朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エレミヤ書 52章

2022年12月01日 | エレミヤ書
エレミヤ書 52章
エホヤキンは囚人の服を着替え、その一生の間いつも王の前で食事をした。(52・33)
 
エレミヤが語った預言は51章までであり、52章は編者の加筆と言われています。内容は列王紀下24~25章とほぼ同じです。エレミヤの預言どおりに成就したことを確認するために記されたのでしょう。
 
さて、冒頭の聖句にあるように、バビロンへ奴隷として連れて行かれたエホヤキン王のことですが、彼は37年間投獄され、バビロンの王エビルメロダクの代になって釈放されました。
 
それどころか、エビルメロダクはエホヤキンを慰め、彼に高位を与え、王と食卓を共にする者としたのです。破格の待遇です。驚異の名誉回復です。こんな待遇がどこにあるでしょうか。
 
敵国の王を解放するなど常識では考えられません。王を生かしておけば、王のもとに民衆が集結し反乱を企てるやも知れないのですから、殺害するか獄死に至らせるかどちらかです。
いったい何があったのでしょう。神の御業としか言いようがありません。
 
18才でユダヤの王となったエホヤキンは、その3ヶ月後には捕囚となってバビロンへ連れて行かれました。エレミヤが預言したように、バビロンに降伏して、奴隷となっていのちを得る道を選んだのです。
 
37年にもおよぶ獄中生活は、いかなるものであったのだろうか。初めのうちは恨みつらみもあったでしょうが、やがて神の霊的なお取り扱いを受けて、涙と悔い改めを重ねたのではないかと思われます。
 
奴隷としてバビロンに仕える者に、いのちを分捕り物として与えると言われた神の御言の通り(エレミヤ21・9)、神は、エホヤキンにいのちをお与えになりました。それは単に肉体のいのちだけでなく、信仰のいのちをお与えになったのです。
 
エホヤキンは18才で投獄されたため、子がなかったと思います。ダビデ王家の家系を絶やすことなく、ダビデ王家の子孫からキリストは誕生するという神の約束は頓挫(とんざ)したかに見えました。
 
しかし、神は契約を守られる方です。天地が滅びることがあっても、神の御言は朽ちることがありません。神の約束に従って、エホヤキンの孫のゼルバベルは、やがてバビロンからの帰還民の総督として、民を率いて戻ってきます(エズラ2・1~2)
 
かたや、バビロンの奴隷となることを最後まで拒んだゼデキヤ王は、逃亡のすえにバビロン軍に捕らえられてしまいました。
 
その結果、「ゼデキヤの両眼をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた」のです(52・11)
 
神の御言に従った者エホヤキンと、御言を拒絶したゼデキヤとの対比が印象的です。
 
バビロンに降伏したエホヤキンは、たった3ヶ月の統治で奴隷となったわけで、ダビデ王家の中で「最も格好悪い王」と見えたのではないでしょうか。それよりは華々しく戦った方が武勇伝にもなるのに……。
 
でも、神の力強い御手の下にへりくだることこそ、いのちの道であることを、エホヤキンは身をもって見せてくれました。
 
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エレミヤ書 50章

2022年11月29日 | エレミヤ書
エレミヤ書 50章
その敵は言った、『われわれに罪はない。彼らがそのまことのすみかである主、先祖たちの希望であった主に対して罪を犯したのだ』と。(50・7)
 
いよいよバビロンについての預言です。バビロンは北からの王国によって ――ペルシャのこと―― 滅ぼされるのだと語られました。
 
神は、イスラエルを撃つためにバビロンを用いられました。しかし、それは、バビロンが正義の使者であるという証明にはなりません。バビロンはただ神に用いられて、神の民に鉄槌を下したに過ぎません。なのにバビロンは高ぶり、「自分たちに罪はない」とまで言い、その高ぶりは天にまで達しました。
 
バビロンの言い分は冒頭の言葉の通り、「われわれに罪はない。彼ら(イスラエル)がそのまことのすみかである主、先祖たちの希望であった主に対して罪を犯したのだ」というのです。
 
神はこのような高ぶりをさばかれます。彼らが滅ぼされる理由は彼がイスラエルの聖者である主に向かって高慢にふるまったからだ(50・29)
 
神がバビロンを用いてイスラエルに悔い改めをせまられたように、未信者を通して、私の罪が指摘され、悔い改めへと導かれることがあります。また、「あなたに言われたくない」と思うような人から、悔い改めをせまられることもあるでしょう。 ※こういう時こそ、ムッとしないでハッとする。
 
ひょっとして、神がその人を用いて言わせておられるのかも知れません。高慢とは恐ろしいもので、それと気づかずに頑迷な心を貫いてしまいます。ああ、主よ。気づかせてください!!。
 
ユダヤの人々も、バビロンの攻撃を主からのものと受け止め悔い改めた者と、バビロンから言われたくないよと我を張った者とに分かれたわけです。「いのちの道」と「死の道」の違いです。
 
さて、逆に、罪人にすぎない私のひと言が、他者の悔い改めを導くことになるかも知れません。しかし、だからといって私は正義の使者ではありません。彼を見くだし、高ぶって良いはずがありません。
 
