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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

マラキ書 4章

2023年08月11日 | マラキ書
マラキ書 4章
しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。
(4・2)


先の3章では、主に仕える者と仕えない者との区別を知るようになることを見ました。それを知る日は、キリスト来臨の時です。炉のように燃える日と表現されています(4・1)

しかしです。主の御名を恐れ、仕えてきた者にとって、その日は義の太陽がのぼるような栄光の日になるのです。

雨が降り暗くジトジトとした日々が終わり、太陽の陽に照らされる日の到来は、何と気持ちの良いことでしょう。神に仕え、神の御言に従って生きることは、苦難や困難を味わう日々もあります。でも、その人にはやがて義の太陽がのぼるのです。

たとえ正義が踏みにじられ不義が覆うようなどんよりとした人生にも、イエス・キリストの十字架の故に〝あなたを義とする太陽〟がのぼるのです。

ご自身をさしてわたしは世の光だと宣言なさったイエス・キリストは、まさに私たちを照らす義の太陽なのです。この太陽に照らされるので、罪人である私は勇気を得て立ち上がるのです。まるで、牛舎から飛び出す子牛のように、 罪の牢獄から飛び出して歩き出すのです。

世間からのスポットライトを浴びたいと願う人がいます。人々から注目されたい。称賛されたい。有名になりたい。脚光を浴びて主役のように振る舞う人生を夢見る人がいます。そんな一時だけのスポットライトで照らされるより素晴らしい生き方があります。イエス・キリストという義の太陽に照らされ続けることです。

さて、マラキはそのようなキリストの来臨を預言したわけですが、その準備のために主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わすと言われました(4・5)。この時点でエリヤはすでに過去に登場した預言者で、列王紀に記録されています。ですから、この「預言者エリヤ」とは、かつてのエリヤを想起させるような人物のことです。この人物については、すでにマラキが3章1節で預言しており、「わが使者」であり、「わたしの前に道を整える者」のことです。

実際にイエス様がキリストとして活動する前に、バプテスマのヨハネが登場し、キリストを迎える道備えをしました。そして、イエスご自身が、バプテスマのヨハネこそが、マラキ書で預言されていた〝預言者エリヤ〟だと指摘なさいました(マタイ17・11~13)

キリストを迎えるためにやがて登場するエリヤの働きは、父の心をその子たちに向けさせ、子たちの心をその父に向けさせることです(4・6)。父とは神であり、子たちとは人々のことです。顔を向き合うようにして関係が回復することを表しています。それが、キリスト登場のための準備なのです。

アダムとイブが罪をおかして以来、彼らは「主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」とあるように、人類は罪の結果、神に顔を向けることができない状態です(創世記3・8)。そんな民に向かってバプテスマのヨハネは「悔い改めよ」と叫びました。

「悔い改め」とは〝向きを変える〟ことです。神に背を向けていないで、神の方に向きを変えることです。恥ずかしくて顔を背ける人もいれば、恐れてうつむく人もいるでしょう。

でも、まず私たちがなすべきことは「悔い改める」ことです。顔を神に向けることです。大丈夫です。勇気を出して、顔を主に向けるなら「そのおおいは取りのぞかれる」のです(Ⅱコリ3・16)

まともに主の御顔を仰ぐことになるのですが、「義の太陽」であるキリストの栄光に照らされて、私たちは主イエスと同じ姿に変えられて行くのです。大事なことは、顔を主に向けることです。
 

マラキ書 3章

2023年08月10日 | マラキ書
マラキ書 3章
その時あなた方は、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。
(3・18)


真実な礼拝を回復するために、神はある人物を派遣されると言われます。彼は、わたしの前に道を備えるのです(3・1~2)。この〝わたし〟とはキリストのことです。つまり、キリストが来臨なさる道を準備する者が派遣されるという預言です。

この「わたしの前に道を備える」人物とは、バプテスマのヨハネでした。彼によってイスラエルの中に悔い改め運動が起こり、それによってキリストを迎える準備、すなわち道が整えられました。

そして、遂にキリストが来られるわけですが、その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようであると言われています(3・2)

つまり、キリストは聖霊と火によってバプテスマを授けるお方なので、まるで金を精錬する火のように、また布を晒す灰汁のように、主と出会った者はおのが罪を露わにされ清められるのです。

彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清めるとはそういう意味です(3)

そのようなお方が世に来ようとなさっています。だから、神に立ち帰りなさい。そうすれば、神もまた、私たちのもとに戻って来られます。つまり、わたしに帰れ、わたしはあなた方に帰ろうと、万軍の主は言われるのです(7)

では、どのようにして神に立ち帰るのかと民は質問しました(7)。自分たちは神殿に詣でているし、礼拝をささげているのだから、神に背を向けているとは思っていないのです。

すると神は、あなた方はわたしの物を盗んでいると指摘なさるのです。そうですよね。他者の物を盗んでおいて、何食わぬ顔でその人の前に出ることなどできません。同様に、神の物を盗んでいるなら、神の御前に立つことはできません。

でも、民はいったい何を盗んだのだろうと不審に思いました(8)。それに対して、神は、十分の一のささげものをしないことが、すなわち神の物を盗んでいることになるのだと言われました。言い換えれば、〝十分の一〟は神の所有だというのです。

人は、この十分の一を意識することで、万物は神の所有であって、自分は管理者に過ぎないことを自覚することになります。これを忘れるので、富におぼれ、富を主人として拝んでしまうのです。

だから、〝十分の一〟をささげることを通して、富は主人ではないと告白し、まことの神に立ち返ることになるわけです。こうして神に立ち帰るなら、神も私たちのただ中に戻ってきてくださり、その証しとして、豊かな収穫で満たすと約束されています(11)

しかし、疑い深い人々は、神に不従順な者の方が繁栄しているではないかと反論します(14~15)。確かに、イエスが言われた神の御前に富むという豊かさに開眼するまでは、彼らの反論は的を射ているように思います。 ※ルカ福音書12章21節。

でも、結果が出る時がやって来るのだと、冒頭の聖句は告げています。神に仕える者と仕えない者との差が歴然とする時代が来るのです。

信仰とは見えない神の約束を、忍耐強く信頼し続けることです。忍耐強く、神の御名をあがめ、神の御名に仕えることです。神は、必ず天の窓を開いて応えてくださる時が来るのです。



マラキ書 2章

2023年08月09日 | マラキ書
マラキ書 2章
あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。
(2・15 新改訳)


先の第1章では堕落した祭司たちについて、「わが名をあなどる祭司たち」と呼ばれています。新改訳では「わたしの名をさげすむ祭司たち」。つまり、礼拝の形式は行われているが、その実、神の名をあなどる姿が描かれていました。

第2章でも、神の御名に栄光を帰するようにと語られています。もし、御名に栄光を帰さないならば、呪いがあるとまで言われるのです(2・2)

そもそも、神を尊ぶとはどのようにすることでしょうか。

神は霊的な存在ですから目に見えません。だからこそ、神の御名を尊重することが、神を大切にすることになります。「主の祈り」で最初に祈るテーマが御名があがめられますようにであることに注目すべきです。

神の御名をあがめるまことの礼拝者。神はそのような民を求めておられます。そんな民を得ようと、神はイスラエルを選び、その中のレビ族を礼拝奉仕者として聖別なさいました。このことは、出エジプト記とレビ記に詳しく述べられています。

マラキ書2章4節と8節のレビとの契約とは、そのことを指しています。祭司職もこのレビ人の中から出ているのですが、残念ながらその契約に背いた礼拝の姿が指摘されています(2・8)

さらにその逸脱は、結婚においてもなされていました。ユダは偽りを行い、イスラエルおよびエルサレムの中には憎むべき事が行われた。すなわちユダは主が愛しておられる聖所を汚して、他の神に仕える女をめとったのです(2・11)

神殿建設も完成して落ち着きを取り戻したかに見えた時代に、ユダヤの宗教指導者たちは、はじめの妻と離別し、異教の神に仕える女性との結婚を推し進めたのです。教会の指導者である牧師が、熱心な異教徒の女性と結婚するようなものです。当然、霊的には混乱が生じます。

異教徒である女性との雑婚は、異教徒である周辺諸国と親戚関係になるわけです。そうすることによって、当時の帰還民たちは自国の安泰を得ようとしたのだろうと思われます。しかし、それは神の目には、神を信頼しない不信仰な姿でした。そして、彼らは先祖たちに倣って再び偶像礼拝へと傾斜していったのです。

