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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨブ記 42章

2019年06月06日 | ヨブ記
ヨブ記42:2 私は知ります。あなたはすべてのことをなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
 
神がヨブにお答えになった内容は、神が全知全能なるお方であることの啓示でした。これではヨブの疑問に答えたことにはなりません。なぜ、自分はこのような苦難を受けるのか……その理由が知りたい。これはヨブのみならず、苦難の中にある人々が問いたいところです。
 
しかし、神は直接的な答えを語られません
 
私たちが期待するところは、「実はね、天では『お前の信仰深さは神が豊かに富ませているからだ』という疑いがあってね……」などといった〝たねあかし〟をしてもらえると、「あぁそうだったんですか」と納得できるのですが、神はそれを伏せたままになさっています
 
たねあかしの〝たね〟の部分は、神の深い知恵とご計画に満ちています。この領域は新約の光で照らされることで、ようやく明らかにされてきました。ヨブがおぼろげに感じた「弁護者」の存在であるキリストのことです。
 
しかし、そのキリストの十字架の姿でさえ、世の人々の賢さでは理解できないようになさいました(Ⅰコリント1:18-21)。ましてや、ヨブの時代は旧約の光で照らされている程度です。神がたねあかしをなさったところで、それを理解できる者が果たしているでしょうか。
 
むしろ、神は、創造者としての圧倒的な存在と力をもって、被造者である人間に「謙遜と従順を知れ」と迫っておられるのです。ヨブは懇切丁寧な説明は受けませんでしたが、神の圧倒的な存在の前に屈服することを学びました
 
それが冒頭にあげた聖句です。「あなたには全てができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」。(新改訳)
 
もちろん、ヨブのような苦難はできるものなら受けたくありません。でも、受けるかも知れません。なぜなら、私たちはキリストに似た者として創造されているからです。キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にすることがあるからです(ローマ8:17)
 
しかし、そのような中でも神は「良くしてくださらないことがあろうか」と信じるのです(マタイ6:30)。神は私たちの本当の父ですから、私たちに「良いものをくださらないことがあろうか」と信頼するのです(マタイ7:11)
 
神は、そのような信仰者を求めておられるのです。一緒に苦労できる同労者を求めておられます。最後まで信頼してくれる、神の子どもたちを求めておられます。
 
いみじくも、はじめの頃のヨブは告白したのです。「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」と(ヨブ1:20)。この信仰を貫けば良かったのです。しかし、友人たちとの人間的な知恵や言葉の応酬の中で、いつの間にか「神の経綸を暗くした」のでした(ヨブ38:2・新共同訳)
 
さて、ヨブはこの後に繁栄を回復しました。以前の所有の二倍を与えられました(ヨブ42:10)。しかし、注意深く解釈すべきです。旧約では地上的な繁栄、物質的な繁栄をもって神の祝福が表現されています。
 
これを新約の時代に適用して、苦難を受けても回復しない人に、まだ悔い改めが足りないからだと非難したり、さばいてはなりません。ヨブに見せられた繁栄の回復は、最終的に与えられる天での栄光の姿を預言しているからです。
 
そして、天において、影も闇もない本物の光のもとで、地上生涯のあれこれの〝たねあかし〟がなされるに違いありません。私たちの知るところはまだ一部ですが、天で完全に知ることとなるはずです(Ⅰコリント13:12)
 
その時まで、私たちは、いかなる道でも神への信頼を保とう。神への謙遜と従順を学ぼう。そして、ヨブ記を思い出し「ヨブの忍耐」を学ぶことにしよう(ヤコブ5:10-11)。(Ω)

ヨブ記 41章

2019年06月05日 | ヨブ記
ヨブ記41:1 あなたは釣り針で、レビヤタンを釣り上げることができるか。 ※新共同訳は40章25節
 
全知全能の神は、ご自身の〝〟の領域についても語られました。ヨブに対しては「あなたはできるのか」と、その能力について問うておられるわけです。
 
具体的には「ふたつの獣」をあなたは制御できるかと言われます。ひとつは「ベヘモット」です。40章15節から「ベヘモット」という陸上に棲息する巨大怪獣を御(ぎょ)することができるのかと問うておられます。
 
口語訳も新改訳も「河馬(かば)」と翻訳していますが、今日私たちが知っている河馬ではありません。その尾は杉の木のように垂れていて、肋骨は鉄の棒のようだと言われています(40:17-18)。まるで巨大な草食恐竜のような出で立ちです。ですから河馬ではなくベヘモットと呼ぶべきでしょう。
 
ヨブよ。そして人間よ。こんなベヘモットを捕獲してその鼻をとらえることができるか。それがおできになるのは、創造主である神だけであると語られました(40:24)
 
