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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エゼキエル書 39章

2023年01月31日 | エゼキエル書
エゼキエル書 39章
わたしは、わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる。
(39・29)


先の38章とこの39章では、マゴグの王ゴグの来襲が預言されていますが、神のご支配のもとになされている事であって、最終的にはマゴグは徹底的に滅ぼされるのだと預言されています。

神は、イスラエルをむち打つために、時にはアッシリアを用いられ、後にバビロンを用いられました。さらに最終の時代にマゴグを用いられます。

黙示録によれば、マゴグは神に敵対する獣の軍勢として描かれています。神は、敵対する者たちを用いてでも、ご自身の御業を成し遂げられます。勿論(もちろん)、敵対する者たちは、自分が〝神のご用をしている〟自覚などありません。憎悪に燃えて敵対しています。各自の意志に従ってそうしています。

しかし、それさえも、神はご自身の御業のために用いるようにご計画なさっているのです。神の智恵とご計画はあまりにも深淵で、われわれ人間には全てを理解することはできないでしょう。

こうして神は、聖なる民を得ようとなさっているのです。真実な礼拝者なる民によって構成される御国の完成を目指しておられます。ここに向かって全ての出来事は進んでいます。

マゴグが用いられるのも、イスラエルを聖なる民とするためであり、彼らがイエスこそ主であると告白して従順するための試練です。それを、最後まで、徹底なさるのが神の方法です。

すべては神のご支配の下にあることを忘れてはなりません。最後の恐るべき敵さえも、神のご支配の中で動かされている小さな駒のようです。敵さえ用いられる神の御手の前に謙遜になりつつも、目の前の敵を恐れてはなりません。神の目指される所は、聖なる民としての完成にあることに焦点を合わせます。

最後まで耐え忍ぶものは幸いです。神は二度と彼らから御顔を隠さないと言われるのですから……。

人生にはなおも理不尽なことがつづくでしょう。計算の合わない不合理なことがあるでしょう。神がいるなら何故ですか?と問いたくなる試練があるでしょう。でも、つまずかないでください。その先には、神と顔を合わせるほどの親しい交わりが用意されていることを忘れてはなりません。


エゼキエル書 38章

2023年01月30日 | エゼキエル書
エゼキエル書 38章
あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる。
(38・16)


イスラエルの回復の預言がなされてきましたが、この38章に至っては様相が変わります。イスラエルは回復して平和な時代が訪れた時代のことです。

多くの日の後、あなたは集められ、終りの年にあなたは戦いから回復された地、すなわち多くの民の中から、人々が集められた地に向かい、久しく荒れすたれたイスラエルの山々に向かって進む。その人々は国々から導き出されて、みな安らかに住んでいる。(38・8)

あなたは集められとは、約束の地に住んでいることを意味します。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちがそうでしたが、みな安らかに住んでいるという点では実現していません。帰還後も、ペルシャ、ギリシャ、ローマの圧制に苦しみました。そして、ローマによって再び滅ぼされ離散したのです。

ですから、多くの日の後とは、帰還後よりもさらに多くの年月を経ています。黙示録で預言されている、終末の最後の段階ではないかと考えられます。

そんな時代にゴグの襲撃があると預言されているのですが、そのゴグの言葉として、次のように記録されています。

わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、すべて石がきもなく、貫の木も門もない地に住む者どもを攻めよう(38・11)。このゴグとはマゴグの王のことです。しかし、マゴグがどの地域の国であるかは特定できません。北の果ての国と表記されているだけです(38・15)

終末の時代にイスラエルを攻撃する北からの軍隊として、ヨハネの黙示録でもマゴグの王ゴグについて預言されています(黙示録20・8)

そのような敵の来襲があるのですが、冒頭の聖句によれば、ゴグの進撃は神がそのように仕向けておられるのであり、なおかつ、神は、ゴグを滅ぼされると預言されています。 ※バビロンによるエルサレム攻撃も同様の構図であった。最終的には神はバビロンを滅ぼされた。

神があえてそうなさるのは、主である神が聖なるお方であることを啓示するためだと言われます。

それはイスラエルにとってもそうですし、反イスラエルの立場にある人々にもそうなのです。やがてすべての民が、主であるキリストこそ神であり、彼にひざまずくときが来るのです。それを導くために、神はイスラエル(ユダヤ人)を攻撃の的に用いるのです。

