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朝マナ

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ガラテヤ人への手紙 6章

2022年06月21日 | ガラテヤ書

ガラテヤ書 6章
兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っているなら、霊の人であるあなた方は、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしや自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
(6・1)


この6章からの教えは、ガラテヤ人への手紙の文脈からして、少し唐突な感じがします。でも、きちんとつながっています。

1章から5章までは、律法によるのではない、御霊による自由なんだと教えられてきました。では、兄弟姉妹たちの問題をどう解決した良いのか。

問題を指摘して矯正(きょうせい)するなら、律法的な対応になりかねない。だから御霊の自由にまかせて、見て見ぬふりをすれば良いのか。御霊の自由の中で、自動的に問題解決されるのか。そうではありません。やはり忠告し、正しい方向へと導きます。そのことを、冒頭の聖句は教えているのです。

キリスト教会はひとりでは成り立ちません。互いが関わり合いながら生きています。だから、仲間の問題は私の問題にもなってきます。放っておくわけには行きません。ちょうど、体から離れて手だけでは生きて行けないように、一人びとりは、キリストの体の各部分として影響し合って生きています。

そんな人と関わりは面倒なことです。トラブルもあります。傷つけられたり、傷つけることもあります。だから、そんな煩わしさを避けて、ひとりで信じて行こうとする人もいます。

しかし、私たちが互いに愛し合い、きよめ合い、キリストの身の丈まで成長し合うために、主はキリストの体としての教会をお建てになりました。

完成された教会ならつながっていようと考える人もいます。未熟な教会は問題も多いからです。でも、実際には完成された教会などありません。問題のない教会もありません。2千年のキリスト教会の歴史がそれを物語っています。

教会は問題を抱え、罪に悩みながら、この地上の旅を続けています。教会は決して理想郷ではありません。神もそれを重々ご承知です。

そんな罪人たちのぶつかり合う教会を、神はなおも愛してくださっています。そして、やがて天に引き上げられる時までに、聖なる栄光の教会に仕上げようと、今も愛し続けてくださっています。

今日の御言は、兄姉が罪に陥っているのを知ったなら、正してあげるようにと勧めています。信仰生活はひとりではなく、キリストの体として、互いに影響しあい、聖なる者にされるためです。

ところが、冒頭の御言のように文字通り、ただしてあげようとして、相手の罪や欠点を指摘し合うなら大変なことになります。律法的に解決しようするからです。6章の後半で教えられているように、律法的に解決しようとするのは、見栄(みえ)を飾ろうとするからです。教会の見栄(みば)えを良くしようとして、肉なる感覚で指摘し、正そうとして混乱します。

でも、冒頭の聖句に注目してください。〝御霊の人であるあなたはです。なのに、〝肉の人〟が他者の罪を云々すると、さばいたり、責めたり、傷つけます。そのような教会は針の筵(むしろ)です。

イエス様は、「まずあなたの目から梁(はり)を取りのけなさい。そうしたら、相手の目にある塵(ちり)を取ってあげることができる」と言われました。 ※梁とは屋根を支える横木のこと。塵と梁とでは雲泥(うんでい)の差である。

自分の目には大きな梁が横たわっているのに、他者(ひと)の目にある塵が気になるのは、肉の人だからです。自分の目に横たわっている梁は虫眼鏡のような機能があるので、他者の罪や欠点が大きく見えます。

御霊の人とは、自分の目にある梁を取りのける人のことです。では、自分の目から梁を取り除くとはどういうことでしょうか。

(1)もしかして自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省することです。(6・1)

「灯台もと暗し」と言いますが、他者のことはよく見えても、意外と自分のことは見えていないのです。充分な反省力がともなわない指摘は、人をさばき、傷つけることになります。

(2)自分は何ら偉い者でも何でもないことを知ることです。(6・3)

聖書は、「自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いている」と警告しています(6・3)。言いかえれば、自己正義を捨てて、自分に何ら正しいものはないと知ることです。

(3)互いに重荷を負い合う心で成すことです。(6・2)

祈りましょう。まず、私の目から梁を取りのけてください。そして、兄弟姉妹の罪をさばく心から解放してください。そして、互いに成長し合い、互いにきよめ合う関係の中で、指摘することができるように導いてください。