もうひとつは、海に棲息する巨大怪獣の「レビヤタン」についてです。口語訳は「わに」と翻訳していますが、その程度の獣ではありません。13~17節はワニの屈強な表皮を連想させますが、41章全体で述べられているのは、人間には御することのできない恐ろしい海獣で(41:20-34)
 
レビヤタンは詩篇74章14節、同104章26節、イザヤ書27章1節にも言及されていてサタンの象徴として描かれています。そして、そのサタンはダニエル書およびヨハネの黙示録では「」として描かれています。
 
ベヘモットもそうですがレビヤタンも、これら巨大な獣を人間は御(ぎょ)することができないように、人は、獣である悪魔(サタン)を支配することができません。それがおできになるのは神である主だけです。
 
神に敵対するサタン(悪魔)の働きは世の不条理の原因です。ヨブ記で語られてきたように、善人でありながら苦難を受け、悪人であるのに繁栄するのはサタンの働きです。神の義をゆがめ、人々をして「神がいるならどうして……」と神への不信感を植えつけるのです。
 
しかし、神はこの獣を支配されます。そればかりか、神はそれを捕らえ、さばき、滅ぼす力をお持ちです。必ずそうなさいます。ただ、ヨブにはその全容が明らかにされていません。は、御力に満ちた神を信頼し、そのお方を礼拝するのみす。(Ω)

ヨブ記 40章

2019年06月04日 | ヨブ記
ヨブ記40:8 あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。(新改訳)
 
ヨブは主の御声を聞いて、自分の知識がいかに浅はかなものであるかを知って恥じ入ったのです。この程度の知識で神を知っていると思い上がっていた自分の姿が、神の御前にいかに小さく弱く見えたことでしょう。
 
だからヨブは告白しました。「見よ、私はまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口にあてるのみです(40:4)
 
人間同志の世界で正しいと思えても、それは人と比較して正しいだけです。清いといっても人との比較で清く感じるだけです。しかし、神の圧倒的な正しさや清さを前にして、人はひれ伏すしかありません。
 
「沖へこぎ出して網をおろしてみよ」とのイエスの命令に対して、漁師としての自負があったペテロは、半信半疑で網をおろしてみました。ところが大漁であったことで、ペテロはイエスの前にひれ伏しました。聖なるお方の前に、自分の卑しさを痛感したからです。ヨブの体験もペテロのそれと似ています。
 
そんな悔い改めをするヨブに対して、主は更に厳しく追及なさいました。それが冒頭の聖句です。人間の比較の中で「正しい」とか「間違っている」という判断は、神のさばきを無効にしてしまいます。
 
被造者(創られた側)としての立場は、神が絶対的な義であることを認めることが基本です。このお方にこそ本当の義があります。神の義の前には、人間ごときの正しさは「ただ手を口にあてるのみ」です。
 
では、人間は不義の存在として滅びるしかないのでしょうか。いいえ、絶対的な義である神が、私たちを「信仰のゆえに義と認めてくださる」のです。これこそ確実な正しさです。それを無視して、人間同志の比較で正しいか否かを論じることは、「神のさばきを無効にする」ことです。
 
神のさばきを信頼しよう。神のさばきの前には、私たちは絶望しかなく恐れおののくばかりです。でも、感謝すべきは、その神のさばきと御怒りは、すべて十字架の御子イエスの上に注がれました私はイエスの中ですでにこのさばきを受けました。そして、このさばきを受けた者は、もはや神の義と認められます。これを無効にする者はだれもいません。(Ω)

ヨブ記 39章

2019年06月03日 | ヨブ記
ヨブ記39:9 野牛は快くあなたに仕え、あなたの飼い葉桶のかたわらにとどまるだろうか。
 
 
先の38章では、主が〝嵐の中〟から語りかけられることについて考察しましたが、以後の本文にはふれませんでした。内容としては39章と同じで、神は天然界を支配される偉大なお方であることの啓示です。
 
神は「全知全能」のお方です。38~39章ではそのうちの〝〟の要素が取り上げられていて、「あなたは知っているか」と何度も問うておられます。次の40~41章は全知全能の〝能〟の要素が取り上げられて、「あなたはしたことがあるか」「あなたはできるか」と問うておられます。
 
神の全知全能の偉大さの前に、ヨブよ、そして人よ、謙遜になりなさいと語りかけておられます。
 
38章では、神が万物の創造者であり、そしてその創造の経緯をあなたは知っているのかと問います(4-7)。8節以降は、海と陸の境を決められたのは神である。16節からは、海の奥底までも神は御存知で、その更に奥底の「死の門」をあなたは知っているのかと。
 
