。だから、免疫力のあるクリスチャンになってください。世にあふれる罪と悪の数々……そのような毒から害を受けない免疫力は、御言によって養われた心に宿ります。
(5) 病人に手をおけばいやされる。
イエスの救いは、霊的な救いにとどまりません。心も体も救われます。だから、病気があれば手をおいて祈ってください。
私の手をとおして、主が手をおいてくださっているイメージで祈りましょう。私を通して、主は今も2千年前と同じようにいやしてくださいます。私がいやすのではありません。いやすのは主イエスです。私のすべきことは、「信じて手をおくこと」です。
さあ、祈りましょう。信じる私たちに〝しるし〟が伴うようにしてください。〝しるし〟によって、イエス様がキリストであることの証し(証拠)をあらわしてください……と。
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