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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

アモス書 9章

2023年06月24日 | アモス書
アモス書 9章
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである。
(9・11~12)


神のさばきは徹底しています。例外がありません。えこひいきもありません。賄賂も通用しません。9章の前半には、徹底的にさばかれ、滅ぼされる様子が語られています(1~4)。中でもこれは災いのためであって、幸いのためではない(4)という聖句が心に刺さります。これは罪人に用意されている末路です。だれも逃れることができません。 

しかし、ただひとつの救いの道があります。イエス・キリストです。神のさばきが厳しければ厳しいほど、救いはキリストの十字架以外にないことを確信させてくれます。キリストが、私たちに対するさばきを十字架で引き受けて下さったことが、いかに恵みであるかを教えてくれます。 

神は、このような徹底的なさばきの中でも、わたしはヤコブの家をことごとくは滅ぼさないと言われます(8)。これは、例外的にお目こぼしがあるという意味ではありません。くじを引いて「当たり」が出るという意味でもありません。

この者たちは悔い改めた霊魂です。悔いし砕けし魂の者たちです。ヤコブの家にそのような残りの者たちがいることの預言です。そんな彼らに約束されているのが冒頭の聖句です。神は、ダビデの倒れた幕屋を再興してくださいます(アモス9・11)。 

ダビデの倒れた幕屋とは、今や風前の灯火となったダビデ王朝を表しています。かつての輝かしい王国からすれば、崩壊寸前の幕屋であり、仮庵のようなみすぼらしい姿のことです。

アモスの預言は、その幕屋を再興するというのですが、それは、かつてのダビデ王国の単なる復興ではありません。意図的に〝幕屋〟と表記されているように、神が人と共に住まわれる世界が興されるという意味が込められています。

つまり、来たるべきメシヤ(キリスト)による、神の御国の完成を表す預言なのです。その御国では、不完全な人間の王が統治する世界ではなく、キリストが王として治める至福の世界です。その豊かな世界観が、13~14節に描かれているわけです。

さて、その「ダビデの倒れた幕屋」が興される時に、エドムの残った者、および、わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有することになるのだと預言は続きます(9・12)

エドムとはイスラエルの兄エサウの子孫ですが、不仲で敵対関係にあった民です。最も近い存在なのに犬猿の仲です。でも、そんな敵対者も、神の御名を呼ぶ者となって御国の民となるのです。ここに和解の福音の完成した姿があります。

それだけではありません。神の名をもって呼ばれるすべての国民とありますから、異邦人のことです。神の名であるイエスの御名を信じる者たちです。それがたとえ異邦人であっても神の所有となるのです。つまり、救われるという意味です。

やがて、新約の時代になって、ユダヤ人クリスチャンたちが一堂に会して協議しました。使徒行伝15章に記録されているエルサレム会議のことです。議題は「異邦人も救われるのか」です。喧々諤々のすえ議会がたどり着いた見解は、このアモス書9章11~12節の聖句を引用し、異邦人も同じ神の御国の民であるという結論でした。

つまり、イエスの御名を呼ぶ異邦人も、建て直されたダビデの幕屋の中で、共に同じ天の国民として、加えられたことを確認したのです。

神がそうなさったのは、異邦人も神の御名を呼ぶようになったからです。イエスの名による罪のゆるしを受け取り、イエスの名によってバプテスマを受け、イエスの名で救われ、イエスの名を賛美するに至ったのです。

このイエスの御名のもとに全ての国民が建て直されたダビデの幕屋で礼拝し、神と共に生きるようになるのだと神はアモスを通して預言なさっていたのです。

こういうわけですから、大切なことは、私たちが最後までイエスの御名を持ち続けることです。認知症になっても最後まで、この神の名だけは忘れたくありません。臨終の間際でも「イエスの名によってアーメン」と言って終わりたいものです。 

さあ、悔いし砕けし魂を主にささげよう。そして、イエスの御名を賛美しよう。


アモス書 8章

2023年06月23日 | アモス書
アモス書 8章
見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る、それはパンの飢饉ではない、水に渇くのでもない、主の言葉を聞くことの飢饉である。
(8・11)