そこで、15節の預言が語られているのですが、とても難解な箇所です。

一つ神は、我々のために命の霊を造り、これを支えられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなた方はみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。(2・15)

共同訳では次のように訳しています。

主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。若い時の妻を裏切ってはならない。

文語訳も紹介しておきましょう。

エホバはただひとつを造りたまひしにあらずや。されども彼にはなほ霊の余りありき。なにゆえにひとつのみなりしや。是は神をうやまふの裔を得んがためなりき。故に汝ら心に謹み、その若き時の妻を誓約にそむきて棄つるなかれ。 ※新改訳では「彼には霊の残りがある」。神が霊的存在を造るなら、天使たちのように多くの霊を創造できたはずなのに、人間だけは「たったひとつの霊」として創造した。キリストにしてみれば〝ひとりの花嫁〟を念頭におく表現だろう。それほどに神は一途に私たちを愛してくださっているのだ。だから、人よ、あなた方もかくあれと命じられている。

15節を要約すれば、結婚を尊び最後まで添い遂げることは、神に対する忠実な霊をもって神に仕えることにつながるのだという意味です。なのに、人は結婚の聖なる目的を逸脱し、肉体的な汚れだけでなく霊的な汚れをももたらしている。神が人をただひとつの霊的存在となさったのは、神を敬う子孫を得るためです。神に忠実であると同時に、妻に対しても最後まで裏切らない者であれと語られているわけでます。

新改訳や共同訳では、15節と16節の二度にわたって、自分の霊に気をつけよと命じているように、結婚は霊的な事柄なのです。肉体的、便宜的な男女の関わりに終わらないのです。

「お身体に気をつけて」と相手の体を気づかって人は挨拶するのですが、神は私たちの「霊」を気にかけておられます。人の霊が神に忠実で真実な霊であってほしい。清い霊であってほしい。神への一途な愛を貫いてほしいと願っておられます。そのために「自分の霊に気をつけて」と言われるのです。私の霊が、結婚を通して、また神への信仰を通しても、忠実な霊でありますように祈ります。


マラキ書 1章

2023年08月08日 | マラキ書
マラキ書 1章
子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなた方のわたしを敬う事実がどこにあるか。わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実がどこにあるか。
(1・6)


先のハガイとゼカリヤの励ましによって、ユダヤの人々は神殿再建工事を遂行し完成へといたりました。しかし、やがて年月が経過すると、信仰の火は衰えてしまい、信仰は形骸化してきました。

かつて、後の神殿の栄光は前の栄光より大きいのだと語られました(ハガ2・9)。神殿が完成すればキリストが王として来られるのだ。だからシオンの娘よ喜べと励まされました(ゼカ2・10)。人々には、それらの約束は直ぐにでも実現すると思われたのですが、この時点で現実とはなっていませんでした。

丁度、新約において、天に昇られた主イエスが「わたしはすぐに来る」と言われて待ち望むも、2千年が経過した私たちにも似ています。

やがて、人々の信仰には倦怠感がうまれ、情熱は冷めていったようです。そんな状況の中でマラキは預言しました。

開口一番、神の御言はわたしはあなた方を愛したといわれます(1・2)。民の心は時代や状況とともに移り変わるのですが、神の愛は変わらず、私はあなた方を愛していると言われるのです。

ところが、民は神の愛を感じられなくて、あなたはどんなふうに、われわれを愛されたかと切り返す始末です(1・2)。神の愛がわからなくなったら霊的には危険水域です。

人は霊的存在であると共に肉体をもった存在ですから、霊の感覚が鈍ると肉の感覚で愛を確認しようとします。しかし、肉なる感覚は、経済的、物質的に満たされることで愛を感じようとします。でも、神は、そのひとり子を与えるほどに愛してくださったことを知るべきです。

民が霊的惰眠をむさぼっているのは、指導者である祭司たちが堕落しているからです。ですから、冒頭の聖句は、神の御名をあなどる祭司たちに向けて語られています。いったい、父である神を敬う事実がどこにあるか。いったい、主人である神を恐れる事実がどこにあるかと問われました。

