goo blog サービス終了のお知らせ 

朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ルカの福音書 24章

2024年10月02日 | ルカ福音書
ルカに24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。

復活されたイエス様が、エマオに向かうふたりの弟子たちに出会ってくださいました。この弟子たちは、イエスを目の前に見ているにもかかわらず、イエスの復活を信じることができませんでした。

ところで、ルカによる福音書には、〝御言についての深い洞察〟が随所に記録されています。第24章の、エマオに向かうふたりの弟子が復活のイエスに出会った体験もそうです。イエスをこの目で見て確信するのではなく、イエスが道々説き明かされた聖書の言葉を聞く中で、彼らの目が開かれたわけです。御言を聞いて悟ることに重きがおかれています。

著者ルカ、そして彼が師事したパウロもイエス様を直接見たわけではありませんでした。しかし、肉眼で見るよりはるかにまさっていることは、神の御言を通してイエスを体験することです。

ローマの百卒長は直接イエス様にお会いしたのではなく、御言を求めました。彼はイエスに対して、「直接おいでいただくにはおよびません。ただ、お言葉をください」と申し出ました。そして、「いやされよ」という神の御言を受け取って、いやしを体験しました(7・1~10)

また、神の家族について教えられた時も、神の御言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟であると言われました(8・21)。他の福音書はこの箇所を「御心を行う者」と記録していますが、ルカは御言の体験を重視しました。

また、ある金持ちが死んでゲヘナの火炎で苦しむ物語の中で、彼はこう願いました。「わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」(16・27)

しかし、それに対する応えは、もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろうというものでした(16・31)

「モーセと預言者」とは聖書のことです。つまり、ラザロが生き返って、人々がその不思議を見たとしても、聖書に記された御言を信じなければ、目は開かれないという意味です。

また、ある婦人が、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は何と恵まれていることでしょう」と賞賛しました。つまり、イエスを直に見て、直にふれることのできた母マリヤの幸いを指摘したのですが、イエスの返事は違いました。いや、恵まれているのは、むしろ神の御言を聞いてそれを守る人たちだと言われました(11・28)

このように、ルカ福音書は御言の体験を強調しています。

人は肉体をもつ存在ですから、どうしても肉の感覚に頼ろうとします。つまり、この目で見たら信じよう。この手でふれたら信じようとするわけです。

ところが、肉体がやがて朽ちて行くように、肉の感覚とか体験はやがて消えて行きます。美味しかったご馳走の味も、美しかった風景の記憶も、脳細胞の衰えとともに消えて行きます。

肉体が得たものはやがて朽ちます。肉体の体験は永遠ではありません。しかし、私・霊魂が、御言によって得た体験は永遠に続く「イエス体験」です。

さて、今日の聖句に戻りましょう。イエス様の復活を信じられないふたりの弟子は、復活について熱心に論じあっていました。「論じあう」……。これは肉の力でイエスを知ろうとすることです。肉の理解力とか知恵で復活を論じたのです(24・14)

肉の力が前面に出ているので、目の前に復活のイエスがおられても、弟子たちはそのお方がイエスだと分かりませんでした(24・16)。彼らの目がさえぎられていたので……と記されています。「論じあう」ことによって、霊の目はさえぎられるのです。 ※議論が不毛だとは思わない。結論を得るために議論もするだろう。しかし、その後で静まって神の御声を聞く時間が不可欠である。

そこでイエスは、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです(24・27)。彼らの心のフォーカスを、人の議論から御言に合わせるように導かれたわけです。

弟子たちは聖書の御言を聞くうちに信仰が湧いてきました。信仰は見ることによるのではなく、神の御言を聞くことによるからです。見て信じるのではなく、聞いて信じるのです。論じあって信じるのではなく、御言を聞いて信じる……これが信仰です。

夕食の時、イエス様がパンを裂いて祝福の祈りをなさいました。ユダヤでは、食前の祝福の祈りは主人がするのが慣例です。つまり、弟子たちは、イエスを主人の座に迎えたのです。

主客転倒がおこったのです。論じあっている時は自分たちが主人でした。しかし、夕食の時はイエスが主人となられました。

その時に、弟子たちの目が開けて、イエス様だと分かったのです。御言を中心にした時です。イエスを中心にした時です。これが信仰の原則です。

◆◆◆◆◆◆

さて、イエスがエマオへの途上で、弟子たちに語られた聖書解説は如何なるものであったのでしょうか。とても興味がわきます。なのにルカはその詳細を記録しませんでした。何故ですか。

それこそ「読者よ悟れ!」です。

2千年前にイエスが弟子たちと同行されたように、今も私たちと共に歩みながら、道々聖書を教えてくださるからです。信仰の篤(あつ)い者だから共におられるのではありません。弱い者にも、不信仰な者にも共におられ、共に人生を歩いてくだいます。

そして、道々お教えくださいます。それは〝聖霊によって〟です。聖霊はイエスの御言を思い起こさせ、その意味を教え、悟らせてくださいます。だから、あえてルカは詳細を記録しませんでした。

私の学んだ神学校における旧約聖書神学のレポート課題は旧約にあらわされたキリストでした。旧約聖書のどこにキリストが描かれているのか。どこに、キリストは御苦しみを受け、三日目によみがえると啓示されているのか等。旧約聖書39巻から読み解くという課題でした。

私にとって、それは心が内に燃える体験であり、深い学びとなりました(24・32)。そして、イエスが同行してくださっているかのように、聖霊が説き明かしてくださるという至福の時間でした。

こうして、御言によってイエスはキリストであるという確信が、人生の荒波で揺らぐことのない錨のようにずっしりと腑に落ちて行きました。個々の内容は朝マナ(特に旧約)の随所に取り上げています。

エマオ途上からとって返したふたりの弟子は、エルサレムに留まっていた十一弟子たちに、事の次第を報告しました。そして、その場でも復活のイエスは姿を顕わし「身体(からだ)の復活」を見せてくださいました。幽霊ではない。しかも、朽ちてしまう肉の体でもない。次元の違う永遠の体です。

私たちがやがて復活する時も、このイエスと同じ体をいただくことになります。朽ちない体です。もはや病も死もない体です。この復活についてはコリント書で詳しく述べることにします。

最後に、復活のイエス様は弟子たちをイエスの証人として任命なさいました(48)。でも、それは肉の力では不可能です。聖霊によって成し遂げることです。だから、こう命じられました。

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。(49)

「父の約束」とは「聖霊降臨」のことです。「もうひとりの助け主」とか「真理の御霊」と呼ばれる聖霊が弟子たちに授けられるまで、エルサレムの都に留まっておれという意味です。

復活のイエスを目撃することはすばらしい体験です。でも、その体験も肉の力で伝えるなら、真意はゆがみ、単なる奇跡話や神話(しんわ)になってしまうでしょう。

ローマカトリックから袂(たもと)を分かったネストリウス派の教えは、東方のペルシャで発展し、やがて7世紀に中国に伝わり「景教(けいきょう)」(光の信仰という意味)として繁栄しました。その頃になると景教の教会は「波斯(ペルシア)寺」と呼ばれ、仏教の一派と見なされ、日本にも仏教として入ってきています。

また、ローマカトリックも各地に宣べ伝えられる中で、マリヤ崇拝や聖人崇拝へと変化したり、免罪符による罪の赦しなど様々に変質して行きました。いずれも聖霊を無視した結果です。

いつの時代も、何度でも、聖霊に立ち返る必要があります。聖霊を受けるまで留まることも重要です。

祈りましょう。約束の聖霊を与えてください。約束の聖霊で満たしてください。そして、約束の聖霊で導いてください……と。

 

Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

~~~~~~~~~~~~

ルカの福音書 23章

2024年10月01日 | ルカ福音書
ルカ23:34 イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

イエス様は最後まで祈りの人でした。十字架の最期(さいご)も私たちに対する執り成しの祈りでした。まさに主が祈られたように、私たちは「何をしているのか分からない者」です。

(1)全人類のための執り成し

「自分が何をしているのか分からない」のは、自分を見失っているからです。人は創造主なる神に背を向けて以来、自分を見失ってきました。「神のかたち」に創造されたはずの私たちが、オリジナルの姿である神を見失うことは、自分を見失うことに等しいのです。

神を見失うとは、自分を見失うことです。神を発見することは、自分の本当の姿を発見することです。ですから人は神に立ち返るまでは、自分の本当の姿……つまり「神のかたち」を見失っています。

あの放蕩息子が父を否定して飛び出した時から、彼は自分を見失いました。父を否定することは、自分を否定することです。ですから彼は、〝何をしているのか分からない者〟となっていました(ルカ15・11~24)。その結果、豚のえさで空腹を満たしたいと思うまでに落ちぶれました。

その放蕩息子のように人類は落ちぶれています。しかし、経済的にもそこそこだし、学校教育も受けているし、法律違反をしているわけではないので、人は自分が落ちぶれているとは思いません。

はたして、そうでしょうか。父なる神を否定している人類は、神の目には落ちぶれた放蕩息子です。地上の基準では落ちぶれていなくても、天の基準からすれば、人類は落ちぶれています。

お金を信頼し、この世の物質で満足しようとして、昼夜たがわず仕事人間として支配されている人類の姿は、放蕩息子が豚の餌を食べてでも生き延びようとする落ちぶれた姿のようではありませんか。

そんな彼も、本心に立ち返って……新改訳では「我に返って」……父のもとに戻りました。そうできたのは、「彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか分からないのです」という主イエスの執り成しの祈りがあるからです。

私たちは本心に立ち返るまで ……我に返るまで……自分は何をしているのか分からない者なのです。主イエスはそのような人類のために執り成してくださいました。

(2)私たちクリスチャンのための執り成し

ところが、イエス様を信じて神に立ち返っても、相変わらず「何をしているのか分からない」という状況が待ち受けています。主イエスはそんな私たちのために、今も天で執り成してくださっています。

キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、私たちのためにとりなして下さるのである。(ローマ8・34)

クリスチャンとは名ばかり。何かと失敗の多い私たちです。でも、そんな私たちがクリスチャンでいられるのは、「彼らをおゆるしください」と、今もイエスが執り成してくださっているからです。

もちろん、少しでも自分のやっていることが分かって、失敗の少ない人生にしたいものですが、主イエスの執り成しの祈りを信頼して、失敗を恐れず、大胆に歩もうではありませんか。

(3)私たちがすべき執り成し

十字架の主イエスは、私たちがどう祈るべきかを見せてくださいました。今度は私たちの番です。私たちが、家族のために、友人のために、そして日本をはじめ世界の人々のために執り成しの祈りをする番です。

自分を石で打ち殺そうとする人々のために、ステパノも祈りました。その時の様子を聖書はこう記しています(使徒7・57~60)

「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、『主イエスよ、私の霊をお受け下さい』。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』。こう言って、彼は眠りについた」。

自己正義を主張する前に、「彼らをおゆるしください」と祈ろう。あざけりの言葉を浴びせられ、自分の無罪を主張する前に、「彼らをゆるしてください」と祈られた主イエスの祈りに続こう。

◆◆◆◆◆◆

さて、十字架に掛けられたイエス様の両隣には、ふたりの犯罪人も磔刑(たっけい)されていました。その内のひとりは、イエスがキリストであることを信じました。その信仰告白に対して、よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろうと主は約束されました(ルカ23・43)。十字架刑というおぞましい中に輝くひと筋の光です。「彼らは何をしているのか分からないのです」と祈られたように、イエスを取りまくすべては、自己保身に動く人々の身勝手な言動ばかりです。暗闇の世界です。

偽りの証言をもって訴える者たち(23・2)
味本位でイエスをからかうヘロデ王(8~12)
無罪と知りながら民衆を恐れ、自己保身をのために処刑を判断したピラト(15)
同調圧力に屈して「十字架につけろ」と無責任に叫ぶ民衆(21)
十字架のイエスをあざ笑う人々(35)
「お前がキリストなら自分も俺も救え」と自分のことはさておいて嘯(うそぶ)く犯罪人(39)

このように、イエスの十字架の周りはカオス(混沌)です。でも、その暗闇に光が来ました。混沌の世界に神が「光あれ」と宣言なさって光が生じたように、十字架による救いの光が輝いています。

いかなる苦しみの中にあってもきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるとの宣言は、苦難の中にある者たちへの救いの御言です。暗闇の中の希望の光です。十字架の苦しみの向こうには、「パラダイス」という恵みの世界があるのです。

Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

~~~~~~~~~~~~
 

ルカの福音書 22章

2024年09月30日 | ルカ福音書
ルカ22:32 わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエス様が十字架にかかられる前夜、主は弟子たちのために、特にシモン・ペテロのために祈られました。なぜなら、サタンがシモンを誘惑することを神に願い出てゆるされたからです。

主は、シモン・ペテロにこう言われました。シモンよ。サタンはあなた方を麦のように篩(ふるい)にかけることを願って許された22・31)

どうしてですか、イエス様。私たちがサタンの試みに遭(あ)わないように祈ってくださらないのですか。そう訴えたくなるところです。

(1)すべては神のご支配の下にある。

この時、サタンはシモン・ペテロを麦のようにふるいにかけることを神に願った、とあります。

元々サタンは、たえず人間を誘惑しようと虎視眈々(こしたんたん)とねらっていますが、それはサタンが思う存分にできることではなく、神のご支配の下にあるのであって、神のゆるしがなければ、サタンは何ひとつできません。

ですから、どんな試練も、神はこのことを重々ご承知です。すべてが神のご支配の中にあることを忘れてはなりません。

預言者エリシャのしもべが、スリヤの大軍に包囲されたのを見たとき恐れました。しかし、しもべの心の目がひらかれると、スリヤ軍を取り囲んでいる天の軍勢が見えました(列王下6・15~17)

そのように、サタンの働きがどんなに激しくても、それ以上の大きな御手がそのまわりを取り囲んでいます。ならば、必ず解決の道があるし、このことに意味と目的があるのです。

神は、あえてサタンの働きを阻止なさらない場合があります。天の父は、神の子どもたちを失敗させまいと、過保護な親のように至れり尽くせりなさるお方ではありません。

あの放蕩息子のことを思いだしてください。財産を受け取って町に行く息子を、父親は止めませんでした。あえてやらせました。とはいえ、無関心に放っておいたのではありません。あの息子が戻ってきたとき、父親は彼を見つけて、走り寄って迎えました。なぜそうできたのでしょうか。父は息子が悔い改めて戻ってくるのを信じて、いつも関心をもって、町へつづく道を見ていたからです。

これは、息子が堕落するであろうことを予測しつつも、悔い改めて戻ってくることを信じて待ち続けてくださる神の姿です。

(2)神はサタンの働きさえも用いて訓練となさる。

神は、私たちを温室育ちでひ弱な神の子どもにしようとはなさいません。サタンの働きを用いて、私たちに罪の恐ろしさを学ばせます。

私の息子が小さい頃のことです。息子がストーブで火傷(やけど)をしないように、私はあえてその子の手をストーブ近づけさせて怖さを教えました。こうして、子供は火の怖さを学習します。

天の父も、神の子どもたちに、あえてサタンの攻撃を経験させます。それは、私たちに罪の怖さを学習させ、私たちを罪に勝利するきよい者へと成長させるためです。

シモン・ペテロもこの訓練を受けました。イエス様の予告どおり、この後、ペテロはサタンの攻撃を受けて、イエスを知らないと、三度否定してしまいました。サタンによって篩(ふるい)にかけられたわけです。

サタンはこのことによって、教会指導者としてのペテロの立場も心意気も打ち砕いてしまいました。

しかし、ペテロは、このことを通して、自分の弱さを徹底的に知らされることになりました。そして、人の弱さを思いやることのできる指導者として、土台から変えられました。

こうして、ペテロは謙遜を学びました。十字架以前のペテロには ……他の弟子たちもそうですが……高慢がいつも見え隠れしていました。神は、私たちに謙遜と従順を学ばせるために、サタンの攻撃をゆるされることがあるのです。

苦しみにあったことは私にとって良いことでした。それを通して、神のおきてを学ぶことができたからです(詩119・71)

(3)信仰がなくならないように祈ってくださる。

どんなにつらい中にあっても、信仰だけは失わないように、主は祈ってくださっています(22・32)。信仰こそ私を救う道です。他のどんなものも、イエスを信じる信仰に代えることができません。

しかし、私たちの中には信仰以外の何かを頼って救いを得ようとする要素が残っていないだろうか。

それは信仰に不純物が入っている状態です。ガソリンも不純物が入っていると力強く燃焼しません。同じように、信仰にも混ぜ物が入っていると、信仰の力が現れません。

そんな信仰の矛盾点を、サタンは篩(ふるい)にかけるようにして揺さぶってきます。

サタンは私から信仰をふるい落とそうと揺さぶります。しかし、イエス様はその揺さぶりを用いて、信仰以外の不純物がふるい落とされ、信仰だけが残るように祈っておられます。

私たちも祈りましょう。天国へ行くまでの地上での旅路を通して、どうか私の中から不純物を取り除いてください。純粋な主への信仰だけが残るようにしてください。

◆◆◆◆◆◆

その後、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。それは、これから受けるべき十字架の苦しみを引き受けるために天からの力が必要だったからです。神の御子といえども、その苦しみは生身の肉体が受けるのですから、あまりにも恐ろしいことです。