先の第7章で取り上げた4つの幻の4番目は、第8章1節のひとかごの夏の果物です。夏の果実は熟し切っていて、地に落ちる手前の状態のことを意味します。

つまり、罪が熟して、もはや木に連なることもできず、地に落とされる寸前のイスラエルの姿をあらわしていると考えられます。

北イスラエルは不正なさばきと賄賂によって社会は腐敗していました。表面上は繁栄していました。しかし、その富は貧しい人々から搾取し、弱者への虐げの上に築かれた偽りの繁栄でした。

彼らは形式的には主を礼拝していますが、その心は商売のこと、世の富のことばかりです。

新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、我々は穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、我々は麦を売り出そうとは、そんな人々の欺瞞を指摘しています(8・5)。新月や安息日の礼拝の最中も礼拝のことなど上の空。頭の中は礼拝後の商売や金儲けのことでいっぱいです。「早く終わってくんないかな~」とはやる心で苛ついています。

また、何とかごまかして少しでも儲けを増やそうと企む様子も描かれています。我々はエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう(8・6)。これでは正式な商売ではありません。詐欺です。こんな欺瞞や不正が続くはずがありません。

そこで神は「飢饉」をもって臨まれると預言されています。冒頭の聖句のことです。それは、単なる食物や水がないという飢饉ではなく、神の御言を聞くことのできなくなる飢饉です。

そう言われても、人々は鼻で笑うことでしょう。御言が何の腹の足しになるか。それよりもパンだ。それよりも酒だ。そのために金儲けだ……と。

しかし、うそぶいている人も必ずこの飢餓を体験します。肉体は満たされていても、言いようもない空しさという飢餓です。これは霊的存在である人間特有の飢餓です。だれもこの飢餓に耐えることのできる者がいません。あの放蕩息子のように、豚の餌で腹を満たしたいと思うほどの霊的な飢餓です。

しかし、そんな放蕩息子も「われにかえって」父のもとに立ち帰ったように、神に立ち帰る以外に道がありません。神に立ち帰って神の御言で生きる他に道がありません。

空しいという霊的飢餓を体験した人は幸いです。神の御言で生きるようになるからです。でも、それさえもかなわない「御言を聞くことのできない飢饉」が来るのだと、アモスは預言しているのです。

それは凄まじい事態です。なぜなら、彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。その日には美しいおとめも、若い男も渇きのために気を失うとあるからです(8・12~13)

これは終わりの時代に、反キリストが神の御言を持つ民を徹底的に迫害する時代のことと思われます。その時になると、聖書は没収され焼き払われ、聖書を所持しているだけで投獄され殺される……そんな危機的な時代が来るでしょう。

そうなる前に聖書を読みましょう。たとえ、聖書が取り去れても、御霊によって心の板に刻まれた御言で生きられるほどに読み込むのです。



アモス書 7章

2023年06月22日 | アモス書
アモス書 7章
見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
(7・8 新改訳)


アモスは4つの幻を見せられました。

第一はいなごの大群です。文字通りいなごの大発生による被害を意味するのか、あるいは敵軍がいなごのように来襲する様子なのか定かではありませんが、いずれにせよイスラエルには耐え難い試練です。アモスはこのために執り成しの祈りをし、結果、その災難はくだりませんでした。

第二はです。大火事によってイスラエルを滅ぼすのか、火の中で精錬されるようにして、神の激しいさばきの中をくぐらなければならないのか。それもまた恐ろしい試練です。

再び、アモスの執り成しによって、火のさばきはくだりませんでした。

この幻と執り成しの記事は、預言活動の幾つかの節目でなされたもので、アモスの激しい祈りの記録だろうと思われます。アモスはイスラエルに対して冷めた心で預言していたのではなく、民への深い哀れみをもって語ったのでした。

