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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

申命記 21章

2024年06月29日 | 申命記
申命記 21章
木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。
(21・23)


神は、約束の地に神の聖なる御国を完成させようと、イスラエルを導かれたのですが、21章には神の御心を踏みにじる身勝手な罪人が列挙されています。

目撃者のない殺人事件。その結果、罰を受けずに逃走する身勝手な犯人。また、外国人捕虜の中から外見上の美しさで妻にするも愛情が冷めて離縁する身勝手な男。ふたりの妻があり、嫌いな妻が長子を生んだにもかかわらず、その子に長子の権を与えない身勝手な父親。逆に、親に感謝もせず放蕩三昧する身勝手な息子などです。

罪に対してなされる処罰は厳しいものがありますが、神が目指しておられるのは、あなた方の内から悪を除き去ることです(21・21)。そうするのはあなたの神、主が嗣業として賜る地を汚してならないためです(21・23)。罪が地に蔓延することは、地を汚すことだと、主はご覧になるからです。

ですから、犯罪者を地上から〝離して〟木に掛ける刑罰は最も呪われた者に対する刑罰とされました。冒頭の聖句が示すように、木に掛けられた者は神に呪われた者とされたのです。

イエス・キリストは、十字架という木に掛けられて死なれました。最も呪われた者となって死なれました。それは、全人類の罪を身に引き受けて死なれたゆえに、最も呪われた方法で死なれたのです。

そうなさったのは、キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いからあがない出して下さった。聖書に、木にかけられる者は、すべてのろわれると書いてあるからです(ガラ3・13)

本来なら私が受けるべき呪いを、イエスが引き受けてくれました。ですから、イエスを信じる者に、もはや呪いはありません。何か悪いことが起こっても、この御言を思い出してください。〝イエス・キリストは私たちのために呪いとなって死なれたのです。


申命記 20章

2024年06月28日 | 申命記
申命記 20章
あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。
(20・1)


イスラエルがこれからカナンの地で立ち向かう相手は、みな自分たちより大きく強い民たちばかりです。しかし、それを見て恐れるな、怯んではならないと命じられました。

そうは言われても、現実に武装した軍隊、近代的な兵器を前にして恐れない者はいません。一方、自分たちといえば、荒野を旅してきた民ですから、充分な軍事訓練も兵器もありません。

でも、ひとつだけ違うことがあります。全能の神である主が共におられることです。

私たちの人生においても、見えるところによれば恐れをいだかせる要因が山積です。しかし、見えないところにも目を注ぎます。そこには、共におられる神、イエス・キリストがおられます。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続きます。見えない世界ではありますが、しかし、それは肉眼で見えないだけであって、確かに生き、働いておられる神の世界です。

「恐れるな」と命じておられる神ではありますが、それでも恐れてしまう者は、無理をせずに帰れといわれます。恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから(20・8 新改訳)

全員が同じように戦えるわけではありません。だから神は弱気の者にも配慮なさいます。皆が信仰にあついわけではありません。皆が勇敢なのでもありません。恐れ弱気な仲間を批判することなく、でも、主の闘いは進みます。

さて、イスラエルの闘いは有無を言わさず敵を滅ぼしたのではありません。戦闘の前に降伏を勧めました。聖絶が強引になされたのではありません。ひとつの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならないと言われているのです(20・10)

新約では武力による戦闘ではなく、霊的な闘いです。そして、神の和解の福音を伝えます。いわば、神の御前に和解し降服するように勧めるわけです。この和解案を受け入れる人は、自分が罪人であることを認め、神の正しい裁きの前に降服するのです。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさいと言われているとおりです(Ⅱコリ5・20)


申命記 19章

2024年06月27日 | 申命記
申命記 19章
どんな不正であれ、どんな咎であれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。
(19・15)


民の中で起こる様々な事件をどのように裁いたら良いのか。不完全な人間である私たちが、正しいさばきをすることは至難のわざです。全知全能の神による最後の審判を待たなければなりません。

