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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エペソ人への手紙 6章

2022年06月28日 | エペソ書
エペソ書 6章
人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
(6・7)


先の5章22節からは第6章に含める内容です。というのは、「人と人との関係は、神と私との関係と連動している」というテーマで共通しているからです。

神を愛するといいながら人間関係を疎(おろそ)かにするなら、それは神を愛しているとはいえません。目に見えない神を愛するとは、人間関係の中で愛することによってあらわされます。

3つの人間関係が記されています。どれも、神を愛し仕えるために大切な関係です。

(1)夫婦の関係において
(5・22~33)


夫婦は神が定めた人間関係です。妻は夫に従い、夫は妻を愛する関係です。そのような夫婦関係を通して、花嫁なる教会は花婿なるキリストに従うことを学びます。また、花婿であるキリストが、花嫁である私たちをいかに愛してくださっているかを学びます。

だから、夫婦の関係は聖なるものです。ここには、キリストと教会(私たち)とのすばらしい関係が秘められています。これは奥義です。夫婦関係を大切にすることは、キリストと私の関係を大切にすることと連動しています。

悪魔は、社会における夫婦関係を崩壊させています。こうして悪魔は、キリストと私たちの麗しい交わりに覆いをかけているのです。だから今こそ、悪魔にだまされないで、夫婦の聖なる関係を回復しなければなりません。

祈りましょう。私たちの夫婦の関係をいやしてください。妻(夫)だけを愛し、仕えることができますように。そのような夫婦の交わりを通して、キリストと教会の交わりも聖なるものとなりますように。

(2)父と子の関係において(6・1~4)

聖書は、子は父母をうやまいなさいと命じています。また、親は子を正しく訓戒しなさいと命じています。なぜなら、親(父)と子の関係も、神と人間の関係を体現しているからです。

親は子をいかに愛することでしょう。それ以上に、父なる神は、私たちを子として愛してくださっています。また、子は親を尊敬すべきです。子が親を尊敬し従うことを通して、父なる神への尊敬と従順を修得するのです。

しかし悪魔は、社会における親子関係を崩壊の危機に追いやっています。子を愛さない親、親を尊敬しない子。そのような崩壊した親子関係から、社会の諸問題が生じています。また、逆に親しみの度が過ぎて、友達のような親子関係もあります。毒親という存在も指摘されて久しいです。本来の親と子の関係が壊れてしまった結果です。

今こそ、悪魔にだまされないで、親子関係を回復すべきです。だから祈りましょう。私たちの親子関係をいやしてください。そしてその中に、父なる神の愛を体現させてください。神の子どもとして父なる神への従順を体現させてください。

(3)奴隷と主人の関係において(6・5~9)

奴隷(しもべ)と主人の関係も、神と人間の関係を体現しています。今日において奴隷制度はありませんが、会社の社長と社員の関係、あるいは上司と部下といった主従関係に適用することができます。

主人は、自分が主人だからといって奴隷につらく当たってはいけないと勧めています(6・9)

時として神は、人間を奴隷(しもべ)として用いられます。人はそれについて不服を申し立てることはできません。しかし、そうは言うものの、神は私たちを慈悲深く扱ってくださいます。

逆に、奴隷である者は、主人に従いなさいと勧めています。へつらいの心や偽りの心ではなく、恐れの心と真心を込めて従うことが大切です(6・5)。人間の主人に従うことは、キリストに従うことを体現しているからです。

だから、社会の上下の関係も聖なる関係です。この秩序を壊してはいけません。上に立つ者は正しく謙遜に権威を用いるべきですし、下にある者は権威を軽んじないで、真心から従うことが大切です。

このことを忘れて、社長とか上司の立場を利用して部下を虐げてはなりません。現代社会においてパワーハラスメントが問題になっていますが、このような主従関係の崩壊が、神と私たちの聖なる関係を破壊しています。

また逆に、社員が偽りの心で上司に仕えたり、上司の権威を軽んじる言動にでる風潮も、神が定めた人間関係を崩壊させています。

だから、今のこの時代に、私たちは正しい上下関係つまり秩序ある主従関係を回復しなければなりません。それは、私たちが、心から主である神に仕え、従順するためです。

このように、夫婦の関係、親子の関係、主従の関係といった人間関係の中に、神と私たち人間の聖なる関係の秘訣が込められています。神は目で見ることはできませんが、きよめられた人間関係の中で神と出会うのです。

夫婦の関係は、花婿なるキリスト(御子なる神)に対する愛の関係。親子の関係は、御父なる神への尊敬の関係。主従の関係は、御霊なる神に対する従順の関係です。このように、御父と御子と御霊の神との聖なる関係をあらわしています。

しかし、悪魔は、人間関係を破壊することによって、神と私たちの関係を破壊しようと働きます。

天上のことと地上のことは、いつも連動しています。地上でつなぐことは天でもつながれています。だから、祈りましょう。地上での人間関係が祝福されますように。そして、天での神と私たちとの関係も連動して祝福されますように……。

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エペソ人への手紙 5章

2022年06月27日 | エペソ書

エペソ書 5章
賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
(5・15~16)


5つの「歩きなさい」の3番目からです。

(3)愛の内を歩きなさい(5・1~2)

愛された経験のある人は、愛することができます。だれでも親や周囲の人々から愛されてきましたから、まったく愛せないわけではありません。でも、人の愛は息切れする愛です。枯渇します。

そこで、第1章の祈りを思い出してください。知恵と啓示の御霊が、私の目を開いてくださって、天での身分がいかに栄光に富んだものであるかを知ることができますように……でした。

いかに神が私を愛してくださっているか……。このことに目が開かれますようにと祈ります。

神の愛は、私が立派だから愛してくださったのではありませんでした。私がまだ罪人であった時に十字架で死んでくださった愛です。人間の愛は、愛するに値するものを愛しますが、神の愛は、愛するに値しない私さえも愛する愛です。

また、神の愛は、私たちを子として愛してくださっています。親が子を愛するとき、子が優秀なので愛するのではありません。できが良くても悪くても、自分のお腹を痛めて生んだ子だから愛します。

神は、十字架の痛みを通して、クリスチャンを生んでくださいました。私たち罪人を神の子として生むために、十字架の苦しみを経験なさいました。このような神の愛を、私たちは受けています。

この神の愛につながるとき、枯渇しない愛がわき上がるようになります。息切れしない愛をいただきます。このような神の愛の内を歩きます。

(4)光の子らしく歩きなさい(5・3~14)

猫にむかって「人間らしく歩きなさい」とは言いません。それは不可能だからです。猫は人間ではないので、人間らしく歩けるはずがありません。

クリスチャンは光の子です。現実は鬱(うつ)っぽくて、元気がなくても、罪の弱さを覚えていても、私たちはすでに光の子です。だから、「光の子らしく歩きなさい」と勧めているのです(5・8)

具体的には5章3節から記されているような、罪や汚れに染まらないで歩むことを言っています。イエス様の救いは、罪のゆるしただけではありません。罪に勝利する力も与えてくださっています。

