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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

箴言 31章

2015年12月11日 | 箴言

箴言31:2 私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。

今日の箴言は「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば」です。マサ(マッサ)とは、アラビア半島の一国で、その国の王であるレムエルが母から受けた箴言です。

ここには、母が子を思う心情があふれています。レムエルの母は、自分の子を「誓願の子」と表現しています。きっと、神に祈り求めた結果ようやくさずかった子だと思われます。

レムエル」という名の意味が神にささげるということからも、母は、この子をさずかった恵みに感謝し、子を神のご用にもちいていただきたいという願いを込めて名付けたのでしょう。

だからこそ、母は、子が神の道をしっかり歩んで欲しいという願いが、今日の箴言にはあふれています。

私たち父母たる者も、わが子のために祈り、わが子に親からの箴言を残したいものです。親のこの一言が私の人生を支えてくれたというような箴言を……。

また、この立場である私たちは、親がどんな思いで子を世に送り出してくれたのか、その思いをくみとる者でありたい。それ以上に、肉の親をもちいて、世に送り出してくださった天の父の願いを……。(Ω)


箴言 30章

2015年12月10日 | 箴言
箴言30:8 うそ、偽りを私から遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物で私を養ってください。
 
箴言に込められた祈りです。二つのことを祈り求めています。
 
①「うそ、偽りから私を遠ざけてください」。②「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物で私を養ってください」という二つの祈りです。
 
この祈りは、天の御国を目指す旅人の祈りです。この祈りのフォーカスは天の御国にあてられています。
 
私たちは地上では旅人です。信仰の父祖アブラハムをはじめ多くの聖徒たちは、「地上では旅人であり寄留者であることを言いあらわした」のです(ヘブル11:13)
 
この聖徒たちについて、さらにこう記されています。
 
実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷であった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである(同11:16)
 
このような天の故郷への帰還に人生のフォーカスをあわせているので、「うそ、偽りから私を遠ざけてください」と祈ります。
 
聖なる天に凱旋する時、うそや偽りで自分の身を汚したままでは居たくないからです。すべてを見抜かれる主の前に出るのですから、不真実なままでは居たくありません。
 
また、私たちが目指すのは天の故郷ですから、地上で生きる分だけの食物があればよいと考えます。だから貧しくもなく、また富もせず、ただなくてならない食物で養われることを願います。
 
地上では旅人ですから、地上の分だけあれば大丈夫です。
 
なのに、人は、多くの富を地上に蓄えようと躍起になります。しかし、地上に蓄えに比例して、地上での重荷も重くなり、思いわずらいも大きくなります。
 
そんな大きな荷物をかかえて旅をするわけですから、苦労の多い旅になってしまいます。旅では荷物を少なくすることが重要です。多くの重荷をかかえ込んで苦労するよりは、苦労はその日一日分で充分です。明日は明日自身が苦労します(マタイ6:34)
 
約束の地を目指したイスラエル民族は荒野を旅しました。荒野では、神は、毎朝、天からマナという不思議なパンを降らせて民を養われました(出エジ16:13-21)
 
毎日集めるのは面倒だからと、翌日分を集めた人もいました。でも、残しておいたマナは翌日には腐ってしまいました。また、欲張って人よりも多く集めようとした人もいました。しかし、集め終わってみると、多く集めた者も余らず、少なく集めた者も不足しませんでした。
 
それは、貧しくもなく、富もせず、ただなくてはならない食物で生きることを学ぶためです。
 
荒野は留まるところではありません。通過するところです。天の御国に向かって通過するところです。その間、私たちは、神がお与えになるなくてはならない食物で生きることを学ぶのです。(Ω)




 

箴言 29章

2015年12月09日 | 箴言
箴言29:25 人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
 
箴言が私たちに伝えんとする「知恵」とは何でしたか。「主を畏れることは知恵の基礎」でしたね。これが箴言の大切なテーマです。今日の箴言では、主を畏れないで、逆に人間を恐れることについて述べています。そうすることは罠(わな)に陥るのだと……。
 
正しい畏れが必要です。創造主を畏れる人は、それ以外の恐れから解放されます。すべてをご存知で、すべてを正しくさばかれる神を畏れ、このお方との関わりを大切にすることこそ、正しく畏れる生き方です。
 
主イエスは言われました。肉体を滅ぼしても霊魂まで滅ぼすことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、肉体も霊魂も地獄で滅ぼしてしまわれる神こそ畏れるべきだ(マタイ10:28)
 
かつて日本のキリスト教会の多くは、先の戦争中に日本帝国を恐れ、人間を恐れて罪をおかしました。「天皇を神として礼拝せよ」「日本の勝利のために祈れ」という国の命令に屈服して、イエス・キリストへの信仰をゆがめてしまいました。
 
