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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ローマ人への手紙 7章

2022年04月30日 | ローマ書
ローマ人への手紙 7章
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなた方も、キリストの体によって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなた方が他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(7・4)


先の第6章では、人がアダムとの関係から切り離されてキリストにつながる方法は〝死〟であることを見ました。死を経て〝いのち〟につながる……これは、キリスト信仰の重要な法則です。

〝いのち〟に至るためには〝死〟を通過するのです。

キリストにつながっている私は、キリストの義にあずかっています。私はキリストとひとつなので、キリストのいのちにあずかっています。つまり、救いとはキリストとひとつになることです。

かつての私は、霊においてはアダムとひとつでした。だから、アダムの中で罪人でした。しかし今や、〝アダムとの関係〟から切り離されてキリストとひとつになっているので、キリストにあって義とされています。

さて次のテーマ……それは〝律法との関係〟です。

律法につながっているかぎり、律法は私を罪人であると指摘し、責めるのです。まるで、律法とは、妻の欠点をあれこれと指摘する夫のようです。

律法につながっている私は、律法という夫と結婚している妻のような立場です。夫の姓は「律法(りっぽう)」、名は「正(ただし)」です。夫はいつも正しいのです。しかも完璧主義者であって、罪のない妻を要求するのです。

夫(律法)は間違っていません。律法は聖なるものであって、正しくかつ善なるものだからです(7・12)。悪いのは妻である私です。だから夫の指摘に対して何も反論できません。

この律法という夫と結ばれている以上、私はずっと責められ続けます。罪責感で悩み苦しみます。だからパウロも告白しています。自分はしたくない罪をおかしてしまう、何という惨めな人間なのだろうと(7・19~24)

ところが、律法正(りっぽうただし)氏とは対照的な男がいます。それは、イエス・キリストです。彼は、私を責めるお方ではありません。罪をおかす私の弱さを知って、私と一緒にきよい道へと導いてくださるお方です。

イエス・キリストは欠点を見つけても責めないで、「それは私が補ってあげよう」と言われます。「お前ひとりで完全になろうとしなくて良いんだよ。私と一緒になることで完全なのだから……」と言ってくださいます。

夫の律法正氏が死んでしまえば、このキリストと一緒になることができるのですが、律法は死んでくれません。律法は聖なるもの(7・12)であり、霊的なもの(14)であるからです。かといって、夫である律法が生きているのに別の男性との結婚は姦淫ですから、それもできません(2~3)

夫である律法から解放される唯一の方法があります。それは〝死〟です。

そうです。妻である私が死ぬのです。第6章で述べたように、私はバプテスマによってキリストと共に死んだのです。そして、キリストと共によみがえってキリストと一緒になったのです。

こうしてキリストと一緒になったのは、神のために実を結ぶようになるためです。もう一度、今日の聖句を確認しましょう。

あなた方も、キリストの体によって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなた方が他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(7・4)

人は緊張すると余計に失敗します。罪をおかさないようにしよう……と頑張るのですが、失敗したら、また夫(律法)に叱られると思うと、余計に緊張して失敗します。悪循環です。

律法と一緒だと、ここが悪い、あそこが間違っている等と何かと責められるので、オロオロするばかりで実を結ぶことができません。このように律法の下にいる人には、緊張恐れがあります。でも、私と一緒になってくださったキリストは、私の緊張と恐れを取り除いてくださいます。

もし、あなたに、立派なクリスチャン生活をしなければと思うあまり緊張や恐れがあるなら、昔の夫である律法正氏と〝より〟を戻しているのです。ぜひとも点検すべきです。

あなたは、律法から完全に切り離されて、イエス・キリストに結ばれたキリストの花嫁のはずです。さあ、緊張しないでください。キリストの愛の中でリラックスしてください。

緊張や恐れから生じるエネルギーで動き出すのではなく、キリストの愛から来るエネルギーで動き出すべきです。キリストは、私たちが神のために実を結ぶことができるように共に歩んでくださるお方なのですから。

 
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ローマ人への手紙 6章

2022年04月29日 | ローマ書
ローマ人への手紙 6章
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(6・3)


先の5章の後半から話を進めなければなりません。ローマ人への手紙は、第5章12節から新たなテーマを展開しています。

私たち人類は70数億から成っていますが、神がご覧になるに、霊的にはひとつです。なぜなら、人の肉体は70数億あっても、人の霊はアダムから分離されて、みな同じ霊を持っているからです。

小麦粉に水を含ませて団子を作ります。これがアダムです。小麦粉は肉体で水が霊だと考えてください。

このアダムから人類がわかれ出て70数億になりました。しかし、すべての団子には〝同じ水〟が分離されているように、すべての人類は同じ霊を持っているので、霊的にはひとつです。

ところが問題があります。最初のアダムがエデンの園で神に不従順して罪人になりました。罪は霊的なことですから、アダムの不従順の罪および罪の結果である死は、全人類の霊の中に入り込んでいます。

ちょうどひとりの人―創世記のアダム―によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。(5・12)

ひとりの人によって全人類が罪人となりました。死の力をおびた罪に汚染された「霊」を、全人類が引き継いでいることになります。

ですから、私たちは罪をおかすので罪人なのではありません。罪人なので罪をおかすのです。最初の人であるアダムに属している以上、この罪人としての身分から抜け出すことができません(5・14)

しかし、複音はすばらしい法則をもたらしました。このように罪は、ひとりのアダムから全人類に入り込んだのですから、それと同じように、恵み救いもひとりの人から全人類に入り込むという法則です。

この恵みをもたらした人とは、イエス・キリストです罪をもたらした人が「最初のアダム」であるので、イエス・キリストは「最後のアダム」と呼ばれます(Ⅰコリ15・45)。この最初のアダムから切り離されて最後のアダムにつながるなら、確実に義とされ、永遠のいのちを得るのです。

次の問題です。では、どうやって最初の人アダムから切り離されるのか。そして、どうやって最後のアダムであるイエス・キリストにつながることができるのかという問題です。

たとえ、律法を守って良い行いをしても、罪人としての身分から抜け出ることはできません。アダムに属している以上、その人は罪人であり、罪の結果の死から逃れることはできません。

ここからが第6章です。

結論から申し上げましょう。アダムとのつながりを断ち切るには、〝死〟以外に方法がありません。アダムに属しながら、罪人を改良しようとしても、根っからの罪人ですから、対処療法に過ぎません。

努力家の人は、改良したり修正して立派にやろうとするのですが、罪をおかすのは時間の問題です。善良な人も悪人も、遅かれ早かれ罪の前にむなしく跪(ひざまず)くしかありません。

ですから、死ぬ以外にアダムとの縁を切ることができません。ではどうやって死ぬことができますか。それは、キリストと一体となるバプテスマを受けることによって可能です。こうして、キリストの体験は自分の体験となります。 ※バプテスマとは水の中に浸すこと。キリスト教会の重要な儀式である。

キリストが十字架で死なれたのは、あのキリストの中で罪人の私も一緒になって死んだのだと認めます。罪人である古き人をキリストと共にあの十字架で葬ってしまったのです。

このことに同意して、私たちはバプテスマを受けるのです。聖書はこう記しています。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである(6・3)

神の方法は、小手先の改良ではなく、アダムに属する人を完全に葬ってしまうことです。古い人(アダムに属する私)は十字架でイエス・キリストと共に死んで葬ってしまいました(6・6)

キリストと一緒になって死んだので、続いてキリストと一緒になって復活しました。キリストと共に死んだので、古い私はもう生きていません。いま生きているのは、キリストと一緒になって新しくされた私が生きているのです(6・5)

このことを見事に表現しているのが、水のバプテスマです。水の中に浸されることで、私はキリストと一緒になって葬られ、水の中から出てくることで、キリストと一緒になって復活したことを表しています。