しかし、この質問についても、えっ、そんな失礼なことをしましたかと返答するのです(6)。霊の感覚が鈍っているので、神に対して失礼なことをしているのがわかりません。

神は、礼拝で献げるいけにえにそれが表れていると指摘なさいました。つまり、彼らは、汚れたパンをささげげ、病気や傷のある動物をささげて、自分たちは神を敬っていると自負していたわけです(7~8)

病気や怪我のある家畜は残しておいても商品価値がないので、それを神にささげました。では、そんな献上物を自分の上司に差し出してみなさい。彼は馬鹿にするなと怒るはずです(8~9)。上司は目に見えても神は見えないので、人間は神を侮るのです。

私たちの礼拝はどうだろうか。良い献げ物をもって礼拝しているだろうか。日曜日に時間があいたので礼拝に参加するのだろうか。生活費が残りそうだから献金するのだろうか。心のこもらない讃美をカラオケ気分で歌うだけなのだろうか。

あのレプタ2枚を献げた婦人に見習おう(マル12・42)。その額はわずかであったが、心を込めて、自分の誠意を尽くして彼女は神を礼拝したのです。主は、霊とまことをもって礼拝する者たちを求めておられることを知らなければなりません。


ゼカリヤ書 14章

2023年08月07日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 14章
主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名ひとつのみとなる。
(14・9)


「その日」とはキリスト来臨の日のことです。

キリスト来臨の直前には、大きな戦いがあると預言されています。多くの民の軍隊がエルサレムを包囲するのです。この情景は先の12章で預言されていたことと同じです。

先の12章では、そのようなギリギリの段階になって、イスラエル(ユダヤ人)は、かつて先祖たちが十字架に付けて殺したイエスがキリストであることを知って、嘆き、このお方を信じて呼び求めるようになると学びました。

それに呼応して主イエスは来臨されます。

第14章では来臨のキリストはオリーブ山に立たれるとあります(14・4)。かつて、イエス様が復活後、その御姿を弟子たちに顕わして後、このオリーブ山から天に昇って行かれました(使徒1・12)。そして、このオリーブ山に再び戻ってこられるというのですから、旧約と新約はつながっています。

イエスを信じなかったユダヤ人にとってキリストの来臨は初めてのことになりますが、イエスを信じるクリスチャンにとっては「再臨」です。

聖書は……特に旧約聖書は、キリストの来臨を預言していますが、それは、十字架で死ぬために来られる初臨と、王として世を裁き統治するために来られる再臨とに区別されます。旧約聖書では、このふたつが混在するようにして記録されています。ちなみに、ゼカリヤ書の14章で語られている内容は「再臨」のことです。

主イエスが再臨されると、主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなると預言されています(14・9)。この地上における神の御国の実現です。

主の祈りで、「御国を来たらせたまえ」と祈り、「御名があがめられますように」と祈りますが、そのことの完成を見ることになります。

ヨハネの黙示録では、第一の復活にあずかった聖徒たちはキリストと共に千年の間、王となって統治すると預言されていますが(黙示20・6)、それはゼカリヤ書14章の統治のことを指しています。この王国のことを千年王国と呼びます。
※この千年王国の実現の前にキリストは再臨なさるのか、後なのかによって、キリスト教神学は二分される。この「朝マナ」は前者の立場である。
※後者の立場、すなわち「千年王国の後にキリストが再臨する」という神学では、キリスト教を国教と定めたローマ帝国や中世のキリスト教国家が千年王国であると位置づける。それを根拠にしてキリスト教の国家支配が進められた。はたしてそれは、聖書が預言する千年王国だったのか。力づくで千年王国を実現しようとするあまり、多くの罪を犯したと私は考えている。

ゼカリヤ書14章を読み進めると、12節からもエルサレムに対する侵略が描かれていますが、これは、主イエス再臨の直前の戦いのことを再録しているのでしょう。

この一連の戦いに、再臨のキリストは勝利なさって、その統治は全世界に及ぶのだと主は言われます。その平和の統治を象徴する出来事が、すべてての民で祝う仮庵の祭です。エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになると預言されているとおりです(14・16)