罪人の私ですら神は用いて、隣人の悔い改めを導かれることに恐れおののきつつ、自分は自分の罪を悔い改めなければなりません。むしろ、私のような人間が語るひと言によってですら、悔い改めることのできた彼を尊敬するべきです。
 
しかし、バビロンは、そうしなかったのです。そうするどころか、益々高ぶり、イスラエルの民をさげすみ、イスラエルの神をあなどったので、そのさばきは厳しく下るのだと預言されました。
 
諸国に対する預言で共通するところは、彼らの高ぶりであることは重要なことです。そして、神が目指しておられるところは謙遜です。「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(Ⅰペテロ5・5)。悔いし砕けし霊魂を主にささげよう。
 
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エレミヤ書 51章

2022年11月29日 | エレミヤ書
エレミヤ書 51章
わが民よ、あなた方はその中から出て、おのおの主の激しい怒りを免れ、その命を救え。(51・45)
 
神はバビロンを滅ぼすのだと言われます。このバビロンの高慢と堕落は、イザヤ書では「天で堕落して地に落とされたサタン」になぞらえて表現されていました(イザヤ14・12~15)
 
そこでは、神に仕えるべく天使が高慢になり、自分も神のようになろうとして堕落した姿として描かれていました。
 
同じように、エレミヤ書50~51章でも、高慢な王国であるバビロンの姿は、神に仕えるべく立場を捨てて高ぶった堕落天使(サタン)の姿を表しています。こうして、神は、高慢なバビロンを滅ぼすことによって、サタンとその仲間たちを滅ぼしてしまわれることの預言をなさったのです。
 
しかし、神の御心は、神を礼拝する者たちを、サタンもろともに滅ぼすことをなさいません。必ずそこから救い出されます。ノアの洪水の時も、そこから敬虔なノアとその家族を救い出されたように……。
 
バビロンを滅ぼされるのですが、バビロンでとらわれの身であるイスラエルを、神はそこから救い出されます。わが民よ、あなた方はその中から出て、おのおの主の激しい怒りを免れ、その命を救えと言われるのです(51・45)
 
つまりその罰にまきこまれて断ち滅ぼされてはならない(51・6)といわれるのです。サタンの滅びの巻き添えをくわないように、そこから出てこいと主は呼び出されるのです。
バビロン滅亡の時も神はイスラエルを救い出されましたが、やがて終末の大患難の時代にも、神は、神を愛する民を救い出されるはずです。
 
神が目指されるところは、サタンを滅ぼし……つまり、サタンのわざである罪と悪を滅ぼして、聖なる秩序ある世界を回復することです。その滅びの計画は確実に進んでいます。
 
しかし、そのさばきと滅びの中で、聖なる民も共に滅ぼすことはなさいません。神は、必ず救い出されます。それが神のご計画です。その滅びから唯一救われる方法はイエスを信じる信仰です。
 
イエスを信じて「主の激しい怒りを免れ、その命を救え」と、主は言われるのです。
 
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エレミヤ書 49章

2022年11月28日 | エレミヤ書
エレミヤ書 49章
しかし、のちになって、わたしはアンモン人を再び栄えさせると、主は言われる。(49・6)
 
聖書が証しする創造主は、イスラエルだけの神ではなく、全人類の神です。ですから、主はイスラエルだけではなく、すべての民をもさばかれます。
 
ただ、イスラエルは何でも最初です。恵みもイスラエルからはじまりますが、さばきや懲らしめもイスラエルが最初です。
 
ちょうど、人類のなかで長兄のような立場です。良きにつけ悪しきにつけ、人類のお手本です。長兄であるイスラエルがさばかれるのを見て、弟である異邦人は身を正して悔い改めればよいのですが、それができなくて同じようにさばきを受けます。
 
49章に記されているアモン人もそうです。先のモアブもそうであったように、アモンも高ぶって神に背を向けたのです。こう記されています。
 
不信の娘よ、あなたはなぜ自分の谷の事を誇るのか。あなたは自分の富に寄り頼んで、だれがわたしに攻めてくるものかと言う(49・4)。 ※モアブは山に囲まれており、通路は「谷」のみである。敵軍が大軍であろうと、その谷を蟻の行列のように進軍するしかなく、モアブとしては谷で待ち構えて攻撃できるため難攻不落であった。それを誇り、自分たちは無敵だと高ぶった。
 
モアブもアモンもロトの子孫です。かつては、アブラハムが信仰した神を共に信じていた民でした。残念ですが、大きく道がそれてしまいました。
 
また、7節の「エドム」もルーツはイスラエルです。イスラエル ――元の名はヤコブ―― の双子の兄エサウの子孫がエドム人です。霊的祝福である長子の権利よりも、目先の煮物を優先したあのエサウです。このように元をたどれば同じなのですが、目先の利益を優先するあまり、霊的な祝福を手放したことから道がずれてしまいました。
 
そんな彼らに対しても、主は、再び栄えさせると約束されています。新改訳では捕らわれ人を帰らせると翻訳していますが、つまり、神は、彼らを回復させると言われるのです。
 
私たちはどうですか。「わたしが道だ」と言われる主イエスから目をそらさないで、この道をしっかり歩みたいものです。
 
時には道がそれてしまうこともあります。その結果、神の懲らしめの中を歩むこともあります。しかし、哀れみ深い神は、その懲らしめの後に、私たちを回復へと導かれるお方であることを忘れないでください。
 
