詩篇106:44 それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。(新改訳)
「ハレルヤ詩篇」の3番目は、度重なるイスラエルの民の罪と神のゆるしが述べられています。この詩篇を「罪の告白の詩篇」と呼ぶことにします。
出エジプト後の荒野の旅でおかした罪を始め、カナンの地に入ってからの数々の罪が取り上げられています。真実を尽くされる主なる神に対して、不真実をもって応える民の歴史です。
神を忘れた。神を試みた。聞き従わなかった。主を怒らせた。偶像をおがんだ。こんな記録の連続です。イスラエルの不信仰な姿は、人類の姿でもあります。
しかし……です。人間がそのようにあっても……です。
今日の御言は告げています。「それでも、彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた」のです。そして、「主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた」のです(106:45)。
神はいつも真実な方です。それが神の栄光です。真実な栄光の光で、神は闇を滅ぼされます。神の真実な光は、人間の罪をきよめ、その背後にある悪魔のわざを滅ぼされます。
神の真実を信頼しよう。恵み豊かな神のあわれみを信頼しよう。
さて、この詩篇では、「私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った」(6)と述べているように、先祖たちをはじめ自分たちの罪を赤裸々に告白しています。先祖の罪だから自分に関係ないのではなく、自分たちも同じように罪を犯したのだと悔い改めるのです。
そのような生き方は自虐的で嫌だと思う人もいるでしょう。しかし、大事なのは、そんな罪人をあわれみ、ゆるし、救い出される神への讃美とつながっていることです。
最近の日本では、過去の大戦の罪を言いあらわすことは自虐的だとして、歴史修正主義なる歴史観が台頭してきました。それを後押しするかのように、日本はすごいんだぞ!自信を取り戻せ!といった主旨のTV番組も増えてきました。
日本の良さを再発見することは良いことですが、それで過去の罪に封印してしまうのでは真実な生き方ではありません。
詩篇のように、大胆に罪を告白し、しかし、それでも、いつくしみ深く恵み豊かな神によって今日があることへの讃美をささげる日本となるように祈ります。(Ω)
詩篇105:8 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになった御言は千代にも及ぶ。
「ハレルヤ詩篇」の2番目は神の契約について歌われています。創世記のアブラハムから出エジプト記までの出来事が述べられ、アブラハムに約束なさった通りに成し遂げられた神への賛美です。
神は、ご自分の言葉で約束をなさり……つまり契約をなさり……その約束(契約の言葉)を永遠に忘れずに覚えておられるというのです。
アブラハムの子孫はやがてエジプトに寄留することになり、400年もの間そこにとどまることになるのですが、神は約束通り、そこから連れだし、約束の地であるカナンに導き入れ、そこを嗣業(しぎょう)とされる……これが、アブラハムに与えられた契約でした。神は、その契約をお忘れになってはいませんでした。
では、なぜ神は契約をなさるのでしょうか。
私たち人間が神の“ことば”で生きるためです。神の契約とは神の御言です。人がパンだけで生きようとするなら、それは単に棲息しているだけです。生物学的に生きているに過ぎません。
人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる者です。つまり、霊的に生きる存在……それが本当の意味で、生きている人の姿です。
神は、イエス・キリストを通して、私たちに約束なさいました。私たちの罪をゆるしてくださること。イエスを信じた者たちを終わりの日に復活させてくださること。イエスが王として治められる栄光の御国が完成すること……等々。
この約束の御言を信じて、そこに向かって、人は生きるべき存在です。
神の契約すなわち御言にこそ、人が真に信頼できる「いのちの根拠」があります。なぜなら、神は、ご自身の契約を永遠にお忘れにならないからです。
なのに、ある人は、いのちの根拠を金銭に見出そうとします。また、世の名誉や地位にそれを見出そうとします。富や地位が、あなたを永遠に忘れずに生かしてくれるでしょうか。
永遠に変わることのない神の契約にこそ、信頼すべきです。そのような契約をもって私たちを生かしてくださる主を心から賛美しよう。(Ω)
詩篇104:9 あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました。(新改訳)
