はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。(28・31)
ローマに到着したパウロは囚人の立場ではありましたが、住む場所が用意され、比較的自由に面会ができ、しかも番兵付きでした(28・16)。逆境の中にも、神はすばらしいプレゼントをしてくださいました。
さて、パウロをはじめ使徒たちが伝えたのは「神の国の福音」です。もちろん主イエス様を伝えたのですが、神の国とセットで語られていることに注目したいと思います。
パウロは「神の国のことを証しし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて」語りました(28・23)。そして、使徒行伝の最後の文も「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」のです(28・31)。これはパウロだけの特徴でしょうか。そうではありません。
イエス様が語られたのも「神の国の福音」です(ルカ4・43)。主は、神の国が近づいたことを語られ、その国の祝福にあずかるために罪を悔い改めて救いを得よとお教えになりました。 ※「神の国の福音」はマタイでは「御国の福音」。
神の国が近づいています。その御国の王はイエス様です。その国は地上の日本とか韓国といった物理的な国の領域を超えた、霊的な国です。イエスも、「わたしの国はこの世のものではない」と証言されました(ヨハネ18・36)。
イエスが復活なさったあと、弟子たちに語られたことは「神の国」についてでした(使徒1・3)。使徒たちの宣教も、この「神の国」と「イエスの救い」を伝えることとは表裏一体でした。
サマリヤで伝道したピリポは、神の国とイエスの御名を宣べ伝えました(使徒8・12)。エペソで伝道したパウロも3ヶ月の間、大胆に神の国について論じました(使徒19・8)。
パウロは自分のことを「御国を宣べ伝えたこの私」と表現しました(使徒20・25)。このように、使徒たちが伝えたのは「神の国」なのです。
イエス様は王です。王が来るとは国が来ることです。王のない国はないし、国のない王はありません。王と国は一体です。
こうも言えます。イエス様が十字架で死なれたことによって、私たちの罪が赦(ゆる)されました。この救いは内面的です。しかし、福音は内面的な救いで終わりません。福音がもたらす外面的な救いがあります。それは神の国です。
救いが私の内側だけではなく、外側にも広がって行きます。救われた環境や生活の広がり……、それが神の国です。
王であるイエス様はもう一度来られます。
2千年前に来られたイエスは十字架で死ぬために来られました。しかし、再び来られるイエスは神の国の王として来られます。すべてを裁き、精算するために来られます。
神の国はイエスが再び来られるとき完成しますが、それまでクリスチャンは指をくわえて待っているのではありません。イエス様は神の国は遠くにあるものではないと言われました。近づいているのだ。いや、すでにここに来ているのだといって、神の国を見せてくださいました。
どのようにして見せてくださいましたか。
イエスは罪をゆるすだけでなく、「起きて床を取り上げて歩け」と命じ、いやしを現されました。また、病や悪をもたらす悪霊を追い出されました。そして、「悪霊を追い出していることは、神の国がここに来ている証拠なのだ」と言われました(ルカ11・20)。
また、イエス様は罪人らと共に食事をなさいました。すべての隔ての中垣を取り除いて、神との交わりの喜びを見せてくださいました。
このようにして、イエスは神の国の祝福を見せてくださったのです。
主の祈りで、「御国が来ますように」と祈る私たちの任務は、神の国の祝福を世に現すことです。私たち教会は不完全な者たちですが、だからこそ聖霊の助けを受けて、その任務を果たせるように祈ります。
神の国の祝福を100パーセント現すことができなくても……サタンが支配する世界に私たちは置かれているのですから……だからこそ、聖霊の助けを受けなければなりません。
そして、御国の祝福の何十パーセントかでも現すことができますように祈らなければなりません。この祈りと働きは、使徒行伝の時から今日にいたるまで受けつがれてきた使命です。
2千年前、バプテスマのヨハネがイエスの来られる道を用意したように、今度は、私たちキリスト教会が、神の国が来るための道を用意しています。そして、時が良くても悪くても、「神の国は近づいた。悔い改めてイエスを信じよ」と宣べ伝える使命を受けています。
これが、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなた方をつかわす」と言われた主イエスからの使命です。
祈りましょう。聖霊なる神の助けを得て、この務めを全うできますように……。
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