ユダヤの七大祭があります。過越しの祭から始まる7つの祭なのですが、その最後は「仮庵の祭」です。イエス様の初臨によって、過越祭に込められた預言が成就し、イエスの再臨によって、最後の仮庵祭の秘儀が成就して、この7つの祭の秘儀は完成します。

このように、ユダヤの七大祭りは、壮大な神の預言となっているわけです。

さて、仮庵の祭は、出エジプトしたイスラエルの民が荒野の旅を経て、安息の地に入ったことを祝う祭りです。人々は「仮庵」と呼ばれる粗末な掘っ立て小屋を建ててキャンプをします。そこで、かつての荒野での苦労を思い出し、カナンの地に定住するに至った感謝をささげる祭りです。

しかし、実際には、イスラエルが攻め取ったカナンの地は「安息の地」ではありませんでした。正確に申し上げると、荒野で民が神に不従順したために、カナンの地は安息の地にはならなかったのです。「こういうわけで、神の安息に入る約束はまだ残っている」と解釈されるわけです (ヘブル4・1)

しかし、ついに安息に入る日が来るのです。再臨のキリストによって成就する千年王国において神の安息に入る約束が成就します。人類は〝荒野〟という名の悲惨な歴史を旅してきましが、ついに安息の地に到達する日が来るのです。

こうして最後は、すべての民によって仮庵の祭を祝うことになります。それをなさるのは主イエス・キリストです。このひとつの名のもとに、すべての民はひざをかがめ、このお方の統治を歓迎します。

ここに至るまでの人類の道のりは、まさに荒野でした。そのことを思い起こし、キリストによる平和の支配が完成したことを仮庵祭として祝うわけです。私たちは、この祭の成就に向かって進んでいます。

さあ、ご一緒に御国で仮庵祭を祝おうではありませんか。


ゼカリヤ書 13章

2023年08月05日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 13章
その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。
(13・1)


イスラエル(ユダヤ人)はキリストの来臨を待ち望んでいながら、いざイエス・キリストが来られたにもかかわらず彼を拒絶してしまいました。以来、キリストの福音は異邦人たちに宣教されました。

しかし、終わりの時が満ちるに及んで、再びその福音はイスラエルにもたらされます。彼らが、かつて拒絶して十字架で突き刺したイエスこそが、神のキリストであると告白し受け入れる時が来るのです。

その時にいたってイエス・キリストは再臨なさいます。冒頭の「その日」とはイエス様が再臨なさった時のことです。罪と汚れを清めるひとつの泉が開かれるのです。

人々を神の御国の民として相応しくするために、神はこの泉で民を清められます。その〝泉〟とは、水そのものが湧き上がる泉というよりも、神の御言が水のように語られ、教えられ、その御言によって清められることを意味するのでしょう。

人々が御言を慕い求め清められて行く情景を、預言者イザヤは次のように語っています。

「多くの民は来て言う、『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼(キリスト)はその道を我々に教えられる、我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。」(イザヤ2・3)

神の御言によって人々の罪と汚れが清められ、神の御国は完成します。もはやそこでは神の御名だけが讃美されます。すべての者はイエスの御名にひざをかがめ、まことの礼拝者となるはずです。そのような情景はゼカリヤも語っています。

万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、重ねて人に覚えられることのないようにする。わたしはまた預言者および汚れの霊を、地から去らせる。(ゼカリヤ13・2)

このような、まことの礼拝者からなる御国を完成させようと、神はご計画なさっているのです。

さて、このひとつの泉は、イエスの再臨を待たずして、いまやイエスを信じるクリスチャンたちに与えられています。イエスの御霊が私たちの内におられて、御言が泉のように与えられるからです。

あのサマリヤの婦人と語られた時にも、わたしが与える水を飲む者は、その人の内で泉となり、永遠にいのちに至る水が湧き上がるといわれました(ヨハネ4・14)。また、仮庵の祭の時には、わたしを信じる者は、その腹から生ける水が川となって流れ出るともいわれました(ヨハネ7・38)

こうして、世界各地のキリスト教会に「ひとつの泉」が開かれています。そこから、無尽蔵の御言の泉が湧き出るのです。この泉を求めて、多くの民が上ってきますように。この泉から湧き出る御言によって、多くの人々の罪と汚れが清められますように祈ります。


ゼカリヤ書 12章

2023年08月04日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 12章
わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、初子のために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。
(12・10)