詩篇は全5巻からなっている歌集ですが、第4巻の最後の3つの詩篇には共通するところがあります。104~106篇はそれぞれの終わりが、「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」で閉じられています。
私たちの人生は悲喜(ひき)こもごも。様々です。戦いあり、試練あり、挫折あり、なぐさめあり、喜びあり。しかし、すべてが神の御手の内にあることを学ぶ大切な旅路です。
その旅路の終わりには、やはりこの「ハレルヤ」「主をほめたたえよ」との告白と賛美で終わるのがふさわしいでしょう。
今日の104篇は、創造の御業について歌われており、その終わりはハレルヤです。つづく105篇は、アブラハムへの約束とその成就について賛美され、106篇は度重なるイスラエルの民の罪と神のゆるしが述べられています。
この3つの詩篇を合わせると、イスラエルの歴史の全体を包括する歌集となっているわけです。
さて、今日の104篇は神の創造の御業についてです。
「あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使とされます」(1-4・新改訳)。
光を服のようにまとい、大空を玉座をかこむ内張のようになさっている……偉大な王のような御姿が連想されます。被造物は、神の栄光を輝かせるために用いられています。
6~9節はノアの時の大洪水の出来事のようです。その時の造山運動があって、アルプスのような山脈や、日本海溝のような深い溝もなり、陸と海との境目が定まったと記されています。
そして後半は、動植物は神の不思議なはからいで食物を得、活かされている姿がいきいきと描かれています。
主イエスが、「野の花を見よ。空の鳥を見よ」と言われ、神が彼らを養っておられるのだ。ましてや、神に似せて創造された者たちを生かしてくださらないはずがあろうか……との御言を思い起こさせます。
このように神の創造の御業は、神の知恵に満ちていると語っています。「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた」のです(24)。
その地の中のひとつが、冒頭の聖句にあるように、神は「境を定めらっれた」というのです。
先日、三浦半島に行きました。すぐそこは海です。寄せ来る波はあるのですが、定められた境を越えないようにひいて行きます。
しかし、時にあの大津波のようにその境を越えてしまうことがあります。でも、それは地球全体からすれば「ほんのわずか」でした。ほんのわずかの境を越えても、あのような悲惨な出来事になってしまうのだな……と思い巡らしました。
神が定められたのは、水の境だけではありません。神と人との境も定められています。人と人との境も定められています。もし、この境を越えるなら、大きな混乱や痛みがともなうのだと教えておられるのではないだろうか。
人類は高度な科学技術を手にしてきました。原子力という膨大なエネルギーの世界に足を踏み入れてしまいました。再生医療技術やクローン技術は人間の手で新たな人間を作りだすことも可能なまでになってきました。これは、神が定められた境を越えることになりはしないか。それを越えるなら、大きな混乱と痛みを伴うでしょう。
また、人と人との境も神がお定めになりました。それを越えて、私が隣人を操作したり支配しようとするなら、それは痛みと混乱を伴うことになります。
逆に、他者から言われた言葉が私を支配し、その人のご機嫌を取るために生きているのなら、それは他者が境を越えて私の中に入ってくることをゆるしたことによる混乱と痛みを伴うことでしょう。
神が投げられた「測りなわ」はちょうど良いところに落ちたと言われるように(詩篇16:6)、私に与えられた領域という境を大切にすることは幸いな人生を生きる知恵であろう。
神の定めた境を越えて神のようになろうとしていないか。エデンの園で悪魔や約束した「あなたは神のようになれる」という言葉が今もなお人類を呪縛している。
私たちは造られた者。創造主である神を認め、神を讃美しよう。そこに、神が定められた境があるのです。(Ω)
詩篇103:1 我がたましいよ、主をほめよ。我が内なるすべてのものよ、その聖なる御名をほめよ。
心からの精一杯の全身全霊をこめた主への賛美。これが今日の詩篇103篇といえるでしょう。
特に今日の詩篇では「すべての」に注目したいと思います。
「我が内なるすべてのものよ、御名をほめよ」。「すべての恵みを心にとめよ」。「主はあなたのすべての不義をゆるし、すべての病いをいやし」。「主はすべての虐げられた者のために」。
この詩篇では「すべての」がくり返されています。
私たちのうちなる“すべての”ものが、神の聖なる御名を賛美するようにと命じています。私の内側のある部分では神を賛美しているが、別な領域では賛美できないわだかまりがあるのでは、御言の通りに賛美できません。
まさに、「心を尽くし、精神をつくし、思いをつくし、いのちをつくして、主なる神を愛せよ」と律法が命じているように、私たちの内側の霊も魂も、その隅々までが神を賛美するのです。