突然、予想だにしない事故で死ぬのであれば、一瞬の苦しみかもしれません。しかし、これから殺されることを知ってそれを引き受けるのは、どんなに恐ろしいことでしょうか。

これが、キリストに与えられた神の御心だと分かっていても、従うには天からの力が必要です。

御心が行われますようにと私たちは求めますが、御心は心地良いことばかりとは限りせん。時には苦難かも知れません。それをイエスは「苦(にが)い盃」といわれました。そして、それを飲むために苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちたのです(22・44)

私たちも、イエスの祈りに続く者たちです。やがて苦難の時、迫害の時代が来るでしょう。そんな時だからこそ、神の御心に従うことができるようにと、天からの力を求めて祈るのです。

すると、どうでしょう。イエス様が祈っておられると、御使が天からあらわれてイエスを力づけた」と記されています(22・43)。何という励ましでしょう。何という恵みでしょう。私たちが祈る時に天使も共に働いてくれるのです。普段は見えないだけです。

祈りは孤独のようですが、そうではありません。天使たちが総動員されて、祈りを持ち運び、祈りの実現のために働き、私たちを励ましてくれるのです。こんなすばらしい光景が、見えないところで展開されているなんて、ワクワクしませんか。ですから、失望せずに絶えず祈るのです。


ルカの福音書 21章

2024年09月28日 | ルカ福音書
ルカ21・24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。

多くのユダヤ人たちは、イエスをキリストだと信じませんでした。弟子たちをはじめ数人の者は信じましたが、民族的なレベルで言えば、ユダヤ人はイエスを拒絶したのです。

そんなユダヤ人に臨もうとしている神のさばきについて、イエスは預言なさいました。特にエルサレムの崩壊については具体的にお話しになりました。

エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たなら、町から逃げよ。(21・20)

このことは、AD70年に実現しました。ローマに敵対して武装蜂起したユダヤ人を鎮圧するために、ローマ軍はエルサレムを完全に包囲しました。

当時のクリスチャンたちは、イエスのこの預言を思い出しました。そこで、エルサレムに住むクリスチャンたちは、イエスの御言に従い、取るものもとらずに町を脱出しました。そしてその後、ローマ軍は完膚無きまでにエルサレムを破壊しました。

この戦争で多くのユダヤ人が殺され、生き残ったユダヤ人は国を追われ、諸国を放浪する民となりました(21・24)こうして、エルサレムは、異邦人が踏みにじる土地となりました。 ※ダニエル9・26の成就である。

神はユダヤ人をお見捨てになったのでしょうか。いいえ、そうではありません。どんなに厳しいさばきの中にも、神の慈愛と峻厳を見ることができます。

AD70年の戦争以来、主イエスの預言どおり、エルサレムは異邦人に踏み荒らされて来ました。しかし、それは永遠に続くのではなく、ある一定の期間であると主は言われました。

それは異邦人の期間が満ちるまでです(21・24)。では、この「異邦人の期間」とは如何なる期間を意味しているのでしょうか。

神はご自分の約束を絶対に変更なさらないし、お忘れになりません。天地が滅びても神の御言の一点一画も滅びません(21・33)。そもそも、旧約聖書に記された約束の多くはユダヤ人(イスラエル)への約束です。

その約束は、ユダヤ人がキリストを受け入れることで実現するはずでしたが、彼らはイエスをキリストと認めませんでした。そのため、ユダヤ人への約束は一時的に中断しています。つまりポーズ状態です。

このポーズ状態の期間が異邦人の期間となっています。ユダヤ人の救いは一時中断し、異邦人に救いが宣べ伝えられる時代が挿入された構図です。

今は異邦人の期間なので、極東の日本人の私さえも、イエス・キリストを信じて救われました。宴会に招待していた人々(ユダヤ人)が招待を断ったために、街中の誰でもよいから連れてきなさい……という譬え話の通りです(ルカ14・16~24)

ユダヤ人が先に招待されていました。つまり、救われるはずでした。しかし、ユダヤ人はその招待を拒絶したので、異邦人に救いが提供されるようになりました。これが「異邦人の期間」です。

先の者があとになり、あとの者がさきになると言われたとおりです。

しかし、くり返しますが、ユダヤ人(イスラエル)への神の計画はポーズ状態になっているだけで、反故(ほご)になったのではありません。ユダヤ人がイエスをキリストと信じ受け入れる時代が必ず来ます。

ローマ軍によって流浪の民となったユダヤ人は、いまや2千年の時を経て約束の地に集まっています。異邦人によって踏み荒らされたエルサレムに、ユダヤ人が再び住むようになりました。

ただし、最も神聖な場所である神殿の丘にはイスラム教のモスクが建っているので、ユダヤ人の立場からすれば、まだエルサレムは異邦人に踏みにじられています。

異邦人の期間はやがて終わります。そしてイスラエルの回復(ユダヤ人の救い)の時代へとバトンは引き継がれます。聖書の預言どおりに、確実に歴史は進んでいます。次の二つのことを確認しましょう。

(1)神は約束をお忘れにならない。

2000年の時を経ても神はユダヤ人への約束を実現なさいます。人間には気の遠くなる時間ですが、神はなさるのです。自分の時間に神を合わせようとするのではなく、神の時間に自分を合わせよう。

(2)異邦人の期間は終わりに近づいている。

今は異邦人にとって特別な期間です。イエスを信じることで救われる期間です。今は恵みの時、今は救いの日です。福音を伝える大切な期間です。

※ルカ21章の終末預言と、マタイ24章のそれとは異なる点がある。ルカはエルサレムが軍隊に包囲されたら」、避難せよとあるが、マタイの場合は荒らす憎むべき者が聖なる所に立つのを見たらである。ルカの場合は、紀元70年にすでに実現し、その後に異邦人の時代が続く。マタイの場合は患難期に登場する反キリストのことであって、これからのことである。

ルカは、エルサレム陥落があって、さらに異邦人の期間を経て、終わりの時代の最終局面に至ることを記している。この最終局面が黙示録で描かれている「患難期」のこと。しかし、どんな困難の中にあっても、身体をまっすぐにし、頭を上に上げよと命じている(21・28)。主の再臨の希望に向けて、身体も目も天に向けよというのだ。異邦人の期間と、その後のイスラエルの回復については、パウロを通して啓示されているが、パウロのもとで学んだルカだからこその記録である。そのようなわけで、マタイと異なった記録となったのであろう。

 キリストが来臨されて以来、すでに「終末の時代」であり、今に至っている。だから、様々な出来事があっても、翻弄されてはならない。その最終段階が「患難期」である。


ルカの福音書 20章

2024年09月27日 | ルカ福音書
ルカ20・2 何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか。

イエス様が神殿で教えておられると、ユダヤ教の指導者たち(祭司長や律法学者)は「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか」と問いただしました。

ようするに、「どこの馬の骨か分からないお前が、何の資格があって神殿で教えているのだ!」と言いたいわけです。

彼らにとって権威の根拠は何だったのでしょうか。建前では、神からのものにこそ権威があると考えていました。しかし、結局は△△先生の門下生だとか、◇◇学派に属しているとか、▽▽大学の出身とか……そのような人間的な組織や後ろ盾が権威の拠り所でした。

だから、ガリラヤの田舎者で大工のイエスに権威を認めることができませんでした。

いつの時代でも同じことがあります。◇◇神学校を出て、△△教授に師事した……といえば権威を感じるのでしょうか。逆に、神学校も出ない普通の婦人が語る福音には権威がなく、軽んじるのでしょうか。

そんなことはありません。神が共になさっていれば、そこには天からの権威があります。聖霊が語らせてくださる御言は、青年が語っても老人が語っても、人々を救い、いやしが伴う権威ある御言です。

むしろ、人為的に演出された権威にはいのちがありません。エルサレム神殿の荘厳な雰囲気の伽藍(がらん)や調度品……、そこで仕える祭司たちや律法学者たちの威厳のある服装……、それらは権威を演出するには有効でしたが、いのちがありませんでした。

祭司長や律法学者らには演出された権威はありましたが、神からの権威は影を潜めていました。だから、彼らは人々を救うことも、いやすことも、悪霊を追い出すこともできませんでした。

権威は神から来ます。天から来ます。それを確認させるために、イエス様は、バプテスマのヨハネは天からか、人からであったかと質問されました(20・4)

人類は長い歴史の中で偽りの権威をたくさん見てきました。それにだまされたり傷つけられてきたので、権威に対しては、「だまされないぞ」と警戒心をあらわにします。そんな現代人は、権威を認めたり従うことが苦手です。

しかし、本当の権威はイエスにあります。人からのものではなく、天からのものです。

神は見える物質だけを創造なさったのではなく、見えないものも、すなわち主権とか権威とか地位といった秩序も創造なさいました。しかも、それは御子イエスのために創造されました(コロサイ1・16)。 ※主権、権威、地位、秩序は人間が威張るためではない。御子イエスのためであることに注目。

