詩篇116:7 わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである。
新改訳では、「私のたましいよ。おまえの全(まった)きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ」。
「わが魂よ」と、自分の深いところへの呼びかけが成されています。この「わが魂」とは「霊魂」のことです。文語訳聖書では「霊魂」としるして「たましい」と読ませています。
別な言い方をすれば、「内なる人」です。わが内なる人よ!。お前の全き憩(いこ)いに返れ!と、自分で自分に言い聞かせるようにして語りかけます。
私の外なる人は、肉の思いや肉の価値観で生きようとします。だから、この世の富や肉体の健康がゆさぶられると、平安を失ってしまいます。この外なる人は、外の環境変化によって右往左往し、落胆するのです。
でも、内なる人は違います。あなたがイエスを信じて、内側に受けた新しいいのちの感覚に帰るべきです。主の恵みによって日々新しくされる、内なる人の感覚で生きるべきです。
何故なら、私たちの外なる人は日毎に朽ちて行きますが、内なる人は日々新たにされるからです。
詩篇も同じことを語っているのです。我が霊魂よ、神が与えて下さる本来の平安に帰るがよい……と。霊的本心に立ち返れ!というわけです。
父から財産の半分をゆずり受けて、放蕩三昧の結果、本心に立ち返ったあの弟息子もそうでした。「そうだ。お父さんのもとに帰ろう」と彼は、我が霊魂の本心に立ち返ったのです。
私たちの霊魂は知っているのです。富が主人ではないことを。この世の金銭やこの世の快楽が、本当の平安を与えるものでないことを、我が霊魂は知っています。
しかし、我が霊魂に目覚めないで、肉の感覚で幸せになろうとするので、人々は多くの苦痛で自分自身を刺し通すのです。御言はこう言っています。
「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」(Ⅰテモテ6:10)。
そうです。だから、我が霊魂よ……と呼びかけてください。あなたの霊魂は知っているのです。父なる神のもとこそ、全き憩いのある場所であることを……。(Ω)
詩篇115:8 これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。
この詩篇は、「お前たちの神はどこにいるのか」と嘲(あざけ)る人々がいる中で、主なる神こそまことの神だと告白する詩人の叫びと祈り詩篇です。
しかし、私たちの神は目で見ることの出来ない神です。神をかたどって偶像を作らないので、手にとって「これが神である」とは言えません。ですから、上記のごとく揶揄(やゆ)されるわけです。
見えない神を侮る人々は「我らの神バアルはこれだ」とバアルの偶像を誇らしげに指し示します。また、アルテミスの女神像を掲げる者もあったことでしょう。
でも、御言は教えています。
「彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない」(115:4-7)。
神仏の像は形では口や手足がありますが、語ることも、聞くことも出来ません。また、手や足で動き出すわけでもありません。
今日、注目したいのは、その次の聖句です。そのような偶像を作ったり、それを信頼し、礼拝する者は、その偶像と似た者になると指摘している点です。
御言は、「これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる」と告げています(115:8)。偶像礼拝者たちは、偶像と似て来るというのです。
つまり、目があっても見えなくなります。本当の霊的な世界が見えなくなります。偶像が聞くことのできない存在であるのと同じように、耳があっても、神の御言を聞くことの出来ない耳になってしまうのです。
また、偶像は手足があっても動けないように、偶像を礼拝する者の手足は正しい行いをすることが出来ない手足となってしまいます。
しかし、イエス・キリストを礼拝する者は、イエス・キリストに似た者になって行きます。さあ、まことの神、イエス・キリストを礼拝し、主の栄光の御姿に似た者に変えられるようにと祈ろう。(Ω)
詩篇114:2 ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。
この詩篇は、「イスラエルがエジプトをいで、ヤコブの家が異言の民を離れたとき」(114:1)とあるように、「出エジプト」の出来事を歌ったものです。
