アモス書 9章
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである。(9・11~12)
神のさばきは徹底しています。例外がありません。えこひいきもありません。賄賂も通用しません。9章の前半には、徹底的にさばかれ、滅ぼされる様子が語られています(1~4)。中でも「これは災いのためであって、幸いのためではない」(4)という聖句が心に刺さります。これは罪人に用意されている末路です。だれも逃れることができません。
しかし、ただひとつの救いの道があります。イエス・キリストです。神のさばきが厳しければ厳しいほど、救いはキリストの十字架以外にないことを確信させてくれます。キリストが、私たちに対するさばきを十字架で引き受けて下さったことが、いかに恵みであるかを教えてくれます。
神は、このような徹底的なさばきの中でも、「わたしはヤコブの家をことごとくは滅ぼさない」と言われます(8)。これは、例外的にお目こぼしがあるという意味ではありません。くじを引いて「当たり」が出るという意味でもありません。
この者たちは悔い改めた霊魂です。悔いし砕けし魂の者たちです。ヤコブの家にそのような残りの者たちがいることの預言です。そんな彼らに約束されているのが冒頭の聖句です。神は、ダビデの倒れた幕屋を再興してくださいます(アモス9・11)。
「ダビデの倒れた幕屋」とは、今や風前の灯火となったダビデ王朝を表しています。かつての輝かしい王国からすれば、崩壊寸前の幕屋であり、仮庵のようなみすぼらしい姿のことです。
アモスの預言は、その「幕屋を再興する」というのですが、それは、かつてのダビデ王国の単なる復興ではありません。意図的に〝幕屋〟と表記されているように、神が人と共に住まわれる世界が興されるという意味が込められています。
つまり、来たるべきメシヤ(キリスト)による、神の御国の完成を表す預言なのです。その御国では、不完全な人間の王が統治する世界ではなく、キリストが王として治める至福の世界です。その豊かな世界観が、13~14節に描かれているわけです。
さて、その「ダビデの倒れた幕屋」が興される時に、「エドムの残った者、および、わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有する」ことになるのだと預言は続きます(9・12)。
エドムとはイスラエルの兄エサウの子孫ですが、不仲で敵対関係にあった民です。最も近い存在なのに犬猿の仲です。でも、そんな敵対者も、神の御名を呼ぶ者となって御国の民となるのです。ここに「和解の福音」の完成した姿があります。
それだけではありません。「神の名をもって呼ばれるすべての国民」とありますから、異邦人のことです。神の名であるイエスの御名を信じる者たちです。それがたとえ異邦人であっても神の所有となるのです。つまり、救われるという意味です。
やがて、新約の時代になって、ユダヤ人クリスチャンたちが一堂に会して協議しました。使徒行伝15章に記録されているエルサレム会議のことです。議題は「異邦人も救われるのか」です。喧々諤々のすえ議会がたどり着いた見解は、このアモス書9章11~12節の聖句を引用し、異邦人も同じ神の御国の民であるという結論でした。
つまり、イエスの御名を呼ぶ異邦人も、建て直されたダビデの幕屋の中で、共に同じ天の国民として、加えられたことを確認したのです。
神がそうなさったのは、異邦人も神の御名を呼ぶようになったからです。イエスの名による罪のゆるしを受け取り、イエスの名によってバプテスマを受け、イエスの名で救われ、イエスの名を賛美するに至ったのです。
このイエスの御名のもとに、全ての国民が「建て直されたダビデの幕屋」で礼拝し、神と共に生きるようになるのだと、神はアモスを通して預言なさっていたのです。
こういうわけですから、大切なことは、私たちが最後までイエスの御名を持ち続けることです。認知症になっても最後まで、この神の名だけは忘れたくありません。臨終の間際でも「イエスの名によってアーメン」と言って終わりたいものです。
さあ、悔いし砕けし魂を主にささげよう。そして、イエスの御名を賛美しよう。