神の世界は無秩序の世界ではなく、正しい権威のもとで整えられた霊的秩序のある世界です。そして、御子イエスは、その世界で王座につくのに相応しいお方です。

イエス様に権威を認めなかった人々は、たとえ目の前にイエスを見ていても、神の栄光を見ることができませんでした。

イエス様の権威を認める人々は、イエスの言葉にも権威を認めました。あのローマの百卒長は、イエスの御言に権威を認めました。だから「御言をくだされば、私のしもべは治ります」と告白しました。

イエス様を信じるとは、天においても地においても、いっさいの権威がイエスにあることを信じることです。そして、そのイエスの語られた言葉にも権威があることを認めることです。

祈りましょう。イエスの権威を認めることによって、私の中に正しい神の秩序が回復しますように……。

◆◆◆◆◆◆

さて、このような論争がしばらく続きます。ユダヤ当局はイエスを訴える口実を得ようと、あれこれと詰問しているのですが、かえって、つけ入る隙のない完璧なお方であることを証明しています。これは、過越しで屠(ほふ)られる小羊として十字架で死なれるイエスが、罪のない完璧な身代わりであることを証明することになるのです。

実は、律法によれば「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。そしてこの月の十四日まで、これを守って置き……」とあります(出エジ12・5~6)

これは犠牲となる小羊に問題があってはならないからです。民の身代わりになるのですから、完璧な小羊でなければなりません。そのために、取り分けてから5日間は病気や怪我がないかを観察しました。

神の小羊であるイエス様に何の欠陥もないことを確認するかのように、ユダヤ当局の調査は続きます。最後にはユダヤの裁判でも、ローマの法廷でも、イエスの罪を発見できなかったのです。別に、彼らはイエスが過越しの小羊として相応しいかどうか吟味しているつもりではありませんが、結果的には、イエスは傷のない完璧な小羊であると認定したことになりました。このお方こそ、私たちの身代わりとなるに相応しい完璧なお方です。このお方以外に罪のゆるしはあり得ないのです。

 


ルカの福音書 19章

2024年09月26日 | ルカ福音書
ルカ19・5 ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから。

イエス様がエリコの町に来られると聞き、ザアカイはイエスにお会いしようと出かけました。しかし、群衆の背に遮(さえぎ)られてお会いすることができません。彼は背が低かったのです。そこで、イチジク桑の木に登って、イエスが通過するのを見ようと思ったのです。この時のザアカイの主語は〝自分〟です。イエスを見つけたのは自分だと思っていました。

ザアカイと同じく私たちも、主語が自分であることがほとんどです。つまり、自分がいつも中心になっています。しかし、はたして私がイエス様を見出したのでしょうか。イエスは言われました。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのだ」(ヨハネ15・16)。だから、ザアカイに対しても、ザアカイよ。すでにあなたの家に泊まる予定なのだ」と主は言われました。

ザアカイは驚いたことでしょう。自分がイエスを発見したと思っていたのに、イエス様の方が、もっと先にザアカイを見つけてくださっていたのです。名前もご存知で、しかも宿泊予約も……。

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前できよく、傷のない者にしようとされました」(エペソ1・4)とあるように、神が先です。〝主語はいつも神〟であって自分ではありません。

自分がイエスを見つけたと思っている人は、世のわずらいで目が曇ってしまうとイエスを見失います。自分がイエスをつかんだ人は、やがて力つきてイエスを手放してしまいます。

イエス様が先に私を見つけてくださったので、こんなに迷いやすい私が、今もイエスにつながっています。イエス様が先に私をつかんでくださっているので、心は熱していても肉体の弱い私が、今もイエスに捕らえられています。

ソドムの町を脱出することを躊躇(ちゅうちょ)するロトの手を、御使(みつかい)がつかんで、強引に引いてくれなかったら、ロトはソドムの町と一緒にさばきの火で滅んでいたことでしょう(創世記19・16)

ノアたちが箱船に乗り込んだあと、神が、うしろの戸を閉めてくださらなければ(創世記7・16)、ノアたちは箱船から降りて洪水で滅んでしまったかも知れません。神が中心で、神がなさるので、ロトもノアも信仰を全うできたのです。

神が中心であること……、つまり〝神が主語〟であられることは、人には不自由に感じるかも知れません。しかし、これが恵みです。こんな真実な神の圧倒的な主権に感謝し、先の先まで見据えておられる神の力強い御手を信頼すべきです。

でも、何もしなくても自動的に神に見出され、自動的に導かれると申し上げたいのではありません。イエスを見ようと集まったのは、ザアカイだけではありませんでした。数え切れないほどの群衆が、イエスを見ようとしていました。それなのに、なぜザアカイなのでしょうか。

ザアカイには、素朴ではありますが幼な子のような信仰があったからです。彼はこの世の富を主人とする生活に空(むな)しさを感じていました。〝空しさ〟は霊的な飢え渇きの結果です。だから、イエスに会ってみたいと願いました。

そして、イチジク桑の木に登ってでも会いたいという、幼な子のような求めがありました。それが信仰です。神に会いたいと願って、なりふりかまわず出て行くのが信仰です。

昔は、王の前に突然出て行けば殺されました。でも、あのエステルが王の前に命がけで出たように求めるのです。それが信仰です。

らい病人も人前に出て行けば殺されることもありました。でも、あのバルテマイのように出て行くのです。神のあわれみを受けようと、死を恐れず恥もいとわず出て行くのです。これが信仰です。信仰がなければ神に出会うことができません。

だら、信じて行動に移すのです。何も行動を起こさなければ出会いはありません。出会いの中に神の御わざがあるのです。失われた者たちを捜し出そうとなさる神の愛と、神を求めて出て行く信仰とが一致するところが、神との出会いの場です。

新改訳聖書では、ちょうどイエスがそこを通り過ぎようと(4)とあり、イエスは、ちょうどそこに来られて5)と記しています。イエス様との出会いは、このように〝ちょうど〟なのです。自分でやっているようですが、神の御手の中で〝ちょうど良くしてくださる〟のです。神のタイミングはいつも〝ちょうど〟なのです。  

ですから、今日も信仰をもって動きだそう。ちょうど良くしてくださる神の時を信頼して……。


ルカの福音書 18章

2024年09月25日 | ルカ福音書
ルカ18・1 イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々にたとえで教えられた。

ルカによる福音書は祈り」を強調していると以前申し上げたのですが、この18章の記録もそれを裏付ける記述であり、ルカ独自の記録です(ルカ4章の「朝マナ」参照)。

私たちは失望する時があります。失望で打ちのめされる時があります。そのことを主イエスはご存知です。主イエスを信じる人生は、失望もなく快適な日々ではないことを、主はよくご存知です。

なぜ失望するのでしょうか。それは、今の世があまりにも理不尽な世界だからです。計算の合わない世界だからです。闇の世の主権者である悪魔が働く世界だからです。

だからイエス様は「失望せずに祈れ」と教えられました。

そこで、ひとりのやもめの話をなさいました。彼女はどうぞ、私を訴える者をさばいて、私を守ってください(18・3)と申し出ているように、この婦人はある者から責め立てられていたようです。 ※新改訳では、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と訳されている。口語訳の方が状況がわかりやすい。

この婦人のように、私たちをたえず訴える者がいます。それは悪魔です。私たちは完全な救いを受けましたが、救いが完成するまで、さまざまな試練を通過します。その試練の中で、悪魔は私たちの欠点を指摘して訴えてきます。私たちの罪を責め立てるのです。悪魔は訴える者です。

だから失望しそうになります。私の受けた救いは嘘だったのだろうかと疑いが生じます。

先の婦人は、正しいさばきをしてくださいと、裁判官に願い続けました。彼女はあきらめませんでした。裁判官も嫌になってしまうほどしつこい要求です。遂に根負けした裁判官は、彼女のためになる裁判をしてやることにしました ※彼女の求め方は激しく、しつこい求めだ。これを語られたイエスは、私たちにもこれくらい求めても良いのだと奨励している。遠慮するなと。

ましてや、神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか(18・7)。そうです。必ず正しいさばきが成されるのです。

悪魔の攻撃だけを見ていたら失望してしまいます。地上的な解決だけに期待していたら失望してしまいます。現世の理不尽さだけを見ていたら失望します。現世で計算を合わせようとしたり、報いを得ようとしたら失望します。

希望はただひとつ。正義を完成なさる神のさばきにあります。

この方を信じて、この方に望みをおくとき、失望は希望に変わります。正しいさばきをなさる神が来られる。正しいさばきをなさる日が必ずやって来る。それを信じて祈るところに、本当の希望があります。

このさばきの日に、神は私たちの苦労に正しく報いてくださるのです。だから、その日が成就するように、失望せずに祈り続けるのです。

主イエスが公正な結論を出されることを期待して祈り続けます。再臨の主イエスが悪魔を完全に滅ぼし、私たちにまことの報い、永遠の報いを授けてくださる日まで、失望せずに祈り続けます。