「死の門」をくぐればその先は陰府(よみ)です。死者の行くところです。人は、人が死んでどうなるのかを知りません。でも、神は陰府をも創造された方ですから御存知です。そして、神の御子イエスは十字架に死んで陰府に降り、「死の門」を打ち壊して復活なさるのです。このようなことは神が知っておられる領域であり、神の知恵がなければだれも分かりません。
 
以後、光と闇の区別、雨や雪や氷の神秘、さらに天体の神秘にまで話題は及びます。
 
そして39章に入って、動物たちの生態の神秘へと話題が進みます。特に、冒頭に掲げた聖句は興味深いところです。野牛は人間になつかないと指摘しています(39:9-12)。かたや牛は家畜として人に従い谷間を耕すことができます。このようにしたのは神の知恵です。
 
神は動物を創造なさるときに「家畜」と「」を区別なさっています(創世記1:25)。人間に従う動物は家畜として、人間になつかない動物は獣として創造されました。野牛は見た目も牛ですが、家畜にはなりません。シマウマも馬とは違います。オオカミも犬とや違います。ヤマネコもネコとは違います。
 
やがて、神がそのように創造なさった意図が明らかになります。神に従わない人間のことを、聖書では〝〟と呼ぶようになります。そして、その獣が終わりの時代に神と戦い滅ぼされる様子が黙示録に啓示されています。
 
かたや家畜の代表的存在である羊は、神の御子イエスを象徴しています。イエスこそ神の小羊として描かれ、神への全き従順をなさったお方です。
 
こんな区別が神の知恵として隠されています。神は、御子イエスを通してご自身の知恵を啓示しようと計画なさっています。なのに、ヨブをはじめその友人たちの議論は、人間の浅はかな会話に過ぎません。だから、神は言われるのです。
 
「無知の言葉をもって、神のはかりごとを暗くするこの者はだれか」と(38:2)
 
キリストを抜きにして、人はなんのために生きるのかとか、なぜ苦難があるのかとか、苦難にあわないためにはどうしたら良いかとか、そんな議論は、「知識もなく言葉を重ねて、神の経綸を暗くする」のです(新共同訳)
 
さあ、キリストを知ろう。キリストを受け入れよう。深遠なる神の経綸も知恵もこのお方の中で知ることになるからです。(Ω)

ヨブ記 38章

2019年06月01日 | ヨブ記
ヨブ記38:1 主は嵐の中からヨブに答えておおせられた。(新改訳)
 
長い沈黙を破って主はヨブ答えられました。その御声は〝嵐の中から〟でした。嵐の中からの語りかけは2回あります(40:6)。なぜ、主は嵐の中から語りかけられたのでしょうか。 ※口語訳は「つむじ風の中から」。
 
人は嵐の中で立ちすくみます。自分の弱さや小さなことを痛感します。それまで、人は自分で何でもやれると思い上がっていますが、嵐の中ではじめて自分の弱さに気づき、自分の小さいことに目覚めるのです。
 
言いかえれば、人は嵐と出会うことによって本当に自分と出会うのです。本当の自分に気づくのです。
 
イエス様の例え話の中でも、砂の上に建てた家は、洪水が押し寄せてきて初めて、それがもろい土台の上に建てられた家であることが分かると言われました。それまでは、自分は立派な家を建てていると自負しています。
 
かつてのヨブも、自分は信仰深いし、行いも正しいし、申し分のない人生を建て上げてきたと思っていたでしょう。そんな彼ですから、今回の苦難の中で、なおも自分は潔白だと言い張り、神のなさっていることは不当だと訴えています。
 
そんなヨブに、おのれの小さきことを悟らせるかのように、主は嵐の中から語られたのではないだろうか。
 
現在の私たちも同じことが言えるかもしれません。人生の嵐ともいえる時、それは嵐をも支配なさる神との出会いであり、嵐の前に無力な本来の自分との出会いが用意されているのではないだろうか。
 
38章からの主からの語りかけは、まさに、ヨブがいかに小さな者であるかを思い知らせることになります。そして、嵐の中から語られる主の御前に、へりくだってひれ伏すことになるのです。(Ω)

ヨブ記 37章

2019年05月31日 | ヨブ記
ヨブ記37:23 全能者は───我々はこれを見出すことができない。
 
エリフは更に語ります。我々は神をいったいどれほど知っているのだろうかと。先の36章では、「見よ、神は大いなるものにいまして、我々は彼を知らない」と述べ(36:26)、様々な天然現象の神秘を列挙します(36:27-33)
 