しかし、日々の出来事を裁かなければ、社会を維持できません。そこで、神は、裁きをなすための秩序をお定めになっています。

前半は、誤って人を殺してしまったケースについてです。

裁きを個人が下すなら、それは感情にまかせて行き過ぎた報復を生みます。冷静な裁きなど不可能です。そこで、神は、過失で人を殺した者が公平に裁かれるべく「のがれの町」を定められました。もちろん、意図的に殺人を犯し、のがれの町に逃げ込む場合は、取り調べた上で相応の裁きがなされました。

次に、冒頭の聖句が示すように、裁きにあたっては複数の証人が定められています。

このことは、裁判所の審判に限らず、普段の生活でも心得るべきことです。私たちは日常生活の中で、ひとりの証言や一方的な情報をもとに他者を裁くことが多いからです。

「あの人はこういう人だ」と告げる人が居たとしても、ひとりの証人によって判断してはなりません。ひとりの証言によって裁くとは、その証言というメガネを通して物事を見ることになります。

そこで、別な人の証言を聞くと見解が異なることがあります。そして、先の証言をもとに色メガネを掛けて見てしまったことを恥じるのです。そんな失敗を戒める御言があります。

最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(箴言18・17)

くれぐれも、正しい裁きをなさるお方は神であり、裁きの権を父からゆだねられた御子イエスであることをお忘れなく。このキリストが、最後の裁きのために来臨なさるのです。

このお方に裁きをゆだねて、何事も先走って裁かないでいる人は幸いです。


申命記 18 章

2024年06月26日 | 申命記
申命記 18 章
わたしは彼らの同胞のうちから、お前のようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。
(18 ・18)


主なる神は、後の時代にモーセのようなひとりの預言者をお遣わしになるというのです。その預言者は、神の語られることを、ことごとく告げることになります。

モーセの後には数々の預言者が登場しました。サムエル、エリヤ、イザヤ、エレミヤなど名だたる預言者もいれば、時には偽預言者もいました。偽預言者の区別は簡単です。彼の語ったことが成就しないのであれば、それは偽者です(18・22)

神がここで告げられたモーセのような預言者とは、単に、神の御言を取り次ぐだけではありません。モーセがそうであったように、民を率いて奴隷の地から救い出すような預言者です。民のために執り成しを祈る大祭司のような預言者です。民を養い、統率し、約束の地へ導く羊飼いのような預言者です。

人々は、この〝モーセのような預言者〟を待ち望みました。ある時、バプテスマのヨハネにあなたはあの預言者ですか(ヨハネ1・21)と人々が尋ねたのはこのことです。この時、ヨハネは自分ではないと否定し、イエス様こそがそのお方だと証ししました。

イエスこそ、羊にいのちを得させる良き羊飼いであり、父が語られるままをことごとく告げた真の預言者です。そして、イエスこそ、十字架でご自分いのちをささげて民のために執り成しを祈り、人々を罪の奴隷の地から救い出すモーセのような、否モーセ以上の預言者です。


申命記 17章

2024年06月25日 | 申命記
申命記 17章
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。
(17・19 新改訳)


この時点でイスラエルの統治は王制ではありません。あえていうなら神が王であって、神のもとで統治される体制です。その神の代理人として、モーセとかヨシュアや後の士師たちが立てられます。

しかし、やがて王を擁立するような事態も想定して述べられています。

王たる者はどうあるべきか。

第一に、神が選び指定する人物です(15)この点が世俗の王国と大きく違います。神が権威を与えない限りは、いかにすぐれた手腕の持ち主でも王ではありません。神の選びと召命が条件です。

第二に、馬を多く獲ようとするなと命じられています(16)当時の「馬」は軍事用です。つまり、軍備拡張をするなという意味です。なぜなら、イスラエルは神の民です。軍事に頼らず、天の軍勢を寄り頼んで戦うのです。

第三に、妻を多く持つな。女性関係に清潔であれといわれます(17)

第四に、金銀を多く蓄えるな。金銭問題に清潔であれといわれます(17)先の女性問題然り、金銭問題しかり、実に多くの人がこのことで失脚し、周囲を悲しませています。そのためにも……、

第五に、律法の書を愛読せよ(18~20)「世に生きながらえる日の間、常にそれを自分の手もとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない」のです。