実に、イスラエルは神の栄光のために、苦難をも共にするように召された民なのです。

預言が教えるように、神の御国の完成なる時までは、まだ幾多の試練を乗り越えなければならないようです。安心しきっている時に敵の来襲もあるというのです。しかし、勝利はすでに予定されています。主を信頼しつつ目を覚ましていよう。


エゼキエル書 37章

2023年01月28日 | エゼキエル書
エゼキエル書 37章
息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ。
(37・9)


エゼキエルは干からびた骨の谷の幻を見ました。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていたのです(37・2)

これは、バビロンによって滅ぼされたかに見えたイスラエル民族(ユダヤ人)のことです(37・11)。その後、ローマ帝国によって滅ぼさることになるユダヤ人のことも念頭におかれているでしょう。

人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのかと主は問いかけられました(37・3)。人には不可能です。あり得ないことです。

バビロンの捕囚となった民が、約束の地に戻って国を再興することをだれが想像できたでしょう。また、ローマによって離散の民となったユダヤ人が、国を復興させるなどとだれが想像できたでしょう。

しかし、その干からびた骨に向かって預言せよ、と主は言われます。わたしはあなた方の上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなた方の内に息を与えて生かす。そこであなた方はわたしが主であることを悟る(37・6)

現在、イスラエル(ユダヤ人)は形の上では再興しています。しかし、霊的にはまだ暗やみの中です。注目すべきは〝息を与えて〟です。「息」とはヘブル語でルアッハで「霊」とか「風」とも訳す言葉です。

万物創造のことです。神は、人の肉体を土の塵で創造し、そこに、いのちの〝息〟を吹き入れられると、人は生きる者(原意は〝生きた霊〟)となったことを思い出してください(創2・7)

そうです。息(霊)が注がれることで、人は本当の意味で生きるのです。人はパンだけで生きる存在ではなく、神の御言……つまり「霊的な食物」によって生きるのです。

罪によって霊が死んでしまった人類に、神は、再び霊(息)を注がれる時代が来るのです。いいえ、来ています。今はその時代です。聖霊が注がれる時代です。イエス・キリストは「聖霊によってバプテスマを授けるお方」です。

ですから、エゼキエルはさらにこう預言しました。息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ(37・9)息はこれに入った。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となったのです(37・10)

これは、イスラエル(ユダヤ人)だけのことではありません。現代のすべての人々に必要なことは、息(霊)が吹き入れられることです。これこそ、罪の結果、霊的には「干からびた骨」のようになってしまった人々を生き返らせる道です。

祈りましょう。息よ、四方から吹いてこい!と。聖霊様、四方から人々に吹いてくださって、霊的に死んでしまった人々を生き返らせてください……と。

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エゼキエル書 36章

2023年01月27日 | エゼキエル書
エゼキエル書 36章
あなた方に新しい心を与え、あなた方の内に新しい霊を授ける。わたしはあなた方の体から石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与える。
(36・26)


神は、ご自分の民を完全に捨ててしまわれたのでしょうか。そんなことはありません。神は、ご自分の名を尊ばれます。ご自分の名が汚されないためにも、イスラエルを再生し、聖なる神の名にふさわしい民として完成なさいます。

そのための四つのプロセスがあり、実際の歴史の中で実現して行きます。

(1)散らされたイスラエルを約束の地に連れ戻す

主はこう言われています。「わたしはあなた方を諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなた方の国に行かせる」(36・24)。捕囚の地バビロンから連れ戻すという段階です。このことは、紀元前538年に実現しました。

(2)罪からきよめる

「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める」(36・25)。偶像礼拝の罪によってすっかり汚れてしまった民をきよめるのです。

このことは、バビロンから帰還して約4百年後にイエス・キリストが来られ、十字架の死と復活をもって、人々の罪の代価を支払われることによって実現しました。そして、イエスを信じた人々は、水のバプテスマを受けて罪のきよめにあずかります。

(3)新しい霊(聖霊)を注ぐ

「わたしは新しい心をあなた方に与え、新しい霊をあなた方の内に授け、あなたがたの体から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなた方のうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」(36・26~27)