そのために、聖霊が私の内に生きてくださり、聖霊が私の内に光となってくださいます。だから、光の中を歩むことができます。

心配や怒り、憎しみや疑いなど、心に闇を抱えると、私たちは暗くなります。そういう時には祈りましょう。イエス様、どうか私の闇を照らしてくださいと。そうすれば照らしてくださいます。

「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」のです(5・14)

地上の出来事で一喜一憂しないで、天における私の身分を覚えるべきです。私の天上における身分は光の子です。この世を神の聖なる光で照らすために私たちが立ち上がるのを神は願っておられます。

(5)賢い者のように歩きなさい(5・15)

コリント人の手紙では「愚かになりなさい」と言っていたのに、今度は賢く歩きなさいですか? 混乱しますね。神を信じる生き方は、この世の価値観からすれば愚かなことです。しかし、それこそ最高の知恵です。賢い生き方です。

賢さとは「今の時を生かして用いることだ」と教えています。新改訳では「機会を十分に生かして用いる」と訳しています。この「生かして用いる」は「贖う」という意味です。代価を払って買い取ることです。神のために、わが霊魂のために、時間(機会)を買い取る生き方……これが賢い者の歩みです。

神は、私たちを悪魔の支配から贖ってくださいました。つまり、イエスの十字架の死という代価を払って、悪魔の支配から買い取ってくださったわけです。

今度は私たちが、、日々の時間を贖うようにしなさいと勧めています。なぜなら、今は悪い時代なのだからと、その理由を述べています(5・16)

今の時代はどうですか。神のための時間がありますか。霊魂のための時間は確保されていますか。世の中はますます、自分の栄光のために、肉の満足のために時間を費やしています。

だから、私たちはこの時間をつまり機会を、生かすことができるように買い取って、神のものとするのです。私たちの時間を、生きた聖なる供え物として神に献げて行くのです。

神の御国のために、霊魂の救いと養いのために、私たちは犠牲という代価を支払って、時間を買い取るべきです。それこそ、賢い者の歩き方です。

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エペソ人への手紙 4章

2022年06月25日 | エペソ書

エペソ書 4章
そこで、私は主にあっておごそかに勧める。あなた方は今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
(4・17)


第1~3章まで、私たち教会がどのような存在なのか、天における身分のいかに栄光に富んだものであるかを見てきました。そんな身分に基づいてどのように生きるかを教えるために、第4章からは5つの〝歩きなさい〟が記されています。

(1)召しにふさわしく歩きなさい
(4・1~16)


現代社会において「召し」は死語になりつつありますが、教会では大切な言葉です。それは、キリスト信仰が人間中心ではなく、神中心であることを表す言葉だからです。

「召し」とは、権威ある立場の存在から大切な任務のために〝呼ばれる〟ことを意味します。私たちはキリストの体の器官として、重要な任務のためにこの世から呼ばれました……つまり召されました。

その任務とは、キリストの姿を世に現すことです。キリスト体の教会となるために、この世から呼び出されました。4章では「ひとつ」が何度も語られていますが、各器官の違いはあってもひとつの体 ―キリストの体― となるために呼び出されたのです。

先の2章11節~3章6節では、ユダヤ人も異邦人もキリストにあって「新しいひとりの人」になることが奥義であるとありましたが、その「ひとりの人」とは、正確に述べるならキリストの体であり、そのために私たちは召されたのです。

キリストの働きは2千年前で終わったのではありません。キリストの体である教会によって今も続いています。イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、あなた方を遣わす」と言われて、キリストと同じ任務のために私たちは召されています。つまり、キリストの働きは教会に引き継がれたわけです。

私たち各自はみな違います。しかし、キリスト教会は、キリストの体としてひとつです。違いを認め合い、その違いを必要とし合う……このような関係が体の各器官です。

こうして結び合わされる中で、私たちは成長し、キリストの姿に達するのです(4・15)。ですから、私たちには、教会の兄姉の〝互い〟が必要です。

他者(ひと)と同じである必要がありません。私には私の、あなたにはあなたの〝分〟があります。それぞれの働きは違っても、教会がキリストの姿を世に現し、キリストの働きをするという目的のために召されたという点で一致します。

あなたは「手」として召され、あの人は「足」として召され、他の人は「目」として召されています。まわりと比較するのではなく、各自の召しに相応(ふさわ)しく歩むなかで、キリストの体としての一致が導かれますように祈ります。

(2)異邦人にように歩いてはならない(4・17~24)

旧約時代の異邦人とは、イスラエル以外の人々のことでした。しかし新約では、イエスを信じて天に国籍のある人以外が異邦人です。

クリスチャンはイエスを信じて天に国籍のある人です。そして、ここでいう異邦人とは、イエスを信じていない地上に国籍のある人です。

言いかえるなら、あなたは天に国籍のある人なのだから、地上に国籍のある人のように歩んではならないと勧められているのです。この勧めは〝おごそかに〟言われています(4・17)。つまり、とても大切な勧めです。神からの厳粛(げんしゅく)な勧めです。

私たちは天の御国の国民ですが、今は地上の国に遣わされています。天国のメッセージを伝える任務を受けて、日本の国に寄留しています。ですから、私たちはこの地上にあっては旅人です。ミッションを終えたら天に戻ります。天に国籍があるからです。

天国からのメッセージとは、この世は罪のゆえに神の御怒りで滅ぼされるという警告です。しかし、イエスを信じる者は罪がゆるされて、この滅びから救われるというメッセージです。

さて、「異邦人のように歩いてはならない」と言われていますが、異邦人はどのように歩いているのでしょうか。聖書は、むなしい心で歩いていると指摘してます(4・17)。「むなしい」とは、「空虚」のことです。何かあるようでも実際は空っぽのような心で歩いているというわけです。

未信者でも充実した生き方をしている人はたくさんいます。クリスチャンより頑張っている人はたくさんいます。でも、神がご覧になるには、それは空虚なのです。

真の主人のいない心は空虚です。人の心には、神によってしか埋めることのできない空洞があるのです。「むなしい」という心の空洞です。真の主人であるイエス・キリストを迎える以外に、その空洞を埋めることができません。

さらに聖書は言います。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れている。(4・18)

どんなすばらしい知識人でも、神を無視するなら、その人の知力は暗くなり、無知とかたくなな心を生み出します。神を知ることこそが知識のはじめだからです(箴言1・7)。心の王座にイエス・キリストを迎え、イエスを王とする天の国民として、歩くことができるように祈ります。

異邦人のようにむなしい心で歩かないとは、さきの「新しいひとりの人」として歩くことを意味します。それは、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることだと表現されています(エペソ4・2~24)

聖徒たちの着るきよい麻布の衣とは、聖徒の正しい行いのことだと言われているように、聖書で着るという表現は行いを表します(黙示録19・8)。ですから、古い人を脱ぎ捨てるとは、古い行いを捨てることであり、新しい人を着るとは新しい人としての行いを意味します。

どんな「行い」なのでしょう。これは、良い行いをするために作られた神の作品である私たちに、あらかじめ準備された良い行いです(エペソ2・10)
どんな行いでしょうか。

①真実を語る(25)
②怒りを翌日に持ち越さない(26)。それは悪魔にチャンスを与えることになるからです。
③自分の手で働く(28)
④悪い言葉を出さない(29)
⑤聖霊を悲しませない(30)。聖霊の内住こそが、古い行いを捨てる原動力になるからです。
⑥親切にし許し合う(31~32)