◆◆◆◆ 

さて、ガラテヤ人への手紙を書き終えるにあたって、パウロは最後にもう一度、割礼問題を取り上げています(6・11~)。割礼を強要する人たちは、肉において見栄を飾ろうとしているのだと指摘しています。新改訳では外見を良くしたいのだと訳しています。

割礼それ自体は隠れていて、見栄も外見もありません。注目すべきは、割礼を受けて律法を行うことで〝行いが立派になる〟ことです。良い行いは外見が立派です。そのように指導している牧師の見栄を飾ります。でも、それは肉の誇りです(6・13)

私たちの教会には、毎年ギデオン聖書協会の方々が証しと報告のために来られます。彼らは真面目で熱心な方々です。礼拝が始まる30分前から来訪して準備してくれます。すると、牧師である私は、教会の兄姉に遅刻しないようにとか、聖書献金を多く献げるようにと、つい口うるさく言ってしまいます。でも、これは聖書が指摘しているように「見栄を飾る」ことです。「外見を良くしたい」のです。

こんな感覚が積み重なると、律法によって立派にしようとするわけです。ガラテヤ教会も律法主義を取り入れて、見た目には立派な教会形成をして、自分を誇っていたのです。

そんな見栄のために、行いを強調してはなりません。そんなことのために、外見上だけ立派に見せるようなことをしてはいけません。大事なことは、割礼のありなしではなく新しい創造です(6・15)愛によって働く信仰です(5・6)

つまり、見た目を立派にすることに心を注ぐのではなく、キリストの愛をもって生きることです。外見上を良く見せて肉を満足させるのではなく、天の価値観で生きる〝新しい人〟として生きることです。

日本人クリスチャンに文字通りの割礼はありませんが、この「外見上を良くしようとする誘惑」は、割礼を受けようとする ――あるいは、割礼を受けさせようとする―― ことの延長線上にあります。大事なことを忘れてはなりません。それは、「愛によって働く信仰」と「新しい創造」です。

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ガラテヤ人への手紙 5章

2022年06月20日 | ガラテヤ書

ガラテヤ書 5章
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
(5・22~23)


すばらしい「実」が記されています。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です。私たちは、このような実の収穫を目指して歩みます。

さて、ガラテヤ人への手紙は、神を信じて生きるにも、2通りの歩みがあることを教えています。旧約の生き方と、新約の生き方です。言いかえるなら、律法による生き方と御霊による生き方です。

旧約は律法に従って歩みます。でも、それは御霊が内住なさるまでの準備運動みたいなものです。準備運動ばかりをしていても実は結びません。

また、律法による生き方は、奴隷のような生き方だということも見てきました。ああしなさい、こうしなさい。あれはいけないこれもだめと、律法は外側から制御します。そのように強制されて、冒頭にある実を結ぶことができるでしょうか。

ところが、人間は律法のように外側から制御されると、安心するところがあるのです。自由にしろといわれると不安なので、むしろ制御されたい……。これが、ガラテヤ教会の人々が律法の生活に憧れるようになった理屈です。 ※「自由」の反対語は「安心」との説は興味深い。言語としては間違っているが、神学的には的を射ている。

これは今日のキリスト教会にも言えることです。

御霊の自由を会得していないと、容易に律法主義に流れます。5章では、私たちが救われたのは自由を得るためだ(5・1、13)と、繰り返し記しているにもかかわらず、牧師は信徒が御霊によって自由に生きることを信頼できず、律法的に制御しようとします。そのほうが安心だからです。

しかし、聖書は御霊による自由に生きよと命じます。御霊によって歩むとき、律法が目指すところの愛の完成を見るからです(5・13~14)。愛を律法によって完成しようとしたら、つまり、強制的に愛するように仕向けるのなら、それは愛ではありません。やはり、自由でなければ愛は完成しません。しかも、その自由は御霊による自由です。 ※御霊(聖霊)は私を支配なさるお方であるが、そこに自由がある。一見、矛盾である。聖霊が私の外側から支配成するのであれば、その支配は窮屈だ。しかし、聖霊は内住して、私の霊とひとつになられる。もはや、御霊の思いは私の思いだ。御霊の考えは私の考え。御霊の生き方で私も生きる。だから窮屈ではない。これが、「御霊のあるところに自由がある(Ⅱコリ3・17)という実際だ。

