ルカに24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
復活されたイエス様が、エマオに向かうふたりの弟子たちに出会ってくださいました。この弟子たちは、イエスを目の前に見ているにもかかわらず、イエスの復活を信じることができませんでした。
ところで、ルカによる福音書には、〝御言についての深い洞察〟が随所に記録されています。第24章の、エマオに向かうふたりの弟子が復活のイエスに出会った体験もそうです。イエスをこの目で見て確信するのではなく、イエスが道々説き明かされた聖書の言葉を聞く中で、彼らの目が開かれたわけです。御言を聞いて悟ることに重きがおかれています。
著者ルカ、そして彼が師事したパウロもイエス様を直接見たわけではありませんでした。しかし、肉眼で見るよりはるかにまさっていることは、神の御言を通してイエスを体験することです。
ローマの百卒長は直接イエス様にお会いしたのではなく、御言を求めました。彼はイエスに対して、「直接おいでいただくにはおよびません。ただ、お言葉をください」と申し出ました。そして、「いやされよ」という神の御言を受け取って、いやしを体験しました(7・1~10)。
また、神の家族について教えられた時も、「神の御言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟である」と言われました(8・21)。他の福音書はこの箇所を「御心を行う者」と記録していますが、ルカは御言の体験を重視しました。
また、ある金持ちが死んでゲヘナの火炎で苦しむ物語の中で、彼はこう願いました。「わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」(16・27)。
しかし、それに対する応えは、「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」というものでした(16・31)。
復活されたイエス様が、エマオに向かうふたりの弟子たちに出会ってくださいました。この弟子たちは、イエスを目の前に見ているにもかかわらず、イエスの復活を信じることができませんでした。
ところで、ルカによる福音書には、〝御言についての深い洞察〟が随所に記録されています。第24章の、エマオに向かうふたりの弟子が復活のイエスに出会った体験もそうです。イエスをこの目で見て確信するのではなく、イエスが道々説き明かされた聖書の言葉を聞く中で、彼らの目が開かれたわけです。御言を聞いて悟ることに重きがおかれています。
著者ルカ、そして彼が師事したパウロもイエス様を直接見たわけではありませんでした。しかし、肉眼で見るよりはるかにまさっていることは、神の御言を通してイエスを体験することです。
ローマの百卒長は直接イエス様にお会いしたのではなく、御言を求めました。彼はイエスに対して、「直接おいでいただくにはおよびません。ただ、お言葉をください」と申し出ました。そして、「いやされよ」という神の御言を受け取って、いやしを体験しました(7・1~10)。
また、神の家族について教えられた時も、「神の御言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟である」と言われました(8・21)。他の福音書はこの箇所を「御心を行う者」と記録していますが、ルカは御言の体験を重視しました。
また、ある金持ちが死んでゲヘナの火炎で苦しむ物語の中で、彼はこう願いました。「わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」(16・27)。
しかし、それに対する応えは、「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」というものでした(16・31)。
「モーセと預言者」とは聖書のことです。つまり、ラザロが生き返って、人々がその不思議を見たとしても、聖書に記された御言を信じなければ、目は開かれないという意味です。
また、ある婦人が、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は何と恵まれていることでしょう」と賞賛しました。つまり、イエスを直に見て、直にふれることのできた母マリヤの幸いを指摘したのですが、イエスの返事は違いました。「いや、恵まれているのは、むしろ神の御言を聞いてそれを守る人たちだ」と言われました(11・28)。
このように、ルカ福音書は御言の体験を強調しています。
人は肉体をもつ存在ですから、どうしても肉の感覚に頼ろうとします。つまり、この目で見たら信じよう。この手でふれたら信じようとするわけです。
ところが、肉体がやがて朽ちて行くように、肉の感覚とか体験はやがて消えて行きます。美味しかったご馳走の味も、美しかった風景の記憶も、脳細胞の衰えとともに消えて行きます。
肉体が得たものはやがて朽ちます。肉体の体験は永遠ではありません。しかし、私・霊魂が、御言によって得た体験は永遠に続く「イエス体験」です。
さて、今日の聖句に戻りましょう。イエス様の復活を信じられないふたりの弟子は、復活について熱心に論じあっていました。「論じあう」……。これは肉の力でイエスを知ろうとすることです。肉の理解力とか知恵で復活を論じたのです(24・14)。