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである。(9・11~12)
神のさばきは徹底しています。例外がありません。えこひいきもありません。賄賂も通用しません。9章の前半には、徹底的にさばかれ、滅ぼされる様子が語られています(1~4)。中でも「これは災いのためであって、幸いのためではない」(4)という聖句が心に刺さります。これは罪人に用意されている末路です。だれも逃れることができません。
しかし、ただひとつの救いの道があります。イエス・キリストです。神のさばきが厳しければ厳しいほど、救いはキリストの十字架以外にないことを確信させてくれます。キリストが、私たちに対するさばきを十字架で引き受けて下さったことが、いかに恵みであるかを教えてくれます。
神は、このような徹底的なさばきの中でも、「わたしはヤコブの家をことごとくは滅ぼさない」と言われます(8)。これは、例外的にお目こぼしがあるという意味ではありません。くじを引いて「当たり」が出るという意味でもありません。
この者たちは悔い改めた霊魂です。悔いし砕けし魂の者たちです。ヤコブの家にそのような残りの者たちがいることの預言です。そんな彼らに約束されているのが冒頭の聖句です。神は、ダビデの倒れた幕屋を再興してくださいます(アモス9・11)。
「ダビデの倒れた幕屋」とは、今や風前の灯火となったダビデ王朝を表しています。かつての輝かしい王国からすれば、崩壊寸前の幕屋であり、仮庵のようなみすぼらしい姿のことです。
アモスの預言は、その「幕屋を再興する」というのですが、それは、かつてのダビデ王国の単なる復興ではありません。意図的に〝幕屋〟と表記されているように、神が人と共に住まわれる世界が興されるという意味が込められています。
つまり、来たるべきメシヤ(キリスト)による、神の御国の完成を表す預言なのです。その御国では、不完全な人間の王が統治する世界ではなく、キリストが王として治める至福の世界です。その豊かな世界観が、13~14節に描かれているわけです。
さて、その「ダビデの倒れた幕屋」が興される時に、「エドムの残った者、および、わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有する」ことになるのだと預言は続きます(9・12)。
エドムとはイスラエルの兄エサウの子孫ですが、不仲で敵対関係にあった民です。最も近い存在なのに犬猿の仲です。でも、そんな敵対者も、神の御名を呼ぶ者となって御国の民となるのです。ここに「和解の福音」の完成した姿があります。
それだけではありません。「神の名をもって呼ばれるすべての国民」とありますから、異邦人のことです。神の名であるイエスの御名を信じる者たちです。それがたとえ異邦人であっても神の所有となるのです。つまり、救われるという意味です。
やがて、新約の時代になって、ユダヤ人クリスチャンたちが一堂に会して協議しました。使徒行伝15章に記録されているエルサレム会議のことです。議題は「異邦人も救われるのか」です。喧々諤々のすえ議会がたどり着いた見解は、このアモス書9章11~12節の聖句を引用し、異邦人も同じ神の御国の民であるという結論でした。
つまり、イエスの御名を呼ぶ異邦人も、建て直されたダビデの幕屋の中で、共に同じ天の国民として、加えられたことを確認したのです。
神がそうなさったのは、異邦人も神の御名を呼ぶようになったからです。イエスの名による罪のゆるしを受け取り、イエスの名によってバプテスマを受け、イエスの名で救われ、イエスの名を賛美するに至ったのです。
このイエスの御名のもとに、全ての国民が「建て直されたダビデの幕屋」で礼拝し、神と共に生きるようになるのだと、神はアモスを通して預言なさっていたのです。
こういうわけですから、大切なことは、私たちが最後までイエスの御名を持ち続けることです。認知症になっても最後まで、この神の名だけは忘れたくありません。臨終の間際でも「イエスの名によってアーメン」と言って終わりたいものです。
さあ、悔いし砕けし魂を主にささげよう。そして、イエスの御名を賛美しよう。
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