詩篇の中で「我がたましいよ」という語句が度々記されていますが、これは文語訳聖書では「我が霊魂(たましい)よ」と記載しています。つまり、たんなる心の領域だけでなく、霊の底から…という意味です。
私たちの霊魂のなかで、神のお見せしていない領域はないだろうか。ある事柄があって、そのことについては神を賛美できないというわだかまりはないだろうか。
そのような場所を放置しておくと、神の光が注がれなくて、いつしか開かずの部屋のようになって、闇の領域を作ってしまうことになりかねません。すると、口では賛美の言葉を発していても、霊魂の底から神を賛美できない者になってしまいます。
さあ、心を開いて、霊魂(たましい)の隅々まで、主への賛美で満たされるようにしよう。
そうできるのは、「主がすべての不義(罪)をゆるし、すべての病をいやし、私たちのいのちを、墓からあがないだし、いつくしみとあわれみを与えてくださった」からです(103:4-5)。
このような神の御前に、わだかまりを残して良いはずがありません。霊魂の隅々まで、恵みがしみ入るようにすべきです。ゆるしの血が、霊魂の隅々まで及ぶようにすべきです。
どうか、そんな霊魂をもって、主を賛美しようではありませんか。(Ω)
詩篇102:18 次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。
今日の詩篇の表題は、「苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈り」です。詩人は志し半ばで生涯を終えようとしています。
バビロン捕囚の時の詩篇と思われますが、都エルサレム(シオン)から遠く離れたバビロンへ捕らえ移され、数十年が経過した頃のものでしょう。
来る日も来る日も奴隷としての生活。神の約束はどうなったのであろうか。主がシオンの繁栄を回復されるのはいつの時なのであろうか。詩人はその時を待ちこがれています。
しかし、詩人の寿命もそう長くないようで、こう祈っています。「わが神よ、どうか、私のよわいの半ばで私を取り去らないでください」(102:24)。
「シオンの繁栄の回復」は、詩篇後期に取り上げられる重要なテーマです。それは、バビロン捕囚から解放されて、かつてバビロンによって破壊されたシオン(神殿とエルサレムの再建)が回復されることです。
この約束は預言者によって語られました。
「この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は70年の間バビロンの王に仕える。70年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤ人の地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする」(エレミヤ25:11-12)。※カルデヤとはバビロンのこと。
「主はこう言われる、バビロンで70年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなた方をこの所に導き帰る」(エレミヤ29:10)。
詩人はこの約束の成就を見ることなしに、バビロンで死を迎えようとしているのです。
でも、詩人の信仰は衰えるばかりか、希望をもって祈っています。やがて次の世代の者たちが見るであろう栄光を見て、主を賛美しているのです。今日の冒頭の聖句はそのことです。
「次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように」(詩102:18)。
「新しく造られる民」とは、バビロンから帰還するであろう民のことです。彼らは「新しい民」です。神のさばきを受け、御怒りの中できよめられた「新しい民」です。
そのような者たちが戻ってきて、シオンの繁栄の回復を受け、彼らのみならず、全ての国々が主を賛美するようになるという「幻(ビジョン)」を掲げて、詩人は祈っています。
たとえ自分の代に成就せずとも、彼はへこたれません。このことを語り継ぎ、後の時代のために書き記すことが、自分に与えられた役割だと心得たからです。
実に旧約の人々は忍耐強く、神の約束の実現を祈りつつ待ち望む者たちです。現代人のようにせっかちではありません。何年でも待ちます。自分の世代で実現しなければ、何世代でも待ちます。
信仰はこのような信頼と忍耐によって今日にいたっています。
結局、旧約の人々は、この目で約束の実現を見たいと願いつつも、真の成就は後のことであると悟り、後の時代の人々に奉仕する道を歩みました。聖書はこう記しています。長くなりますが引用します。
「この救については、あなた方に対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。