ところが、御霊によって歩まないので、残るは肉の力です。だから、肉の力で頑張るしかありません。肉で頑張ると律法的になります。「今月の目標」を紙に書いて張り出したり、スローガンを掲げて他と競走する。できない項目はデータ解析をもとに改善を要求する等々、律法的になって行きます。

このように、肉の力と律法はとても親和性があります。律法があるところに肉の力が活性化されます。肉の力で頑張る人は律法が好きです。律法によって自らを鼓舞しようとします。

ところが、律法は罪をさばく道具になるので、自分はこんなに頑張っているのにあの人は……と、他者の罪や欠点をさばいたり責めたりしがちです。逆に、自分は何て駄目なんだろう……と、自分自身をさばいたり、責めたりもします。自分のはかるはかりで、はかり返されるわけです。

こうして、他人や自分をさばいたり責めたりする人は、律法に生きているのです。奴隷の身分で生きています。頑張り過ぎです。肉の力はたかが知れています。これは旧約の生き方です。

イエス・キリストを信じる人は新約の人です。神の子どもの身分で生きます。律法によって生きるのではなく御霊によって歩みます。

クリスチャンとは我力で立派にやる生活だと勘違いしていませんか。そういう人は、自分にはとてもできないと思って悲観的になってしまいます。また、逆に、「よ~し、頑張るぞ!!」と我力全開でやってしまいます。その結果、頑張ってはいるけれど偽善的な自分に戸惑います。

でも、新約の人は、律法によってではなく、御霊によって歩む人です。冒頭のすばらしい実は、〝御霊の〟実であることに注目してください。〝肉の〟実ではありません。つまり、〝頑張りの〟実ではないのです。

私の中に住んでおられる御霊(聖霊)が、私という畑に実を結んでくださるのです。律法ではそんな実を結んだことがありません。どんなに厳しい水準の律法が定められても結ぶことができません。

たとえば、犯罪が深刻化している社会で、法律もどんどん厳しくなります。飲酒運転の厳罰化が進んでいます。最近ではあおり運転も厳しく取り締まります。種々の犯罪の厳罰化が進んでいます。御霊の働きを受け入れない世界では、厳罰化の方向は当然のことです。抑止力にはなりますが、御霊の実を結ぶことはできません。

律法は外側からの力です。本当に必要なのは内側からの力です。御霊は内側からの力となって、働きかけてくださいます。

私は何をすべきでしょうか。まず、御霊によって歩もうと決心することです。御霊が私の内側を支配なさるようにと祈るのです。信じてください。祈るなら、御霊なる神は私たちの中で働き始めてくださいます。と言っても、第三者的な立場から働かれるというより、私の霊とひとつになって、日々の生活に霊的な対応を導いてくださるのです。

御霊の働きは魔法ではありません。我慢げのない私が手のひらを返すように「寛容」になるわけではありません。でも、御霊は私の内にイエスの思いを目覚めさせ、他者(ひと)を怒るのではなく理解しようとさせてくださいます。不思議なものです。昔の私は短気で怒りっぽい性格でした。周囲が心配して、旅の土産に「忍耐」という楯を送るほどでした。それが、今では寛容の〝か〟の字が見えてきました。

一事が万事。御霊なる神は、実を結ぶために環境や出会いや出来事を適確に塩梅(あんばい)なさいます。人との争い事を用いて、御霊は私の中に「愛」の実を結ぶようになさるかも知れません。また、悲しみの中で、聖霊による慰めによって、「喜び」と「平和」の実を結ぶように導かれるかも知れません。

「桃栗三年、柿八年」といいますが、果実さえ時間がかかるのですから、天に属する御霊の実を結ぶためには時間と忍耐が必要です。聖書は、農夫の忍耐に学べと教えています(ヤコブ5・7)。涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取ります。種をたずさえ、涙を流して出て行く者は、束をたずさえ、喜びの声をあげて帰ってくることができます(詩篇126・5~6)。御霊の導きに期待しましょう。

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ガラテヤ人への手紙 4章

2022年06月18日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 4章
そして、あなた方は子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
(4・6)


