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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨブ記 10章

2019年04月30日 | ヨブ記
ヨブ記10:15 私がもし悪ければ私はわざわいだ。たとい私が正しくても、私は頭を上げることができない。私は恥に満ち、悩みを見ているからだ。
 
先の9章では、自分では自分を正しい者(罪のない者)と思っていても、神の目の前に人は正しくあり得ない存在であることを見ました。ならば、私たちは神の視線から逃れることができません。だれも神の御前に義と認められる者はいません。
 
その上、罪人としての苦難があるなら「私は自分のいのちを厭う」と告白されています(10:1)。〝いのちを厭う〟との告白はヨブ記の中で何度も繰り返されています。この時点にいたって、ヨブは単に肉体的な苦難にとどまらず、罪人としての苦しみを訴えるようになっています。
 
人は神によって創造されたのに、あげくは罪人として滅ぼされるのですか。「あなたの手は私をかたどり、私をつくった。ところがいま、あなたはかえって私を滅ぼされる」とは、そんな人間存在の理不尽さを訴えています(10:8)
 
さらに、冒頭の聖句で述べられているように、私が正しくあろうとしても、神の御前に「私は義人です」と堂々と顔をあげることができない惨めさも訴えています。頑張ってその頭をあげようものなら、私が罪人であることを証言する者を立てて、私をお責めになるのでしょう。
 
こんな私はどうすれば良いのですか。こんな人生のために私は生まれてきたのですか(10:18-19)。そして、遂には罪人として陰府(よみ)にくだるのであれば(10:21)、その直前にほんのひと時でも楽にならせてほしいと語ります(10:20)。 ※20節は、罪に定める神の御前から逃れて、わずかばかりでも楽になりたいという意味である。
 
こんな罪人が神の御前に義とされるのはいつのことでしょう。ヨブはまだその時を知りません。しかし、因果応報の理論を越えて、神の恵みの中でしかあり得ないことを、かすかに見ているような気がします。(Ω)

ヨブ記 9章

2019年04月29日 | ヨブ記
ヨブ記9:2 しかし、人はどうして神の前に正しくあり得ようか。
 
ビルダデの応報論神学に対して、ヨブは否定しません。その通りだと認め、かつ「それは私も充分承知している」と述べます。人が本当に正しければ、その人は神から祝福を受けるのは当たり前だと。
 
しかし、果たして人間は神の御前に正しくあり得るのかと疑問を提示しています。神の前に正しくあろうと本気で立ち向かうなら、千に一つも答えられまい(9:3)。つまり、神を満足させるような正しさを持ち合わせることなどできない。
 
ヨブの目には、自分が正しかろうと悪かろうと、神の御心のままに、時に祝福され、時に苦難を受けているように思えます。4節~12節は、すべては神が思うままになさっているのだ。それを、被造者である人間が阻止できようか。それを甘受するしかないのが人間だという意味です。
 
見よ、神が奪い去れるのに、だれが彼を阻むことができようか。だれが彼に向かって『あなたは何をするのか』と言うことができるか」と述べられているとおりです(9:12)
 
そんな神のなさることはヨブにしてみれば、「神は大風をもって私を撃ち砕き、ゆえなく私に多くの傷を負わせた」となるのです。ただ、ヨブは反論もできず受けるしかないのです。だから、ビルダデよ。正しいことをしてれば良いもので満たしてくださるとは簡単に言えないのだ……と言いたいのです。
 
ヨブは、はばかれるけれどあえて言えば「自分は潔白だ」(9:21)。ただ、その正しさは自分が思うに「潔白」なのであって、実のとろろ自分自身も分からないのです(9:21)。自分では罪がない、正しいと思っても、神はどうご覧になるのか分かりません(9:20)
 
だから、自称「罪のない者」も逆に悪しき者も、神の目にはすべての人が「生まれながら御怒りを受ける子ら」であり(エペソ2:3)、共に滅ぼされるのだ(ヨブ9:22)。そんな人間がどうして神の前に正しくあり得ようか。「たとい私が雪で身を洗い、灰汁で手を清めても」神のさばきを受けるしかないのだ(9:30)
 
ヨブは、人間の表面的な良い行いでは清めがたい〝罪人の本質〟に目を注いでいます。その解決のためには、私が清くなるとか、正しい人間になるとかという次元ではなく、神と私との間に仲裁者が必要なのだと述べるに至っています。
 
だから、「我々ふたりの上に手を置くべき仲裁者がいない」(9:33)と語り、仲裁者がいれば、神を恐れることなく神との親しい交わりの中に生きることができるのだ……と語りました。かくして、真の仲裁者であるキリストの来臨まで待たなければならないのです。(Ω)