そして、37章に入っても、神は雷鳴のごとく力強く語り、その働きをなさるのだが、「我々の悟りえない大いなることを行われる」のです(37:1-5)。そして、引き続き天然界の神秘とそれを支配なさる神の偉大さを語ります(37:6-18)
 
だから、ヨブよ、こんな大いなる神と論議したいなどと無謀なことをどうして要求するのだ。そんなことをしても滅ぼされるだけだと諭すのです(37:20)
 
結局のところエリフも、ヨブがなぜ苦難を受けているのか、説き明かすことができませんでした。ただ「全能者なる神を、人は見出すことができない」という結論で終わります。人間には神は偉大すぎて、神を知ることができない。だから苦難の意味もすべてを説明できないというわけです。
 
しかし、申し上げておきたいことは、神は決してご自身を隠そうとはなさっていないお方だということです。むしろ、神はいつの時代も自己紹介をなさるお方です。旧約聖書の時代は〝使いの者〟を通して自己紹介をなさいました。使いの者とは「天使」であったり、天使から教えを受けた予願者たちです。
 
そして、わりの時代に、神はご自分の御子イエス・キリストを通して自己紹介をなさいました(ヘブル1:2)。これぞ究極の自己紹介です。
 
ですから、今や御子イエス様を通して神を知ります。この御子イエス・キリストの受けられた苦難の中に、苦難の意味が啓示されています。そして、その苦難はやがて栄光の復活へとつながっていることを知るのです。
 
エリフもヨブも知り得なかった神を、今やイエス・キリストを通して知るのです。イエス・キリストの中で苦難の意味を知り、イエス・キリストの中で苦難は復活の希望へとつながるのです。(Ω)

ヨブ記 36章

2019年05月30日 | ヨブ記
ヨブ記36:22 見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。
 
エリフは先の35章では、まだ充分に神について語り尽くしていないと感じたようで、きちんと説明するからもう少し私の話を聞いてくれと……彼の神論を続けます(36:1-4)
 
神はどのようなお方なのかがテーマです。
 
冒頭の聖句が示すように「神は教えるお方だ」と。新改訳や新共同訳では「教師」と訳し、「神のような教師がだれかいようか」と述べています。
 
すでに33章でも見たように、人が罪ゆえに滅びないように、神は苦難をもって悟らせるのだとありましたが、「教育的手段としての苦難」を説明しています。そして36章でも、神は良き教師のようにして人を訓練し教えられるお方だと述べます。
 
力強い神は悪しき者を放っておかず、虐げられている者を引き上げてくださるお方です(5-6)その神は、悪い者たちに何が問題なのかを教えその罪を告げて(9)悪から立ち返るように命じられるのです(10)
 
このような神だから賛美こそすれ(24)、神に向かって反論するなどもってのほかであると、エリフは語るのです。
 
神が、苦難を用いて私たちを教え諭(さと)すお方であることに異論はありません。神は愛する者を訓練なさるお方です。しかし、人生におけるすべての苦難とか災いを説明できていません。「教育的手段としての苦難」ではない苦難があるからです。
 
それは「あがないとしての苦難」です。罪のない御子イエス・キリストは、全人類の罪を引き受けて苦難を受けられました。そのような苦難を、キリストに属する者たちも体験することもあると思います。
 
また、「きよめるための苦難もあるでしょう。黙示録が預言する終わりの時代は苦難の預言です。患難期とも呼ばれる時代が来ると語られています。それは、地上的な利益のために信じるといった〝不純物〟をきよめるための苦難です。
 
いずれにせよ、私たちの確信は「神は苦難の中にも共におられる」ということです。たとえ、苦難の中にあっても、神の愛は薄まるどころか、むしろより濃く、より深く啓示されるのです。だからこそ、ユダヤ人もキリスト教会のクリスチャンも、今日に至るまでその信仰を受け継いでいるのだと思います。(Ω)

ヨブ記 35章

2019年05月29日 | ヨブ記
ヨブ記35:14 あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは(神の)御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。(新共同訳)

 
ヨブは「神は私を〝正しい〟としてくださるはずだ」と主張しているが、はたしてその考えは正当なのだろうかとエリフは反論します(35:1)。その反論の根拠は、一方でヨブが「人が罪を犯さないからといって、それが神の役に立つのか」とも言うからです(2)
 
人間の正しさとか人間の過ちとか……そんなことは人間界の下々(しもじも)のことであって、偉大な神にとって痛くも痒くもない。神になんの影響も及ぼさないのだとエリフは論理を展開します(5-8)
 