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エレミヤ書 48章

2022年11月26日 | エレミヤ書
エレミヤ書 48章
わたしは彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。(48・30 新改訳)
 
48章はモアブに対する預言です。モアブの国は死海東側に位置しているわけですが、エジプト軍が北上するときも、バビロン軍が南下するときもユダヤ地方を通過するため、比較的平穏な地域でした。
 
ですから……、
 
モアブは幼い時から平穏に過ごして、捕囚となったことはない。古い酒のように静かに寝かされ、器から器へ注ぎかえられることなく、その風味は失われず、香りも変わることがなかった(48・11・新共同訳)
 
……と言われています。大きな戦乱に巻き込まれることなく、平安であり、芳醇なぶどう酒が熟成するようにして繁栄を享受したのです。しかし、恵まれた環境の中でモアブは高ぶったのです。
 
モアブの姿は、何でもうまく行っていると、自分を何か偉い者であるかのように高ぶり、神への感謝や謙遜を忘れてしまう人のことです。
 
彼らの高ぶりは真の神を否定して、自分たちで作り出した神々を拝んだり、富を頼りとする生き方へと変質して行きました。そんなモアブに対して主は、お前は自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、お前まで捕えられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに捕囚となって出て行くと言われます(48・7)
 
また、イスラエルの滅びを対岸の火事のようにながめ、助けようともしませんでした。彼らの高ぶった姿についてお前はイスラエルを笑いものにしたではないか。イスラエルが盗人の仲間であったとでも言うのか、お前がイスラエルのことを口にするたびに嘲ったのはと言われます(48・27 新共同訳)
 
そもそも、モアブ人のルーツはアブラハムの甥であるロトの子孫です(創世記19・37)。ロトはアブラハムと共にウルの地を出て、神の指し示す地へ旅立ったのです。アブラハムと共に同じ神である主を信じていたのに、どこから、ロトとその子孫モアブは道がそれてしまったのでしょうか。
 
ロトはアブラハムと旅を共にしていましたが、家畜も家族も増えて手狭になったため、二手に分かれるようになったことがあります。
 
山間の険しい土地と低地の肥沃な土地を前にして、アブラハムはロトに選択権を与えました。その時、ロトは肥沃な低地を選び取り、こうして両者は袂(たもと)を分かつことになりました。
 
富を選び取る、目先の利益を優先する……そんなロトの生き方は、やがてモアブの子孫へと引き継がれたのでしょうか。何を第一にして生きるのかによって、やがてその道は年月を経て大きな隔たりとなって行くことの教訓です。
 
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エレミヤ書 47章

2022年11月25日 | エレミヤ書
エレミヤ書 47章
主の剣よ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。(47・6)
 
諸国に対する預言が続くなかで、47章はペリシテ人に対するさばきです。
 
神は、ご自分の民(イスラエル)をさばくだけでなく、諸国の民をさばかれます。それは、主である神が、すべての民の神であるからです。万物を創造し、すべての民族を創造なさった神だからです。
 
2節に「北から」とあるのは、バビロン軍のことです。地理的には東がバビロンですが、〝肥沃な三日月地帯〟を通ってやって来るので、北から来るという表現になります。
 
こうして、ペリシテ人はバビロンによって滅ぼされるのだと預言されています。
 
ペリシテ人に対するバビロン軍の攻撃があまりにも激しいので、ペリシテ人は叫ぶのです。「主の剣よ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ」と(47・6)
 
ペリシテ人は異教の民でありながら、この攻撃が主から来るものだと知っています。バビロンの攻撃のことを、主の剣と叫んでいるからです。
 
イスラエルの隣人であるペリシテ人は、バビロンによってイスラエルが滅びるのを見て、それが〝主の剣〟だと学んでいたのです。しかし、隣人を見て、自分に当てはめようとはしませんでした。「他者(ひと)のふり見て、わがふりなおせ」とはこのことです。
 
さて、「主の剣」は休むことなく、ペリシテ人を撃つことになるというのです。彼らの場合は、金属製の剣をもってでしたが、新約の私たちにとって主の剣とは神の御言です(エペソ6・17)。神の御言は両刃の剣より鋭くて、私たちの思いを切り分けるのです(ヘブル4・12)。神の御言は、私たちの罪の部分を切り取りきよめようと、私たちの心を撃ちます。時には厳しくも思える神の御言ですが、肉の考えを滅ぼし、霊の考えを植えつけるためなのです。
 
神の御言は私の中で働き続けられます。しかし、それを嫌って「主の剣よ……休んでおれ、静かにせよ」と言いますか。それとも、御言の働きを歓迎しますか。終わりの時、イエスの御言が人々をさばく剣になることを忘れてはなりません(ヨハネ12・48)
 
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エレミヤ書 46章

2022年11月24日 | エレミヤ書
エレミヤ書 46章
わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない。わたしが共にいるからだ。(46・28)
 
