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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

使徒行伝 28章

2022年04月22日 | 使徒行伝
使徒行伝 28章
はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。(28・31)


ローマに到着したパウロは囚人の立場ではありましたが、住む場所が用意され、比較的自由に面会ができ、しかも番兵付きでした(28・16)。逆境の中にも、神はすばらしいプレゼントをしてくださいました。

さて、パウロをはじめ使徒たちが伝えたのは神の国の福音です。もちろん主イエス様を伝えたのですが、神の国とセットで語られていることに注目したいと思います。

パウロは神の国のことを証しし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて語りました(28・23)。そして、使徒行伝の最後の文も「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」のです(28・31)。これはパウロだけの特徴でしょうか。そうではありません。

イエス様が語られたのも「神の国の福音」です(ルカ4・43)。主は、神の国が近づいたことを語られ、その国の祝福にあずかるために罪を悔い改めて救いを得よとお教えになりました。 ※「神の国の福音」はマタイでは「御国の福音」。

神の国が近づいています。その御国の王はイエス様です。その国は地上の日本とか韓国といった物理的な国の領域を超えた、霊的な国です。イエスも、「わたしの国はこの世のものではない」と証言されました(ヨハネ18・36)

イエスが復活なさったあと、弟子たちに語られたことは「神の国」についてでした(使徒1・3)。使徒たちの宣教も、この神の国イエスの救いを伝えることとは表裏一体でした。

サマリヤで伝道したピリポは、神の国とイエスの御名を宣べ伝えました(使徒8・12)。エペソで伝道したパウロも3ヶ月の間、大胆に神の国について論じました(使徒19・8)

パウロは自分のことを「御国を宣べ伝えたこの私」と表現しました(使徒20・25)。このように、使徒たちが伝えたのは「神の国」なのです。

イエス様は王です。王が来るとは国が来ることです。王のない国はないし、国のない王はありません。王と国は一体です。

こうも言えます。イエス様が十字架で死なれたことによって、私たちの罪が赦(ゆる)されました。この救いは内面的です。しかし、福音は内面的な救いで終わりません。福音がもたらす外面的な救いがあります。それは神の国です。

救いが私の内側だけではなく、外側にも広がって行きます。救われた環境や生活の広がり……、それが神の国です。

王であるイエス様はもう一度来られます。

2千年前に来られたイエスは十字架で死ぬために来られました。しかし、再び来られるイエスは神の国の王として来られます。すべてを裁き、精算するために来られます。

神の国はイエスが再び来られるとき完成しますが、それまでクリスチャンは指をくわえて待っているのではありません。イエス様は神の国は遠くにあるものではないと言われました。近づいているのだ。いや、すでにここに来ているのだといって、神の国を見せてくださいました。

どのようにして見せてくださいましたか。

イエスは罪をゆるすだけでなく、「起きて床を取り上げて歩け」と命じ、いやしを現されました。また、病や悪をもたらす悪霊を追い出されました。そして、「悪霊を追い出していることは、神の国がここに来ている証拠なのだ」と言われました(ルカ11・20)

また、イエス様は罪人らと共に食事をなさいました。すべての隔ての中垣を取り除いて、神との交わりの喜びを見せてくださいました。

このようにして、イエスは神の国の祝福を見せてくださったのです。

主の祈りで、「御国が来ますように」と祈る私たちの任務は、神の国の祝福を世に現すことです。私たち教会は不完全な者たちですが、だからこそ聖霊の助けを受けて、その任務を果たせるように祈ります。

神の国の祝福を100パーセント現すことができなくても……サタンが支配する世界に私たちは置かれているのですから……だからこそ、聖霊の助けを受けなければなりません。

そして、御国の祝福の何十パーセントかでも現すことができますように祈らなければなりません。この祈りと働きは、使徒行伝の時から今日にいたるまで受けつがれてきた使命です。

2千年前、バプテスマのヨハネがイエスの来られる道を用意したように、今度は、私たちキリスト教会が、神の国が来るための道を用意しています。そして、時が良くても悪くても、「神の国は近づいた。悔い改めてイエスを信じよ」と宣べ伝える使命を受けています。

これが、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなた方をつかわす」と言われた主イエスからの使命です。

祈りましょう。聖霊なる神の助けを得て、この務めを全うできますように……。

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使徒行伝 27章

2022年04月21日 | 使徒行伝
使徒行伝 27章
パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。(27・24)


パウロがカイザル(ローマ皇帝)に上訴したことで、護送の任務を受けた百卒長ユリアスの一団はローマに向けて出立しました。この一団には、パウロ以外にも他の囚人たちも護送されていました(27・1)

当時の船旅は気候に左右される風まかせの旅です。特に地中海の冬は船旅には危険な季節なので、旅をひかえるべきだったのですが、この旅は大丈夫だとする船長と船主の意見を信頼して、百卒長ユリアスは旅を急ぎました。

船長や船主は一刻も早く荷を目的地に運んで船賃を稼ぎたかったことでしょうし、百卒長も、囚人を護送するのにを長い期間をかけたくありませんでした。

そこで満を持して出帆したのですが、ユーラクロンという地中海特有の台風に遭遇してしまいました。あまりにも激しい暴風雨であり、その時の様子を聖書は次のように記しています(27・18~20)

私たちは、暴風にひどく悩まされつづけたので、次の日に、人々は積荷を捨てはじめ、三日目には、船具までも、手ずから投げすてた。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、私たちの助かる最後の望みもなくなった」。

積み荷もみな投げ捨てたのは、船が重すぎて沈んでしまうからです。

人生の嵐に遭遇したとき、私たちは、積み荷も船具も捨ててしまわなければならないような状況があります。人生の重荷、人間的なプライド、世に対する未練等々、これらを投げ捨てなければならないような人生の嵐があります。それを持っていると、その重みで、人生の船もろとも沈んでしまうからです。

しかし、すべてを投げ捨てる事態になっても、なおも残るものがあります。それは「神の御言」すなわち「神の約束」です。何もかも無くしても、神の御言は必ず残ります。そして実現します。

自分が思い描いていた人生設計や思惑を投げ捨てても、なお残るもの……それは、神の御言であり神の約束です。

この時も、すべてを投げ捨てた船の中で、神の御言がパウロに与えられました。「パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」(27・24)

この「恐れるな」という神の御言が頼りです。パウロはこの御言に信頼しました。神が大丈夫だと言ってくだされば、状況がどんなであっても、神の御言の通りになるのです。

さて、この船旅には、神の御言と相対(あいたい)するようにして、人々の思惑が交錯しています。そんな人間的な思惑を、船具と一緒に投げ捨てなければなりませんでした。どんな思惑だったのでしょうか。

第一の思惑は、船旅を急いだ船主や船長の思惑です。彼らは積み荷のことを考えていました。

第二の思惑は、水夫らの思惑です。漂流14日目になり、水深30~40メートルの所まで来た時のことです。遠くに見える島陰を目指して、水夫たちは小舟に乗って逃げ出そうとしました。

水夫らの思惑はこうです。どっちみち乗員2百数名全員が助かる見込みなどない。ならば、自分たちだけが助かろう。陸地に近い今がチャンスだ。船が座礁する前に逃げだそう……と考えたのです。

もし彼らがいなくなれば、船を操作できませんから、船も乗員も島にたどりつけません。しかし、パウロがそれを発見して、逃亡は未遂に終わりました。それをパウロに発見させてくださったのは神です。