彼ら(旧約の人々)は、自分たちの内にいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめ証しした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなた方のための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である」(Ⅰペテ1:10-12)。
今や、シオンの繁栄の回復は、イエス・キリストを信じるクリスチャンたちに、霊的な意味で成就しています。
私たちクリスチャンもまた、次の時代のために祈り、語り継がなければなりません。それは、イスラエルが救われることと、文字通りのシオンの繁栄が回復するときが来ることです。
それは、イエス・キリストの再臨の時に成就します。主の再臨は、私たちも目撃していません。しかし、旧約の人々が後の時代の者のために奉仕したように、私たちも「主が再び来られること」を語り継ぐ責任を負っています。
忍耐強く主の約束の実現のために祈り、成就したときの栄光を先取りして賛美しよう。(Ω)
詩篇101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。
この詩篇は「ダビデの歌」となっています。詩人は王です。王という立場にあって、国を正しく治めることへの決意が表れています。
日本の政治リーダーにも、このような気概があればな~と思うのですが……。でも、他者(ひと)のことより、まず自分自身のこととして問われます。
私は目の前に卑しいことを置いていないか……と。
「卑しいこと」……つまり、罪の誘惑になるようなことを目の前に置くので、失敗してしまいます。
根深いうらみを目の前に置いていないだろうか。金銭の心配やわずらいを目の前に置いていないだろうか。性的な誘惑を目の前に置いていないだろうか。
目の前に置いておくなら、やがて、それは罪となってまとわりついてきます。罪には、まとわりつく性質があります。ふりはらいたいのですが、まとわりつくようにして、私たちを苦しめます。
ですから、「からみつく罪をかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競争を、耐え忍んで走り抜くのだ」と聖書は述べています(ヘブル12:1)。
さらに、詩人はこうも述べています。「私は曲(ま)がったわざを憎みます」(詩101:3)と。「曲がったわざ」というのも、罪の誘惑になるようなことです。
イエス様と真っ直ぐにつながらないような方法は、「曲がったわざ」と言えるのではないでしょうか。イエスを脇に追いやって、「イエス様、ここはチョットご覧にならないでください」というようなことです。
では、どうしたらよいのでしょうか。
「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいますゆえ、私は動かされることはない」(詩16:8)。目の前に卑しいことを置くのではなく、主を置くことです。
この箇所を新共同訳は、「私はたえず主に相対しています」と訳していますが、なるほどと思います。
さらに、聖書はこう告げています。
「私は真実の道を選び、あなたのおきてを私の前に置きました」(詩119:30)。神の掟(おきて)を前に置くのです。神の教えを置くのです。この箇所を新改訳では、「あなたのさばきを私の前に置きました」と訳しています。
神のおきてに基づいてなされる「さばき」を目の前に置くとき、私たちは罪の誘惑から守られるというのです。
私は、目の前に何を置いているだろうか……考えてみるべきことです。(Ω)
詩篇100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
今日に詩篇は、一連の「主は王となられた」に関する詩篇の締めくくりです。
バビロンから帰還した人々は、ペルシャの王さえも用いてなされた圧倒的な御業のゆえに、「我らの神は全被造物たちの神である」と告白しました。
「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ」と、この宣言は創られた全ての人類に向かって述べられています。いいえ、人類だけでなく、全被造物……動物も、植物も、山河も……創られたものたちに向けて述べられています。
何というスケールの大きい宣言でしょう。創られたものたち(被造者)に、主こそが神であることを知れ……と命じています。
創られた者たちが、創ってくださったお方を知ること、そして、その方の御前に礼拝すること……これこそ、被造者としての基本的な姿です。そして、もっとも相応しい姿です。
人類は、創造主である神に背を向けて以来、この本来あるべき姿を失って来ました。祝福の土台は、この創造主を認め、自分たちは創造主の所有であることを認めることです。認めて礼拝することです。