46章からは、周辺諸国についての預言が続きます。本章はエジプトについてです。
 
エジプトがバビロンに敗戦する様子がえがかれていますが(46・1~12)、これはカルケミシュの戦いのことで紀元前605年のことです。この敗戦でエジプトは徐々に衰退して行き、やがてバビロンによって滅ぼされ支配されるのだと預言されています。
 
イスラエルはバビロンやエジプトといった大国の狭間にあって常に翻弄され続けました。だからこそ、主である神を信頼する道を選ばなければならなかったわけですが、実際は、大国を頼り、彼らに媚(こ)びながら生きてきました。
 
先のヨハナン一行もエジプトを頼って亡命したわけですが、この預言のとおりに彼らも滅びてしまいました。主の御言に従う者とそうでない者との明暗が分かれてしまいました。
 
冒頭の預言は、信頼するエジプトさえも、やがて滅ぼされるのだ。それを頼ってはならない。彼らを恐れてはならないと戒めています。
 
エジプトを頼って避難してきた民にとって、エジプトの滅亡は大きな試練であったに違いありません。しかし、神は、そのような試練を通してお前は何に頼っているのかと問うておられます。
 
神を裏切り続けるイスラエル民族ですが、それでもなお、わたしのしもべヤコブよ。恐れることはない。わたしが共にいるからだと呼びかけておられます。目に見えるエジプトではなく、万物の創造者である主を信頼する信仰へと目が開かれるのは、一体いつになれば実現するのでしょうか。
 
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エレミヤ書 45章

2022年11月23日 | エレミヤ書
エレミヤ書 45章
あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならない。(45・5)
 
今日の45章は時代がさかのぼって「ゼデキヤ王の第四年」となっていますから、丁度、エレミヤの語る預言をバルクが巻物に筆記し、それを神殿で人々に読み聞かせた時代のことです。
 
バルクは常にエレミヤと行動を共にし、エレミヤを助け、苦労を共に担った人です。しかし、神の御言を語れば語るほど、人々から迫害を受ける現実に、バルクは耐えきれずに、神に祈りました。
 
ああ、私はわざわいだ、主が私の苦しみに悲しみをお加えになった。私は嘆き疲れて、安息が得られない(45・3)
 
神殿で民に預言書を語り聞かせたけれど、その巻物は王によって焼き捨てられるばかりか、いのちをねらわれ、身を隠さなければならない状況になった時のことです。
 
神のご用をしているのに、どうしてこのように苦しむのですか。神がおられるなら、どうしてこんな悲惨な結果になるのですか。もう嘆き疲れました……と、神に申し上げたのです。無理もないことです。
 
そのようなバルクの祈りに神は応えられました。あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならないと。どういう意味でしょうか。〝自分のためにが鍵です。
 
神殿で預言書を読み聞かせたなら、人々の中に劇的な悔い改め運動が起こり、あのヨシヤ王の時代のような宗教改革へと展開してほしい。そうするなら、エレミヤ先生の名誉は回復され、自分も共にその栄誉にあずかれるのだが……。
 
このような、格好いい劇的なシナリオを描いていたのではと思われます。それは、神がご覧になるに、自分のために大いなる事を願うことです。
 
牧師も、たまに、そのような格好いい〝大いなる事〟を求めます。いまは貧しく小さな教会だけれども、やがて大教会になって、有名な牧師になって人々から注目を浴びて……。
 
これって変ですよ。どこかゆがんでいます。神の栄光ではなく自分の栄光を求めていませんか。信仰は「自己実現」の道具ではありません。自分の成功に酔いしれたいのですか。それは自分のために大いなる事を願うことです。
 
もちろん、神の御心であれば、そのような偉大な働きをする人もいます。それを否定しているのではありません。彼は、その働きに召された人です。
 
逆に、悲しみと苦しみの人生に召された人もいます。エレミヤとバルクはそのような人です。人間的に見れば、彼らの人生は悲惨で、「神がいるならどうして?」と疑いたくなります。
 
でも、神のご計画はあまりにも大きくて深いのです。私ひとりで、その計画のすべてを成し遂げることなど到底できません。
 
神は、その大きなご計画の中で、ある者には成功と思える部分を担当させ、ある者には殉教の部分を、ある者には悲しみの部分を担当するよう召されています。丁度、各自に与えられたタラントの数が異なるのと同じです。
 
ですから、この世で「功成り名を遂げる」人生が祝福であって、名もなく悲しみで終える人生は祝福されていないとは言えないのです。それぞれに与えられた召しと使命に忠実であることこそ祝福です。
 
こうして、各自の働きが紡(つむ)ぎ合わされるようにして、神の御業は完成して行きます。
 
どうして私はこの部分が担当なのですか……と不満もあるでしょう。しかし、それでもなお、「神の御心がなされますように」と祈りつつ、自分が召された人生を、神の御心が成し遂げられるために差し出して行くわけです。
 
終わりの時、「良くやった忠実なしもべだと祝福の言葉を頂戴することこそ本当の祝福です。ですから、悲しみの多いバルクの人生でしたが、そんな彼に「あなたの命はあなたの行くすべての所で、ぶんどり物としてあなたに与える」と主は言われます。
 