イエス様は復活後、天に昇り、イエスを信じる者たちに聖霊を注がれました。聖霊によって新しい心を与え、聖霊によって神の定めを守るように導かれます。

(4)聖なる国民としての完成と祝福

「あなた方は、わたしがあなた方の先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなた方の神となる」(36・28)。地上におけるイスラエルの繁栄がえがかれています。

しかし、この四つのプロセスは完全に成就したとはいえません。バビロンから帰還して集まっていましたが、イエスがキリストであることをイスラエルは拒絶したからです。この時点で、イエスを信じ、聖霊を受けたユダヤ人はわずかでした。

それどころか、ローマ帝国によってエルサレムは再び滅ぼされ、ユダヤ人は以後2000年近く離散の民となってしまいました。せっかくバビロン捕囚を終えて約束の地に集められていたのに、振り出しに戻ったようなものです。エゼキエルが預言した神のスケジュールは頓挫したのでしょうか。

一方、この救いの計画は異邦人に伝えられました。異邦人クリスチャンは上記の〝(2)〟と〝(3)〟を体験しています。神のスケジュールは、イスラエルから取り上げられ、異邦人(キリスト教会)が受け継ぐように変更されたのでしょうか。

そうではありません。今は異邦人の時代です。異邦人の完成なる時まで、一定の期間ですがイスラエルの救いは棚上げ状態となっています。神は、ご自分の御言を必ず実現なさいます。異邦人の時代が終われば、イスラエル(ユダヤ人)の救いが再び始まります。

神はもう一度、預言どおりにことをなそうと働いておられます。世界の動きを見るなら、すでに準備が整いつつあることが分かります。

その手始めとして、もう一度〝(1)〟の項目が実現しているからです。 ※1948年イスラエルが建国され世界中からユダヤ人が戻ってきている。

神の御言は、遠い昔の不確かな記録ではありません。今も御言は生きていて、御言の通りになるようにと確実に進んでいます。今度こそイスラエルが、

(2)イエスによる罪のきよめ、
(3)聖霊の注ぎ、そして
(4)神の聖なる国民としての完成へとなるはずです。

さて、新しく注がれる聖霊は、私たちの石の心を取り除くとあります。困難や試練を用いて、聖霊なる神は、私たちの心を砕かれます。それは石地のような心を耕して、御言という「種」をまくためです。

悔いし砕けし魂は、御言を受け止めるに相応しい耕された地です。神は、そこから豊かな霊的な収穫を得ようとなさっています。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制……といった収穫です。

終わりの時代に向けて、そんな収穫を携えて、天の祝宴にあずかることのできる人は幸いです。涙をもって種をまく人は、収穫をたずさえ喜びの声を上げながら帰って来るのです。

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エゼキエル書 35章

2023年01月26日 | エゼキエル書
エゼキエル書 35章
しかし主はそこにおられる。
(35・10)


ここで一旦、預言の対象は「セイル」に向けられます。セイルとはエドム人のことで、もとをたどればイスラエル民族とは兄弟関係です。

イスラエルの元の名はヤコブ。そのヤコブには双子の兄エサウがいますが、エドム人とはそのエサウの子孫たちのことです。ですから、血縁においても信仰面でも、とても近い存在です。

そのような民でしたが、信仰面では次第に異なった道を歩むようになりました。この35章でも指摘されているように、イスラエルの滅びを喜んだのです。

おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡したと指摘されている通りです(35・5 新改訳)

いつまでも敵意をいだきとは、かつて弟のヤコブが、兄エサウから長子の権を奪ったことに発している確執のことだと考えられます。先祖代々いだき続ける敵意の根深さを知らされます。 ※ヤコブとエサウ自身は和解をなしたが、その子孫たちにはわだかまりが残っていたのだろう。憎しみの継承は簡単だが、和解の継承は難しい。

そのようなわけで、バビロンによって攻撃されている最中、漁夫の利を得るかのように、エドム(セイル)の支配を広げたというのです。そして、彼らは誇らしげに言ったのです。「これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう」と(35・10)。しかし……です。

そんな悪巧みをしているその最中に、主はそこにおられるのです(35・10)。どんな状況の中にも〝主がおられる〟ことを忘れてはなりません。わたしは生きている(35・11)と言われる主は、「隠れたところで」「隠れたことを」ご覧になっている神です。

