箴言は富の扱いについても繰り返し述べています。富とは、それを得て満足するためのものではありません。富とは、得ることが目的ではなく、それを用いることに意味があります。
箴言17:1 平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。
箴言は各章ごとにテーマが決まっているわけではありません。各章で「言葉」「富」「男女関係」「親子」等とテーマごとにまとめられていたらと思うのですが、神様の方法は、色々なテーマについての知恵をちりばめておれます。
そんなわけですから、読む人によって、読むタイミングによって、その都度しめされる御言が違い、その都度あらたな発見があります。
さて、今日は、「富についての正しい態度」について考えてみたいと思います。このテーマは今までの章でも述べられていましたが、それらも含めて取り上げてみましょう。
今日の御言は、「貧しくても平和のある家庭」と「豊かな富はあるが争いのある家庭」とが比較されて、前者の方がまさっているのだと述べています。つまり価値があるのだというわけです。
人は何に価値を見出すかによって、生き方が違ってきます。
私たちにとって「富」とか「お金」は欠かすことができません。人生の多くの時間はその富を得るために費やされます。まるで富を中心にすべてが動いているようにさえ感じられます。
それだけに、富についての正しい価値観というか態度を持つために、神からの知恵が必要です。箴言の他の箇所でも次のように述べています。
「正しい者の家には多くの宝(富)がある、悪しき者の所得には煩いがある」(15:6)。
「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる」(15:16)。
「正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの宝にまさる」(16:8)。
「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」(16:19)。
「富」そのものが悪いのではありません。それに対する私たちの態度が問題です。富に対する価値観が問われているのです。
ポイントは「富はまことの主人ではない」ということです。創造主である神こそ、まことの主人です。「主を畏れる」とはそういう意味です。この基本をわきまえているなら、「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる」(15:16)というわけです。
富を主人とする人は、多くの宝を持つほどに苦労します。富が主人ですから、富に支配されるわけです。いつわりの主人に支配されることほど不幸はありません。
「主を畏れる者」……つまり、神を主人とする人は、富を正しく管理する人です。富を主人としないで富を管理します。富を神の栄光のために使う人です。そうするのは神を畏れるからです。
しかし、多くの人々が、富を正しく管理できないで、逆に富に振り回され、富のことで思いわずらっています。
私たちにとって、まことの主人とは神であって、富ではありません。そして、富に対しては、私が正しい主人とならなければなりません。忠実な管理者でなければなりません。
主を畏れ、富を正しく管理する人生こそ、本当の豊かさを享受する知恵です。「へりくだって貧しい人々と共におる」という生き方は、本当の豊かさです。そのような生き方は「高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」のです。
主を畏れ、富を正しく管理する人生にとって、物質的な富の多少は、幸福の条件とはなりません。「ひとかたまりのパン」しかなくても、霊的な豊かさを享受するので「争いがあって、食物の豊かな家にまさる」のです。(Ω)
箴言16:9 人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。
新改訳では「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」と翻訳されていますが、言わんとするところは「神が主導権を握っておられる」ということです。
人には自由意志が与えられていますから、私たちは思い思いに生きています。ロボットのように操られているわけではありません。将来設計を立て、目標をもって努力します。
しかし多くの場合、計画通りには行かず、途中で変更せざるを得なかったり断念することもあります。まさに、人生とは「思い通りに行かない」ということを学ぶ教室です。
今日の御言は、その主導権は神が握っておられるのだと告げています。