このように、バプテスマはキリスト信仰の肝(きも)です。だから、信仰が迷ったなら、バプテスマの恵みに立ち返ってください。まだ受けていない人は、是非バプテスマを受けてください。信仰が知的な理解から体験へとなる機会です。バプテスマに込められた意味が私の生き様になりますように祈ります。

◆◆◆◆◆

古い自分は十字架で死んで、キリストとつながった新しい自分が生きている。何とも不思議な理屈です。そこでパウロは、そのように認めなさいと命令しています(6・11)。新改訳では思いなさい、新共同訳では考えなさいです。

馴染みのない理屈ですが、そのように考え方を変えることから始めよというのです。ギリシャ語の源語では帳簿に付けなさいという意味です。帳簿に付けると、その数を基に後の計算も記帳します。数字ですから、厳密に積み重なって行きます。

私はキリスト共に死んで、キリスト共に生きているという記帳から始めるのです。その記帳後の決算は、御霊の実となってキチンと算出されるはずです。

そのような考え方で、ローマ人への手紙を読み進めて行きましょう。

さあ、私たちはキリストにつながった者です。罪人の根っ子であるアダムからは切り離されました。かつては、罪人という根っ子につながっていたので、罪の奴隷でした(6・17)

口語訳は「罪のしもべ」ですが、「罪の奴隷」という訳の方が強烈な印象です。つまり、罪を犯したくなくても、罪という主人の下で、有無を言わせず罪を犯してしまう状態です。

逆に、それほど強烈に、今や私は義の奴隷となっているのです(18)私みたいな怠け者は、義なるお方であるイエスの奴隷にでもならなければ、良い行いはできそうにもありません。

私は神の子どもですが、あえて自ら進んで義の奴隷になろうというのです。罪人である古き自分が主人であったときは、自分の手足を罪のために使うことしかできませんでした。「不義の器として罪にささげている」生活でした。惨めで不毛な人生です。

でも今や、義なる主人……イエス・キリストに、自分の手足を奴隷として献げよう。

あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい(13)とは、そういう意味です。主人であるキリストは、愛と赦しに満ちたご主人であって、決して私を恐怖に陥れるような主人ではありません。

 
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ローマ人への手紙 5章

2022年04月28日 | ローマ書
ローマ人への手紙 5章
まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。(5・8)


先の第4章では、行いによって義とされようとするのは、丁度、一生懸命に良い子になって親の愛を獲得しようとする子のようだと学びました。

でも、神は、私たちが「良い子」になる前から私たちを愛してくださっています。私たちが罪人で神に敵対している時でさえ、神は愛してくださって、御子の死をもって和解してくださったのです。

今日の聖句はそれを言っています。まだ罪人であった時とは、私が「良い子でなかった時」という意味です。何の良い行いもできなかった時……です。そんな時から、神は愛してくださったのです。

私たちのなすべき事は、ただ、その神の愛を感謝して受け取ることです。信じるとは、神の愛を素直に受け取ることです。その信仰を神は喜んでくださいます。つまり義としてくださるのです。

このように、信仰によって義とされてるのですから  ――この順番が大切です―― 神との平和を得ているのです(5・1)。そのような神との平和があるので、患難をも喜ぶことができるのです(5・3)

患難を喜ぶ?、冗談でしょ!。そう言いたくなりますよね。でも、順を追って行けばそうなるのです。私が罪人であった時、すでに神は私を愛してくださったという順番が狂っていないか、点検してみてはどうでしょうか。

私は神から義とされているのだ。神から愛されているのだ。私が何か立派なことをしたからではなく、イエスを信じることを神は喜んでくださっているのだ。こうして「神との平和」を持っているので(5・1)、たとえ患難であっても喜ぶことができるのです。

ところが、「私は立派にやっているから、神は私を義としてくださる」と考えるならどうなりますか。そのように考える人は、問題が起きると、自分は立派にやれていないから、神から罰を受けたのだと考えてしまいます。

神からの愛をしっかり受け取っている人は、いつでも肯定的に受け止めます。逆に、神の愛をしっかり受け取っていない人は、否定的・悲観的に物事を受け止める傾向にあります。

否定的・悲観的な感覚が出てきたとき、「私は信仰によって義とされたのだ」という原点に立ち返ってください。義とされたしるしとして、神は聖霊をくださったことに立ち返ってください。

「この聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」からです(5・5)。この聖霊によって、「私は義とされている」「私は神から愛されている」ことを知るようになります。

だから ――神の愛が注がれているので――、患難を喜び、それが希望にまで至る原動力となるのです。

さあ、整理しましょう。聖霊によって神の愛がチャ~ンと注がれているなら、患難」→「忍耐」→「錬達」→「希望」→「希望は失望に終わらないという順番になります(5・3~5)。 ※「錬達」は、新改訳では「練られた品性」。

もし、この「神の愛」が真っ先に来ていないと結果は違います。患難に会うと、忍耐ではなく「我慢」になります。希望のない忍耐が「我慢」です。そんな我慢は、錬達した人格ではなく、ひねくれた卑屈な品性が育ちます。

品性が練られていないので、「神は私をお見捨てになったのだ」とか、「神は私を憎んで罰しておられるのだ」と考えるようになります。だから、希望ではなく失望に終わってしまいます。

いかがですか。神の愛が真っ先に来ていますか。ならば大丈夫です。いかなる患難も忍耐を経て錬られた品性を生み出します。その品性はいかなる状況下でも〝希望を見つける達人〟です。

このような経過を経て得た希望は、そんじょそこらの希望とは違います。決して失望に終わらない希望です。安っぽい希望はチョットした事で失望に終わりますが、患難を経て得た希望は失望に勝利するのです。

 
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ローマ人への手紙 4章

2022年04月27日 | ローマ書
ローマ人への手紙 4章
アブラハムは、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。(4・11)


律法に熱心なユダヤ人にとって、「信仰によって義とされる」などという論説は肩すかしをくったようなものです。自分の今までの熱心が否定されたような気がして怒り出す人もいました。

そんなわけですから、パウロはユダヤ人から迫害されました。パウロは律法を台無しにしてしまう。冒涜だ、異端だ、と非難されました。

しかし「信仰によって義とされる」ことは、異端でもなければ、律法に対する冒涜でもない。すでにそのことは、旧約の時から神が啓示なさっていたのだ……と説明しているのが第4章です。

その具体例として、アブラハムの場合が紹介されています。

旧約の時代、神に義と認められた代表的な人物……それがアブラハムです。ユダヤ人は、このアブラハムの時代から実施するようになった割礼を受け継いでおり、この割礼という律法の行いによって義と認められるのだと考えていました。

割礼は男性器の包皮を切り取る儀式ですが、律法は、この割礼を受けよと命じています。ユダヤ人たる者は、この割礼を受けて後、律法を厳守する生活がはじまります。ですから、割礼とは、「律法の行いによる生活」をあらわす象徴的な〝しるし〟なのです。 ※神が命じられた割礼は男子だけに施された。男性器を清潔に保つとともに多産に貢献することが認められている。しかし、アフリカの一部に女性器割礼の習慣があるが、聖書の割礼とは全く別物であり、有害かつ社会問題となっている。

話題を戻しましょう。アブラハムは割礼を受けたので義と認められたのではありません。信仰によって義と認められたのです。そして、義と認められた証印として割礼を受けたのです。

順番を逆にしてはなりません。つまり、良い行いをしたので、義と認められたのではありません。ありのままを受け止めてくださる神の愛を信頼したので、神はそのようなアブラハムの信仰を喜ばれたのです。

愛においてもこの順番が大切です。

親は子を愛します。子が生まれると、その子は手間をかけるばかりで、何の良い行いをしないのですが、親は無条件に愛します。行いによって愛するのではありません。存在そのものを愛するのです。これが親の本来の愛です。ところが、子が成長するにつれて、学校の成績が良かった、良い子になったといって喜ぶようになります。いつしか、始めの愛を忘れて、その子の良い行いを条件に愛するようになります。ここに順番の逆転が起こります。