この記事に続いて、パリサイ人と取税人の祈りについて語られました(18・9~14)。これもルカ独自の記録です。

パリサイ人の祈りは、「自分を義人だと自任し他者を見くだす者」の祈りです。自分が正しい者であることを、誇らしげに神に感謝する祈りです。しかし、この祈りに力があるでしょうか。悪魔の訴えにどれだけ耐えうる祈りでしょうか。真理を悟らない者は、自分の正しさによって悪魔に対抗できると思っています。自分の正しさによって、神に受け入れられると勘違いしているのです。

しかし、取税人の祈りは違いました。真逆の祈りです。おのれの罪を認め、胸を打ちたたきながら罪人の私をあわれんでくださいと祈ったのです(13)。なぜなら、神の前に偽ることなどできないからです。神の光に照らされるなら、暗闇に隠しておいた罪も悪もあらわになります。

こんな罪人の姿を、悪魔が責め立てるより先に、神に祈るのです。これが最も幸いな祈りです。神はこのような罪人の祈りを祝福されるのです。義とされるのです(14)

神が義とされた者を、だれが覆(くつがえ)すことができましょうか。神が高く上げた者を、だれが引きずり下ろすことができましょう。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(ルカ14・11)

さあ、やもめの祈りに続こう。そして、取税人の祈りに続こう。

 


ルカの福音書 17章

2024年09月24日 | ルカ福音書
ルカ17・10 命じられたことを皆してしまったとき、「私たちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません」と言いなさい。

弟子たちはイエス様に、私たちの信仰を増してくださいと願いました(17・5)。「信仰を増す」というわけですから、何か大きな信仰とか、偉業を達成するような信仰……といったイメージをいだきます。弟子たちは、信仰とは「量」とか「大きさ」の問題だと考えていたのでしょう。

ところがイエス様の教えは意外なものでした。

からし種一粒ほどの信仰があれば……と応えられたのです(17・6)。からし種は、大きさからすれば、とても小さいです。

そもそも、信仰は、大きさが問題なのでしょうか。どんなに小さくても、いのちがあることこそ重要です。からし種は小さいですが、いのちがあります。いのちがあるので実を結びます。信仰の大きさではなく、いのちがあるかどうかを吟味すべきです。

それは、神への信頼であり、神との親しい交わりです。幼な子が父親を信頼するように、天の父を信じて疑わないことです。幼な子は小さいですが、いのちに満ちています。

つづいて主は、しもべに徹する姿こそ、信仰が増した状態なのだと教えられました(17・7~10)

立派な奉仕をしても偉ぶりません。私たちはふつつかなしもべです。すべき事をしたに過ぎませんと応えるしもべの姿が、「信仰を増してください」という弟子たちの質問に対する解答です。

「小さなからし種の信仰」と「しもべに徹する姿」です。両方とも「小さい」とか「低い」というイメージです。でも、それが、「信仰を増してください」という質問に対する主の解答なのです。

信仰が増し加わると、ますます力強く大きな働きをすることでしょう。しかし、イエス様が大切になさった信仰とは、からし種の信仰です。つまり、信仰は〝大きさ〟の問題ではなく〝いのち〟なのです。

また、イエス様が大切になさった信仰とは、しもべの姿です。つまり、信仰は〝量〟の問題ではなく〝質〟なのです。

イエスの弟子たちは、仕事も家族も捨てて従った人たちです。それだけを見ても、もう立派な信仰だと思います。また、伝道につかわされたときも立派に働きました。

しかし、どんなに立派になっても、「私はふつつかなしもべです。すべき事をしたに過ぎません」と告白できる謙遜と従順が成長した信仰者の姿だと、主は教えてくださいました。

パウロの手紙の中に、パウロ自身による自己評価の変化を読みとることができます。

AD57年頃の手紙には、自分は使徒たちの中でいちばん小さい者と記しています(Ⅰコリ15・9)。使徒は12人いるのですが、その中で一番小さいのです。

AD62年頃の手紙では、自分は聖徒たちの中でもっとも小さい者(エペソ3・8)と記しています。かなりの数のクリスチャンたちの中で一番小さいのです。

晩年のAD67年頃には、私は罪人の頭(かしら)と。つまり、すべての人の中でいちばん小さい者だと告白しています(Ⅰテモテ1・15)。歳を経るごとにパウロの自己評価が小さくなって行くのが見て取れます。

信仰が増し加わると、小さい者になって行くのです。ますます、ふつつかなしもべになって行くのです。これが、信仰が増し加わることです。今日も、主への謙遜と従順を学ぶことができますように……。

 


ルカの福音書 16章

2024年09月23日 | ルカ福音書
ルカ16・11 もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。

興味深いことにルカによる福音書は、お金や富にまつわる記録が多く記されています。第16章もその箇所です。私見ですが、医者であったルカ自身が比較的裕福な人であったためかも知れません。だから、彼は富に関するイエスの教えに敏感であったのでしょう。ルカは地上の富が秘めている魅惑と危険性を洞察していたのだと思います。

イエス様も、この世の富が〝神の座〟を占有する危険性について警告なさっています。富と神の両方を主人とすることはできないのです(16・13)。私たちの本当の主人は神以外にあり得ません。富は主人ではありません。

むしろ、人は、富に対して主人であるべきです。富を正しく管理する主人であって、決してその逆になってはいけません。この順序が逆になるとき、人は富によって支配され、富によって滅亡を身に招きます。

イエス様は悪賢い家令(管理人)の譬え話をなさいました(16・1~13)。この話は解釈が分かれるところですが、その主旨は、「地上の富を正しく管理しなさい」ということです。

ここで「不正の富」といわれているのは、地上の富のことです。地上の富は一時的なもので、永遠の富ではありません。なのに、人の生活を永遠に保証するかのように主人面(づら)をして、私たちをだますのです。

そういう意味で地上の富は不正の富です。

私たちはこの地上の富を正しく管理しなければなりません。富に支配されてはなりません。富を主人とするのではなく、富を管理する側です。私の主人となるべきお方は神のみです。なぜなら、神と富との両方に仕えることはできないからです(13)

地上の富をどのように管理したのか……それはやがて神の国でもっと大きい富(まことの富)の管理をまかせられるかどうかの試金石です。

富を何のために使いますか。

不正な家令(管理人)は友人をつくるために使いました。これをどう解釈するか解釈の分かれるところですが、私は、これは救いに導かれる友を得るために地上の富を用いることだと理解します。

伝道のために富を活用する……これが富を正しく管理する秘訣です。地上の富は、天のまことの富と比べるなら小さな富です。でも、この小さなことに忠実である者は、やがて天の御国において大きな役割(まことの富)をまかせられることになるでしょう。

そのことを戒めるかのように、お金好きのパリサイ人たちの記事が続いているのは興味深いことです(16・14~18)。彼らは地上の富の奴隷になっていました。だから、道徳的にも乱れていました。離縁して再婚する云々のことです。

つづいて金持ちとラザロの話が記されています(16・19~31)

ここで勘違いしてはならないのは、この金持ちは、裕福だったので滅びたのではありません。地上の富を正しく管理できず、神ならぬ富を主人としたため、信仰を捨ててしまった男の話です。

また、ラザロは貧乏人だったから、神が可哀想に思って救われたのではありません。たとえ地上の富に恵まれなくても、富を主人とせず、神を主人とする信仰を持ち続けたので救われました。


ルカの福音書 15章

2024年09月21日 | ルカ福音書
ルカ15・32 このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである。

ある父親にふたりの息子がいました。兄は父に真面目に仕えましたが、弟は父の財産を分けてもらい、遠い町に行って商売をしました。父のもとから飛び出して、自分の可能性をためしてみたいと思ったのです。

しかし、弟息子は財産を使い果たし、放蕩(ほうとう)に身をもちくずしてしまいました。やがて悔い改めて父のもとに戻ってきたのですが、父に顔向けできないはずの弟息子を、父は喜んで迎えたのです。

そもそも、弟息子の失敗の発端は父を否定したことにあります。遺産の生前分与は父を亡き者にしています。父の否定です。弟息子の姿は、天の父を無視して、自分だけで生きようとする人間の姿を表しています。自分の父である神を否定する人生が、うまく行くはずがありません。

出発点から間違っています。

ボタンのかけ間違いです。シャツの第一ボタンをかけ間違うと、最後までボタンが合いません。そこで、ひとつ手前を直そうとしますがダメです。目先の修正だけで解決できる問題ではありません。第一ボタンから正しくかけ直す必要があります。天の父を認め、天の父への礼拝から始めることです。私たちが礼拝を第一にするのは、この第一ボタンを確かにするようなものです。