以上の5つの条件は、王だけでなく、職場のリーダーとして、家庭のリーダーとして有益な戒めです。


申命記 16章

2024年06月24日 | 申命記
申命記 16章
主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。
(16・16)


第16章では、イスラエルの三大祭りが取り上げられています。
①過越祭(それに続く種なしパンの祭も含む)。
②七週の祭(刈入の祭・五旬節の祭とも呼ばれる)。
③仮庵の祭。

祭の意味に関しては出エジプト記とレビ記で取り上げたので割愛します。

この祭には、男子は皆、神の御前に出なければならないと命じられており、人々は祭が行われるエルサレム神殿まで詣でることになっていました。

その際にから手で主の前に出てはならないと命じられているように、旧約の人々は生贄の動物や、ささげ物の穀物を携えて行きました。

「から手」であるとは何を意味するのでしょうか。今日的には、「日曜日だけの礼拝」と私は考えています。日曜日以外は、信仰とは無関係な生き方をしていて、何ら信仰の実を携えて来ることのない礼拝です。

信仰の実は、礼拝のある日曜日以外もイエス様と関わりをもって生きる中で結んで行きます。なのに、礼拝の日と、それ以外の週日とがかけ離れていては、「から手で」礼拝に出てしまうことになります。

とはいえ、何か立派で、すごいと思えるようなものが神へのささげ物とは限りません。喜びや賛美の実を携えて集います。悔いし砕けし魂を携えて集うこともできます。

また、哀れみの心を携えることもできます。「神が喜ばれるのはあわれみであって、いけにえではない」といわれた主の御言も考えるべきでしょう。

そして、何よりも、自分自身を神へささげる心で集うことが、礼拝における最高のささげ物です。あなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝なのですから(ローマ12・1)
 

申命記 15章

2024年06月22日 | 申命記
申命記 15章
あなたは七年の終りごとに、ゆるしを行わなければならない。
(15・1)


1週間の7日目が安息日であったように、7年目の年を安息年と呼びました。神は、この安息年にゆるしを行わなければならないと命じられました。この「ゆるし」は新改訳では「負債の免除」と訳されています。

そんなことをしたら、貸している方が損をするじゃないですか。でも、神の命令は「ゆるしなさい」です。それは金銭的な負債だけでなく、罪という負債もゆるすことを意味します。

罪の場合も同様に、相手の罪をゆるしたら自分が損をするように思います。だから、なかなかゆるせません。そもそも、ゆるすとは損をすることです。損を承知でゆるすのです。神の御言に従って、7年目にはゆるそうと心に決めてください。7日目が安息日であったように、ゆるすことによって、7年目はもっと大きな安息が用意されいるのです。

元を正せば、自分自身もかつては罪の奴隷でした。過去の自分の姿を忘れて、高ぶった思いを持っていると、ゆるしは難しいものに思われます。だから、神はこう言われました。

あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたをあがない出された事を記憶しなければならない。このゆえにわたしは、きょう、この事を命じる。(15・15)

新約の私たちも同じです。あなたはかつて、罪の奴隷であったが、キリストがあがない出してくださった事を記憶しなければなりません。それ故に、神は、7年目にはゆるせと命じられるのです。

いいえ、7年目といわず、7日目にはゆるすなら、なお幸いです。いいえ、今日の分を今日の内にゆるすことは、さらに益なることです。「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」(エペソ4・26)と言われているとおりです。 


申命記 14章

2024年06月21日 | 申命記
申命記 14章
あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。
(14・21)


自分は何者なのか。どのような存在なのか。このことが明確であれば、生き方もまた明確になります。

聖書は告げています。あなたは主の聖なる民であると。他にも、あなたは主の子供である(14・1)と言われ、また、自分の宝の民とされた(14・2)とも言われています。

主なる神を信じる私たちは、神の聖なる民であり、神の子どもであり、神の宝なのです。だから、そんな尊い自分自身を汚してはならないと教えておられるのです。

そこで、神は、きよい食物と汚れた食物を規定することで、民がきよい道を選ぶように命じています。今日の14章は、その食物規定です。

汚れた食物を食べると腹痛を起こすというわけではありません。きよい食物が特別に栄養価が高いからという理由でもありません。それなのに、神が食物を区別なさったのは……、