ならば、人間があれこれと計画することは無駄ではないか。毎日を無計画にその日暮らしをすれば良いではないか。どうせ、神がなさるのだから……という理屈も出てきそうです。
「人間の自由意志」と「神に主導権がある」という2つのテーマは、私たちには相反するテーマのように思えます。しかし、神はそれをご自身の深遠な知恵の中で両立なさいます。
それは、私たちには理解できません。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきはきわめがたく、その道は測りがたい」と述べられているとおりです(ローマ11:33)。
私たちは、神に主導権があることを認めつつ、しかし神の御心を祈り求めながら知恵をつくして計画をたてます。その計画のために工夫をこらし、実現のために努力します。そうすることは、私たちの責任です。
しかし、そのような私たちの計画や働きを用いて、もっと大きな視野で神の御心を実現なさるのは神の責任です。
ですから、私たちは主に祈りつつ、大胆に働くことができます。たとえ、私たちの働きが妨害されようとも、時には頓挫しようとも、もっと大きな神の御手のなかで、神のご計画は実現するのですから……。
私は大学受験の時、地方の大学を希望していました。田舎育ちの私には都会の雑踏は負担だったからです。しかし結果はどれも不合格。唯一残されていたのは東京にある大学だけでした。
ところが、その大学には私の高校の先輩が進学しており、クリスチャンになっていました。彼は、母校から来る後輩のために祈っていました。そして私は彼に導かれて、生まれてはじめて教会に集い、そしてイエス様を信じました。
私は大学を出て理科の教員になって郷里に戻るつもりでした。それがなんと、いまでは群馬で牧師として働いています。まさに、今日の御言の通りです。
人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。(Ω)
箴言15:23 人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。
新改訳では「良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」。
今日の箴言でも、言葉に関する戒めが述べられています。冒頭にもこう述べられています。
「柔らかい答えは憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す」(15:1-2)。
どのような言葉で応答するのか。それによって人間関係を活かすこともあれば、壊すこともあります。
中でも、憤りとか怒りをどのように表現したらよいのか。このことに神からの知恵が必要です。多くの場合、怒りを上手に表現できなくて、問題がややこしくなったり、こじれたりします。
では、怒ってはならないのでしょうか?。クリスチャンはいつもにこやかで、怒ることのない人種だというのは、大きな誤解です。怒って良いのです。神の義に反することに私たちは怒ります。
聖書はこう教えています。「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで日が暮れるようであってはならない」(エペソ4:26)。
聖書は「怒り」と「罪」とを区別しています。しかし、怒りを正しく処理しないと、それが罪になり、そこから様々な問題を引き起こします。
箴言に戻りましょう。ですから怒りについてこう述べています。「怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い」(14:17)。「怒りを遅くする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす」(14:29)。
怒っても、その怒りを遅らせる工夫が必要です。
なぜなら多くの場合、怒りは自己正義から出ているからです。「自分は間違っている」と思いながら怒る人はいません。「自分は正しい」と思っているので怒るのです。そこに自己正義が忍び込んでいます。
この怒りは自己正義から出た怒りなのだろうか。それとも、神の義に反する怒りなのであろうか。それを吟味する時間が必要です。だから「賢い者は怒りを遅らす」のです。
この猶予をもつことで、「好ましい答え」に少し近づくことができます。
では、神の義に反することだから、錦の御旗を得たかのように、激しく怒って良いのでしょうか。それもまた考え物です。
なぜなら、「柔らかい答えはいきどおりをとどめ、激しい言葉は怒りを引き起こす」からです(15:1)。そして益々「愚か者の口は愚かをはき出す」という結果に終わります(15:2)。