子も、親がありのままの自分を愛してくれることを忘れて、自分の立派な行いによって親の愛を獲得しようと頑張ります。

でも、良い行いができない子がいます。ちょっと無器用な子なのです。そんな子は悪い行いをしてでも親の歓心を得ようとします。それは愛を獲得したいからです。ここにも順番の逆転が起きています。

神から義と認められようとして、人が良い行いに励むのも、これと似ています。神に義と認めてもらいたい。言いかえれば、神の愛を獲得したいので良い行いをするという構図です。

このように順番を間違えて、「良い子のクリスチャン」になろうとします。そうこうする内に、良い子であり続けることに疲れてしまいます。逆に、開き直って、「不良クリスチャン」になってしまう人もいます。 ※「良い子」であろうが「不良の子」であろうが、神に愛されているのにそれを忘れている。

良い行いをして義と認めてもらおうというのは、労働の対価として得る報酬の考え方です。でも、救いは報酬ではありません。恵みです(4・4)信仰によって義と認められる、つまり信仰によって救われるのは恵みです。決して報酬ではありません。

神がアブラハムを義と認めてくださった場面を思い出してみましょう。神は夜の星空をアブラハムに見せて、あなたの子孫はこの星の数ほどに増え広がるのだと言われました(創世記15章)

アブラハムにはまだひとりも子がない時であり、年寄りが子を生むなど不可能な状況の中で、彼は神の約束を信じました。神がおっしゃるのだから、きっとそうなるに違いないと信じたのです。

この信じたことを、神は義と認められました。つまり、神が満足なさったということです。言いかえれば、神が喜んでくださったのです。

つまり、アブラハムの立派な行いではなく、信じたことを神は大いに喜んでくださったのです。むしろ、行いの点では、アブラハムは失敗の連続で、神を失望させることばかりでした。

私たちが幼な子のように神の愛を信頼することを、神は喜んでくださいます。人の親子関係でも同じです。父親を信頼しない息子は、親からすれば嬉しくない。勉学がどんなにすぐれていても……です。やることなすこと立派なのだけれど神を信頼しない人間。「信頼できるのは自分だけだ。お金だけだ」と言っている人間を、神は悲しまれます。

このように、神は、私たちが神の愛を信頼することを喜ばれ、満足なさるのです。つまり、「正しい」としてくださるのです。これが「義と認められる」という意味です。

アブラハムは神を信じました。神の御言を信じました。神が言われるのだからきっとそうなるのだと信じました。信じる根拠があったのですか。いいえ、人間的には何の根拠もありません。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じたのです(ローマ4・18)

その神への信頼は衰えることなく、老年になって、もはや子孫を残すことなど不可能な状況になっても信じたのです。

およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。(4・19~21)

そう信じる根拠は「神がおっしゃるから」です。こんな風に篤く信頼されたら、神はどんなに誇らしいことでしょう。いかに喜ばれることでしょう。神はこういう信仰を求めておられるのです。

そして、義とした証印として、アブラハムの場合は「割礼」を受けました。そして、新約のクリスチャンの場合は「聖霊」を受けるのです。私たちが聖霊を受けたのは、義とされた証拠です。この聖霊を受けることによって、心に割礼を受けるのです。

 
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ローマ人への手紙 3章

2022年04月26日 | ローマ書
ローマ人への手紙 3章
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。(3・28)


第1~2章で、ユダヤ人も異邦人もすべての人が罪人である。例外はない。そして、罪人に対しては、やがて来るべきさばきの日に、神の御怒りが用意されていることを見ました。

この御怒りから逃れることができるものはひとりもいません。なぜなら、義人はいない、ひとりもいないからです(3・10)

ローマ人への手紙では、この「義人」とか「義」というテーマがくり返し論じられます。では、義とはなんでしょうか。大雑把な言い方ですが、〝神が満足なさる水準〟のことです。

ユダヤ人はこの水準に到達しようと、律法を厳格に行ってきました。では、彼らは神の義に到達したのでしょうか。いいえ、むしろ律法によっては罪の自覚が増すばかりです(3・20)。パリサイ派として生きてきたパウロは、このことを痛感しています。

ではどうすれば、神の満足なさる水準に到達できるのでしょうか。律法の行いによるのではありません。冒頭の聖句が示すように、人が義とされるのは信仰によるのです。 ※人が神の義に到達するのは「行いによらない」という論旨は、「行いは不要だ」という意味ではない。ローマ書13~15章では行いの大切さが語られている。

なぜ神は、私たちの良い行いを義と認めてくださらないのでしょうか。世の中にはとても親切な人もいれば、品行方正な人もいます。とてもすばらしいではありませんか。

それは、高級な器に汚物を盛って神に差し出すようなものだからです。有田焼の最高級の器でも、中に盛られているものが汚物であれば、神を満足させることなど到底できません。

最高の行いという「器」に「罪人」を盛って神に差し出すことができるでしょうか。それで神が満足なさると思うなら、何という傲慢でしょう。

では、慈愛に富んだ神は、満足なさる水準を下げてくださるのか。それはできません。神の自尊心にかけてできません。それが神の義というものです。

神の聖なる自尊心にかけて、神は最高の水準を要求されます。だからイエス様は、「わたしが来たのは律法を廃止するために来たのではない。律法を完成するためにきたのだ」と言われました(マタイ5・17)

神は、旧約の時代には罪に厳しくて、新約ではあまくしておられるのか。いいえ、むしろ逆です。旧約の時代は見逃しておられました(3・25)。しかし、新約では、人間の罪を微塵たりとも見逃さないで、それを十字架の血で完全にきよめられたのです。

神の御子が十字架で血を流さなければならないほど、神のきよさの水準は高いのです。これが神の満足なさる水準です。これが神の義です。ですから、人間の行いで到達できるような水準ではないのです。

そこで、この義に到達する方法がたったひとつあります。それは、神の義を信仰によって受け取るのです。

十字架の意味を認めて、イエスを救い主と信じる信仰によって、神の義を受け取ることができます。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのであるとは、そういう意味です。

十字架の意味を認めるとは、自分が十字架で死ななければならない罪人だと認めることになります。そして、その罪人の私に代わってイエス様が死なれたことを感謝するのです。

そこには、もはや自分の義が割り込む隙がありません。否、自分の義を割り込ませてはいけません。自分にこんな良い点があるので、神は私を義としてくださったというのが、「自分の義を割り込ませる」という意味です。

自分では立派だと思っていても、神には塵芥(ちりあくた)のようなものです。なのに、自分の義を誇りはじめると、優越感と劣等感のシーソーゲームが始まります。比較と競争のデッドヒートが始まります。

その悪循環から抜け出して、神の義を受け取るべきです。

自分には何も誇るものがありません。それでよいのです。信仰という方法で神の義を受け取るのは、人がだれも誇らないためなのですから……。信仰によって義と認められたことを感謝します。

 
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ローマ人への手紙 2章

2022年04月25日 | ローマ書

ローマ人への手紙 2章
神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。(2・4)


ローマ人への手紙の1~2章は、すべての人が罪人であると述べ、神の御怒りはその罪人の上に臨むのだと論を進めます。

まず異邦人(ユダヤ人以外のすべての人々)についてです(1・18~32)

人は霊的存在ですから、本能的に神の存在を意識しています。ただ、神を認めると都合が悪いので、神を信じようとしません。むしろ自分を神とし、自分の欲望のままに生きています。

また、神を信じても、偽りの神々をおがみます。なぜなら、偽りの神の方が、自分に都合の良い神 ―― 自分が操ることのできる神 ―― だからです。

こうして人類は、神を偽りの姿に変えてしまっています。これが偶像礼拝です。すべての問題の根っ子がこの偶像礼拝です。

偽りの神礼拝は、始めからボタンの掛け違いです。掛け違うと、あとはすべて狂ってきます。人間関係でも親子関係は第一ボタンです。親と子の関係が崩れていると、人間関係の秩序が倒錯します。