第一に、自分が聖なる民であることの自覚を養うためでした。

第二に、食物によって異教徒との交流を制限し、その悪影響を受けないようにするためでした。
汚れた食物とされる物の中には、異教徒たちが常食としたり、偶像礼拝の儀礼に使用する動物があります。


「子やぎをその母の乳で煮てはならない」と命じられていますが(14・21)、これは当時のカナン地方でなされていた豊穣を祈願する魔術的な手法でした。そのような食事を取り入れるなら、異教の神々との交流が生まれます。その結果、邪教の習慣を受け入れるようになります。

人は親しくなると食事を共にするようになります。でも、蛇やトカゲを常食とする人々が食事に招待してくれても、私はそのような食卓につきたくありません。私には蛇やトカゲを食べる習慣がないからです。そこで、おのずと、そのような人々との親しい交流は生まれません。

旧約の食物規定は、そのような機能を持っていました。しかし、新約においては、イエス・キリストはすべての食物をきよいとなさいました(マルコ7・19)

旧約は、口から入る食物によってきよさを覚える時代でしたが、新約はどのような〝言葉〟を食べているのかによってきよさを区別する時代です。神の御言を食べて生きているのか否かです。

神の御言を受けた者たちは聖別されているのです。つまり、きよいのです。主イエスもこう言われています。真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言は真理であります(ヨハネ17・17)

神の御言を食べて生きる人とそうでない人とは、おのずと生き方が違ってきます。区別されます。クリスチャンは世の人々と区別されることを恐れてはなりません。聖なる民、神の子ども、宝の民としての生き方を恐れずに貫いてください。


申命記 13章

2024年06月20日 | 申命記
申命記 13章
あなた方の神、主はあなた方が心をつくし、精神をつくして、あなた方の神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなた方を試みられるからである。
(13・3)


偶像礼拝に気をつけよ。異教の神々を礼拝してはならない。神である主は、この命令を何度もくり返しておられます。それは、神が、まことの礼拝者を求めておられるからであり、イスラエルをエジプトから導き出したのは、そのためであったからです。

とはいえ、何の誘惑もない無菌状態のような環境でそれを求めておられるのではありません。神ならぬ偶像を拝む人々がいる中で、まことの礼拝者たれと命じられるのです。

他の神々の方が魅力的に見えることがあります。藁をもすがるような思いで、手当たり次第に神々と呼ばれるものを求めることがあります。そんな誘惑がある中で、まことの礼拝者たれと命じられるのです。今日の13章では、そんな誘惑する者たちがあることを予告なさっています。

第一は、偽預言者による誘惑です。(13・1~5) 彼らは、あなたがこれまで知らなかった『他の神々に、我々は従い仕えよう』と誘惑します。

第二は、家族や友人からの誘惑です。(13・6~11)

第三は、民の中から出てくる、よこしまな人々からの誘惑です。(13・12~18)

いずれの場合も動じてはなりません。ただ、主である神のみを礼拝します。それが、神を愛することです。夫以外の男性と付き合うことは、夫を愛することにならないのと同様です。妻だけを愛し通すことは、真実な礼拝者の生き方に通じるものです。

あえて神が、このような世界に私たちを置かれるのは、冒頭の聖句が示すように、心をつくし、精神をつくして、あなた方の神、主を愛するか、どうかを知ろうと、あなた方を試みられるのです。

誘惑があるからこそ、心を尽くして愛するのです。誘惑もなく、他の神々もない環境で、機械的にロボットのように愛する愛は、薄っぺらな愛です。

他にも愛する可能性のある異性がいる中で、自分を選び、自分だけを愛してくれるからこそ、愛され、かつ愛する喜びがあります。選択する自由がある中で、あえてこの相手を愛そうとするから、愛することの重みがあります。

神は、あえて私たちに自由をお与えになりました。罪をおかす自由もあれば、おかさない自由もあります。偶像を礼拝する自由もあれば、主だけを礼拝する自由もあります。

その自由の中から、主なる神を愛することを選ぶからこそ本当の愛です。他の神々を愛する自由(誘惑)もあるからこそ、心を尽くし、精神をつくして愛するのです。そのような愛を育てようと、神は願っておられます。