第三の思惑は、兵卒たちの思惑です。船は浅瀬に乗り上げてしまったため、それぞれ泳いで上陸するしか方法がありません。ところが囚人たちが泳いで逃げる可能性がありました。

当時のローマ法では、囚人を逃がしたら、それを管理した兵卒が囚人の刑を代わりに担うことになっていました。死刑囚を逃がしたら、自分が死刑になります。だから、兵卒たちはいっそのこと囚人を殺してしまおうと考えたのです。兵卒たちの思惑どおりになっていれば、パウロも他の囚人たちと諸共に殺されるところでした。

しかし、百人隊長ユリアスの判断でその計画は退けられました。彼にパウロを救いたいという思いを起こさせてくださったのは神です。

人はそれぞれの思惑があります。しかし、神のご計画は人の思惑に振り回されることなく確実に進みます。「あなたはカイザルの前に立たなければならない」と言われた神の御言だけが最後まで残ります。

神の御言は、どんな嵐の中でも捨てられたり沈んだりしません。神の御言は、人の思惑や計画によって挫折することもありません。船に乗っていた人々は、それぞれの思惑を胸にいだいて進めましたが、失敗に終わりました。しかし、パウロは神の御言を受けて行動しました。御言どおりになると信じた者の幸いを見ます。

祈りましょう。私の思惑どおりではなく、神の御言どおり、この身になりますように……。

 
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使徒行伝 26章

2022年04月20日 | 使徒行伝

使徒行伝 26章
アグリッパがパウロに言った、「お前は少し説いただけで、私をクリスチャンにしようとしている」。(26・28)


ユダヤの王ヘロデ・アグリッパ2世が、カイザリヤにいるユダヤ総督フェストを表敬訪問した時のことです。 ※ローマ帝国の支配は、各地の王制を容認しつつも、ローマ帝国の息のかかった王を擁立し、その上に総督府をおいて支配していた。

いま話題のパウロとはどんな人物なのか。興味をもったアグリッパ王は、カイザリヤ訪問を機に、パウロと会ってみようと思ったのです。

こういうわけで、パウロは捕らわれの身でありながら、王に福音を語る機会を得ました。通常ではあり得ない出会いです。神は、パウロを囚人とすることで、王に救いの機会をお与えになりました。

このアグリッパ王は、ヘロデ・アグリッパ1世の息子です。父ヘロデ・アグリッパ1世は、ヤコブを剣で切り殺し、それが民衆の意にかなったのでペテロをも捕らえた王です(12・1~3)。しかし、その高慢ゆえに神に打たれて死にました(12・20~23)。 ※神は小さな毒虫を用いてヘロデ・アグリッパを打たれた。

そのような父の最期を見せられても、息子のアグリッパ王は悔い改めませんでした。しかし、それでもなお、哀れみ深い神は、今度はパウロを遣わして福音を聞く機会をお与えになったのです。

結果は、パウロの無罪を認めはしたものの(26・32)お前は少し説いただけで、私をクリスチャンにしようとしていると言ってイエスを受け入れませんでした(26・28)

神は、ヘロデ王家に悔い改めと救いの機会を再三にわたって提供なさってきました。ここで、ヘロデ王家の歴史を振り返ってみましょう。

ヘロデ・アグリッパ2世の曾祖父にあたるのがヘロデ大王です。このヘロデ大王とは、東方から来た博士らによって、キリスト誕生の知らせを聞いた人です。このように、神は、ユダヤの王に福音がとどくようになさいました。国民に対する王の影響力は大きいからです。

しかし、それにもかかわらず、曾祖父であるヘロデ大王はキリストを拒絶し、キリストが生まれたとされるベツレヘム付近の2歳以下の幼児を皆殺しにしました(マタイ2・1~18)

それでも神は、ヘロデ王家に対する宣教をあきらめることをなさいません。続いて神は、ヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスに悔い改める機会をお与えになりました。

この時は、バプテスマのヨハネを遣わされました。バプテスマのヨハネは、アンティパスとヘロデヤとの不倫問題を指摘し、悔い改めてキリストを迎える準備をするように説きました。

しかし、アンティパスはバプテスマのヨハネを捕らえ、彼の首を切り落としました(マルコ6・14~29)。アンティパスは非常に悩みながらも、ヨハネの話を聞いていたにも関わらず、最終的には悔い改めの機会を逃してしまいました。

このように神は、ヘロデ王家4代にわたって救いの御手を差し出してこられたのです。

アグリッパ王は、「少し説明したぐらいで私をクリスチャンにしようとするのか」と言ってのけましたが、これが〝少し〟でしょうか。曾祖父の世代から神は語りかけておられたのです。

少しの説明であろうが、多くの説明であろうが、救いの機会を逃してはなりません。悔い改めの機会を見逃してはなりません。

祈りましょう。主よ、少しの御言によってでも、私が主の道を選び取り、いのちと祝福を選び取ることができるようにしてください。そして、いつでも悔い改めることのできるやわらかい心に導いてください。

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使徒行伝 25章

2022年04月19日 | 使徒行伝
使徒行伝 25章
わたしはカイザルに上訴します。(25・11)


ユダヤ主導の裁判ではらちがあかず、膠着(こうちゃく)状態が続いたため、パウロは拘留されたままで、総督ペリクスのもとで2年間も放っておかれたままでした。

その理由は、先に見たように、前任のペリクス総督がユダヤ人の歓心を買うための手段として利用したわけです。しかし、新総督フェストの着任によって事態が動きはじめした。パウロは思いきってカイザルに上訴したのです。日本でいえば、地方裁判所の判決を不服として高等裁判所に、そして最高裁へと訴えるようなものです。

ペリクスのもとで2年間も棒に振ったうえに、さらに上訴して拘留状態を続けることになります。無駄に時間が過ぎて行くような焦りさえ感じられたのではないでしょうか。

「エルサレムには行かない方がよい」という仲間の忠告に従っていれば(使徒21・4~12)、こんなことにならずにすんだのでしょうか。私たちはいつも不完全で、予測できない事態に遭遇すると後悔します。

順調に行けば「神の御心だ」「祝福だ」と考えるのですが、つまずきがあると「御心ではなかった」「祝福されていない」と考える。そんな思考回路から解放される必要があります。

私たちは祈って主の御心を求めます。そして、祈って今の道を選んだのであれば、主の御手を最後まで信頼します。

しかし、現実は、何が神の御心なのか分からない事の方が多いものです。むしろ「これが御心だ」と始めから分かる事は少ないのです。多くは、あとになって、「あれは神の御心だったのだなぁ~」と分かるのではないでしょうか。

御心だと確信して進んでも、困難に出逢うと、「御心ではなかったのでは?」と不安になります。だからこそ祈りを欠かさないのです。「主よ、あなたの御心がなされますように……」と祈りつつ進みます。

さて、パウロはエルサレムに行った為にとらえられ、2年以上の拘留生活になってしまいました。これは御心だったのでしょうか。エルサレム行きを反対した人々の中からは、、「ほら、やはり、御心ではなかったのだ」という声もあがったことでしょう。

しかし、主イエスが「あとになって分かるだろう」と言われたように、2千年後の私たちには分かります。あの状況があったからこそ、神は三つの重要な〝益〟をもたらされました。万事を益に変えられる神の御業を讃美します。

(1)パウロの身の安全を確保された。

ユダヤ人らはパウロ殺害の陰謀を企てていました。もし釈放されていたら、パウロのいのちはなかったでしょう。ローマ軍に捕らえられたことで、彼の身の安全は確保されました。

