ヨブ記42:2 私は知ります。あなたはすべてのことをなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
神がヨブにお答えになった内容は、神が全知全能なるお方であることの啓示でした。これではヨブの疑問に答えたことにはなりません。なぜ、自分はこのような苦難を受けるのか……その理由が知りたい。これはヨブのみならず、苦難の中にある人々が問いたいところです。
しかし、神は直接的な答えを語られません。
私たちが期待するところは、「実はね、天では『お前の信仰深さは神が豊かに富ませているからだ』という疑いがあってね……」などといった〝たねあかし〟をしてもらえると、「あぁそうだったんですか」と納得できるのですが、神はそれを伏せたままになさっています。
たねあかしの〝たね〟の部分は、神の深い知恵とご計画に満ちています。この領域は新約の光で照らされることで、ようやく明らかにされてきました。ヨブがおぼろげに感じた「弁護者」の存在であるキリストのことです。
しかし、そのキリストの十字架の姿でさえ、世の人々の賢さでは理解できないようになさいました(Ⅰコリント1:18-21)。ましてや、ヨブの時代は旧約の光で照らされている程度です。神がたねあかしをなさったところで、それを理解できる者が果たしているでしょうか。
むしろ、神は、創造者としての圧倒的な存在と力をもって、被造者である人間に「謙遜と従順を知れ」と迫っておられるのです。ヨブは懇切丁寧な説明は受けませんでしたが、神の圧倒的な存在の前に屈服することを学びました。
それが冒頭にあげた聖句です。「あなたには全てができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」。(新改訳)
もちろん、ヨブのような苦難はできるものなら受けたくありません。でも、受けるかも知れません。なぜなら、私たちはキリストに似た者として創造されているからです。キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にすることがあるからです(ローマ8:17)。
しかし、そのような中でも神は「良くしてくださらないことがあろうか」と信じるのです(マタイ6:30)。神は私たちの本当の父ですから、私たちに「良いものをくださらないことがあろうか」と信頼するのです(マタイ7:11)。
神は、そのような信仰者を求めておられるのです。一緒に苦労できる同労者を求めておられます。最後まで信頼してくれる、神の子どもたちを求めておられます。
いみじくも、はじめの頃のヨブは告白したのです。「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」と(ヨブ1:20)。この信仰を貫けば良かったのです。しかし、友人たちとの人間的な知恵や言葉の応酬の中で、いつの間にか「神の経綸を暗くした」のでした(ヨブ38:2・新共同訳)。
さて、ヨブはこの後に繁栄を回復しました。以前の所有の二倍を与えられました(ヨブ42:10)。しかし、注意深く解釈すべきです。旧約では地上的な繁栄、物質的な繁栄をもって神の祝福が表現されています。
これを新約の時代に適用して、苦難を受けても回復しない人に、まだ悔い改めが足りないからだと非難したり、さばいてはなりません。ヨブに見せられた繁栄の回復は、最終的に与えられる天での栄光の姿を預言しているからです。
そして、天において、影も闇もない本物の光のもとで、地上生涯のあれこれの〝たねあかし〟がなされるに違いありません。私たちの知るところはまだ一部ですが、天で完全に知ることとなるはずです(Ⅰコリント13:12)。
その時まで、私たちは、いかなる道でも神への信頼を保とう。神への謙遜と従順を学ぼう。そして、ヨブ記を思い出し「ヨブの忍耐」を学ぶことにしよう(ヤコブ5:10-11)。(Ω)