申命記 12章

2024年06月18日 | 申命記
申命記 12章
あなた方の神、主がその名を置くために、あなた方の全部族のうちから選ばれる場所……
(12・5)


これから攻め取ろうとするカナンの地は、偶像礼拝が満ちた地です。その地に住むことで、偶像礼拝の影響を受けて、真の神礼拝から反れてしまう危険性がありました。先の11章では、気をつけなさい。あなた方の心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように(11・16 新改訳)と注意を与えています。

12章でも、偶像礼拝にはよくよく警戒せよと注意をうながしています。そのために、偶像や偶像礼拝の施設を徹底的に滅ぼしてしまうように命じられています。

※旧約における「偶像礼拝とその民の聖絶」は、新約でどのように適用するのか。文字通りに滅ぼしてしまうことは、終末の審判で神ご自身がなさることである。イスラエルによるカナン占領は、偶像礼拝に対する終末の審判を予表する神の預言的出来事と考えるべきだろう。

※新約では、自分自身の中から偶像礼拝を滅ぼすこだと理解すべきである。それを文字通り、神社仏閣を破壊し異教徒を滅ぼすといった中世の十字軍的なやり方は間違いである。

さて、偶像礼拝に注意をうながしつつ、真の礼拝はどうあるべきなのか……主はそのことを語っておられます。それが、冒頭の聖句です。

神の御名が置かれる場所でささげられる礼拝のことです。その場所は、後の時代のソロモン王に啓示され、そこに神殿が建設されることになるのですが、真の礼拝は、神の御名が置かれたその神殿でささげられるのだと預言されています。

今や、私たちは神の御名である「イエス」という名を受けた者たちです。この名を呼び、賛美する所に真の礼拝があります。


申命記 11章

2024年06月18日 | 申命記
申命記 11章
あなた方が渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
(11・11)


これから入って行く地は、かつて奴隷であったエジプトの地とは違うのだと、主は言われます。

あなた方が行って取ろうとする地は、あなた方が出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなた方は種をまき、足でそれに水を注いだ。(11・10)

エジプトはナイル川によって形成された平野であったので、水はナイル川から灌漑しました。「足で水を注いだ」とは、桶に入れて運んだのか、あるいは、足こぎ式の灌漑装置で水を引き入れたのでしょう。

ところが、これから入るカナンの地は、山と谷の多い地であり、天からの雨で水が潤う地であって、平地のエジプトとはずいぶん状況が異なります。

イエス様を信じて歩む人生は、カナンの地のように、まさに山あり谷ありの人生です。これといった困難や事件のない平地の人生ではありません。でも、天からの雨で潤うようにして、神の恵みと助けによって山を乗り越え、谷を渡って行くのです。

神の御言に従って生きようとするなら、そのように困難があります。

「まず神の国と神の義を第一に求めよ」という御言を行う人生は、エジプトのような平坦な人生ではありません。しかし、そんな山あり谷あり人生には、天からの恵みの雨が降り注ぎ、しかも、「あなたの神、主の目が常にその上にある」のです(11・12)

勇気をもって御言に従おう。山や谷の中で、神の恵みを体験する人生を期待しよう。


申命記 10章

2024年06月17日 | 申命記
申命記 10章
それゆえ、あなた方は心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。
(10・16)


モーセの説教は、イスラエルが何度も神に背いてきた道を顧みています。その反逆の原因は強情です。心がかたくなで、神の言われることをアーメンと受け入れない心だからです。

新改訳ではうなじのこわい民と翻訳しています。家畜に手綱をつけて引っ張ります。しかし、うなじ(首筋)を固くして、主人が手綱を引いても、そちらの方向に曲げない状態のことです。「こわい」とは「固い」の意味です。

