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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ルツ記 4章

2025年01月10日 | ルツ記
ルツ記4・22 オベデからエッサイが生れ、エッサイからダビデが生れた。

ルツはボアズと結婚しオベデ(オベド)を生みました。このオベデの子がエッサイ。エッサイの子がダビデ。このダビデが後のイスラエルの王です。つまり、ルツはダビデ王の曾祖母になるわけです。

このルツ記は、ダビデが王として就任するにあたって記された文書です。王の家系と成り立ちを記すことによって、そこにあらわされた神の恵みを記録した文書です。

古今東西をとわず、王となる人物は、自分の王としての正当性を主張するために、自分の家系を美化するものです。いかに純血で由緒ある家系であるかを誇示するのが世の常です。

しかし、ダビデは自分の先祖に異邦人の血が流れていることを隠そうとしないばかりか、異邦人を通しても神の恵みが施された歴史を証しするかのように、このルツ記は記されています。

ルツがオベデを生んだとき、人々は次のように祝福しました。

どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように。(4・12)

ユダの子ペレヅもオベデとよく似た境遇に生まれました。ペレヅの母タマルは、ルツと同じように異邦人でした。しかもタマルはユダの息子の妻でした。詳しくは創世記38章をお読みください。

ユダ族の始まりは、異邦人タマルとの間に生まれたペレヅから始まりました。恥ずかしく、かつ受け入れがたいことからユダ族は始まりましたが、今日に至るまで祝福されています。

実はルツ記には記されていませんが、ルツをめとったボアズ自身も、異邦人を母として生まれた人物です。彼の母はエリコの町で売春婦をしていたラハブです。

イスラエルがエリコの町を攻略するために、偵察隊を派遣しましたが、その兵士たちをかくまったのがこのラハブでした。彼女は異邦人でありましたが、イスラエルの神こそまことの神であると告白しました。エリコの人々からすれば裏切り者です。エリコの住民に殺されるのも承知の上で、イスラエルの兵士をかくまいました。

そのラハブとユダ族のサルモンとの間に生まれたのがボアズです。そのボアズがルツを受け入れた背景には、自分の母が異邦人であったことが深く影響していたことでしょう。

そのような家系にイスラエルの王ダビデは生まれました。ダビデ王は自分の家系に異邦人がいること、売春婦さえいたことを隠しませんでした。

人の目には格好の悪い家系ですが、神は祝福されました。信仰ある者に恵みを注がれる神を賛美せずにはいられないダビデの意向が、このルツ記には表れています。

世俗の王たちは自分の家系を美化し、純血性や正当性を誇示します。しかし、聖書は霊的な純粋性を主張します。

私たちが神の子とされたのは、血筋の良い家系だったからでしょうか。何の汚点もない家系だったので、神の子とされたのでしょうか。そうではありませんでした。聖書はこう告げています。

それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。(ヨハネ1・13)

私の家系も血筋も関係ありません。ただ、イエスを信じる者は神の子として生まれるのです。イエスを信じる信仰によって、神の家系に生まれることができます。

ルツも異邦人でしたが、主なる神を信じてその家系に加えられました。
ボアズの母ラハブもそうでした。

それと同じように、私たちはイエスを信じて、神の子どもとして、神の家系に生まれました。それは人間的な血筋を超越しています。私の過去がいかなるものであれ、それを超越しています。

クリスチャンは、神の子どもとして生まれた者です。神の御国の王の家系に生まれた者です。


ルツ記 3章

2025年01月09日 | ルツ記
ルツ記3・13 しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。

第3章は神の律法に照らし合わせなければ、わかりにくい内容です。

イスラエルの各部族に嗣業の地が与えられましたが、その嗣業とは、神の御国にふさわしく管理すべきミッションであることはすでに学んだとおりです。

ですから、その土地を手放してはならない、たとえ手放すようなことがあっても、本人に代わって親類の者がそれを買い戻すようにと律法は定めているのです(レビ25・25)。 ※「買い戻す」とは「あがなう」という意味。

ナオミの家族は嗣業の地を手放してモアブの地に移住し、無一文になって帰ってきたわけですが、律法によるなら、ナオミの親族はナオミの土地を買い戻す責任があるわけです。

なぜ、神はこのような律法を定められたのでしょうか。それは、神はご自分のものを必ず買い戻されることを教えるためです。

私たちは、自分の財産も、自分自身さえも自分のものだと思っています。しかし、元々は神のものです。万物は主なる神が創造され、神のために創造されたものです。

そして、神の栄光のために、この地を管理するように、ミッション(嗣業)を人間に与えられました。しかし、人類はそれをはたすことができずに、手放してしまいました。

でも、それは神のものであって、それを買い戻さなければなりません。

ところが、人間はそれを自分で買い戻すことができないばかりか、自分自身を買い戻すこともできないほどに落ちぶれてしまっています。これが罪人である人間の姿です。まるで嗣業を捨てて放浪の旅に出たナオミの家族のようです。しかし、神は必ず買い戻されます。そのことを教えるために、律法は「買い戻し」を教えています。