さて、第三の幻は冒頭の聖句にあるように重りなわの幻です。

口語訳は測りなわと翻訳されていますが、新共同訳の下げ振りが適訳だろうと思います。なわの先端に重りをつけて釣り下げ、建築物が垂直に建てられているかを測る道具のことです。

重りなわ」(下げ振りは地球の重力に引かれて、地球の中心にまっすぐに垂れ下がります。この「なわ」にそれているなら、その建築物はゆがんでいるのであり、やがて倒壊します。

神は、そのような重りなわでイスラエルを測ると言われるのです。しかも「もう見過ごすことはない」と言われるのです。

神は、私たちの心に、目に見えない「重りなわ」を垂れ下げてくださっています。それは、御霊なる神であり、神の御言です。

この重りなわは、神に向かってまっすぐに伸びています。その線に沿って私たちの心は建てられます。もし、それに沿わずに、ゆがんで建てるなら、その心は遅かれ早かれ、エリコの城壁のように崩れ去ることになります。ごまかしは利きません。

私たちの心の重心はどこに向かっているでしょうか。御霊と御言の指し示す方向へ、心をまっすぐに向けようではありませんか。

さて、アモスはこれらの預言を北王国のイスラエルで語っていました。ところが、北イスラエルの祭司であるアマジヤは、彼の預言に耐えかねて、彼を国外追放しました(7・10~13)。

アモスの預言は、イスラエルの人々にとってまさに「重りなわ(下げ振り)」でした。それに添って、民はまっすぐに神に向かうべきでした。なのにイスラエルは、その下げ振りを捨てるようにしてアモスを追放したのです。

こうして、神の御言を追放したイスラエルは、やがてアッシリヤによって滅びます。


アモス書 6章

2023年06月21日 | アモス書
アモス書 6章
馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。ところがあなた方は公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた。
(6・12)


「馬は岩の上を走るだろうか」。いいえ。馬は草原を走ります。では、「人は牛で海を耕すだろうか」。そんなことはあり得ません。牛で耕すのは畑です。当たり前のことです。

なのに……です。

イスラエル民は、公道を毒に変じるという、あり得ない事をやっているのです。「公道」とは社会の普遍的な正義を表してます。「公義」とか「正しいさばき」のことです。

裁判は正しくさばくからこそ正義が保たれます。しかし、これが権力によって歪められたり、賄賂によって変更されるなら、社会は根底から崩壊してしまいます。つまり、公道を毒に変じてしまいます。

これは法の安定性の問題です。

政権が交代する度に、憲法解釈が変わると、国の根底から揺らぎます。だから、いかなる政権であろうとも、憲法審査会の見解に立って政治を行います。こうして「法の安定性」の上に国が成り立ちます。もし、これを政権の都合で変更するなら、国は倒れてしまいます。まさに公道を毒に変じるのです。

その毒によって滅びます。それがイスラエルの姿だったのです。

私見ですが、当時のイスラエルも、神の律法ではこう定めているが、このようにも解釈できるではないかと、「法の安定性」を失っていったのでしょう。その結果が、神殿で偶像礼拝が正当化される根拠にもなったのではないかと想像します。

まさに公義公道を毒に変じたのです。そして、その毒によって死を招いたのです。

また、正義の実が苦よもぎに変じることも、あり得ない事です。正義は、社会に豊かな実りをもたらします。人々に甘い香りの果実を結ばせます。なのに、正義をゆがめて、それを苦よもぎのようにしてしまうなど、もう、その社会はもはや〝死に体〟です。

そんな「毒」と「苦よもぎ」の上にイスラエルの生活は成り立っていました。人々は、「象牙の寝台に伏し」(6・4)「琴の音に合わせて歌い騒ぎ」(5)「鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり」(6)贅をつくして文明を謳歌していました。

しかし、そんな文明はやがて滅び行くバベルの塔です。なのに、彼らは「ヨセフの破滅を悲しまない者たち」なのです(6・6)。現代の日本や世界の姿を見るような思いです。

公義を毒や苦よもぎに変える世にあって、イエス・キリストを知る者たちは、神の義とその国を世に現す者として生きるのです。


アモス書 5章

2023年06月20日 | アモス書
アモス書 5章
あなた方はわたしを求めよ、そして生きよ。
(5・4)