これらの良い行いは、神が用意なさっています。そして、それを行う力も神が用意なさって、私たちに聖霊をたまわったのです。

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エペソ人への手紙 3章

2022年06月24日 | エペソ書

エペソ書 3章
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなた方の内なる人を強くして下さるように。
(3・16)


エペソ人への手紙はキリストにある私たちの姿が描かれています。2章では、キリストと共に復活し天の座に就いている者。そして、2章後半では、ユダヤ人と異邦人の区別なく、キリストにある新しいひとりの人であると記されていました(2・15)

この〝人〟は、キリストのからだである教会であり、キリストの花嫁とも言えます。旧約ではユダヤ人の救いが強調されていましたが、新約ではユダヤ人から始まり全ての人類へと広がり、ついにはキリストにある〝ひとりの人〟として完成します。

このことは奥義です(3・6)。もはやユダヤ人も異邦人もありません。恵みキリスト教会だとか、◇◇教会、△△教会といった違いを超えて、ひとつの教会、ひとりの人、ひとりの花嫁として完成を目指しています。

こうして〝ひとりの人〟としての祈りがささげられます。3章14節からの祈りです。先の1章の祈りもそうでしたが、霊感に満ちた祈りです。

まず最初に、内なる人を強くしてくださるようにと祈っています(3・16)。内なる人とは霊魂のことです。外なる人とは肉体です。

どちらかというと、肉体の必要のために祈ることが多いのではないでしょうか。でも、聖書では「内なる人が強められるように」と祈ります。まず霊魂のために祈ります。それは肉体を軽んじているのではありません。むしろ、肉体を支えているのは、目には見えない霊魂だからです。

自転車のタイヤをイメージしてください。タイヤの中にはチューブがあって、チューブに空気が充満するとタイヤがしっかりするように、肉体はタイヤのような存在です。タイヤゴムの品質も良好で、溝もしっかりあって高機能タイヤであっても、チューブに空気が入っていなければ役に立ちません。それと同じように、内なる霊魂が神からの霊的エネルギーに満たされていないと健康な肉体も活かされません。

目に見えるものは、目に見えないものから成り立っています。つまり、物質の世界は霊の世界によって成り立っています。そのように、霊魂は見えませんが、私の肉体を支え、生かし、動かしています。だから、まず内なる人が強められますようにと祈ります。

どのようにして強められるのか。栄光の富に従って強くされます(16)。先に私たちは、天上の諸々の富を相続する者であることを見ました。地上の陳腐な富とは比較になりません。

ポケットに10万円あれば、少しは気前よくなれるでしょうか。ちょっぴり勇気も出て、太っ腹な態度になるかもしれません。100万円あればどうですか。かなり大胆になれますか。

では、天に栄光の富をもっていることに目が開かれたらどうですか。

地上の富は使えばなくなってしまう富ですが、栄光の富は使ってもなくなりません。あの5つのパンと2匹の魚を人々に分け与えても、なお12のかごいっぱいに残りがあるように、無尽蔵の富です。

幼な子は明日の疲れなど心配しないで一生懸命に生きます。しかし、大人は明日の体力がなくならないように調節します。それと同じように、地上の富しか知らない人は、出し惜しみします。幼な子のように、栄光の富を信じて、明日を心配しないで、出し惜しみしないで、今日一日を大胆に元気に生きようではありませんか。

さらに、御霊により、力をもって強くしてくださいます(16)

外なる人はパンで養われますが、内なる人は霊的な力で養われます。神の御霊で充満されるように祈りましょう。タイヤのチューブに空気が充満するように、御霊(聖霊)が充満するように祈ります。

さらに祈りは続きます。キリストがあなた方の心に住んでくださるように。(17)

もちろん、イエス・キリストを信じた私たちの内に、キリストは聖霊によって住んでくださっています。ですから、改めてもう一度、住んでくださるようにと求めるのではありません。内住のキリストが、私の生活の中心であるようにという祈りです。そうすると、キリストのご人格(キリストの愛)が、私の中に映し出されるようになります。それは、私たちがイエス・キリストに似た者と変えられるためです。

こうして、キリストによる愛の広さ、長さ、高さ、深さが理解できますようにと祈ります(18~19)。人知をはるかに超えたキリストの愛です。

人間の愛は、条件が満たされないと消えてしまう愛です。なんともあさましい愛です。でも、キリストの愛は、どんな不利な条件のもとでも、変わることがありません。どんな条件もキリストの愛から私を引き離すことがありません。

これこそ人知をはるかに超えた愛です(3・19)。キリストにある私たちが〝ひとりの人〟とされたのは、この人知をはるかに超えた愛を世に現すためです。神の御子キリストは、神の愛を世に啓示するために来られました。今度は私たちの番です。

このような祈りが全てのクリスチャンの祈りです。新しいひとりの人である教会の祈りです。

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エペソ人への手紙 2章

2022年06月23日 | エペソ書
エペソ書 2章
罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし ―あなた方の救われたのは、恵みによるのである― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
(2・5~6)


人とは「霊的存在」です。ですから、肉体が生きていても、霊が生きていなければ、死んだ者です。あなた方は、かつては罪によって死んでいた者だったとはそのことです(2・1)

霊は心のことではありません。心は考える部分で魂ともいいます。この心とか魂は、人間だけでなく猿や犬などの動物にもあります。しかし、動物は肉体だけの存在なので、肉体が死ねば心も消滅します。だから死後の世界がありません。

ところが、神は、人を肉体だけの存在ではなく、神の息すなわち霊を注いで霊的存在として創造なさいました。ですから、肉体が朽ちても人の心とか魂は霊と共に永遠に存続します。つまり霊魂として永続します。

肉体には物欲・食欲・性欲などの肉的本能があります。これは肉体を維持しようとする本能です。しかし、人は霊的存在ですから霊的本能もあります。それは、霊が生きようとする本能です。

ですから人は霊的に生きようと欲して神を求めます。霊的ないのちを求めて罪を悔やみます。永遠を思って死後の世界を考えます。宗教心があり、尊厳や名誉を重んじます。これらはみな人が霊的存在だからです。これは動物にはない能力であり霊的本能です。このように神は、人に霊的感覚を与えることによって、人を神と共に生きる存在となさったのです。

冒頭の聖句で、罪過によって死んでいた私たちと記されているのは、肉体の死ではなく霊の死のことです。とはいえ、霊が消滅することではありません。この点が肉体の死とは違います。

霊が死んでいるとは、神との交わりが断絶されている状態のことです。電気が流れていない電線は〝死んでいる電線〟です。電線そのものが消滅したわけではありません。逆に、電気が流れている電線は〝生きている電線〟です。

そのように、神の霊的いのち……つまりエネルギーが流れていない霊は死んでいます。イエスを信じる以前は、神と関わりのない霊魂であり、死んでいました。

でも、霊的本能がありますから、何とかして霊的エネルギーを得ようとして、人は様々な神々や宗教を生みだしてきました。そのことを聖書は次のように述べています。

かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(2・2)