さて、ルツがボアズの寝ている足元の衣の裾(すそ)でおおうという行為は、保護を求める当時の方法です(3・4)。そこで、ボアズはその要求を理解し、買い戻す決心をしたのです。

ただし、ナオミに最も近い親戚がまずその責任を果たすべきなので、その親戚にあたる人々に買い戻しの意志の有無を確認した上でなければ、ボアズが関与するわけに行きません。

ボアズは、主は生きておられる(3・13)と告白しています。主が生きておられるゆえに、神の御言も生きています。神の御言をないがしろにしてはならないとボアズは考えました。

結局、親戚すじには買い戻す意志がなかったため、神の御言に忠実なボアズは、ナオミの嗣業の地とナオミとルツを買い戻して、彼の家族として迎えました。こうして、異邦人の女であったルツが、買い戻しのゆえにボアズの妻となりました。

新約においては、異邦人であった私たちが、キリストの血によって買い戻され、キリストの花嫁とされました。こんな予表がルツ物語に隠されています。

主なる神は、人類を買い戻すお方です。主は生きておられるので、それを必ずなさいます。いいえ、すでになさいました。十字架で流されたイエスの血で、人類を買い戻されました。

それを信じる者は、神がその買い戻しの権利を成し遂げられたことを主張して、悪魔の支配から神のもとへ戻ってくることができます。ですから、その人は今や神のものです。キリストの花嫁です。

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【一日一章】 朝マナ ルツ記 3章 【聖書通読】
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ルツ記 2章

2025年01月08日 | ルツ記
ルツ記2・12 どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主から充分の報いを得られるように。

ナオミとルツは故郷ベツレヘムに戻ってきたものの、かつての嗣業の地もなく、生活のあてもありません。そこで、ルツは落ち穂拾いを申し出ました。それは、律法に次のようにあるからです。

あなた方の地の実のりを刈り入れる時は、畑の隅々まで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。――中略――貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。(レビ19・9~10) ※神の律法は厳しい規定ばかりではなく、このような弱者への配慮も規定されている。

何のあてのない異邦人ルツにとって、神の律法(神の御言)だけが頼りです。彼女は、神の御言に自分をゆだねたのです。落ち穂によってでも、神の恵みにあずかりたいと願うルツの姿に、神への信頼と謙遜を見ることができます。

ルツの姿は、自分の娘のいやしを求めてイエスに願い出たツロ・フェニキヤの女性を思い起こさせます(マルコ7・24~30)。彼女もルツと同じく異邦人でした。そして、異邦人であるがゆえに、「子供たちのパンを取って小犬にあげるわけにはいかない」とイエスからあしらわれたのですが、「小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます」と求めた婦人を、主はおほめになりました。

この場合の「子供たち」とはイスラエルのことで、イスラエルがまず恵みにあずかるのであって、それをさしおいて外国人のあなたにパン(恵み)をあげるわけには行かないと言われたわけです。 ※「犬」とは外国人を意味する。

しかし、ツロ・フェニキヤの女性は、犬呼ばわりされてもひるむことなく、謙遜になって恵みを求めました。パン(恵み)をそのまま求めているのではありません。食卓から落ちるパンくずで良いのですと。

自分が異邦人であって、恵みを直接受ける資格などないことを知って謙遜に求める姿は、ルツの場合も同じです。謙遜とは、資格がないことを知っていることです。

主はイスラエルだけを贔屓(ひいき)なさる神ではありません。謙遜にかつ真心をもって求める者を、神は顧(かえり)みてくださいます。

そのように神を信頼する姿に、神は感動なさいます。イエス様はツロ・フェニキヤの女性の信仰に感動されました。そして、ルツの姿にボアズは感動して、彼女に恵みをほどこしたのです。

ルツは意図せずしてボアズの畑に行ったのですが、神による不思議な巡り合わせです。神を信頼して行くと、自分の意志や努力を越えた神の導きや出会いを体験するものです。

と言うのも、ボアズはナオミの親戚筋にあたる者で、ナオミが嫁のルツをつれて戻って来ていること、また、嫁のルツが義母によく仕えていることを伝え聞いていたのです(2・11)

ボアズはそのようなルツに報いようとします。そして雇い人たちに、「彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」と命じるのです(2・16)

神の愛は、ボアズを通して表されています。ボアズは神の心を知っている人です。ですからルツに次のように告げました。

どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主から充分の報いを得られるように。(1・12)

あのツロ・フェニキアの婦人は、私は異邦人ですからパンそのものをもらう資格がないことは分かっています。でも、テーブルからこぼれ落ちるパンくずでよいのです……と求めました。

ルツも、イスラエルの人からすれば外国人の自分が、収穫をもらう資格などないことは分かっています。でも、落ち穂でよいのですと求めたのです。その求めに主が応えてくださいました。

ですからルツは謙遜に告白しています。どうしてあなたは、私のような外国人を顧みて親切にしてくださるのですか(2・10)