だから、人間ごときが「自分は正しい」と主張することは愚かなことであって、ヨブが「自分は潔白だ」とか「神は私に訴えを聞いてくださらない」とか騒ぎ立てることを戒めています(15-16)。そのような叫びに神が答えてくださらないのは「悪しき者の高ぶりによる」と指摘します(12)
 
つまり、ヨブの訴えに神が答えてくださらないのは、彼が高慢であるゆえだと指摘するのですが、はたしてそうでしょうか。その理屈で言うなら、祈りが聞かれないのは不信仰だからであり、祈りが足りないからでです。それはカルト宗教が信者を熱心にさせるための手口と同じです。
 
私たちの祈りは神に届いています。エリフがいみじくも述べているように、「あなたの訴えは(神の)御前にある。あなたは神を待つべき」なのです(14)
 
不信仰だからだと自分を責めたり他者を責めるのをやめよう。祈りが足りないからだと脅すのをやめよう。信じて待とう良きことをなさる神であることを信頼して待とう
 
最後にもうひとつ。エリフはヨブの主張に矛盾を感じたようですが、私はそうは思いません。ヨブが主張するように、人の正しい行いが神に役に立つとがあるでしょうか。人の小賢しい正しさが神を喜ばせるとでも言うのでしょうか。
 
ヨブが主張しているのは〝神が〟私を正しい者だとしてくださることを期待しているのです。不完全な人間ごときが正しいことを行ったり、自分は正しいと主張しても、それで正しいとされるのではありません。
 
では〝どうやって?〟……どうしても、行いを考えてしまいます。行いではなく信仰によってです。神を信頼する信仰によって、神はその人を義と認められるという世界を知ってほしい。ヨブよ、そしてヨブにつながる人々よ、「信仰によらなければ神を喜ばせることはできない」という世界を知ってほしい。(Ω)


ヨブ記 34章

2019年05月28日 | ヨブ記
ヨブ記34:17 いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。(新改訳)
 
繰り返すことになりますが、ヨブは「自分は潔白である」と主張してきました。エリフはそれを再確認しています(34:5-9)。しかし、ヨブがそのように主張すればするほど、「神に間違いがある」「間違っているのは神だ」と主張することになってしまうわけです。
 
だから、エリフは「神は断じて悪を行うことなく、全能者は断じて不義を行うことはない」とヘブル的神学の正統理論を述べます(10-11)。かたや人間味あふれるギリシャ神話では、神々が多くの過ちをおかすわけですが、それとは正反対です。
 
さらに、神がいかに正しいお方であるかを論じて行きます。神はえこひいきをなさらない方であること(19-21)。そして、神の目にはどんな悪も隠せることがなく、それを確実にさばくお方であることを語ります(22-30)
 
31節からは翻訳によって随分と違いがあります。大まかな意味は「私は罪をおかしました。もうしません」と申し上げても、どのようにあなたを裁くかは神のなさることだ。なのに、ヨブよあなたは神に対して反論するのか……といったところです。 ※口語訳では「私は罪を犯さないのに懲らしめられた」(31)と訳しておりニュアンスが異なる。
 
さあ、冒頭の聖句を考えてみましょう(34:17)
 
はたして神に問題があると言えるのかと問うています。多くの人が、苦難や災害があると「神がいるならどうしてこんなことが……」「ほんとうに神は愛なのか……」と叫んでしまいます。つまり、神を罪に定めることをしてしまいます。
 
神がいるならどうして……と問うのは〝利益のために信じる神〟を求めているからです。世の一般宗教はそうですが、キリストへの信仰は違います。 ※ヨブが苦難を受けるきっかけは、「神から良くしてもらっているからヨブは信心深いのだ」というサタンの疑問であった。
 
私たちにも問われています。「あなたは何のために信じているのですか」と。神と共に生き働くのが、被造者である人間としての本分だからです。ですから、良くても悪くても神を信頼して神と共に生きるのです。 ※本分とは〝あるべき姿〟のこと。
 
ですから、神がおられるのに災いを受けることがあります。神が愛であられるのに苦難を受けることがあります。しかし、その神が、人となって来られて、人類史上ほかにないほどの苦難を受けられたことを忘れてはなりません。しかも、それが私たちの罪の支払いであったことを……。(Ω)

ヨブ記 33章

2019年05月27日 | ヨブ記
ヨブ記33:30 魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させられる。
 
エリフの論旨は、神が苦難とか災いをおゆるしになるのは、教育的な意味があるだという内容です。懲らしめられることで人は正され、滅びに至ることを免れるためだと教えています。
 
ヨブはこんなに神に叫んでも答えてくださらない、神は私の敵となられたのだと言っているが、「神はある方法で語られ、また他の方法で語られるが、人はそれに気づかない」とエリフは諭します(33:9-14)
 