ところが、イエス様を信じたので……つまり、イエスを受け入れたので、私たちの霊は生きるようになりました。キリストが死んで復活なさったように、わが霊も生かされるようになりました(2・5)

あなたの霊は生きていますか。

肉体が生きていればご飯を美味しくいただくように、わが霊も神の御言を食べます。「人はパンだけで生きる者ではなく、神の御言によって生きる」と言われているとおりです。

肉体が病んでいると食欲も落ちるように、霊が病んでいると、神の御言は美味しくありません。ましてや、肉体が死んでしまえば、口元にパンを差し出しても食べないように、霊の死んでいる人は、御言を聞こうとしません。

イエス様は、ご自分を「いのちのパン」だと言われました。御言が肉体となって来られたイエス様こそ、私たちにいのちを与える本当のパンです。人はこのイエス・キリストを食べて生きるのです。つまり、イエスを信じて生きるのです。

それだけではありません。冒頭の聖句は、私たちの霊的身分が大きく変わったと言っています。キリストと〝共に〟復活して、〝共に〟天上で座につかせてくださったのです(2・6)

新共同訳では、「天の王座につかせてくださった」と訳されています。イエス様だけが王座にお就きになったのではありません。イエスを信じる私たちも〝共に〟就いています。すごいことです。

私たちの地上の身分は様々です。肉体の身分は違います。肉体の身分は高い人もいれば低い人もいます。でも、天上における身分はそれと比較になりません。霊的には王座に就いています。

ここにクリスチャンの霊的アイデンティティー(ID)があります。この霊的身分に基づいて生きるのがクリスチャンです。天の座に就いている私が、小さなこともゆるせないなんて了見(りょうけん)の狭い生き方などしません。大胆にゆるし、大胆に祝福します。小さな問題に躓(つまず)いたり落ち込んだりしません。私たちはキリスト共に天の座に就いているのですから。

このような救いと立場は自分自身から出たことではありません。ただただ恵みによります(2・8)恵みによるとは、私に何の根拠も無いことを意味しています私が良い行いをしたからではありません。それはだれも誇ることがないためです(2・9)

では、私の行いはどうでもよいのですか。そんなことはありません。次のように記されています。

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(2・10)

良い行いさえも神は用意して下さっています。つまり、良い行いも恵みによって備えられています。自分で頑張ることではありません。何故なら恵みですから。私がキリストの中にとどまることで、良い行いは生まれてきます。 ※恵みによって用意されている「良い行い」とは何か。本書の4章以降で述べている。

このようにすべては恵みです。救われるのも恵みです。天の座に就くのも恵みです。良い行いも恵みです。

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エペソ人への手紙 1章

2022年06月22日 | エペソ書

エペソ書 1章
あなた方の心の目を明らかにして下さるように、そして、あなた方が神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなた方が知るに至るようにと祈っている。
(1・18~19)


エペソ人への手紙は、私たち即ち教会が如何にすばらしい存在であるかを告げています。

進化論に基づく思考では、人間は偶然に猿から進化して現在の文明まで進んできたと考えています。しかし、聖書は全くちがいます。神は、天地創造の以前から、人間をイエス・キリストの中で準備し、ご自分の子にしようと定められたのです。

みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(1・4~5)

この一文にふれるだけでも、神のご経綸(けいりん)の深遠さに心がふるえます。このような思想は人間からは出てきません。ましてや、進化論からは到底導き出すことができません。

あなたも私もキリストの中で選ばれています。神の子どもになるように定められています。愛されるように定められています。相続者となるように定められています。

しかし、私たちの霊の目が曇っていて、その素晴らしい姿が見えていません。エペソ書1章では、そのための祈りがささげられています。私たちも、日頃からエペソ書1章のように祈る必要があります。

その祈りのポイントは、私たちの心の目が明らかになって、はっきりと見えるようにしてくださいです(1・18)。どのようにして見えるようになるのでしょうか。神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださることによってです(1・17)

神様の領域、天に属する領域は、聖霊による知恵と啓示によらなければ見ることができません。

ユダヤの人々が、イエス様のことを大工のヨセフの息子にすぎないと考えたのは、この「知恵と啓示の御霊」によらなかったからです。たとえ学識豊かな律法学者たちであっても、御霊によらなければ、イエスが神の御子キリストだと分かりません。

実は、イエスの弟子たちも分かっていませんでした。イエスが十字架の死を予告なさっても、それを理解できず、ペテロはいさめるように、「主よ、不吉なことを言わないで下さい」と、神の働きを妨害しました。彼らの心は閉ざされていたので、イエス様の十字架の死の意味が分かりませんでした。でも、聖霊を受けることによって、イエスの死は、人類の罪を贖(あがな)うためであったと分かりました。

このように、神からの智恵と啓示の御霊が注がれて、私たちの霊の目がはっきりと見えるように……と祈るのです。

信仰とは、目に見えない世界を見る〝めがね〟です。このめがねをかけていなかった時は、肉眼で見える世界が全てでした。肉眼で見える世界の出来事で一喜一憂していました。それは、霊的な領域が見えていなかったからです。信仰というめがねをかけるとき、聖霊は智恵と啓示の霊を注いで、私たちに約束されているすばらしい世界が見えるようにしてくださいます。

では、どんな世界が見えるのでしょうか。18~19節には三つの内容が記されています。

(1)私たちに与えられている望みについて

今どんな望みがありますか。目先の小さな望みは、私を少し元気にしてくれます。でも御言が、「あなた方が神に召されていだいている望みがどんなものであるか……」と告げる望みは、とてつもなく大きい望みです。この大きい望みに目が開かれて、大きな元気を受けてください。

その望みとは、私たちが栄光の体に復活する望みです。復活した私たちが、キリストと共に神の御国を相続する望みです。キリストの花嫁として、キリストと共に永遠に暮らす望みです。

神がくださる永遠の望みを知ることができますように、祈ります。

(2)私たちが相続することになっている富の豊かさについて

神は、御子イエスを万物の相続者として定められました。「なんだ。イエス様が相続なさるのか」と思わないでください。クリスチャンの奥義は、私たちはキリストの中にいることです。私たちがキリストの体であることです。

ですから、御子イエス・キリストが相続者であるとは、キリストの中にいる私たちも相続者です。私たちは、キリストの中にあって神の御国を受け継ぐ者たちです。 ※「キリストにあって」「このお方にあって」と繰り返し記されているが、「キリストの中で」という意味である。

肉親の遺産が気になりますか。それは欲しい人が受け継げばよいのです。私たちは神の御国の世継ぎです。どうか、その身分と、その受け継ぐものの豊かさを見ることができますように祈ります。

(3)私たちに働く神の力の絶大さについて

天に行ってからようやく受ける望みではありません。今も現実に働く力を、私たちは受けています。それは神からの力です。私の弱さの中に働く神の力です。

神の力の絶大なことは、復活に表現されています。キリストは地上では弱くあられました。十字架で死んでしまわれるほどに弱く、小さく、愚かであられました。でも、父なる神の絶大な力は、キリストを復活させました(1・20)。そして、天に昇らせ、神の右の御座すなわち天の王座に座らせました。それと同じ力が、私たちにも注がれています。