先の3章では、イエスを信じて御霊を受けたことが、とても重要なことであると見ました。

聖書で啓示されている神は、三位一体(さんみいったい)の神です。御父なる神、御子なる神(キリスト)、そして御霊(聖霊)なる神です。三つの神が別々におられるのではなく、ひとりの神です。これを理屈で分かろうとしないことです。イエスを信じるようになると、直感的とでもいいましょうか、神からの霊感によって、あぁそうだなと腑(ふ)に落ちるようになるでしょう。

御父なる神は、とても大きな方で、見ることもふれることもできない。でも確かにいらっしゃる……そんなイメージです。御子なる神は、キリストとして世に来られました。人の姿で来られ、私たちに近づいて来てくださった神です。そして、御霊なる神です。御霊は信じる者の中に住んでくださる神です。このように、父…子…聖霊と、どんどんと近づいてくださる神であることが分かります。

旧約の時代……キリストが来られる以前の時代は、神は遠くに感じられました。それを象徴しているのがシナイ山です。モーセが十戒の石板を受け取った山です。この時、シナイ山に登って神に近づくのをゆるされたのはモーセだけでした。シナイ山は雲につつまれ、稲妻が鳴り響いており、人々は恐ろしくて、とても近づける状況ではありませんでした。

しかも、シナイ山の麓(ふもと)には注連縄(しめなわ)のようなものがはられていて、これ以上近づいてはならない。近づくと、神の聖さにふれて死ぬのだと言われていました。

このように、罪人にとって神は遠い存在でした。また、神は人間と共に住まおうと願っておられるのですが、人間の罪深さゆえに、そのままでは共に住むことができないのです。

さて、シナイ山で受け取った十戒の石板には律法が刻まれていて、神に近づくことのできる水準が記されていました。その水準に到達できれば、人間は神に近づくことができるし、神もその人の中に住むことができます。

そこで、旧約の人々(イスラエルの民)は、一生懸命に十戒に刻まれた律法を守ったのですが、到底その水準に到達できるものではありませんでした。

そして、ついに子なる神(イエス・キリスト)が来られました。神の方から近づいて来てくださいました。そして、十字架の血で人間の罪をきよめてくださいました。このキリストを信じる人は、罪のきよめを受けることができます。

御子が来られて、随分と神は近くになりました。それどころか、信じた者には御霊なる神がその人の中に住まわれます。これ以上近い関係はありません。これが、イエス様によって成立した新しい約束です。

それなのに、ガラテヤ教会の人々は、旧約に戻ろうとしていたわけですから、パウロは困惑したのです。「もう一度あなた方の所に行って、語調を変えて話してみたい」と願ったのです(4・20)

さて、御霊(聖霊)が内住されるということは……、

第一に、罪がきよめられた〝しるし〟です。 換言すれば、神に義と認められたしるしであり、救いを確証する印鑑のようにして与えられました。このことは、先の第3章で述べました。

第二は、神の子どもだという〝しるし〟です。 私の内に住まわれる御霊は、神を「アバ父」と呼ぶ心をくださいました。 ※「アバ」とは「とうちゃん」という、幼な子の父に対する親しい呼び方。

御子イエス様も、神のことを「わが父」と呼ばれました。そのイエス様が私の中におられるので ―御霊が内住なさっているので―、私も神のことを「アバ父」と呼ぶことができます(4・6)

これは理屈を越えて、天の神は私の父だと〝分かる〟のです。

肉親の父でもそうでしょう。血液型を調べたり、DNA鑑定をしたり、戸籍を根拠に、自分のお父さんを認めますか。そんな証拠があろうとなかろうと、お父さんだと分かります。そのように、御霊を受けた人は、神がお父さんだと分かります。

でも、旧約にとどまっている人 ―律法にとどまっている人― は、神のことを「主よ」としか呼ぶことができません。つまり、「主人よ」と呼んでいるわけですから、呼んでいる本人は僕(しもべ)の身分です。※4章21節以降、「女奴隷の子」と「自由の女が生んだ子」との区別がされている。

神に服従するにも、僕(しもべ)の心で恐れながら服従するのと、子の心で父を尊敬する思いで服従するのとでは違います。神の子供としての身分を受ける救いを、しっかりと受け取ってください。