また、夫婦の関係も人間関係の第一ボタンです。愛すべき夫(妻)がいながら、他の男(女)を愛しているなら、そこから人間関係が歪んできます。

このように、正しい神との関係が崩れているので、人類の中にあらゆる不義と悪と貪欲と悪意が満ちているのです(1・29)。そのような者に神の御怒りはくだります(1・18)

以上が、異邦人は罪人であることの論旨で、第1章18~32節の大まかな内容です。

つづいてユダヤ人の場合です(2・1~)。彼らは神を信じています。そして律法に従順するしるしとして割礼を受けているので、自分たちは神の御怒りに対しては例外だと考えていました。

しかし、ユダヤ人であるあなたは神の御怒りのさばきから逃れうると思っているのかと問いかけています(2・3)。つまり、例外はないのだ。イエス・キリストによって、人々の隠れた罪が明らかにされ、さばかれる日が必ず来るのだと述べています(2・16)

神の御前にはすべてがあらわになります。律法を守ることで人の目には立派に見えても、神は隠れたところをご覧になります。

だから、自分は律法を行っているから大丈夫だと考えているなら、それは神の義をあなどっているのです。そして、神の正しいさばきの日に、神の怒りを我が身に積んでいることになるのです(2・5)

ローマ人への手紙の第1~2章は、読む者に絶望を与えます。ここだけを読むならだれもが絶望です。私は義人だと主張できる者はいない。罪に対する神の御怒りから逃れうる者はいないのです。

しかし、自分の罪深さに絶望する人は幸いです。神の慈愛を知るからです。罪の暗闇に一筋の光が差し込んできます。どんなに罪の暗闇が深くても、助かる道がひとつだけあります。

それは神の慈愛を知って悔い改めることです。人が悔い改めて神に立ち返るのを、神は慈愛と忍耐と寛容をもって待っておられます。今日の聖句を心に刻むべきです。神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。(2・4)

悔い改めは、神が与えてくださったのがれの道です。救いにいたる唯一のです。小さくて狭いので、多くの人はこの門をくぐりたがりません。しかし、終わりの日には、隠れたすべてのことが明らかにされるのですから、そうなる前に、神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじないで、悔い改めに導かれますように祈ります。

神が、私に対してここまで、慈愛と忍耐と寛容をもっておられるのですから、なおさら私たちも、他者(ひと)に対して慈愛と忍耐と寛容をもって接すべきではないかと思います。主よ、その力をお与えください。

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ローマ人への手紙 1章

2022年04月23日 | ローマ書

ローマ人への手紙 1章
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(1・5)


今日からローマ教会への手紙です。手紙の送り主は使徒パウロです。ローマ教会といっても、会堂や組織だった集まりではありませんでした。ローマにある家の教会として活動していました。

聖霊がくだった五旬節の祭(ペンテコステ)の日に、巡礼のためにローマからエルサレムに来ていたユダヤ人が、福音を受けて始まった教会であると考えられます。

実はこの時点でパウロはローマ教会に訪問したことがありません。パウロ書簡の多くは、パウロの宣教活動で生み出された教会あてに書かれているので、教会の諸問題に関する具体的な指導が中心に記されていますが、まだ訪れたことのないローマ教会への手紙では、福音を論理的に整理し、キリスト信仰の基礎となる神学を丁寧に展開している点が特徴です。

新約聖書の並びでいえば、四福音書と使徒行伝に続いて、書簡集の最初に本書が編集されたのは意義深いことです。※記された年代順ではなく、テーマ順である。

さて、本題に入りましょう。冒頭でパウロは、自分が使徒として召された目的は、御名のために、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためだと記しています。そして、この目的は、神ご自身の目的でもあります。

神の御名のための従順」。これは大切なテーマです。神の意図の根幹をなしています。 ※神の御名への従順は信仰がなければできない。信仰の従順でもあるわけだが、ここでは要約して、神の御名のための従順と表記する。

神を愛するとは、神の御名を愛することです。神に仕えるとは、神の御名に仕えることです。神を直接見ることもふれることもできませんが、私たちは神の御名を讃美し、神の御名を礼拝します。

人は自分の名を尊びます。肉体の苦難は耐え難いことですが、それ以上に、自分の名が卑(いや)しめられることは、さらに耐え難いことです。究極的には、人は自分の肉体より、我が名を尊びます。たとえ肉体を死にわたしてでも、我が名の名誉を守ろうとします。それが人間としての尊厳です。

名を尊ぶという感覚……それは人が霊的な存在だからです。

霊的存在ではない動物にはない感覚です。動物は、自分の肉体のために生きているのであって、自分の名のために生きようとしません。また、自分に屈辱的な名を付けられても気にしません。

しかし人は違います。それは、人が神に似せて創造された存在であるからです。人をそのように創造なさった神は、なおさら、ご自分の名を尊ばれます。

ですから、神は、ご自分を目に見える物質に表現することを嫌われます。それが「偶像」です。目に見える何かを拝むのではなく、神の御名を礼拝することを願われます。神の御名を尊ぶこと……これは神の尊厳です。

旧約の預言者マラキは、神の御名の尊厳を語りました。要点をまとめておきましょう。

うわべでは神を礼拝しているが、汚れたもの、傷のあるものを献げる人々に向かって、それは神の御名をあなどることだと指摘しています(マラキ1・1~14)

神の御名はすべての国々であがめられる名です(マラキ1・11)。神が人を創造なさった目的は何ですか。それは神を敬う子孫を得るためです(マラキ2・15)※口語訳・文語訳を参照。神はたくさんの霊を造ることができるお方なのに―事実、天使たちは各々の霊として創造された―どうして人間はたった一つの霊として造られたのか。それは神を敬う子孫を得るためであると訳されている。

終わりの日が来る。それは裁きの日であって、その時、神の御名をいやしめる者たちは焼きつくされ、神の御名を恐れあがめる者には義の太陽が昇り、神の栄光で輝くのだ。これがマラキが預言した主旨です。

神は、ご自身の御名があがめられる世界を目指しておられます。御名をあがめる場所として、神は天を創造し、天に神の名を置かれました。天とは、被造者たちが神の御名に仕えるところです。

ですから、私たちは主の祈りでまず祈るのです。御名があがめられますように」。御父と御子と御霊……三位一体の神の名は「イエス」です。イエスの御名を讃美しましょう。※「朝マナ」のヨハネ17章を参照。

すべてはイエスの御名が讃美されるためですから、どんな時も「イエスさま感謝します」と告白しよう。

私たちが救われたのは、イエスの御名に仕えるためです。イエスの御名を讃美するためです。すべての国民が御名を尊ぶ従順な者たちになるために、神はパウロを召されました。そして、私たちも召されています。

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使徒行伝 28章

2022年04月22日 | 使徒行伝
使徒行伝 28章
はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。(28・31)


ローマに到着したパウロは囚人の立場ではありましたが、住む場所が用意され、比較的自由に面会ができ、しかも番兵付きでした(28・16)。逆境の中にも、神はすばらしいプレゼントをしてくださいました。

さて、パウロをはじめ使徒たちが伝えたのは神の国の福音です。もちろん主イエス様を伝えたのですが、神の国とセットで語られていることに注目したいと思います。

パウロは神の国のことを証しし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて語りました(28・23)。そして、使徒行伝の最後の文も「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」のです(28・31)。これはパウロだけの特徴でしょうか。そうではありません。

イエス様が語られたのも「神の国の福音」です(ルカ4・43)。主は、神の国が近づいたことを語られ、その国の祝福にあずかるために罪を悔い改めて救いを得よとお教えになりました。 ※「神の国の福音」はマタイでは「御国の福音」。