「救いの道はこっちだ」「祝福の方向はこっちだ」と、主である神は手綱を引くようにして導かれるのですが、強情な人間は首を曲げないのです。

「罪を悔い改めて主イエスを信じよ」と、救いの方へ手綱を引いても、自分が罪人であることを認めないで、悔い改めない。それが強情な民です。うなじのこわい民です。

自分は正しい。自分は間違っていない。なぜ悔い改めなければならないのか。そんな固い心が砕かれなければなりません。

そのことを、冒頭の御言は、心に割礼をおこなうと表現しています。新改訳は、「心の包皮を切り捨てる」と翻訳しています。

「割礼」とは男性器の包皮の皮を切り取ることを意味します。ユダヤ人は、自分たちが神の民である証拠に割礼を施しました。しかしそれは、やがて新約における「心の割礼」を預言する儀式でした。

包皮が性器を覆っているように、かたくなな心が、柔らかい心を覆ってしまっています。「柔らかい心」とは、神を愛し、神に従おうとする純真な心のことです。よく耕された柔らかい心で、神の御言の種を蒔くに相応しい心です。

でも、そのためには、それを覆っているかたくなな心が砕かれなければなりません。だから、神は、かたくなな心が砕かれるために試練を通過させます。つまり、荒野の訓練をお与えになるのです。

このような神の取り扱いを受ける人は幸いです。神によって砕かれるという経験をした人は幸いです。その人は心の割礼を受けるからです。

しかし、神の訓練を避けて、上手に逃げ回っている人は残念な人です。その人生は順調かもしれません。大きな失敗もなく、自慢できる経歴かもしれません。でも、かたくなな心はそのままです。順調な人生も、そのかたくなな心ゆえに、やがて大きな代償を支払うことになるでしょう。

神はなにゆえに、イスラエルの民をかくまでも試練の多い歴史を通らせなさいますか。それは、悔いし砕けし魂を得ようとなさるからです。悔いし砕けしイスラエルを用いて、やがて世の終わりに偉大な働きをさせようとご計画なさっているからです。

あなたは心の割礼を受けたでしょうか。それは、御霊なる神があなたの心を根底から取り扱われることです。御霊なる神は、鋭い刃のような御言をもって私たちの心を切り裂き、肉の心と霊の心を切り分けられるのです。

痛い思いもするでしょう。御言など聞きたくないと思うような時もあるでしょう。しかし、人の心を癒す名医である御霊なる神の御手を信頼してください。心の割礼という痛みの後には、平安な義の実が用意されています。


申命記 9章

2024年06月15日 | 申命記
申命記 9章
あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。
(9・6)


これからイスラエルの民はカナンの地を攻め取ろうとしていますが、彼らがカナンの地を所有する根拠は何なのか。イスラエルの民が正しいからではないと念を押すように、主は言われます。

私は正しいから、この喧嘩に正当性があると主張できないのです。救いについて言うなら、私は正しいから、救われたとは言えないし、私は正しいから、天国に入ることができるとも言えないのです。

神は、カナンの地が罪によってあまりにも腐敗していたため、この地の民を滅ぼし、イスラエルの民を住まわせ、聖なる国を完成しようとなさったのであって、正しいと言えるのは神である主の他だれも存在しません。

そのような謙遜をイスラエルの民はどれほど理解できていたでしょうか。自分たちは正しいんだ。だから、この民を滅ぼし追い出す資格があるのだ。

このような誤った考えが、後の選民思想につながり、霊的傲慢へとつながりました。

これは新約の民であるキリスト教会にも言えます。霊的傲慢に陥ってはなりません。私が正しいからではなく、つまり、自分の義によって救いを受けたのではなく、神の義を頂戴したにすぎません。

これを忘れてしまうと、「強情な民」と呼ばれるようになります。神は、イスラエルが強情な民であると指摘なさっています。※新改訳では「うなじのこわい民」、新共同訳では「かたくなな民」と翻訳。

実は、今後のイスラエルの歴史で、彼らが強情な民であるという指摘が何度もくり返されます。自分を正しいとして、悔い改めない心。それは強情です。自己正義はやがて強情な心を作り上げることになります。

悔いし砕けし魂を主にささげよう。


申命記 8章

2024年06月14日 | 申命記
申命記 8章
それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたを幸いにするためであった。
(8・16)


なぜ、イスラエルの民は荒野を通過しなければならなかったのでしょうか。あの荒野の40年間は無駄だったのですか。いいえ、神の深いご計画と配慮に満ちていました。荒野にも祝福があったのです。