さて、神の子どもであることがこんなにも素晴らしいことなのに、どうしてガラテヤの人々は容易に律法の世界に戻ってしまったのでしょうか。

実は、律法的に生きるのは人間としての性(さが)です。人の集団が生まれると「決まり」を作ります。そうしないと統率できないからです。得体の知れない〝自由〟に身をまかせるよりは、〝決まり〟によって管理するほうが容易(たやす)いのです。こうして、「決まり」という名の律法によって奴隷の身分に陥るのです。

新約の信者は奴隷ではなく神の子たちです。律法の下にいるのではなく御霊によって生きる者です。しかし、御霊によって生きることをやめてしまうと、容易に律法の生き方に逆戻りしてしまいます。 ※罪人という奴隷の性(さが)は、律法で管理されることに親和性がある。

だから、御霊によって目をさましていよう。聖霊の油を絶やさないようにしよう。「御霊によって生きる」という生活は、意識的にそうしないと身につきません。せっかく御霊によって神の子どもとされたのに、神の子であるキリストの姿は薄れて行きます。

だからパウロは、ああ、私の幼な子たちよ。あなた方の内にキリストの形ができるまでは、私はまたもや、あなた方のために産みの苦しみをすると述べています(4・19)

本来、私たち人間は神のかたちに創造されたのですが、神はそのかたちを回復するために産みの苦しみをなさっています。その回復過程の基本が「アバ父よ」と呼ぶ御子の御霊なのです。

この御霊によって神を「おとうさん」と呼ぶのです。神の子どもとしての本来の姿を回復するのです。こうして、神の御子であるキリストのかたちが回復して行きます。ですから、今日も神に向かって「おとうさん」と親しく呼んで生きよう。

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ガラテヤ人への手紙 3章

2022年06月17日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 3章
私はただこの一つの事を、あなた方に聞いてみたい。あなた方が御霊
(みたま)を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。(3・2)


先の2章では、律法に留まるのではなく、イエス・キリストの中に留まることの大切さを見ました。そして、イエスの中に留まる者に、神はその保証として御霊を注いでくださいます。

神の御霊を受けるということは凄(すご)いことなのです。旧約の偉大な聖徒たちも、神の御霊の〝内住〟を受けたことはなかったからです。

旧約の聖徒たちの働きは聖霊によるものですが、それは限定的なものでした。上から服を着るようにして、聖霊におおわれて働きましたが、聖霊が〝内住〟したわけではありませんでした。

旧約の預言者エゼキエルは、神の御霊が内住される時代が来ることについて、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授け、彼らの体から石の心を取り去って、肉の心を与える」と告げました(エゼキエル11・19、36・26)。 ※「肉の心」とは石のような固い心ではなく、肉のように柔らかい心の意味。

また、イエス様も、後に実現する聖霊の内住について語られたのですが、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのであると記されています(ヨハネ7・39)。イエス様が栄光をお受けになったら、御霊が信者の中に内住されるのです。つまり、この時点ではまだ、誰の内にも聖霊は内住なさっていないわけです。

聖霊が信じる者に内住なさるのは、イエスが栄光をお受けになった後だと説明しています。それはいつですか。イエスが十字架で死んで復活し、天に昇り、神の右に着座された時です。

ですから、前述のヨハネ福音書7章39節の時点では、まだ誰にも、聖霊の内住は実現していません。ましてや旧約の聖徒たちも同様です。

弟子のペテロが、イエスこそ神の御子キリストだと告白した時、それは、人間の力で告白できたのではなく、天の父の助けによったのだ……すなわち聖霊によるのだ、とイエスは解説されました(マタイ16・17)

この時点でも、ペテロや弟子たちは、聖霊の働きを受けてはいましたが、聖霊は内住していませんでした。つまり、聖霊の外側からの助けによって、「イエスは神の御子キリストだ」と告白しました。しかし、イエス様が大祭司の庭で裁判を受けた時、ペテロはイエスについて証言できず、「イエスを知らない」と拒絶してしまいました。なぜなら、聖霊の内住が実現していなかったからです。

しかし、ペンテコステの時に聖霊がくだり、弟子たちに聖霊が内住されるようになると、サンヘドリン議会で裁判の席に着いたペテロは、「イエスは神の御子キリストだ」と堂々と証言しました。

