歴代志下36:21 これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は70年が満ちるまで安息を得た。(新改訳)
ヨシヤ王の改革も長くは続きませんでした。エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ……そして、バビロンによるエルサレム神殿の破壊と捕囚という結果を招くことになりました。
あんなにヨシヤ王も頑張ったのに。先のヒゼキヤ王だって熱心だったではありませんか。しかし、歴代の敬虔な王たちをもってしても、罪の力を打ち砕くことは出来ませんでした。
「か弱き我は 律法(おきて)にたえず
燃ゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
十字架のほかに 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみ給え
御救いなくば 生くるすべなし」
新聖歌229番(讃美歌260)の歌詞です。私たち人間のいかなる努力も真面目さも、罪から救い出す力はありません。ただ、イエス・キリストの十字架の御救のもとに逃げ込むほかに道がありません。いのちの御霊の法則(律法)による他に道はありません。
さて、バビロン捕囚にいたる詳しい経緯は列王紀を参照することにし、歴代志では、冒頭の聖句にある御言に注目してみましょう。
バビロンによって南ユダは滅ぼされ、ユダヤ民族は根こそぎ引き抜かれるようにしてバビロンに連れて行かれました。このことを聖書は、「この国に安息を取り戻すためであった」と語っています。
神がご覧になるに、カナンの地は罪によって疲れ果て、荒廃していたのです。そこで、罪を犯し続ける民を取り除くことによって、この地に安息が取り戻されたというのです。
このことは人々の内なる霊魂の状態を表しているように思われます。それは、罪によって荒れ果て、安息を失った状態のことです。
私たちの霊魂は、罪に対するさばきときよめを経て、本当の安息を得ます。神が、偶像礼拝の罪に浸りきったユダヤ人を根こそぎ切り取られたように、神は、私たちの「古き人」をキリスト共に十字架につけて葬ってしまわれたのです。
こうして、私たちの霊魂には安息が回復します。新しくされた神の子どもとしての私が戻ってきます。
ユダヤ民族も、罪人であった古いユダヤ人は葬られ、70年を経てバビロンで新しくされた民として、この約束の地に戻ってきました。神の方法は、罪人を修復して延命処置をなさるのではなく、大胆に罪人を葬って、新しい人に復活させられるのです。
このような神の取り扱いは、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ、厳しく悲しいものと思われますが、後になって、神の取り扱いを経た者に平安な義の実を結ばせることになるのです。(Ω)