先の4章は、自分勝手な礼拝をする民に対して叱責でした。しかし、そんな中にも、悔い改めて立ち返れという神の願いが込められていました。そして、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよと呼びかけて4章は終わりました(4・12)

今日の冒頭の聖句にも、激しい御怒りの中にも神の愛の眼差しを感じます。

人は困難や試練に遭遇すると、他者を頼ったり富に助けを求めます。しかし神は、ベテルを求めるな、ギルガルに行くな。ベエルシバにおもむくな。ギルガルは必ず捕えられて行き、ベテルは無に帰するからであると言われます(5・5)

これらは当時の繁栄した町々です。しかし、その町の物質的富が助けになるのではない。町の人脈が人を救うのでもない。罪に満ちた偽りの繁栄は、あのバベルの塔のように崩れ去るのです。

だから、それを頼るな。そこに行くな……と。

罪に満ちて不品行で腐敗したソドムとゴモラの町を、神は滅ぼすことになさいました。そこで、ロトとその家族は、町にとどまろうとするのではなく、そこを出ました。躊躇せず、真の助けである主を信頼して生きました。

同じように、今はイスラエルの民に語りかけておられます。

あなた方は主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のようにヨセフの家に落ち下られる。火はこれを焼くが、ベテルのためにこれを消す者はひとりもない。(5・6)

そして、この呼びかけは現代でも同じです。主イエス・キリストを求めて生きよ。主イエスと共に天につながる者となれ。この地はやがて朽ちて行く世界なのですから。悪魔とその手下たちに用意された火と硫黄の池に投げ込まれるのですから。彼らに助けを求めるのではなく、主イエスを求めて生きよと、今も神は呼びかけておられます。 

「あなた方は正しい者を虐げ、賄を取り、門で貧しい者を退ける」 とあるように、当時のイスラエルは正義がゆがめられ、不正がはびこる世界でした(5・12)。その結果、「賢い者は沈黙する。これは悪い時代だからである」(5・13)。不正が闊歩する時代は、正しいことが発言できなくなる時代です。イスラエルも、今の日本も同じではないですか。

こんな時代だからこそ、公道公義を水のように、正義をつきない川のように流れさせよと言われるのです(5・24)。正しいことが、川のように堂々と流れて行く社会にせよとの命令です。

このためには、冒頭の聖句のごとく主を求めて生きよなのです。


アモス書 4章

2023年06月19日 | アモス書
アモス書 4章
それでも、あなた方はわたしに帰らなかった。
(4・6)


神は、民を滅ぼすことが目的ではありません。神が滅ぼそうとなさっているのは、天で罪をおかした御使たち ――その長が悪魔―― であり、彼らによって作り出された罪の世界です。

むしろ、私たち人間に対しては、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るようにと願っておられます。「さばきの預言」を学ぶ時、この視点を忘れてはなりません。

旧約聖書だけだと、罪人を滅ぼす神が描かれていると思ってしまいます。旧約は神の啓示の書ではありますが、新約の啓示からすれば、ほんの少しをあきらかにしたに過ぎません。新約にいたって神の御子が真理を明らかにし、さばきとはこの世の君すなわち悪魔にくだされるのだと啓示されています。むしろ、人には「主イエス・キリストによって救いを得るように定められた」のです(Ⅰテサ5・9)

ですから、神は、様々な出来事の中で、わたしのもとに立ち帰れ。悪魔と共に滅びてはならないと呼びかけておられます。

4章1節のバシャンの雌牛どもとは、北イスラエルの首都サマリヤのことで、その街で裕福に暮らす人々のことです。彼らの豪奢な生活を支えるために、どれだけ多くの貧しい人々、小さき者たちが搾取されて来たことかと語られています。