神は、ローマ兵を用いてパウロのいのちを守られました。だれが頼んで数百人体制で警護をしてくれますか。大変な予算を要する話しです。それを無料で警護してくれるのです。

(2)パウロは手紙を書くことができた。

パウロは自由に動くことができませんでした。各教会に出向いて語ることもできません。だから手紙を書きました。

パウロがエペソ教会に直接赴いて語るなら、ガラテヤ教会の兄姉はその説教を聞けません。でも、エペソ教会に宛てた手紙は、ガラテヤ教会でも、ピリピ教会でも読まれ、そして2千年後の私たちも読むことができています。

かくして、苦難の中でパウロの霊感は研ぎすまされ、その手紙は聖霊の感動をもって記され、後の時代に聖書として編纂されるに至りました。

(3)パウロはローマの上層部の人々にイエスを証しできた。

神は、パウロがローマでイエスを証しすると予告なさいました。しかし、どのような方法で実現するのか、その過程については知らされていませんでした。

もしパウロが、神の導きを無視して自分勝手にローマに行って、ローマの中枢にいる人々に福音を語ろうとしたら、それは可能なことだったでしょうか。

私たちが東京に行ったからといって、総理大臣や天皇陛下に会えるわけではありません。会おうとしても門前払いです。

でもパウロは上訴することによって、やがてローマの中枢部の人々に福音を語りました。神は何という大胆な方法をとられることでしょう。神のなさることは、人知で測り知ることができません。

祈りましょう。神の御手にゆだねることの素晴らしさを体験することができますように……。

 
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使徒行伝 24章

2022年04月18日 | 使徒行伝

使徒行伝 24章
さて、2年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。ペリクスは、ユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロを監禁したままにしておいた。(24・27)


ユダヤ人によるパウロ暗殺計画が発覚したため、ローマ軍はパウロの安全を確保するために、警備の厳重なカイザリヤにパウロを移送することにしました。ここまでが23章16節以降の記録です。 ※パウロはユダヤ人であったが、ローマ市民権を持っていたため、ローマ軍はパウロを保護した。

ユダヤ側はパウロを訴え出るのですが、パウロを有罪とする決め手がありません。しかし、総督ペリクスは結論を先延ばしにしました。それはユダヤ人の歓心を買うためであったと、聖書は記しています。 ※口語訳は「歓心を買うため」、新改訳は「恩を売るため」、共同訳は「気に入られるため」。 ユダヤ総督はユダヤ地方を管轄するためにローマから任命された。治安を維持できなければ解任されるため、もめ事は起こしたくない。

ユダヤ総督ペリクスとしては、パウロに有罪の証拠がないのですから、パウロを釈放するのが筋です。しかし、釈放すればユダヤ側からの訴えを退けたことになるので反発を買うことは必至です。

ユダヤ総督にとって、ユダヤ人からの評判の良し悪しはいのち取りになります。だからペリクスは、真偽を明らかにすることよりも、自分の政治生命を温存する道を優先したのです。

それでもペリクスは福音に無関心であったわけではありません。ペリクスはこの道(キリスト教)のことを相当わきまえていました(24・22)。それは彼の妻がユダヤ人であったことも影響しています(24・24)

そこで、投獄中もたびたびパウロを呼びだしては、イエス・キリストについて聞き出していました。そこまでしながら、ペリクスは信仰を持つことができませんでした。なぜでしょうか。

ペリクスは神よりも、人からの歓心(評判)を求めたからです。

人からの歓心はどうでもよいわけではありません。人の評価を無視するあまり、イエス様の顔に泥をぬるようなクリスチャンではあってはなりません。

だからといって、人の顔色をうかがうあまり、神の御心を曲げてしまってもなりません。そのようなギリギリの選択を迫られるとき、クリスチャンは神の御心を優先します。その結果、人からの悪評をも、甘んじて受ける覚悟のある者たちです。

ですから、人(世)の歓心を得ようとすると霊的ないのちを失います。

裏をかえせば、人(世)の歓心を得ることによって肉のいのちを得ようとするのです。しかし、人(世)からどんなに歓心を得ても、人(世)は私に霊的ないのちを与えてくれません。まことのいのちを与えるのは神だけです。

イエス様を裁いたポンテオ・ピラトも、イエスが無罪であることを分かっていながら、民衆の歓心を得ようとして、イエスを十字架に引き渡しました。

また、ユダヤの指導者たちの中にもイエスを信じた人々がいましたが、彼らはパリサイ人たちの目をはばかって、信仰を告白しませんでした。なぜなら、彼らは会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである(ヨハネ12・42~43)

人から悪く思われるのはつらいことですが、それを乗り越えてでもイエスを信じる人……その人は神の歓心を得る者、神からのほまれ(栄誉)を得る者です。神からの歓心を得ようではありませんか。

神は何に歓心をお持ちですか。神はご自分の御名に歓心を持たれます。イエスの御名のあるところに歓心を持たれます。私たちがイエスの御名を愛し、敬い、讃美するところに歓心を持たれます。

受験の合格発表の一覧が出されたとき、自分の名前だけに集中するように、神はご自分の名である「イエス」の御名に目を注がれます。このように神はご自分の名に歓心を注がれます。※近年は受験番号だが。

また、神はイエスを信じる信仰に歓心を持たれます。人の目を憚(はばか)らないで、神に近づこうとする信仰に歓心を注がれます。

パウロも、ユダヤ人の歓心を買うためであれば、割礼問題をうやむやにしたことでしょう。しかし、神の歓心を買うために、いのちをささげました。パウロは次のように告白しました。

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、私はキリストの僕ではあるまい。」(ガラテヤ1・10)

祈りましょう。主イエスよ、神からも、人からも歓心を買おうとする欲張りを砕いてください。

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使徒行伝 23章

2022年04月09日 | 使徒行伝
使徒行伝 23章
その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」。(23・11)


パウロを告訴したユダヤ人たちは、完全に冷静さを失っていました。このままでは解決の糸口すら見出せないと判断したローマの千人隊長は、ユダヤ人議会で公聴会を開くよう取りはからいました(22・30)

議会には国の中心人物が集まっています。パウロとしては、たとえ逮捕された身とは言え、そのような人々の面前で正式に証言できることはまたとない機会です。第23章はそのパウロの証言です。

この証言を通して、指導者たちがイエスをキリストと受け入れるなら、ユダヤ民族の救いが劇的に前進するはずでした。しかし、議会は激しい論争となり、混乱は深まるばかりでした(23・10)。この結果に落胆したパウロに、主はしっかりせよと励ましてくださっています(23・11)。 ※新改訳は勇気を出しなさい」。

パウロは、自分がエルサレムで捕らえられることを承知の上でやって来たのです。主がそう預言されたのですから、そのことに必ず意味があるはずだと信じていました。

しかし現実はどうでしょう。ユダヤの指導者たちに証ししたものの、宣教は遅々として進まない現状を前に勇気を失わない人はいないでしょう。

あのアガボや他の弟子たちの勧めを受け入れて、エルサレムに来なければ、もっと多くの人々に福音を伝えることができたのに……と。そんな失望感で気落ちしても不思議ではありません。

しかし、神のご計画は人の考えを超越しています。神のご計画は、エルサレムでイエスを証ししたように、ローマでも証をしなければならないというものでした(23・11)

神のご計画(御言)は必ず実現します。たとえ現実は、そのご計画とほど遠い状況であっても、それは神にとっては何の障害にもなりません。障害だと感じるのは不信仰な私だけです。