こうも記されています。エドム人らが神に対して高ぶり、あざけりの言葉を吐いたときも ――誰も聞いていないと思っていたのだが――、わたしはそれを聞いたと言われるのです(35・13)

私たちは、このような神と共に生きています。何も立派ぶる必要などありません。すべては神の目には明らかなのですから……。

むしろ、正直にありのままを申し上げ、謙遜に歩むことこそ「そこに主がおられる」「主はそれを聞かれる」という場に相応しい生き方です。

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エゼキエル 34章

2023年01月25日 | エゼキエル書
エゼキエル 34章
主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
(34・11)


イスラエルの民(ユダヤ人)はバビロンによって連れ去られ、各町々に散らされて行きました。どこにだれが行ったのか。だれも知る由もありません。

しかし、神はご存知です。地の果てにまで散らされようとも、海の底にまで沈められようとも、神は、ご自分の羊を捜しだされるお方です。まことの羊飼いのようなお方です。

神の御言はさらにつづきます。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。(34・12)

しかも、捜し出すだけではありません。彼らを養い育てるといわれます。

わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。(34・14~15)

このことは、いつ、だれによって実現したのでしょうか。それはイエス・キリストです。イエス様は言われました。

「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしは良い羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる」と(ヨハネ10・10~11)

イエス様こそ、私たちの本当の羊飼いです。このお方に従います。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネ10・27)。「羊はその声を知っているので、彼について行くのである」(同10・4)

あなたは羊飼いであるイエス様の声を知っていますか。心をしずめて、主の御声を聞き取ろう。

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

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エゼキエル書 33章

2023年01月24日 | エゼキエル書
エゼキエル書 33章
わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。
(33・7 新改訳)


敵がやってくるのに、見張り人が危険を見逃したり、見ても伝えなかったら、その責任は重いように、バビロンによって滅びることを知りながら、それを伝えないなら、それはエゼキエルよ、あなたの責任が問われるのだと言われました。 ※口語訳ではイスラエルの家を見守る者とすると翻訳。

そこで、エゼキエルはエルサレム滅亡の危機を伝え、悔い改めるよう警告するも、返ってくるのは人々からの反発や顰蹙(ひんしゅく)でした。「見張り人」としての使命はなんと重く辛いことでしょう。

今日の聖句はエゼキエルに与えられた使命であって、私のことではないと言えるでしょうか。現代の見張り人とはだれのことでしょうか。気が重いのですが、イエス・キリストを信じる〝私のこと〟ではないかと問われるのです。

私たちは、世の終わりが来ることを知っています。最後に真正なる神の審判があることを知っています。そのさばきの権をお持ちなのが、私たちの主イエス・キリストであることを知っています。そのような終わりの時が来るというのに、それを伝えないなら、居眠りをしている見張り人ではないのか。そんな問いかけを受けるのです。

町の随所に「世の終わりは近い。悔い改めてイエスを信ぜよ」といった主旨の黒地の看板を貼って行くクリスチャングループがいます。また、都会の雑踏の中で、その旨の録音メッセージを拡声器から流しながら立っている人々がいます。

そのような勇気や大胆さの無い私には、彼らのことを論じる資格がありません。ただ、伝え方には工夫と配慮が必要だと思います。

反発を受け人間関係をこじらせてでも大胆に伝えるのか。あるいは、配慮をもって伝えるのか。どちらが正しいのか私には分かりません。万事を益となさる主を信頼して、それぞれの達し得たところに従って見張り人として働かなければなりません。

旧約における神の働きには「預言者」と「祭司」がありました。大胆に神の御言を語って民が神につながるように教えた預言者と、弱さのある民を取りなしつつ神に結びつける祭司の働きです。

両方の働きが必要です。ブルドーザーのように福音を伝えたパウロのような働きもあれば、丁寧(ていねい)にコーチングをしながら人材を育てたバルナバのような働きも必要であったように……。

現代の見張り人として、私はどのように働くべきか求めて祈ります。主イエス様。どうか、私がイエスの証人として歩むことができますように。聖霊様の圧倒的な助けと満たしを与えてください。

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エゼキエル書 32章

2023年01月23日 | エゼキエル書
エゼキエル書 32章
人の子よ、エジプトの王パロのために、悲しみの歌をのべて、これに言え、あなたは自分を諸々の国民のうちの獅子であると考えているが、あなたは海の中の龍のような者である。あなたは川の中に、はね起き、足で水をかきまぜ、川を濁す。
(32・2)