このようなすばらしい神の力に目覚めることができますように、その力が私の弱さの中に現れてきますようにと祈ります。

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エペソ人への手紙6章

2020年08月31日 | エペソ書

エペソ6:7 人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。

先の5章22節からは第6章に含める内容です。というのは、と人との関係は、神と私との関係と連動しているというテーマで共通しているからです。

神を愛するといいながら人間関係を疎(おろそ)かにするなら、それは神を愛しているとはいえません。目に見えない神を愛するとは、人間関係の中で愛することによってあらわされます。

3つの人間関係が記されています。どれも、神を愛し神に仕えるために大切な関係としてえがかれています。

(1) 夫婦の関係において(5:22-33)

夫婦は神が定めた人間関係です。妻は夫に従い、夫は妻を愛する関係です。そのような夫婦関係を通して、花嫁なる教会は花婿なるキリストに従うことを学びます。また、花婿であるキリストが、花嫁である私たちをいかに愛してくださっているかを学びます。

だから、夫婦の関係は聖なるものです。ここには、キリストと教会(私たち)とのすばらしい関係が隠されています。これは奥義です。夫婦関係を大切にすることは、キリストと私の関係を大切にすることです。

悪魔は、現代社会において夫婦関係を崩壊させています。こうして悪魔は、キリストと私たちの麗しい交わりに覆いをかけているのです。

今こそ、悪魔にだまされないで、夫婦の聖なる関係を回復しなければなりません。

だから祈りましょう。私たちの夫婦の関係をいやしてください。妻(夫)だけを愛し、仕えることができますように……。そのような夫婦の交わりを通して、キリストと教会の交わりも聖なるものとなりますように……。

(2) 父と子の関係において(6:1-4)

聖書は、子は父と母をうやまいなさいと命じています。また、親は子を正しく訓戒しなさいと命じています。なぜなら、親(父)と子の関係も、神と人間の関係を体現しているからです。

親は子をいかに愛することでしょう。それ以上に、父なる神は、私たちを子として愛してくださっています。

また、子は親を尊敬すべきです。子が親を尊敬し従うことを通して、父なる神への従順を修得するのです。

しかし悪魔は、現代社会において、親子関係を崩壊の危機に追いやっています。子を愛さない親、親を尊敬しない子……そのような崩壊した親子関係から、社会の諸問題が生じています。

今こそ、悪魔にだまされないで、親子関係を回復すべきです。

だから祈りましょう。私たちの親子関係をいやしてください。そしてその中に、父なる神の愛を体現させてください。神の子どもとして父なる神への従順を体現させてください。

(3) 奴隷と主人の関係において(6:5-9)

奴隷(しもべ)と主人の関係も、神と人間の関係を体現しています。今日において奴隷制度はありませんが、会社の社長と社員の関係、あるいは上司と部下といった主従関係に適用することができます。

主人は、自分が主人だからといって奴隷につらく当たってはいけないと勧めています(6:9)。

時として神は、人間を奴隷(しもべ)として用いられます。人はそれについて不服を申し立てることはできません。しかし、そうは言うものの、神は私たちを慈悲深く扱ってくださいます。

逆に、奴隷である者は、主人に従いなさいと勧めています。へつらいの心や偽りの心ではなく、恐れの心と真心を込めて従うことが大切です(6:5)。人間の主人に従うことは、キリストに従うことを体現しているからです。

だから、社会の上下の関係も聖なる関係です。この秩序を壊してはいけません。上に立つ者は正しく謙遜に権威を用いるべきですし、下にある者は権威を軽んじないで、真心から従うことが大切です。

このことを忘れて、社長とか上司の立場を利用して部下を虐げてはなりません。現代社会においてパワーハラスメントが問題になっていますが、このような主従関係の崩壊が、神と私たちの聖なる関係を破壊しています。

また逆に、社員が偽りの心で上司に仕えたり、上司の権威を軽んじる言動にでる風潮も、神が定めた人間関係を崩壊させています。

だから、今のこの時代に、私たちは正しい上下関係……秩序ある主従関係を回復しなければなりません。それは、私たちが、心から主である神に仕え、従順するためです。

このように、夫婦の関係、親子の関係、主従の関係といった人間関係の中に、神と私たち人間の聖なる関係の秘訣があります。神は目で見ることはできませんが、きよめられた人間関係の中で神と出会います。

夫婦の関係は、花婿なるキリスト(御子なる神)に対する愛の関係。親子の関係は、御父なる神への尊敬の関係。主従の関係は、御霊なる神に対する従順の関係です。このように、御父と御子と御霊の神との聖なる関係をあらわしています。

しかし、悪魔は、人間関係を破壊することによって、神と私たちの関係を破壊しようと働きます。

天上のことと地上のことは、いつも連動しています。地上でつなぐことは天でもつながれています。だから、祈りましょう。地上での人間関係が祝福されますように……。そして、天での神と私たちとの関係も連動して祝福されますように……。(Ω)

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エペソ人への手紙5章

2020年08月29日 | エペソ書

エペソ5:15-16 賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。

5つの「歩きなさい」の3番目からです。

(3) 愛の内を歩きなさい(5:1-2)

愛された経験のある人は、人を愛することができます。だれでも多少なりとも親や周囲の人々から愛されてきましたから、まったく愛せないわけではありません。

でも、「私の愛」は息切れする愛です。枯渇する愛です。

そこで、第1章の祈りを思い出してください。知恵と啓示の御霊が、私の目を開いてくださって、天での身分がいかに栄光に富んだものであるかを知ることができますように……でした。

いかに神が私を愛してくださっているか……このことに目が開かれますようにと祈ります。

神の愛は、私が良い子になったので、愛してくださったのではありませんでした。私がまだ罪人であった時に十字架で死んでくださった愛です。人間の愛は、愛するに値するものを愛しますが、神の愛は、愛するに値しない私を愛する愛です。

また、神の愛は、私たちを子として愛してくださっています。親が子を愛するとき、子が優秀なので愛するのではありません。できが良くても悪くても、自分のお腹を痛めて生んだ子を愛します。

神は、十字架の痛みを通して、クリスチャンを生んでくださいました。私たち罪人を神の子として生むために、十字架の苦しみを経験なさいました。このような神の愛を、私たちは受けています。

この神の愛につながるとき、枯渇しない愛がわき上がるようになります。息切れしない愛をいただきます。このような神の愛の内を歩きます。

(4) 光の子らしく歩きなさい(5:3-14)

猿にむかって「人間らしく歩きなさい」とは言いません。それは不可能だからです。猿は猿であって人間ではないので、人間らしく歩けるはずがありません。

クリスチャンは光の子です。現実は鬱っぽくて、元気がなくて、罪の弱さを覚えていても……私たちはすでに光の子です。だから、「光の子らしく歩きなさい」と勧めているのです(5:8)。

具体的には5章3節から記されているような、罪や汚れに染まらないで歩むことを言っています。イエス様の救いは、私たちの罪をゆるしただけではありません。罪に勝利する力も与えてくださっています。