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エレミヤ書 44章

2022年11月22日 | エレミヤ書
エレミヤ書 44章
あなたが主の名によって私たちに述べられた言葉は、私たちは聞くことができません。(44・16)
 
高慢な人々について、もう少し考えてみましょう。冒頭の聖句は、エレミヤを通して語られた御言に異議を唱えた人々の声です。
 
エレミヤはヨハナンたちに引き連れられてエジプトにやって来ました。すでにエジプトには、バビロンの手から逃れてきたユダヤ人たちのコミュニティーが形成されており、そこに彼らは迎え入れられたわけです。しかし、エジプトに寄留するユダヤ人たちの信仰は堕落していました。異教の地エジプトの習慣にそまって、彼らは偶像の神々に香を焚(た)く者たちでした。
 
そんな彼らに語られた預言は……
 
なぜあなた方はその手のわざをもってわたしを怒らせ、あなた方が行って住まうエジプトの地で、他の神々に香をたいて自分の身を滅ぼし、地の万国の内に、呪いとなり、はずかしめとなろうとするのかというものでした(44・8)
 
これに対する民の返答は驚くべきものでした。彼らは「あなたが主の名によって私たちに述べられた言葉は、私たちは聞くことができません」と神の御言を拒絶したのです。
 
そして、その理由をこう語るのです。
 
「私たちは誓ったことをみな行い、私たちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、私たちと私たちの先祖たちおよび私たちの王たちと、私たちのつかさたちが行ったようにいたします。
 
その時には、私たちは糧食には飽き、幸せで、災に会いませんでした。ところが、私たちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました。」(44・17~18)
 
彼らは、主を礼拝するより、天后(てんこう)(天の女王)を礼拝する方が御利益があるのだと主張しているのです。天后とは女神信仰です。天体崇拝のことであるとも言われています。
 
このような異教がユダヤで盛んになったのは、時をさかのぼることマナセ王の時代でした。しかし、のちのヨシヤ王による宗教改革によって天后信仰は追放されました。
 
しかし、彼らが言うには、ヨシヤの改革によって天后礼拝をやめてから、ユダヤの国は坂道を転がるように災難続きではないか。しかも、ヨシヤ王は戦死し、ついにはバビロンによって滅ぼされたのだ。良いことなどなかった。その一連の原因は天后をながしろにしたことの祟(たた)りだと主張するのです。
 
しかし、自分たちはこうしてエジプトに移り住んで今日にいたっているが、天后(天の女王)に香を焚き、お神酒(みき)注ぎもして、そのお陰で食糧にも困らず災いなく過ごしているのだ……。
 
こう言われて、皆さんはどう思いますか。そうか、天后礼拝の方が良いかなと思いますか。そんな御利益があるなら偶像礼拝も満更(まんざら)ではないなと思いますか。地上でうまく生きるために信じているなら、そう考える人もいます。地上で健康で、裕福で、長生きをして、面白おかしく生きることが人生の目的であれば、そのような宗教も分かります。
 
しかし、聖書の神は何を目指しておられるのですか。この地上 ――今のこの世界―― はやがて滅ぼされようとしています。悪魔をはじめとする堕落した御使たちを閉じ込めて、神の義によって滅ぼしてしまうのが、神のご計画です。
 
主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。(ユダ6)
 
神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。(Ⅱペテロ2・4)
 
このように閉じ込めておいて、イエス・キリストの来臨によって滅ぼしてしまわれるのです。だから、御言はさらにこう述べています。
 
主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(Ⅱペテロ3・10)
 
ですから……
 
このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまうのです(同3・11~12)
 
そこで、私たちは……
 
神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいるのです(同3・13)
 
主イエスの再臨によって実現する新しい天と地の実現から焦点をずらすと、エジプトで天后礼拝をした民のようにイエスへの信仰を見失ってしまいます。目の前の食物のために祝福を弟にくれてやったエサウのようになってしまいます。
 
もし、キリスト教会がこのことに口をつぐんで、地上での繁栄や成功のための宗教になってしまうなら、教会の堕落です。キリスト教は世の一般宗教と何ら変わらないものとみなされます。
 
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エレミヤ書 43章

2022年11月21日 | エレミヤ書
エレミヤ書 43章
ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢な人々はみな……(43・2)
 
エジプト行きを決め込んでいたヨハナンたちに対して、「ユダの地に留まって、そこでバビロンに仕えよ」と預言したエレミヤは、ヨハナンたちから猛反発を受けてしまいました。
 
「あなたは偽りを言っている。我々の神、主が、『エジプトへ行ってそこに住むな』と言わせるために、あなたをつかわされたのではない」と彼らは反論しました(43・2)
 
先の42章では「神の御心はどこにあるのでしょう。私たちはそれに聞き従います」と信仰深げな態度でしたが、ついに本性(ほんしょう)が現れてきました。
 
神の御言は光のようです。私たちの心の闇を照らして、それを明らかにします。闇を温存しようとする人は、その光のような御言から遠ざかろうとします。しかし、へりくだる者は、御言の光のもとに闇をさらけ出して悔い改めます。
 