エジプトの滅亡預言の最後です。

栄華を誇ったエジプトでしたが――それは諸国の中の獅子のような存在だった――、しかし神は海の中の龍と表現なさっています。 ※新改訳では「わに」と翻訳。「龍」とも訳せる。

エジプトの滅びは、龍であるサタンの滅びに通じるかのように暗示されています。それを裏付けるように、エジプトが滅びる時は、全地が暗くなると預言されています。

わたしはあなたを滅ぼす時、空をおおい、星を暗くし、雲で日をおおい、月に光を放たせない。わたしは空の輝く光を、ことごとくあなたの上に暗くし、あなたの国を闇とすると主なる神は言う。(32・7~8)

この預言のとおり、主イエスが十字架で死なれたとき ――それは、サタンの罪と死のわざを滅ぼされた時―― 太陽は暗くなり、暗やみがおおったと記されていますが、龍にたとえられたエジプト滅亡の様子を想起させます。 ※イエスの十字架の死によって悪魔はさばかれ滅ぼされた。ヨハネ12・31、ヘブル2・14、Ⅰヨハネ3・8参照。

エジプトの最期 ――バビロン軍に打ち破られる―― それは、周囲の国々を「心痛ませ」「おののかせ」「打ち震えさせる」ことになりました(32・9~10)

エジプトの滅びは、文明を誇り、軍事力を誇り、全地の獅子のようにふるまったとしても、神をあなどる者の最期を見るようです。現代でいえば超大国アメリカのような国が滅びるほどの衝撃です。

そんなことがあり得るだろうか。

エゼキエルの時代の人々も信じられないような預言でした。しかし、長い歴史の中でいくつもの大国が滅びて行きました。先の2011年の東北大震災でおきた原発事故も、一歩間違っていれば日本は滅んだかも知れません。国が滅亡することなど想像の世界でしたが、あの時、私は現実味をもって感じました。

神の力強い御手のもとで、謙遜にならなければなりません。


エゼキエル書 31章

2023年01月21日 | エゼキエル書
エゼキエル書 31章
これは、たけが高くなり、その頂
(いただき)を雲の中におき、その心が高ぶりおごるゆえ……(31・10)


エジプトについての預言が続きます。ここではエジプトがレバノンの香柏(杉の木)にたとえられています。※新改訳聖書では、「見よ、アッシリヤはレバノンの杉」とあり、エジプトもそれと同じだと翻訳。

レバノン杉といえば、その地方で最も高価ですぐれた木材です。まっすぐに力強く伸びるレバノン杉は、力強く生長したエジプトをたとえるのに相応しい樹木といえるでしょう。

周囲の一般の杉の木からも羨望の的でした。否、神に選ばれし民イスラエルにもこのような立派な杉の木はありませんでした。そのことを次のように預言しています。

神の園の香柏も、これと競うことはできない。もみの木もその枝葉に及ばない。けやきもその枝と比べられない。神の園のすべての木も、その麗しきこと、これに比すべきものはない。わたしはその枝を多くして、これを美しくした。神の園にあるエデンの木は皆これをうらやんだ。(31・8~9)

「神の園の香柏(杉)」とはイスラエルのことです。神の民でさえうらやむほどの力と繁栄を手にしたのがエジプトでした。

しかし、そのエジプトも彼の丈は高くされ、その梢(こずえ)を雲の間に伸ばしたので、心はおごり高ぶったと主は指摘なさっています(31・10 新共同訳)

どんな立派な杉の木でも、大地の栄養、適度な日照と降雨がなければ成長できません。神からの恵みの水によって生かされているのです。「これはその大きなことと、その枝の長いことによって美しかった。その根を多くの水に、おろしていたからである」と、その恵みを指摘しています(31・7)

しかし、神の恵みを忘れて、雲の間から顔を出すようにして高慢になったエジプトでした。

高ぶりは神への敵対となることを忘れてはなりません。神の御前にへりくだることを学んだ人は幸いです。高慢の鼻をへし折られた経験をした人は、何という祝福でしょう。

そのような人は、神の御前に悔いし砕けし魂をささげることができるからです。

話しは変わりますが、エンジェラ・エルウェル・ハント作の三本の木という物語があります。それは、いつかは偉大な木になりたいと願う〝三本の木〟のそれぞれの生涯を描いた物語です。