モーセは40年の荒野の旅を振り返って、次のように総括しています。

あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。(8・2)

神は、イスラエルの民を愛しておられます。それは単なる甘やかしではありません。愛するからこそ苦しみの中を通らせられます。それによって、私たちの内面を探り、きよめるためです。

「試み」とは「試験」です。成績の悪いものをふるい落とすための試験ではありません。何が理解できていなくて、何が不得意なのか。身についているのか否かを明らかにして、より鍛えるための試験です。

ですから、あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならないのです(8・5)

最後に、荒野における最も重要な訓練があります。それは、毎朝のマナを通して養う訓練でした。

それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(8・3)

私たちが地上生涯で受ける訓練は、人はパンだけではなく、神の御言によって生きることを身に付けるためです。神の御言で生きることなくして、人としての本当の幸いはないからです。

マナは早朝に降りましたから、人々は朝早く起きてマナを得なければなりませんでした。4~5日分多めに集めても、翌日には腐ってしまいました。その日の分はその日に得なければなりませんでした。

神の御言も同じです。聖書を1週間分読み溜めておこうとしても、意味がありません。毎日コツコツ読み続けます。その日その日に必要な御言が与えられ、教えられ、導かれます。

この「朝マナmail」の取り組みも同じです。

何の意味があるのだろう。聖書を読んでもたいした効果も感じられません。でも、続けます。御言は即効性のある特効薬ではなく、漢方薬のようなものです。コツコツ読むことで、心の体質が変化します。心の筋力がついてきます。急激な効果を期待して無理をしてはなりません。

でも、神はこのことを通して、冒頭の聖句のように「ついには、あなたを幸いにするため」なのです。


申命記 7章

2024年06月13日 | 申命記
申命記 7章
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。
(7・6)


主なる神は、イスラエルの民をエジプトから導き出し、ご自分の民となさいました。そして、冒頭の御言のように、宝の民となさったというのです。

とはどんなものでしょうか。高価なもの。お金では買えないもの。ほかの何ものをもってしても代えることのできないもの。それが宝です。

皆さんにも宝があるでしょう。きっとそれはいくらお金を積まれても譲ることのできないものであるはずです。えっ!1億円だったら譲りますか?。それなら、それは宝ではなかったのです。あなたにとって「お金」が宝なのです。

投資目的で骨董品や絵画を持っている人にとって、それ自体が宝なのではなく、その先にある、換金して得られるお金が宝なのです。

さあ、神は、イスラエルの民を「宝の民」と呼んでくださいました。さぞかし、イスラエルの民は優秀で立派な民なんでしょうね。いいえ、そうではありませんでした。そして、そうではなかった事が、この後の歴史で露呈してしまいます。

もちろん、そのような民であることを、神はとうの昔にご承知です。

主があなた方を愛し、あなた方を選ばれたのは、あなた方がどの国民よりも数が多かったからではない。あなた方はよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。

ただ主があなたがたを愛し、またあなた方の先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなた方を導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。
(7・7~8)


では、なぜ、神はイスラエルを宝だと言われるのでしょうか。なぜ、価値あるものだと言われるのでしょうか。なぜ、「あなたは、わたしの目には高価で尊い」と言われるのでしょうか。

それは愛されたからです。

よくよく考えてみてください。私たちは価値あるものだから愛するのでしょうか。それとも愛するから価値あるものとなるのでしょうか。この順番を間違えてはなりません。

出発点は何ですか。愛です。そして、愛しているから価値あるものと見なすのです。愛するからこそ宝となるのです。

では、なぜ愛するのですか。愛することに理由はありません。逆を言えば、理由がある愛は本当の愛ではありません。いとおしく感じ、愛することに理由などありません。

神は、ご自分に似せてご自分の形に創造した人間を愛されたのです。人間は弱い存在であることもご存知です。エデンの園で悪魔の誘惑に負けてしまう愚かさもご存知です。でも、神は愛しておられるのです。

理由なく愛してくださるのが神の愛です。本物の愛です。この愛の中にとどまるべきです。