※「異言の民」は、新改訳では「異なる言葉の民」と翻訳。新約における御霊の賜物の「異言」のことではない。
イスラエルの民はエジプトから呼び出された民です。神がイスラエルをエジプトから呼び出されたのです。それは、神を礼拝する民として聖別するためだったと聖書は記しています。
神を礼拝するのなら、なにもエジプトを出て行かなくてもエジプトに居住しながらでも良いではないか。どうして全民族がエジプトから出る必要があるのか。
エジプトの王パロはそう提案したのです。
しかし神は、イスラエルがエジプトから出て、神を礼拝する民となるようにと導かれました。そのやり取りは、出エジプト記8~10章に述べられています。
偶像礼拝のまっただ中に、神はそこに住まおうとはなさいませんでした。そこからイスラエルを呼び出して、神を礼拝する民の中に住まおうとなさいました。「ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった」とは、そういう意味です。
新約的にいうなら、罪にどっぷりつかった中に神は住まわれないという意味です。罪の世界から出てきなさいと、神は私たちを呼び出されるのです。
罪の支配する世界から出てきて、まことの神を礼拝する人々の中に、神は共に住もうとなさいます。それは、神がまことの礼拝者を求めておられるからです(ヨハネ4:23)。
このために、旧約の時代はイスラエル民族がエジプトから呼び出され、新約の時代はイエスを信じるクリスチャンがこの世から呼び出されました。
まさに「教会(エクレシア)」の原意が、「呼び出された者の集い」であることは意義深いことです。私たちの礼拝の中に、神は共に住まわれ、神はそこをご自分の領地……即ち「神の御国」となさるのです。(Ω)
詩篇113:3 日のいずる所から日の入る所まで、主のみ名はほめたたえられる。
聖書の神は、太陽の出る地域から太陽が沈む地域に至るまで、全世界の神です。イスラエルだけの限られた世界だけで賛美される神ではないと、詩篇は歌っています。
聖書の神のことを「西洋の神」だと考えている人がいますが、西洋の神がいたり、東洋の神がいるわけではありません。国々に王や大統領がいるように、それぞれの国を守る神がいるわけでもありません。
西洋を照らす太陽と東洋を照らす太陽がひとつであるように、全世界を照らすまことの神もおひとりの神です。
そして、その神は天地万物を創造なさった神です。白人を造った神と黄色人種を造った神と黒人を造った神がそれぞれあるわけではありません。
それぞれ別な神が創造したのであれば、どうして、こうも同じ人間になったのでしょうか。白人も黒人も肌の色こそ違いますが、目もあるし、手もあるし、内臓の位置も同じですし、互いに輸血だって出来ます。互いの間に子孫を生むこともできます。
同じ神がお造りになったので、全世界の人々は共通しているのです。ちょうど同じ型でクッキーを焼けば、焼きすぎて黒くなったり、きつね色に焼けたり、白くなま焼けのものがあるように、肌の色の違いはその程度です。
人間が木や石で作った神々ではなく、万物を創造なさった聖書の神こそ、全世界であがめられるべき神です。そのお方に、すべての人々が真実な礼拝がささげられますように祈ります。(Ω)
詩篇112:7 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。
先の詩篇では、「主をおそれる」ことを見ました。本当におそれるべきお方をおそれる者は、今日の詩篇のように、「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない」のです。
主イエスも言われました。肉体を殺しても霊魂まで滅ぼすことの出来ない者どもをおそれるな。むしろ、霊魂をゲヘナ(地獄)で滅ぼされる方をおそれなさい(マタイ10:28)。
正しい畏(おそ)れを持たないので、それ以外のものを恐れるのです。不況や病気を恐れます。人生の様々なつまずきを恐れます。交通事故などの不慮の出来事を恐れます。
もちろんそれ自体はつらく悲しいことです。でも、最悪、肉体が朽ちるだけです。でも、主を畏れる私たちの霊魂は、救いを得ていることに感謝しよう。
主をおそれ、私のような罪人をおゆるしくださいと祈る者を義とされ、救いを得させて下さる神を知っているからこそ、私たちは、悪いおとずれを恐れません。恐れるどころか、ますます、その心は主を信頼してゆるぎません。
悪しき者(悪魔や悪霊たち)は悪い情報をもたらすことで、私たちが動揺し、信仰を失うように画策しているのですが、正しい畏れを知っている私たちは、主に信頼してゆるぎません。そんな我々の姿を見て彼らは歯ぎしりをして悔しがっています。