第一の木は、王の宝石箱になることを夢見ていたが、家畜小屋の飼い葉桶になった。ところが、クリスマスの夜、嬰児(みどりご)イエスをお入れすることになった。世界で最高の宝をお入れしたのだ。

第二の木は、大きな船になることを夢見ていたが、ガリラヤ湖の漁師が使う小舟になった。ところが、キリストがその小舟に乗って御業をなさった。王なるキリストをお乗せしたのだった。

第三の木は、人々が見上げる大木になることを夢見ていたが、変哲(へんてつ)もない角材として切り出された。ところが、十字架の木となってキリストをおつけすることになった。それを多くの人々が見上げて、キリストを賛美したのである。いずれの木も、思い描いたとおりにはならなかったが、キリストのために用いられた物語です。そこに共通しているのは、あのエジプトのような高ぶったレバノン杉ではなく、悔いし砕かれた木であったことです。

「高ぶり」の反対語は何ですか。「謙遜」「へりくだり」もそうですが、私は「仕える者になりなさい」といわれた主イエスの御言が思い出されます。


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エゼキエル書 30章

2023年01月20日 | エゼキエル書
エゼキエル書 30章
彼らは、わたしが主であることを知る。
(30・26)


エゼキエル書で何度もくり返される言葉です。

彼らは、わたしが主であることを知る」。神がエジプトを撃たれるときも、「彼らはわたしが主であることを知る」のです。実際には、バビロンによってエジプトが倒れるのですが、その時、「彼らはわたしが主であることを知る」のです。

本当は、そのようになる前に、主こそ神であることを知るべきです。

神がエジプトをさばかれることは、やがて来たらんとする全世界のさばきを表しています。イエス・キリストはさばきの権をもって再臨なさいます。その時になってだれもが、イエス様が神であることを知るようになります。

でも、それでは遅いのです。

主イエスが来られる前に「イエスは主です」という告白をもって、さばきを免れるようにと聖書は語っています。あなたはご存知でしょうか。イエス・キリストこそ主であることを……。あなたの若い日にあなたの創造主なる神を知るべきです(伝道12・1)。

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エゼキエル 29章

2023年01月19日 | エゼキエル書
エゼキエル 29章
主なる神はこう言われる、エジプトの王パロよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。
(29・3)


29~32章はエジプトに対する預言です。

旧約時代のエジプトといえば世界の中心でした。当時の歴史の主役と言ってもよいでしょう。しかし、それほどに栄華をきわめたエジプトに対して、神である主はわたしはあなたの敵となると言われたのです。※新改訳では「わたしはあなたに立ち向かう」。

神が敵となられる……これほど恐ろしいことが他にありません。無知な人は「人間を敵とすること」を恐れても、「神を敵にまわすこと」は平気です。本当に恐ろしいことは、神が敵となってしまわれることです。

しかし、逆に、神が私たちの味方となってくださるなら、いったいだれが敵対し得ましょうか(ローマ8・31)。こんなに力強いことは他にありません。

エジプトはなにゆえ神を敵にまわしてしまったのでしょうか。それはエジプトの高慢な態度ゆえです。彼はこう語ったのです。ナイル川は私のもの、私がこれを造った(29・3)

エジプトはナイル川によって繁栄した国です。川がもたらす栄養分が大地を潤し、豊かな作物をもたらしました。彼らはナイル川を誇り、しかも、自分たちがその川を造ったと豪語したのです。

創造主である神を認めない態度。この高ぶりに対して、神は敵となられるのです。先のツロに対しても同じでした。高ぶりに対して、神が敵となられることを忘れてはなりません。

この後、エジプトは歴史の表舞台の一線から退くようになります。徐々にその影響力を失って行きます。諸々の国よりも卑しくなり、再び諸々の国民の上に出ることができない。わたしは彼らを小さくするゆえ、再び諸々の国民を治めることはない(29・15)

その後の歴史が、神の御言の確かなことを裏付けています。

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エゼキエル書 28章

2023年01月18日 | エゼキエル書
エゼキエル書 28章
あなたは心に高ぶって言う、『私は神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
(28・2)