エレミヤが語った御言を通して、ヨハナンの闇が現れてきました。でも、彼らは高慢な人々でした(43・2)。それが明らかにされると益々心をかたくなにし、御言から遠ざかって行きました。
 
私たちの心はどうですか。神の御言の前に謙遜ですか。それともヨハナンのように「神はそう言われても、私はこう考えます」と自己主張しますか。
 
仕える」「しもべになる」。この大切なレッスンから逃げてはなりませんしかし、ヨハナンたちはこの課題から逃げて、エジプト行きを強行しました。
 
その際、彼らはエレミヤも強制的に連れて行きました(43・6~7)。彼らの心のどこかに、神の御言に背いていることへの後ろめたさがあったからではないかと思われます。
 
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エレミヤ書 42章

2022年11月19日 | エレミヤ書
エレミヤ書 42章
もしあなた方がこの地にとどまるならば、わたしはあなた方を建てて倒すことなく、あなた方を植えて抜くことはしない。(42・10)
 
奴隷となってバビロンへ連れて行かれた人々の苦労も大変でしたが、捕囚をまぬがれてユダヤに残った民にもまた厳しい現実が待ち構えていました。
 
そんな残された民たちと再建に取りかかった総督ゲダリヤでしたが、王族のイシマエルによって暗殺されました。
 
すでに、そのような不穏な動きはあったようで、ユダヤの残党の将であるヨハナンからも情報を得ていました。しかも、ヨハナンは、先手を取ってイシマエルを撃つべきだと提案までしていました。
 
しかし、ゲダリヤはヨハナンの提言を受け入れませんでした。もしも忠告を聞いていれば、暗殺されずにすんだのでは……と悔やまれるわけですが、彼はなぜ、忠告を無視してでまでイシマエルとの会食に応じたのでしょうか。
 
バビロン捕囚後のユダヤの覇権争いが水面下で動いており、総督ゲダリヤのいのちをねらう不穏な動きがあることを、ゲダリヤ自身も充分承知していたのではないかと思われます。
 
ここで覇権争いがこじれたり大きくなれば、一旦、集結した戦火は再び燃え上がり、弱っている民がさらに疲弊することは必至でした。それを避けようとしたゲダリヤは、反対者たちに対しても友好的な対応を試みたのだと思われます。
 
もし、ヨハナンの提言に乗じて先手を打ち、イシマエルを殺害していたなら、内乱となるばかりか、ヨハナンに借りをつくってしまうことになり、その後のユダヤの再建にヨハナンの影響力が増すことを懸念したのかもしれません。しかし、志半ばにゲダリヤは倒されてしまいました。
 
さて、ゲダリヤが暗殺されたと知ったヨハナンは、イシマエル討伐のためにすぐさま兵を引き連れて戦いに出たわけですが、イシマエルは国外に逃亡。大きな戦争にならずに、ヨハナンがユダヤの実権を握ることになりました。
 
しかし、総督ゲダリヤが暗殺されたとなると、バビロン当局も黙ってはいないはずです。覇権争いの首謀者としてヨハナンの名も浮上し、処罰される可能性もありました。それを恐れて、ヨハナンは民を引き連れてエジプトへの亡命を計画しました。ここまでが40~41章の概略です。
 
しかし、これが神の御心なのか。それを問うために、ヨハナンはエレミヤに尋ねてこう語りました。
 
私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられる言葉のとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。(42・5~6)
 
なかなか殊勝な心構えです。でも、彼の意志はすでに「エジプト行き」で決まっていました。
 
さて、エレミヤを通して語られた御言は、冒頭のようにもしあなた方がこの地にとどまるならば、わたしはあなた方を建てて倒すことなく、あなた方を植えて抜くことはしないというものでした。
 
しかし、それを聞いても、彼は自分の考えを曲げずに、エジプト行きを正当化します。そのことは、次の43章で述べられています。
 
つまり「神の御心を問う」などと信仰深げであっても、本当は自分の考えが優先で、自分の考えを正当化するために、神の示しを求めるという態度でした。
 
どちらが主ですか。自分の考えですか。それとも神の御心ですか。
 
神の御心はユダヤの地でバビロンに仕えよです。バビロンに奴隷として連れて行かれた者にも、ユダヤに残された者にも「仕える」ことが、神が与えた大切なレッスンでした。
 
ですから、いまの境遇を恐れてはならない。いまは、仕えよ、神のしもべとなってバビロンに仕えよ、と主は言われるのです。
 
あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなた方を救い、彼の手から助け出すからであると主は言われるのです(42・11)。 ※彼らは人を恐れていた。まさに「人を恐れるとわなに陥る」(箴言29・25)の言葉の通り、彼らは惑わされていた。
 
新約のクリスチャンにも、神はこの仕えるというレッスンをお与えになります。神の子どもである者がしもべになるという課程を経ずして天国に入って行くことはできません。
 
しもべになることを、恐れてはなりません。身を低くする者を、主は高くなさるからです。主イエスもそうなさったのですから。
 
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エレミヤ書 41章

2022年11月18日 | エレミヤ書
エレミヤ書 41章
ネタニヤの子イシマエルおよび共にいた十人の者は立ち上がって、バビロンの王がこの地の総督としたシャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを刀で殺した。(41・2)
 