国と妥協したことで教会は閉鎖されずに生きのびましたが、教会の霊的ないのちが失われました。人を恐れると罠に陥ると言われた主の御言の通りです。
 
この時の教会がおかした罪とは、第一にキリストの花嫁であるはずの教会がイエス・キリストへの貞操を守ることが出来なかったことであり、第二に戦争という異常事態の中で、教会が世の光、地の塩としての働きを成し遂げられなかったことです。
 
平和な時代の中で生ぬるく生きている私に、戦時中の先達を批判する資格などありません。ただ、そのことを自分のこととして反省し、悔い改め、同じ轍(わだち)を踏むことのないように祈るばかりです。
 
どうか、主なる神を畏れる者でありますように。また、人を恐れる弱さに打ち勝つことが出来ますように。そして、天国人としての自覚と誇りをもって行動できますように。(Ω)




 

箴言 28章

2015年12月08日 | 箴言
箴言28:13-14 その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみを受ける。常に主を恐れる人は幸いである、心をかたくなにする者は災に陥る。
 
箴言が取り扱うテーマは多くの場合、日常生活の具体的な課題です。人間関係のこと。富、勤労、勤勉、言葉、夫婦、商売等々。でも、ことの問題の本質は「罪」にあることを忘れてはいません。
 
罪とは創造主を否定することです。これが根っ子の罪です。このような根っ子の罪があるので、種々の悪が生まれます。盗み、殺人、姦淫、偽証など……そのような表面に現れた罪が枝葉の罪です。
 
枝葉の罪だけを取り除いて頑張ってみても、根っ子の罪がある限り、次から次へと枝葉の罪が実を結びます。まさに、人間は罪のなる木です。
 
先に取り上げた「言葉」の問題も、言葉の出てくる根っ子である霊魂の問題であることを見ました。霊魂にどんな泉が湧いているのかが問題でした。いのちの泉なのか、死の泉なのか。
 
だから、神は、御子イエスを私たちにたまわって、私たちの霊魂にいのちの泉が湧き出るようにしてくださいました。イエスを信じる者には、その腹からいのちの水が湧き上がるのです(ヨハネ7:38)
 
罪の問題解決も同じです。イエス・キリストを信じる者は、罪のなる木から切り取られて、イエス・キリストといういのちの木に接ぎ木されました。ですから、根っ子の罪は完全にきよめられました。
 
しかし、枝葉の罪の性質は私たちの肉の部分に残っています。ですから、イエス・キリストを信じた後も枝葉の罪が私たちを苦しめます。でも大丈夫です。私たちがその罪を神の御前に告白するなら、神はそれをゆるし、きよめてくださるからです。
 
私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめて下さる」のです(Ⅰヨハネ1:9)
 
なのに、多くの場合、その罪を隠そうとします。今日の箴言も、「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」と教えています。
 
隠そうとするのは、アダムとイブが罪をおかして以来、人間の中に染みついた性質です。禁断の木の実を食べて罪をおかしたアダムとイブは、イチジクの葉で自分の身を隠しました。
 
「服」には罪の姿を隠そうとする意識が潜んでいます。
 
また、主の足音が聞こえるや木の陰に身を隠しました。さらに、罪を問いただされると、アダムはイブが誘ったからだと他者のせいにし、イブはヘビが悪いのだと責任転嫁をしました。
 
つまり、言い訳によって罪を隠したのです。
 
でも、罪を隠し通すことが出来ますか。たとえ、隠し通したとして、その人生は幸いだと言えますか。重苦しい罪という重荷を背負ったまま、天国にたどりつくことも出来ずに、荒野で朽ち果ててしまうのです。
 
今日の箴言はさらにこう告げています。常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る(28:14)
 
神の目に、自分の罪を隠し通せないことを知って、神を畏れる人は幸いです。これこそ箴言が告げる本当の知恵です。「罪のない自分」を演出したり、賢い者のようにふるまうのは、人間のこざかしい知恵です。
 
しかし、主を畏れて、おのれの罪を言いあらわすことこそ、本当の知恵です。神は、その罪をゆるし、きよめてくださるのです。
 
でも、そんないつくしみ深い神を認めず、心をかたくなにする人がいます。神に対して心を閉ざしてしまう人は、みな、心がかたくなです。かたくなとは「頑固」の「頑」の文字で「頑な」と書きます。
 
罪をおかしたり失敗することは、最悪でも何でもありません。そうではなく、罪を認めず、神に言い表さない頑固な心の人こそ最悪です。
 
約束の地を目指して出エジプトしたイスラエル民族の中で、約束の地にたどり着けずに、荒野で滅びた人々とは、神に対して心をかたくなにして、己が非を認めなかった頑固者であったことを忘れてはなりません。
 