彼らは主を礼拝しているようですが、それは自分勝手な礼拝だと、皮肉まじりに指摘されています。あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ(アモス4・4)

ベテルには北イスラエル独自の神殿があって、偶像礼拝の場所になっていました。また、ギルガルは、かつての王サウルが自分勝手に生贄をささげて神から厳しい叱責を受けた場所です。つまり、ベテルもギルガルも、自分よがりの礼拝を象徴する場所です。そんな、ベテルやギルガルでの礼拝は、ますます神に対する罪を増し加えることになるのです。

さらに預言は続きます。

朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。種を入れたパンの感謝祭をささげ、心よりの供え物をふれ示せ。イスラエルの人々よ、あなたがたはこのようにするのを好んでいる。(4・4~5)

犠牲をささげているようだけど、それは〝あなた方の犠牲だ。十分の一も〝あなた方の〟十分の一だと、神は皮肉っておられるのです。新改訳では、この「あなた方の」のニュアンスがありません。十分の一は本来は神のものです。なのに、自分勝手な十分の一のささげ物なので、神がご覧になるに、それは〝あなた方の十分の一〟だと表現されています。

こんな自分よがりの礼拝になるのは、神を知らないからです。先の預言者ホセアも神は、神を知ることを切に願っておられると力説しました。そして、主イエスもわたしが好むのは生贄ではなくあわれみであるとはどういう意味か学んできなさいと言われたわけですが、表面的に律法を守るだけで、神を知らない学者たちを叱責なさいました。

さて、そんな自分勝手な人々に、神は様々な事件を起こされます。干ばつや疫病などによる食糧不足等々。4章6節以降には、その出来事がくり返し記録されています。しかし、それでもあなた方はわたしに帰らなかったと5回も語られています。

神は、事件や災害の中で、民が悔い改めて神に立ち帰るようにと願っておられるにもかかわらず、まさに親子の心、子知らず。人々の心はかたくなです。

神の厳しい取り扱いを受けたとき、われに返って、悔い改める者は幸いです。あの、父の財産を受け取って飛び出した放蕩息子でさえ、放蕩三昧のどん底で、彼は「われに返って」、自分が何者であるのかを取り戻しました。

そうだ、自分はあのお父さんの子ではないか……と。

そうだ、自分は神の民ではないか。神の聖なる国民ではないか。イエス・キリストによって買い取られ、神の子どもではないか。キリストと共に生き返って、天の座につく者ではないか。

神の取り扱い、神のさばき、神の御怒りの背後に、「わたしのもとに帰れ」と叫ばれる神の御声を聞き逃してはなりません。


アモス書 3章

2023年06月17日 | アモス書
アモス書 3章
まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
(3・7)


ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうかという文言から始まって6節まで、自明の質問がくり返されます。それと同じように、神は事前に預言しないでは、何事もなさらないのだ……と語られています。

これから起きる神のさばきは、突然、何の前ぶれもなく起こるのではありません。神は、事前に予告なさっています。突然に起こるのであれば、悔い改める機会がありません。

神が事前に預言なさるのは、私たちが悔い改めて救いを得るためです。イエス・キリストは「もう一度来る」と預言なさって天に昇られました。それは、その間に人々が悔い改めるためです。その間に、福音が全世界に宣べ伝えられるためです。

そして、先ほどの3章3節でふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうかと語られているように、事前に神のなそうとしていることを告げることで、私たちも神と共に同じ目的のもとに歩むためなのです。

人は人で勝手に自分の赴くままに生きるのではなく、神の御心を知って、神と共に〝歩く〟ことを、神は願っておられます。だから、神は預言なさるのです。人よ、わたしの心を知って共に歩めと。預言を解釈するとき大切な視点です。

9節以降は解釈の難しい所です。

アッスリヤの宮殿とエジプトの宮殿に宣べて言えとは、神が、これからイスラエルをさばかれるその出来事を目撃せよと異教徒たちを招いておられます。 ※「アッスリヤの宮殿」は新改訳では「アシュドデの宮殿」いずれも異教徒たちの王宮である。