ヨブ記 8章

2019年04月27日 | ヨブ記
ヨブ記8:5-6 あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、あなたがもし清く、正しくあるならば、彼は必ずあなたのために立って、あなたの正しい住みかを栄えさせられる。
 
ビルダデの登場です。ヨブの返答に苛立ちをかくさず述べます。「神は公義を曲げられるであろうか。全能者は正義を曲げられるであろうか」と(2)。つまり、神がなさることは白黒明確だというのです。
 
ヨブは「苦難を受ける原因に思いあたることがない」と主張しているわけですが、ビルダデは「罪が原因であって、それ故に神は苦難を与え、悔い改めて罪から救われるようになさっているのだ」と論述します。
 
神は、罪もないのに苦難を与えるようなことをなさらないし、きよい生活をしてれば、物心共に良い生活が与えられるのだと言います。「神は正義を曲げない」とはそういう意味です。
 
更にビルダデは語ります。善人なのか悪人なのかによって神の対応は明確だ。だから「見よ、神は全き人を捨てられない。また、悪を行う者の手を支持されない」と結論づけるわけです(20)
 
このような論理は箴言や詩篇にも多く記されています。「正しい者」と「悪しき者」の対比であったり、「知恵ある者」と「愚か者」の対比もそうです。正しい者に神は良いものを与えてくださるし、悪い者には滅びが用意されています。そもそも、旧約の律法も「律法を守るならあなたは地上で繁栄するが、それに背くなら呪われる」も同じ論理展開です。
 
このような考え方を「応報思想」と呼びます。だから、罪を犯したらそれを反省し神に祈れば、神はそれ相応の繁栄をもって応えてくださるのです。冒頭に掲げた聖句は、それを表しています。
 
ビルダデはこの応報思想に立って、「ヨブよ、ごちゃごちゃ屁理屈を言っていないで、神に求めたら良いんだ。そうしたら、神はあなたの繁栄を回復されるのだ」と諭しているわけです。
 
裏をかえせば、求め方が足りないからだめなんだ。熱心さがないから良くならないんだ、ということになります。納得の行く論のようですが、またもや例の〝もやもや感〟が漂ってきました。
 
応報思想の根底にある考えは「祝福の根拠が人間側にある」ということです。人間の熱心さ、人間の誠実さ、人間の正しさ……それに応じて神は祝福されるのです。
 
果たしそうなのでしょうか。旧約聖書ではその論理が色濃く述べられていました。しかし、新約聖書にいたって、人間の正しさに根拠はなく、神の正しさ故に祝福される恵み〟の世界が展開するわけです。 ※旧約でも恵みの萌芽は個々に啓示されているので誤解なきように。例えば、アブラハムは自分の妻を妹と偽ってサラに罪を犯させるようなことをしたが、返って祝福を受けたことなど。
 
私が正しい人間でもないのに、ただ恵みによって神の祝福を受けるのであれば、時に、私が正しく生きていても、神のご用のために苦難を受けることも〝あり〟なのかも知れない……と、ふと思うのです。でも、神を恨むわけでもない。すべてを恵みの中で生かしてくださる神を信頼するのが信仰ではないのか……と。(Ω)

ヨブ記 7章

2019年04月26日 | ヨブ記
ヨブ記7:20 私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。(新改訳)
 
先の6章では、ヨブの背負った苦難の重さは「海の砂より重い」と言われていました。あまりにも重くて、生きていることが甚だつらいのです。
 
夜になって、苦しみを忘れさせてくれることを期待して寝床に就くのですが、夢や幻によっても苦しみが迫ってくるのです(7:4-6、7:13-14)
 
このまま死んでしまえば楽になれるというのに、苦難を受けるのが私に与えられた役割であるかのように、死ぬこともできず苦しみ続けることの嘆きがつづられています。
 
どうして、まるで的を当てるかのように〝苦難の器〟として私をお選びなったのか。そのことにどんな意味があるのか……と、冒頭の聖句は訴えかけています。
 
そのような苦しみを背負ったヨブの姿に、ふとキリストが御苦しみを受けられた姿が重なるように感じるのです。それは言い過ぎでしょうか。しかし、そのように重ねて見る時、ヨブの苦難の意味が少し見えてくるように思うのですが……。(Ω)

ヨブ記 6章

2019年04月25日 | ヨブ記
ヨブ記6:24 わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るあろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ。

友人エリパズの言っていることは的を射ていますが、ヨブの心には届きません。だから「まっすぐな言葉はなんと痛いことか」と言い返したくなるのです(25・新改訳)
 
