マルコ14:8 この女はわたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
受難週の水曜日、それはイエス様が十字架で死なれる2日前のことです。イエス様が弟子たちと共に居られるとき、ひとりの女性が、300デナリもするナルドの香油を惜しげもなくイエスに注ぎかけました。
1デナリが労働者1日分の賃金ですから、その香油は1年分の給料に相当する高価なものです。それを、一度に使い切ってしまうわけですから、周囲はあっけにとられました。
しかし、「彼女のしたことは、福音が語られるところではいつでも記念として語られる」とイエスは言われました(マルコ14:9)。それほど彼女のしたことは重要なことだからです。
この意味が理解できない人は、「もったいない」とか「無駄づかいだ」と言うのです。そのような人は、神への礼拝の時間を惜しいと思う人です。礼拝の時間を売れば300デナリになるのに……と計算する人です。
300デナリの香油をイエスに注いだことが、福音と一緒に語られるべき理由は何だったのでしょうか。彼女のささげ物が高価であったからでしょうか。
いいえ、彼女はイエス様の葬りの用意をしたからです。
実は、この2日後の「過越の祭」でイエスが死なれることを、弟子たちは予想だにしていませんでした。死なれるのではなく、イエスは王としての権威をもってこのユダヤを統治し、ローマの圧制から独立を勝ち取ってくださるのだと信じていたようです。
そんな中で、彼女(マリヤ)はイエスが死を覚悟なさっていることを感じ取っていました。 ※ヨハネ福音書は香油を注いだ女性がマリヤだと記録。マリヤが、イエスの死の真意をどこまで理解していたかは定かでないが、香油の注ぎは実に的を射ていた。
実はこの時、イエス様は大祭司としての務めを果たさんとしておられました。イエスはそのために来られたのです。
イエス様は〝本物の大祭司〟として、全人類の罪のゆるしのための血をたずさえて、神の前に執り成すために来られたお方です。そうすることによって、全人類の罪をきよめるためです。
では、その罪のゆるしのための血はどうなさるのでしょうか。
旧約の大祭司は、いけにえの動物を屠って、その血をたずさえて神の御前に出て祈りました。しかし、羊や牛などの血は、人間の罪の代価を完全には支払うことができません。代用品です。
だから、イエス様はご自分の血をささげられました。イエス様はその血を流すために十字架で死なれたのです。罪のないイエスの血でなければ、全人類の罪の代価を完全に支払うことができません。
イエス様は、このような大祭司として、過越の祭の日にご自分をおささげになる覚悟でいらっしゃったのです。
さて、律法によるなら、大祭司はその務めの前に聖なる油を注いで聖別しなければなりませんでした(出エジプト40:13-15)。
主イエスこそ、まことの大祭司として、香油を注がれ、全人類の罪のために犠牲の血をたずさえて天の聖所に入って行かれた聖なるお方です。マリヤはそのようなイエス様のために、大祭司の務めの準備として油を注いだことになります。
イエスはいよいよ大祭司としての大役をなさんとしておられました。こうして、救いの道を開いてくださった大祭司なるイエス様に感謝します。
さて、香油を注いだことで、麗しい香りが部屋に満ちました。マリヤの〝聖なる無駄づかい〟は麗しい香りとなったのです。人々には無駄づかいのようでも、神に対しては芳しい香りです。ですから、その後、イエスが十字架を担いで歩かれる道端にも、この芳しい香りは放たれたことでしょう。十字架上でのむごたらしい最期でも、この香りは人々に届けられたはずです。
私たちもイエス様と同じように十字架を担いで従う時、そんな麗しい香りを周囲にもたらすことになるのです。
私たちがキリストの十字架の故に「ゆるすこと」「愛すること」「ほどこしをすること」「礼拝すること」「伝道すること」「犠牲すること」等々。これら信仰による行いは、未信者の人々には〝無駄づかい〟に見えるかも知れません。なぜそんなことをするのか、愚かなことだと指摘されるかも知れません。
しかし、そんな〝聖なる無駄づかい〟は主イエスにふさわしいことです。麗しい香りが広がる出来事です。私たちもマリヤに続いて、この〝聖なる無駄づかい〟をささげようではありませんか。福音が語られるとき、そのような香りも共に伝わるようにと祈ります。(Ω)
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