「悪しき者はこれを見て怒り、歯をかみならして溶け去る。悪しき者の願いは滅びる」(112:10)。
想像してみてください。私たちが不安に駆られて右往左往しているなら、悪魔や悪霊たちは小躍りして喜んでいることを。不吉な笑みを浮かべてガッツポーズをしたり互いにハイタッチしている姿を……。
そうはさせたくありません。私たちはゆるがないのです。どんな悪い事態になっても、私を義と認めてくださった神を信頼しよう。(Ω)
詩篇111:10 主をおそれることは智恵のはじめである。
この詩篇は、「主をほめたたえよ」という賛美で始まります。新改訳と新共同訳では「ハレルヤ」と、原語のまま記されています。ハレルヤで始まる詩篇は、つづく1112・113篇も同じです。
さて、この詩篇には「主をおそれる」という表現が2回記されています。冒頭の聖句と、もうひとつは、「主をおそれる者に食物を与え、その契約をとこしえに心にとめられる」です(111:5)。
つづく112篇でも、「主をおそれて、そのもろもろの戒めを大いに喜ぶ者は幸いである」と記しています(112:1)。
得体の知れないものや出来事に「おそれる」ことは「恐怖」であって、ここでいう「主をおそれる」とは次元が違います。私たちは、正しく、主をおそれるべきです。「敬虔」とは、「正しくおそれる」という意味であるとは熟考すべきことです。
神に対して、わけも分からなく恐怖をいだくのではなく、神がどのような方であるかを知っておそれるのです。
神は「聖なる方」です。聖なる方と向き合うことで、本当のおそれを知ります。正しいおそれが生じます。人間には「正しいおそれ」が必要です。
罪人(つみびと)である人間同志のつき合いの中では、この種のおそれは生じません。周りも同じような罪人ですから、「あの人だって悪いことをしているじゃないか」と考えて、自分が罪人であることをおそれません。
ペテロはイエス様と出会っておそれました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と言い得たのは、聖なる方と出会ったからです。
聖なる方と出会うと、自分は他の人よりましな人間だという思いなどは吹っ飛んでしまいます。かえって、おそれをいだかずにいられません。自分ごときの正しさなど、神の義の前では、太陽の下のロウソクの灯火ようです。
あるパリサイ人と取税人が宮に行って祈りました。パリサイ人はこう祈りました。「神よ、私は他の人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します」。
しかし、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈りました(ルカ18:9-14)。
神の本当のきよさを知らない人は、前者のパリサイ人のような祈りをしてしまいます。しかし、後者の取税人は神をおそれました。聖なる方を知っていたからです。そして、神から義と認められたのは、この取税人でした。
主を正しくおそれる者でありたいと願います。おそれて遠ざかるのは正しくおそれていません。神に近づけば近づくほど、神のきよさにふれて、私たちはおそれを感じます。でも、そのおそれによって、義とされ、きよめられます。(Ω)
詩篇110:1 【主】はわが主に言われる、「わたしがあなたの諸々の敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
今日の詩篇はメシヤ(キリスト)預言の詩篇です。解釈がむずかしいところです。少し長くなりますが、順を追って説明します。
元来は、王が就任する時の祈りとして歌われた詩篇です。王は、主である神から統治する権威を受けて国を治めるわけですが、どうか、その支配が力強く永遠でありますように……という祈りが、この詩篇110篇です。
そういう意味で、神である主が、王に向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい」という呼びかが成されるわけです。
「右」とは「権威」をあらわします。一般的に、人は右利きなので……左利きの人にはゴメンナサイ……右は「力」とか「権威」を表現するわけです。ですから聖書には、「主の勝利の右の手」といった表現もあります。
また、信頼している人物のことを「私の右腕だ」と言ったりしますし、これ以上の権威がないことを「右に出る者はいない」とも言います。