神の国が近づいています。その御国の王はイエス様です。その国は地上の日本とか韓国といった物理的な国の領域を超えた、霊的な国です。イエスも、「わたしの国はこの世のものではない」と証言されました(ヨハネ18・36)

イエスが復活なさったあと、弟子たちに語られたことは「神の国」についてでした(使徒1・3)。使徒たちの宣教も、この神の国イエスの救いを伝えることとは表裏一体でした。

サマリヤで伝道したピリポは、神の国とイエスの御名を宣べ伝えました(使徒8・12)。エペソで伝道したパウロも3ヶ月の間、大胆に神の国について論じました(使徒19・8)

パウロは自分のことを「御国を宣べ伝えたこの私」と表現しました(使徒20・25)。このように、使徒たちが伝えたのは「神の国」なのです。

イエス様は王です。王が来るとは国が来ることです。王のない国はないし、国のない王はありません。王と国は一体です。

こうも言えます。イエス様が十字架で死なれたことによって、私たちの罪が赦(ゆる)されました。この救いは内面的です。しかし、福音は内面的な救いで終わりません。福音がもたらす外面的な救いがあります。それは神の国です。

救いが私の内側だけではなく、外側にも広がって行きます。救われた環境や生活の広がり……、それが神の国です。

王であるイエス様はもう一度来られます。

2千年前に来られたイエスは十字架で死ぬために来られました。しかし、再び来られるイエスは神の国の王として来られます。すべてを裁き、精算するために来られます。

神の国はイエスが再び来られるとき完成しますが、それまでクリスチャンは指をくわえて待っているのではありません。イエス様は神の国は遠くにあるものではないと言われました。近づいているのだ。いや、すでにここに来ているのだといって、神の国を見せてくださいました。

どのようにして見せてくださいましたか。

イエスは罪をゆるすだけでなく、「起きて床を取り上げて歩け」と命じ、いやしを現されました。また、病や悪をもたらす悪霊を追い出されました。そして、「悪霊を追い出していることは、神の国がここに来ている証拠なのだ」と言われました(ルカ11・20)

また、イエス様は罪人らと共に食事をなさいました。すべての隔ての中垣を取り除いて、神との交わりの喜びを見せてくださいました。

このようにして、イエスは神の国の祝福を見せてくださったのです。

主の祈りで、「御国が来ますように」と祈る私たちの任務は、神の国の祝福を世に現すことです。私たち教会は不完全な者たちですが、だからこそ聖霊の助けを受けて、その任務を果たせるように祈ります。

神の国の祝福を100パーセント現すことができなくても……サタンが支配する世界に私たちは置かれているのですから……だからこそ、聖霊の助けを受けなければなりません。

そして、御国の祝福の何十パーセントかでも現すことができますように祈らなければなりません。この祈りと働きは、使徒行伝の時から今日にいたるまで受けつがれてきた使命です。

2千年前、バプテスマのヨハネがイエスの来られる道を用意したように、今度は、私たちキリスト教会が、神の国が来るための道を用意しています。そして、時が良くても悪くても、「神の国は近づいた。悔い改めてイエスを信じよ」と宣べ伝える使命を受けています。

これが、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなた方をつかわす」と言われた主イエスからの使命です。

祈りましょう。聖霊なる神の助けを得て、この務めを全うできますように……。

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使徒行伝 27章

2022年04月21日 | 使徒行伝
使徒行伝 27章
パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。(27・24)


パウロがカイザル(ローマ皇帝)に上訴したことで、護送の任務を受けた百卒長ユリアスの一団はローマに向けて出立しました。この一団には、パウロ以外にも他の囚人たちも護送されていました(27・1)

当時の船旅は気候に左右される風まかせの旅です。特に地中海の冬は船旅には危険な季節なので、旅をひかえるべきだったのですが、この旅は大丈夫だとする船長と船主の意見を信頼して、百卒長ユリアスは旅を急ぎました。

船長や船主は一刻も早く荷を目的地に運んで船賃を稼ぎたかったことでしょうし、百卒長も、囚人を護送するのにを長い期間をかけたくありませんでした。

そこで満を持して出帆したのですが、ユーラクロンという地中海特有の台風に遭遇してしまいました。あまりにも激しい暴風雨であり、その時の様子を聖書は次のように記しています(27・18~20)

私たちは、暴風にひどく悩まされつづけたので、次の日に、人々は積荷を捨てはじめ、三日目には、船具までも、手ずから投げすてた。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、私たちの助かる最後の望みもなくなった」。

積み荷もみな投げ捨てたのは、船が重すぎて沈んでしまうからです。

人生の嵐に遭遇したとき、私たちは、積み荷も船具も捨ててしまわなければならないような状況があります。人生の重荷、人間的なプライド、世に対する未練等々、これらを投げ捨てなければならないような人生の嵐があります。それを持っていると、その重みで、人生の船もろとも沈んでしまうからです。

しかし、すべてを投げ捨てる事態になっても、なおも残るものがあります。それは「神の御言」すなわち「神の約束」です。何もかも無くしても、神の御言は必ず残ります。そして実現します。

自分が思い描いていた人生設計や思惑を投げ捨てても、なお残るもの……それは、神の御言であり神の約束です。

この時も、すべてを投げ捨てた船の中で、神の御言がパウロに与えられました。「パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」(27・24)

この「恐れるな」という神の御言が頼りです。パウロはこの御言に信頼しました。神が大丈夫だと言ってくだされば、状況がどんなであっても、神の御言の通りになるのです。

さて、この船旅には、神の御言と相対(あいたい)するようにして、人々の思惑が交錯しています。そんな人間的な思惑を、船具と一緒に投げ捨てなければなりませんでした。どんな思惑だったのでしょうか。

第一の思惑は、船旅を急いだ船主や船長の思惑です。彼らは積み荷のことを考えていました。

第二の思惑は、水夫らの思惑です。漂流14日目になり、水深30~40メートルの所まで来た時のことです。遠くに見える島陰を目指して、水夫たちは小舟に乗って逃げ出そうとしました。

水夫らの思惑はこうです。どっちみち乗員2百数名全員が助かる見込みなどない。ならば、自分たちだけが助かろう。陸地に近い今がチャンスだ。船が座礁する前に逃げだそう……と考えたのです。

もし彼らがいなくなれば、船を操作できませんから、船も乗員も島にたどりつけません。しかし、パウロがそれを発見して、逃亡は未遂に終わりました。それをパウロに発見させてくださったのは神です。

第三の思惑は、兵卒たちの思惑です。船は浅瀬に乗り上げてしまったため、それぞれ泳いで上陸するしか方法がありません。ところが囚人たちが泳いで逃げる可能性がありました。

当時のローマ法では、囚人を逃がしたら、それを管理した兵卒が囚人の刑を代わりに担うことになっていました。死刑囚を逃がしたら、自分が死刑になります。だから、兵卒たちはいっそのこと囚人を殺してしまおうと考えたのです。兵卒たちの思惑どおりになっていれば、パウロも他の囚人たちと諸共に殺されるところでした。

しかし、百人隊長ユリアスの判断でその計画は退けられました。彼にパウロを救いたいという思いを起こさせてくださったのは神です。

人はそれぞれの思惑があります。しかし、神のご計画は人の思惑に振り回されることなく確実に進みます。「あなたはカイザルの前に立たなければならない」と言われた神の御言だけが最後まで残ります。

神の御言は、どんな嵐の中でも捨てられたり沈んだりしません。神の御言は、人の思惑や計画によって挫折することもありません。船に乗っていた人々は、それぞれの思惑を胸にいだいて進めましたが、失敗に終わりました。しかし、パウロは神の御言を受けて行動しました。御言どおりになると信じた者の幸いを見ます。

祈りましょう。私の思惑どおりではなく、神の御言どおり、この身になりますように……。

 
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使徒行伝 26章

2022年04月20日 | 使徒行伝

使徒行伝 26章
アグリッパがパウロに言った、「お前は少し説いただけで、私をクリスチャンにしようとしている」。(26・28)