つまり、エリフにいわせれば、寝床で恐ろしい幻や夢を見るとか(15-17)体調の異変とか(19-22)、そんな諸々の災いの中で、神は警告するかのようにして語りかけておられるのだというのです。
 
それは、その人の「魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、剣で滅びないようにされる」ためです(18)。同様の主旨のことが24節にも30節にも記されています。
 
口語訳は「墓に至らないため」ですが、「墓」は別訳では「滅亡」とか「よみ」と訳されています。いずれにせよ、神は苦難や災いをもって私たちに悔い改めへと導き、滅びないように(よみにくだって行かないように)語りかけておられるのだというのです。
 
確かにそのように神はあえて苦難をおゆるしになることがあります。旧約における民は神の教育的苦難を度々受けています。その度に、民は悔い改めて神に立ち返った歴史が記されています。
 
神は、私たちを愛する故に訓練なさるのです。わが子が罪に汚れるのを放っておかれません。だから懲らしめられます。問題はそれが該当する場合もあれば、そうではないことがあります。
 
エリフの教えも一面では確かにそうなのですが、すべての問題を説明することができません。すべての問題を解決できてこそ真理です。そして、真理はあなた方を自由にするのです。(Ω)

ヨブ記 32章

2019年05月25日 | ヨブ記
ヨブ記32:18 私には言葉が満ち、私の内の霊が私に迫るからだ。
 
ここにブズ人のエリフという若者が登場します。先の3人の友とは別人です。早い段階からヨブたちの議論を聞いていたようですが、発言は慎んでいたようです。
 
エリフは〝ブズ人〟とありますが、ブズ人はアブラハムの兄弟ナホルの子孫だといわれています。3人の友たちは皆イスラエルからすれば外国人ですが、エリフは直系ではないものの近い存在です。そんな彼の意見の背景にはヘブル的神学の影響があるようです。
 
さて、「人間の不幸は罪の結果である」と主張する3人の友と、それに対して「自分は潔白だ」と主張するヨブとの論争はかみ合わないままです。業を煮やしたエリフは、「自分は正しい」と主張するヨブの傲慢に苛立つと共に、ヨブに答えることのできない3人の友たちにも怒りを覚えています。
 
冒頭の聖句は新共同訳では「言いたいことはたくさんある。腹の内で霊が私を駆り立てる」と訳しています。「新しいぶどう酒の皮袋のように」(32:19)と記されているように、エルフは言いたくて仕方がないのです。 ※新しいぶどう酒がアルコール発酵するので皮袋が膨張するようにエリフの言葉はあふれ出てきている。
 
エリフの論旨には今までの3人にはなかった視点があります。それは人が霊的存在であるという点です。8節でも「人の内には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える」とありますが、全能者の息とは霊という意味です。人の本質は霊であり、霊から絞り出すような言葉が真実なのだという理解です。
 
日本的にいえば〝魂の叫び〟です。知性とか理性とかから出てくる言葉ではなく、彼の深いところである霊からの言葉のことです。たしかに真実な言葉は人の霊からの言葉です。「人の思いは、その内にある人間の霊以外にだれが知っていようか(Ⅰコリント2:11)と記されているとおりです。
 
問題はその霊はきよめられているのかどうかです。神は人の霊に聖霊を住まわせようと計画なさっています。しかし、それが実現するのはイエス・キリストが十字架で罪のきよめをなし終えた後です。
 
聖霊を受けて語ろう。聖霊によって錬られた〝わが霊魂〟からの言葉で語ろう。(Ω)

ヨブ記 31章

2019年05月24日 | ヨブ記
ヨブ記31:35 だれか私の言うことを聞いてくれる者はいない者か。……ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるように……私を訴える者が書いた告訴状があれば、私はそれを肩に担ぎ、冠のように、それをこの身に結びつけ、私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにしてこの方に近づきたい。(新改訳2017)
 
冒頭の聖句は難解な箇所です。新改訳2017版でいう「ここに私の署名がある」は、新共同訳では「見よ、私はここに署名する」。口語訳では「私の書き判がここにある」。新改訳は「見よ、私を確認してくださる方」。
 
先の29章では、かつてのヨブは人々から尊敬を集めるほどの人格者であったこと。しかし、30章では、そんなヨブは不当な仕打ちを受けているが、神は答えてくださらない。そしてこの31章で、ヨブは自分が潔白であることを堂々と訴えています。「正しいはかりをもって私を量れ。そうすれば神は私の潔白を知られるであろう」と述べているとおりです(31:6)
 