さて、ルカ福音書15章には3つの譬(たと)え話が記されています。テーマはみな同じです。失ったものを見つけだした喜びです。

100匹の羊のうちの迷子になった1匹の羊を捜して見つけた喜び。10枚の銀貨のうちの失った1枚の銀貨を見つけた喜び。そして、失った放蕩息子を見つけた父の喜びです。

自分が救われた喜び。つまり〝自分側の喜び〟はなく〝見つけだした側の喜び〟が語られているのです。これは大切な視点です。あなたは神を喜ばせるほどの大切な存在であることを意味するからです。

自分が救われたことの喜びはすばらしいものです。でも、その段階にとどまっていたら、自分のためだけの喜びで終わってしまいます。皆さんは、自分が喜びたいから信じているのですか。

自分を中心とした喜びは、それがいかに大きくても、天にある喜び……つまり、〝見つけだした側の喜び〟に比べるならちっぽけなものです。天ではもっと大きな喜びがあるのだと、イエスは言われました(15・7)

もし自分中心の喜びで終わっているなら、弟の帰りを喜べなかった兄息子のようになってしまうかも知れません。この譬(たと)え話には、そのような忠告が込められています。

なぜなら、取税人や罪人たちがイエスと共にいることを素直に喜べない人々の非難から、この譬え話は始まっているからです(1~2)

さて、この譬え話のように、救われる以前の私たちは、父なる神から見れば、失われていた存在でした。失われた存在だったので、自分が何者なのかを見失っていました。

人は、自分が何者なのかを発見しようと、藻掻(もが)いています。つまり、自分さがしをしているわけです。弟息子も、本当の自分を発見するために、自分さがしの旅に出かけたのです。

しかし、発見することができませんでした。お金をもうけてみても、結婚をしてみても、好きなことに没頭してみても、本当の自分をさがしだすことができません。
なぜですか。自分が失われた存在だからです。来、人は神のものであるはずなのに、神から離れて「失われた存在」となっているので、人は自分を見失っているのです。

だから、自分が自分を発見することよりも、神が自分を発見してくださることが先です。神は、あなたをさがしておられます。罪をおかして神から離れたアダムに対して、「アダムよどこにいるのか」と、神はさがしておられます。神の御子イエスも、わたしは失われた者をさがしだすために来たと言われました。

神に見出されることによって、自分が何者であるかを人は知ります。自分が神に愛され尊ばれている存在であることを知ります。もはや私の救いの喜びは個人的なものではなく、捜し出してくださった神の喜びであることを知ります。

もし救いの喜びが薄れたとすれば、それは、失われた私を見つけだして喜んでくださっている神の喜びを知らないからです。神の喜びを知るとき、私たちの喜びは何十倍、何百倍にもなります。

自分だけの喜びはやがてしぼみます。神が一緒に喜んでくださる……その喜びで喜ぼう。再臨の主も言われるではありませんか。「忠実な僕よ。良くやった。私の喜びで喜んでくれ」と(マタイ25・21)

祈りましょう。神がいかに私の救いを喜んでくださっているかを忘れることがありませんように。


ルカの福音書 14章

2024年09月20日 | ルカ福音書
ルカ14・27 自分の十字架を負うてわたしについてくる者でなければ、わたしの弟子となることはできない。

イエス様は、群衆と弟子を区別なさいました。群衆とは、イエスと深く関わろうとしないで、恵みだけを受けようとする人々です。イエスを信じているものの、いつも一定の距離をたもっています。

今日の御言は、そんな遠巻きの群衆に向かって語られました(14・25)。遠くからわたしをながめているのではなく、わたしと親しく交わり、神の愛を深く体験するために、十字架を負って従ってきなさいと言われました。

十字架は死刑の道具です。自分を張り付けにして、自分を葬ってしまうのが十字架です。そんな十字架を負うとは、死を背負うことです。

「えっっ!!イエス様のもとに行けば、いのちが得られるんじゃないんですか。それなのに、死を背負うのですか」。そんな質問も聞こえてきます。

しかし、ここに、キリスト信仰の奥義があります。十字架で死んだなら必ず栄光の復活があります。イエスも十字架で死なれましたが、あの栄光の復活がありました。私たちも、栄光の復活にいたるには「十字架」を通過しなければなりません。

では、「自分の十字架を負う」とはどんなことでしょうか。

それは、十字架で〝自分〟を葬ってしまうことです。「自己中心」という自分、「自己正義」という自分、「わがまま」という自分。そんな〝自我〟を十字架で葬って従います。それが弟子の歩みです。

でも、そんなことをしたら、自分が無くなってしまいそうで心配です。でも大丈夫!。十字架で死んだら、必ず復活がありますから……。

自分中心という自分が十字架で死んだら、キリスト中心という新しい自分が復活します。自己正義という自分が十字架で死んだら、神の義で活かされた自分が復活します。わがままという自分が十字架で死んだら、キリストの愛に生きる新しい自分が復活します。

十字架で死なないので、いのちがないのです。十字架は、新しいいのちを得るための道です。

人は「自我」という重荷で苦しんでいます。自我という鎖で束縛されています。身軽になりたいと願いながら、自我という重荷を背負い込んでいるのです。そんな重荷は捨てて、十字架を背負って従いなさい。これが主イエスの命令です。

さて、イエス様は、家族を捨てなければ(憎まなければ・新改訳)弟子となることができないと言われました(14・26、33)にくむとはユダヤ的な表現で、第一のものを愛することを強調するために、第二のものをにくむと言います。

私はスイカが好きなのですが、メロンと比べるならメロンの方がもっと好きだ……という場合、ユダヤ的な表現は、「私はメロンのためにスイカをにくむ」と言います。つまり、家族を愛するのはもちろんですが、それ以上にイエスを愛する者でなければ弟子となることはできないという意味です。

また、イエス様は、「財産を捨てるものでなければ弟子になることはできない」とも言われました(33)。自分を十字架につけることなら分かる気がするのだが、財産もとなると……と考え込んでしまいます。

どう解釈したらよいでしょうか。

そこでイエス様は、家を建てるときや戦争のとき、事前によく計算するように、従うためにも良く計算しなさいと言われます(28~32)。もちろんこの場合の計算は、地上の計算ではなく、天国の計算です。「全世界を獲得しても、自分のいのちを失ったら何の益になるか」とか、「自分のために富むのではなく、神に対して富みなさい」など……主は折にふれて天国の計算を教えてくださっています。

(1)永遠のいのちの価値観を持つ。

地上における肉体の寿命は約80年です。永遠からすれば瞬(まばた)きほどの短いいのちを惜しむことによって、永遠のいのちを損なってはなりません。

(2)捨てるとは文字通り捨てることか。

それも選択肢のひとつです。もう少し現実的な解釈は、所有権を神のものにすることです。私のものと思うので執着します。執着するので欲が出ます。欲が張るので罠になります。財産も家族も私のものではなく、神のものです。今は神から〝あずかっている〟に過ぎないのです。

もし、財産が自分の罠になるなら、それは捨てる方が安全です。もし、家族への執着心が、イエスに従うことを妨げているなら、まず、その執着心を捨てる方が安全です。

(3)主のために捨てたものは無くならない。

〝自分が〟持っていると無くします。しかし、主のために捨てたものは無くなりません。なぜなら、それは捨てるようですが、主におゆだねすることだからです。〝主が〟持っていてくださるなら、それを主は、御手の中で豊かにしてくださいます。

わが子のものを取り上げる非情な父親などいません。天の父は、私たちから取り上げようというのではありません。自分で持ちすぎないで、天の父にお任せすることです。すべてをご存知である神は、私たちの必要に応じて与えてくださる慈愛に満ちた父です。

どうですか。これからの人生設計の計算ができましたか。十字架を背負って従う決心ができましたか。十字架を負うことによって、はじめて開かれる世界があります。

 


ルカの福音書 13章

2024年09月19日 | ルカ福音書
ルカ13・24 狭い戸口(門)からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。

ある人がイエス様に尋ねました。救われる人は少ないのですか(13・23)。彼が質問した通り、昔も今も、イエスを信じる人の割合は少ないのは事実です。中でも日本は少なくて人口の1%を下回っています。

世界で最もイスラム教徒が多いインドネシア(人口約2億7千万人)でさえも、クリスチャン人口が10%も存在することから考えても、日本の少なさは際立っています。主よ、日本人には何か制限でもあるのでしょうか。冒頭の質問者も、そんなふうに思ってイエスに尋ねたのでしょう。

しかし、イエス様のお応えは直接的なものではなく、救われるためには、狭い戸口(門)から入らねばならないと言われました。

神は救われる人を制限になさっているのでしょうか。いいえ。神は、人類がひとりも滅びることなく、全ての者が悔い改めに至ることを願い、あなた方に対して長く忍耐しておられます(Ⅱペテロ3・9)