今日この御言を聞いた日に、イスラエルの民のように心をかたくなにしてはなりません(ヘブル3:7-13)。悔いし砕けた霊魂で神の御前に出ることが出来ますように祈ります。(Ω)





 
 

箴言 27章

2015年12月07日 | 箴言
箴言27:17 鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。
 
良き友を得ることは幸いです。それは、互いが切磋琢磨できる関係です。鉄を鉄によって研ぐように、友人関係によって研がれます。
 
研磨する場合、両者はある程度おなじ堅さでなければなりません。鉄を豆腐で研磨することは出来ません。同じように、友人関係も、一方的に寄りかかる関係ではなく、互いが自立した者同士の関わりです。
 
ですから、時には、あからさまに戒めたり責めることもあります。これができる関係が友人です。箴言はこう語っています。あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる(27:5)
 
主イエスは弟子たちを「友」と呼ばれました。
 
わたしはもう、あなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなた方を友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである(ヨハネ15:15)
 
主イエスこそ本当の友となってくださる方です。
 
それは、私たちが一方的にイエスに寄りかかるだけの関係ではありません。ですから、イエスは私たちに「あからさまに戒められる」のです。そうされたからと言ってイエスの愛を疑ったりしません。
 
厳しく接したことで、友としての愛を疑うような人を、戒めたり責めたりすることは難しいものです。イエスが私たちを戒められるのは、私たちを「友」と認めてくださっているからです。
 
また、私たちが「イエスの友」であるのは、神の御心を聞いて知ったからです。しもべは主人のしていることを知らないので、ただ命令に従って目先のことだけを行いますが、私たちクリスチャンは神の御心を知らされています。
 
ですから、イエスに一方的に寄りかかる関係ではなく、主と共に働く同労者です。一方的に「お恵み頂戴」型の関係ではありません。イエスと共に苦労も喜びも分かち合います。
 
そのような関わりであるからこそ、主イエスとの関わりの中で私たちは研がれるのです。(Ω)






 

箴言 26節

2015年12月05日 | 箴言
箴言26:20-21 たきぎがなければ火は消え、人のよしあしを言う者がなければ争いはやむ。おき火に炭をつぎ、火にたきぎをくべるように、争いを好む人は争いの火をおこす。
 
今日の箴言は「うわさ話」についてのいましめです。「人の良し悪しを言う」とは、陰口とかうわさ話のことです。言葉で失敗する多くの場合は「うわさ話」です。
 
うわさ話は始末の悪い言葉です。悪魔の使者のようです。なぜ、こんなにもうわさ話は人の心をとらえるのでしょうか。それは、人のよしあしをいう者の言葉は、おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむからです(26:22)
 
うわさ話は本人不在の話です。誤った情報でも、本人がいないので訂正できません。そこで、誤った情報が訂正されずに流れます。誤った情報は、さらに次の誤った情報を生み出します。
 
それが、争いにさらに油を注ぐようなことになる原因です。せっかく消えかかっているのに、「おき火に炭をつぐ」ようなことにもなります。
 
もし、うわさ話が耳に入ったら横流しをしない。その流れを自分の所で断ち切る。これが神からの知恵です。ましてや自分が、うわさ話の発信源になったり、増幅装置になってはなりません。
 
聖書は、うわさ話のたぐいのことを悪い言葉といっています。
 
悪い言葉をいっさい、あなた方の口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい(エペソ4:29)
 
この「悪い言葉」の原意は腐った言葉です。食品の中に腐ったものが混じっていると、他の食品までが腐って行くように、腐った言葉は伝染して人々の心を腐らせます。
 
そんな言葉を自分から流し出してはいけません。自分のところに来たら即刻ゴミ箱行きです。
 
うわさ話を真に受けていると大恥をかくことになります。箴言はこう述べています。最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える(18:17)
 
初めに聞いた話が真実であるかのように思い込みがちです。しかし、一方的な話だけでは真実は見えてきません。相手方の話を聞いてみると、以外と違っているのです。
 
そんなことを多く体験します。そのたびに、一方の話だけで判断しなくて良かった……と胸をなで下ろす次第です。うわさ話……要注意です。初めは蜜のように甘くても、腹の底に毒が沈殿します。(Ω)





 

箴言 25章

2015年12月04日 | 箴言
箴言25:28 自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。
 
箴言は私たちの心のゆがみや傷や闇の部分に光をあてています。また、物質的な祝福以上に、内面の霊的な祝福の大切さを教えてくれています。
 
そのためには心を見張っていよと命じています(4:23)。「心のおもむくままに」とは聞こえは良いのですが、心を見張ることなく、語ったり行動するのは無防備きわまりありません。
 