肉の力が前面に出ているので、目の前に復活のイエスがおられても、弟子たちはそのお方がイエスだと分かりませんでした(24・16)。彼らの目がさえぎられていたので……と記されています。「論じあう」ことによって、霊の目はさえぎられるのです。 ※議論が不毛だとは思わない。結論を得るために議論もするだろう。しかし、その後で静まって神の御声を聞く時間が不可欠である。
そこでイエスは、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです(24・27)。彼らの心のフォーカスを、人の議論から御言に合わせるように導かれたわけです。
弟子たちは聖書の御言を聞くうちに信仰が湧いてきました。信仰は見ることによるのではなく、神の御言を聞くことによるからです。見て信じるのではなく、聞いて信じるのです。論じあって信じるのではなく、御言を聞いて信じる……これが信仰です。
夕食の時、イエス様がパンを裂いて祝福の祈りをなさいました。ユダヤでは、食前の祝福の祈りは主人がするのが慣例です。つまり、弟子たちは、イエスを主人の座に迎えたのです。
主客転倒がおこったのです。論じあっている時は自分たちが主人でした。しかし、夕食の時はイエスが主人となられました。
その時に、弟子たちの目が開けて、イエス様だと分かったのです。御言を中心にした時です。イエスを中心にした時です。これが信仰の原則です。
◆◆◆◆◆◆
さて、イエスがエマオへの途上で、弟子たちに語られた聖書解説は如何なるものであったのでしょうか。とても興味がわきます。なのにルカはその詳細を記録しませんでした。何故ですか。
それこそ「読者よ悟れ!」です。
2千年前にイエスが弟子たちと同行されたように、今も私たちと共に歩みながら、道々聖書を教えてくださるからです。信仰の篤(あつ)い者だから共におられるのではありません。弱い者にも、不信仰な者にも共におられ、共に人生を歩いてくだいます。
そして、道々お教えくださいます。それは〝聖霊によって〟です。聖霊はイエスの御言を思い起こさせ、その意味を教え、悟らせてくださいます。だから、あえてルカは詳細を記録しませんでした。
私の学んだ神学校における旧約聖書神学のレポート課題は「旧約にあらわされたキリスト」でした。旧約聖書のどこにキリストが描かれているのか。どこに、キリストは御苦しみを受け、三日目によみがえると啓示されているのか等。旧約聖書39巻から読み解くという課題でした。
私にとって、それは心が内に燃える体験であり、深い学びとなりました(24・32)。そして、イエスが同行してくださっているかのように、聖霊が説き明かしてくださるという至福の時間でした。
こうして、御言によってイエスはキリストであるという確信が、人生の荒波で揺らぐことのない錨のようにずっしりと腑に落ちて行きました。個々の内容は朝マナ(特に旧約)の随所に取り上げています。
エマオ途上からとって返したふたりの弟子は、エルサレムに留まっていた十一弟子たちに、事の次第を報告しました。そして、その場でも復活のイエスは姿を顕わし「身体(からだ)の復活」を見せてくださいました。幽霊ではない。しかも、朽ちてしまう肉の体でもない。次元の違う永遠の体です。
私たちがやがて復活する時も、このイエスと同じ体をいただくことになります。朽ちない体です。もはや病も死もない体です。この復活についてはコリント書で詳しく述べることにします。
最後に、復活のイエス様は弟子たちを「イエスの証人」として任命なさいました(48)。でも、それは肉の力では不可能です。聖霊によって成し遂げることです。だから、こう命じられました。
「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。」(49)
「父の約束」とは「聖霊降臨」のことです。「もうひとりの助け主」とか「真理の御霊」と呼ばれる聖霊が弟子たちに授けられるまで、エルサレムの都に留まっておれという意味です。
復活のイエスを目撃することはすばらしい体験です。でも、その体験も肉の力で伝えるなら、真意はゆがみ、単なる奇跡話や神話(しんわ)になってしまうでしょう。
ローマカトリックから袂(たもと)を分かったネストリウス派の教えは、東方のペルシャで発展し、やがて7世紀に中国に伝わり「景教(けいきょう)」(光の信仰という意味)として繁栄しました。その頃になると景教の教会は「波斯(ペルシア)寺」と呼ばれ、仏教の一派と見なされ、日本にも仏教として入ってきています。
また、ローマカトリックも各地に宣べ伝えられる中で、マリヤ崇拝や聖人崇拝へと変化したり、免罪符による罪の赦しなど様々に変質して行きました。いずれも聖霊を無視した結果です。
いつの時代も、何度でも、聖霊に立ち返る必要があります。聖霊を受けるまで留まることも重要です。
祈りましょう。約束の聖霊を与えてください。約束の聖霊で満たしてください。そして、約束の聖霊で導いてください……と。
<朗読配信_Spotify>ルカ福音書 24章 • 朝マナPodcast (spotify.com)
<You Tube>【一日一章】朝マナ ルカ福音書 24章【聖書通読】 - YouTube
<You Tube>【一日一章】朝マナ ルカ福音書 24章【聖書通読】 - YouTube
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。
~~~~~~~~~~~~