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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ハバクク書 3章

2023年07月15日 | ハバクク書
ハバクク書 3章
しかし、私は主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ
(3・18)


主からの応答を受けて、ハバククは讃美と祈りをささげました。第3章はその内容です。主がなさるさばきは厳しいけれども、正しいさばきであり、主のなさることを信頼するのだと告白しています。

ですから、怒る時にもあわれみを思いおこしてくださいと祈っています(3・2)。新改訳では激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」。神の愛を信頼するが故に、そのさばきにも身をゆだねようという決意の表れです。

確かに、神のさばきは厳しく痛みが伴います。しかし、そのさばきを通して神が実現なさる、神の義と神の国を求めるのです。十字架の死という痛みの先には、永遠のいのちに至る復活があるのです。

このような神のさばきへの信頼ゆえに、ハバククは迫り来る厳しい状況を覚悟しつつも、神のなさることにゆだねている様子が現れています。

私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。
(3・16)


このような神への深い信頼は特筆すべきです。目先の問題解決や利益のために信じているわけではありません。時に不利益さえも甘受し、さらに滅びさえも覚悟し、神のさばきを信頼する姿です。

これこそ義人の姿であり、義人が信仰によって生きることです。

ハバククが預言した時代の南ユダの情勢は、さらに混迷を増すばかりでした。神のさばきと御怒りがひたひたと近づいているのが感じられました。その状況を次のように述べています。

いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる(3・17)。被造物全体も罪の中で苦しんでいる情景です。しかし、そのあとに18節の聖句が続きます。

しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶのです。状況が好転しているから喜ぶのではありません。神の正しいさばきの向こう側に用意されている復活の恵みを知って喜ぶのです。

これが神の喜ばれる信仰です。このような信仰者を神は義とされるのです。そして、「義人は信仰によって生きる」のです。


ハバクク書 2章

2023年07月14日 | ハバクク書
ハバクク書 2章
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
(2・4)


ハバククは自分の訴えに対して、神がどのように応えてくださるのか待ちました(2・1)。そして、主からの応答があったのです。

この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。(2・2~3)。つまり、神の約束は必ず成就するのです。「もし遅ければ待っておれ」と言われます。私たちに求められていることは〝遅くても信じて待つ〟ことです。この約束とは神の正しいさばきのことです。

なのに、「神は約束を忘れたのだ」「神は理不尽なお方だ」という不信感は、待ちきれない者の口から出てきます。神がいるならなぜ悪を放置されるのだという不満は、神のさばきを待ちきれず、自分の正しさでさばいてしまう思い上がりから出てきます。そのような考え方は、ハバククいわく「魂の正しくない者」であり、「魂の正しくない者は衰える」のです。

かたや、神の約束すなわち神の正しいさばきを〝遅くても待つ〟ことが信仰です。神のさばきを信頼する者が神の目には義人であり、彼こそが本当の意味で生きることになるのです。なぜなら義人はその信仰によって生きるからです(2・4)

さて、バビロンは神に用いられて神の民を撃つという大役を担いました。しかし、そのことが、バビロンを高慢にさせました。神の民でさえ、神はかくも罰せられるのであれば、ましてや自分はどうだろうかと謙虚に受け止めませんでした。自分はさも「正しい者」であるかのように振る舞ったのです。

日本でも「勝てば官軍」と言われるように、勝った方が正義になります。この時のバビロンも〝勝って官軍〟となったわけです。でも、その正しさはどれほどのものですか。人の義は何ともあやふやです。自分が正しいと思って他者をさばきます。しかし、その自分の義は何が根拠ですか。ちっぽけな自分の正義ではありませんか。それを「自己正義」と言います。

神の義を知らない者は、このあやふやな自己正義の上に人生を建てあげます。しかし、信仰のある者は、神の正しいさばきを待ち望みます。そのような者こそが、〝生きる〟のです。

第2章は、バビロンに下されるさばきです。そして、最後は次のような力強い御言で終わっています。

主はその聖なる宮にいます。全地はその御前に沈黙せよ(2・20)。いかなる不平も不満も、また、自己正義によるいかなる主張や訴えも、いったい神の聖なる義の前にいかばかりのものでしょうか。恥じいる内容ばかりです。全地はその御前で静まるのみです。
 

ハバクク書 1章

2023年07月13日 | ハバクク書
ハバクク書 1章
それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。
(1・4)


ハバククは南ユダ王国末期の預言者です。時は南ユダの霊的堕落が加速する時代であり、不正がはびこり退廃的な社会情勢が蔓延していました。

ハバククはそのような暴虐に心いたむ預言者で、彼は、主なる神に訴えています。主よ、私が呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。私はあなたに『暴虐がある』と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか(1・2)

神の律法は何の効力も持っていないかのように踏みにじられ、公義は曲げられている。神よ、あなたはこのような悪を放置なさるのですか。

まさにハバククは義に飢え渇く人でした。

しかし、主イエスが語られたように、義に飢え渇いている人は幸いです。彼らは満ち足りるからです。主は、義に飢え渇くハバククに対して、応えてくださり満ち足らせてくださるのです。

神は、世の不正や悪に無為無策であられるのだろうか。人の目にはそのように見えるだけで、神は、罪に対するさばきを確実に準備なさっているのだとお応えになりました。それが5~10節の内容です。

要約するなら、神は、カルデヤ人つまりバビロン軍を攻め来させることによって、ユダの腐敗をさばくのだと言われるのです。彼らは猛烈な勢いでユダ王国を席巻することになるのです。

この神のなさる方法は、ユダヤ人であるハバククには驚きでした。疑問かつ不満でした。

確かに我が同胞のユダは堕落しています。さばかれるに値します。しかし、そのさばきを異教徒であるバビロンにさせるのですか。彼らは神を神と思わず、おのれを神とする邪悪な異邦人ですよ。そんな彼らが、神の民をなぶり者にして良いのですか。

悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですかとは、そのような心境から出たハバククの訴えです。 ※12~14節の「彼ら」とはバビロン軍(カルデヤ人)のこと。

律法を侮る罪人らが跳梁跋扈するのも理不尽なことですが、その懲らしめのために、それ以上の悪人たちによって滅ぼされるのも、また理不尽なことです。ハバククはそんな不満を抱いたわけです。

私たちの考えと、神のお考えとの間には大きな開きがあることを知るべきです。今の私にはわからないだけです。やがてわかる時が来ます。

なぜなら、現世で理解できる領域はわずかだからです。しかし、天に行ってようやく、主ご自身から「あの時の理不尽はこういう意味だったのだよ」と説き明かしていただくことになるでしょう。その時になって、ああ、神の智恵は測りがたく、深く、大きいものだとわかるでしょう。

今、私たちがなすべき事は、神が正しくさばかれることに信頼することです。神の義を求めることです。理不尽を訴え出たハバククは、この書の中で、徐々にそのような信頼に目覚めて行くことになります。