それは冒頭の箴言が指摘しているように「自分の心を制しない人」であり、まるで「城壁の破れた城(町)」のようです。
 
城壁が破れた町はとても不用心な町です。外敵にやられっぱなしです。盗賊がやってきては町に侵入し、奪ったり殺したりするので、町に平安がありません。
 
心を制しない人とは、その町のように混乱があり、戦いがあり、生傷が絶えません。ですから心の城壁を建てあげなければなりません。城壁は自閉的になるためではありません。心を守るためです。自分の心と外界とを区別する「境界線」を設けることです。
 
イエス・キリストを信じた人々は救いを得ました。その救いはの救いです。私たちの霊は罪のゆるしを受け取り、永遠のいのちを受けた霊ですから、肉体が朽ちても確実に天に迎えられます。
 
しかし「心」の領域は、救いを受ける以前のままです。つまり、考え方は肉的で、霊的な価値観より世俗的な価値観で振り回されます。神の御言より、人の言葉で一喜一憂します。救いを受けてはいますが、心に混乱と悩みがあります。
 
このような心の状態のことを「城壁の壊れた町」と呼びます。ですから、城壁を再建しなければなりません。
 
思い出してください。バビロン捕囚からエルサレムの町に戻ってきたユダヤの民は、まず最初に「神殿」を建築しました。神殿建築を最優先したのです。それは、ユダヤ民族にとって神を礼拝することこそ最も重要なことであり、ユダヤ人としてのアイデンティティーだったからです。
 
神殿は再建され民には大いなる感動がありました。神へのまことの礼拝が回復しました。彼らは礼拝を中心に国の復興に取りかかりました。
 
しかしこの時点で城壁は再建されていません。かつてのバビロンとの戦争によって破壊されたままの状態でした。ですから、町の治安は悪く、町は敵の侵入によって荒れ放題でした。
 
イエスを信じて救いを受けた人とは、霊に神殿が再建された人のことです。その人には神への礼拝が回復しました。
 
しかし、心の城壁は破れたままです。イエスを信じる以前は、悪魔によってその心は破壊され、ゆがめられ、傷つけられたままです。丁度、神殿を再建したけれど、城壁が破れたままになっているエルサレムの町と同じです。
 
エルサレムの城壁の再建は、ネヘミヤが率いる第二次帰還民によって着手されました。その時も周囲の民からは様々な妨害がありました。城壁の再建は容易な作業ではありませんでした。
 
そのように、私たちの心の城壁を再建するのも、根気のいる作業です。再建させまいと悪魔は妨害してきます。私たちの肉的な心をくすぐってきます。でも、あきらめずに再建します。
 
心の城壁の再建とは何でしょう。それは、私の心が御言聖書に似た心になることです。御言のように考え、御言のように発想し、御言のように反応する心になることです。
 
箴言の御言は心の城壁を再建するための御言です。心を制するための御言です。どうか、聖霊なる神が、御言を私たちの心に刻印してくださいますように祈ります。(Ω)





 

箴言 24章

2015年12月03日 | 箴言
箴言24:16 正しい者は七たび倒れても、また起きあがる。
 
正しい者とは、間違いのない人のことではありません。また、完璧で立派な人物のことでもありません。正しい者であっても、間違いもあるし、失敗もします。だから七度も倒れるのです。
 
しかし、正しい者は、また起き上がるのです。
 
それは、間違いがあっても倒れても、罪を認めて悔い改めるからです。主よ。罪人の私をおゆるしくださいと告白して、神に義とされて起き上がります。これが正しい人の意味です
 
しかし、悪しき者はどうなるでしょうか。箴言は「悪しき者は災によって滅びる」と語っています。この箇所は新改訳では「悪者はつまずいて滅びる」と語っています。
 
そうです。悔い改めない人は、つまずいたままです。そこから立ち上がることが出来ないのです。
 
クリスチャンの恵みは何でしょうか。悔い改めることが出来るということです。悔い改めて何度でも立ち上がることが出来るということです。そして、悔い改める者をゆるし、きよめ、義としてくださる救い主を知っているということです。
 
今日の御言は七たび倒れると記しています。単に「倒れる」のではありません。「7」は聖書では完全数。つまり、完璧に倒されてしまった状態を表しているわけです。
 
それでも、神によって義とされた者は復活するのです。
 
イエス・キリストもあの十字架で完全な死を経験なさいました。しかし、正しいお方が黄泉に捨て置かれたままではありませんでした。天の神は彼をよみがえらせなさったのです。
 
私たちもイエスにあって義とされた者。このお方の復活に続こう。たとえ「七たび倒れる」という死を経験しようとも……。(Ω)




 