そのために、聖霊が私の内に生きてくださり、聖霊が私の内に光となってくださいます。だから、光の中を歩むことができます。

心配や怒り、憎しみや疑いなど、心に闇をかかえると、私たちは暗くなります。そういう時には祈りましょう。イエス様!どうか私の闇を照らしてください……と。そうすれば照らしてくださいます。

眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」のです(5:14)

地上の出来事で一喜一憂しないで、天における私の身分を覚えるべきです。私の天上における身分は光の子です。この世を神の聖なる光で照らすために私たちが立ち上がるのを神は願っておられます。

(5) 賢い者のように歩きなさい(5:15)

コリント人の手紙では「愚かになりなさい」と言っていたのに、今度は賢く歩きなさいですか?……混乱しますね。神を信じる生き方は、この世の価値観からすれば愚かなことです。しかし、それこそ最高の知恵です。賢い生き方です。

賢さとは今の時を生かして用いることだと教えています。新改訳では「機会を十分に生かして用いる」と訳しています。この生かして用いるとは贖うという意味です。

贖(あがな)うとは、代価を払って買い取ることです。神のために、わが霊魂のために、時間(機会)を買い取る生き方……これが賢い者の歩みです。

神は、私たちを悪魔の支配から贖ってくださいました。つまり、イエスの十字架の死という代価を払って、悪魔の支配から買い取ってくださったわけです。

そのように、今度は、日々の時間を贖うようにしなさいと勧めています。なぜなら、今は悪い時代なのだから……とその理由を述べています(5:16)。

今の時代はどうですか。神のための時間がありますか。霊魂のための時間は確保されていますか。世の中はますます、自分の栄光のために、肉の満足のために時間を費やしています。

だから、私たちはこの時間を…機会を…、生かすことができるように買い取って神のものとするのです。私たちの時間を、生きた聖なる供え物として神に献げて行くのです。

神の御国のために、霊魂の救いと養いのために、私たちは犠牲という代価を支払って、時間を買い取るべきです。それこそ、賢い者の歩き方です。(Ω)

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エペソ人への手紙4章

2020年08月28日 | エペソ書

エペソ4:17 そこで、私は主にあっておごそかに勧める。あなた方は今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。

第1~3章まで、私たち教会がどのような存在なのか、天における身分のいかに栄光に富んだものであるかを見てきました。そんな身分に基づいてどのように生きるかを教えるために、第4章からは5つの〝歩きなさい〟が記されています。

(1) 召しにふさわしく歩きなさい(4:1-16)

現代社会において「召し」は死語になりつつありますが、教会では大切な言葉です。それは、キリスト信仰が人間中心ではなく、神中心であることを表す言葉だからです。

召しとは、権威ある立場の存在から大切な任務のために〝呼ばれる〟ことを意味します。クリスチャンはキリストの体の器官(肢体)として、重要な任務のためにこの世から呼ばれました……つまり召されました。

その任務とは、キリストの姿を世にあらわすために、私たちはキリストの教会として、この世から呼び出されました。4章では「ひとつ」が何度も語られています。違いはあってもひとつの体……キリストの体……となるために呼び出されました。

先の2章11節~3章6節では、ユダヤ人も異邦人もキリストにあって「新しいひとりの人」になることが奥義であるとありましたが、その「ひとりの人」とはキリストの体であり、そのために私たちは召されたのです。

キリストの働きは2千年前で終わったのではありません。キリストの体である教会によって今も続いています。イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、あなた方を遣わす」と言われて、キリストと同じ任務のために私たちは召されています。

私たち各自はみな違います。しかし、教会は、キリストの体としてひとつです。違いを認め合い、その違いを必要とし合う……このような関係が体の各器官です。

こうして結び合わされる中で、私たちは成長し、キリストの姿に達するのです(4:15)。ですから、私たちには、教会の兄姉の〝互い〟が必要です。

他者(ひと)と同じである必要がありません。私には私の、あなたにはあなたの〝分〟があります。それぞれの働きは違っても、教会がキリストの姿を世に現し、キリストの働きをするという目的のために召されたという点で一致します。

あなたは「手」として召され、あの人は「足」として召され、他の人は「目」として召されています。まわりと比較するのではなく、各自の召しに相応しく歩むなかで、キリストの体としての一致が導かれますように祈ります。

(2) 異邦人にように歩いてはならない(4:17-24)

旧約時代の異邦人とは、イスラエル以外の人々のことでした。しかし新約では、イエスを信じて天に国籍のある人以外の人々のことを「異邦人」と呼んでいます。

クリスチャンはイエスを信じて天に国籍のある人です。そして、ここでいう異邦人とは、イエスを信じていない地上に国籍のある人です。

あなたは天に国籍のある人なのだから、地上に国籍のある人のように歩んではならないと勧められています。この勧めは〝おごそかに〟言われています(4:17)。つまり、とても大切な勧めです。神から命じられた厳粛な勧めです。

私たちは天の御国の国民ですが、今は地上の国に遣わされています。天国のメッセージを伝える任務を受けて、日本の国に寄留しています。ですから、私たちはこの地上にあっては旅人です。ミッションを果たし終えたら天に戻ります。天に国籍があるからです。

天国からのメッセージとは、この世は罪のゆえに神の御怒りで滅ぼされるという警告です。しかし、イエスを信じる者は罪がゆるされて、この滅びから救われるというメッセージです。

さて、「異邦人のように歩いてはならない」と言われていますが、異邦人はどのように歩いているのでしょうか。聖書は、むなしい心で歩いていると指摘してます(4:17)。「むなしい」とは、「空虚」のことです。何かあるようでも実際は空っぽのような心で歩いているというわけです。

未信者でも充実した生き方をしている人はたくさんいます。クリスチャンより頑張っている人はたくさんいます。でも、神がご覧になるには、それは空虚なのです。

真の主人のいない心は空虚です。人の心には、神によってしか埋めることのできない空洞があるのです。「むなしい」という心の空洞です。真の主人であるイエス・キリストを迎える以外に、埋めることができません。

さらに聖書は言います。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れている。(4:18)

どんなすばらしい知識人でも、神を無視するなら、その人の知力は暗くなり、それは無知とかたくなな心を生み出します。神を知ることこそが知識のはじめだからです(箴言1:7)。心の王座にイエス・キリストを迎え、イエスを王とする天の国民として、歩くことができるように祈ります。

異邦人のようにむなしい心で歩かないとは、さきの「新しいひとりの人」として歩くことを意味します。それは、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることだと表現されています(4:2-24)。

聖徒たちの着るきよい麻布の衣とは、聖徒の正しい行いのことだと言われているように、聖書で「着る」と表現されているのは「行い」を表します(黙示録19:8)。ですから、古い人を脱ぎ捨てるとは、古い行いを捨てることであり、新しい人を着るとは「新しい人としての行い」を意味します。

どんな「行い」なのでしょう。これは、良い行いをするために作られた神の作品である私たちに、あらかじめ準備された良い行いです(エペソ2:10)。

どんな行いでしょうか。①真実を語る(25)。②怒りを翌日に持ち越さない(26)。それは悪魔にチャンスを与えることになるからです。③自分の手で働く(28)。④悪い言葉を出さない(29)。⑤聖霊を悲しませない(30)。聖霊の内住こそが、古い行いを捨てる原動力になるからです。⑥親切にし赦し合う(31-32)。