この宣言がなされて以来いまだに人類は創造主の御前にひざをかがめるに至っていません。自分は創られた存在であって、創造主の前にひれ伏すべき者であることを認める人は少ないのです。
しかし、主である神は、この詩篇が宣言するような真の礼拝に向かってご計画を進めておられます。御子イエスをつかわして、「神はまことの礼拝者を求めておられる」といわれ、その御心を示されました。
そうです。終わりの時代に、まことの礼拝者たちによる新しい世界を完成なさろうと、御子をつかわし、さらに二度目の派遣(再臨)をなさろうと備えておられます。
この呼びかけに応じる者は幸いです。(Ω)
詩篇99:9 われらの神、主は聖である。
今日の詩篇には、神である主は「聖である」と、三度も告白されています(99:3,5,9)。この箇所のみならず、神が聖なるお方であることはくり返し啓示されています。
「聖」とは、きよさをあらわす言葉ですが、では「きよい」とはどういうことでしょうか。
この「聖」という原語のルーツは、「区別」という意味のヘブル語(カーダシュ)から来た言葉だといわれています。つまり、神は他とは区別されるべきお方です。
創造主である神は、造られたもの(被造物)と区別されるべきお方です。支配を受ける存在ではなく、支配するお方として区別されるべきお方です。罪ある闇の世界とは区別されて、義であり光なるお方です。
この世には「神」と呼ばれるまがい物がいますが、それは人間が作り出した神であり、そんな神々とは区別されるお方です。「わたしは有って有る者」と宣言なさる「自存者」なるお方です。
このように、主なる神は聖なるお方なので、私たち人間にも、聖であることをお求めになります。
神がイスラエルに律法をお与えになった目的とは何でしょうか。「神が聖であられるから、あなた方も聖なる者でなければならない」がその目的です(レビ20:26)。といっても、神のように創造者としての立場は別ですが……。
では、人間が「聖なる者」であるとは、どういう意味でしょうか。
先ほども語源が「区別」であることを見たように、人間が聖なる者であるとは、神の所有としてこの世から区別されることです。
自分の人生を世俗のことに使うのではなく、神の働きのために区別することが「聖なる者」となることです。私たちの肉体を罪おかす道具に使わないで、神の働きのために使うことが「聖なる者」となることです。
聖書はこう告げます。
「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなた方自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)。
といっても、仕事をして金銭をかせいではならないという意味ではありません。くれぐれも誤解のないように……。
神がこのように聖なるお方ですから、私たちも、自分自身を聖なるそなえものとして神にささげるこを、神はお求めになっています。
イエス・キリストも、私たちのことを、「あなた方はこの世の者ではない」といって、イエスを信じる者たちを区別なさいました。それは、私たちを聖なる者として、この世と区別して、天に属する者として用いるためです。(Ω)
詩篇98:1 新しき歌を主に向かって歌え。主はくすしき御業をなされたからである。
一連の詩篇は、バビロンから解放された民が、くすしき御業(みわざ)をなさった主に対する賛美です。今日の詩篇もそうです。彼らにとって、バビロンからの解放は偶然ではありませんでした。
歴史学者はこの解放を政治的な力学関係で解明しようとしたり、経済的な何らかの要因で、解放が得策と考えたペルシャ王が英断を下したのだと説明するかも知れません。
しかし、最も筋の通った説明は、神のくすしき御業であったという聖書の説明です。先の朝マナでも取り上げましたが、聖書の詳細を見てみましょう。こう記されています。
ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤによって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることを私に命じられた。あなた方のうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。
ペルシャの王クロスは、神によって感動を受けてこのことを決断したのです。これは神のなさったことです。
しかも、そのことは偶然おきたことではなく、あらかじめ預言者エレミヤによって告げられていたことでした。だから、これは神のなさったことです。
人間の業(わざ)のようですが、それをご支配なさっている神がなさった御業だと、聖書は宣言するのです。人間のことばかりを見ていると、私たちは信仰を失います。神を見失います。
新約における救いもそうです。人間の業だけを見ていると、救いはあやふやなものになってしまいます。私がこんなに真面目だから救われたのですか。私の努力や熱心が神に認められたので救われたのですか。