さらに神は、ツロの王に向けて語られます。先にも述べましたように、ツロの町は交易による富によって繁栄していました。しかし、ツロの王の心には高ぶりが生じてきました。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯したのです(28・16)。だれもが陥りやすい道です。物事が順調に行くと自分の能力を誇り、自分を神のように勘違いするのです。

こうして、ツロの王も堕落してしまい、冒頭の聖句のように「私は神である、神々の座にすわって、海の中にいる」と豪語するようになったのです。 ※「海の中にいる」とは、ツロが陸地から離れた出島に建てられた町であったことを意味している。

人が神のようになることは成長でも出世でもありません。それは堕落です。「あなたは人であって、神ではないのです(28・2)

自分の領域を守らないことが堕落です。それを罪といいます。人は被造者であって神ではない。被造者は創造主なる神に仕えるのが〝分〟であって、その分をわきまえないことが堕落です。

神に仕えるべく天使も同様。ところが神の座につこうとして堕落した天使たちがいます。それが悪魔とかサタン、そしてその仲間たちです。

悪魔は、エデンの園にいたアダムとエバにも自分と同じあやまちをさせました。善悪を知る木の実を食べたら、あなたも神のように賢くなれるのだ…と。また、悪魔にだまされた人類は、バベルの塔を建築して、自分たちは神の御座に近づこうとしました。

バベルの塔は文明の偉大な業績ではありません。自分を神とし、神を認めない文明……。それがどんなに裕福で快適な社会であっても、神を礼拝しない世界は堕落です。人としての〝分〟を失った姿です。

このように、ツロの王に対する預言は、自分を神とするすべての人々に向けられています。そして、その背後で、自分も神の座につこうとしたサタン(悪魔)に対する預言でもあります。

イザヤ書14章では、堕落したバビロン王に対する預言になぞらえて悪魔に言及されていました。「いと高き方のようになろう」と、自ら神の座に着こうとした悪魔の姿でした。そしてエゼキエル書では、高ぶりの極致に達したツロの王に対する預言になぞらえて、悪魔の堕落が告げられています。

悪魔にだまされてはなりません。人としての分をわきまえることからスタートしよう。「なんじの創り主をおぼえる」ことに基礎を置くことから始めよう。

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エゼキエル書 27章

2023年01月17日 | エゼキエル書
エゼキエル書 27章
人の子よ。ツロについて、哀歌を唱えよ。
(27・2)


ツロの町の繁栄はまことに見事なものでした。ツロの人々が「私の美は完全である」と自慢するほどに、栄華をきわめていました。

先の26章でも述べたように、彼らは海洋民族であって、貿易船で地中海を行き巡り、世界中の金品を商(あきな)いし、ありとあらゆる富が行き交っていました。その交易で得た富と繁栄は人々を魅了しました。

ツロの交易によって、彼らと取引をする国々もまた繁栄を享受しました。あなたの商品が海を越えてきた時、あなたは多くの民を飽かせ、あなたの多くの財宝と商品とをもって、地の王たちを富ませたとある通りです(27・33)。 ※彼らの富の豊かさは、27章に記されている数々の金品に表されている。

しかし、そのような富と、富を主人とするツロは滅ぼされてしまうのだと、主は語られました。ツロに対して讃歌ではなく、哀歌を唱えよと主は命じられました。ツロの人々は自らに讃歌を惜しまない人々でしたが、預言者には哀歌を告げられました。

世の終わりを預言したヨハネの黙示録でも、このような富と富を主人とする都が滅びて行くさまがえがかれています(18章)。それは地上の富と繁栄の美酒に酔いしれる大バビロン滅亡の預言です。

この大バビロンは、世の富を主人とする女として描かれています。彼女は偽りの主人である富と結ばれることによって、贅の限りを尽くした女です。真の主人である神を裏切り、富を愛し、仕え、礼拝する姿は霊的姦淫のきわみの姿です。それゆえに、神は、彼女(大バビロン)のことを「大いなる大淫婦」と呼んでおられます。

ツロの滅亡は、そんな「大いなる大淫婦バビロン」の滅亡を想起させる出来事でした。

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エゼキエル書 26章

2023年01月16日 | エゼキエル書
エゼキエル書 26章
あなたは網を張る場所となり、再び建てられることはない
(26・14)