説明が長くなりましたが、申し上げたいことは、新約の恵みは聖霊が内住されることなのです。旧約のどんな偉大な聖徒たちも、聖霊の内住の恵みを受けたことがありませんでした。

なぜ、旧約の時代に、聖霊の内住が実現しなかったのでしょうか。それは、罪のきよめが完成していなかったからです。これは重要なことです。

旧約の時代は、律法によって罪がきよめられる準備をしました。動物による犠牲をほふって、罪のきよめを教えました。しかし、動物の血は、完全な罪のきよめをもたらしません。ですから、旧約では動物犠牲がくり返されてきました。つまり、律法によっては完全な罪のきよめは成し得ないことを意味しています。

しかし、ついにイエス・キリストが来られて、神の小羊として、私たちの罪のための生贄(いけにえ)となってくださいました。神の御子の血は、私たちの罪を完全にきよめました。そして、罪のきよめが完全に成し遂げられたところに、聖霊は内住なさるのです。

神の御子キリストは、罪をあがなうために来られたのですから、罪人の中で飲み食いして、共に住んでくださいました。しかし、御霊なる神は、罪のきよめられたところに住まわれるお方です。

ですから、聖霊の内住は、その人の罪が完全にきよめられたことの証しです。神に義とされたことの証拠です。救われたことの証印として、聖霊が内住なさっているのです。「あなたの救いは本物だ」という印鑑をおされたのです。

こういうわけですから、聖霊を受けるとはものすごいことなのです。聖霊の内住は、律法によってなし得なかったことなのです。

この聖霊の内住は、イエスを信じたから受けたのです。律法を行ったら受けたのではありません(3・2)。だから、律法にとどまろうとするのは、前進ではなく後退です。

すでに、1~2章で見てきたように、割礼を受けたり律法の行いに熱心になるのは、救いの確信を肉の感覚で得ようとするからです。そうではなく、私たちに内住される御霊こそ〝しるし〟なのです。3章ではそのように論理展開して行きます。

自分の良い行いで救いの確信を得ようとするのではなく、内住される聖霊によって確信を得るべきです。この感覚が希薄なので、キリスト教会が律法主義に陥って行きます。聖霊の感覚で救いを確かにしないので、肉の感覚で仕上げようとするのです。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのかと問うているのです(3・3)

そもそも、律法というのは救いの契約の後から定められたものです。救いの契約とはアブラハムとの約束のことで、律法はその後430年を経て与えられました(3・17)。だから約束の方が優位なのです。

では、何のための律法なのか。それは律法の行いによっては義とされないことを自覚するためです。つまり、律法を行おうとしても自分が罪人だと自覚するためです。そうすることによって、すべての人を罪の下に閉じ込めたのです(22)

でも、それは全ての人を罪人として滅ぼすためではなく、罪人を救うことになるキリストのもとへ導くためです。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのであるとはそういう意味です(24)

ですから、キリストにつながった私たちは、養育係である律法から解放されて、神の子どもとして約束の相続者なのです(25~29)。なのに、律法に逆戻りするなど断じてあり得ません。

自分の良い行いで救われるのではなく、イエス・キリストを信じることによって救われるのです。この信仰に留まってください。内なる聖霊によって確信を得てください……と、聖書は命じているのです。

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ガラテヤ人への手紙 2章

2022年06月16日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 2章
私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである。
(2・20)


ガラテヤ教会の人々は、律法の行いによって義とされると考えました。それは、信じて義とされるより、さらに水準の高い段階だと思われたのです。

「信じて義とされる」だけでは、頼りなくて、もっと手応えのある〝しるし〟が欲しくなるのです。例えば、礼拝出席を欠かさないとか、熱心な奉仕や献金であったり、また、人々からの称賛や承認が〝しるし〟となることもあります。

そのような〝しるし〟をもって救いを確信しようとするのです。肉なる感覚は、救いの確証となる具体的なしるしを要求します。そこで、律法を守って良い行いをし、きよい生活をすることで、この肉の感覚を満足させようとするのです。

