箴言31:2 私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。
今日の箴言は「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば」です。マサ(マッサ)とは、アラビア半島の一国で、その国の王であるレムエルが母から受けた箴言です。
ここには、母が子を思う心情があふれています。レムエルの母は、自分の子を「誓願の子」と表現しています。きっと、神に祈り求めた結果ようやくさずかった子だと思われます。
「レムエル」という名の意味が「神にささげる」ということからも、母は、この子をさずかった恵みに感謝し、子を神のご用にもちいていただきたいという願いを込めて名付けたのでしょう。
だからこそ、母は、子が神の道をしっかり歩んで欲しいという願いが、今日の箴言にはあふれています。
私たち父母たる者も、わが子のために祈り、わが子に親からの「箴言」を残したいものです。親のこの一言が私の人生を支えてくれたというような箴言を……。
また、この立場である私たちは、親がどんな思いで子を世に送り出してくれたのか、その思いをくみとる者でありたい。それ以上に、肉の親をもちいて、世に送り出してくださった天の父の願いを……。(Ω)
箴言は富の扱いについても繰り返し述べています。富とは、それを得て満足するためのものではありません。富とは、得ることが目的ではなく、それを用いることに意味があります。
箴言17:1 平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。
箴言は各章ごとにテーマが決まっているわけではありません。各章で「言葉」「富」「男女関係」「親子」等とテーマごとにまとめられていたらと思うのですが、神様の方法は、色々なテーマについての知恵をちりばめておれます。
そんなわけですから、読む人によって、読むタイミングによって、その都度しめされる御言が違い、その都度あらたな発見があります。
さて、今日は、「富についての正しい態度」について考えてみたいと思います。このテーマは今までの章でも述べられていましたが、それらも含めて取り上げてみましょう。
今日の御言は、「貧しくても平和のある家庭」と「豊かな富はあるが争いのある家庭」とが比較されて、前者の方がまさっているのだと述べています。つまり価値があるのだというわけです。
人は何に価値を見出すかによって、生き方が違ってきます。
私たちにとって「富」とか「お金」は欠かすことができません。人生の多くの時間はその富を得るために費やされます。まるで富を中心にすべてが動いているようにさえ感じられます。
それだけに、富についての正しい価値観というか態度を持つために、神からの知恵が必要です。箴言の他の箇所でも次のように述べています。
「正しい者の家には多くの宝(富)がある、悪しき者の所得には煩いがある」(15:6)。
「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる」(15:16)。
「正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの宝にまさる」(16:8)。
「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」(16:19)。
「富」そのものが悪いのではありません。それに対する私たちの態度が問題です。富に対する価値観が問われているのです。
ポイントは「富はまことの主人ではない」ということです。創造主である神こそ、まことの主人です。「主を畏れる」とはそういう意味です。この基本をわきまえているなら、「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる」(15:16)というわけです。
富を主人とする人は、多くの宝を持つほどに苦労します。富が主人ですから、富に支配されるわけです。いつわりの主人に支配されることほど不幸はありません。
「主を畏れる者」……つまり、神を主人とする人は、富を正しく管理する人です。富を主人としないで富を管理します。富を神の栄光のために使う人です。そうするのは神を畏れるからです。
しかし、多くの人々が、富を正しく管理できないで、逆に富に振り回され、富のことで思いわずらっています。
私たちにとって、まことの主人とは神であって、富ではありません。そして、富に対しては、私が正しい主人とならなければなりません。忠実な管理者でなければなりません。
主を畏れ、富を正しく管理する人生こそ、本当の豊かさを享受する知恵です。「へりくだって貧しい人々と共におる」という生き方は、本当の豊かさです。そのような生き方は「高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」のです。
主を畏れ、富を正しく管理する人生にとって、物質的な富の多少は、幸福の条件とはなりません。「ひとかたまりのパン」しかなくても、霊的な豊かさを享受するので「争いがあって、食物の豊かな家にまさる」のです。(Ω)