罪を悔い改めないなら、神の民であっても容赦なく滅ぼされるという現実を、お前たちは来て目撃せよ。自分たちは異教徒たちだから関係ないとでも思っているのか。他人事のように思うな。わが身のことだと思い、お前たちも悔い改めよ……。そんなメッセージが込められています。


アモス書 2章

2023年06月16日 | アモス書
アモス書 2章
これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた偽りの物に惑わされたからである
(2・4)


神のさばきは、神の民である北イスラエルと南ユダにも及びます。ご自分の宝の民であっても身びいきはなさいません。

先の異邦人たちへのさばきの理由は、残虐な行為であったり不品行のゆえでありました。しかし、神の民たちにはその理由が違います。冒頭の聖句、2章4節に指摘されているように、主の律法を知りながら、その律法御言を捨てたからです。

これには大きな責任が問われます。

神は、イスラエル ――南ユダと北イスラエルも含めた意味のイスラエル―― に律法を与え、神の聖なる御国の水準をお示しになりました。それは、彼らを通して聖なる御国が異邦人に及ぶためでした。ところが、その大切な主の教えを捨てたのです。

その結果、神の民でありながら、彼らは貧しい人々とか小さな者たちを顧みることをしなかったと指摘されています(2・6~7)。それは神の御名を汚していることになるのだと言われます。

律法では、貧しい人々を顧みるようにと、くり返し命令されています。神は、貧しい者、弱い者、小さな者をあわれまれるお方だからです。それによって神の愛を世に現すようになさったのです。なのに、その愛を世に現さなかったイスラエルの罪が問われているのです。終わりのさばきにおいて、「この小さな者にした親切は、わたしにしてくれたのだ」という主イエス預言は心に留めるべきです。

次に、律法を捨てた神の民は、神が起こされた預言者やナジル人献身者を軽んじました。その上に献身者を堕落へと誘惑し、預言者には神の御言を語るなと禁じたのです(2・12)
こんな事があってはいけません。

神の民に求められる水準は高いのです。律法(御言)という大事な使命をゆだねられた民なので、神は多く問われ、多くさばかれます。

しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。(ルカ12・48)


アモス書 1章

2023年06月15日 | アモス書
アモス書 1章
ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。(1・3 新改訳)

アモスは「テコアの牧者のひとり」とあるように、南ユダの寒村テコアで羊を飼う農夫でした。

時代はBC760年頃です。神はアモスを預言者として召して、祖国の南ユダのみならず、北イスラエルとその周辺諸国に神のさばきが下ることを大胆に語るよう導かれました。

第1章は、周辺諸国に対するさばきです。いずれの国に対しても、おかした三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さないと語られています。

そむきの罪の数が文字通り数えられているのではなく、三つ+四つで、完全数のになるわけで、完璧におかしている罪、逃れることのできない罪を意味していると思われます。

ダマスコ(1・3)、ガザ(1・6)、ツロ(1・9)、エドム(1・11)、アモン(1・13)、モアブ(2・1)、ユダ(2・4)、イスラエル(2・6)……と、神のさばきに抜かりはありません。だれも、いかなる民もこのさばきから逃れることはありません。例外がありません。えこひいきもありません。

ローマ人への手紙で語られているように、「こうして罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」のです(ローマ5・12)

冒頭の聖句も語っているように、罪の結果である刑罰は取り消されることがありません。少しは大目に見てくださいよ……と泣きを入れても、そう言うわけには行きません。

では、どこまでなら大目に見ることができますか。人間の義を基準にするなら、お目こぼしもあるでしょう。しかし、神の義は絶対的な義です。絶対的な義が我々の陳情によって揺らぐのであれば、サタンでさえ天国の住民に潜り込むことができます。

ですから、「刑罰は取り消さない」と言われるのです。

罪は必ずさばかれなければなりません。罪の結果である死は必ず支払わなければなりません。これは原則です。

もちろん、このままでは、人には救いの道がありません。イエス・キリストによる以外は……。

 
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