1節の「私はわたしの目と契約を結んだ」とは、この目が女性を姦淫の目で見ないようにしたという意味です。好色の罪を犯さなかったと述べます。また、5節からは「嘘つきではない」と述べ、9節では「姦淫の罪も犯していない」と主張します。もし、そのような罪があるなら、私は徹底的に滅ぼされて当然だと言います。
 
以後、様々な罪が述べられ、ヨブはそれらの罪に対しても潔白であると主張し、最後に冒頭の言葉を述べるのです。
 
だれか私のこの訴えをきちんと受けとめてくれ。私の証言には偽りがないことを表すための印鑑を押したのだ……と。書面に直筆の署名をした正式な告白です。これに全能者である神が応答してくれるようにと願っています。
 
いやいや、ヨブよ。お前には罪があると訴える「告訴状」があれば、なお好都合だ。それに反論するに足る証言をもっているので、その告訴状をわが身に付けて、堂々と神の御前に出るのだ。以上が35~37節の意味です。
 
いったいこのヨブの確信は何なのでしょう。ひとつの見方は、ヨブの高慢です。被造者である立場の「正しい」とは、神の如く完璧であることを意味しないからです。造られた者としての〝分〟をわきまえ、その 〝分〟  を越えないことこそ被造者としての正しさです。
 
もうひとつの見方があります。ヨブがいみじくも語ってきた「贖う者」「保証する者」「代わりの者」の存在です。キリストの存在があれば、私たちは大胆に神の御前に出ることができます。しかし、まだこの時点ではそれらは明らかにされいません。
 
「自分は潔白である」というヨブの証言を読むと、これほどまでに正しくなければならないという意味になります。ヨブはそうできたのかも知れません(これは皮肉です)。でも、私にはできません。痛いところをチクチク刺されます。ああ、私はヨブのようになれないと思います。
 
でも、祈ります。「主よ、私はヨブのようではないことを感謝します。ヨブのように立派でないからこそ、私にはキリストが必要です。こうして今、キリストは私と共におられて執り成してくださることを感謝します」。(Ω)

ヨブ記 30章

2019年05月23日 | ヨブ記
ヨブ記30:20~21 私はあなたに向かって呼ばわっても、あなたは答えられない。私が立っていても、あなたは顧みられない。あなたは変わって、私に無常な者となり、御手の力をもって私を責め悩まされる。
 
先の29章では、過去を振り返って「昔はよかった」と告白していました。昔は、若者たちから老人までがヨブを尊敬してくれました。「しかし、今は私よりも年若い者が、かえって私をあざ笑う」のです(30:1)
 
昔は、ヨブは人々からの称賛のまとでした。「それなのに、私はいま彼らの歌となり、彼らの笑いぐさとなった」のです(30:9)。人々はヨブを忌み嫌って遠ざかり、情け容赦なくつばを吐きかけ、蔑むのです(30:10)
 
あまりにもの落差。見事な手のひら返し。なんと悲しいことか。やり場のない悲しみや怒りがヨブの魂を揺さぶるのです(30:27)
 
このヨブの叫びは神に向かっています。でも、神は応えてくださいません。最後の望みの綱である神からの応答もない状態……。これが本当の〝死〟なのだと思います。人の死とは、単なる肉体の死を意味するのではなく、神との断絶です。ヨブはそんな死の苦しみを受けていたのです。
 
神の御子イエス・キリスト栄光ある神の御姿であるお方ですのに、人々からあざけられ、つばを吐かれ、痛めつけられ、はずかしめを受けられました。そして、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどに神との断絶を味わわれたお方です。
 
ヨブの苦しみがイエスのそれと同じだとは断定できませんが、時に御子の苦難を共にするような経験が人には与えられるのかも知れません。なぜそうなさるのか。それに対する明確な回答を私は持ち合わせていません。
 
ただ、ヨブ(私・あなた)と同じような苦難を、否それ以上の苦難を引き受けられた罪なきお方がイエス様であることは事実です。このお方を受け入れ、このお方と共に苦しみ、共に喜ぶ者に真実な回答があるような気がします。(Ω)

ヨブ記 29章

2019年05月22日 | ヨブ記
ヨブ記29:2 ああ、できれば私は、昔の月日のようであったら良いのに。神が私を守ってくださった日々のようであったら良いのに。(新改訳)
 
ヨブは過去を振り返って懐かしんでいます。昔は良かった。昔のようであったら良いのに……と。
 
かつてのヨブの様子が描かれています。神の光がヨブを照らしていて、暗闇でも明るく歩くことができたのです(29:3)。どれだけ栄光に富んだ生き方だったのでしょうか。
 
ヨブは人々から尊敬を受けました(29:7-11)。それは、彼が貧しい人や弱い人々を助けたからです(29:12-20)。そんなヨブの発言に人々は一目を置き、首長や王たちもヨブに意見を求めるほどでした(29:21-25)
 