このように「右」とは権威です。まして、「神の右」とは最高の権威です。神はご自分の右に座する者に最高の権威を与えて、すべてを統べ治めるようになさるのです。
詩篇の時代、就任する王が、このような権威をもって王国を立派に統治できるようにと、当時の人々は祈ったわけです。
ところで、この詩篇110の表題は、「ダビデの歌」となっています。ダビデが上記のように祈ったとするなら、ダビデが王なのですから、自分が王として就任する時に、自分がそのように祈ったというのでは、話の筋が通りません。
ですから、ダビデは、自分が王として就任する以上の領域について……つまり、霊的な領域のことを祈っているのです。神の右の座に着いて、全地を治めるべく王とは、キリストだというわけです。
ダビデは、やがて来たるべきキリスト(メシヤ)が、王として神の右の座にお着きになる様子を、幻で見て預言したのです。ですから、冒頭の聖句を整理すると……
【主】はわが主に言われる、「わたしがあなたの諸々の敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
【主】は神なる主のことで、次の「わが主」とはキリストを指しているわけです。口語訳ではどちらも同じ「主」なので、区別がないですが、新改訳では、【 】の方の主は太文字になっています。
ですから、イエス様も、この詩篇について次のように言われました。
イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』と」。(マタイ22:43-44)
つまり、ダビデは、キリストについて預言したのだと教えられたのです。イエスは十字架の死後に復活し、天に昇り、神の右の座に着かれました。それは、イエスこそが来るべき王であり、万物を支配なさる王の王、主の主であることの証しです。
祈りましょう。このお方のご支配が、私たちの住む地でも成されますように……。(Ω)
詩篇109:1 私のほめたたえる神よ、もださないでください。
「もださないでください」とは、「黙っていないでください」という意味ですが、そのように呼び求めるのは、神は黙ったままで、悪に対して何の報いもなさらないで、見逃しておられるかのようだからです。
今日の詩篇は、悪を行う者に、神が義をもって正しくさばいてくださるようにと願っている内容です。悪を行う者たちの陰湿な様子が切々と語られています。
「彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、私にむかい、偽りの舌をもって私に語り、恨みの言葉をもって私を囲み、ゆえなく私を攻めるのです」(109:2-3)。
そんな奴らをギャフンと言わせてやってください……と祈っているわけです。その気持ちは、「私を非難する者にはずかしめを着せ、おのが恥を上着のようにまとわせてください」(29)など、随所に表れています。
神は、永遠に黙っておいでになるのではありません。新約の時代にいたって、ついに、神が口を開かれ、その心の内を隠さずお話しになりました。それはイエス・キリストです。
旧約の時代に黙っておられた神の思いは、イエス・キリストを通して語られました。そしてこう言われたのです。「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためだ」と。
ギャフンと言わせてやりたいと願っていた人々には、まったくの期待はずれでした。ですから、イエス・キリストは、義人と称する人々から恨みをかいました。
しかし、「主よ黙っていないでください」という、旧約の詩人の祈りに対する応えは、そうなのです。
今日の詩篇109篇の「正しいさばきに対する祈り」は、その通りです。神は、必ず、罪と悪に対して厳しいさばきをなさるお方です。見逃しておられるのではありません。黙っておられるのでもありません。
でもそれは、「神の義」の一面を見ているに過ぎません。
旧約聖書における神のご自身についての啓示は、一部分だということを忘れてはなりません。神の真の姿は、神の御子であるイエス・キリストをとおして、完全に啓示されたのです。
さて、今日の詩篇のように、私たち心には、悪を行う者や敵対する者に対して、ギャフンと言わせてやりたいという思いが潜んでいます。でも、それは、自分が正しい人間だという“誤解”に基づいています。
いったい自分は、今日の詩人のように、悪を訴える側なのでしょうか。ひょっとして……いいえ、かなりの確率で……、自分は訴えられている側かも知れません。