パウロを取りまく現実もそうでした。ローマで証しをするんですって?。現実はローマどころか、エルサレムで捕らわれの身なんですが……。

当時のエルサレムといえば、ローマから遠く離れた地方都市です。エルサレムとローマ……この二つの都市がどのように結びつくのか、そこには人知を越えた神のご計画がありました。

さて、パウロは捕らえられたことで、かえってユダヤの主要な人々にイエスを証しする機会を得ました。また、公聴会とか裁判の場でイエスを証言することになったわけですが、これは公式の記録となりました。イエスの十字架と復活が、民衆の単なる噂話としてもみ消されようとしている中で、公式に議題として取り上げられ、当時の知識人や上層部の人々の耳に届くようになったわけです。

マイナスと思える中にもプラスを発見しよう。パウロは「しっかりせよ」との主からの励ましに、次なる道筋を見出し始めたのです。

しかも、そのような働きに、ペテロではなくパウロをお用いになったことに、神の深いご配慮を感じます。

ペテロはイエス様と3年半にわたって活動を共にした人物ですから、「見たこと聞いたことを語らないわけには行かない」(使徒4・20)という実際的な証言の持ち主です。体験は偽りのない事実ですから、とても強い証言です。ただ、それを裏付ける大系だった神学的論理とか、全人類に適用する普遍性といったことは別の分野です。

イエス体験を聖書的に裏付け、当時としてはユダヤ人のための福音であったものを全人類への福音として論理立てることのできる人物。それはパウロを他にしていなかったことでしょう。

ガブリエルの門下生として聖書に精通し、パリサイ人の中のパリサイ人、律法のなんたるかを最も知りつくした人物。それがパウロでした。彼のような人物だからこそ、これからの幾多の裁判において、聖書に裏付けられた骨太の神学をもって証言できたのです。

人にはそれぞれ用いられる場所と時があるのです。主のなさることには、みな時があり、その御業は美しいのです(伝道3・11)

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使徒行伝 22章

2022年04月08日 | 使徒行伝
使徒行伝 22章
主が私に言われた、「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」。(22・21)


ついにパウロはエルサレムに到着しました。しかし早速、問題が生じました。パウロに反感をいだくユダヤ人らが、異邦人をパウロが神殿に連れ込んだと誤解して、パウロを訴え出たのです。 ※エルサレム神殿は神に選ばれたユダヤ人のものであり、そこに異邦人を入れることは冒涜だとユダヤ人らは考えた。

この訴えは、たちまちにユダヤ人に広まり、これを機にパウロに対する怒りや不満が一気に爆発。もし、この事態にローマの千人隊長がかけつけなかったなら、パウロは殺されていたことでしょう。

寸前のところでいのち拾いをしたパウロですが、その場を立ち去るどころか、なおもイエスを証しするために民衆に向かって語り始めました。ここまでが先の21章でした。

パウロはユダヤ人のたび重なる反対にもめげず、イエスを証し続けました。それは、彼の同胞への愛ゆえだけでなく、ユダヤ人こそイエスの福音にあずかるべき契約の民だからです。

ユダヤ人という〝根〟がしっかりしなければ、新約の〝花〟は短命に終わってしまいます。また、ユダヤ人という根を無視した新約教会は、いびつな花を咲かせてしまいます。

さて、なぜパウロは、同胞から執拗な迫害を受けたのでしょうか。その理由をふたつ挙げておきます。

第一は、律法の時代は終わったと主張したからです。

律法を象徴するのが割礼と神殿でした。すでに、使徒15章で述べたとおりです。肉の割礼は終わった……聖霊による心の割礼の時代だと主張しました。

また、ステパノの殉教の時に問題になった神殿理解もそうです(使徒7章)。石で建造された神殿の時代は終わり、イエスを信じる者たちが、生ける石となって建てあげられる霊的神殿の時代です。

第二は、異邦人も救いにあずかることができると主張したからです。

確かに神はユダヤ人と契約をなさいました。しかし、それはユダヤ人だけの救いではなく、ユダヤ人を救いの基(もとい)とすることによって、そこから全人類に救いを及ぼすためです。

ですから、神は、ユダヤ人を救いの基とするために、ユダヤ人を神の器として徹底的に訓練なさいました。それが旧約の数々の出来事です。その基礎があるからこそ、異邦人の救いへと展開します。

しかし、いつしかユダヤ人の選民意識だけが先鋭化し、その傲慢は肥大化して行きました。

あのペテロでさえ、皮なめしシモンの家の屋上でみた幻 ―ユダヤ人が忌み嫌う動物を食べよとの幻― を通して、やっと異邦人への救いが理解できたくらいです。

ですから、ましてや当時の律法に厳格なユダヤ人には、異邦人の救いなど、もっての他でした。そんなユダヤ人にとって、異邦人も救われると主張するパウロは許し難い人物だったわけです。

パウロが旧約聖書で預言されている異邦人の救いについて理解していなかったら、今日の私たちの救いは遠のいていたことでしょう。パウロが、ユダヤ人からいのちを狙われてもなお異邦人の救いのために献身してくれていなかったら、今日の私たちの救いはなかったかも知れません。異邦人宣教にいのちがけで献身してくれた人物があったからこそ、私の救いへとつながったことを覚え感謝します。

このパウロの異邦人への派遣は、私たちも異邦人ならず「罪人」の世界への派遣へと展開して行きます。

真面目に生きている人々からすれば、「罪人が救われる?」。それは、真面目にやっている人への冒涜だと批判を受けそうです。丁度、律法に熱心なユダヤ人が、「異邦人も救われる」というパウロの主張に反感を抱いたように……です。

ですから、パウロの体験は遠い世界の話ではなく、自分のこととして読み進めたいと思うのです。私たちも、パウロのような献身に少しでも近づくことができるように祈ります。

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使徒行伝 21章

2022年04月07日 | 使徒行伝
使徒行伝 21章
パウロは答えた、「あなた方は、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。(21・13)


パウロがエルサレムへ向かう旅の途中、ツロの弟子たちは御霊の示しを受けて、「エルサレムには上って行かないように」とパウロに忠告しました(21・4)。なぜなら、御霊は、パウロがエルサレムで捕らえられることを示していたからです。

カイザリヤでもアガボという預言者が、パウロはエルサレムで捕らえられると告げました(21・11)。それを聞いた弟子たちは、エルサレムに行かないようにとパウロを引き留めました。

このように聖霊は、パウロがエルサレムで捕らえられることになると告げています。しかし何のために聖霊は、これからパウロの身の上に起きることを予告なさったのでしょうか。

捕まらないように気をつけなさいと警告するためでしょうか。そして、エルサレム行きを中止して捕まらずにすみました……ということであれば、「エルサレムで捕らえられる」という聖霊の予告はハズレということになります。そうではありません。

では、何のために預言があるのか。それは、エルサレムで捕らえられることを〝覚悟するため〟です。

イエス様も、ご自身がエルサレムで捕らえられ殺されるのだと予告なさいました。そんなことがないようにと、イエスをいさめるペテロに対して、イエスは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とお叱りになりました。

神が予告なさるのは、そうならないためではなく、覚悟させるためです。その時になって慌てふためいて信仰を失わないためです。そんな状況になっても、神の愛を見失わないためです。事実、ペテロはイエス様から「あなたは三度、わたしを否認する」と予告を受け、その通りになりました。その時にはペテロは落ち込みましたが、否認する自分さえも受けとめてくださる神の愛によって立ち直りました。