箴言 23章

2015年12月02日 | 箴言
箴言23:4 富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい。
 
いままでも富に対する態度について見てきましたが、今日の箴言では、富に対する欲望は「かしこく思いとどまるという自制が肝心なのだと教えています。
 
今日の箴言23章の冒頭では、食事に招待された時のたしなみが語られています。「そのご馳走をむさぼり食べてはならない」とあり、「あなたの喉に刀をあてよ」とは、食欲を自制するようにという意味です。
 
富を得るにも、食事においても、その欲に対する「自制」が肝心です。
 
人間には、食欲・物欲・性欲といった「欲」があります。「欲」は、人間が生きて行くために神がお与えになった本能です。これがなければ、生きて行けません。ですからは神の恵みです。
 
ただ、その欲には「自制」という知恵が必要です。この知恵がなくて、欲を制御できずに滅びてしまいます。
 
自制とはブレーキのようなものです。車は便利な乗り物ですが、ブレーキが利かなければ走る凶器です。人も同じで、自制がないがために、ブレーキの利かない車のように人生を破滅させす。
 
皆さんもよくご存知の「十戒」で言われている内容は、自制を教えています。「殺してはならない」とは、怒りに対する自制です。「姦淫してはならない」とは、性欲に対する自制です。「盗んではならない」とは、物欲に対する自制です。
 
また、「偽証してはならない」とは、自己保身という欲に対する自制です。そして、最後の「隣人をむさぼってはならない」と、すべての欲に対する自制を命令しています。
 
神がこのように命じられるのは、人間を束縛するためではありません。人間が「欲」に束縛されないための知恵であり、「欲」によって滅びないための知恵です。
 
自制を欠いた物欲によって得た富は、「たちまち自ら翼を生じて、わしのように天に飛び去る」のです(23:5)
 
また、食欲に自制がないと、食物を通して罠(わな)にかかるとも教えています。そのごちそうをむさぼり食べてはならない、これは人を欺く食物だからである(23:3)
 
このように「自制」は、神がくださる知恵であり、大切な能力です。聖霊(御霊)が私たちに結ばせてくださる御霊による九つの実の最後が自制であることは、意義深いことです。御霊によって歩もう。(Ω)





 

箴言 22章

2015年12月01日 | 箴言
箴言22:2 富める者と貧しい者とは共に世にいる。すべてこれを造られたのは主である。
 
箴言でいわれている「貧しい者」とは、怠惰の結果としての貧しさを意味している場合と、そうではなく、環境的に貧しさの中におかれた者を意味する場合があります。
 
勤勉な者であっても、家庭や教育とか社会状況によっては貧しさに甘んじなければならない人々もいます。今日の箴言の場合は、後者の貧しい者を意味しています。
 
でも、そのような差がある存在を神が創造なさったのだというのです。神様だったら、みな平等に造ってくれたらよいのに……という声が聞こえてきそうです。
 
このような話はイエス様もなさいました。「主人はしもべたちを呼んで、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントをわたして旅に出た」という例え話です(マタイ25:14~)
 
タラントとはお金のことなのですが、ここでも、金額に差があるのだと言われています。確かに神のなさることは不平等に思います。しかし神は公平な方です。
 
人には様々な差があります。貧富の差だけではありません。能力の差もあれば、健康や寿命の差もあります。生んでくれた親の差、育つ環境の差、顔立ちや体格の差もあります。
 
その「差」だけを見ていれば不平等です。
 
しかし、神は、私たち人間をみな同じにはなさいませんでした。それは、私たち人間が、製品として創造されたのではなく、作品として創造されたからです。
 
人間を製品として見る人は、その差を優劣だと考えます。しかし、人間を作品として見る時、その差は個性であることに気づきます。製品の場合、違いが生じれば不良品として扱われます。しかし、作品の場合、その違いに味があり、その違いに意味があるのです。
 
価値を計る「ものさし」を変える必要があります。
 
今日の箴言のように、神はなぜ、富む者と貧しい者とを創造なさったのでしょうか。つまり、貧富の差に象徴されているような、種々の違いのある人間を創造なさったのでしょうか。
 
それは互いが愛し合うことを学ぶためです。互いがいたわり合い、互いが尊敬しあうことを学ぶためです。
 
今日の箴言では「富める者と貧しい者とは共に世にいる」のですが、新改訳では富む者と貧しい者とは互いに出会うと訳しています。まさに、互いに愛し合うことを学ぶために「出会う」のです。「違い」とか「差」に出会うのは、互いに愛し合うためです。
 
想像してみてください。もし皆が平等なら……と。違いのない均質な人間ばかりであったら……と。それぞれは自分のことだけをそつなくこなすだけの人生にならないでしょうか。互いの関わりを必要としない、無機質なロボットのような人間が、無表情にうごめく姿が思い浮かびます。
 