そんな人の「業」が根拠なら、救いはアッという間に瓦解(がかい)してしまいます。
救いは、神のくすしき御業です。神のなさったことです。神のひとり子が十字架で私の代わりに罪の支払いをしてくださったことだけが、救いの根拠です。
主のなさった御業に根拠をおこう。主のくすしき御業ゆえに賛美しよう。今日も新しい歌をもって主を賛美しよう。(Ω)
詩篇97:5 もろもろの山は主の御前に、全地の主の御前に、蝋(ろう)のように溶けた。
詩篇の93篇以降お気づきだと思いますが、「主は王となられた」という告白が何度も歌われています。今日の詩篇97篇も冒頭からその賛美で始まっています。
これら一連の詩篇は「王の詩篇」と呼ばれているのですが、それは、人々がバビロンの奴隷から解放され、祖国に戻ることのできたことの背後には、異邦人さえご支配なさる王なる主の働きゆえであったからです。
彼らが奴隷から解放されたのは、神が、ペルシャ王クロスの霊を感動されたことによってなされました。その詳細はⅡ歴代志36章22-23節に記されているとおりです。
つまり、主である神は、イスラエルだけの神ではなく、ペルシャの王さえもご支配なさる、王の中の王だという確信へと導かれたわけです。それが、「主は王となられた」という賛美に表されています。
さて、こうして人々は祖国に戻ったわけですが、そこは、かつてバビロン軍によって破壊されたままの荒れ地でした。何から手をつけてよいものやら、途方に暮れる日々でした。その苦労はエズラ記に述べられています。
単に荒廃しているだけではありませんでした。その地に住むサマリヤ人らの執拗な嫌がらせを受け、神殿建設は何度も挫折を味わいました。
「しかし!!」です。主は王となられたのです。王の意志は貫徹(かんてつ)されます。主である神は王であられるので、様々な妨害という「山」を動かし、蝋のように溶かしてしまわれました。
そんな感慨を込めて、この詩篇は歌われています。「もろもろの山は主の御前に、全地の主の御前に、蝋のように溶けた」と。
私たちの目の前には、彼らが対面したような「山」があるでしょうか。イエス様は言われたではありませんか。からし種ひとつぶほどのしんこうがあれば、山も動くのだ……と。
我らの主イエスは王となられたのです。十字架の死から復活し、天に昇り、神の右の御座につかれ、いっさいの権威を諸々の名の上にたまわったのです。
そのお方の前に、山は動くどころか、蝋のように溶けてしまうのだと、主は言われます。(Ω)
詩篇96:1 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
旧約の時代にイスラエルの人々がいだいていた神理解と、新約の時代に弟子たちが受けた神理解には、深さや広さにおいて違いがあります。
旧約の中だけでも、初期のイスラエル民族の神理解と、後期……バビロンから戻ってきてから……のそれとにも違いがあります。
聖書は、神がご自分について啓示なさった歴史でもあるわけです。神がどんな方であるのか……それは、神ご自身の啓示によって、ご自分のことを明らかにしてこられました。
簡単な言葉で言えば、「神の自己紹介」の歴史です。
私たちでも、自分のことを紹介するのに、いきなり何でもかんでも言わないでしょう。出身地とか、生い立ちとか、趣味とか、仕事とか、家族のこととか……状況に応じて少しずつ紹介します。
初期の時点で、イスラエルの人々は、神とは自分たちの幸せのために奉仕してくれる神だと思っていたことでしょう。数ある神々の中で、主(ヤーウェ)なる神が一番だとか、自分たちのために戦われる神、異邦人をやっつけてしまわれる神……そんな自分中心なイメージが強かったのではないでしょうか。
イスラエルのための神。イスラエルを身びいきされる神。これが、旧約聖書を読む中で伝わってくる神理解です。
しかし、イスラエル民族がそのような神理解をしたからといって、神がその通りのお方だとは言えません。神の自己紹介は、まだ完全になされたわけではありませんから。
旧約の時点では、神の自己紹介は完結していません。一部分を啓示してくださったに過ぎません。ですから、旧約だけを読んで、神はこんな方だと決めつけてしまわずに、もうしばらく、神の自己紹介におつきあいください。
さて、やがて人々は、自分たちの幸せのために仕えてくれるだけの神ではないのだという神理解を持つようになりました。
というのは、時には偶像礼拝の罪ゆえに、神からこっぴどく打たれ、懲らしめられる経験を重ねるなかで、神が意図なさっている世界は、神を中心とした神の義の支配する世界なんだという理解を持つようになったわけです。
バビロンから戻った民はそんな思いを強くいだくに至ったことでしょう。そして、今日の聖句のように、「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え」という賛美へと導かれています。