福音は決して、「良い行い」とか「きよい生活」を軽んじてはいません。ただ、それを救いの根拠にしないのです。義とされるための行いではなく、信じて義とされた者としての行い……これが福音による行いです。順番を逆にしてはなりません。

律法の行いによって義とされようとする人は、律法がどういうものなのかを知らないのです。だから平気で律法的に生きようとします。でも、それは自殺行為です。 ※私は一度〝死にかけた〟のでもうやりません。

律法は神の義を啓示しています。神の義とは、神が満足なさる水準です。神が納得なさる聖なる水準です。律法の行いによって義とされようとする人は、行いによって神を満足させようとする人です。自分の立派さで神を喜ばせようとする人です。

何という無謀な行為でしょうか。何の装備もつけずに ―食糧や防寒具や酸素ボンベも持たずに― 行く手を阻(はば)むようにそびえ立つエベレストに登る人のようです。その結果は死です。

なぜなら、自分の力で、つまり肉の力で律法を行おうとすればするほど、自分が罪人であることを痛感します。そして、律法は、この罪人を死に定めていることを知ります。だから、ますます律法的に正しくあろうとして藻掻(もが)きます。このように、律法は、私たちが罪人であり、その結果は死であることを告げる役目を果たします。

でも、この律法のおかげで、死に定められた自分に身もだえしながら、救いを求めるようになります。そして、その救いは十字架のイエスにあることを発見するのです(3・22)

そういう意味で、誰しも律法を通過します。言いかえれば、行いによって ―自分の正しさによって― 救いを得ようとする道を通過します。行いによって、自分は良い人間になったかのように思い上がる道を通過します。良い人間になった自分が、だらしない他者を見くだすという傲慢の道を通過します。

そしてついに、どうあがいても救いようのない自分を見出すまで、人は律法にとどまろうとするのです。このような道は〝通過〟することはあっても、留まるところではありません。

しかし、この律法の道で散々苦労を味わっていない人は、キリストの救いの有難味(ありがたみ)が分かりません。そのような人にとって、律法は魅力的で、水準が高くて、霊的なことのように思えるのです。

こうして、一度はこの律法主義の迷路に迷い込んで、紆余曲折を経て、やっとの思いで再びキリストの十字架にたどりつきます。このように、誰しも律法を通過します。しかし、律法に留まったままではいけません。キリストの中に留まらなければなりません。

キリストに留まるとは、どういうことでしょうか。それはキリストと一緒になることです。キリストの中に入ってしまうことです。キリストを信じるとは、キリストの〝中に〟信じることです。

パウロはキリストの十字架を外から眺めているのではありません。キリストの十字架を他人事(ひとごと)のように見ていません。ましてや、2千年前の昔を振り返るようにして見るのでもありません。パウロは、そして私たちクリスチャンは、キリストの十字架の姿は私の姿であることを見出す人です。私はキリストと共に十字架につけられたのです。これは他人事ではありません。〝私が〟十字架につけられたのです(2・20)

キリストが私の身代わりになって十字架で死んでくださった……と表現されますが、それは、「だから私は死なずにすんで、今もそのまま罪人の私がのうのうと生きている」という意味ではありません。

キリストだけが十字架で死なれたのではなく、私も、キリストの中で、キリストと一緒に十字架で死んだのです。だから、律法が罪人に要求する死の刑罰は、あの十字架ですでに受けてしまいました。

どうあがいても律法は私を罪人だと宣告し、律法は私に死の刑罰を宣告します。でも、その刑罰は受けてしまいました。十字架のキリストの中で受けてしまいました。それどころか、さらに感謝なことは、私もキリストと一緒になって復活しました。死の刑罰を終えて、死の獄から出てきました。刑罰は終わったので、もはや罪人としてさばきを受けないのです。

こんなすばらしいことは、みなキリストの〝中で〟実現しています。律法の中ではあり得ないことです。律法の中にとどまるなら、死に定められるだけです。

キリストの中で、キリストと一緒になって私は生きています。律法から出て、キリストの中にとどまってください。

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ガラテヤ人への手紙 1章

2022年06月15日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 1章
私はそれを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。
(1・12)


ガラテヤ教会は違った福音に逸れて行く危機的な状況にありました。「違った福音」(新改訳では「ほかの福音」)といっても、そのような福音が別にあるわけではありません(1・6~7)。福音はひとつです。