「差」とか「違い」を、罪人である人間は差別のために使いますが、私たちの神は、人間が愛し合うことを学ぶための教室として用いられるのです。
 
この教室で多い者も少ない者も、それぞれに分の応じて学ぶなら、神は公平に報いてくださいます。先の2タラントをわたされた者は、それを用いて更に2タラントを増やしました。主人はほめてくれました。
 
良い忠実な僕よ、よくやった。あなたは“わずかなものに忠実であったから”多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ(マタイ25:21)
 
このほめ言葉は、5タラントを増やした者にも同じでした。つまり、神が注目なさったのは、タラント多少ではなく、忠実をご覧になりました。このように神は公平なお方です。
 
イエス様はこんなたとえ話もなさいました。ぶどう園の主人が、収穫時に1日1デナリの約束で、朝から幾人かの労働者を雇いました。しかし、手が足りなくて、昼時に雇った者もいれば、午後5時頃に雇った労働者もいました(マタイ20:1-16)
 
あとから雇われた人たちは、仕事にあぶれてしまった人々でした。弱々しいので、他の農園から雇ってもらえなかったのでしょう。暑い中、仕事もなくて、午後5時まで、不安と失望の中で突っ立っていた人です。
 
でも、主人は1日の労働を終えて、朝からの者にも午後5時からの者にも、みな1デナリずつ支払いました。ところが、朝から働いた者たちから不平が出ました。自分たちは朝から働いているのに、午後5時からの者たちと同じなのはおかしい……と。
 
朝から働くことの出来る恵まれた健康が与えられている人もいれば、不健康で仕事にありつけない人もいます。すでにこの時点で不平等です。しかし、ぶどう園の主人は、どんな人にも機会を与えました。たとえ午後5時からの人のように、たった1時間の労働でも、それに応じて忠実に働いた1時間を喜んだのです。
 
これが神の心です。神は労働時間の多い少ないではなく、わずかな時間に忠実に働くことを喜ばれます。そして、誠意を込めて1デナリをお与えになるのです。ですから、神は公平なお方です。
 
地上における一時的な不平等は、天における神の公平な報いによって消え去るに違いありません。(Ω)






 

箴言 21章

2015年11月30日 | 箴言
箴言21:2 人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。
 
「心をはかる」は、新改訳聖書では心の値うちをはかると翻訳されています。不思議な表現ですね。
 
さて冒頭の1節では、「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」とあり、2節の聖句と関連しています。
 
王とは最高の権力を持つ者です。彼の考えが法となり、彼の決断が政策となります。そのような最高権力者も、神の御手の中にあるのだと語っています。
 
しかも「水の流れのようだ」というのです。水は堰(せき)に添って流れ、堰を切った方向に流れます。そのように、神は、王の心さえ、その御手の内にあって導かれるのです。
 
ましてや私たちも同じです。人の目には、自分の道は正しく見えても、神がその道を正されます。人の目には、自分の道が真っ直ぐに見えても、神は、その道に谷を設け、暗闇のトンネルを設けられることもあります。
 
それは、神が、私たちの心をはかっておられるのです。
 
表面的に立派だとその道は正しく見えるのですが、その心の値うちはどうでしょうか。神は、行いそのものではなく、その行いの出所である心をはかられます。つまり、動機をご覧になっています。
 
虚栄心でしょうか。頑固な自己主張でしょうか。時には、根底にひそむ憎しみや嫉妬心が動機になって、そこからエネルギーを得ている場合もあります。そんな、私たちの“心の値うち”を主ははかられます。
 
でも、恐れることはありません。それは、神の御手の中にあることです。神は、私たちをきよめて聖なる者へとするために、そのようにはかられます。
 
ですから箴言ではこう述べられています。銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である(17:73)
 
純銀、純金を得るために「るつぼ」とか「炉」を用います。火の中で不純物を焼きつくします。それと同じように、人の心を純金のように清くするために、神は人の心を試されます。つまり、心の値うちをはかられるというわけです。(Ω)





 

箴言 20章

2015年11月28日 | 箴言
箴言20:22 「私が悪に報いる」と言ってはならない、主を待ち望め、主はあなたを助けられる。
 
今日の箴言も様々な警告で満ちています。はじめに「飲酒に対する戒め(20:1)酒は人をあざけるのです。酒は自分を慰めてくれる良き友だと頼って行くと、ついには、あざ笑うかのように裏切るという意味です。
 
怠慢に対する戒めと勤勉の勧め(20:4)。「不当な富を得てはならない(20:10)と続きます。異なる二種類のはかりや升を用いて富を得ても、それはあざむきの富です。
 