ユダヤの王ヘロデ・アグリッパ2世が、カイザリヤにいるユダヤ総督フェストを表敬訪問した時のことです。 ※ローマ帝国の支配は、各地の王制を容認しつつも、ローマ帝国の息のかかった王を擁立し、その上に総督府をおいて支配していた。

いま話題のパウロとはどんな人物なのか。興味をもったアグリッパ王は、カイザリヤ訪問を機に、パウロと会ってみようと思ったのです。

こういうわけで、パウロは捕らわれの身でありながら、王に福音を語る機会を得ました。通常ではあり得ない出会いです。神は、パウロを囚人とすることで、王に救いの機会をお与えになりました。

このアグリッパ王は、ヘロデ・アグリッパ1世の息子です。父ヘロデ・アグリッパ1世は、ヤコブを剣で切り殺し、それが民衆の意にかなったのでペテロをも捕らえた王です(12・1~3)。しかし、その高慢ゆえに神に打たれて死にました(12・20~23)。 ※神は小さな毒虫を用いてヘロデ・アグリッパを打たれた。

そのような父の最期を見せられても、息子のアグリッパ王は悔い改めませんでした。しかし、それでもなお、哀れみ深い神は、今度はパウロを遣わして福音を聞く機会をお与えになったのです。

結果は、パウロの無罪を認めはしたものの(26・32)お前は少し説いただけで、私をクリスチャンにしようとしていると言ってイエスを受け入れませんでした(26・28)

神は、ヘロデ王家に悔い改めと救いの機会を再三にわたって提供なさってきました。ここで、ヘロデ王家の歴史を振り返ってみましょう。

ヘロデ・アグリッパ2世の曾祖父にあたるのがヘロデ大王です。このヘロデ大王とは、東方から来た博士らによって、キリスト誕生の知らせを聞いた人です。このように、神は、ユダヤの王に福音がとどくようになさいました。国民に対する王の影響力は大きいからです。

しかし、それにもかかわらず、曾祖父であるヘロデ大王はキリストを拒絶し、キリストが生まれたとされるベツレヘム付近の2歳以下の幼児を皆殺しにしました(マタイ2・1~18)

それでも神は、ヘロデ王家に対する宣教をあきらめることをなさいません。続いて神は、ヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスに悔い改める機会をお与えになりました。

この時は、バプテスマのヨハネを遣わされました。バプテスマのヨハネは、アンティパスとヘロデヤとの不倫問題を指摘し、悔い改めてキリストを迎える準備をするように説きました。

しかし、アンティパスはバプテスマのヨハネを捕らえ、彼の首を切り落としました(マルコ6・14~29)。アンティパスは非常に悩みながらも、ヨハネの話を聞いていたにも関わらず、最終的には悔い改めの機会を逃してしまいました。

このように神は、ヘロデ王家4代にわたって救いの御手を差し出してこられたのです。

アグリッパ王は、「少し説明したぐらいで私をクリスチャンにしようとするのか」と言ってのけましたが、これが〝少し〟でしょうか。曾祖父の世代から神は語りかけておられたのです。

少しの説明であろうが、多くの説明であろうが、救いの機会を逃してはなりません。悔い改めの機会を見逃してはなりません。

祈りましょう。主よ、少しの御言によってでも、私が主の道を選び取り、いのちと祝福を選び取ることができるようにしてください。そして、いつでも悔い改めることのできるやわらかい心に導いてください。

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使徒行伝 25章

2022年04月19日 | 使徒行伝
使徒行伝 25章
わたしはカイザルに上訴します。(25・11)


ユダヤ主導の裁判ではらちがあかず、膠着(こうちゃく)状態が続いたため、パウロは拘留されたままで、総督ペリクスのもとで2年間も放っておかれたままでした。

その理由は、先に見たように、前任のペリクス総督がユダヤ人の歓心を買うための手段として利用したわけです。しかし、新総督フェストの着任によって事態が動きはじめした。パウロは思いきってカイザルに上訴したのです。日本でいえば、地方裁判所の判決を不服として高等裁判所に、そして最高裁へと訴えるようなものです。

ペリクスのもとで2年間も棒に振ったうえに、さらに上訴して拘留状態を続けることになります。無駄に時間が過ぎて行くような焦りさえ感じられたのではないでしょうか。

「エルサレムには行かない方がよい」という仲間の忠告に従っていれば(使徒21・4~12)、こんなことにならずにすんだのでしょうか。私たちはいつも不完全で、予測できない事態に遭遇すると後悔します。

順調に行けば「神の御心だ」「祝福だ」と考えるのですが、つまずきがあると「御心ではなかった」「祝福されていない」と考える。そんな思考回路から解放される必要があります。

私たちは祈って主の御心を求めます。そして、祈って今の道を選んだのであれば、主の御手を最後まで信頼します。

しかし、現実は、何が神の御心なのか分からない事の方が多いものです。むしろ「これが御心だ」と始めから分かる事は少ないのです。多くは、あとになって、「あれは神の御心だったのだなぁ~」と分かるのではないでしょうか。

御心だと確信して進んでも、困難に出逢うと、「御心ではなかったのでは?」と不安になります。だからこそ祈りを欠かさないのです。「主よ、あなたの御心がなされますように……」と祈りつつ進みます。

さて、パウロはエルサレムに行った為にとらえられ、2年以上の拘留生活になってしまいました。これは御心だったのでしょうか。エルサレム行きを反対した人々の中からは、、「ほら、やはり、御心ではなかったのだ」という声もあがったことでしょう。

しかし、主イエスが「あとになって分かるだろう」と言われたように、2千年後の私たちには分かります。あの状況があったからこそ、神は三つの重要な〝益〟をもたらされました。万事を益に変えられる神の御業を讃美します。

(1)パウロの身の安全を確保された。

ユダヤ人らはパウロ殺害の陰謀を企てていました。もし釈放されていたら、パウロのいのちはなかったでしょう。ローマ軍に捕らえられたことで、彼の身の安全は確保されました。

神は、ローマ兵を用いてパウロのいのちを守られました。だれが頼んで数百人体制で警護をしてくれますか。大変な予算を要する話しです。それを無料で警護してくれるのです。

(2)パウロは手紙を書くことができた。

パウロは自由に動くことができませんでした。各教会に出向いて語ることもできません。だから手紙を書きました。

パウロがエペソ教会に直接赴いて語るなら、ガラテヤ教会の兄姉はその説教を聞けません。でも、エペソ教会に宛てた手紙は、ガラテヤ教会でも、ピリピ教会でも読まれ、そして2千年後の私たちも読むことができています。

かくして、苦難の中でパウロの霊感は研ぎすまされ、その手紙は聖霊の感動をもって記され、後の時代に聖書として編纂されるに至りました。

(3)パウロはローマの上層部の人々にイエスを証しできた。

神は、パウロがローマでイエスを証しすると予告なさいました。しかし、どのような方法で実現するのか、その過程については知らされていませんでした。

もしパウロが、神の導きを無視して自分勝手にローマに行って、ローマの中枢にいる人々に福音を語ろうとしたら、それは可能なことだったでしょうか。

私たちが東京に行ったからといって、総理大臣や天皇陛下に会えるわけではありません。会おうとしても門前払いです。

でもパウロは上訴することによって、やがてローマの中枢部の人々に福音を語りました。神は何という大胆な方法をとられることでしょう。神のなさることは、人知で測り知ることができません。

祈りましょう。神の御手にゆだねることの素晴らしさを体験することができますように……。

 
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使徒行伝 24章

2022年04月18日 | 使徒行伝

使徒行伝 24章
さて、2年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。ペリクスは、ユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロを監禁したままにしておいた。(24・27)


ユダヤ人によるパウロ暗殺計画が発覚したため、ローマ軍はパウロの安全を確保するために、警備の厳重なカイザリヤにパウロを移送することにしました。ここまでが23章16節以降の記録です。 ※パウロはユダヤ人であったが、ローマ市民権を持っていたため、ローマ軍はパウロを保護した。