ガラテヤ教会の人々をまどわしている教えは、パウロが伝えたイエスを信じて救われるという福音より、もっと高度な神学のように思われました。その内容は旧約の律法を遵守(じゅんしゅ)する教えでした。

イエスを信じたら、次はレベルアップして律法を守るのだ……というのです。信じるだけでは救われない。律法を行って義とされるのだ。そのために、まず割礼を受けなければならない……と。

ものは言いようです。確かに信じるだけで救われると言われても、見えない領域のことなので、救われた実感というか、救われた「しるし」が不明瞭なためにでもどかしいのです。

だから、救われた証拠となる具体的な〝何か〟がほしくなるのです。

ガラテヤ教会を惑わす偽教師たちは、その具体的なしるしとして、「割礼」とか「良い行い」が救いの証拠なのだと教えました。そう言われると、信じるだけよりも水準が高くて立派に思えてきます。

しかし、それはレベルアップではなく堕落です。前進ではなく後退です。無力で貧弱な霊力への逆戻りです(4・9)。このことを正すために、パウロはガラテヤ人への手紙を書きました。 ※聖書は行いを否定しているのではない。聖書は、信じて救われたなら、聖霊に促された行いがあらわれると教えている。ただし、その行いは救いの根拠ではない。

さて、パウロが語った福音の信憑(しんぴょう)性はどこから来るのでしょうか。つまり、それが神からのものだという証拠はどこにあるのかという問題です。パウロ自身は、それは人間からではない、イエス・キリストの啓示によったのだと証しました。

しかも、当時の教会の中心的な人物であるペテロや使徒たちにも会っておらず、そういう意味で、使徒たちからの受け売りでもない(1・17~19)。つまり、聖霊によって直接受け取ったのだというのです。

この説明を聞いて、パウロは本物だと思う人と、いや、むしろパウロは怪しい奴だと思う人と、意見は分かれるところです。

怪しいと思うのは、パウロが受けた福音が神からの啓示であるという証拠を、肉の感覚で確認しようとするからです。そこで、わけの分からない啓示よりも、目に見える具体的な証拠を信頼します。

たとえば、使徒ペテロから直接教えを受けたのであれば安心します。ペテロはイエスから直々に教えを受けた人だから、そのペテロに師事した人物の教えであれば間違いないと思うのです。

今日的には、△△神学校の卒業生だとか、◎◎博士に師事したとか、◇◇教団の牧師だとか……。そんな裏付けや肩書きがあれば確かだと思い、そうでないことを軽んじるといった考えです。 ※神学校とか所属教団の存在は軽んじてはならない。しかし、そこに重きをおくあまりに、聖霊による感覚に鈍感であってはならない。

イエス様の場合もそうでした。イエスに対して、当時の律法の専門家たちは、お前は何の権威で教えているのだと問いつめました。つまり、どこの神学校出身なんだ。師事したラビはだれなんだと問うたわけです。

これは、目に見える証拠で安心を得たいという肉の感覚です。律法の行いによって義を得ようとしたり、肉体に受けた割礼をもって救いの確証を得ようとする感覚と同じ性質のものです。

そのような肉の感覚ではなく、霊の感覚というのがあります。私の内に住まわれる聖霊の感覚です。パウロの語る福音の信憑性は、聖霊によって「本物だな」と分かります。

同じ聖霊を受けた者同士……それまで何の情報交換もしなかったけれど、会ってみて、互いが受けた福音を分かち合ってみると、同じだった。2章でパウロはそのことを証言しています(2・1~10)

パウロは、最初の啓示を受けた時から3年後に使徒のケパと主の兄弟ヤコブと会い(1・18~19)、それから14年間のブランクがあってエルサレム教会の主(おも)だった人たちと会ったのですが、聖霊はそれぞれに同じ福音を啓示してくださっていました。これこそ正しい福音なのです。 ※ペテロのこと。「ケパ」とはアラム語で「岩」の意味。同じくペテロもギリシャ語で「岩」を意味する。

祈りましょう。肉の感覚と聖霊の感覚とを区別させてください。そして、私の内なる聖霊の感覚がいつも目覚めていることができるようにしてください。
 
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