私たちの内におられる聖霊の神に聞きながら、好ましい答えを求めます。そのことを箴言は、「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす」と教えています(15:28)。
そうする者は「喜びを得る」のです。そして、最もよいタイミングで表現すべき言葉が与えられるでしょう。それこそ、時にかなった言葉であり、それはうるわしい返答であるに違いありません。(Ω)
箴言14:12 人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。
今日の聖句を新改訳では「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」と翻訳しています。「道」に関して、先の12章では「愚かな人の道は、自分の目には正しく見える」と教えていました。
本当はまっすぐではないのに、まっすぐに「見える」のです。本当は正しくないのに、正しく「見える」のです。何がそうさせるのでしょうか。おごりとか、自己正義というフィルターを通して、そう見えるのでしょう。
かたや「さとき者の知恵は自分の道をわきまえる」のです(14:8)。「わきまえる」とは謙遜です。神と人間との区別が出てきていることです。できていないので、神のようになっておごってしまいます。神のようになって、自分を正しいとします。
人はつねに道を選んでいます。どう選ぶかは私の責任です。神は、こう言われます。
「わたしは、今日、天と地を呼んであなた方に対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない」(申命記30:19)。
選ぶのは私たちです。救いを受けるのか受けないのかは、人が自らの意志でどの道を選ぶのかにかかっています。祝福の道を選ぶのか、呪いの道を選ぶのかは、私たちの意志にかかっています。
そして、私たちがいのちの道(祝福の道)を選ぶなら、神は惜しみなく救いをお与えになります。
しかし、その道を選ぶ時、おごりや自己正義があると、その道は愚か者には真っ直ぐに見えるのです。しかし「すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」とも言われます(箴3:6)。
どちらが本当の「まっすぐ」でしょうか。
「すべての道で主を認める」とは、どんな環境の中でもイエスを主と告白することです。イエスを信じ、イエスを愛し、イエスを礼拝する道です。そのような道は、天国に向かってまっすぐにつながる道です。
イエスは「わたしは道である。だれでもわたしを通らなければ父のみもとに行くことはできない」と言われました(ヨハネ14:6)。ですから、いつでも「イエス・キリスト」という道路標識のある道を選ぶことです。
人間的には「イエスを認める道」は遠回りに思えたり、足場の悪い道であったり、細かったり、暗闇のトンネルの道のように思えます。でも、いのちに至る門は狭く、その道は細いと言われたイエスの御言を忘れてはなりません(マタイ7:13-14)。(Ω)
箴言13:3 口を守る者はその命を守る。くちびるを大きく開く者には滅びが来る。
箴言ではくり返し「口」「言葉」の問題を取り上げています。この口から出てくる言葉によって、人生は大きく左右されるからです。
そのことを箴言では「口の実」と表現しています。「人はその口の実によって幸福に満ち足りる」(12:14)。「善良な人はその口の実によって幸福を得る」(13:2)。
どのような口の実を結ぶのでしょうか。しかし、この口は厄介な存在です。この口から出る言葉によって、人間関係を建て上げることもあれば、一言で破壊してしまうこともあります。
人間は長い歴史の中で様々なものを制御してきました。科学技術によって健康を制御し、エヤコンは室内温度を制御し、IT技術は生活環境や経済さえも制御しています。
しかし人間は、自分のこの小さな「舌」を制御できないでいます。舌とは口であり言葉のことです。聖書はこう言います。「舌」は大きな船の行き先を決める「舵」のようだと。
小さな板きれのような舵が、大きな船の方向を決めるように、小さなこの舌が何を語るかによって、人生の方向を決めるのです。人は、自分の語った言葉によって、人生の行き先を決めるのです。
呪いや憎しみの言葉を語ることによって、呪いと憎しみに世界に向けて舵を切るのです。しかし、祝福やゆるしの言葉を語ることによって、神の恵みの世界へと舵を切ることもできます。
人は普段なにげなく語っている言葉によって、人生の舵を切っています。どうか、私たちの口から出る言葉が、恵みに満ちた言葉であるようにと、神に祈るばかりです。
それは難しいことではありません。言葉の出所である心に、主イエスが住んでくださることです。