先の11章で、預言者ゼカリヤは民から拒絶され、銀貨30枚で関係を断たれてしまいました。その出来事は、民がキリストを拒絶する姿を預言していることを見ました。また、キリストであるイエスも、ご自分を拒絶するが故に臨むことになるエルサレムの滅亡を予見して涙なさいました。

その涙に続く最後の言葉は、わたしは言っておく、『主の御名によって来たる者に、祝福あれ』とお前たちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろうでありました(マタイ23・39)

つまり、自分たちが拒絶したイエスこそ神のキリストであると知って、そのお方を呼び求めるようになる時、イエス・キリストは再臨なさり、イスラエルの民とお会いになるという意味です。

さて、ゼカリヤ書12章では、一度はキリストを拒絶したイスラエルの民ですが、彼らがキリストを受け入れるようになるために、イスラエルに大きな試練が臨むことになると預言しています。

その試練とは、軍隊がエルサレムの街を包囲するようになることです(12・2)

この出来事は、紀元1世紀にローマ軍によってエルサレムの都が包囲されたことを指しているかのようですが、このとき、イスラエルはイエス・キリストを受け入れませんでした。ですから、この預言はこれから起こる出来事です。

そんな危機的な状況の中にあって、エルサレムは周囲の民をよろめかす杯としすべての民にとって重い石とすると預言されています(12・2~3)それは、エルサレムの民が、終わりの時代に大きな影響力を持つ存在となるという意味です。

例えば「重い石」とは、子どもが重い石をもてあそぼうとして、かえってその石で怪我をするように、イスラエルを侮って攻撃する民は大きな痛手を負うことになります。

それにもかかわらず、敵対する民はイスラエルを滅ぼそうと塁を築くでしょう。この最終の戦争についてヨハネの黙示録でも預言しています。俗に「ハルマゲドンの戦い※」と呼ばれています。 ※実際はハルマゲドンで戦いが起きるのではない。イスラエルに敵対する各国の軍隊がハルマゲドンに集結するのである。

その過程で、イスラエルはかつて自分たちの先祖が十字架に付けて殺したイエスこそキリストであると知るようになります。冒頭の聖句のように、自分たちが突き刺した者を見て、知って、激しく慟哭するようになるというのです。

如何にしてそうなるのか、そこにいたる詳しい課程は記述がないのでわかりません。

ただ、ひとつ言えることは、ゼカリヤが預言しているように、ダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐことによって大きく舵が切られることになるでしょう。つまり、聖霊の働きによってなされます(12・10)

ここ数十年の間に、イエスがキリストであると信じるユダヤ人が、少しずつではありますが確実に起こされています。彼らは多くの場合、特別な経験や幻とかの啓示を受けて、イエスがキリストだと知るようになったと証言しています。

これはゼカリヤが預言した、恵みと祈りの霊を注ぐことの結果ではないだろうかと思われます。終わりの時代に向かって、このような霊的覚醒運動はユダヤ人の間に広がって行くのでしょう。ヨハネ黙示録によれば、終わりの時代にイスラエルの14万4千人の選ばれしイエスの証人が預言されていますが、聖霊の圧倒的な傾注によって実現するのです。

祈りましょう。終わりの時代に、あの「後の雨」のように聖霊が豊かに降り注がれますように。その聖霊は、イスラエル(ユダヤ人)の上にも豊かに注がれ、彼らをして恵みと祈りへと導いてくださるように。


ゼカリヤ書 11章

2023年08月03日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 11章
彼らはわたしの賃銀として、銀30シケルを量った。
(11・12)


先の第10章では、終わりの日のイスラエルは聖霊によって回復されるのだと預言されていましたが、それは順当に成就するのではなさそうです。そこに至るまでの混迷の原因は指導者たちにあるからです。

指導者たちのことを「牧者」とか「羊飼い」と呼んでいます。つまり、羊はイスラエルの民、牧者は民の指導者たちのことです。この指導者たちに向かって神の怒りは燃えています。