酒があざむきの友であるように、不当に得た富も、やがてその富によってあざむかれます。「欺き取ったパンはおいしい。しかし後にはその口は砂利で満たされる」のです(20:17)
 
そのような悪を目にすると、私たちは報復したくなります。ましてやその被害者ともなれば、復讐の思いにかられます。しかし、今日の箴言は「『私が悪に報いると言ってはならない、主を待ち望め、主はあなたを助けられると言われるのです。
 
こうも言われます。復讐はわたしのすることだ。わたし自身が報復する(ローマ12:19)
 
なぜ、人間である私が復讐してはならないのでしょうか。それは大変な重荷を負うことになるからです。人間では負うことの出来ない重荷だからです。だから、それは神が負われるのです。
 
日本でも裁判員制度が始まるのあたり、「人をさばく」という重荷を一般人が負えるのかと議論されています。そのさばきが死刑といった重い刑罰であれば尚更です。
 
ですから、死刑判決などをなす重罪を裁く時には、最高裁では複数の裁判官で判決を下します。「裁きをくだす」……つまり罪に対して報復することは、ひとりで負える重荷ではないからです。
 
自分で報復したいという気持ちは分かりますが、それは、自分では負えない大変な重荷を負うことになることを忘れてはなりません。それは、神が負ってくださることです。神が助けてくださるのです。
 
では、私たちのなすべきことは何でしょうか。先ほどのローマ人への手紙には、「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と命じています(12:21)
 
このことは、私たちが憎しみや復讐心から解放されるための知恵です。(Ω)







箴言 19章

2015年11月27日 | 箴言
箴言19:17 貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。
 
※「貧しい者をあわれむ者」とは、新改訳では寄るべのない者に施しをする者、新共同訳では弱者を憐れむ人とそれぞれ翻訳されている。

箴言は富の扱いについても繰り返し述べています。富とは、それを得て満足するためのものではありません。富とは、得ることが目的ではなく、それを用いることに意味があります。
 
富を蓄えることで、富に信頼し、富に平安を見出そうとするのは、富を主人とし、まことの神を見失う道です。富を創造されたのは、神であることを忘れています。
 
富が大切ですか。それとも富を創造なさった神が大切ですか。この当たり前のことが分からなくなってしまっています。
 
富を得ることを許されたのは、それを用いて貧しい人々に分かち合うためです。しかし、自分が富む者になったのは、自分が頑張ったからであって、貧しい人は怠け者だからだと考える人は、この考えに反対します。
 
では、富む人は、本当に自分の頑張りで得たのでしょうか。その頑張ることの出来るいのち・健康・才能をお与えになったのは誰ですか。万物の創造者である神ではありませんか。富を得る環境や社会にその人をおかれたのは誰ですか。神のご配剤ではありませんか。
 
富む者とされたことは、自分を誇って自らの栄光にするためではなく、富ませてくださった神に栄光を帰するためです。そして、その富を貧しい人々と分かち合うためです。
 
キリストは富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、あなた方がキリストの貧しさによって富む者になるためであると言われる御言は、イエス・キリストこそが、その事を先に実践なさったことを意味しています(Ⅱコリント8:9)
 
ですから、私たちも富を分かち合うのです。
 
そうすることは、今日の箴言が示すように、主イエスに貸すことになるのだと教えています。貧しい人をあわれみ、富を分かち合うことは、貧しい人に貸しを作ることではなく、主に貸しを作ることになるのだと言うのです。
 
貧しい人々は、借りを返すことが出来ません。それで良いのです。主イエスも言われました。「返礼の出来ない人に親切にせよ」と。なぜなら、返礼の出来る人に親切にしても、その人からの返礼によって、地上で報いを受けることになるからです(ルカ14:12-14)
 
神の方法は、神自らが返礼をなさることです。
 
今日の箴言は、「その施しに対しては、主が返礼をなさる」と告げています。そうです。主イエスはさばきの日に、この小さな者にしたことは、わたしにしてくれたことだと言って報いてくださいます(マタイ25:40)
 
何と幸いな報いでしょうか。地上で報いはなくても、このような天での報いは比較にならないほどの栄光です。本当の知恵とは、富を巧みに獲得する方法ではなく、富をこのように用いて、主に貸すことです。
 
どうか、富が私たちを滅ぼすものになるのではなく、主の栄光をあらわし、永遠の報いをもたらすものとして富を用いることが出来ますように。(Ω)





 

箴言 18章

2015年11月26日 | 箴言
箴言18:2 愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。
 
今日の箴言でも「言葉」に関する教えがいくつか述べられています。特にその中でも、人とどのようにかかわって行くのかという点で教えられています。
 
まず冒頭で、人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対すると述べられています(18:1)。彼は人とかかわるのが苦手のようです。
 