正論を述べるエリパズの姿に自分の姿を見る思いです。悲しんだり怒っている友に、「いつも喜びなさい。すべてのことに感謝しなさい」って聖書にあるじゃないかと励ますのですが、果たしてそれは彼の心に届いているのであろうか。困難の中にある人に、「それも神の御心なんだよ」と軽々しく諭そうとしていないだろうか……と。信仰深げなクリスチャンの中にエリパズは潜んでいるのです。
 
かたやヨブはどうだろうか。エリパズの言葉に対して、「そんなこと分かっているよ」と言い返したくなる自分の姿もあります。
 
もし私がヨブの立場だったらどうだろう。「そんなこと言われなくても分かっているよ。何年、牧師をやっていると思うんだ。長年にわたり主に仕えてきたのに、どうしてこんな苦難に遭うんだ」と言ってしまうのではないだろうか。
 
ヨブはその苦しみは「海の砂よりも重い」(3)と述べ、その理由が「全能者の矢が私の内にあり、私の霊はその毒を飲み、神の恐るべき軍勢が私を襲い攻めている(4)からだと受けとめています。
 
神に隠している大罪があるなら、この苦難も甘受すべきでしょう。しかし思いあたる節もない。かつては親しかった神が、いまや敵のようになって私を撃っておられる……。なぜですか。
 
原因がある苦難なら受けられよう。つまり理由が明かな苦難なら、つらいけれど受けようと思う。しかし、理由の分からない苦難は「味気ないものを塩なしに食べるようなものだ」(6)、それは「腐った食べ物のようだ」(7・新改訳)と述べているのです。
 
底の浅い正論など何の塩味にもなりません。薄っぺらい〝お説教〟など聞くに値しません。(ゆえ)なき苦難はどうしてあるのか神は、なぜその苦難をおゆるしになるのか教えてくれ!
 
そんな呻きが冒頭の聖句なのだと思います。人類を代表してヨブは苦しみ、人類を代表してヨブは神に問うのです。(Ω)

ヨブ記 5章

2019年04月24日 | ヨブ記
ヨブ記5:17 見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。
 
4~5章にかけてエリパズの自らが到達した神学を論じて見せました。最後に「見よ、われわれの尋ねきわめたところはこの通りだ。あなたはこれを聞いて、みずから知るがよい」と締めくくりました。
 
エリパズ神学の論点の第一は「因果応報」です。それは先の4章でとりあげました。聖書は確かに因果応報を述べています。「罪の結果は死である」とはその典型です。また、「アダムが罪を犯したので全人類に罪が入った」との論もそうです。
 
ただ、原因を指摘されても腑に落ちないこともあります。そもそも、なぜ人は罪を犯すような弱い存在なのだろか。なぜ最初の人アダムが置かれたエデンの園に、罪を誘発するような悪魔がいるのだろうか。ここまで掘り下げると、原因というより目的論(神の意図)を追及しなければならなくなります。 ※これは今日のテーマではない。後の機会にゆずることにしよう。

エリパズの論点の第二は「愛の神による教育的・訓戒的苦難」です。それが5章に述べられています。神は、人の奥底に秘めた悪をあらわになさると述べ(5:9-16)、その神は人を懲らしめるが、やがて救い出し回復へと導かれるお方だと述べています(5:17-26)
 
これも確かに正論です。聖書は「神の懲らしめを軽んじてはならない」と、「神は愛する者を懲らしめられる」からです。これは新約聖書にも記されています。
 
では、そのように愛して訓練なさる神を信頼し寄り頼むなら、エリパズが言うように「あなたは自分の天幕の安全なことを知り、自分の家畜のおりを見回っても欠けたものがなく、また、あなたの子孫が多くなり、その末が地の草のようになるのを知るであろう」となって行くのだろうか。つまり、ハッピーエンドに行く着くのだろうか。
 
エリパズはそれを経験したのでしょう。だから彼は「私だったらこうするのに」(5:8)と述べ、確信をもって「あなたはこれを聞いて、みずから悟るがよい」とまで論じています(5:27)
 
そうだろうな~。そうあって欲しいなと思うのですが、果たして万人に当てはまるのだろうか。
 
クリスチャンでありながら、地上では悲惨な人生と死をとげた場合も数知れずあります。戦争や迫害のもとで死んだ人々は、隠された罪があったからなのでしょうか。
 
エリパズの語ることは正論ではあろうが、モヤモヤ感を拭い去ることができないのです。ヨブ記ではそんなモヤモヤが随所にあります。そのモヤモヤの正体は何かを、結論を急がず、紆余曲折をしながら神学しようと思うのです。(Ω)