神は、ご自身のご計画を予告なさいます。パウロがエルサレムで捕らえられることは神のご計画なのだと聖霊は示しているのに、弟子たちはエルサレムに行かないようにと勧めています。

聖霊の示しを受けることが霊的で信仰深いわけではありません。聖霊の示しに従うことが霊的な信仰です。幻を見たり、聖霊の声を聞く人もいます。だからといってその人が霊的な信仰者なのではありません。2千年前の人々は、幻どころか直接イエスを見て、直接神の声を聞きました。しかし、人々はそれに従いませんでした。

従わなければ霊的な信仰ではありません。パウロは聖霊の予告を理解していました。そして、従うことを覚悟したのです。これが霊的な信仰です。

たとえ自分にとって不利な内容であっても、聖霊の導きなら従います。しかし、往々にして、神のことを思わないで、人のことを思ってしまいます。そこが肉の弱さです。

私たちはイエスの名のゆえにすべての人から憎まれるのだと、イエスは預言されました。それは私たちが、人々から迫害を受けないように注意しなさいという意味で言われたのではありません。

私たちが迫害を覚悟するためです。

また、「神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならない」と予告されています。それは、私たちが多くの苦難を経ないですむようにするための忠告ではありません。

私たちが苦難を覚悟するためです。

パウロも覚悟しました。主の御言に従う覚悟をしました。そして、エルサレムにのぼりました。とはいえ、無防備、無策ではありませんでした。ユダヤ人たちをむやみに刺激すまいと、最大限の配慮をしています(21・21~24)

でも、それをはるかに超えたところで、神のご計画は成就して行きます。アジアから来たあるユダヤ人の勘違いが原因で、暴動が起こり、パウロは捕らえられてしまいました。

しかしパウロは少しも動揺していません。預言を通して覚悟していたからです。慌てるどころか、むしろ、暴動で集まった人々に福音を語ったのです(21・39~40)。しかも、ローマ兵が警護している中ですから、安全を確保した上で伝える事ができたのですから、考えようによっては良い方法ではありませんか。

逮捕されるなんて人間的に見れば災いです。だからといって祝福されていないわけではありません。自分に都合の良いことがあれば祝福で、都合の悪いことがあれば呪いだ……という考えから解放されてください。すべては神の御手の中にあることへの信頼が強められますようにと祈ります。

自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、神が共におられることが祝福です。自分にとって都合が悪くても、神のご都合に間に合うならば、それは祝福です。私たちは、神の都合に合うようにと自分を提供した者です。それが献身です。

パウロの長期の拘留生活は、福音宣教の立場からすればマイナスの条件です。しかし、この都合の悪いとも思える状況を通して、神はご自身の働きをなさいます。21章以降はその記録です。

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使徒行伝 20章

2022年04月06日 | 使徒行伝

使徒行伝 20章
今わたしは、主とその恵みの言とに、あなた方をゆだねる。御言には、あなた方の徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。(20・32)


パウロはエペソに3年近く滞在して、エペソ教会を牧会しました。そして教会は成長しました。それは単に人数が増えるという意味ではありません。教会がキリストに似た姿へと変えられていくことを成長といいます。

ですから、先の19章でも見たように、魔術を行っていた人々はその本を焼き捨て、その道から完全に足を洗いました。イエス様を信じながら魔術もやっていたなんて……と思うかも知れませんが、私たちも同じような矛盾を抱えています。

仏壇と先祖礼拝もそのひとつです。その他にも、タバコや酒、占い、性的な悪癖、種々の依存症等々……、エペソ教会の人々が魔術の本を焼いたように、主の御前に持ち出して、聖霊の火で焼いてしまうべき事があります。

解決には時間を要することもあるでしょう。焦ることはありません。

筍は「竹皮」で覆われていますが、邪魔だからといって剥がしてしまったら成長できません。しかし、長ずるにおよんで、竹皮も一枚ずつ剥がれ落ちます。そのようにして、クリスチャンも教会も成長する過程で罪や悪習慣は取り除かれて行きます。

そんな成長過程にあるエペソ教会の「長老」と呼ばれるリーダーたちにむけて、パウロは惜別(せきべつ)の説教を語りました(20・17~)。エペソをあとにするにあたり、教会を〝主とその恵みの御言にゆだねるのだ〟と語りました(20・32)

自分がいつまでも居られるわけではありません。いつかはゆだねなければならない時が来ます。問題は何に」「誰にゆだねるのかです。ゆだねる対象が曖昧だと凶暴な狼にやられてしまいます。

パウロはそのこととを予見してこう語っています。

私が去った後、狂暴な狼が、あなた方の中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、私は知っている。

また、あなた方自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。
(20・29~30)


そういうわけですから、主とその恵みの御言にゆだねるのです。

牧師は教会を、自分が居なければ崩壊してしまうような群れに育ててはなりません。主とその恵みの御言にゆだねられるように牧会します。御言を教え、御言に堅く立つように導きます。

主イエスに従う教会です。その主の御言に従う教会です。これが、教会の基礎であり、教会の柱です。御言に忠実な教会を目指そう。いつも御言に聞くことのできる教会を目指そう。そういう教会へと導くのが牧師の仕事です。

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使徒行伝 19章

2022年04月05日 | 使徒行伝
使徒行伝 19章
信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。(19・18~19)


パウロとシラスは母教会であるアンテオケ教会に戻り、再び伝道旅行に出発しました(18・22~23)3回目の伝道旅行の始まりまです。

その間に挿入されるかたちで、エジプトのアレキサンドリヤ出身のアポロのことと(18・24~28)、アジアのエペソ在住の信者のことについてに記されています(19・1~7)。両者ともバプテスマのヨハネによって信仰に入った人々です。

バプテスマのヨハネは、自分のすぐ後に来られるキリストを迎えるために、悔い改めを教えてバプテスマを授けた預言者でした。その影響力やユダヤにとどまらず、エジプトやアジアに及んでいたのです。その広がりに驚かされます。

さて、パウロはエペソに長く滞在しました。2年間、毎日、神の御言を語り教えたのです。こう記されています。

パウロは弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言(ことば)を聞いた。(19・9~10)

その結果、エペソを中心に大きな変化が生じてきました。

まず、病気の癒しや悪霊が出て行くようになったことです(19・11~12)。明確に信じていない者でも、イエスの名によって悪霊に命じると、悪霊が反応して ―この場合は、出て行くよりも大きな被害を受けたのですが― 不思議が起きたのです。

また、冒頭の聖句で言われているように、信者の生活に変化が生じました。

彼らはイエス様を信じていたにもかかわらず、魔術の本を所持していたのです。それを読んだり、行っていた者もあったことでしょう。

人は、イエスを信じても手のひらを返すように変化できないこともあります。徐々にではありますが、神に反する生き方や習慣が変えられて行きます。この基になったのが、2年の間に及ぶ聖書の学びでした。

異邦人にはユダヤ人と違って律法(旧約聖書)の土台がありません。ですから、イエスを信じても、異教的なものが混在しています。でも、神の御言が霊魂に浸透して行く中で、悪事から離れ、その類(たぐい)の本も焼き捨てるようになります。

この「朝マナ」の取り組みが、そのような変化をもたらすことを祈っています。

最後に3つ目の変化は、エペソのアルテミス信奉者らによる暴動でした。御言によってエペソの人々が本当の神に目覚めると共に、アルテミスが偶像に過ぎないことに目覚め始めたのです。