ヨブって凄い人だったのです。まるでキリストのような姿にも見えます。ところが、今は見る影もありません。次の30章では嘆きの言葉がつづられています。
 
どうしてこのようなことがあるのだろうか。私も説明できません。
 
ただ言えることは、光を創造なさった神は闇も創造なさったのです。平和を造られた神は、わざわいも創造なさったのです(イザヤ45:7)。これを創造なさったからには、光であろうが闇であろうが、平和であろうがわざわいであろうが、すべては神の御手にあるという意味です。
 
そして、それを神は御心のままにお与えになる権威があるのです。それは陶器師が陶器をいかような形にも造る権限があるのと同じです。だから、陶器は陶器師に向かって不平を言うことができないのです(イザヤ45:9)。でも、神はあわれみ深いお方です。不格好に造られた陶器さえも、栄光を盛るために計画なさっているのだと言います(ローマ9:2-23)
 
私たちには分からないことばかりです。でも、確実に言えることは、すべては神のご支配の中にあり、すべては神の御手の中で益と変えられるということです。ただただ、神を信頼するしかありません。ただただ、今は苦難の中にあることをおゆるしなっている神の権威に従うのみです。
 
だから、「過去は良かったが今は悪い」と言うのをやめよう。「今は恵みの時だ」と信じよう
 
もう一点、ヨブの心を探ってみたいことがあります。かつて繁栄していたときは、神が共におられて云々……と述べています(29:5)。ということは、今は神は共におられないとヨブは感じているのです。
 
果たしてそうなのでしょうか。神は沈黙なさってはいますが、共におられるお方です。
 
足跡」という詩をご存知でしょうか。
 
過去を振り返るとイエスと私のふたり分の足跡があった。しかし、あるときから足跡はひとり分になっていた。ひとり分の足跡の時代はちょうど自分が苦難の時と符合する。ということは、その苦難のときイエスさまは私を離れて見捨ててしまわれたのか。
 
それに対して「いや、あの苦難の時、わたしはあなたを背負って歩いていたから、足跡はひとり分なんだ」とイエスは答えられたのです。
 
ヨブの一番苦しいとき、神は共におられないと思えるとき、ヨブ以上に苦難を受けられたキリストが、ヨブと共におられることを知ってほしい。(Ω)

ヨブ記 28章

2019年05月21日 | ヨブ記
ヨブ記28:20 それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。
 
冒頭の言葉と同じ問いかけが12節にもあります。ヨブは神の知恵を求めたのです。これは3人の友人との対話によって到達できなかったことです。友たちはさも究極の知恵であるかのように語ったが、満足の行くものではなかったのです。
 
それまでも人間は様々な知恵を得てきました。地中の奥深くから金鉱石や鉄鉱石を掘り出し、それを製錬する知恵を得て来ました。奥深い山の中にそれを見出す道を見つける知恵はなんと優れたことか。他のどんな動物たちも見つけ出すことができない(28:1-11)
 
しかし、本物の知恵に至る道が分からないのです。
 
いったいどこにその道があるのだろうかと探究するも、「淵」も知らないと言い、「海」も知らないと言う。大自然のどこにも見出すことができません(28:13-14)。また、「滅びと死」にたずねてみても、噂を聞いただけでよく分からないと答えます(28:22)
 
その知恵は純金によっても買えず、様々な高価な宝石によっても買うことができない(28:15-19)。いったい、本物の知恵はどこから来るのか(28:20)
 
12節と20節に知恵を求める問いかけが2回記されていますが、両者に変化があります。最初は「どこで見つけられるのか」と問うています。人間の側から一生懸命探して到達しようとしています。
 
しかし、最後の問いかけは「どこから来るのか」と問うています。
 
つまり、人間の側から探しても到達できない。神の側からやって来ないと知り得ないのです。神からの啓示がなければ、だれも知ることのできないのが知恵なのです。
 
一般宗教はみな「人間から神に到達しよう」という方向です。人間が探した知恵とか、人間の立派な行いとか……。そのような哲学や理論を幾重にも積み重ねて天に至ろうとする道です。まさにバベルの塔です。
 
しかし、聖書が示す信仰は「啓示宗教」です。ベクトルが逆です。神が知恵を啓示し、神が道を用意なさるのです。その究極が、神の側からやって来られたイエス・キリストです。このお方にこそ、神の知恵が満ち満ちています。このお方こそ天への道です。このお方を通して父なる神に出会うのです。(Ω)