ここで、「全地よ」と呼びかけています。イスラエルだけの神ではない、全地をご支配なさる神であり、すべての人々によって賛美されるべきお方であるとう告白です。イスラエルだけの地域限定の神ではなく、全世界を視野に入れた神理解の萌芽がみられます。
もちろん、これで神理解が一気に大きく広がったわけではありませんでした。その後のイスラエル(ユダヤ人)は、自分たちだけの神、自分たちだけが選びの民……選民思想……へと傾いて行きます。
神の自己紹介が完全になされるまで、人々は神のほんの一部分しか知ることができません。
しかし、ついに神の究極の自己紹介がなされました。それが神の御子イエス・キリストです。このお方が神の全てを見せてくださいました。
神の罪に対する激しい怒りも、また、罪人に対する愛も、あの十字架でみんな見せてくださいました。このお方こそ、新しい歌をうけるにふさわしいお方、全地がひざをかがむべきお方です。(Ω)
詩篇95:8 あなた方は、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
この詩篇は捕囚の地バビロンから帰還した頃にうたわれたものだと言われています。
イスラエル民族(ユダヤ人)はエジプトの奴隷であった時代もありました。そこから、モーセに率いられて出エジプトし、約束の地に入りました。
しかし、再び奴隷としてバビロンに捕らえ移され、時が満ちて彼らは約束の地に戻ってきました。出エジプトの時と同じような状況にあるわけです。
そこで人々は、今度こそこの約束の地で、神の御言に従順しようと決意をもって戻ってきたのです。詩篇の冒頭の賛美はその思いが表れています。
「さあ、我らは主に向かって歌い、我らの救の岩に向かって喜ばしい声をあげよう。我らは感謝をもって、御前に行き、主に向かい、賛美の歌をもって、喜ばしい声をあげよう。主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである」(95:1-3)。
主なる神こそ信頼すべき王です。バビロン捕囚というつらい訓練を通して、詩人はその確信へと至ったのでしょう。
しかし、気がかりなことがあります。それは、エジプトを出立したイスラエルの民が、荒野で神に不従順であったように、バビロンから戻ってきた民も同じ轍(わだち)を踏んではならないのです。
だから、今日の聖句のように、「あなた方は、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない」と勧めています。シンの荒野にある「メリバ」と「マッサ」は同じ場所のことです。
民は旅の途中で水がなくなり、民は、神に向かって「こんな荒野で殺すために、我々をエジプトから連れだしたのだ」と不平や愚痴をこぼし始めました(出エジプト17:1-7)。
不平や愚痴ぐらいであれば、普段の私たちにもポロリと出てきますが、イスラエルの場合そんな程度のものではなかったようです。
彼らの不平に対してモーセは、「あなた方はなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言っているわけですから、民はモーセに対してリーダーとして不信任決議を出し、彼を石で打ち殺そうとしたのです。また、神に対しては、「主は私たちのうちにおられるのか」と不信感を露(あら)わにしたのです。
まさに、メリバとは「論争」という意味、マッサとは「試み」という意味の地名の通り、そこは論争と試みの場所になったのです。こうして、この時の民の心は「かたくな」になっていました。
不平や愚痴も度が過ぎると、その人の心は「かたくな」になって行きます。論争もそうです。また、神に不信感をいだきはじめ、試みが度が過ぎると、人の心は「かたくな」になって行きます。
だから、詩人は警告しています。メリバやマッサの時のように、神に対して心をかたくなにしてはならないと。
あの紅海さえも分けて通らせてくださった神が、荒野で水をくださらないはずがあろうかと考え、神を信頼すべきです。
あの御子イエス・キリストさえ私たちにくださった神が、どうして御子のみならず万物をもくださらないことがあろうかと、神を信頼すべきです。(Ω)
詩篇94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人は幸いです。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)という言葉がありますが、傍(かたわ)らに人が居ないかのように、身勝手な行動をすることをいいます。
一般的には、かたわらに他者(ひと)がいれば、その人に配慮したり、人の評価を気にして、身勝手なことはしないのですが、そんなこともお構いなしに、身勝手にふるまうことをいうわけです。
それは、人は他者の目を意識してそれなりに自制することが前提になっているからです。