古今東西、偶像の宮の周辺には、参拝者を相手に様々な経済活動が展開していたのですが、これでは商売あがったりです。

この暴動の原因は真理問題ではありません。商売の話しです。経済問題です。神の御言が浸透して行くと、町をあげての騒動にまで展開したのです。

このように御言には力があります。御言を読み、学び、食べ続ける中で、私たちの生活に変化を生み出します。どうか、御言に似た心や考え方に変えられて行きますように。偶像礼拝の考え方が聖霊の火によって焼きつくされますように。聖なる神にそぐわない悪習慣が破棄されますように。

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使徒行伝 18章

2022年04月04日 | 使徒行伝
使徒行伝 18章
恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。(18・9~10)


パウロはアテネを去ってコリントへ来ました。コリントでもまずユダヤ人に、「イエスがキリストである」ことを証ししました(18・5)。同様にアポロも、「イエスがキリストである」と語りました(18・28)

このように、伝道とはイエスがキリストだと伝えることです。

そのキリストとは、①救い主であり、②神の御国の王である、というふたつの意味があります。

救い主とは、罪から救うお方です。そして、罪の結果である死から(滅びから)救うお方です。そのような救い主であると同時に、キリストは悪魔をさばくために来られた御国の王です。

神の御国を完成するために、神に敵対して堕落した天使……すなわち悪魔をさばいて、滅ぼすためにキリストは来られました。しかし、その場合、人間が悪魔の道連れになって滅びないように、キリストは人間の罪を十字架で引き受けて救ってくださいました。

ですから、悪魔につながっていないで、キリストにつながって救いを得てください。終わりの時に至って、御国の王であるキリストは、悪魔を滅ぼして神の国を完成なさいます。

旧約はこのキリストが来ることを約束しており、ユダヤ人はその約束の実現を待ち望んでいる人々です。それなのに、コリントのユダヤ人は、パウロの証しに反抗し暴言を吐きつづけました(18・6)

でも主は言われます。

(1)恐れず語りつづけよ。黙っているな。

イエスがキリストであることを語り続けよ。私たちは、相手が受け入れてくれないのではと恐れます。人間関係が壊れるのではと恐れます。でも主の御言は「恐れず語りつづけよ。黙っているな」です。

反対されると凹(へこ)みます。恐れます。パウロですらそうなのです。彼は先のアテネ伝道で雄弁に語ったのですが、人々から失笑され、自信を失い、恐れていました。そんな状況でコリントにやって来たわけです。

その時の様子を、コリント教会に宛てた手紙の中で、「私があなた方の所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」と告白しています(Ⅰコリ2・3)。だからこそ主は励ましてくださっています。「恐れるな。語りつづけよ」と。

(2)あなたには、わたしががついている。

すべての人が反対しようとも、イエス様が味方です。王であるイエスが味方であれば、いったいだれが敵対できるでしょうか。私の味方になってくださると約束された主を信頼しよう。主イエスは目に見えないだけです。そのお方が私とご一緒くださってることが、聖霊によって実感できますように。

(3)この町にはわたしの民が大勢いる。

人の目に見えることと、イエス様がご覧になることとは異なります。人の目には、信じる民は少なく見えます。しかし、イエスの目には「大勢いる」とご覧になります。大勢いるのですが、まだ登場していないだけです。私たちの伝道によってイエス様と出会うのを待っている人々です。

祈りましょう。イエス様!福音を伝えることができるために、知恵を与えてください。勇気を与えてください。そして、あなたが言われた「わたしの民」と出会わせてください。

 
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使徒行伝 17章

2022年04月02日 | 使徒行伝
使徒行伝 17章
こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神は我々ひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。(17・27)


パウロはひとり先にギリシャのアテネに到着しました。ギリシャ神話のお膝元です。そんな街ですから、いたる所に偶像が置かれており、パウロはそれを見て「心に憤りを感じ」ました(17・16)

それは、偶像の背後にあって働き、まことの神を見えなくさせているサタンに対する憤りでした。

人は肉の感覚で神を知ろうとして、目で見て手でさわることのできる神を求めます。しかし、神は霊なるお方ですから霊的な感覚で神を知るべきなのですが、それができません。なぜなら、人類はアダム以来、罪の中で人の霊的機能が麻痺しているからです。

そこで、偶像を作って肉眼で見たり、さわったりできる神を得たいのです。そんな人間の肉の性質を逆手にとって、サタンは人間に偶像を作らせ、まことの神を見えなくさせます。聖書ではそのことを次のように記しています。

「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(Ⅱコリ4・4)。「この世の神」とはサタン(悪魔)のことです。

さて、まことの神を知らないギリシャ人に対して、パウロは、神がどういう方なのかということから語らなければなりませんでした。

相手がユダヤ人であれば、「イエスがキリストである」と伝えればよいのですが、旧約の土台がない異邦人に対しては事情が違います。これは、ルステラ伝道の場合もそうでした(14章)

さて、神とはどういうお方でしょうか。

(1)人の手で作った宮などには住まわれない。(17・24)

神は、ご自分の住む場所を必要となさいません。神は万物の創造者であり自存者(じそんしゃ)です。自ら存在する神という意味です。

つまり、神はご自分の住む場所として、この世界を創造なさったのではありません。

では、なぜ旧約の時代に、神はイスラエル民族に神殿を造らせたのでしょうか。神殿とは、神の住まいと呼ばれるのですが、神殿がなければ神の居場所が無いのではありません。それは比喩です。

神が人間と共に住まわれる方法を表すための比喩です。さらには、人間が天において神と如何(いか)にして共に住むのかを教えるための教材です。

ソロモンは神殿を奉献するさいに、天も諸天(しょてん)の天もあなたをお入れすることはできないと告白しています(歴代下6・18)。「天」とは宇宙空間の天(space)です。「諸天の天(いと高き天)」とは霊界の天(Heven)です。

神は万物が存在する前から……つまり永遠前から存在なさいます。人間は傲慢にも、神の存在の有無を議論しますが、それは、蟻が地球を蹴飛ばしているようなものです。

モーセにあらわされた神の自己紹介は、わたしは〝有って有る者〟でした(出エジ3・14)。それは、神は自存者であるという意味です。

(2)人に仕えられる必要のないお方です。(17・25)

神は万物の創造者ですから、何か不足しているお方ではありません。資金不足なので献金が必要なのではありません。栄光不足なので、人間から讃美されなければならないのでもありません。

むしろ、すべての人々に命と息と万物とを与え……とあるように、大いに与えてくださるお方です。そればかりか、ついに御子さえ惜しまずに与えてくださったお方です。

それならどうして神は、私たちに、「神を礼拝せよ、讃美せよ、献金せよ」と命じられるのでしょうか。

それが人間の本分だからです。人間としての立場を忘れないためです。それは、被造者の創造者に対するあるべき正しい態度です。被造者としてなすべき基本中の基本……それは創造者を認め、その方を礼拝することです。

神を恐れ、その命令を守ること……これは人の本分です(伝道12・13)

礼拝は人間としての本来あるべき姿であり、持ち場です。その場を離れて反逆したのが悪魔とその手下たちです(ユダ6)。人が悪魔のようにならないために、神は礼拝を定められました。

神は人に仕えられる必要のないお方ですが、私たちは、人として生きるために、神に仕えさせていただいています。神に仕えさせていただける身分にされたこと……これは人として最高の栄誉です。

(3)ご自分をあらわされるお方です。(17・27)