このような良い行いは、神が用意なさっています。聖霊によって受け取ろう。聖霊の力によって動きだそう。(Ω)

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エペソ人への手紙3章

2020年08月28日 | エペソ書
エペソ3:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなた方の内なる人を強くして下さるように。

エペソ人への手紙はキリストにある私たちの姿が描かれています。先の2章では、キリストと共に復活し天の座に就いている者でした。そして2章の後半では、ユダヤ人と異邦人の区別なく、キリストにある新しいひとりの人であることが述べられていました(2:15)。
 
この〝人〟は、「キリストのからだである教会」であり、「キリストの花嫁」とも言えます。旧約ではユダヤ人の救いが強調されていましたが、新約ではユダヤ人から始まり全ての人類へと広がり、ついにはキリストのある〝ひとりの人〟として完成します。
 
このことは奥義です(3:6)。もはやユダヤ人も異邦人もありません。恵みキリスト教会だとか、◇◇教会、△△教会といった違いを超えて、ひとつの教会、ひとりの人、ひとりの花嫁として完成を目指しています。
 
こうして〝ひとりの人〟としての祈りがささげられます。3章14節からの祈りです。先の1章の祈りもそうでしたが、霊感に満ちた祈りです。
 
まず最初に、内なる人を強くしてくださるようにと祈っています。内なる人とは霊魂のことです。外なる人とは肉体です。

どちらかというと、肉体の必要のために祈ることが多いのではないでしょうか。健康や経済的必要のため、また日常生活のあれこれのために祈ります。それだけであれば、一般宗教のように家内安全・無事息災・商売繁盛の祈りと同じです。

聖書では内なる人が強められるようにと祈ります。まず霊魂のために祈ります。それは肉体を軽んじているのではありません。むしろ、肉体を支えているのは、目には見えない霊魂だからです。

自転車のタイヤをイメージしてください。タイヤの中にはチューブがあって、チューブに空気が充満するとタイヤがしっかりするように、肉体はタイヤのような存在です。タイヤゴムの品質も良好で、溝もしっかりあって高機能タイヤであっても、チューブに空気が入っていなければ役に立ちません。それと同じように、内なる霊魂が神からの霊的エネルギー満たされていないと健康な肉体も活かされません。

目に見えるものは、目に見えないものから成り立っています。言いかえれば、物質の世界は霊の世界によって成り立っています。そのように、霊魂は見えませんが、私の肉体を支え、生かし、動かしています。だから、まず内なる人が強められますようにと祈ります。

どのようにして強められるのでしょうか。栄光の富に従ってくされます。先に私たちは、天上の諸々の富を相続する者であることを見ました。地上の陳腐な富とは比較になりません。

ポケットに10万円あれば、少しは気前よくなれますか。ちょっぴり勇気も出て元気になれるでしょうか。100万円あればどうですか。かなり元気になれますか。

では、天に栄光の富をもっていることに目が開かれたらどうですか。

地上の富は使えばなくなる富ですが、栄光の富は使ってもなくなりません。あの5つのパンと2匹の魚を人々に分け与えても、なお12のかごいっぱいに残りがあるように、無尽蔵の富です。

幼な子は明日の疲れなど心配しないで一生懸命に生きます。しかし、大人は明日の体力がなくならないように調節します。それと同じように、地上の富しか知らない人は、出し惜しみします。幼な子のように、栄光の富を信じて、明日を心配しないで、出し惜しみしないで、今日一日を元気に生きるようではありませんか。

さらに、御霊により、力をもって強くしてくださいます。

外なる人はパンで養われますが、内なる人は霊的な力で養われます。神の御霊で充満されるように祈りましょう。タイヤのチューブに空気が充満するように、御霊(聖霊)が充満するように祈ります。

さらに祈りは続きます。キリストがあなた方の心に住んでくださるように。(3:17)

もちろん、イエス・キリストを信じた私たちの内に、キリストは聖霊によって住んでくださっています。ですから、改めてもう一度、住んでくださるようにと求めるのではありません。

キリストのご人格(キリストの愛)が、私の中に映し出されるようにという祈りです。私たちがイエスを信じたのは、私たちがイエス・キリストに似た者と変えられるためです。

キリストが私の中に映し出されることによって、愛の広さ、長さ、高さ、深さが理解できますようにと祈ります(3:18-19)。人知をはるかに超えたキリストの愛です。

人間の愛は、条件が満たされないと消えてしまう愛です。なんともあさましい愛です。でも、キリストの愛は、どんな不利な条件のもとでも、変わることがありません。どんな条件もキリストの愛から私を引き離すことがありません。
 
これこそ人知をはるかに超えた愛です(3:19)。キリストにある私たちが〝ひとりの人〟とされたのは、この人知をはるかに超えた愛を世に現すためです。神の御子キリストは、神の愛を世に啓示するために来られました。今度はキリストにある私たちの番です。
 
このような祈りが全てのクリスチャンの祈りです。新しいひとりの人である教会の祈りです。(Ω)

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エペソ人への手紙2章

2020年08月26日 | エペソ書
エペソ2:5-6 罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなた方の救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

人とは「霊的存在」です。ですから、肉体が生きていても、霊が生きていなければ、死んだ者です。あなた方は、かつては罪によって死んでいた者だった(2:1)とはそのことです。

霊は心のことではありません。心は考える部分で魂ともいいます。この心とか魂は、人間だけでなく猿や犬などの動物にもあります。しかし、動物は肉体だけの存在なので、肉体が死ねば心も消滅します。だから死後の世界がありません。

ところが、神は、人を肉体だけの存在ではなく、神の息すなわち霊を注いで「霊的存在」として創造なさいました。ですから、肉体が朽ちても人の心とか魂は霊と共に永遠に存続します。つまり「霊魂」として永続します。

肉体には物欲・食欲・性欲などの肉的本能があります。これは肉体を維持しようとする本能です。しかし、人は霊的存在ですから霊的本能もあります。それは、霊が生きようとする本能です。

ですから人は霊的に生きようと欲して神を求めます。霊的ないのちを求めて罪を悔やみます。永遠を思って死後の世界を考えます。宗教心があり、人の尊厳や名誉を重んじます。これらはみな人が霊的存在だからです。これは動物にはない能力であり霊的本能です。このように神は、人に霊的感覚を与えることによって、人を神と共に生きる存在となさったのです。

冒頭の聖句で、罪過によって死んでいた私たちと記されているのは、肉体の死ではなく霊の死のことです。とはいえ、霊が消滅することではありません。この点が肉体の死とは違います。

霊が死んでいるとは、神との交わりが断絶されている状態のことです。電気が流れていない電線は〝死んでいる電線〟です。電線そのものが消滅したわけではありません。逆に、電気が流れている電線は〝生きている電線〟です。

そのように、神の霊的いのち……つまりエネルギーが流れていない霊は死んでいます。イエスを信じる以前は、神と関わりのない霊魂であり、死んでいました。

でも、霊的本能がありますから、何とかして霊的エネルギーを得ようとして、人は様々な宗教を生みだしてきました。そのことを聖書は次のように述べています。

「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。」(2:2)