しかし、今日の詩篇で取り上げられている人々は、人が居ようが居まいがお構いなしにふるまうどころか、神の目さえも意識しない高慢な人について述べています。もはや、彼らは傍若無人どころか傍若無神です。
彼らはこう言うのです。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない」と(94:7)。しかし、聞く耳を人間にお与えになった神が、人間以上に聞かれないはずがありません(94:9)。
暗闇でささやかれた悪巧みを、主は聞いておられます。人は自分の語った言葉によって報いを受けなければなりません(マタイ12:36-37)。また、見る目を人間にお与えになった神が、人間以上に見抜かれないはずがありません。神は、隠れたところで、隠れたことをご覧になることのできるお方です(マタイ6:4,6,18)。
そのような者に対する神の審判について、今日の詩篇は語っているわけですが、一方で幸いな人のことを次のように語っています。
「主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人は幸いです」(94:12)。
主は、その目でご覧になり、その耳でお聞きになって、私たちを、時には懲らしめ、そのことによって主のおきて……道・ルール……を教えてくださいます。このような神の取り扱いを受ける人は幸いです。※新改訳では、主から「戒められる」と翻訳。口語訳では「懲らしめる」。
このような神の取り扱いを受ける中で、私たちは造りかえられるのです。傍若無神とならないように……。(Ω)
詩篇93:1 主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません。
イスラエル民族の歴史は、神を中心とした独特の群れとして始まりました。つまり、神である主に導かれエジプトを出て、ついに約束の地に至ったわけですが、近隣の諸国は王を中心とした中央集権的な統治をしていました。
目に見えない神を王とするよりは、目に見える人間が王として支配し、王の一存で物事が進められる体制は、イスラエルの人々の目には魅力的に映ったのでしょう。
見えない神にお伺いをたてて、神からの応答を受けて進んで行くのは忍耐を要しますし、まどろっこしくも感じます。それよりは、ひとりの王が即断即決で事を進めてくれた方が、うまく行くのではとも思うのです。
だから、やがてイスラエルは王を立てて、近隣諸国のような“近代的な”統治を願望しました。そしてついに、初代の王サウルが立てられたわけですが、それ以降のイスラエルのたどった歴史はどうだったでしょうか。
王といえども、まことの王である神に従順することで、真の権威があるはずですが、その王たちも堕落と驕(おご)りによって、ゆがんだ権威のもとで王国は腐敗しました。
人である王による統治は、当時の人々には“近代的”に見えただけで、実際は堕落の始まりでした。
まことの神である主を王としない世界は、それがどんなに近代的で洗練された世界のようでも、それは堕落です。たとい時間がかかっても、まことの王である神に問いつつ進まないことは、人としては堕落です。
今日の詩篇は、そんなイスラエルの歴史のあやまちを通して、「主こそが王となられるべきお方である」との告白が歌われています。この王である主に、今日も問いつつ、その命令に従順でありたいと願います。(Ω)
詩篇92:1-2 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。
今日の御言は良いことを「ふたつ」あげています。
第一に、「主に感謝すること」です。不満や愚痴が多くなっていませんか。それよりは良いことを見出す達人になりたいものです。
感謝なことより、不満や愚痴を発見するのが得意なのは、罪人の「さが」ともいうべきものでしょうか。肉の感覚とでもいうべきでしょうか。
他人に対しても、自分自身に対しても、良い点を見つけだし、主に感謝する習慣を身に着けるべきです。もちろん、周囲に被害を及ぼすような欠点は矯正しなければなりませんが……。
感謝を発見するコツは、人に目を向けないで、主イエスに目を向けることです。すべて感謝すべきことは、主イエスの中にあります。
第二に、「朝に夕に、神の恵みと真実を言い表すこと」は良いことです。
「朝に夕に」とあるように、目覚めたときも、眠りにつくときも……です。むしゃくしゃした思いのままで眠りにつくなら、目覚めも同じです。どこかで、その悪循環を変えなければなりません。
神の恵みを言い表してください。心で思っているだけではなく、口に出すのです。神がなしてくださった真実もそうです。告白してみましょう。口に言い表すことで、不思議と人生の方向が、神の恵みと真実の方向に向かいます。
聖書は、「舌は大きな船の舵(かじ)のように方向を決める」と教えています。舌とは私たちの口から出る言葉です。神の恵みと真実を告白し行くなら、人生という大きな船は徐々にではありますが、祝福の方向に向かいます。逆であってはなりません。(Ω)