先ほどの、「罪人を招いて悔い改めさせるためだ」と言われた主イエスの御言に反感をいだくなら、それは、神の御心を知らずに、冷ややかな視線を悪人に注いでいるパリサイ人と何ら変わりはありません。
「黙っていないでください」と祈り求めながら、期待はずれの応えが返ってきたため、イエスを十字架につけるのは、私かも知れません。そして、あなたかも知れません。
このことを知れば知るほど、イエス・キリストの十字架の恵みは深いものとなって、私にせまってきます。(Ω)
詩篇108:12 我らに助けを与えて、仇(あだ)に向かわせてください。人の助けはむなしいからです。
神の助けを受けるより、手っ取り早く人間の助けを受ける方が容易いです。しかも、その助けは目に見えて、力強く感じます。だから、どうしても「人の助け」を求めてしまいます。
しかし、この詩篇では、「神の助け」を求めています。人の助けはむなしいのだとも告白しています。 ※新改訳では「人の救い」と翻訳。
詩人が最も恐れたとは、神から見捨てられることです。こう告白しています。「神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか」(108:11・新改訳)。
どんなに多くの軍勢があっても、神が共におられないことこそ、最も恐れるべきことです。どんなに、世の富にあふれていても、神が共におられないことこそ、最大の悲劇です。
逆に、どんな境遇の中にあっても、神が共におられるなら、それは、たとえ黄泉(よみ)の底に落とされようとも、そこには幸いがあります。そのような人は、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえる……黄泉から帰る……幸いを得るからです。
だから、この詩篇は、神が共に行かれることを祈っています。
誤解しないでいただきたいのですが、人の助けなど借りるなと言うのではありません。実際に、神が共におられて、神が助けてくださったという時、それはほとんどが人の手を通して働いておられるからです。
ただ、その人の存在の背後に神の働きを認め、神にも感謝を忘れないことが大切です。それを忘れて、ただ人だけを見て、人の助けだけに期待しているなら、この詩篇が告白しているように、「人の助けはむなしい」ものになるでしょう。(Ω)
詩篇107:1 主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがない。
詩篇は第5巻に入ります。冒頭の詩篇は開口一番、「主に感謝せよ」です。この詩篇では5つの「主に感謝せよ」が記されています。 ※ 1、8、15、21、31節の5つの「感謝せよ」。
①捕囚から戻されたことを感謝せよ(1-7)。「主は彼らをあがない、東、西、北、南から彼らを集められた」とは、離散していた奴隷の地から、約束の地に連れ戻されたことを言っていると思われます。
新約の時代にあっては、罪の奴隷であり、悪魔の下で一生涯死の恐怖のもとにいたところから、神のご支配に戻されたことを、まず感謝しよう。
②神への背きの罪から解放されたことを感謝せよ(8-14)。かつては「神の言葉に背き、いと高き者の勧めを軽んじた」者でしたが(11)、今は神を認め、神を礼拝する者とされたことを感謝しよう。
③悩みと病から救い出されたことを感謝せよ(15-20)。「主は彼らを悩みから救い、その御言をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された」のです(19-20)。「御言によって癒された」という表現は興味深いですね。
④暴風雨のような旅の中でも守られたことに感謝せよ(21-30)。この詩人の人生の旅路は、嵐の中を歩むような人生でした。あまりにもの激しさゆえに、「酔った人のようによろめき、途方に暮れた」のです(27)。しかし、「主が嵐をしずめられ、海の波はおだやかになった」のです(29)。
主イエスがガリラヤ湖の嵐をしずめられたことを思い出します。自然界さえもご支配なさる神だからこそ、おできになることです。そのような方が、私たちの味方であることを感謝しよう。
⑤地の産物が祝されたことに感謝せよ(31-43)。「主が彼らを祝福されたので彼らは大いにふえ、その家畜の減るのをゆるされなかった」(38)。
旧約時代の祝福とは、物質的な豊かさを言いましたが、新約のそれは霊的な豊のことです。主は、聖霊によって「御霊の実」を結ばせて下さいます。そのことに目を留め感謝しよう。
このように、詩篇の第5巻の始まりは、「感謝せよ」で始まっていることに注目すべきです。さあ、何はともあれ、主に感謝しよう。(Ω)