ところが、イエス様を信じたので……つまり、イエスを受け入れたので、私たちの霊は生きるようになりました。キリストが死んで復活なさったように、わが霊も生かされるようになりました(2:5)。

あなたの霊は生きていますか。

肉体が生きていればご飯を美味しくいただくように、わが霊も神の御言を食べます。「人はパンだけで生きる者ではなく、神の御言によって生きる」と言われているとおりです。

肉体が病んでいると食欲も落ちるように、霊が病んでいると、神の御言は美味しくありません。ましてや、肉体が死んでしまえば、口元にパンを差し出しても食べないように、霊の死んでいる人は、御言を聞こうとしません。

イエス様は、ご自分を「いのちのパン」だと言われました。御言が肉体となって来られたイエス様こそ、私たちにいのちを与える本当のパンです。人はこのイエス・キリストを食べて生きるのです。つまり、イエスを信じて生きるのです。

それだけではありません。今日の聖句は、私たちの霊的身分が大きく変わったと言っています。キリストと〝共に〟生きるようになって、〝共に〟天上で座につかせてくださったのです(2:6)。

新共同訳では、天の王座につかせてくださったと訳されています。イエス様だけが王座にお就きになったのではありません。イエスを信じる私たちも〝共に〟就いています。すごいことです。

私たちの地上の身分は様々です。肉体の身分は違います。肉体の身分は高い人もいれば低い人もいます。でも、天上における身分はそれと比較になりません。霊的には王座に就いています。

ここにクリスチャンの霊的アイデンティティー(ID)があります。この霊的身分に基づいて生きるのがクリスチャンです。天の座に就いている私が、小さなこともゆるせないなんて了見の狭い生き方などしません。大胆にゆるし、大胆に祝福します。
 
このような救いと立場は自分自身から出たことではありません。ただただ恵みによります(2:8)。恵みによるとは、私に何の根拠も無いことを意味しています。私が良い行いをしたからではありません。それは「だれも誇ることがない」ためです(2:9)。
 
では、私の行いはどうでもよいのですか。そんなことはありません。次のように記されています。
 
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(2:10)
 
良い行いさえも神は用意して下さっています。つまり、良い行いも恵みによって備えられています。自分で頑張ることではありません。何故なら恵みですから。私がキリストの中にとどまることで、良い行いは生まれてきます。
 
このようにすべては恵みです。救われるのも恵みです。天の座に就くのも恵みです。良い行いも恵みです。(Ω)

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エペソ人への手紙1章

2020年08月25日 | エペソ書
エペソ1:18-19 あなた方の心の目を明らかにして下さるように、そして、あなた方が神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなた方が知るに至るようにと祈っている。

エペソ人への手紙は、私たち即ち教会が如何にすばらしい存在であるかを告げています。
 
進化論に基づく思考では、人間は偶然に猿から進化して現在の文明まで進んできたと考えているでしょう。しかし、聖書は全くちがいます。神は、天地創造の以前から、人間をイエス・キリストの中で準備し、ご自分の子にしようと定められたと言っています。
 
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(1:4-5)
 
この一文にふれるだけでも、神の経綸の深遠さに心がふるえます。このような思想は人間からは出てきません。ましてや、進化論からは到底導き出すことができません。
 
あなたも私もキリストの中で選ばれています。神の子どもになるように定められています。愛されるように定められています。相続者となるように定められています。
 
しかし、私たちの霊の目が曇っていて、その素晴らしい姿が見えていません。エペソ書1章では、そのための祈りがささげられています。私たちも、日頃からエペソ書1章のように祈る必要があります。

その祈りのポイントは、私たちの心の目が明らかになって、はっきりと見えるようにしてくださいです(1:18)。どのようにして見えるようになるのでしょうか。神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださることによってです(1:17)。

神様の領域、天に属する領域は、御霊(聖霊)による知恵と啓示によらなければ見ることができません。

ユダヤの人々が、イエス様のことを大工のヨセフの息子にすぎないと考えたのは、この「知恵と啓示の御霊」によらなかったからです。たとえ学識豊かな律法学者たちであっても、御霊によらなければ、イエスが神の御子キリストだと分かりません。

実は、イエスの弟子たちも分かっていませんでした。イエスが十字架の死を予告なさっても、それを理解できず、ペテロはいさめるように、「主よ、不吉なことを言わないで下さい」と、神の働きを妨害しました。

彼らの心は閉ざされていたので、イエス様の十字架の死の意味が分かりませんでした。でも、聖霊(御霊)を受けてから、イエスの死は、人類の罪を贖(あがな)うためであったと分かりました。

このように、神からの智恵と啓示の御霊が注がれて、私たちの霊の目がはっきりと見えるように……と祈るのです。

信仰とは、目に見えない世界を見るメガネです。このメガネをかけていなかった時は、肉眼で見える世界が全てでした。肉眼で見える世界の出来事で一喜一憂していました。それは、霊的な領域が見えていなかったからです。

信仰というメガネをかけるとき、聖霊は智恵と啓示の霊を注いで、私たちに約束されているすばらしい世界が見えるようにしてくださいます。では、どんな世界が見えるのでしょうか。18~19節には三つの内容が記されています

(1) 私たちに与えられている望みについて

今どんな望みがありますか。目先の小さな望みは、私を少し元気にしてくれます。でも御言が、「あなた方が神に召されていだいている望みがどんなものであるか……」と告げる望みは、とてつもなく大きい望みです。この大きい望みに目が開かれて、大きな元気を受けてください。

その望みとは、私たちが栄光の体に復活する望みです。復活した私たちが、キリストと共に神の御国を相続する望みです。キリストの花嫁として、キリストと共に永遠に居る望みです。

神がくださる永遠の望みを知ることができますように、祈ります。

(2) 私たちが相続することになっている富の豊かさについて

神は、御子イエスを万物の相続者として定められました。「な~んだ。イエス様が相続なさるのか」と思わないでください。クリスチャンの奥義は、私たちはキリストの中にいることです。私たちがキリストの体であることです。

ですから、御子イエス・キリストが相続者であるとは、キリストの中にいる私たちも相続者です。私たちは、キリストの中にあって神の御国を受け継ぐ者たちです。 ※「キリストにあって」「このお方にあって」と繰り返し記されているが、「キリストの中で」という意味である。

肉親である父母の遺産が気になりますか。それは欲しい人が受け継げばよいのです。私たちは神の御国の世継ぎです。どうか、その身分と、その受け継ぐものの豊かさを見ることができますように祈ります。

(3) 私たちに働く神の力の絶大さについて

天に行ってからようやく受ける望みではありません。今も現実に働く力を、私たちは受けています。それは神からの力です。私の弱さの中に働く神の力です。

神の力の絶大なことは、復活に表現されています。キリストは地上では弱くあられました。十字架で死んでしまわれるほどに弱く、小さく、愚かであられました。

でも、父なる神の絶大な力は、キリストを復活させました(1:20)。そして、天に昇らせ、神の右の御座(王座)に座らせました。それと同じ力が、私たちにも注がれています。

このようなすばらしい神の力に目覚めることができますように……、その力が私の弱さの中に現れてきますように……祈ります。(Ω)

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