ヨブ記 4章

2019年04月23日 | ヨブ記
ヨブ記4:7 考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。
 
三人の友人たちはヨブの惨状をあわれみ言葉を失っていましたが、ヨブの言葉に義憤を感じたエリパズ(エリファズ)が語り始めました。彼の言わんとするところは要するに因果応報です。
 
真面目に生きていれば良い結果が得られるはずだ。災は何かしらの問題が原因なのだ。それはヨブよお前の罪ではないかと説き明かします。
 
「そうだよな」「そうあって欲しい」と私たちは思います。それが、良いことでも悪いことでも納得できるし、そうでなくては帳尻が合わないからです。しかし、理にかなっているように思うのですが、そうは行かないのが現実です。
 
日頃の生活習慣が原因で大病を患うこともりますが、酒タバコもせず規則正しい生活をしていても病に伏すこともあります。後者の場合、陰で何か不摂生をしているんじゃないのかと責められても辛い思いをするばかりです。ましてや生まれつきの障がいを受けた場合や、不慮の事故で災いに遭うなどは、何とも理不尽で説明のしようがありません。
 
因果応報は一見正しく筋が通っているように思われるのですが、人を救うわけではありません。正論であっても、かえって人を傷つけ失望の奈落に突き落とすこともあります。
 
かつて、生まれつきの盲人を前にしてイエスの弟子たちは、「彼がかくあるは本人の罪ゆえなのか、それとも先祖の罪ゆえなのか」とイエスに質問したことがありました。心ない質問です。因果応報の論理に従って「原因」を追及したわけですが、イエスの応えは「目的」を示すものでした(ヨハネ9章)
 
災いの中で痛み苦しむ友を励ますつもりが、痛みに塩を塗ることになってしまう。エリパズのように正論と上から目線では人を慰めることはできません
 
執り成しの祈りとは、強い者が弱い者のために祈ってやることではない。弱い者同士が共にそこから主に向かって祈る祈りである。エリパズは決して昔の人物ではない」とは名言だと思います。(Ω)

ヨブ記 3章

2019年04月22日 | ヨブ記
ヨブ記3:1 この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。 
 
ヨブを慰めようと来訪した友人たちは、あまりにも悲惨なヨブの姿を目の当たりにしてかける言葉もありません(2:11-13)。7日間の長い沈黙の後、ついにヨブが口を開きました。彼は心の奥底の思いを絞り出すようにして告白しました。
 
それは、自分の出生をのろう言葉です。こんな苦しみを経験するのなら、自分は生まれてこなければ良かった……。3章はそんなヨブの叫びであり訴えです。先の1~2章の信仰深い言葉とは違います。
 
苦難は解決の見通しが立てばまだ耐えられます。原因が分かれば少しは納得できます。でも、ヨブの苦難はそれをはるかに超えてしまっていました。なぜ、このような苦難があるのだ……。解決の糸口も原因も分かりません。
 
一般的に言われるのは「因果応報」です。この原因があったから、その報いを受けているのだと説明するわけですが、それは苦難の原因を知って少しでも納得したいのです。
 
しかし、人生には因果応報では説明のつかない苦難があります。私たちを取り囲む現実は説明のつかない暗闇です。まさに、ヨブはそんな苦難を受けており、出生を呪うかのように神に叫んでいるのです。
 
ヨブの呪いの言葉をだれが責めることができるでしょう。先の1~2章で告白した信仰はどこに行ったのだと、だれが批判できるでしょうか。
 
真の解決は、心の奥底にある怒りや悲しみを、神の御前に吐き出すことから始まります。そして、その告白を真摯に受けとめてくださる神がおられることを知ることから始まります
 
本当の絶望とは、その苦しみをぶつける相手を知らないことではないでしょうか。(Ω)

ヨブ記 2章

2019年04月13日 | ヨブ記
ヨブ記2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。 
 
先の第1章では、サタンがヨブの子どもたちや財産を奪ったわけですが、ヨブの神への信頼は揺らぎませんでした。何が起ころうとも、神を信頼することこそ信仰です。
 
その結果を経て、サタンは更に問題提起をします。ヨブは健康が保たれているから神を信じるのだ。健康を損なう事態になれば、彼は信仰を保つことができるだろうか。かくして、サタンによる第二の苦難はヨブの健康を奪ったのです(2:7-8)
 
こんなにもなって、なおも神を信頼するというのですか。そんな神なら信じるに値しないじゃありませんか。ヨブの妻はそう考えて、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい(2:9)と吐き捨てるようにして、彼のもとを去って行ったのです。
 
冒頭の聖句は、そんな妻を諭すようにして語ったヨブの告白です。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。ヨブの言葉は信仰の本質を突いています。
 