「憎しみ」や「不平」が私の心の住人であってはなりません。彼らは少し“滞在”することがあっても、住民にしてはなりません。彼らを、悪霊を追い出すように、追い出すべきです。彼らに永住権を与えてはなりません。
私たちの心の王座に住まわれるのはイエス・キリスト、ただおひとりであるべきです。そうすることによって「口を守る者」になります。その「口を守る者」はいのちを得ると、今日の御言は教えています。
しかし、それとは逆に、「くちびるを大きく開く者には滅びが来る」と語っています。「くちびるを大きく開く者」とは、何でもかでもしゃべってしまう人、誰も彼にもしゃべってしまう者のことです。
このような口は聖霊……すなわち、内住のイエス・キリストが私たちの心と口を制御してくださる他に道はありません。
口は1つで耳は2つなのは、語るより2倍よく聞きなさいという意味なのだとか……。なるほどと思いますね。確かに私たちは聞くことが不得手です。謙遜に耳を傾けることが苦手です。
とかく大きな口を開けておしゃべりをし、相手の話を聞いているようで実は聞いていなくて、次に何を話そうかと密かに準備して、相手の話が終わるのを待ち構えているのです。
これでは「口を守る者」とはいえません。先に申し上げたように、イエス・キリストを信じた者に内住される聖霊様がご支配くださる事によります。次のように祈ってみましょう。
主よ、どうか私があなたの御栄光となる言葉を選ぶことができますように。私のくちびるから死ではなく、いのちの言葉があふれ出てくるように、あなたの聖霊と真理で心を満たしてください。
私のくちびるに悪い言葉を探知するモニター装置のような能力を与えてください。
あなたの御名を汚すような言葉や、否定的で残酷な言葉、傷つける言葉、思いやりのない言葉、愛を打ち消す言葉、哀れみを欠いた言葉を使う誘惑に駆られた時は、自分の言いたいことが言えないように、聖霊なる神様、ご支配ください。アーメン。(Ω)
箴言12:15-16 愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。
今日の箴言の前半は、神の知恵にしっかりと根を張って生きることの幸いを語っています。「正しい人の根は動くことがない」と述べられているとおりです(12:3)。
後半(13節以降)は、口から出る言葉についての戒めです。「言葉」に関する教えは、このあとも多く記されているので、その機会に譲ることにして、今日は上記の聖句を取り上げてみたいと思います。
「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える」とさとしています。
人はなぜ愚かなことをしてしまうのか。それは、愚かだと分からないからです。むしろ、その人にはその道が「正しく見える」からです。
主イエスも自分を十字架で殺そうとする人々について「父よ、彼らの罪をおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈られたとおりです。
そのくせ、その愚かさを指摘されると「愚かな人は、すぐに怒りをあらわす」のです。
聖書が教える賢さとは、失敗しない賢さではありません。この世で上手く生き抜ける単なる処世術のことを言っているのでもありません。
そうではなく、間違いを素直に認めることのできることを、賢さだと教えているのです。だから今日の御言も「知恵ある者は勧めを受けいれる」と言っています。つまり、忠告を聞き入れる柔らかい心のことです。
その勧め(忠告)は時には、自分にとって「はずかしめ」を受けることになるかもしれません。しかし、「賢い人は、はずかしめをも気にとめない」というのです。
確かに、人を辱(はずかし)めるような忠告の仕方は正しいとは思いません。同じ忠告をするにも、言い方、やり方があるはずです。
でも、その辱めの向こうにある「神のご意志」を汲み取ることのできる賢さが必要です。そのような人は、はずかしめを受けるような事態になっても、事の真意を見抜いて黙っているのです。
かつてのイスラエルの王ダビデは、アブサロムの反乱によって城を追われ命からがら逃れ行く道中、シメイという男がダビデをののしってこう言ったのです。
「血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。あなたが代って王となったサウルの家の血をすべて主があなたに報いられたのだ。主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」。
これを聞いたダビデ王の側近たちは、この無礼者に対して処刑を進言したのですが、ダビデはこう答えました。
「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」(Ⅱサムエル16:10)。
「彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主は私の悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、私に善を報いてくださるかも知れない」(同16:11-12)。
このようなダビデの対応に、神からの知恵ある者の生き方を見ることができます。
この時のダビデの心は、「悔いし砕けし霊魂」であったに違いありません。彼はそれまでの歩みをふりかえって、様々な失敗を経験する中で、神によって“砕かれる”という経験をしてきたのです。
それは、「自分は正しい、間違っていない」と自己主張する心ではなく、神からの導きや指摘や警告を受け止める柔らかさのある心のことです。そのような心の持ち主のことを、聖書は「賢い人」と表現しています。
神が求めておられるのは、失敗のない人ではなく、「悔いし砕けし霊魂」です。失敗や挫折を通して、謙遜で砕かれた霊魂を、神は喜ばれます。
“砕かれる”という経験をした人は幸いです。神を畏れ、神に従う知恵を受けた人です。もちろん、砕かれるという経験をした人でも、いつの間にか高ぶって「自我」を再建することもあります。
しかし、一度、砕かれるという経験をした人は「砕かれやすい」という“心の体質”を持っています。それは丁度、砕かれた陶器の破片をもう一度つなぎ合わせてもとに戻しても、今度は少しの衝撃で再び砕けてしまうようなものです。
さあ、あなたは、砕かれるという経験から逃げて、なおも、自分の道は正しいとする人でしょうか。それとも、神からの忠告を受け入れる、砕かれた霊魂の持ち主でしょうか。(Ω)
箴言では、気をつけるべき人生の誘惑について口を酸っぱくするように警告しています。
第一は、すでに見てきたように「男女関係」についてです。「夫婦」という神が定めた聖なる関係を破壊することは、人間関係を破壊し、神と人との関係も破壊してしまいます。
第二は、言葉の問題です。私たちの口が何を語るのかによって、人生は大きく左右されます。
第三は、地上の富の取り扱いです。つまりお金の問題です。主イエスも「神と富と両方を主人にはできない」と警告なさったように、富は神に代わり得る魅力的な主人であるからです。
人生のつまずきの多くの場合は金銭に関わるトラブルです。これを正しく扱うには、神からの知恵が必要です。
今日の第11章でも、冒頭から「偽りのはかりは主に憎まれ、正しいふんどうは彼に喜ばれる」と警告しています。昔のお金は「重さ」で量りましたから、偽りのはかりを悪用して、偽りの富を手にすることもあったのです。
「ふんどう」とは、その重さを量る基準となる「おもり」のことです。不正の基準で得た富は不正の富です。そのような富は身を滅ぼします。
正しい基準とは単なる「ふんどう」のことだけで終わりそうにありませんね。欺きや騙しをもって富を得ることは、正しいふんどうではありません。ギャンブルやそのたぐいの方法で富を得ることも、また正しいふんどうではありません。
箴言はさらに踏み込んで、このように告げています。
「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される」(11:24-25)。
物惜しみの結果、得ることのできた富はどうでしょうか。それを「不正の富」というのは言い過ぎでしょうが、かえって本当の豊かさを失うのだと、御言は語っているのです。
ですから今日の冒頭の御言のように、「悪しき者の得る報いはむなしく、正義を播く者は確かな報いを得る」となるのです。新改訳聖書では、「悪者は偽りの報酬を得るが、義を蒔く者は確かな賃金を得る」と翻訳されています。
不正のはかりで得た富というのは、物質的には豊になったようでも、実際は「偽りの報酬」だというのです。偽りの報酬なので、あぶく銭のように消えて行きます。偽りの報酬なので、「虫が喰い、錆がつき、盗人らが押し入って盗み出してしまう」のです。
富を主人とせず、神を真の主人として生きることが大切です。富を主人としないために、富を神にささげる生き方は、私たちが聖く生きるための知恵です。
さらに積極的に、富を貧しい人々と分かち合うことは、霊的な富を受ける知恵です。「受けるより、与える方が幸いだ」と言われた主イエスの御言を思い出してください。
人生の本当の豊かさとは、「どれだけ得たのか」ではなく「どれだけ与えたのか」によって量られます。それが、正しいはかりです。それが「神に対して富む」という生き方です。(Ω)
箴言10:11 正しい者の口は命の泉である、悪しき者の口は暴虐を隠す。