ただ神は、私たちが救いを受け取るために、悔い改めという門を通って入るようになさっています。この門を通って入る者は、どんな罪人も救いを受け取ることができます。

ところが人間は「悔い改める」のがとても苦手です。「悔い改め」の門をくぐるのが嫌いです。何故なら、自分は少しはましな人間だと思っているからです。自分は、悔い改める必要のない、正しい人間だと思いたいからです。

狭い戸口(門)は文字通り狭いので、身をかがまなければ通ることができません。偉そうにふんぞり返っていては通れません。それができるのは広い門です。多くの人はそのような広い門を通りたがります。

しかし、狭い門は、身をかがめるようにして、謙遜にならなければ通ることのできない門です。自分を正しいとする人は、神の前にふんぞり返っている人です。自分の罪を認める人は、神の前にへりくだって、悔い改めます。身を低くする人です。

どうでしょうか。あなたは狭い門をくぐる覚悟ができたでしょうか。

天国は、決して偉そうにして入る所ではありません。でかい態度で入ろうにも、天国の門は狭いので通過できません。謙遜になって身を低くしなければ通れません。悔い改めというへりくだった姿勢で入ります。だから、天国に行ってみると、そこは偉い人がいない国です。偉いお方は神おひとりだけです。

天の父のふところから来られた御子イエス・キリストでさえ、直接、天に入られたのではなく、天の父の御心に従い、しもべの姿で地上にこられ、十字架の死に至るまで従順してから入られたではありませんか。

ならば、キリストに従う私たちは、なおさらです。狭い門から入るのです。

狭い門は、罪を悔い改めて身を低くする者と、自分を正しいとしてふんぞり返っている人とを選り分ける篩(ふるい)のような役割を果たしています。

もう一度申し上げます。神は、救われる人を制限なさっているのではありません。全ての者が悔い改めに至るのを忍耐して待っておられます。

悔い改めようとしない人間の高慢が、救われる者の数を制限しているのです。自分の罪を認めないかたくなな心(うなじの固い心)が、この狭い門をくぐることを躊躇(ちゅうちょ)させています。

ここでイエス様が、狭い門から入るように〝努めなさい〟と言われていることに注目しましょう。新改訳聖書では、〝努力して〟狭い門から入りなさいと言われています。

裏をかえせば、人は謙遜になろうと心がけていないと、つい広い門の方に流されてしまうのです。周囲もそうだから……と安易に多数派に乗っかってしまう傾向にあるのです。罪人の傾向です。

ですから祈るのです。神の助けをいただいて、いつも謙遜でいることができますように……と。神が指摘なさった罪を素直に認めて、悔い改めるやわらかい心でいられますように……と。


ルカの福音書 12章

2024年09月18日 | ルカ福音書
ルカ12・21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。

ある人が遺産相続の相談にやってきました。そこでイエス様は、自分の畑が大豊作となった大金持ちの話しをなさいました(12・13~20)

この大金持ちの男は、あふれる収穫を蓄えるために大きな倉を建築しました。数十年先の分まで食糧を確保できた喜びで、この男は大満足でした。しかし、彼はその日の夜、死にました。

このことを通してイエスは、自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じであると言われました(21)。この男は、自分のために宝を積んだが、神に対しては富んでいなかったのです。

地上の富は、いのちに対して無力であるにもかかわらず、地上の富に全幅の信頼をよせる姿は愚かです。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る御言によって生きることを忘れた者の姿です。

地上の富は、この肉体が地上で生きる分があれば充分です。大切なのは霊魂が永遠に生きることです。

イエス様は、自分のために宝を積むこと神に対して富むことを対比されましたが、具体的にはどんなことでしょうか。ルカはそれを説明するために、22節以降の教えを記しました。

自分のために宝を積むとはどういう生き方でしょうか。自分のために宝を積む人生には、心配(思いわずらい)がいつもつきまといます。何を食べようか、何を着ようかという思いわずらいです。しかし、思いわずらったらといって、寿命をわずかでも延ばすことができるわけでもないのです(22~26)

では逆に、「神に対して富む」とはどういう生き方でしょうか。

(1)神の国を求めること(31)

肉体のいのちのを富ませることで思いわずらう生活ではなく、霊魂のいのちを富ませるために「神の国を求めよ」と言われました(31)。何と、求める者には御国をくださるのです。

恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなた方の父の御心なのである。(32)

どうですか。数年分の食糧をたくわえることと、天の御国を受け取ることと、どちらが富んでいますか。比較になりません。神の国を求め、所有する生き方です。これこそ本当に富んでいる者です。

自分の本籍は地上ではなく、神の国(天国)であることを意識して生きよう。本籍が天にあるのですから、地上の人と同じ価値観で生きません。天に宝を積みます(33)。豊かさに関する基準が違うのです。

神の国を求め、その国民として生きることこそ、「神に対して富む」という生き方です。

(2)主の再臨に備えて忠実であること(35)

主人が急に戻ってきたとき、目を覚ましているのを見られるしもべは幸いです(37)。この主人とは、再臨のイエス様のことです。再臨の主が来られても良いように、忠実な管理者として富を管理することは、「神に対して富む」という生き方です。

あなたは人生のフォーカスを何に合わせていますか。地上の富にフォーカスが当てられていますか。それとも、主イエスの再臨にフォーカスが当てられていますか。

いま地上で所有している富は、永遠の所有ではありません。あずかっているだけです。あずかっているのですから、やがて精算しなければならない時が来ます。そういうわけですから、良き管理者(しもべ)として生きて行くのです。

再臨のイエス様は精算するために来られます。そして、正しく報いてくださいます。主からの報いこそ本当の所有です。それを信じて忠実に働くのです。その時の報いについて、主はこう言われました。

主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られるしもべたちは、幸いである。よく言っておく。主人が帯をしめてしもべたちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。(37)

何ということでしょう。主イエスが給仕をしてくださるのです。これは、きっと天での祝宴におけるイエスとの親しい交わりを表しているのだと思いますが、こんな豊かさが他にあるでしょうか。もう一度、申し上げます。主イエス自ら私たちに給仕してくださるのです。勿体(もったい)ないほどの豊かさです。

このように、神に対して富むとは、神の国を求め、主の再臨を意識して忠実に生きることです。

祈ります。神に対して富もうとする者たちに豊かな祝福がありますように……。


ルカの福音書 11章

2024年09月17日 | ルカ福音書
ルカ11・13 あなた方は悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。

イエス様は、祈りについて教えてくださいました。祈りの基本である「主の祈り」を教え、その次に「熱心に祈り求めることの教え」と続きます。真夜中に訪れた客人をもてなすために、友人にパンの提供を求めた男の話しをなさいました(11・5~8)。友人だからというのではなく、しきりに願うのでかなえられる……祈りもこれと同じだと言われました。

友人だからというのではなくという説明が変です。一般的には、友人だから願いがかないやすいのではないですか。つまり、コネがあった方が願いはかないやすいのです。しかし、コネで何かを願う場合、そこには安直さが潜んでいませんか。

本当に真剣に求めているのでしょうか。本当は無くても大丈夫なものを求めているのかも知れません。本当に求めているものは、コネに関係なく、真剣に熱心にあきらめずに求めます。

だから、イエス様は熱心に求めなさいと教えられました。

熱心に求めて行く内に、願い必要とが分離されてきます。本当は何が必要で、何が必要でないのかが見えてきます。それほど重要でもないことに振り回されている自分を発見することもあります。

だから、とにかく、今の必要を熱心に求めて祈りましょう。夜中なのに遠慮がない奴だと思われても、求めて良いのです。求めなさい。探しなさい。門をたたきなさいと主は命じておられます(11・9)。さあ、何が必要ですか。本当は何を求めるべきですか。見えてきましたか。

そこで、天の父は求める子たちに「良いもの」をくださるのですが、その良いものとは何か。

幼い頃はおもちゃを熱心に求めました。それが幼な子にとって良いものだからです。大人になると、熱心に求めるのはお金です。お金が「良いもの」だと思うからです。また、ある時は世の地位や名声を「良いもの」だと思って求めます。

さて、マタイは天の父は〝良いもの〟をくださらないことがあろうか」と記しました(マタイ7・11)。しかし、ルカはご自分の子供には、〝聖霊〟をくださらないことがあろうかと記しました。

ルカは、聖霊こそが何より最高のたまものだと語りたかったのです。聖霊こそが本当の良いものですここにもルカ福音書の特徴が表れています。

神はその〝ひとり子・御子イエス〟を私たちに与えるほどに愛してくださいました(ヨハネ3・16)。神の最高のプレゼントは、ひとり子なるイエスを私にくださることです。

天の父は、罪のゆるしのために、ひとり子なる神を与えてくださり、罪に勝利するために聖霊なる神を与えてくださいました。ここに本当の愛があります。これが天の父の愛です。