26~28章はツロについての預言です。

ツロとはフェニキヤ人の港町で、最も繁栄していた貿易港でした。フェニキヤ人は海洋民族で、彼らは地中海をわが庭のように駆け巡り、貿易によって豊かな富と繁栄を謳歌していました。

彼らの首都であるツロの町の中心は、陸から離れた出島にあったので、外敵を寄せ付けませんでした。そのため、ツロの人々は、エルサレム陥落を対岸の火事のごとく見てあざけっていました(26・2)。 ※「あざけりの座につく者」は悪魔的な態度であり、神が忌み嫌われることは、先の25章のアンモン人の場合と同様である。

しかし、この富を主人として高ぶる町も、やがて滅びるのだと語られています。冒頭の聖句のように、そこは網を張る場所になるのだ……と。貿易港の華やかさは廃れ、漁師がのどかに網を打つ様子が預言されています。まさにこの預言の通り、現在のツロは平凡な漁港となっています。

今は栄えているようでも、富を主人とする民も国もやがて衰えて行きます。ツロのみならず、世界の歴史がそれを物語っています。主である神だけが主人とするのに相応しいお方です。 ※黙示録でも、富を主人とする偽りの繁栄 ――聖書はそれを「バビロン」と呼んでいる―― が滅びて行く姿が預言されているが、ツロの凋落はその予兆のように思われる。

このように主によって撃たれたツロの町ですが、そのことによって、「聖書の神こそ主である」と知る者が出てきます。

それは、主イエスに娘のいやしを熱心に願って求めたツロ・フェニキヤの婦人です。しかも、彼女の信仰はイスラエル人の中にもないとイエスをして言わしめるほどでした。

神の厳しい御怒りを受けたツロでしたが、そのさばきの中から、彼女のような麗しい信仰の花が咲き出でる恵みを感謝しよう。


エゼキエル書 25章

2023年01月14日 | エゼキエル書
エゼキエル書 25章
あなたはわが聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味であると言った。
(25・3)


第25章から32章まで「周辺諸国について」の預言が語られています。

エゼキエル書は三つの内容になっています。
 ①イスラエル(ユダ)の罪とそれに対するさばき。
 ②周辺諸国の罪とそれに対するさばき。
 ③さばきの後の回復。
これはイザヤ書やエレミヤ書でも同じでした。

さて、ユダヤ人が捕囚となって惨めな姿をあらわにしたとき、周辺の民はどのように反応したのか。ユダヤ人たちが誇りとしていた神殿が滅ぼされるのを見て、周辺の民は何を考えたのか。

冒頭の聖句のように、アンモンアモンは、「聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味である」とあざけったのです。

そのあざけりはひどく手をうち、足を踏み、心に悪意を満たして喜んだのです(25・6)。ざま~見ろ!と言わんばかりに、大はしゃぎしたのです。

他者の失敗をあざ笑うのは、人の心の闇に潜む悪魔的な反応です。

詩篇でも冒頭から、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は幸いである」と戒めています(詩篇1・1)

神がイスラエル(ユダ)を厳しく取り扱われるのは、異邦人への訓戒とするためでもあります。イスラエルは神の民として選ばれましたから、祝福されるのも最初ですが、叱責されるのも彼らが最初です。

イスラエルは人類の中で長男のような立場です。あなたは、お兄ちゃんが叱られているのを見て、あざ笑う弟ですか。それとも、自分にも同じ過ちがないかと襟を正す弟ですか。

アンモンような弟になってはならない。ちなみに、アンモン人は、アブラハムの甥ロトの子孫です。まさに、弟分のような民であったのですが、神から叱責されるものでした。

このように周辺諸国にも厳しいさばきがもたらされるのですが、そこで終わらないのが慈愛に満ちた神です。「見よ、神の慈愛と峻厳とは」と言われるとおりです(ローマ11・22)。そんな彼らも、この厳しいさばきの後に、「主こそが神であることを知るようになる」とくり返し述べておられます。

自分(自国)だけ祝福されて、他者(他国)が滅びることを喜ぶのですか。他者がさばかれるのをほくそ笑むのですか。自分だけが厳しくされていると不満を言うのですか。いずれも、神の本当の愛を知らない人の反応です。神の慈愛と峻厳を知ろう。

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