ヨブ記10:15 私がもし悪ければ私はわざわいだ。たとい私が正しくても、私は頭を上げることができない。私は恥に満ち、悩みを見ているからだ。
先の9章では、自分では自分を正しい者(罪のない者)と思っていても、神の目の前に人は正しくあり得ない存在であることを見ました。ならば、私たちは神の視線から逃れることができません。だれも神の御前に義と認められる者はいません。
その上、罪人としての苦難があるなら「私は自分のいのちを厭う」と告白されています(10:1)。〝いのちを厭う〟との告白はヨブ記の中で何度も繰り返されています。この時点にいたって、ヨブは単に肉体的な苦難にとどまらず、罪人としての苦しみを訴えるようになっています。
人は神によって創造されたのに、あげくは罪人として滅ぼされるのですか。「あなたの手は私をかたどり、私をつくった。ところがいま、あなたはかえって私を滅ぼされる」とは、そんな人間存在の理不尽さを訴えています(10:8)。
さらに、冒頭の聖句で述べられているように、私が正しくあろうとしても、神の御前に「私は義人です」と堂々と顔をあげることができない惨めさも訴えています。頑張ってその頭をあげようものなら、私が罪人であることを証言する者を立てて、私をお責めになるのでしょう。
こんな私はどうすれば良いのですか。こんな人生のために私は生まれてきたのですか(10:18-19)。そして、遂には罪人として陰府(よみ)にくだるのであれば(10:21)、その直前にほんのひと時でも楽にならせてほしいと語ります(10:20)。 ※20節は、罪に定める神の御前から逃れて、わずかばかりでも楽になりたいという意味である。
こんな罪人が神の御前に義とされるのはいつのことでしょう。ヨブはまだその時を知りません。しかし、因果応報の理論を越えて、神の恵みの中でしかあり得ないことを、かすかに見ているような気がします。(Ω)