まことの神を知らない人々は、神はご自身を隠していて、「さあ人間よ。わたしを見つけてみよ」とか、「わたしのいる所までたどり着け」と言われるお方だと勘違いしています。

しかし、神はそういう方ではありません。遠く離れておられる方ではありません。神が創造なさった万物は、まさに神の作品として神を証ししています。

美しい空や山河の絵画を見て、この絵が自然に仕上がったとは考えません。作者がいるはずです。それならば、絵画の実物である山河や空の星々を見て、そこに偉大な作者がおられると考えるのは道理にかなったことです。

また、神はご自分をあらわすために、御言を語られます。私たちは神を見ることはできませんが、御言を聞くことができます。神は御言をとおしてご自身をあらわされます。

そして、世の終わりに至って、神は御言そのものである御子イエス・キリストを通してご自身をあらわされました。御子を見た者は父を見たのです。御子は自分の思いのままを語ったのではなく、父の御言を語られたのです。

このように神は、万物を通してご自分をあらわし、聖書の御言によってあらわし、ついに御子イエスを通してご自身を啓示なさっているのです。

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使徒行伝 16章

2022年04月01日 | 使徒行伝
使徒行伝 16章
真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。(16・25)


先の伝道旅行では、パウロはバルナバとマルコと呼ばれるヨハネを連れて働きました(13・2~5)。これが第1回目の伝道旅行です。第2回目の伝道旅行は、先の15章36節から始まっています。

「幾日かの後、パウロはバルナバに言った、『さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか』。」(15・36)

しかしこの時、マルコを同行させるか否かで、パウロとバルナバとは決裂しました。その結果、パウロはシラスをつれて、バルナバはマルコをつれて、それぞれの旅に出ました(15・36~41)

人間的に見れば喧嘩別れのようで後味の悪いものを感じますが、主はこのことも益となさることが、数年後に分かります。それは別の機会に取り上げたいと思います。

第2回目の伝道旅行の途中、パウロはテモテという若者を見出しました。後のパウロの後継者となる人物です(16・1)。また、医者であるルカと出会いました。16章の11節から、それまで「パウロは」となっていた記述が、私たちはになっているのは、この時点で著者のルカが加わったことを意味しています。

さて、第1回の時は小アジア(現在のトルコ半島)中心の活動でしたが、ついに欧州に足を踏み入れることになります。パウロが幻で見たマケドニア人とは欧州人のことです。神のご計画は、当時の世界の中心である欧州とその都ローマ宣教に向かっていました。

パウロ自身は小アジアでの伝道を続けるつもりでした。しかし、聖霊はそれを禁じられたとあります(16・6~7)。不思議なことです。神のなさることは、時として人間にははかりがたいのです。「あとになって分かるだろう」(ヨハネ13・7)と言われたイエスの御言を心にとめて信頼しよう。

さて、欧州伝道はピリピで始まったのですが、パウロとシラスは異教徒たちから迫害され投獄されました。投獄中、彼らは神への讃美を歌いました。何がそうさせたのでしょうか。

私たちはどんな時に讃美の歌が出てきますか。ルンルン気分の時ですか。では、落ち込んだ時はどうですか。讃美についての考えを正さなければなりません。

讃美は自分の気分で左右されることではなく、神をほめたたえることです。自分がどんな状態であっても、主を讃美します。「讃美の上に座しておられるあなたは聖なるお方です」(詩篇22・3)とあるように、讃美の中に主は臨在されるからです。

讃美も喜びも、単なる感情表現だと誤解していませんか。だから、いい気分を表現する「讃美」や「喜び」になってしまいます。しかし、「主を讃美せよ」「いつも喜びなさい」……これは主の命令です。状況の悪い時でも命令に従って主を讃美するのです。喜べなくても喜ぶのです。

さて、パウロとシラスの讃美を、獄中の囚人たちは聞き入っていました。初めて聞く不思議な歌だったことでしょう。 ※希望のない暗い牢獄で、「感謝」とか「喜び」とか「栄光」を歌うなど、不思議な歌であったであろう。クリスチャンが苦難の多いこの地上という〝牢〟の中で讃美を歌うのもこれと同じだ。

世の中の歌といえば、恋とか悲しみとか恨みなど、その内容は人間の悲喜交々(ひきこもごも)です。でも、讃美は天の神に目を向けさせてくれます。世の中の歌手であれば、自分に注目を集めようとするのに、讃美は天の神に注目を向けさせます。

囚人たちは、パウロとシラスの讃美によって、天の神に目を向けるようになったのです。その証拠に、直後に起きた地震で獄の戸が開いたにもかかわらず、彼らは、これ幸いにと逃げ出さなかったのです。神を知った人は、卑怯なことができなくなるからです。 ※牢の扉が開いてしまったことも奇跡だが、それ以上に、囚人たちが逃亡しなかったことが奇跡だ。

讃美には力があります。信じましょう。自分を変え、人々を変える力があります。伴奏がしっかりしていて歌う讃美は盛り上がります。そのように整えることができれば幸いです。でも、獄中での讃美には何もありませんでした。でも信仰がありました。ひょっとしてパウロとシラスは音痴だったかも知れません。でも関係ありません。

たとえ足は鎖でつながれていても、私たちの口まで縛られているわけではありません。気分までが鎖でつながれて、主を讃美すべき口を閉ざしてしまってはなりません。

主を讃美しましょう。讃美からはじめよう。そうするなら、わが魂は、暗闇の獄屋から解き放たれるのです。
 
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使徒行伝 15章 その2

2022年03月31日 | 使徒行伝
使徒行伝 15章
主イエスの恵みによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。(15・11)
 
世界で最初の教会会議の議決は重要なテーマですので、もう少し掘りさげることにします。

まず、聖霊と初代教会が出した結論を整理しておきましょう。これは、人間が便宜的に出した結論ではありません。聖書が記しているように、〝聖霊も共に〟お決めになったことです(15・28)

問題の発端は、異邦人も割礼を受けて、律法を守るべきではないか……という考えです。それは、ユダヤ人のようにならなければ救われないことを意味しています。

しかし、初代教会の人々は、異邦人はユダヤ人のようにならなくても、イエスの恵みによって救われるのだと、聖霊と共に結論を下したのです。肉の割礼を受けなくても良い。律法を遵守しなくても良いのだと結論を下したのです。

では、ユダヤ人クリスチャンが今なお律法を守っているのはどういうことですか。

それは救われるためではありません。律法による生活は、ユダヤ人としての大切な生活スタイルです。それを否定する必要もありませんし、逆に、それを異邦人に強要するのでもありません。

彼らは、クリスチャンになるために〝ユダヤ人であること〟を否定したのではないのです。あくまでも救いは恵みによるのです。ユダ人でさえ、イエスの恵みによって救いを受けます。律法を行ったからではありません。

ましてや、異邦人も同じです(15・11)

異邦人はユダヤ人にならなくても救われます。異邦人は異邦人のままで救いを受けます。異邦人の文化や伝統を否定するものではありません。日本人であることを否定するものでもありません。

ですから、クリスチャンには様々な信仰生活があるのです。

きっとアフリカのクリスチャンたちは、踊ったり太鼓をたたいたりして主を礼拝するでしょう。アメリカのクリスチャンたちは、スマートな音楽やフレンドリーな交わりをもって礼拝するでしょう。韓国のクリスチャンたちは、熱烈な叫びと祈りをもって礼拝するでしょう。同様に、日本のクリスチャンのスタイルがあります。