民は羊のようにさまよい、牧者がないために悩む。わが怒りは牧者にむかって燃え、わたしは雄やぎを罰するとあります(10・2~3)。ここまでが先の10章でした。

そして11章に入って、牧者たちの堕落ぶりが描かれています。これを買う者は、これをほふっても罰せられない。これを売る者は言う、『主はほむべきかな、わたしは富んだ』と。そしてその牧者は、これをあわれまない(11・5)。牧者は羊である民を養うべき立場であるのに、羊を殺したり売り飛ばしても平気でいる姿です。

また、堕落した指導者に盲従する民に対しても叱責が続きます。わたしは、もはやこの地の住民をあわれまないと、主は言われる。見よ、わたしは人をおのおのその牧者の手に渡し、おのおのその王の手に渡す。彼らは地を荒す。わたしは彼らの手からこれを救い出さないと言われ、 神は侵略者の欲しいままに任せるのです(11・6)

7節からは、神は預言者ゼカリヤに、お前がイスラエルの牧者となりなさいと命じられました(11・4、11・7)

そこで、ゼカリヤは恵み結びという名の2本の杖を手にして民を教えたのです。この行為は、やがて来られるキリストがまことの牧者として民を導かれる姿を預言しています。

しかし、他の指導者たちはゼカリヤに批判的でした。そこでゼカリヤは、反対する指導者たちを罷免したようです。次のように記しています。わたしは一か月に牧者三人を滅ぼした。わたしは彼らに、がまんしきれなくなったが、彼らもまた、わたしを忌みきらったとあるとおりです(11・8)

この情景は、まことの牧者であるイエス・キリストが来られても、イスラエルの指導者たちはイエスを歓迎しなかったことと似ています。

その場合、キリストを拒絶した民はやがてローマ軍の侵攻によって滅ぼされることになるのですが、その悲惨な末路を予見して、イエス様は涙しながら次のように告白なさいました。

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。丁度、めんどりが翼の下にその雛を集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう。」(マタイ23・37~38)

こうして、民はまことの牧者であるキリストを拒絶して、銀貨30枚で関係を断ってしまうのですが、ゼカリヤの場合も同様で、人々は彼を拒絶して銀貨30シケルを支払ったのです。この銀貨30シケルについて、神の言葉がありました。

彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮の賽銭箱に投げ入れよと。そこでゼカリヤは銀30シケルを神殿の賽銭箱に投げ入れたのです(ゼカリヤ11・13)。 ※口語訳では、ゼカリヤは銀貨30シケルを神殿の賽銭箱に投げ入れたとなっている、新改訳では「神殿の陶器師に投げ与えた」と翻訳。

不思議な行為ですが、そのことはやがて、イエスを売った金額が銀貨30シケルであったこと、それを受け取ったユダは後悔して自死する前に銀貨30シケルを神殿の賽銭箱に投げ入れたこと、さらに、祭司長たちはその銀貨が神殿への献金には相応しくないと判断し、その銀で陶器師の畑を買ったことと一致します(マタイ27・3~10)

ゼカリヤに起きた一連の事件は、やがてきたるべきキリストの姿を預言していたというわけです。先の10章の「イスラエルの霊的回復」に至る前には、このような裏切りと試練を経るのだと預言されています。


ゼカリヤ書 10章

2023年08月02日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 10章
あなた方は春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、野の青草をおのおのに賜わる。
(10・1)


春の雨とは後の雨とも言われ、大収穫を前に降る雨のことです。この雨によって作物は豊かな実りをもたらします。その豊かな収穫を前にして、雨を求めよと命じています。

その収穫とは、単なる農作物のことではありません。終わりの時に実現する大いなる救いのことを意味しています。

聖書は、世の終わりを「収穫の時代」として描いています。イエス様も、「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」と言われました(ヨハネ4・35)。また、良い畑に毒麦がまかれた例え話の中でも、あわてて毒麦を抜かないで、収穫の時まで待つようにと言われました(マタイ13・30)。また、涙をもって種を蒔く者は、喜びの声を上げて刈り取るという約束も思い出されます(詩126・5)。そして、聖書の最後の書であるヨハネ黙示録には、天使たちが鎌を手に大収穫のために下ってくる様子が描かれています。

天の神は農夫のようなお方です。この地に御言の種を蒔いて、豊かな実を収穫しようとなさっています。しかし、御言という種が実を結ぶためには、聖霊の雨がふらなければなりません。