箴言の10章~22章までは「正しい者と悪しき者」「賢い者と愚か者」の対比が繰り返し述べられています。自分のどこが「愚か者」なのかを教えられつつ、賢い者の道へと舵を切りたいものです。
さて、今日の御言は、「正しい者の口は命の泉である、悪しき者の口は暴虐を隠す」と教えています。
私たちの口は泉のようです。泉は次から次へと湧き水を出します。そのように、私たちの口も次から次へと言葉が出てきます。しかし、その泉の水が清ければいのちを得させますが、苦い水が湧き出るなら死をもたらします。
そのように、私たちの口から出る言葉が、人を生かすいのちの水となるのか、それとも、人を傷つけたり汚してしまう毒気のある水であるのかは、私たちの人生を大きく左右します。
そのことを日本でも「口はわざわいのもと」と言って、言葉を慎むための教訓としていますが、口を閉じていても、それは「泉」なのですから、湧き出るようにして出てきます。
言葉を出さないように頑張る人もいれば、出てきた水を浄水器を通過して濾過させるように、出てくる言葉から毒気を取り除こうと頑張る人もいます。
いずれも涙ぐましい努力なのですが、本質的な解決ではありません。対症療法であって、根本治癒にはなっていません。問題は、口から湧き出る泉の源泉です。それは私たちの霊魂です。
霊魂が罪によって病んでいるなら、病んだ言葉が出てきます。罪によって霊魂が腐っているなら、腐った言葉が出てきます。
そのような者のことを、「悪しき者は暴虐を隠す」と言うわけです。その者の言葉には……それがたとえ美しく立派な言葉でも……暴虐が隠されていると指摘しています。
ですから、口の源泉である霊魂をきよめていただくしかありません。それをなさるのはイエス・キリストです。
主イエスは十字架の死をもって私たちの霊魂の罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちの霊魂に主イエスをお迎えし、共に生活する中で、主は、私たちの考え方や感受性をいやし、きよめてくださいます。
イエスご自身もこう言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と(ヨハネ7:38)。
これは自己鍛錬によってなせることではありません。イエス・キリストと共に生活することによります。そこから「いのちの泉」が湧き出ます。(Ω)
箴言9:5-6 来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め。
先には、知恵とは「知恵あるお方」として人格表現がなされていることを見ました。その知恵あるお方が、私たちに呼びかけておられます。
「思慮のない者よ、ここに来たれ」と(9:4)。※「思慮のない者」は「わきまえのない者」(新改訳)、「浅はかな者」(新共同訳)とも訳されている。
私たちは自分が知者だと思い上がってはなりません。御言はこう語っています。
「だれも自分を欺いてはならない。もしあなた方の内に、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。
『神は、知者たちをその悪知恵によって捕える』と書いてあり、更にまた、『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである』と書いてある」(Ⅰコリント3:18-20)。
この世の知恵は、地上でうまく生きるための知恵に過ぎません。しかし、「思慮のない者よ、ここに来たれ」と招くお方の知恵は、天で永遠に生きるための知恵です。
また、この世の知恵は、人の目に賢く、人前に格好良く生きるための知恵に過ぎません。しかし、「思慮のない者よ、ここに来たれ」と招かれる方の知恵は、神の御前に正しく生きるための知恵です。
ですから、このお方(イエス・キリスト)のもとに行って本当の知恵を得よと教えているのです。御言はこうも語っています。
「あなた方のうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5)。
イエス・キリストは、「な~んだ、そんなことも知らないのか」となじったり、とがめたりなさらないのです。ですから、恥ずかしがらずに、求めればよいのです。「恥ずかしがる」こと自体が、自分を知者だとする高ぶりがあるからです。
さて、その知恵あるお方であるイエス・キリストは、私たちを招いて更にこう言われます。それが今日の聖句です。不思議な呼びかけです。「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのめ」と。
パンを取って弟子たちにわたして「わたしの肉を食べなさい」と言われ、また、ぶどう酒の杯をとって「これはわたしの血だ。これを飲め」と言われたイエス・キリストを想起させます。