そのような文化的背景が異なる人には、それぞれの信仰スタイルに違和感を持つかも知れませんが、聖霊と初代教会はそのような礼拝や信仰のあり方を認めたのです。

いずれの民族も、私たちと同様に、恵みによって救いを受けたのです。その上で互いの文化の違いを認め合うのです。だからこそ、キリスト教は世界宗教になり得たのです。

こうして、全ての民族を包括して、ただ、キリストにある新しい人を再創造しようと、神は求めておられます(エペソ2・11~16)

このことは、身近な事でも同じです。自分と同じ信仰スタイルを他者に強いるのは行き過ぎです。彼には彼の育った環境や習慣があるので、私と同じような信仰スタイルではありません。

私が恵みによって救われたように、彼の場合も同様です。

このような考え方がなければ、自分と同じスタイルの人しか救われないことになります。互いの違いを認め合い、信仰によって結び合わされ、キリストの御身体を現すようにと私たちは召されています。

ただし、初代教会が提示したように、偶像礼拝と不品行と血を避けるようにと言われています(15・29)。ユダヤ人が律法による伝統の中で大切にしている事を踏みにじらないようにという愛による配慮です。

偶像礼拝と不品行(性のきよさを汚すこと)は、互いの交わりを破壊してしまいますから、当然避けるべきです。「血」は、特にユダヤ人が大切にしてきたものです。彼らは生血を食する習慣を忌み嫌いました。※「絞め殺したもの」とは、血抜きをしない肉を食することにつながるので、「血」と同様の意味合いだろう。

配慮もなく相手が嫌うことで交わりを壊してはなりません。律法という重荷は取り払われたとはいえ……すべては自由ですが……、ユダ人を前にしてわざわざ血のしたたるステーキを食べるなら、配慮のないことです。お酒やタバコを嫌うクリスチャンの前で、飲酒や喫煙は配慮のないことです。

こうして、互いの信仰スタイルの違いを超えて、愛のある配慮をもって教会の交わりは建て上げられて行きます。

◆◆◆◆◆

ユダヤ人からなる初代教会は、異邦人クリスチャンに律法厳守を強要しませんでした。律法で定められている安息日規定も十分の一献金も強要しませんでした。

それらは救いの条件ではありませんが、そこには祝福の秘訣が込められています。

日曜礼拝を厳守できなくても救われますが、週の一日を礼拝として献げることは祝福の秘訣です。厳密に律法に従うなら、日曜日ではなくて土曜日こそが安息日です。日曜礼拝を厳守しても、それは安息日規定を守ったことにはなりませんが……。私も今に至るまで日曜礼拝を休むことなく献げてきましたが、本当にすばらしい人生でした。

十一献金をしなくても救われます。「十分の一は神のものだ」(マラキ3・8~9)という事実に変更はありませんし、献げないことで神のものを盗んでいるとの指摘もその通りです。でも、キリストの十字架の死によってその罪も赦されています。それでも、私は献金します。そうすることによって、私は富を主人とせず、まことの神を主人とする人生へと導かれるからです。これは祝福の秘訣です。

このように、律法を行うことは救いの条件ではありませんが、律法には祝福の秘訣が満載です。聖霊の知恵をもって、律法に込められた祝福の生き方をするのです。 ※具体的な摘要は、「出エジプト記」「レビ記」「申命記」の学びを参照。律法も神の御言であって、聖なるものであり、正しく善なるもの(ローマ7・12)。決して、律法を軽んじてはならない。肉で行うなら「律法主義」になり、御霊によるなら、祝福ある生き方の宝庫となる。

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使徒行伝 15章 その1

2022年03月31日 | 使徒行伝

使徒行伝 15章
主イエスの恵みによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。(15・11)


イエス・キリストを信じて救いを受ける異邦人クリスチャンが多く誕生する中で、ユダヤ人クリスチャン ―特にパリサイ派出身のクリスチャン― から異議が唱えられました。

異邦人クリスチャンも割礼を受けなければならない。つまりユダヤ人となって律法を守らなければならないというのです(15・1)

この問題を解決するため、異邦人クリスチャンを牧会するパウロとバルナバはエルサレム教会(ユダ人クリスチャンの教会)に赴(おもむ)き、ペテロをはじめとする使徒たちと協議をしました。その会議の様子が第15章6~29節に記されています。

割礼を受けなければ救われないのか。言い換えれば、律法を行わなければ救われないのか。もっと簡単にいうと、良い行いをしなければ救われないのか。それがこの会議のテーマです。

良い行いをすることは素晴らしいことです。そして、良い行いは「世の光」となって世を照らし、「地の塩」となって世を生かします。しかし、その良い行いによって救われるのではありません。

ペテロをはじめ使徒たちは、この会議の中で、割礼を受けて律法を行うことは、本家本元である我々ユダヤ人でさえ負いきれない〝くびき〟であった……と告白しています(15・10)

つまり、彼らでさえも、良い行いによって救いを受けることはできなかったのです。ましてや、異邦人は尚更のことです。そうではなく、恵みによって救われるのだと告白しました。

〝恵みによって〟とは、私の頑張りによらないという意味です。私の真面目さによらないのです。私自身に何ら根拠がないという意味です。〝一方的な神の愛によって〟なのです。

良い行いは大切です。それを否定するわけではありません。しかし、恵みは私たちの良い行いとか、努力とか、頑張りといった領域をはるかに超越しているのです。

私たちはこの恵みによって救われています。

「恵みによって」という世界を飛び出して、「律法によって」とか、「良い行いによって」という世界に足を踏み入れるなら、私たちは、あのペテロが告白したように「負いきれないくびきを負う」ということになります。

あなたは、いま、恵みの中にいますか。それとも、律法の中にいますか。もし、律法の中にいれば、負い切れないくびきを負って苦しんでいることでしょう。どうぞ、恵みの中に入ってください。そして、恵みの中にとどまってください。

主イエス様も、「重荷を負っている者は、わたしのところに来て休みなさい」と言われ、「わたしに学び、わたしのくびきを負いなさい。わたしのくびきは負いやすく軽いのだ」と言われたのです。イエス・キリストのもとに行くことは、恵みの中に入ることです。イエスのくびきを負うことです。

神が無条件で愛してくださり、私が何もしなくても、私を受け入れてくださるという恵みの世界にとどまってください。ここから出てはなりません。あまりにも心地よいので、何もしないでいることが申し訳ないと思うかもしれません。それで良いのです。

神の恵みの中にとどまり、恵みの中で充分すぎるほど満たされてください。やがて、恵みの中で動き出すことができるでしょう。そんな時の行いこそが、本当の意味の「良い行い」と言えるでしょう。

そんなにのんびり構えていたら、神がお困りになると思いますか。肉の力であろうとも、少しは頑張らないと、神のお役に立てないのではないかと心配ですか。しかし、私たちの神は、そんな了見(りょうけん)の狭いお方ではありません。

恵みによってとは、言い換えれば聖霊によってということです。逆に「律法によって」とは「肉の力によって」という意味です。

私たちが、肉の力という生まれつきの頑張りで行うなら、その生き方はやがて重荷となり、イライラとなり、自己卑下や他者批判へと展開するでしょう。肉から生じるものは、人間的には立派なようでも、神を喜ばせることができません。

ですから、恵みの中にとどまろう。御霊なる神の導きの中で動こう。今や、律法によって生きるのではなく、恵みによって生きる時代です。それが新約の信仰なのです。

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