マルコ14:24 イエスは言われた、「これは多くの人のために流すわたしの契約の血である」。
受難週の木曜日は、その夕刻に、主イエスが弟子たちと共に夕食の席を持たれた日にあたります。レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」として有名な場面です。
実はこの晩餐の食事は「過越の祭の食事」のことです。この過越の祭は、かつてイスラエル民族が奴隷の地エジプトから脱出する前夜、小羊を殺して血を流し、その肉を食べたことに由来する祭です。
出エジプトの前夜、神は、エジプト中の長子(長男)のいのちを奪いました。死をもって下される神のさばきです。心を頑(かたく)なにするエジプト王パロとその民に神の御怒りが下ったのです。
しかし、イスラエルの人々は、小羊を殺し、その血を各自の家の玄関に塗ったのです。その血は、身代わりに小羊が殺されたという「しるし」となりました。それを目印にして、死は〝過ぎ越し〟て行きました。
こうして、エジプト中の長子は死んだのですが、イスラエルからは死者が出ませんでした。この災いにたまりかねたエジプトは、イスラエルを奴隷から解放し、出エジプトが実現したわけです。
このように、死のさばきが過ぎ越して行ったことを記念して「過越の祭」が代々祝われてきたのです。
この過越しの時に殺された小羊は、十字架で殺されるキリストの予表でした。しかし、人々の目にはそのことが閉ざされていたので、イエス様が小羊として殺されるべきキリストだとは分かりませんでした。
話はそれますが、少し説明をしておきます。過越の祭は金曜日なのに、過越の祭の夕食が木曜日の夜なのはどういう訳なのでしょうか。創世記の万物創造の記録で、一日のことを「夕があり朝となった。第一日である」とあるように、聖書的には一日は日没から始まります。ですから、木曜日の夕食はすでに金曜日です。つまり過越の祭の夕食です。夕食から一日が始まるわけです。
さて、キリスト教会では聖餐式でパンと杯をいただきますが、この起源となったのが、イエス様が弟子たちと共に食された「過越の食事」です。
昔ながらの過越の食事では、エジプトで殺された小羊を記念してパンを裂き、小羊の血を象徴するぶどう酒を飲みました。しかし、イエス様は食事の席で、ご自身の肉体と血を記念して食事をするように命じられました。
聖餐式で裂かれるパンはイエス様の肉体を象徴しています。パンを引き裂いて食べるようにして、主の御体は十字架で引き裂かれました。そして、真っ赤なぶどう酒は、イエスが十字架で流された血を象徴しています。
イエス様は、このぶどう酒の入った杯は、「多くの人のために流すわたしの契約の血だ」と言われました。血は契約のしるしです。イエスが命をもって結んだ契約のしるしです。
普段、私たちは契約のしるしとして印鑑を捺しますが、印が赤いのは血の契約に由来しています。私たちの神は、私たちを救い出すために、朱肉ならずご自身の真っ赤な血で印を捺して、この救いの契約が確かなものであることを証しなさったのです。
ですから、この杯が表している血のしるしはいかに重要なことでしょうか。聖餐式を受けるたびに、これは契約なのだということを心に刻むのです。神が私たちと結んでくださった偉大な契約です。救いのための決定的な契約です。
この契約によって、神は私たちの罪を永遠にゆるしてくださいました。この契約によって、神は私たちを神の子どもにしてくださり、御国の相続人としてくださいました。
このような恵みの契約を与えてくださった主イエスの御名があがめられますように。(Ω)
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