ユダヤ側はパウロを訴え出るのですが、パウロを有罪とする決め手がありません。しかし、総督ペリクスは結論を先延ばしにしました。それはユダヤ人の歓心を買うためであったと、聖書は記しています。 ※口語訳は「歓心を買うため」、新改訳は「恩を売るため」、共同訳は「気に入られるため」。 ユダヤ総督はユダヤ地方を管轄するためにローマから任命された。治安を維持できなければ解任されるため、もめ事は起こしたくない。

ユダヤ総督ペリクスとしては、パウロに有罪の証拠がないのですから、パウロを釈放するのが筋です。しかし、釈放すればユダヤ側からの訴えを退けたことになるので反発を買うことは必至です。

ユダヤ総督にとって、ユダヤ人からの評判の良し悪しはいのち取りになります。だからペリクスは、真偽を明らかにすることよりも、自分の政治生命を温存する道を優先したのです。

それでもペリクスは福音に無関心であったわけではありません。ペリクスはこの道(キリスト教)のことを相当わきまえていました(24・22)。それは彼の妻がユダヤ人であったことも影響しています(24・24)

そこで、投獄中もたびたびパウロを呼びだしては、イエス・キリストについて聞き出していました。そこまでしながら、ペリクスは信仰を持つことができませんでした。なぜでしょうか。

ペリクスは神よりも、人からの歓心(評判)を求めたからです。

人からの歓心はどうでもよいわけではありません。人の評価を無視するあまり、イエス様の顔に泥をぬるようなクリスチャンではあってはなりません。

だからといって、人の顔色をうかがうあまり、神の御心を曲げてしまってもなりません。そのようなギリギリの選択を迫られるとき、クリスチャンは神の御心を優先します。その結果、人からの悪評をも、甘んじて受ける覚悟のある者たちです。

ですから、人(世)の歓心を得ようとすると霊的ないのちを失います。

裏をかえせば、人(世)の歓心を得ることによって肉のいのちを得ようとするのです。しかし、人(世)からどんなに歓心を得ても、人(世)は私に霊的ないのちを与えてくれません。まことのいのちを与えるのは神だけです。

イエス様を裁いたポンテオ・ピラトも、イエスが無罪であることを分かっていながら、民衆の歓心を得ようとして、イエスを十字架に引き渡しました。

また、ユダヤの指導者たちの中にもイエスを信じた人々がいましたが、彼らはパリサイ人たちの目をはばかって、信仰を告白しませんでした。なぜなら、彼らは会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである(ヨハネ12・42~43)

人から悪く思われるのはつらいことですが、それを乗り越えてでもイエスを信じる人……その人は神の歓心を得る者、神からのほまれ(栄誉)を得る者です。神からの歓心を得ようではありませんか。

神は何に歓心をお持ちですか。神はご自分の御名に歓心を持たれます。イエスの御名のあるところに歓心を持たれます。私たちがイエスの御名を愛し、敬い、讃美するところに歓心を持たれます。

受験の合格発表の一覧が出されたとき、自分の名前だけに集中するように、神はご自分の名である「イエス」の御名に目を注がれます。このように神はご自分の名に歓心を注がれます。※近年は受験番号だが。

また、神はイエスを信じる信仰に歓心を持たれます。人の目を憚(はばか)らないで、神に近づこうとする信仰に歓心を注がれます。

パウロも、ユダヤ人の歓心を買うためであれば、割礼問題をうやむやにしたことでしょう。しかし、神の歓心を買うために、いのちをささげました。パウロは次のように告白しました。

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、私はキリストの僕ではあるまい。」(ガラテヤ1・10)

祈りましょう。主イエスよ、神からも、人からも歓心を買おうとする欲張りを砕いてください。

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使徒行伝 23章

2022年04月09日 | 使徒行伝
使徒行伝 23章
その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」。(23・11)


パウロを告訴したユダヤ人たちは、完全に冷静さを失っていました。このままでは解決の糸口すら見出せないと判断したローマの千人隊長は、ユダヤ人議会で公聴会を開くよう取りはからいました(22・30)

議会には国の中心人物が集まっています。パウロとしては、たとえ逮捕された身とは言え、そのような人々の面前で正式に証言できることはまたとない機会です。第23章はそのパウロの証言です。

この証言を通して、指導者たちがイエスをキリストと受け入れるなら、ユダヤ民族の救いが劇的に前進するはずでした。しかし、議会は激しい論争となり、混乱は深まるばかりでした(23・10)。この結果に落胆したパウロに、主はしっかりせよと励ましてくださっています(23・11)。 ※新改訳は勇気を出しなさい」。

パウロは、自分がエルサレムで捕らえられることを承知の上でやって来たのです。主がそう預言されたのですから、そのことに必ず意味があるはずだと信じていました。

しかし現実はどうでしょう。ユダヤの指導者たちに証ししたものの、宣教は遅々として進まない現状を前に勇気を失わない人はいないでしょう。

あのアガボや他の弟子たちの勧めを受け入れて、エルサレムに来なければ、もっと多くの人々に福音を伝えることができたのに……と。そんな失望感で気落ちしても不思議ではありません。

しかし、神のご計画は人の考えを超越しています。神のご計画は、エルサレムでイエスを証ししたように、ローマでも証をしなければならないというものでした(23・11)

神のご計画(御言)は必ず実現します。たとえ現実は、そのご計画とほど遠い状況であっても、それは神にとっては何の障害にもなりません。障害だと感じるのは不信仰な私だけです。

パウロを取りまく現実もそうでした。ローマで証しをするんですって?。現実はローマどころか、エルサレムで捕らわれの身なんですが……。

当時のエルサレムといえば、ローマから遠く離れた地方都市です。エルサレムとローマ……この二つの都市がどのように結びつくのか、そこには人知を越えた神のご計画がありました。

さて、パウロは捕らえられたことで、かえってユダヤの主要な人々にイエスを証しする機会を得ました。また、公聴会とか裁判の場でイエスを証言することになったわけですが、これは公式の記録となりました。イエスの十字架と復活が、民衆の単なる噂話としてもみ消されようとしている中で、公式に議題として取り上げられ、当時の知識人や上層部の人々の耳に届くようになったわけです。

マイナスと思える中にもプラスを発見しよう。パウロは「しっかりせよ」との主からの励ましに、次なる道筋を見出し始めたのです。

しかも、そのような働きに、ペテロではなくパウロをお用いになったことに、神の深いご配慮を感じます。

ペテロはイエス様と3年半にわたって活動を共にした人物ですから、「見たこと聞いたことを語らないわけには行かない」(使徒4・20)という実際的な証言の持ち主です。体験は偽りのない事実ですから、とても強い証言です。ただ、それを裏付ける大系だった神学的論理とか、全人類に適用する普遍性といったことは別の分野です。

イエス体験を聖書的に裏付け、当時としてはユダヤ人のための福音であったものを全人類への福音として論理立てることのできる人物。それはパウロを他にしていなかったことでしょう。

ガブリエルの門下生として聖書に精通し、パリサイ人の中のパリサイ人、律法のなんたるかを最も知りつくした人物。それがパウロでした。彼のような人物だからこそ、これからの幾多の裁判において、聖書に裏付けられた骨太の神学をもって証言できたのです。

人にはそれぞれ用いられる場所と時があるのです。主のなさることには、みな時があり、その御業は美しいのです(伝道3・11)

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使徒行伝 22章

2022年04月08日 | 使徒行伝
使徒行伝 22章
主が私に言われた、「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」。(22・21)


ついにパウロはエルサレムに到着しました。しかし早速、問題が生じました。パウロに反感をいだくユダヤ人らが、異邦人をパウロが神殿に連れ込んだと誤解して、パウロを訴え出たのです。 ※エルサレム神殿は神に選ばれたユダヤ人のものであり、そこに異邦人を入れることは冒涜だとユダヤ人らは考えた。