お金が与えられることに愛を感じますか。そういう人もいるでしょう。また、肉の満足が満たされることに愛を感じますか。そのような時期もあるでしょう。それが必要なら求めてよいのです。遠慮せずに、大いに求めてください。「求めよ」と勧めて下さっているのですから。

こうして、求めて行くうちに、聖霊を受けることの幸いを知るようになります。聖霊を受けるとは、イエス様が私の中で生きてくださることです。全ての問題解決の鍵は内住のイエス様、つまり聖霊なのですから。

◆◆◆◆◆◆

さて、その後のことです。ある者は、イエスのなさる悪霊追放は、悪霊のかしらベルゼブルによるのだと非難しました(11・15)。語源はバアルゼブブで、「ハエの王」を意味します。ハエが糞にたかることから「糞の王」の異名もあり、非難した人々はイエスを最大限の侮辱をもって嘲(あざ)笑ったわけです。

もしそうなら、悪霊界に内紛が生じていることになるか、あるいは自作自演です。悪霊の追放(汚れた霊の追い出し)はイエス様の働きの中でも特徴的なものです。しかし、これは他でも見られる現象です。某霊媒師たちもそうします。

問題は〝だれが追い出しているか〟です。

霊媒師が追い出したとしても、それは上位にある悪霊が下位の悪霊を追い出したに過ぎません。その後は更に、追い出した側である上位の悪霊が支配するようになります。本当の解放ではありません。むしろ、支配は強固かつ巧妙になります。

田舎の暴力団に悩まされているところに、関東地区を束ねる暴力団がやって来てチンピラどもを追い払ってくれても、その恩義を根拠にさらに大きな組織に支配されます。怪しげな悪霊の追い出しもそれに似ています。はじめより、もっと悪くなります。あからさまに悪いことをしなくても、紳士的な顔をして生綿(なまわた)で首を絞めるように支配します。

神の御子であるイエスの名による解放こそ本当の救いです。イエスが与えてくださる聖霊による追い出しと支配こそ、本当の自由をもたらします。御霊のあるところに自由があるからです(Ⅱコリ3・17)。しかし、悪霊のかしらによって追い出されても、ますます大きな支配のもとで縛られるだけです。

ここで、イエス様は追放された汚れた霊は、休み場を求めて水のないところを歩きまわると言われました(ルカ11・24)。逆をいえば、〝水〟があるところに汚れた霊(悪霊)はやって来ないということです。

では、〝水〟とは何でしょうか。単なる液体の水ではありません。聖霊のことです。そして、神の御言のことです。聖霊が内住なさるところに悪霊は入りようがありません。神の御言があるところに、悪霊の考えをもたらすことができません。

悪霊といっても、あくまでも霊です。神からの霊と似ています。放射能に汚染された空気も汚染されていない空気も区別がつきません。同じように吸い込んでしまいます。悪霊も言葉とか考えによって入ってきます。そして、その言葉や、言葉に潜む悪魔的な価値観とか発想法が入ってきます。やがて、その考えに支配されます。考え方から支配されると、それは強固な支配です。

だから、「悔い改め」……つまり「考えを変える」ことが大切になって来ます。どう変えるのですか。神の御言を基準にした考え方に変えるのです。神の御言に基づいた思考に変えるのです。すべては考えから始まります。

こうして、神の御言という〝水〟がしっかりとあるところに、悪霊は入ることができません。逆に、御言がないところを探して、悪霊は入ろうとします。ですから、日々の聖書朗読はとても大切です。神の御言を食するなかで、私たちの思考は御言に基づいた考え方へと変えられて行きます。

また、悪霊は、聖霊という〝水〟のないところを探して住み着こうとします。イエスを信じた私たちの内に聖霊が住まわれることは如何に恵みでしょうか。

しかし、注意すべきことがあります。私たちの心で聖霊に明け渡していない場所はありませんか。主イエスに告白しないで、自分だけで解決しようとしている課題はありませんか。これだけは隠しておきたいという暗闇はありませんか。そこにも聖霊をお迎えしましょう。悪霊が介入するのではなく、聖霊に支配していただきましょう。


ルカの福音書 10章

2024年09月16日 | ルカ福音書
ルカ10:21 天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、御心にかなった事でした。

ルカ福音書10章で学ぶべきことは、それほど難しいことではないというテーマです。

10章の始めには、72人(70人とする翻訳もある)の弟子たちが伝道に派遣されました。いつもイエスの身近にいる12弟子とは違い、たいした訓練や教えも受けていない72人です。そんな彼らを遣わして大丈夫だろうか。そんな不安もあったでしょう。

ところが、難しいと思いきや、彼らは喜んで戻ってきて報告をしました。72人が喜んで帰ってきて言った、主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までが私たちに服従します』」(10・17)。彼らの報告を聞いていると、それほど難しいことではない……という印象が伝わってきます。

そして、イエスはこう言われました。天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、御心にかなった事でした(10・21)

知恵のある者や賢い者には福音が隠されていると言われるのです。なぜでしょうか。彼らは難しく考えるからです。しかし、幼な子は難しく考えません。ここがポイントです。

「沖へ出て網をおろしてみなさい」と言われたイエスの御言に対して、ペテロは「そんなに簡単に言わないでくれ」と思ったことでしょう。なぜならペテロは漁師の専門家だからです。

専門家は難しく考える傾向にあります。

牧師も専門家なので、教会の牧会は難しいと考えます。クリスチャンを何十年もやっていると、日本の伝道は難しいと考えます。クリスチャンの専門家になっているからです。「自分は専門家だ」という冠を投げ捨て、人間的な知恵や経験値を脇において、幼な子のようになってみませんか。

つづいて律法学者が登場します(10・25~)。彼は律法の専門家です。彼は救いを難しく考えていたので、先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうかと質問しました。

聖書がこんなに分厚いと、いったい何が書いてあるのだろうと難しく考えます。そこで、イエスは、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」と質問を返されました。つまり、分厚い聖書を簡単にまとめてみなさいというわけです。

その答えは、①力をつくして神を愛すること、②自分を愛するように隣人(となりびと)を愛すること……このふたつです(10・27)。さあ、簡単になりました。

でも、せっかく簡単にまとめたのに、律法の専門家はさらに難しく考えました。では隣人とは誰のことですか難しく考える人はどこまでも問題を難しくします。ここまで来ると職業病です。

そこでイエス様が語られたのがサマリヤ人のたとえ話です(10・30~36)。つまり、自分を愛するように隣人を愛することを分かり易く教えられたのです。

強盗に襲撃された人を見て、祭司とレビ人は難しく考えました。死人にふれると一週間は汚れると律法に定めてある。だから、ここで彼に係わっていたら、神殿でのご用ができない。あるいは、今流行(はや)りの被害者を装った罠かも知れない……と。

でも、サマリヤ人は難しく考えませんでした。また、特別なことをしたわけでもありませんでした。可哀想に思って、自分が行く予定の宿屋に連れて行っただけです。ついでに連れて行ったのです。そのあとは自分の用事があるので、宿屋の主人に任せました。

それほど難しい愛し方をしたわけではありません。普通にやれることをやったのです。

クリスチャンなのに愛がない……という強迫観念にかられて、愛することを難しくしていませんか。愛するとは、隣人になることです。愛するとは、関わりをもつことです。律法学者のように「隣人とは誰か」と定義を議論するなど難しくしてはなりません。

では、次に神を愛するとはどういうことでしょうか。それを教えるために、マルタとマリヤの姉妹の話が記録されています(10・38~42)

マルタもマリヤもイエス様を愛していました。つまり、彼女たちは神を愛していたのです。マルタはイエスを愛していたので、イエスをもてなすために一生懸命でした。熱心に神を愛していました。

でも、それは肉の力(人の頑張り)です。肉の力で神を愛そうとすると、ゆがみが出てきます。頑張っていない人を見るとイライラするのです。そして、そのような人を責めたり、自分の頑張りを認めてもらうために自己主張します。

マルタは神を愛することを難しく考えていたのです。あれもしよう、これもしようとしていました。だから、イエスは言われました。マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっているのだ(10・41)。つまり、マルタは愛を難しく考えるあまり、思いわずらっていたのです。

神を愛するとはどういうことでしょうか。難しいことではありません。妹のマリヤは、イエス様の話しをじっくり聞いていました。神を愛するとは、神の御言に真摯に耳を傾けることなのです。神の御心を知ろうともしないで、いかに熱心に奉仕しても、神への愛は空回りしてしまいます。

マリヤは神を愛する基本を選んだのです。そして、それをマリヤから、否、私たちから取り去ってはなりません。信仰は神の御言を聞くことから始まるのですから(ローマ10・17)。神への愛は御言を聞くことから始まるのです。

どうでしょうか。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること……それほど難しいことではないというメッセージが伝わったでしょうか。問題があると、口癖のように「難しい」と言ってしまいます。その時、幼な子のようになって、「それほど難しいことではない」と言い直してみよう。