この41章は、〝神の御言を失った人々の混乱〟が描かれています。
 
捕囚としてバビロンに連れて行かれなかった人々を治めるために、バビロンはゲダルヤを総督として任命し、その任に当たらせました。しかし、彼が総督であることに不満を抱く者たちがいました。それは、ネタニヤの子イシマエルです。彼はユダヤ王家の血筋であったと記されています(41・1)。イシマエルは、王家の血筋でもないゲダルヤが総督であることに不満を抱き、暗殺を画策していました。
 
しばしば、血筋や経歴を誇りとする人々によって、神の働きは妨害されます。
 
肉なる誇りによって分裂や分派が生じていたコリント教会もそうでした。私たちが神の子どもとされたときのことを考えてみなければなりません。身分のある者でもなく、権力のある者でもなく、なきに等しい者をあえて神は選ばれました。それは、だれも誇ることがないためであり、誇る者は主を誇るようになるためでした。
 
遂に、イシマエルはゲダルヤを暗殺して人質を取って逃亡するのですが、ヨハナンはイシマエル一行を追撃し一戦を交え、イシマエルを取り逃すものの人質を奪還しました。
 
しかし、そのヨハナンも奪還した民を引き連れてエジプトへ亡命しようとしました(41・17)。反逆者であるイシマエルを追撃したのだから、バビロンにしてみれば功労者であるわけですが、ヨハナンはバビロンを恐れたとあります(41・18)。一連の混乱の責任を問われることを恐れたのでしょう。
 
エレミヤを通して民に与えられた御言はバビロンに仕えよでしたそれは連行された民だけではなく、ユダヤの地に残った民にも課せられた神のレッスンです。神は、人々が「仕える者」となるように導かれるのです。
 
しかし、この一連の事件は、だれが偉いのかという争いです。偉くなりたい者は仕える者になりなさい」。これが神の御言です。神の御言を失った人々の混乱がここにあります。
 
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エレミヤ書 40章

2022年11月17日 | エレミヤ書
エレミヤ書 40章
エレミヤはミヅパへ行き、アヒカムの子ゲダリヤの所へ行って、彼と共にその地に残っている民のうちに住んだ。(40・6)
 
バビロン軍によってエルサレムは陥落。捕虜となった民は各地から一旦ラマという町に集められ、そこからバビロンへと旅立つことになっていました。
 
先の39章では、バビロン王から「エレミヤの安全を確保せよ」との命令を受けていたはずなのですが、何かの手違いで、エレミヤはラマの地で捕囚の民と共に鎖につながれていました(40・1)
 
それを発見した侍従長ネブザラダンは、エレミヤを解放してこう提言しています。
 
私と一緒にバビロンへ行くのが良いと思われるなら、おいでなさい。私は充分あなたの世話をします。もしあなたが私と一緒にバビロンには行きたくないなら、行かなくてもよろしい。見よ、この地はみなあなたの前にあります、あなたが良いと思い、正しいと思う所に行きなさい。(40・4)
 
エレミヤの活動を把握していたバビロンは、エレミヤに対して敬意をもって寛大な対応をしています。ですから、侍従長と共にバビロンに行くなら、生活は安泰であったと思われます。
 
しかし、エレミヤは荒廃したユダヤの地に残ることを選びました。エレミヤはミヅパへ行き、アヒカムの子ゲダリヤの所へ行って、彼と共にその地に残っている民のうちに住んだのです(40・6)。このゲダリヤはユダヤ人であり、残留邦人※を治めるために、バビロンからユダヤ総督に任命された人物です。 ※バビロンに連行されなかったユダヤ人もいた。彼らの多くは貧しい庶民であった。捕囚の地バビロンには預言者エゼキエルがすでに活動していた。エレミヤは残留民に仕えるよう召された。
 
エレミヤは安泰な生活ではなく、残された民と共に、荒廃したユダヤの地を建て直す道を選びました。弱い者たちと共に生きようとしたエレミヤの生き様に教えられます。
 
こうして、前途多難なユダヤの再建は、総督ゲダリヤとエレミヤの協力のもとに始まったわけですが、その知らせを聞いた離散ユダヤ人たちも集結しはじめました(40・7)。その人々の中には、自分たちの支配力を増そうとする不穏な動きをする者たちもいました。彼らによってユダヤの再建は頓挫してしまうのか。それとも、ひとつ思いになって再建が進むのか。
 
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エレミヤ書 39章

2022年11月16日 | エレミヤ書
エレミヤ書 39章
あなたがわたしに信頼したからだ。(39・18)
 
ついにエルサレム陥落の時がやってきました。
 
紀元前588年にバビロン軍はエルサレムを包囲し、2年余りの攻防戦のすえに紀元前586年に陥落。
 
逃亡をはかったゼデキヤ王は捕らえられ、目の前で子らを虐殺され、彼自身は目をえぐられたうえに、奴隷としてバビロンに連れて行かれました。彼は死ぬまで投獄されました。エレミヤを通して神の御言に何度も耳を傾けながらも、体面を気にして人の顔色をうかがうあまり、御言に聞き従わなかった結末です。
 