この訴えは、たちまちにユダヤ人に広まり、これを機にパウロに対する怒りや不満が一気に爆発。もし、この事態にローマの千人隊長がかけつけなかったなら、パウロは殺されていたことでしょう。

寸前のところでいのち拾いをしたパウロですが、その場を立ち去るどころか、なおもイエスを証しするために民衆に向かって語り始めました。ここまでが先の21章でした。

パウロはユダヤ人のたび重なる反対にもめげず、イエスを証し続けました。それは、彼の同胞への愛ゆえだけでなく、ユダヤ人こそイエスの福音にあずかるべき契約の民だからです。

ユダヤ人という〝根〟がしっかりしなければ、新約の〝花〟は短命に終わってしまいます。また、ユダヤ人という根を無視した新約教会は、いびつな花を咲かせてしまいます。

さて、なぜパウロは、同胞から執拗な迫害を受けたのでしょうか。その理由をふたつ挙げておきます。

第一は、律法の時代は終わったと主張したからです。

律法を象徴するのが割礼と神殿でした。すでに、使徒15章で述べたとおりです。肉の割礼は終わった……聖霊による心の割礼の時代だと主張しました。

また、ステパノの殉教の時に問題になった神殿理解もそうです(使徒7章)。石で建造された神殿の時代は終わり、イエスを信じる者たちが、生ける石となって建てあげられる霊的神殿の時代です。

第二は、異邦人も救いにあずかることができると主張したからです。

確かに神はユダヤ人と契約をなさいました。しかし、それはユダヤ人だけの救いではなく、ユダヤ人を救いの基(もとい)とすることによって、そこから全人類に救いを及ぼすためです。

ですから、神は、ユダヤ人を救いの基とするために、ユダヤ人を神の器として徹底的に訓練なさいました。それが旧約の数々の出来事です。その基礎があるからこそ、異邦人の救いへと展開します。

しかし、いつしかユダヤ人の選民意識だけが先鋭化し、その傲慢は肥大化して行きました。

あのペテロでさえ、皮なめしシモンの家の屋上でみた幻 ―ユダヤ人が忌み嫌う動物を食べよとの幻― を通して、やっと異邦人への救いが理解できたくらいです。

ですから、ましてや当時の律法に厳格なユダヤ人には、異邦人の救いなど、もっての他でした。そんなユダヤ人にとって、異邦人も救われると主張するパウロは許し難い人物だったわけです。

パウロが旧約聖書で預言されている異邦人の救いについて理解していなかったら、今日の私たちの救いは遠のいていたことでしょう。パウロが、ユダヤ人からいのちを狙われてもなお異邦人の救いのために献身してくれていなかったら、今日の私たちの救いはなかったかも知れません。異邦人宣教にいのちがけで献身してくれた人物があったからこそ、私の救いへとつながったことを覚え感謝します。

このパウロの異邦人への派遣は、私たちも異邦人ならず「罪人」の世界への派遣へと展開して行きます。

真面目に生きている人々からすれば、「罪人が救われる?」。それは、真面目にやっている人への冒涜だと批判を受けそうです。丁度、律法に熱心なユダヤ人が、「異邦人も救われる」というパウロの主張に反感を抱いたように……です。

ですから、パウロの体験は遠い世界の話ではなく、自分のこととして読み進めたいと思うのです。私たちも、パウロのような献身に少しでも近づくことができるように祈ります。

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使徒行伝 21章

2022年04月07日 | 使徒行伝
使徒行伝 21章
パウロは答えた、「あなた方は、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。(21・13)


パウロがエルサレムへ向かう旅の途中、ツロの弟子たちは御霊の示しを受けて、「エルサレムには上って行かないように」とパウロに忠告しました(21・4)。なぜなら、御霊は、パウロがエルサレムで捕らえられることを示していたからです。

カイザリヤでもアガボという預言者が、パウロはエルサレムで捕らえられると告げました(21・11)。それを聞いた弟子たちは、エルサレムに行かないようにとパウロを引き留めました。

このように聖霊は、パウロがエルサレムで捕らえられることになると告げています。しかし何のために聖霊は、これからパウロの身の上に起きることを予告なさったのでしょうか。

捕まらないように気をつけなさいと警告するためでしょうか。そして、エルサレム行きを中止して捕まらずにすみました……ということであれば、「エルサレムで捕らえられる」という聖霊の予告はハズレということになります。そうではありません。

では、何のために預言があるのか。それは、エルサレムで捕らえられることを〝覚悟するため〟です。

イエス様も、ご自身がエルサレムで捕らえられ殺されるのだと予告なさいました。そんなことがないようにと、イエスをいさめるペテロに対して、イエスは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とお叱りになりました。

神が予告なさるのは、そうならないためではなく、覚悟させるためです。その時になって慌てふためいて信仰を失わないためです。そんな状況になっても、神の愛を見失わないためです。事実、ペテロはイエス様から「あなたは三度、わたしを否認する」と予告を受け、その通りになりました。その時にはペテロは落ち込みましたが、否認する自分さえも受けとめてくださる神の愛によって立ち直りました。

神は、ご自身のご計画を予告なさいます。パウロがエルサレムで捕らえられることは神のご計画なのだと聖霊は示しているのに、弟子たちはエルサレムに行かないようにと勧めています。

聖霊の示しを受けることが霊的で信仰深いわけではありません。聖霊の示しに従うことが霊的な信仰です。幻を見たり、聖霊の声を聞く人もいます。だからといってその人が霊的な信仰者なのではありません。2千年前の人々は、幻どころか直接イエスを見て、直接神の声を聞きました。しかし、人々はそれに従いませんでした。

従わなければ霊的な信仰ではありません。パウロは聖霊の予告を理解していました。そして、従うことを覚悟したのです。これが霊的な信仰です。

たとえ自分にとって不利な内容であっても、聖霊の導きなら従います。しかし、往々にして、神のことを思わないで、人のことを思ってしまいます。そこが肉の弱さです。

私たちはイエスの名のゆえにすべての人から憎まれるのだと、イエスは預言されました。それは私たちが、人々から迫害を受けないように注意しなさいという意味で言われたのではありません。

私たちが迫害を覚悟するためです。

また、「神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならない」と予告されています。それは、私たちが多くの苦難を経ないですむようにするための忠告ではありません。

私たちが苦難を覚悟するためです。

パウロも覚悟しました。主の御言に従う覚悟をしました。そして、エルサレムにのぼりました。とはいえ、無防備、無策ではありませんでした。ユダヤ人たちをむやみに刺激すまいと、最大限の配慮をしています(21・21~24)

でも、それをはるかに超えたところで、神のご計画は成就して行きます。アジアから来たあるユダヤ人の勘違いが原因で、暴動が起こり、パウロは捕らえられてしまいました。

しかしパウロは少しも動揺していません。預言を通して覚悟していたからです。慌てるどころか、むしろ、暴動で集まった人々に福音を語ったのです(21・39~40)。しかも、ローマ兵が警護している中ですから、安全を確保した上で伝える事ができたのですから、考えようによっては良い方法ではありませんか。

逮捕されるなんて人間的に見れば災いです。だからといって祝福されていないわけではありません。自分に都合の良いことがあれば祝福で、都合の悪いことがあれば呪いだ……という考えから解放されてください。すべては神の御手の中にあることへの信頼が強められますようにと祈ります。

自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、神が共におられることが祝福です。自分にとって都合が悪くても、神のご都合に間に合うならば、それは祝福です。私たちは、神の都合に合うようにと自分を提供した者です。それが献身です。

パウロの長期の拘留生活は、福音宣教の立場からすればマイナスの条件です。しかし、この都合の悪いとも思える状況を通して、神はご自身の働きをなさいます。21章以降はその記録です。

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