主なる神は、このように謙遜に、しかし熱心に求める者に報いてくださいます。そのような求め方は惨(みじ)めだと思いますか。しかし、神の御前に格好をつける必要がありません。

謙遜に求めてくる者を、神ははずかしめられません。私たちもかの詩篇の作者のように祈りましょう。

「主よ、私はあなたに寄り頼みます。とこしえに私をはずかしめず、あなたの義をもって私をお助けください」(詩篇31・1)

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【一日一章】 朝マナ ルツ記 2章 【聖書通読】
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ルツ記 1章

2025年01月07日 | ルツ記
ルツ記1・16 しかしルツは言った、あなたを捨て、あなたを離れて帰ることを私に勧めないでください。私はあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です

ルツ記の時代背景は、「さばきづかさ(士師)が世を治めている頃」(1・1)とあるように、士師記と同じ時代の出来事です。

士師記の時代には痛ましい事件がくり返されていましたが、一方で、ルツ記のような麗しい物語もあったことは、荒野で泉を発見する思いです。

さて、表題にもなっている「ルツ」とは、モアブ人の女性の名です。偶像礼拝の民であったルツが、どのようにして聖書に登場することになったのか、そこに込められた神のご計画の麗しさを見て行くことにしましょう。

物語はユダの部族、ベツレヘム出身のエリメレクから始まります。カナンの地に飢饉があり、食うに困ったエリメレクは妻ナオミと二人の息子を連れてモアブの地に移住しました。

律法では「嗣業(しぎょう)の地を手放してはならない」と定められているにもかかわらず、その地を離れざるを得なかったのには、それなりの理由と後ろめたさがあったことでしょう。 ※「嗣業」……新改訳では「相続地」と訳されているが、単なる相続地を越えて、その地を神の御国に相応しく管理し治めるように使命を与えられた地であることから、「嗣業」と訳す方が良いと考える。

ところが移住先でもうまく行かず、エリメレクはふたりの息子マロン(マフロン)とキリオンを残して先立ってしまいます。

ナオミはふたりの息子のためにモアブ人の女性を嫁に迎えたのですが、そのふたりの息子も子をもうけずに死んでしまいました。その結果、残されたのはナオミとふたりの嫁オルパルツだけでした。

移住から10年を経て、生きるすべを失ったナオミは、故郷のベツレヘムに戻ることを決意し、嫁たちには実家に戻るように勧めました。ふたりの嫁はまだ若く、実家に戻れば再婚の道もあるものの、このままイスラエルに連れ戻っても異邦人との結婚を禁じる地で再婚の可能性は皆無だったからです。

ところがルツは、義母のナオミと一緒に行くと言いだしました。戻っても身寄りのないナオミに、ルツは最後まで仕え、支えようと決心したのです。

ユダのベツレヘムに行っても、ルツは異邦人であり、イスラエルの人々から歓迎される保証はありません。それでもナオミと共に行こうとしたのは、ルツの心に主なる神への信仰が芽生えていたからです。

あなたの民は私の民、あなたの神は私の神ですという告白にルツの信仰が表れています(1・16)

モアブ人であったルツは、ナオミの中に息づいている信仰をとおして、まことの神を見つけることができたのです。ルツは、女としての自分の未来より、まことの神への信仰を選び取ったのです。

信仰とは、自分にとって、目先の都合が良いから信じられるというものではありません。都合が悪くても、神を信頼し、神に仕えることが信仰です。ルツの決断には、義母への信頼と共に、主なる神への信頼が込められています。

さて、ナオミにとって、故郷に戻ることはつらいことでもあったと思います。私をナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください(1・20)という言葉にも彼女の思いが表れています。

神の御言にそむいて嗣業の地を捨てて移住したことを、彼女は悔いていたことでしょう。主は私をから手で帰されました。主が私を悩まし、全能者が私に災をくだされた(1・21)との告白に、彼女の苦悩と後悔の念が感じられます。

せめて、家族全員が無事で、子孫も財産も増えて、故郷に錦(にしき)をかざるようにして戻ることができたなら、その悔いもすこしは晴れたことでしょうが、それもかなわなかったのです。格好の悪い帰郷です。

ベツレヘムの人々からは、「どの面(つら)をさげて帰ってきたんだ」と言われかねないナオミですが、でも、恥を忍んで戻ってきました。まさに、それは狭い門でしたが、そこからいのちが始まります。

大切なことは、神に立ち返ることです。

放蕩息子が父のもとへ帰ったように、本心に立ち返って神のもとへ戻ることです(ルカ15章)。彼も恥をしのんで戻りました。今更、息子と呼ばれる資格など無いと覚悟して戻ってきました。

しかし、すべては戻ってくることから始まります。

このあと、主がいかに恵み深い展開を用意なさっているのか、この時のナオミには知る由(よし)もありませんでしたが、約束の地、嗣業の地に戻ることから、その第一歩は始まりました。