ゼデキヤ王は逃亡をはかりましたが、バビロンの手から逃れることができませんでした。それは、神の手から逃れることができなかったとも言い換えることができます。
 
神のさばきからだれも逃れることができないことを象徴する結末でした。罪を隠し通すことも、神のさばきから逃れることもできないのです。
 
ゼデキヤ王をはじめすべての人が、罪から逃れることができません。罪に対するさばきから逃れることができません。ただ唯一、逃れる道があります。たったひとつですが確実な道です。エレミヤが語ったように、神の御前に悔い改めて降伏することです。それが「いのちの道」なのです。
 
さて、エレミヤはバビロン軍によって救出されました。籠城して戦う民と道連れで滅ぼされるところですが、神はエレミヤを覚えておられます。
 
バビロンの王ネブカデレザルはエレミヤの事について侍衛長ネブザラダンに命じて言った、彼をとり、よく世話をせよ。害を加えることなく、彼があなたに言うようにしてやりなさい』。」(39・11~12)
 
すでに投降したユダヤ人からエレミヤの情報は伝えられていたこともあって、彼は特別な配慮を受けることになりました。
 
また、投獄中のエレミヤに親切にしてくれたエチオピヤ人(クシュ人)エベデ・メレクについても、神はお忘れになっていませんでした。彼についてこう述べられています。主は言われる、その日わたしはあなたを救う。あなたは自分の恐れている人々の手に渡されることはない(39・17)
 
エベデ・メレクは獄中のエレミヤを援助したのです。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないと言われた主イエスの御言のとおりです。
 
そして、「あなた方は、わたしが空腹の時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、獄にいた時に尋ねてくれたからである」と言って、そのような者に主自ら報いてくださるのです(マタイ25・35~36)
 
国中がエレミヤに敵対する中で、エベデメレクはいかに勇気が必要だったでしょうか。人々から誤解されたことでしょう。でも、彼には主を信頼する心があったのです。
 
先のゼデキヤ王が神のさばきから逃れようとしても、神はそれを見逃されないように、逆に、神を信頼したエベデメレクのことも、神は見逃されません。神は彼に〝いのち〟をもって報いてくださったのです。
 
悪に対しても、善に対しても、神はそれを覚えておられ、それぞれに相応しく報いてくださるお方であることを信頼しよう。そのように信頼する私たちに対して、主は最後に〝いのち〟をもって報いてくださるはずです。あなたがわたしに信頼したからだと言われるとおりです(39・18)と。
 
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エレミヤ書 38章

2022年11月15日 | エレミヤ書
エレミヤ書 38章
エレミヤはエルサレムの取られる日まで監視の庭にとどまっていた。(38・28)
 
投獄されたエレミヤでしたが、ゼデキヤ王の取り計らいで監視の庭と呼ばれる場所に移され、食糧不足の中にもかかわらず、1日1個のパンが支給されました(37・21)
 
このような対応に、「首長たちを気にしながら、エレミヤが語る主の言葉も気になる」というゼデキヤ王のためらいを感じ取ることができます。
 
「監視の庭」はゆるやかな軟禁状態であったのでしょう。人々との会話も可能であったようです。そこで、エレミヤはためらうことなく監視の庭から人々に神の御言を語り続けました。
 
「主はこう言われる、この町にとどまる者は、剣や飢饉や疫病で死ぬ。しかし出てカルデヤ人にくだる者は死を免れる。すなわち、その命を自分のぶんどり物として生きることができる。主はこう言われる、この町は必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを取る」(38・2~3)この町は罪のゆえに滅ぼされるから、悔い改めて、この町から出て、いのちを得なさいというわけです。
 
神は罪を滅ぼされます。容赦なさいません。とはいえ、神は、いのちの道を用意なさっています。悔い改める者を救い出されるのが神の御心です。
 
たとえば、ノアの時の大洪水を思い出してください。神は、罪と悪に満ちたこの地を洪水によって滅ぼすことになさいました。しかし、ノアによって箱船を造らせ、これに乗り込む者を救われました。
 
また、神は、罪に汚れたソドムとゴモラの町を滅ぼすことになさいました。しかし、ロトの家族をそこから救い出されました。この町は滅ぼすことになっているので、この町から出ていのちを得よと、神は命じられたわけです。
 
そして、エレミヤを通して語られるメッセージもこの延長線上にあります。これらの出来事は、やがて悪魔と悪魔に付き従った世を滅ぼす前に人々を救い出すことの〝ひな型〟です。
 
悔い改めてイエスを信じるとは、この世から出てくることです。この世に属する者から、天に属する者になることです。滅び行く町に籠城して悪魔と道連れに滅ぼされてはなりません。それは、悔い改めをせまる神に対する敵対です。
 
イエス・キリストの福音には以上のような意味が込められているのです。
 
この救いのメッセージを語り続けるために、エレミヤはエルサレム陥落の時まで監視の庭にとどめ置かれました。厳しく危険な中にあっても、エレミヤは守られ、語り続けることができました。
 
新約の時代に置かれているクリスチャンの立場もこれと同じです。最後のさばきの直前まで、この地上にとどめ置かれることになるでしょう。それは、直前まで福音を伝えるためです。
 
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