聖霊の働きのない御言は単なる知識で終わります。神の生きた御言となるために、聖霊がお働きになります。聖書を読む時も、聖霊のお働きがあるので、文字としての聖句が神の御言として私の心に蒔かれ、そして実るのです。

ですから、冒頭の聖句のように春の雨の時に、雨を主に請い求めよと言われるのです。

聖霊なる神様。終わりの時代にどうか聖霊の雨を豊かに降らせてください。そして、神の御言が芽を吹き、成長し、実らせてください。終わりの時代の大収穫を得させてください……と祈ります。

イスラエルの民についても同じです。終わりの時代に、どうか聖霊の雨が「後の雨」のように豊かにイスラエルに降り注ぎ、聖霊を受けたイスラエルが、終わりの時代に立ち上がりますようにと祈ります。

彼らはホロコーストの歴史の中で苦しみ、屠られる羊のような弱々しい民でしたが、その群れの羊であるユダの家を顧み、これをみごとな軍馬のようにされるからであるとあるからです(10・3)。また、歴史の舞台からは消されてしまったかのようなイスラエルの中から、偉大な働き人が起こされます。隅石は彼らから出、天幕の杭も彼らから出、いくさ弓も彼らから出、支配者も皆彼らの中から出るからです(10・4)。

この終わりの時代に向かって神のご計画は進んでいます。私たちもその働きに召されています。聖霊が春の雨のように豊かに降り注ぐことを祈りましょう。


ゼカリヤ書 9章

2023年08月01日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 9章
シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
(9・9)


第9章からは、世の終わりにおけるさばきと、完成する神の御国の栄光について預言されています。まず始めに、長年イスラエルを苦しめたスリヤやペリシテの町々の滅びが語られています。

そして、9節からはエルサレムの祝福です。

神の御国の王なるキリストが来られるからです。真実な王のご支配によって、まことの平和と繁栄がもたらされます。しかし、不思議なことに、御国の王はロバの子に乗って来られるのです。

王は軍馬に乗って入城するのが常です。屈強な兵士を引き連れて、雄々しく勇ましく入城するのです。しかし、キリストは柔和で、ロバに乗って来られるのです。

これはまったく予想外の展開です。ロバは体も小さく、馬のように速く走ることもできません。ですから、戦争に不向きです。荷を運び、平和のために労働するための家畜です。そんなロバの子に乗ってキリストが来られるとはどういう意味でしょうか。

実際、この預言はイエス様が十字架で死なれる5日前に実現しました。屈強な兵士ではなくガリラヤ出身の漁師たちからなる弟子たちを引き連れて、イエスはエルサレムに入られました。その意味を解く鍵は10節の聖句にあります。

わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ」。

神の御国の王は、武力をもって平和をもたらすのではなく、逆に、その武力を取り除くことによって支配なさるのです。

しかし、人類史上登場した王たちは、キリストとはまったく逆の道をたどりました。軍隊を送り込んで平和をもたらそうとしました。軍備を増強することで、それが抑止力になって平和をもたらすのだと主張してきました。もちろん、それが人間のなせるぎりぎりの選択肢であることは承知しています。

しかし、そのような平和は薄氷の上の平和に過ぎません。サタンに騙されたり唆されて、今まで以上の戦渦に見舞われることでしょう。

さて、預言通りキリストはロバに乗って来られたのですが、「エフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる」という内容は成就していません。でも、神はご自分の言葉を必ず実現なさいます。キリストが再臨なさる時、それは文字通り成就するはずです。

いま肝心なことは、イエス・キリストを王として我が内なる〝城〟に迎え入れた人々の中に、すでにこの武装解除の預言が成就していることです。

人の心にある「憎しみ」という弓は断たれ、「恨み」という軍馬の脚は切られ、人を踏みつける戦車のような傲慢は打ち砕かれてしまいます。時には核兵器のような武器を隠し持っている心があるかも知れません。それも王なるキリストが取り除き、そこを神の御国となさるのです。

さあ、シオンの娘よ喜べ。平和の王が私の中に来られ、永遠に住まわれるからです。私の中から、人を傷つけたり殺してしまう武器を取り除かれるからです。このようなキリストを王としてお迎えし、彼の支配の下にひざまずく者は幸いです。