そうです。イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む者こそ、今日の御言がいうように「思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩む」ことになるのです。
「わたしは天からくだってきた“いのちのパン”である」と言われたイエス・キリストに、当時の知者たちはつまずきました。「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」と言って、これ以来、多くの弟子たちはイエスと行動を共にしなくなったのです(ヨハネ6:60、66)。
本当の賢さとは、自分のこざかしい知恵をかなぐり捨てて、イエスの御許にひれ伏すことです。イエスの肉と血にあずかって永遠のいのちを得ることです。
最後に、同じように「思慮のない者よ、ここに来たれ」と呼びかける別の招きがあることも指摘されています(箴言9:13-18)。それは「彼女」に象徴されている闇の世からの招きです。しかし、その末路は滅びであると指摘しています。(Ω)
箴言8:11 知恵は宝石(真珠)にまさり、あなた方の望むすべての物は、これと比べるにたりない。
箴言は一貫して「知恵」の重要性を説いています。地上のどんな富よりも知恵にまさる賜物はありません。そして、その知恵の基本は「神を畏れること」です。
この知恵とは、地上を上手く生き抜くための処世術といった程度の賢さではなく、天来の知恵です。
今日の箴言8章では、その知恵を「人格的な存在」として表現しています。それは天におられる「知恵」というお方としてえがかれています。
「わたし」と表現されている箇所は「知恵なるお方」として読みかえることができます。その知恵なるお方は天地創造の前から存在なさった方であり、そのお方によって万物は成り立っていると記しています(8:22-31)。
そうです。この知恵なるお方とは、神の御子イエス・キリストです。伝統的な聖書解釈によれば、この「わたし」とはイエス・キリストを啓示していると理解されてきました。
このイエス・キリストこそは「宝石にまさり、人の望むすべての物は、これと比べるにたりない」のです。(Ω)
箴言7:3 これをあなたの指にむすび、これをあなたの心の碑にしるせ。
「これを」とは、神が語られる知恵の御言です。箴言を読んでいると、う~んとうならせる御言に出会います。でも、うなった割りには記憶から遠ざかっている毎日です。
だから今日の箴言は「御言を指に結び、心に碑にしるせ」と命じています。「指に結ぶ」とか「首に結びつけよ」(6:21)とも言われているように、何らかのしるしを着けることで記憶せよという意味です。
ブレスレットとか、指輪とか、首輪などは、単なる飾りとしてではなく、御言を祈念してそれを記憶にとどめる工夫です。
それと、もうひとつは「心の碑に記せ」と命じています。新改訳は「心の板に書き記せ」と翻訳していますが、この方が分かりやすいと思います。
旧約の時代は、神の御言を「石の板」に刻印しました。モーセの十戒がそのよい例です。10の戒め……つまり御言を、神は石の板に刻んでくださいました。これが「十戒の石板」です。
しかし、石の板にはしっかりと刻印されたのですが、人々の心には留まりませんでした。単に暗記しているのと、心の板に刻印されているのとでは大きく違います。
暗記はやがて忘れ去られますが、心の板に刻印された御言は永遠に消えません。御言が人の心に留まる方法です。それは、聖霊なる神の働きによって刻印されます。
この聖霊は、旧約の時代にはまだ降臨していませんでした。ですから、神の御言は、人々の心になかなか留まりませんでした。イスラエルの違反の歴史はそれを物語っています。
やがて新しい契約の時代が来ると、神の御言が聖霊によって心に刻印される時代が来るのだと旧約の預言者は語りました。
「わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわち、わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」(エレミヤ31:33)。
そうです。いまや新約の時代です。ですからイエスはこう言われました。「わたしの言葉のうちに留まっておるなら、あなた方は本当にわたしの弟子なのである」(ヨハネ8:31)。そして、この御言が留まっているなら、御言の真理は私たちを自由にするのです(ヨハネ8:32)。
祈ります。どうか、神の御言が、聖霊なる神によって私たちの心に確実に刻まれ、永遠にとどまってくださいますように。そして、その御言によって、私たちが真理のうちを歩むことが出来ますように。(Ω)