私たちは、目に見える利益のために信じているのではない。神と共に生きるために信じているのです。神と共に生きる時、神と共に幸いも受けますが、神と共に災いも受けます。そのことをパウロは、「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と告白しました(ローマ8:17)
 
ヨブの崇高な信仰告白を受け、「よくぞ言った!」と神からの称賛があり、サタンに対しては「どうだ!ヨブは本物の信仰者だ」と宣言して、このヨブ記は完了しそうなのですが、そこで完了しません。この後、3人の友人がヨブを慰めようと来訪します。彼らとの対話の中でヨブの信仰はくずれ出します。これが3章以降の記録です。
 
聖書は、「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」と記しているのですが、〝そのくちびるをもって〟という表現は、はたして心の中ではどうなのかと問いかけるような記録です。 ※新改訳では「罪を犯すようなことを口にしなかった」と翻訳。
 
私たちはどうでしょう。信仰深い言葉を口にしても心底そのように考えているでしょうか。そのように生きているでしょうか。ヨブ記は、友人とヨブと神との会話の中で、私たちの心の深みまで照らして行きます。
 
ヨブ記の旅は長く続きますが、ご一緒に心の内面を探って行く事にしましょう。(Ω)
 
※主の御前に集う神の子たちの会合とは何か。そこにサタンも参加できるとはどういうことか。解説の難しい所である。天でそんな会議が開催されているのをイメージするのは真相を表していないと思われる。ただ、人を愛し共に働こうとなさる神のお考えと、それに敵対するサタンの訴えや策略は、天上における霊的な戦いとして今も継続している。
 
※私たちから純粋な信仰を奪おうとするサタンの働き。その働きを承知の上で、その試練を通して私たちの信仰を不純物のないガラスのように透きとおった純金の信仰にしようと守ってくださる神の働き。
 
※悪魔(サタン)がペテロを誘惑するのを神はおゆるしになった。しかし、ペテロの信仰がなくならないようにと主イエスは祈られた。神の目指すところは、試練の中でも神を信頼する強固な信仰だ。

ヨブ記 1章

2019年04月12日 | ヨブ記
ヨブ記1:21~22 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
 
ヨブが住んだウヅ(ウツ)の地の正確な地点は不明ですが、「東の人々のうちで最も大いなる者」(1:3)とあり、また哀歌では「ウツの地に住むエドムの娘」(4:21)とも記されており、イスラエルの東方であろうと考えられます。そのようなことから、ヨブはイスラエルとは別の民と考えられます。その生きた年代は紀元前2,000~1,500年頃と考えられています。
 
創世記に記されているアブラハムが族長として生きたように、ヨブもまた当時の族長であり、主なる神への信仰にあつく、かつとても裕福な人でした(1:2-3)
 
ヨブの主への信仰は、主ご自身も認めています。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」と主ご自身が語られていることからも明らかです(1:8)
 
しかし、そんなヨブに苦難が降りかかります。その苦難はサタンの問題提起が契機となっています。サタンの主張はこうです。

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう。(1:9-11)
 
つまり、ヨブが信仰深いのは、神よあなたがヨブに物質的な利益を与えているからだ。それが無ければ、人は神への信仰をもたないのだというのです。
 
ヨブ記のテーマは「人生における苦難の意味」と一般的にいわれるのですが、ここにサタンが提起しているように、「人間は目に見える利益なしに、果たして、純粋に神を信じるのか」という問題提起があるのです。
 
あなたはどうだろうか。物質的な利益を求めて神を信じているのか。それが無くても、神を信頼できるかという問いかけなのです。
 
第一の苦難は、サタンがヨブの物質的富を奪うことから始まりました。その結果、ヨブは信仰を失ったのでしょうか。冒頭の聖句は、この時のヨブの応えです。
 
神は、物質的な富を与える権限もお持ちだが、それを取り去る権限もお持ちなのだ。全ては神の御手の中にあるのであって、与えられたから祝福であって、取り去られたから呪われたというのではないのです。
 
パウロもこう告白しました。生きるなら、さらにキリストのために働くことができるから益であるし、死ぬのなら天でキリストと共に居ることになるのでそれも益だと……。(ピリピ1:21-23)
 
すべて神の御手の中にある時、与えられることも益であるし、取り去られることも益なのです。与えられたり取り去られたりする中で、私たちは神への信頼を学ぶのです。さらに、与えられたり取り去られたりする中で、私たちは無くてはならないもの……すなわち、信仰と希望と愛を身につけるはずです。
 
そこに向かって、すべては益と変えられるので、主の御名はほむべきかなと賛美するのです。(Ω)