※新改訳ではおのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいすると翻訳。少しニュアンスが違います。口語訳を参照してください。
 
なぜ、人との関わりが下手なのでしょうか。それは、自分の意見を主張し過ぎるからだと御言は語っています。
 
だから、他者の意見が聞けなくて、良い考えに激しく反対することになります。他者の意見を聞いて悟ろうとする謙虚さがないために、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶという結果になってしまいます。
 
人間関係がそうであれば、ましてや神の御言に対して、謙虚に聞き従う心があるでしょうか。
 
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの“ことば”から来るのである」と言われているように、神の御言を聞くことは知恵の基本です。
 
人の心は聞いた言葉という成分によって出来ています。
 
それは、人の肉体が日頃の食物によって形づくられるように、心は「聞いた言葉」が成分です。粗悪な食物を食べているなら、その肉体も不健康な肉体になるように、日頃から健全な言葉を聞き続けることは、健全な霊魂を形成します。
 
ましてや、良い言葉を聞かない、神の御言葉を聞かないというのであれば、その人の心はどんなにか不健康なことでしょう。肉体のためには、無農薬の物だとか自然食品といった健全な食物に気遣うのに、聞く言葉には無頓着です。
 
さて、健全な言葉……神の御言……を聞いて養われた霊魂から、健全な言葉が出てきます。いのちのある言葉を聞いて養われた霊魂から、いのちのある言葉が出てきます。
 
このようにして口から語られる言葉が、船の舵のようにして、祝福の方向へと人生を切り換えて行きます。そして、人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされるのです(18:20)
 
しかし、汚れた言葉を聞き続けた霊魂はいかに病んでいることでしょうか。そういう人は、人のよしあしをいう者の言葉は、おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむということになるのです(18:8)
 
不健全な言葉がおいしく感じられ、それが腹の奥底に沈殿するのです。これは要注意です。祈りましょう。主よ、どうか、自己主張という高慢の鼻が折られ、神の御言を謙虚に聞く者としてください。(Ω)





 

箴言 17章

2015年11月25日 | 箴言

箴言17:1 平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

箴言は各章ごとにテーマが決まっているわけではありません。各章で「言葉」「富」「男女関係」「親子」等とテーマごとにまとめられていたらと思うのですが、神様の方法は、色々なテーマについての知恵をちりばめておれます。

そんなわけですから、読む人によって、読むタイミングによって、その都度しめされる御言が違い、その都度あらたな発見があります。

さて、今日は、富についての正しい態度について考えてみたいと思います。このテーマは今までの章でも述べられていましたが、それらも含めて取り上げてみましょう。

今日の御言は、「貧しくても平和のある家庭」と「豊かな富はあるが争いのある家庭」とが比較されて、前者の方がまさっているのだと述べています。つまり価値があるのだというわけです。

人は何に価値を見出すかによって、生き方が違ってきます。

私たちにとって「富」とか「お金」は欠かすことができません。人生の多くの時間はその富を得るために費やされます。まるで富を中心にすべてが動いているようにさえ感じられます。

それだけに、富についての正しい価値観というか態度を持つために、神からの知恵が必要です。箴言の他の箇所でも次のように述べています。

正しい者の家には多くの宝(富)がある、悪しき者の所得には煩いがある(15:6)
少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる(15:16)

正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの宝にまさる(16:8)
へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる(16:19)


「富」そのものが悪いのではありません。それに対する私たちの態度が問題です。富に対する価値観が問われているのです。

ポイントは富はまことの主人ではないということです。創造主である神こそ、まことの主人です。「主を畏れる」とはそういう意味です。この基本をわきまえているなら、少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる(15:16)というわけです。

富を主人とする人は、多くの宝を持つほどに苦労します。富が主人ですから、富に支配されるわけです。いつわりの主人に支配されることほど不幸はありません。

主を畏れる者」……つまり、神を主人とする人は、富を正しく管理する人です。富を主人としないで富を管理します。富を神の栄光のために使う人です。そうするのは神を畏れるからです。

しかし、多くの人々が、富を正しく管理できないで、逆に富に振り回され、富のことで思いわずらっています。

私たちにとって、まことの主人とは神であって、富ではありません。そして、富に対しては、私が正しい主人とならなければなりません。忠実な管理者でなければなりません。

主を畏れ、富を正しく管理する人生こそ、本当の豊かさを享受する知恵です。「へりくだって貧しい人々と共におる」という生き方は、本当の豊かさです。そのような生き方は「高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」のです。

主を畏れ、富を正しく管理する人生にとって、物質的な富の多少は、幸福の条件とはなりません。「ひとかたまりのパン」しかなくても、霊的な豊かさを享受するので「争いがあって、食物の豊かな家にまさる」のです。(Ω)